ラストトーキョー 2025 変わりゆく新宿の100年 ― 2026-01-01
2026年1月1日 當山日出夫
「ラストトーキョー 2025 変わりゆく新宿の100年」
新宿の100年の歴史ということだったが、こういう視点から見るのも、一つのものの見方だなとは思う。江戸時代までさかのぼれば内藤新宿であり、宿場町がそうであるように、岡場所でもあったのだが、この番組では、駅が出来てからということで作ってあった。
駅としては、山手線の駅として見るか、中央線の駅として見るか、むろんその交差するターミナルではあるのだが、東京の近代の歴史と共にある駅であり、街であることはたしかである。
私は、マージャンはまったくしない。ルールを知らないし、触ったこともない。学生のころ、周囲の学生は、マージャンの話しでもりあがることがあったりしたが、今の学生は、マージャンをするだろうか。学生街というと、雀荘がつきものであった時代は、もう過去のことかもしれない。
今では、主に、高齢者の趣味としては、人気のあるものになっているようである。
新宿の街中にあるマージャン店だから、どんな人がやってきているのだろうか、という興味がある。お店の家賃もかなり高いだろうし、料金も高いだろうと思う。
句会をやっていたが、家賃が高くなったので無理になって止めた。もったいない話しだと思うが、これも、時代の流れであろう。
『中村屋のボース』(中島岳志)は、読んだ本である。
トー横に少年少女が集まることは、社会的な問題でありニュースになっていることなのだが、このことについて、今では大人もいなくなった、昔は、大人が回りにいて注意することがあったが、そういう人がいなくなってしまった……これは、そうだろうと思う。ある意味では、世の中、街の中が、クリーンになりすぎてしまって、そこからはみ出す、落ちこぼれる、という人のいるところが少なくなり、たまたまそういう場所があったとしても、世の多くの人は、見て見ぬふりをしている、ということになる。
ムーラン・ルージュのことは、もう歴史の知識である。明日待子も、歴史的な知識になってしまったといっていいだろう。私は、なんとなくどこかで名前を見て知っていたことではある。(NHKの『アイドル』は見た。)
ゴールデン街は、東京に住んでいたころ、学生として、行かなかったところである。行くとすれば、もっぱら渋谷だった。(そのころの渋谷は、おじさんと学生の街でもあった。)
今でもゴールデン街は残っている。番組の最後の映像を見ると、どうやら、外国人観光客がたくさん来るような街に変わってしまっているのかとも、思える。さて、どうなのだろうか。
私は、街、都市といってもいいが、にはこういうところがあった方がいいと思っている。どこか猥雑で、社会からはみ出た人間が、それなりに生きていける場所があった方がいい。あまりにも、世の中をクリーンにしない方がいい。
ここで育った女性が、昔は、子どもにとっては安全な街だったと回想していた。周囲の大人たちが、子どもの面倒をみてくれた。こういう時代もあった。今では、もうどこでも無理かもしれない。都市部のタワーマンションなどでは、昔のような人間関係は、無理だろう。
ゴールデン街は、地べたにあるからいい。たしかに、そのとおりだと思う。今でも日本のところどころに残っている、昔の闇市の名残をとどめるような飲み屋街は、地べたにくっついている。せいぜい、うすぎたない雑居ビルというところだろうか。地べたについているからこそ、そこで生活している人、通り過ぎていく人、いろんな人の音が聞こえてくる。
水族館劇場のようなことが生き残れるのが、むしろ都市としては、まともなのだろうと思う。コロナ禍ということはあったにせよ、なんとか生きのびる、「隙間」があった方がいい。また、これを許してくれていた、花園神社もまた、今の時代としては、貴重な存在かもしれない。(花園神社の歴史ということで、いろいろと面白いことがあるにちがいない。)
(学生のころ住んでいたのは目黒であるが、目黒駅の近くにも、闇市の名残をとどめるような一画があった。再開発されて無くなってしまったが。)
マージャン屋さんの従業員の人が、開店前に店の前を掃除している。地面(歩道)をぞうきんがけして拭いている。普通なら、ホウキで掃くか、せいぜい、モップで拭くかというところだが、地面にしゃがみ込んで、歩道の上を拭いている。こういうことをする人が、今の世の中に残っているということは、驚きでもある。
ゴールデン街のバーの中の映像で気になったのは、黒電話(ダイヤル式)。これは、実用的に使うものとして置いてあるのだろうか、それとも、店内のインテリアなのだろうか。今の時代、日常的には、携帯電話(スマホ)でことが足りる時代である。
「ラストトーキョー 2025 変わりゆく新宿の100年」
新宿の100年の歴史ということだったが、こういう視点から見るのも、一つのものの見方だなとは思う。江戸時代までさかのぼれば内藤新宿であり、宿場町がそうであるように、岡場所でもあったのだが、この番組では、駅が出来てからということで作ってあった。
駅としては、山手線の駅として見るか、中央線の駅として見るか、むろんその交差するターミナルではあるのだが、東京の近代の歴史と共にある駅であり、街であることはたしかである。
私は、マージャンはまったくしない。ルールを知らないし、触ったこともない。学生のころ、周囲の学生は、マージャンの話しでもりあがることがあったりしたが、今の学生は、マージャンをするだろうか。学生街というと、雀荘がつきものであった時代は、もう過去のことかもしれない。
今では、主に、高齢者の趣味としては、人気のあるものになっているようである。
新宿の街中にあるマージャン店だから、どんな人がやってきているのだろうか、という興味がある。お店の家賃もかなり高いだろうし、料金も高いだろうと思う。
句会をやっていたが、家賃が高くなったので無理になって止めた。もったいない話しだと思うが、これも、時代の流れであろう。
『中村屋のボース』(中島岳志)は、読んだ本である。
トー横に少年少女が集まることは、社会的な問題でありニュースになっていることなのだが、このことについて、今では大人もいなくなった、昔は、大人が回りにいて注意することがあったが、そういう人がいなくなってしまった……これは、そうだろうと思う。ある意味では、世の中、街の中が、クリーンになりすぎてしまって、そこからはみ出す、落ちこぼれる、という人のいるところが少なくなり、たまたまそういう場所があったとしても、世の多くの人は、見て見ぬふりをしている、ということになる。
ムーラン・ルージュのことは、もう歴史の知識である。明日待子も、歴史的な知識になってしまったといっていいだろう。私は、なんとなくどこかで名前を見て知っていたことではある。(NHKの『アイドル』は見た。)
ゴールデン街は、東京に住んでいたころ、学生として、行かなかったところである。行くとすれば、もっぱら渋谷だった。(そのころの渋谷は、おじさんと学生の街でもあった。)
今でもゴールデン街は残っている。番組の最後の映像を見ると、どうやら、外国人観光客がたくさん来るような街に変わってしまっているのかとも、思える。さて、どうなのだろうか。
私は、街、都市といってもいいが、にはこういうところがあった方がいいと思っている。どこか猥雑で、社会からはみ出た人間が、それなりに生きていける場所があった方がいい。あまりにも、世の中をクリーンにしない方がいい。
ここで育った女性が、昔は、子どもにとっては安全な街だったと回想していた。周囲の大人たちが、子どもの面倒をみてくれた。こういう時代もあった。今では、もうどこでも無理かもしれない。都市部のタワーマンションなどでは、昔のような人間関係は、無理だろう。
ゴールデン街は、地べたにあるからいい。たしかに、そのとおりだと思う。今でも日本のところどころに残っている、昔の闇市の名残をとどめるような飲み屋街は、地べたにくっついている。せいぜい、うすぎたない雑居ビルというところだろうか。地べたについているからこそ、そこで生活している人、通り過ぎていく人、いろんな人の音が聞こえてくる。
水族館劇場のようなことが生き残れるのが、むしろ都市としては、まともなのだろうと思う。コロナ禍ということはあったにせよ、なんとか生きのびる、「隙間」があった方がいい。また、これを許してくれていた、花園神社もまた、今の時代としては、貴重な存在かもしれない。(花園神社の歴史ということで、いろいろと面白いことがあるにちがいない。)
(学生のころ住んでいたのは目黒であるが、目黒駅の近くにも、闇市の名残をとどめるような一画があった。再開発されて無くなってしまったが。)
