今年読みたい本のことなど2017-01-01

2017-01-01 當山日出夫

謹賀新年

このブログを、去年の五月に再開した。本を読んで、そして、それを文章にする生活をおくりたいと思うようになったからである。

もう、私は年齢としては、還暦をすぎた。そして、今では、それから一年以上すぎている。決して若くはない。しかし、だからといって、まだ年をとって衰えたというのは、早いかと思う。たしかに、目は老眼になってきて、小さい文字の本を読むのがつらくなってきている。眼鏡をはずさないと読書できない。だが、まだ、本は読めるし、こうして、パソコンに向かって文章をつづることもできる。

「読んでいない本」がたくさんある。これからは、これまで名前は知っていても「読んでいない本」のいくつかでも、読んでおきたいと思う。古今東西の古典、名著、名作。

ひろい意味での「文学」……文学・歴史・哲学といった本を読んでおきたい。人文学の基礎的書物である。

かつて、このブログを始めたとき、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズということを考えていた。これを推進する立場に今も私はかわりはない。デジタルの世界が、どんどんこれからの人文学の世界を変えていくだろう。そのことは、自分なりに十分承知しているつもりでいる。

いや、だからこそというべきか、人文学の人文学たるゆえん……本を読むこと、文章を書くこと、それから、人と語ること……これらのことに時間をつかっていきたいと思うようになってきている。このことをわすれて、人文情報学というものはないだろうと思う。

今年(2017)、読んでおきたいと思っている本(シリーズ)としては、まず、『定本漱石全集』がある。夏目漱石の作品は、若い頃、高校生のころからしたしんできた。数年おきに、その代表的な小説作品は読み返すようにしている。2016年は、漱石没後100年。2017年は、漱石生誕150年になる。岩波書店がまたあらたに『定本漱石全集』を刊行する。前の版ももっているのだが、この新しい漱石全集で、漱石の作品を、もう一度、自分なりに確認しながら読んでみたい。
https://www.iwanami.co.jp/news/?action=detail&news_no=17359

それから、去年(2016)に完結した『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版会)。私が大学生になったとき、井筒俊彦は、すでに慶應を去った後だった。だが、鈴木孝夫、池田弥三郎などの諸先生を通じて、その面影を感じたものである。直接、その謦咳に接したのは、岩波ホールでの講演会の時であった。このようなすぐれた知性がこの世に存在するのか、と感銘をうけた覚えがある。『井筒俊彦全集』はそろえて買ってある。また、その生前に出た単行本もほとんど持っている。これらの本を、今の自分でどれだけ理解できるかどうかわからないが、読んでみたい。
http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html

みすず書房が、『中井久夫集』(全11巻)を刊行する。これも、読んでみたい。
http://www.msz.co.jp/topics/08571-08581/

その他、『歴史学の名著30』(山内昌之)『政治学の名著30』(佐々木毅)(ちくま新書)などのブックガイドを参照しながら、そのいくつかでも、読んでおきたい。これら、ひろい意味での「文学」に属する本……古典的名著……を読みたい。私の学生のころに出た、中央公論の「世界の名著」、これは、古本で非常に安く買えるようになっている。あるいは、なかには、新しい新訳が文庫本などで刊行されているものもある。

ともあれ、読書ということで生活をおくりたい、これが新年にあたっての抱負である。

なお、蛇足でつけくわえれば、私は、若いときからミステリ好きである。いや、ここは古風に探偵小説といいたい。良質なミステリ、探偵小説、を読んでいきたいとも思っている。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

定本漱石全集『吾輩は猫である』2016-12-14

2016-12-14 當山日出夫

夏目漱石.『定本漱石全集:吾輩は猫である』.岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/book/b266526.html

この本、発売は12月10日以降であったと思うが、奥付を見ると、12月9日と記してある。9日は、漱石の命日である。

いろいろ考えたすえであるが、この新しい全集を買うことにした。

私はすでに、漱石全集は二セット持っている。
1974年版の17巻(別巻1)
1993年版の28巻(別巻1)
である。

特に、後者(1993年版)と、今回の版と大きく内容が変わるわけではないようだ。確かに、一部では、新出資料があったり、部分的に作品の本文校訂が変わるとことはあるらしい。しかし、これまで漱石は、古い校訂で、あるいは、一般には文庫本などで読まれてきたのであり、普通に読むのには、それで十分だともいえる。

では、なぜ、今回の全集を買ってみようという気になったのか。それは、自分へのモチベーションのためである。

私は、漱石の作品は、数年おきぐらいには、主な小説類(『猫』から『明暗』までぐらい)を、読み直すことにしている。いままで、何回、読んだことだろうか。

しかし、その書簡とか漢詩、俳句などは、あまり読まずにきているということもある。これらも、一度は、読んでみたいものである。古い全集を取り出してきて読んでもいいのだが、せっかくなら新しい全集の新しい活字で読んでみたい、このような気もする。