マージャン屋さんの従業員の人が、開店前に店の前を掃除している。地面(歩道)をぞうきんがけして拭いている。普通なら、ホウキで掃くか、せいぜい、モップで拭くかというところだが、地面にしゃがみ込んで、歩道の上を拭いている。こういうことをする人が、今の世の中に残っているということは、驚きでもある。
ゴールデン街のバーの中の映像で気になったのは、黒電話(ダイヤル式)。これは、実用的に使うものとして置いてあるのだろうか、それとも、店内のインテリアなのだろうか。今の時代、日常的には、携帯電話(スマホ)でことが足りる時代である。
句会の場面で、「居場所」を読んだ句が出てきたいたが、まさに、今の時代への皮肉である。居場所がなければならないという言説が、余計に人間から居場所をうばってしまっている。こういうことを、さりげなく入れ込んでいるあたり、NHKもまだすてたものではない。
どうでもいいこととして……番組の冒頭で、コタツにはいってテレビを見ている両親を撮影していたディレクターの女性(娘)に対して、こんなところ写すんじゃない、嫁にいけなくなるよ……と言っていたのだが、はたして、このディレクターは、結婚したのだろうか。まったく余計なことながら、気になる。
2025年12月30日記
サイエンスZERO「電源革命!?“エネルギーハーベスティング”技術最前線」 ― 2026-01-01
2026年1月1日 當山日出夫
サイエンスZERO 電源革命!?“エネルギーハーベスティング”技術最前線
音や、Wi-Fiなどの電波(電磁波)、人間の身体……こういうところから、電気を作りだそう(?)という最新技術についてであった。
たしかに、音は空気の振動だから、その振動を使って発電するということは、そうういうこともできるだろうとは思う。電波(電磁波)でも、発電できる。これは、すごいと思う。
人間の体をつかって電気を作るというのも、そういうこともあるだろうと思うが、そもそも、人間の体のエネルギー効率というのは、どうなっているのだろうか。もし、人間の体の中に埋め込むことが可能であるならば、さまざまな利用が考えられるだろう。(ほとんどサイボーグというべきかもしれないが。)
ただ、この回を見ていて興味深かったのは、あんなに微細な、ナノ単位の電気を、測定する技術の方である。どういう仕組みで、測定の装置ができているのだろうか。私としては、こちらの方に関心があったというべきである。
2025年12月23日記
サイエンスZERO 電源革命!?“エネルギーハーベスティング”技術最前線
音や、Wi-Fiなどの電波(電磁波)、人間の身体……こういうところから、電気を作りだそう(?)という最新技術についてであった。
たしかに、音は空気の振動だから、その振動を使って発電するということは、そうういうこともできるだろうとは思う。電波(電磁波)でも、発電できる。これは、すごいと思う。
人間の体をつかって電気を作るというのも、そういうこともあるだろうと思うが、そもそも、人間の体のエネルギー効率というのは、どうなっているのだろうか。もし、人間の体の中に埋め込むことが可能であるならば、さまざまな利用が考えられるだろう。(ほとんどサイボーグというべきかもしれないが。)
ただ、この回を見ていて興味深かったのは、あんなに微細な、ナノ単位の電気を、測定する技術の方である。どういう仕組みで、測定の装置ができているのだろうか。私としては、こちらの方に関心があったというべきである。
2025年12月23日記
植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之(13) ― 2026-01-01
2026年1月1日 當山日出夫
植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之
新作である。録画しておいて見た。
ヒルガオは、私の住んでいるところの近くで目にする。はっきりいって雑草なのであるが、地面に淡いピンク色の綺麗な花を咲かせる。きらいな花ではない。
アサガオとの対比で語られていた。アサガオは、日本では、江戸時代に園芸植物として、さかんに栽培され、品種改良されてきた。オランダにおけるチューリップと、よく並んで語られる。
植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之
新作である。録画しておいて見た。
ヒルガオは、私の住んでいるところの近くで目にする。はっきりいって雑草なのであるが、地面に淡いピンク色の綺麗な花を咲かせる。きらいな花ではない。
アサガオとの対比で語られていた。アサガオは、日本では、江戸時代に園芸植物として、さかんに栽培され、品種改良されてきた。オランダにおけるチューリップと、よく並んで語られる。
とにかく生き残るためにしつこいというか、生命力が強いというか、地下の根っこが少しでも残っていれば、そこから次の芽が出てくる(という言い方でいいのだろうか)。
アサガオはまず双葉が出て、それは枯れてしまう。ヒルガオはそうではない。早く成長する。雑な小さな葉で、しょぼいし、他人にたよるところがあり よりかかって生きている。そして、ゾンビのごとくよみがえり、しぶとく復活する。これは、まるで芸人のようである。(ヒルガオを芸人にたとえるのは、とても上手いとは思うが、まあ、こういう言い方をしてもいいというのが、まさに、芸人ということになる。)
容花として、『万葉集』にも出てくる。
アサガオというと、今では、小学生が栽培するか、趣味で園芸をやっている人が育てるものという印象がある。ヒルガオとは別に、アサガオがなぜこうなっているのか、興味深い。
マンリョウは、ちょっとまずい、というところが絶妙である。超おいしいはダメである。完璧はかならずしも完璧ではないというが、そうだろう。
マンリョウは、我が家の庭にいくつかある。今の時期、赤い実がなる。夏に花が咲いて、それが青い実になって、秋から冬にかけて赤くなる。年内ぐらいは実が残っている。真冬になって、玄関から外にでると、庭先のマンリョウの下から鳥の飛びたつ音が聞こえることがある。観察してみていると、マンリョウの実が、だんだん減っていく。
一度に全部なくなるというのではなく、ちょっとづつ減っていく。なるほど、これが、マンリョウの生存戦略ということなのかと思う。一度に鳥に食べきられてしまうことがなく、いろんな鳥が来て食べる。
イネは、人類の農耕において重要な植物である。日本の歴史にとっても、最重要な植物といってもいいだろう。この文化的な面とか、経済的な面とか、政治的な面とかは、いろんなおりに考えることがあったが、植物としてどういう植物なのか、ということには、あまり関心がなかった。もともと南方から、日本に渡ってきたというぐらいの知識であった。そのルートがどんなものであったかは、日本の歴史において、重要な意味があると思うが。
イネの世界の分布を、芸人のテレビ出演枠で説明するというのも、とても面白い。これも、まさに芸人だから、こういう見方をしても許される。
イネの成長点が低いところにあるので、上の方を動物などに食べられても大丈夫というのは、初めて知った。また、イネの茎は食べても美味しくないらしい。
余計なことだが、イネの稲わらは、稲作と同時に文化的に重要な意味があると思うが、稲わらというのは、素材としてどういう特質を持っていることになるのだろうか。ここは、植物研究と、民具や民俗学などとにまたがる、研究分野ということになるだろう。食べ物としてのイネのことも興味深いことであるが、稲わらの使い方の文化ということも、面白いことにちがいない。(最近の日本の稲作では、コンバインで稲刈りをしてしまうので、稲わらが残らなくなっている。これはこれで、文化としては問題かなと思うところである。)
タイヌビエのことは、そうだと思う。今の時代、何よりも個性的であること、オリジナリティーがあること、オンリーワンであること……こういうことが、たっとばれる。しかし、人間が生きていくのに、そんなに独自性を発揮することに一生懸命になるのも、疲れるものである。世界で一つだけの花、これは呪いのことばであるという。そこそこ、人並みであればいいと思って生きてもいいだろう。個性的であることを強要されるというのは、ある意味で、非常に抑圧的なことでもある。
生きていくために、強いものの特徴をパクることはかまわない。問題は、どうパクるかである。たしかに、世の中の芸術、芸能、あるいは、思想なども、先人の仕事のパクリであるといえば、そうなのであるが。
2025年12月27日記
アサガオはまず双葉が出て、それは枯れてしまう。ヒルガオはそうではない。早く成長する。雑な小さな葉で、しょぼいし、他人にたよるところがあり よりかかって生きている。そして、ゾンビのごとくよみがえり、しぶとく復活する。これは、まるで芸人のようである。(ヒルガオを芸人にたとえるのは、とても上手いとは思うが、まあ、こういう言い方をしてもいいというのが、まさに、芸人ということになる。)
容花として、『万葉集』にも出てくる。
アサガオというと、今では、小学生が栽培するか、趣味で園芸をやっている人が育てるものという印象がある。ヒルガオとは別に、アサガオがなぜこうなっているのか、興味深い。
マンリョウは、ちょっとまずい、というところが絶妙である。超おいしいはダメである。完璧はかならずしも完璧ではないというが、そうだろう。
マンリョウは、我が家の庭にいくつかある。今の時期、赤い実がなる。夏に花が咲いて、それが青い実になって、秋から冬にかけて赤くなる。年内ぐらいは実が残っている。真冬になって、玄関から外にでると、庭先のマンリョウの下から鳥の飛びたつ音が聞こえることがある。観察してみていると、マンリョウの実が、だんだん減っていく。
一度に全部なくなるというのではなく、ちょっとづつ減っていく。なるほど、これが、マンリョウの生存戦略ということなのかと思う。一度に鳥に食べきられてしまうことがなく、いろんな鳥が来て食べる。
イネは、人類の農耕において重要な植物である。日本の歴史にとっても、最重要な植物といってもいいだろう。この文化的な面とか、経済的な面とか、政治的な面とかは、いろんなおりに考えることがあったが、植物としてどういう植物なのか、ということには、あまり関心がなかった。もともと南方から、日本に渡ってきたというぐらいの知識であった。そのルートがどんなものであったかは、日本の歴史において、重要な意味があると思うが。
イネの世界の分布を、芸人のテレビ出演枠で説明するというのも、とても面白い。これも、まさに芸人だから、こういう見方をしても許される。
イネの成長点が低いところにあるので、上の方を動物などに食べられても大丈夫というのは、初めて知った。また、イネの茎は食べても美味しくないらしい。
余計なことだが、イネの稲わらは、稲作と同時に文化的に重要な意味があると思うが、稲わらというのは、素材としてどういう特質を持っていることになるのだろうか。ここは、植物研究と、民具や民俗学などとにまたがる、研究分野ということになるだろう。食べ物としてのイネのことも興味深いことであるが、稲わらの使い方の文化ということも、面白いことにちがいない。(最近の日本の稲作では、コンバインで稲刈りをしてしまうので、稲わらが残らなくなっている。これはこれで、文化としては問題かなと思うところである。)
タイヌビエのことは、そうだと思う。今の時代、何よりも個性的であること、オリジナリティーがあること、オンリーワンであること……こういうことが、たっとばれる。しかし、人間が生きていくのに、そんなに独自性を発揮することに一生懸命になるのも、疲れるものである。世界で一つだけの花、これは呪いのことばであるという。そこそこ、人並みであればいいと思って生きてもいいだろう。個性的であることを強要されるというのは、ある意味で、非常に抑圧的なことでもある。
生きていくために、強いものの特徴をパクることはかまわない。問題は、どうパクるかである。たしかに、世の中の芸術、芸能、あるいは、思想なども、先人の仕事のパクリであるといえば、そうなのであるが。
2025年12月27日記
みんなでカラー化! 日本再発見 ― 2026-01-02
2026年1月2日 當山日出夫
「みんなでカラー化! 日本再発見」
年末に、お昼ご飯を食べて、テレビをつけていたら始まったのでそのまま見ていた。
私は、白黒画像、映像のカラー化には、基本的には反対である。これは、何度も書いてきた。その時代につかえた機材の制約として、モノクロであることはやむをえないことである。また、1940年ごろから、カラーフィルムが使われ始めるようになるが、限定的である。よく知られたこととしては、『風と共に去りぬ』は、1939年に制作されている。一方、戦後になってから日本でカラーフィルムが多く使われるようになってからでも、黒澤明は白黒で映画を作っている。いったい誰が、『赤ひげ』をカラー化して見たいと思うだろうか。白黒のフィルムで表現されているからこその、三船敏郎の赤ひげなのである。
記録映像についても、太平洋戦争中の戦闘記録を、アメリカ軍はカラーフィルムで撮影したものがある。しかし、日本側では無いはずである。こういうことも、また、一つの歴史の史料の価値である。
男鹿半島の出稼ぎのようすとか、宮崎の錫鉱山と日光の中禅寺湖での外交官とか、どれも興味深いことなのだが、こういう番組の枠の中であつかうのが適当だろうか、と思うところはある。
昭和41年の男鹿半島の出稼ぎからお父さんが帰ってくるところは、たしかに感動的な映像である。北海道に行って漁業をしていたという。漁労長ということだったので、おそらくかなり稼ぎは良かったかと思える。(漁労長の方が、船長よりも、漁について権限があったかと思う。)
20年の出稼ぎで、借金なしに、旅館が開業できたというのは、かなりの稼ぎがあったということだろう。
だが、この時代、「裏日本」と言われた日本海側の農山村が、貧しく、出稼ぎが普通のことだったということは、忘れられようとしていることかもしれない。「日本列島改造論」の背景にあった、日本海側の生活の歴史がある。
旅館を開業して、お客さんがいっぱい来たというのも、時代背景としては、どういうことがあるのかと思う。そんなに著名な観光地ということでもないように思っているのだが。日本が、豊になって、国内旅行が行きやすくなった時代ということはあるだろうが。
そして、(言ってはいなかったが)現在は、どうなっているのだろうか。
宮崎の日之影町の錫鉱山だが、経営していたのがイギリス人であるとして、実際に労働していた人びとの暮らしはどんなだったのだろうか。戦前から戦後、各地の炭坑などでは、過酷な労働であったとは思うのだが、この錫の鉱山が特別に労働者の待遇が良かったということもないだろうと思うのだが。おそらくは、会社の幹部社員は、裕福な生活であったかとは思うが、現場の労働者はどうだったのだろうか。
日光の中禅寺湖畔が、外交官の別荘地になっていたということは、よく知られたことだと思っている。今も、その名残があるはずである。ここが、太平洋戦争中は、どんなふうであったか、これはこれで興味深いことである。(同様に、戦時中の軽井沢の外国人のことなども、どうだったかと思うが。)
稲刈りのときの食事の光景が映っていた。とにかくお弁当箱が大きい。そして、白米がぎっしりつまっている。戦争の時代でも、田舎ではお米がたくさんあった、ということで言っていたが、これは、地域差のことを考える必用がある。お米が多く作れない地域も、日本には多かった。また、戦時中、食糧不足になったのは、人手が足りなくなって生産力に回らなくなったということもあるし、国内、あるいは、外地をふくめて、物流の問題もある。戦時中の食糧事情は、総合的に、ロジスティックスの面からも考えるべきことである。
昔の日本の農村の風景から読み取れること、ハンス・ハンターという英国人のこと、中禅寺湖での外交官のこと、どれもいい素材なので、独立して番組を作った方が、よかったように思える。
2025年12月28日記
「みんなでカラー化! 日本再発見」
年末に、お昼ご飯を食べて、テレビをつけていたら始まったのでそのまま見ていた。
私は、白黒画像、映像のカラー化には、基本的には反対である。これは、何度も書いてきた。その時代につかえた機材の制約として、モノクロであることはやむをえないことである。また、1940年ごろから、カラーフィルムが使われ始めるようになるが、限定的である。よく知られたこととしては、『風と共に去りぬ』は、1939年に制作されている。一方、戦後になってから日本でカラーフィルムが多く使われるようになってからでも、黒澤明は白黒で映画を作っている。いったい誰が、『赤ひげ』をカラー化して見たいと思うだろうか。白黒のフィルムで表現されているからこその、三船敏郎の赤ひげなのである。
記録映像についても、太平洋戦争中の戦闘記録を、アメリカ軍はカラーフィルムで撮影したものがある。しかし、日本側では無いはずである。こういうことも、また、一つの歴史の史料の価値である。
男鹿半島の出稼ぎのようすとか、宮崎の錫鉱山と日光の中禅寺湖での外交官とか、どれも興味深いことなのだが、こういう番組の枠の中であつかうのが適当だろうか、と思うところはある。
昭和41年の男鹿半島の出稼ぎからお父さんが帰ってくるところは、たしかに感動的な映像である。北海道に行って漁業をしていたという。漁労長ということだったので、おそらくかなり稼ぎは良かったかと思える。(漁労長の方が、船長よりも、漁について権限があったかと思う。)
20年の出稼ぎで、借金なしに、旅館が開業できたというのは、かなりの稼ぎがあったということだろう。