これから、月に一冊の漱石全集の配本を追っていくぐらいの時間の余裕はとれそうである。これを機会に、漱石全集を、読んでみたいという気持ちになっている。

とはいえ、私は、漱石を研究しようという気はまったくもっていない。近代文学研究のような分野からは、まったくの門外漢であると同時に、いまさら、何を言おうという気もない。ただ、ひとりの読者として、若いころ(高校生のころ)から漱石を読んできて、また、読みたくなっているというだけのことである。

しかし、今は12月。毎年恒例の、年末の、今年のミステリーが発表される時期である。読んでおきたい本が、たくさんある。まあ、なんとか頑張って読むことにしよう。

こうの史代『この世界の片隅に』2016-12-11

2016-12-11 當山日出夫

こうの史代.『この世界の片隅に』(上・中・下).双葉社.2008
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94146-3.html?c=20108&o=date&type=t&word=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB

いま、話題の映画の原作である。
http://konosekai.jp/

私は、基本的にはコミックは読まないことにしている。(このジャンルまで手を出すと、「読んでいない本」がさらに増える)。だが、これだけは、読んでおきたい気になって買ってみた。(これ以外では、他に『空母いぶき』があるのだが。)

読んでみての感想は基本的に次の二点。

第一に、こうの史代の漫画ならではの表現であるということ。調べてみると、この作品のノベライズ版もあるようだが、しかし、これは、漫画でないと表現できない作品であると感じる。

ただ、それは、漫画についてのリテラシの無い私としては、表現することばを持たない。これは、残念である。

こうの史代については、平凡社のHPで、『ぼおるぺん古事記』を読んで、その表現力の確かさを知っていた。
http://webheibon.jp/kojiki/

たぶん、この作品全体からただよってくる淡い叙情性のようなもの……それは、一方で悲惨な戦時下の生活でもあるのだが……これは、文章化してしまうことはできないだろうと感じる。その絵の雰囲気から感じる何かなのである。

第二に、太平洋戦争の戦時下の日常生活を描いた作品であること。たしかに、文学作品、あるいは、ノンフィクションとして、戦時下の生活を描いた作品はある。だが、この作品ほど、「平凡な日常のいとおしさ」とでもいうべきものを、表現した作品を、私は知らない。逆に、その悲惨さを強調したものなら、いくらでも見つけることができるだろうが。

たとえば、
やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

戦時下の、いわゆる「非常時」であっても、それでも、人びとは、普通の生活をしている。寝て、起きて、食べて、家事をして、そして、家族があり、また、近所の人たちとのつきあいがある……このような「日常」は、続くものである。それは、戦争が始まっても、また、終わっても、変わることなく続いていく。

作中、玉音放送の場面がある。8月15日である。そして、その前に、広島への原爆の投下も描かれる。生活に多少の変化は確かにある。だが、そのような中にあっても、毎日おなじようにすぎていく日常生活が根本から変わるわけではない。

日常生活のいとおしさを描いているからといって、この作品は、特に、時局に抗した反戦平和を訴えるという性格のものではない。いや、むしろ、そのような政治的主張からは、もっとも遠いところに視点を定めている。

たぶん、日常のいとおしさを奪うものは、たとえ、それが「革命」であったとしても、同じように、何かしら嫌悪すべきものとして描かれることにちがいない。いや、どうしようもない大きな歴史の何か、とでもいうべきかもしれない。

以上、二点が、この作品を読んでみての、ざっとした感想である。

なお、蛇足で書いておくと……この作品中に、りんという女性が登場する。妓楼につとめている。この女性は、小学校にまともに通えなかったので、字がきちんと読めない。リテラシがないという人物設定。

私は、これまで、日本語史の講義において、日本人のリテラシについては、時折言及することがあった。そのとき、これなら学生でも知っているだろうと思って、例に出していたのは『おしん』(NHK)であった。ヒロインおしんの母親は文字が読めない。また、おしんが勤めていたカフェの女給たちも字が書けなかった。

さて、『この世界の片隅に』なら、今の学生でも読んでいてくれるだろうか。つい近年まで、まともに学校教育を受けられなくて文字が読めないという人は、決して珍しい存在ではなかった、このことの事例として、りんという女性の話をしてみるのもいいか、という気がしている。

山上浩嗣『パスカル『パンセ』を楽しむ-名句案内40章-』2016-12-07

2016-12-07 當山日出夫

名前は知っていても、「読んでいない本」である…パスカル『パンセ』。

この本については、『いまこそ読みたい哲学の名著』(長谷川宏)にも紹介してある。

やまもも書斎記 2016年11月18日
長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/18/8253270

この本では、中央公論社『世界の名著』版をおすすめとしてある。しかし、その後、岩波文庫から新しい訳が出ている。これは貴重な新訳であり解説なのであろうが、全三巻になると、ちょっと荷が重い。

パスカル/塩川徹也(訳).『パンセ』上・中・下(岩波文庫).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-336142-S

と思っていたところに、講談社学術文庫で、いい本が出た。

山上浩嗣.『パスカル『パンセ』を楽しむ-名句案内40章-』(講談社学術文庫).講談社.2016 (文庫オリジナル)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923941