だが、この時代、「裏日本」と言われた日本海側の農山村が、貧しく、出稼ぎが普通のことだったということは、忘れられようとしていることかもしれない。「日本列島改造論」の背景にあった、日本海側の生活の歴史がある。
旅館を開業して、お客さんがいっぱい来たというのも、時代背景としては、どういうことがあるのかと思う。そんなに著名な観光地ということでもないように思っているのだが。日本が、豊になって、国内旅行が行きやすくなった時代ということはあるだろうが。
そして、(言ってはいなかったが)現在は、どうなっているのだろうか。
宮崎の日之影町の錫鉱山だが、経営していたのがイギリス人であるとして、実際に労働していた人びとの暮らしはどんなだったのだろうか。戦前から戦後、各地の炭坑などでは、過酷な労働であったとは思うのだが、この錫の鉱山が特別に労働者の待遇が良かったということもないだろうと思うのだが。おそらくは、会社の幹部社員は、裕福な生活であったかとは思うが、現場の労働者はどうだったのだろうか。
日光の中禅寺湖畔が、外交官の別荘地になっていたということは、よく知られたことだと思っている。今も、その名残があるはずである。ここが、太平洋戦争中は、どんなふうであったか、これはこれで興味深いことである。(同様に、戦時中の軽井沢の外国人のことなども、どうだったかと思うが。)
稲刈りのときの食事の光景が映っていた。とにかくお弁当箱が大きい。そして、白米がぎっしりつまっている。戦争の時代でも、田舎ではお米がたくさんあった、ということで言っていたが、これは、地域差のことを考える必用がある。お米が多く作れない地域も、日本には多かった。また、戦時中、食糧不足になったのは、人手が足りなくなって生産力に回らなくなったということもあるし、国内、あるいは、外地をふくめて、物流の問題もある。戦時中の食糧事情は、総合的に、ロジスティックスの面からも考えるべきことである。
昔の日本の農村の風景から読み取れること、ハンス・ハンターという英国人のこと、中禅寺湖での外交官のこと、どれもいい素材なので、独立して番組を作った方が、よかったように思える。
2025年12月28日記
知恵泉「忠臣蔵を書いた男・並木千柳 〜人形浄瑠璃の黄金期」 ― 2026-01-02
2026年1月2日 當山日出夫
知恵泉 忠臣蔵を書いた男・並木千柳 〜人形浄瑠璃の黄金期
前回の近松門左衛門に続いて、人形浄瑠璃の話し。この回も、面白かった。学術的に新発見の話題ということではないが、視点の設定がうまい。この回に登場していたのは、ヤマザキマリ、木之下裕一、黒石陽子。(私は、こういう番組を見るとき、ゲストで出ている人を検索してみる。黒石陽子を検索してみると、リサーチマップが出てくる。書いた論文のタイトルなど分かるので、この領域での専門家であることが分かる。)
この回(前回をふくめて)がよく作ってあると感じるのは、浄瑠璃、人形浄瑠璃、文楽、という用語を、きちんと使い分けているところにある。えてして、これらの用語は、混同されがちである。使っていなかったのが、義太夫ということば。ただ、竹本義太夫の固有名詞では使っていたが。
江戸時代のことだから、作者の個人の個性、という近代的な意識は、現代のように強いものではなかったはずである。西鶴についても、西鶴工房説があるぐらいである。これは、立証されたということではなく、そういう説がある、ということにとどまるが。
この意味で、立作者としての価値、今でいえば学術論文の筆頭者ということを、どれぐらい意識することだったか、と思うところもある。並木川柳という作者名も、現代的な意識でいう、作者としての固有名詞ということではない。二代目並木川柳という存在が、後に続く。竹田出雲も、初代がいて、二代目がいた。(こういうところは、もうすこし踏み込んだ解説があってもよかったかとも思う。)
菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵、これらの演目は、今日でも残っている。あまりにも、有名というべきだろう。
仮名手本忠臣蔵は、文楽で上演すると一日かかる。昔、国立劇場小劇場で、通し公演があったので行ったのを憶えている。
これらの作品が、人形浄瑠璃が、三人づかいになったころのこととなるの。人形浄瑠璃で何が表現できるかということで、複雑で繊細な表現が可能になったということは、確かなことだろう。
演劇史については、ほとんど知識がないのだが、人形浄瑠璃と歌舞伎とで、どう違っているのか、歌舞伎になるとき、どう改変したのか、その後の上演で、変化したところはあるのか、というあたりのことが気になる。
こういうことについて、ヤマザキマリ、木之下裕一という、表現する側、舞台をつくる側の視点から、どう思うのか……これは、面白い視点であったというべきだろう。時代設定としてふっとんだところがあるというのは、確かにそのとおりだが、この時代であれば、「曽我物語」のことに言及があってもよかったかもしれない。(古典芸能というのは、常に現代的なものでなければならない、とはいえるだろう。そうであってこそ、その時代の観客にうったえるものがあることになる。)
現代のマンガは、工房といっていい。マンガ家として名前が出るのは一人であっても、その背後には、いろんなスタッフがいろんな仕事を分担している。でなければ、毎週の連載が続くはずがない。これは、マンガの歴史として、昔からそうだったともいえるのだが、創作=個性、という抜きがたいドグマの前では、作者は一人でなければならない。これは、現代における、芸術・芸能の宿痾というべきかもしれない(あえて否定的に考えればということになるが。)。
観客の視点、創って演じる側の視点、研究者の視点……これらが、うまくかみあわさると、こういう番組は面白いものになる。(ちょっとものたりないところもあるけれど、まあいいとして。)
2025年12月26日記
知恵泉 忠臣蔵を書いた男・並木千柳 〜人形浄瑠璃の黄金期
前回の近松門左衛門に続いて、人形浄瑠璃の話し。この回も、面白かった。学術的に新発見の話題ということではないが、視点の設定がうまい。この回に登場していたのは、ヤマザキマリ、木之下裕一、黒石陽子。(私は、こういう番組を見るとき、ゲストで出ている人を検索してみる。黒石陽子を検索してみると、リサーチマップが出てくる。書いた論文のタイトルなど分かるので、この領域での専門家であることが分かる。)
この回(前回をふくめて)がよく作ってあると感じるのは、浄瑠璃、人形浄瑠璃、文楽、という用語を、きちんと使い分けているところにある。えてして、これらの用語は、混同されがちである。使っていなかったのが、義太夫ということば。ただ、竹本義太夫の固有名詞では使っていたが。
江戸時代のことだから、作者の個人の個性、という近代的な意識は、現代のように強いものではなかったはずである。西鶴についても、西鶴工房説があるぐらいである。これは、立証されたということではなく、そういう説がある、ということにとどまるが。
この意味で、立作者としての価値、今でいえば学術論文の筆頭者ということを、どれぐらい意識することだったか、と思うところもある。並木川柳という作者名も、現代的な意識でいう、作者としての固有名詞ということではない。二代目並木川柳という存在が、後に続く。竹田出雲も、初代がいて、二代目がいた。(こういうところは、もうすこし踏み込んだ解説があってもよかったかとも思う。)
菅原伝授手習鑑、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵、これらの演目は、今日でも残っている。あまりにも、有名というべきだろう。
仮名手本忠臣蔵は、文楽で上演すると一日かかる。昔、国立劇場小劇場で、通し公演があったので行ったのを憶えている。
これらの作品が、人形浄瑠璃が、三人づかいになったころのこととなるの。人形浄瑠璃で何が表現できるかということで、複雑で繊細な表現が可能になったということは、確かなことだろう。
演劇史については、ほとんど知識がないのだが、人形浄瑠璃と歌舞伎とで、どう違っているのか、歌舞伎になるとき、どう改変したのか、その後の上演で、変化したところはあるのか、というあたりのことが気になる。
こういうことについて、ヤマザキマリ、木之下裕一という、表現する側、舞台をつくる側の視点から、どう思うのか……これは、面白い視点であったというべきだろう。時代設定としてふっとんだところがあるというのは、確かにそのとおりだが、この時代であれば、「曽我物語」のことに言及があってもよかったかもしれない。(古典芸能というのは、常に現代的なものでなければならない、とはいえるだろう。そうであってこそ、その時代の観客にうったえるものがあることになる。)
現代のマンガは、工房といっていい。マンガ家として名前が出るのは一人であっても、その背後には、いろんなスタッフがいろんな仕事を分担している。でなければ、毎週の連載が続くはずがない。これは、マンガの歴史として、昔からそうだったともいえるのだが、創作=個性、という抜きがたいドグマの前では、作者は一人でなければならない。これは、現代における、芸術・芸能の宿痾というべきかもしれない(あえて否定的に考えればということになるが。)。
観客の視点、創って演じる側の視点、研究者の視点……これらが、うまくかみあわさると、こういう番組は面白いものになる。(ちょっとものたりないところもあるけれど、まあいいとして。)
2025年12月26日記
未解決事件「File.09 年末特別編 世田谷一家殺害事件」 ― 2026-01-02
2026年1月2日 當山日出夫
未解決事件 File.09 年末特別編 世田谷一家殺害事件
このごろ歳末になると、この事件のことをテレビのニュースで報道するのが、毎年の恒例行事のようになっている(と、いったら不謹慎だろうか)。それと、明石の海岸で起こった、陥没事故で亡くなった女の子のことがある。(事故としては忘れてはならないことかもしれないのだが。)
世田谷の事件……これだけ物証があって、犯人が見つからないというのは、かなり特異な事件であることはたしかである。
犯人(厳密には被疑者というべきか)のDNAはサンプルが採取できているのだから、あとはそれに合致する人物を特定すればいい……ということになる。しかし、そのためには、偶然的なことがあって警察が入手したサンプルが合致するか、それとも、(極論すれば)日本のすべての人びとを対象とした、総合的なDNAデータベースを作るか、ということになる。
この場合、日本の人びとを対象とするDNAデータベースは、(おそらく、一部の人間は構想していることだとは思うのだが)、実現は、とても難しい。これは、究極の人間管理社会の到来を意味する。そういう社会を、人びとが希望するのかどうかという、人間の社会観とか国家観ということにかかわる問題になる。
現代でも、職種によっては、その人を特定するためのDNAサンプルを採取しておくということはあるかもしれない。(一般的に考えれば、軍人であったり、警察官であったりということが、考えられる。)
名古屋の事件が、DNA鑑定で、犯人逮捕に結びついたということがある。しかし、だからといって、DNA情報による、人間管理社会になっていいかどうかは、まったく別の問題である。これは、あらためて考えるべき重大な課題である。
だが、世界の趨勢として、そのような方向に流れていくような感じはしている。
2025年12月31日記
未解決事件 File.09 年末特別編 世田谷一家殺害事件
このごろ歳末になると、この事件のことをテレビのニュースで報道するのが、毎年の恒例行事のようになっている(と、いったら不謹慎だろうか)。それと、明石の海岸で起こった、陥没事故で亡くなった女の子のことがある。(事故としては忘れてはならないことかもしれないのだが。)
世田谷の事件……これだけ物証があって、犯人が見つからないというのは、かなり特異な事件であることはたしかである。
犯人(厳密には被疑者というべきか)のDNAはサンプルが採取できているのだから、あとはそれに合致する人物を特定すればいい……ということになる。しかし、そのためには、偶然的なことがあって警察が入手したサンプルが合致するか、それとも、(極論すれば)日本のすべての人びとを対象とした、総合的なDNAデータベースを作るか、ということになる。
この場合、日本の人びとを対象とするDNAデータベースは、(おそらく、一部の人間は構想していることだとは思うのだが)、実現は、とても難しい。これは、究極の人間管理社会の到来を意味する。そういう社会を、人びとが希望するのかどうかという、人間の社会観とか国家観ということにかかわる問題になる。
現代でも、職種によっては、その人を特定するためのDNAサンプルを採取しておくということはあるかもしれない。(一般的に考えれば、軍人であったり、警察官であったりということが、考えられる。)
名古屋の事件が、DNA鑑定で、犯人逮捕に結びついたということがある。しかし、だからといって、DNA情報による、人間管理社会になっていいかどうかは、まったく別の問題である。これは、あらためて考えるべき重大な課題である。
だが、世界の趨勢として、そのような方向に流れていくような感じはしている。
2025年12月31日記
超体感!八雲が愛した神々の里 ばけばけ出雲旅 ― 2026-01-02
2026年1月2日 當山日出夫
超体感!八雲が愛した神々の里 ばけばけ出雲旅
『ばけばけ』関連の番組の一つだが、わりと面白かった。
松江の街の紹介は、定番といっていい内容だった。面白かったのは、明治の松江城が、ボロボロだったこと。現在、各地に、お城や天守閣が残っているが、それは、近年になって整備したもので、明治維新を経て、古くからのお城は、ほとんどが見捨てられた状態だったはずである。それが、地元の有志などの努力で、保存されて残ったというのが、多くのケースかと思っている。
月照寺の大亀とか、大雄寺とか、八重垣神社の池とか、城山稲荷とか、ドラマで見て知ったことである。
一畑電鉄で、出雲に行くことになっていたが、切符が紙だった。改札を通るとき、入鋏してくれる。(まあ、昔の国鉄などこうだったことを憶えているというだけで、もう老人かと思うが。そのうち、Suicaを憶えていたら老人という時代になるかもしれない。)
途中の村で、家の敷地の中に、水神様、荒神様、こういう神様を祀っているというのは、今も、こういう生活が残っているのかと、とても面白かった。(東北の方だと、オシラサマが残っていたりするが。)
出雲大社の、神楽唄、は興味深かった。木の箱を棒でたたいているような感じではあったが、しかし、昔の神様のための音楽とはこんなものだったのだろうか。
温泉津温泉は、小泉八雲の書いたものには出てきていないかと思う。そういえば、小泉八雲の書いた文章を読んで、温泉とか風呂とか、記憶に残っていない。読み落としているだけかとも思うが。海で泳いだことは、印象深い記述があるが。
街の人びとの伝承している神楽もいい。八岐大蛇の神楽であったが、この話しは、日本の神話として代表的なものである。だが、日本神話が一般の人びとの知識となったのは、明治以降のことだし、まず、『古事記』を本居宣長がちゃんと読んでからのことである。この神楽は、新しい「創られた伝統」なのだろうか。それとも、本当に、中世以前から受け継いだものなのだろうか。このあたりが、気になる。
十六島は、日本の難読地名の代表かもしれない。「うっぷるい」と読む。(他に難読地名として思いうかぶのは、間人である。「たいざ」と読む。)ここが海苔の産地であることは知っていたが、あんなふうにして採るものだとは、知らなかった。
美保関の街のこと、神社のことは、出雲に関連した番組で、何度か見ているが、やはり石畳の道がとてもいい。今でも、当屋の制度が残っている。諸手船神事は、とても寒そうである。
十月、神無月が、出雲では、神在月、とされることは知っていることだが、この時、全国の神様を迎えるのが、夜になって海からである、というのは興味深い。こういう形態で神事がとりおこなわれてきたのは、いつごろまでさかのぼるのだろうか。一般に、神様が、どこからやってくるのか、山を越えてやってくるのか、海からやって来るのか、民俗学的には、興味のあるところかと思う。その神様たち、八百万の神様だからたくさんいらっしゃることになるが、それを、神籬「ひもろぎ」に移して、神社まで運ぶ。神様は、海岸までは自力でやって来てくれるが、そこからは、人の手で出雲大社まで運んであげなければならない。これも、なんとなく面白い。
古い出雲大社の巨大な柱の跡は、たしか東京国立博物館だったと思うが、発掘されてしばらくのころに見たことがある。昔の出雲大社(杵築大社)は、巨大な木造建造物だった。
出雲大社の本殿の内部の映像が映っていたが、これは貴重なものだろう。小泉八雲は、明治の昔に、ここまで入ることを許されたというのは、やはり特別の経験だったにちがいない。
2026年1月1日記
超体感!八雲が愛した神々の里 ばけばけ出雲旅
『ばけばけ』関連の番組の一つだが、わりと面白かった。
松江の街の紹介は、定番といっていい内容だった。面白かったのは、明治の松江城が、ボロボロだったこと。現在、各地に、お城や天守閣が残っているが、それは、近年になって整備したもので、明治維新を経て、古くからのお城は、ほとんどが見捨てられた状態だったはずである。それが、地元の有志などの努力で、保存されて残ったというのが、多くのケースかと思っている。
月照寺の大亀とか、大雄寺とか、八重垣神社の池とか、城山稲荷とか、ドラマで見て知ったことである。
一畑電鉄で、出雲に行くことになっていたが、切符が紙だった。改札を通るとき、入鋏してくれる。(まあ、昔の国鉄などこうだったことを憶えているというだけで、もう老人かと思うが。そのうち、Suicaを憶えていたら老人という時代になるかもしれない。)
途中の村で、家の敷地の中に、水神様、荒神様、こういう神様を祀っているというのは、今も、こういう生活が残っているのかと、とても面白かった。(東北の方だと、オシラサマが残っていたりするが。)
出雲大社の、神楽唄、は興味深かった。木の箱を棒でたたいているような感じではあったが、しかし、昔の神様のための音楽とはこんなものだったのだろうか。
温泉津温泉は、小泉八雲の書いたものには出てきていないかと思う。そういえば、小泉八雲の書いた文章を読んで、温泉とか風呂とか、記憶に残っていない。読み落としているだけかとも思うが。海で泳いだことは、印象深い記述があるが。
街の人びとの伝承している神楽もいい。八岐大蛇の神楽であったが、この話しは、日本の神話として代表的なものである。だが、日本神話が一般の人びとの知識となったのは、明治以降のことだし、まず、『古事記』を本居宣長がちゃんと読んでからのことである。この神楽は、新しい「創られた伝統」なのだろうか。それとも、本当に、中世以前から受け継いだものなのだろうか。このあたりが、気になる。
十六島は、日本の難読地名の代表かもしれない。「うっぷるい」と読む。(他に難読地名として思いうかぶのは、間人である。「たいざ」と読む。)ここが海苔の産地であることは知っていたが、あんなふうにして採るものだとは、知らなかった。
美保関の街のこと、神社のことは、出雲に関連した番組で、何度か見ているが、やはり石畳の道がとてもいい。今でも、当屋の制度が残っている。諸手船神事は、とても寒そうである。
十月、神無月が、出雲では、神在月、とされることは知っていることだが、この時、全国の神様を迎えるのが、夜になって海からである、というのは興味深い。こういう形態で神事がとりおこなわれてきたのは、いつごろまでさかのぼるのだろうか。一般に、神様が、どこからやってくるのか、山を越えてやってくるのか、海からやって来るのか、民俗学的には、興味のあるところかと思う。その神様たち、八百万の神様だからたくさんいらっしゃることになるが、それを、神籬「ひもろぎ」に移して、神社まで運ぶ。神様は、海岸までは自力でやって来てくれるが、そこからは、人の手で出雲大社まで運んであげなければならない。これも、なんとなく面白い。
古い出雲大社の巨大な柱の跡は、たしか東京国立博物館だったと思うが、発掘されてしばらくのころに見たことがある。昔の出雲大社(杵築大社)は、巨大な木造建造物だった。
出雲大社の本殿の内部の映像が映っていたが、これは貴重なものだろう。小泉八雲は、明治の昔に、ここまで入ることを許されたというのは、やはり特別の経験だったにちがいない。
2026年1月1日記
丹下左膳〜大岡越前外伝〜 ― 2026-01-03
2026年1月3日 當山日出夫
丹下左膳〜大岡越前外伝〜
丹下左膳といって、もう今の若い人は知らないだろう。今どき、こういうドラマを作ったとして、いったいどういう人が見るのだろうかと思いながら見ていた。
原作者は、林不忘である。私の知識としては、同じ人間が、作品によって名前をつかいわけた例として、知っている。牧逸馬であり、谷譲次である。(だが、その文章を、統計的に検証すれば、その作品が同一人物によって書かれたということは、証明されている。)
森山未來の丹下左膳であるが、現代で、こういう時代劇を作るとするならば、適役というべきだろうか。荒唐無稽、破天荒、放蕩無頼の主人公であるが、しかし、森山未來が演じると、今ひとつ、凄みに欠けるきらいがないではない。これは、私の丹下左膳についてのイメージが偏っているのかとも思うが。
実は、原作の小説は読んだことがない。私の読書の範囲として、古い時代小説というと、『大菩薩峠』は学生のときに読みかけて、途中で終わったことがある。見てみると、『大菩薩峠』も『丹下左膳』も、Kindle版で、とても安くで読める。昔の大衆小説の系譜としては、吉川英治があり、それから『眠狂四郎』があり、『木枯し紋次郎』などが続くことになる。『眠狂四郎』『木枯し紋次郎』は、若い時にいくつか読んだ。現代では、ミステリとして、読まれ続けてもいる。藤沢周平は、好きな作家なのだが、基本的には武士の忠義を描いている。だが、丹下左膳は、無頼の徒である。
時代小説の中の武士はどんなものだったのか。おそらくは、「八犬伝」の近代における受容というあたりからはじめて、講談や、チャンバラ映画などをふくめて、総合的に、大衆小説、漫画、娯楽の歴史の中で考えることになるだろう。メディアとしての貸本小説とか雑誌などを視野にいれることになるかと思う。武士を忠義を軸に描くということは、近代においてどういう意味があったことになるのだろうか。
ドラマとしては、面白かった。こういう昔ながらの時代劇、チャンバラ・エンタテイメント、というのが姿を消してしまった時代にあっては、こういうドラマは、貴重なことかもしれない。
黒木華は、これまでの女優さんの役柄のイメージとしては、大きく変わったところかと思う。悪いとは思わないのだが、賭場のシーンなど、もっと妖艶であってもよかったかもしれないが、ここは、あえて地味な感じに作ったということなのだろうか。妖艶さと純情さと、この両面を表現するのは、かなり演技としても、演出としても、とても難しいとは思うが。
「丹下左膳」を作ったのだから、次は、「机竜之介」かなと思ったりしている。
2026年1月1日記
丹下左膳〜大岡越前外伝〜
丹下左膳といって、もう今の若い人は知らないだろう。今どき、こういうドラマを作ったとして、いったいどういう人が見るのだろうかと思いながら見ていた。
原作者は、林不忘である。私の知識としては、同じ人間が、作品によって名前をつかいわけた例として、知っている。牧逸馬であり、谷譲次である。(だが、その文章を、統計的に検証すれば、その作品が同一人物によって書かれたということは、証明されている。)
森山未來の丹下左膳であるが、現代で、こういう時代劇を作るとするならば、適役というべきだろうか。荒唐無稽、破天荒、放蕩無頼の主人公であるが、しかし、森山未來が演じると、今ひとつ、凄みに欠けるきらいがないではない。これは、私の丹下左膳についてのイメージが偏っているのかとも思うが。
実は、原作の小説は読んだことがない。私の読書の範囲として、古い時代小説というと、『大菩薩峠』は学生のときに読みかけて、途中で終わったことがある。見てみると、『大菩薩峠』も『丹下左膳』も、Kindle版で、とても安くで読める。昔の大衆小説の系譜としては、吉川英治があり、それから『眠狂四郎』があり、『木枯し紋次郎』などが続くことになる。『眠狂四郎』『木枯し紋次郎』は、若い時にいくつか読んだ。現代では、ミステリとして、読まれ続けてもいる。藤沢周平は、好きな作家なのだが、基本的には武士の忠義を描いている。だが、丹下左膳は、無頼の徒である。
時代小説の中の武士はどんなものだったのか。おそらくは、「八犬伝」の近代における受容というあたりからはじめて、講談や、チャンバラ映画などをふくめて、総合的に、大衆小説、漫画、娯楽の歴史の中で考えることになるだろう。メディアとしての貸本小説とか雑誌などを視野にいれることになるかと思う。武士を忠義を軸に描くということは、近代においてどういう意味があったことになるのだろうか。
ドラマとしては、面白かった。こういう昔ながらの時代劇、チャンバラ・エンタテイメント、というのが姿を消してしまった時代にあっては、こういうドラマは、貴重なことかもしれない。
黒木華は、これまでの女優さんの役柄のイメージとしては、大きく変わったところかと思う。悪いとは思わないのだが、賭場のシーンなど、もっと妖艶であってもよかったかもしれないが、ここは、あえて地味な感じに作ったということなのだろうか。妖艶さと純情さと、この両面を表現するのは、かなり演技としても、演出としても、とても難しいとは思うが。
「丹下左膳」を作ったのだから、次は、「机竜之介」かなと思ったりしている。
2026年1月1日記
映像の世紀バタフラエフェクト「スクリーンの中の東京百年」 ― 2026-01-03
2026年1月3日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト スクリーンの中の東京百年
はっきりいって、この回は、あまり面白くなかった。ポイントがぼやけてしまっている。東京の100年の歴史(関東大震災後のこと)を描きたいのか、あるいは、小津安二郎について語りたいのか、どうもどっちつかずで、結局何がいいたいのか、よく分からないままである。
小津安二郎は、今でこそ、日本映画の中で最高に高く評価されている。特に『東京物語』は、名作である。
私が、小津安二郎について思うことは、次のようなことになる。
私が大学生で東京にいたころ、1970年代の後半からということになるが、ちょうどそのころ、『ぴあ』が刊行された時期でもある。まだ、東京にいろんな名画座があった。京橋には、フィルムセンターがあった(その後、火災があったことになるが。)
名画座で映画を観て回ったりしたのだが、小津安二郎を多く観たという経験がない。あまり上映されなかったかと憶えている。せいぜい、浅草の六区の映画館街が、さびれた状態だったが、そんな中で、しかたなしに昔の古い映画ということで、上映されることがあったぐらい……私の認識としては、このようなことである。
『ぴあ』などに掲載の映画の上映情報を、総合的なデータベースにしてあるなら、このあたりの事情がはっきりするだろう。(こういうことは、もう誰かがやっているかとも思うが。)
新作の封切りとして上映された時期を特定することは簡単かとも思うが、一般の観客の視点からは、その後、どのような映画館(場末の二番館とか、名画座とか)で上映されてきたのか、という情報の方が、メディア史的には価値のあることだろう。
ともあれ、小津安二郎が評価されるようになったのは、私が学生のころよりも、かなり後になってからである。黒澤明とか、木下恵介とか、溝口健二とかの方が、高い評価だったと憶えている。
現在、小津安二郎が名監督として評価されているからといって、その作品の多くが作られた当時から、同じように高評価であったということではない。一時期は、忘れられようとしていた時代もあった。こういうことをふまえて、映画は資料として見る必要があるように思う。
それから、私は、『東京物語』は何度か観ているが(家のテレビで、であるが)、これも、正直にいってよく分からないところがある。映像としてすばらしいものであることは、理解できるつもりでいる。
しかし、昭和の戦後の時代を描くのに、どうも都市部の生活感覚にかたよりすぎているような印象がある。これも、東京の歴史という観点から見れば、まさに、戦後の東京を描いた映画ということになるのだが。これは、小津安二郎が、都会的センスで映画を作っていた、ということになるかと思うのだが、映画史研究方では、どう考えられているのだろうか。
小津安二郎が戦後の東京を描いたとするならば、笠智衆が戦前の人間の感覚を代表することになる。それに対して、吉永小百合は、戦後の高度経済成長の時代を象徴するだろう。
これは、映画というメディアが、この時代に、どのような人びとに、どう受容されていたのか、という視点が必要だろう。今では、映画というものを観る人間が、大きく変わってきている。(ありていにいえば、今の時代では、映画は、都会に住む人のちょっとした贅沢な趣味になってきている。もう、映画館の無い街が全国に多い。)映画というメディアの社会の中での位置づけの変化があって、現代の映画での東京の描き方がある。現代ならば、映画ではなく、テレビを見るべきかもしれない。
2025年12月31日記
映像の世紀バタフライエフェクト スクリーンの中の東京百年
はっきりいって、この回は、あまり面白くなかった。ポイントがぼやけてしまっている。東京の100年の歴史(関東大震災後のこと)を描きたいのか、あるいは、小津安二郎について語りたいのか、どうもどっちつかずで、結局何がいいたいのか、よく分からないままである。
小津安二郎は、今でこそ、日本映画の中で最高に高く評価されている。特に『東京物語』は、名作である。
私が、小津安二郎について思うことは、次のようなことになる。
私が大学生で東京にいたころ、1970年代の後半からということになるが、ちょうどそのころ、『ぴあ』が刊行された時期でもある。まだ、東京にいろんな名画座があった。京橋には、フィルムセンターがあった(その後、火災があったことになるが。)
名画座で映画を観て回ったりしたのだが、小津安二郎を多く観たという経験がない。あまり上映されなかったかと憶えている。せいぜい、浅草の六区の映画館街が、さびれた状態だったが、そんな中で、しかたなしに昔の古い映画ということで、上映されることがあったぐらい……私の認識としては、このようなことである。
『ぴあ』などに掲載の映画の上映情報を、総合的なデータベースにしてあるなら、このあたりの事情がはっきりするだろう。(こういうことは、もう誰かがやっているかとも思うが。)
新作の封切りとして上映された時期を特定することは簡単かとも思うが、一般の観客の視点からは、その後、どのような映画館(場末の二番館とか、名画座とか)で上映されてきたのか、という情報の方が、メディア史的には価値のあることだろう。
ともあれ、小津安二郎が評価されるようになったのは、私が学生のころよりも、かなり後になってからである。黒澤明とか、木下恵介とか、溝口健二とかの方が、高い評価だったと憶えている。
現在、小津安二郎が名監督として評価されているからといって、その作品の多くが作られた当時から、同じように高評価であったということではない。一時期は、忘れられようとしていた時代もあった。こういうことをふまえて、映画は資料として見る必要があるように思う。
それから、私は、『東京物語』は何度か観ているが(家のテレビで、であるが)、これも、正直にいってよく分からないところがある。映像としてすばらしいものであることは、理解できるつもりでいる。
しかし、昭和の戦後の時代を描くのに、どうも都市部の生活感覚にかたよりすぎているような印象がある。これも、東京の歴史という観点から見れば、まさに、戦後の東京を描いた映画ということになるのだが。これは、小津安二郎が、都会的センスで映画を作っていた、ということになるかと思うのだが、映画史研究方では、どう考えられているのだろうか。
小津安二郎が戦後の東京を描いたとするならば、笠智衆が戦前の人間の感覚を代表することになる。それに対して、吉永小百合は、戦後の高度経済成長の時代を象徴するだろう。
これは、映画というメディアが、この時代に、どのような人びとに、どう受容されていたのか、という視点が必要だろう。今では、映画というものを観る人間が、大きく変わってきている。(ありていにいえば、今の時代では、映画は、都会に住む人のちょっとした贅沢な趣味になってきている。もう、映画館の無い街が全国に多い。)映画というメディアの社会の中での位置づけの変化があって、現代の映画での東京の描き方がある。現代ならば、映画ではなく、テレビを見るべきかもしれない。
2025年12月31日記
英雄たちの選択「秀吉と秀長 〜激突!豊臣チルドレンの関ヶ原〜」 ― 2026-01-03
2026年1月3日 當山日出夫
英雄たちの選択 秀吉と秀長 〜激突!豊臣チルドレンの関ヶ原〜
『豊臣兄弟』関連番組の三つ目である。
どうでもいいことから書くと……歴史学研究者の中での業界の縄張りというか、棲み分けのようなものがあるのだろうとは思う。誰が、こういう番組に出るのか、どんな方向から話しをするのか、そもそも、出たくないという人もいるだろうし、その内輪のゴシップのようなものは、面白い話しがあるにちがいない。
この回でスタジオに登場していたのは、
千田義博
堀新
矢部健太郎
外岡愼一朗
やはり、話しの方向は、基本的に二つであって、一つには、秀吉が天下人になれたのはどうしてか、そこには、秀長の役割が大きかった、ということ。そして、もう一つは、なぜ豊臣政権はあっさりとほろんでしまったのか、ということ。まあ、この時代のことを歴史学として考える、また、『豊臣兄弟!』関連で番組を作るとなると、だいたいこういうことになるのかとは思う。
この時代の「百姓」はどんな生活をしていたのか、というようなことも、とても重要な歴史学の問題だとは思うのだが、こういうことに興味を持つ人は少ないかもしれないし、また、史料もそう多くないということもあるだろう。それよりも、古文書などの一次史料を基本として、戦国大名の動きを記述する方が、ある意味では、楽な仕事だとは思う(こう言っては歴史学研究の人たちには、失礼な言い方になるかと思うけれど。)
秀吉の家臣は、次のようになる。
一門衆
尾張衆
美濃衆
近江衆
近江の人びとが、識字率が高かったというのは、興味深い。統計的な資料があるのは、明治以降になるはずだが、近世以前でも近江の地は、識字率が高く、近江商人の基盤となったものがあったことは、たしかなことだろうとは思う。(ただ、信頼できる日本人のリテラシ調査としては、戦後におこなわれたGHQのものが、ほぼ唯一のものである。これは、日本語学の常識。そして、この調査も、その調査方法や精度については、最近になってかなりの疑問があることが、言われるようになってきている。)
ちょっと気になったのだが……賤ヶ岳の戦いを兵騎で示すとき、秀吉・秀長の側を味方と意識するなら、青でなければならない、敵の柴田軍が赤であるべきなのだが、画面に映っていたのは、青と赤が逆になっていた。
秀長が和歌山城をつくり、刀狩りをおこない、検地もおこなった、ということは、そうなのであるが、その刀狩りの実態とか、検地の実態とか、こういうことは、どうしても気になる。紀州は山が多いが、お米のとれない山間地については、どうだったのだろうか。
秀吉が大阪城をつくったということと合わせて考えれば、瀬戸内海から紀伊半島沿岸の海上交易路を支配したという側面もあるはずである。
この番組で面白いと思ったのは、秀吉の晩年の、いわゆる朝鮮出兵ということを、可能なかぎり、朝鮮ということばを使わないでいたことである。磯田道史は、唐入りという表現をしていた。また、文禄慶長の役という言い方をしていた。
秀吉にしてみれば、朝鮮は、明まで行く途中の通り道であった、ということだったかと思う。実際に戦場となったのがどこかということ、現在の朝鮮半島の人たちがどう思っているかということ、秀吉はどう思っていたかということ、これらは、分けて考えることかと思うのであるが、こういうのは、あまり今の時流にはふさわしくない考え方かもしれない。
何故、豊臣政権が長続きしなかったのか、ということについては、いろんな論点はあるだろうが、やはり次のようにまとめることができるだろう……秀吉が、自分の死んだ後の政権の安定ということを考えて、統治の組織作りをきちんとしておかなかった、こういうことにつきるだろう。具体的には、家臣団の組織であり、戦国大名たちとの関係であり、(番組では言っていないことだが)領民の支配のシステムであり、ということの総合の結果だろう。
秀吉に後継者となるべき子どもがいなかった、秀頼が生まれるが、その時にはすでに豊臣政権の将来を構想するには、時期が遅すぎた、ということだろう。秀吉が農民出身ということは、譜代の家臣がいないということでもあり、これも、将来の政権構想を難しいものにした要因であることは、たしかだろう。
関ヶ原の合戦については、いろいろと言われる。小早川秀秋だけが悪いというわけではない。豊臣家臣どうしの内輪もめ、ということでいいだろうか。つまりは、豊臣の家臣団、豊臣チルドレンたちが、きちんと組織化されていなくて、分裂してしまったということになる。
そして、家康が、豊臣のダメだったところを見ていて、そうならないように江戸幕府を作ったこともあるし、家康が十分に長生きしたということもある。いずれ、豊臣政権は崩壊する運命にあったといえるかもしれないが、そこには、いろんな人間の思惑と偶然的要因があったといっていいだろう。(歴史とは、そんなものかとも思うのだが。)
番組では言っていなかったことだが……秀吉の家臣団は、一代で出世した(階層移動をとげた)秀吉にとっては、所詮は寄せ集めであって、主君に対する忠誠心で結束したものではなかった。裏切りも謀反も十分にありえた、中世までの武士の心性を、主君に対する忠誠心を軸に整えていったのが徳川の時代であり、同時に、それが最終的には、日本という国への忠誠、天皇への忠誠ということに、熟成し変化していったのが、幕末にいたる過程ということになるだろうか。
2026年1月2日記
英雄たちの選択 秀吉と秀長 〜激突!豊臣チルドレンの関ヶ原〜
『豊臣兄弟』関連番組の三つ目である。
どうでもいいことから書くと……歴史学研究者の中での業界の縄張りというか、棲み分けのようなものがあるのだろうとは思う。誰が、こういう番組に出るのか、どんな方向から話しをするのか、そもそも、出たくないという人もいるだろうし、その内輪のゴシップのようなものは、面白い話しがあるにちがいない。
この回でスタジオに登場していたのは、
千田義博
堀新
矢部健太郎
外岡愼一朗
やはり、話しの方向は、基本的に二つであって、一つには、秀吉が天下人になれたのはどうしてか、そこには、秀長の役割が大きかった、ということ。そして、もう一つは、なぜ豊臣政権はあっさりとほろんでしまったのか、ということ。まあ、この時代のことを歴史学として考える、また、『豊臣兄弟!』関連で番組を作るとなると、だいたいこういうことになるのかとは思う。
この時代の「百姓」はどんな生活をしていたのか、というようなことも、とても重要な歴史学の問題だとは思うのだが、こういうことに興味を持つ人は少ないかもしれないし、また、史料もそう多くないということもあるだろう。それよりも、古文書などの一次史料を基本として、戦国大名の動きを記述する方が、ある意味では、楽な仕事だとは思う(こう言っては歴史学研究の人たちには、失礼な言い方になるかと思うけれど。)
秀吉の家臣は、次のようになる。
一門衆
尾張衆
美濃衆
近江衆
近江の人びとが、識字率が高かったというのは、興味深い。統計的な資料があるのは、明治以降になるはずだが、近世以前でも近江の地は、識字率が高く、近江商人の基盤となったものがあったことは、たしかなことだろうとは思う。(ただ、信頼できる日本人のリテラシ調査としては、戦後におこなわれたGHQのものが、ほぼ唯一のものである。これは、日本語学の常識。そして、この調査も、その調査方法や精度については、最近になってかなりの疑問があることが、言われるようになってきている。)
ちょっと気になったのだが……賤ヶ岳の戦いを兵騎で示すとき、秀吉・秀長の側を味方と意識するなら、青でなければならない、敵の柴田軍が赤であるべきなのだが、画面に映っていたのは、青と赤が逆になっていた。
秀長が和歌山城をつくり、刀狩りをおこない、検地もおこなった、ということは、そうなのであるが、その刀狩りの実態とか、検地の実態とか、こういうことは、どうしても気になる。紀州は山が多いが、お米のとれない山間地については、どうだったのだろうか。
秀吉が大阪城をつくったということと合わせて考えれば、瀬戸内海から紀伊半島沿岸の海上交易路を支配したという側面もあるはずである。
この番組で面白いと思ったのは、秀吉の晩年の、いわゆる朝鮮出兵ということを、可能なかぎり、朝鮮ということばを使わないでいたことである。磯田道史は、唐入りという表現をしていた。また、文禄慶長の役という言い方をしていた。
秀吉にしてみれば、朝鮮は、明まで行く途中の通り道であった、ということだったかと思う。実際に戦場となったのがどこかということ、現在の朝鮮半島の人たちがどう思っているかということ、秀吉はどう思っていたかということ、これらは、分けて考えることかと思うのであるが、こういうのは、あまり今の時流にはふさわしくない考え方かもしれない。
何故、豊臣政権が長続きしなかったのか、ということについては、いろんな論点はあるだろうが、やはり次のようにまとめることができるだろう……秀吉が、自分の死んだ後の政権の安定ということを考えて、統治の組織作りをきちんとしておかなかった、こういうことにつきるだろう。具体的には、家臣団の組織であり、戦国大名たちとの関係であり、(番組では言っていないことだが)領民の支配のシステムであり、ということの総合の結果だろう。
秀吉に後継者となるべき子どもがいなかった、秀頼が生まれるが、その時にはすでに豊臣政権の将来を構想するには、時期が遅すぎた、ということだろう。秀吉が農民出身ということは、譜代の家臣がいないということでもあり、これも、将来の政権構想を難しいものにした要因であることは、たしかだろう。
関ヶ原の合戦については、いろいろと言われる。小早川秀秋だけが悪いというわけではない。豊臣家臣どうしの内輪もめ、ということでいいだろうか。つまりは、豊臣の家臣団、豊臣チルドレンたちが、きちんと組織化されていなくて、分裂してしまったということになる。
そして、家康が、豊臣のダメだったところを見ていて、そうならないように江戸幕府を作ったこともあるし、家康が十分に長生きしたということもある。いずれ、豊臣政権は崩壊する運命にあったといえるかもしれないが、そこには、いろんな人間の思惑と偶然的要因があったといっていいだろう。(歴史とは、そんなものかとも思うのだが。)
番組では言っていなかったことだが……秀吉の家臣団は、一代で出世した(階層移動をとげた)秀吉にとっては、所詮は寄せ集めであって、主君に対する忠誠心で結束したものではなかった。裏切りも謀反も十分にありえた、中世までの武士の心性を、主君に対する忠誠心を軸に整えていったのが徳川の時代であり、同時に、それが最終的には、日本という国への忠誠、天皇への忠誠ということに、熟成し変化していったのが、幕末にいたる過程ということになるだろうか。
2026年1月2日記
最近のコメント