この本は、『パンセ』のなかから、興味深い章句をとりだして、随意に註解を加えたという体裁になっている。どこから読んでもいいように作ってある。分量も手頃。300ページに満たない。これなら、挫折することなく、自在に『パンセ』の神髄を味わえるというものである。

「はじめに」を読むと、このような形式の本は、先例があるとのこと。

アントワーヌ・コンパニョン/山上浩嗣・宮下志朗(訳).『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』.白水社.2014
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b203908.html

ところで、『パンセ』という書物は、パスカルが書き留めた未完の断片・章句を総合したもの。どれがどの順番で書かれたのか、それぞれの章句の関係をめぐっては、複雑な研究史があるらしい。簡略ながら、講談社学術文庫版に解説がある。これは役にたつ。

そのなかで、興味をひいたのが、WEBで、『パンセ』研究資料を総合しようというこころみ。電子版パスカル『パンセ』サイト、として次のHPが紹介してある。(p.26)

http://www.penseesdepascal.fr/

門外漢の私には、残念ながらこのHPについてコメントすることはできないのだが、『パンセ』の研究というような仕事には、やはりWEBの仕組みが向いているとべきなのであろうと思う。

それから、この本を読んで、重要だとおもったこと。「あとがき」であるが、それは、ある学生(人一倍熱心な学生)が、

「パスカルのような何百年も前の人の思想を研究することに、いったいどのような意味があるのでしょうか。」

と質問したらしい。(p.263)

これにたいして、著者は、このように返信したとのこと。

「(前略)世の中には、ただ単に読んでいておもしろいと感じる作品もありますが、研究という厳格な方法的操作を長年経てはじめておもしろさがわかる作品もあります。」(p.264)

これには同感する。

『パンセ』の場合は、フランスの古典になるが、日本の古典でも同じようなことがいえるはずである。日本語を母語としていれば、日本の古典の多くは、ある程度の註解をつければ、読める。『万葉集』など、そうかもしれない。しかし、『万葉集』を本当に理解しようとするならば、古代日本語、古代の文化、社会、歴史についての、厳格で緻密な研究にもとづかなければならない。

現代日本語で読めてしまうが故に、ある種の危険性がそこにあるともいえる。

研究という方法を経ることによってはじめて理解できる本当のおもしろさ、それを伝えていく必要がある。この意味において、人文学、そのなかでも、古典研究の分野の存在意義というのは、決して軽いものではないはずである。

呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』2016-11-23

2016-11-23 當山日出夫

呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/

いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。

そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。

はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。

1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。

白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。

『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。

もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。

それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、

吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/

今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。

吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。

若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。

そうはいっても、たとえば、

竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html

この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。

長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』2016-11-11

2016-11-11 當山日出夫

ピエール・バイヤール/大浦康介(訳).『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2008)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

最初、単行本で訳書が出たとき買って、ざっと読んで、今回、文庫(ちくま学芸文庫)になったので、また買って再読してみた。

この本の内容について、ふさわしくタイトルをあえて変えるとするならば、

『なぜ読んでいない本について堂々と語れるのか』

とでもした方がいいのかもしれない。

読んでいない本について、堂々と語る仕事としてまず、思い浮かぶのは大学の教師である。私の専門領域としては、国語学ということになるが、では、国語学の専門書、日本文学については、古典大系、古典文学全集の類を網羅的に読んでいるかというと、はっきりいってそんなことはない。

『源氏物語』を、最初から通読したことはないということは、すでに書いた。しかし、大学の講義で、『源氏物語』について言及するのに、なんら不都合はない。もちろん、全巻を順番に読んでおくにこしたことはないだろうが、それが必須の条件というわけではない。

では、なぜ、『源氏物語』について授業で語れるのか……それは、その作品の文学史的な位置づけ、研究史の概略を知っているからであり、全部を順番に読んだことはないにしても、かなりの箇所はきちんと読んでいる。部分的には精読しているといってよい。

つまり、『源氏物語』の読み方を知っている。勉強の方法を知っている、ということなのである。

だが、だからといって、『源氏物語』をまったく読んでいなければ、それについての研究書・論文のいくつかを読んだことがなければ、これは、はっきりいって、教師として失格と言ってよいであろう。

このようなことを、『読んでいない~~』では、次のような箇所が該当するのかと思う。

「教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本を始めから終わりまで読む必要はない。この能力が発達していればいるほど本を通読する必要はないのである。」(p.39)

「このように、教養とは、書物を〈共有図書館〉のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。」(p.66)

つまり、「教養」があれば、本を全部にわたって通読する必要はない。

では、どうやればその教養は身につくのか……それは、やはり、「読書」と「教育」によってである、ということになる。ある程度は、本を読み、その読み方について教育をうける、これが必要だろう。

本書『読んでいない~~』は、読書論であると同時に、教養論であり、教育論の本であると思う。タイトルはいたって挑発的であるが、しかし、その書かれている内容は、逆に、常識的な読書文化論、教養論であると、私は読んだ。その常識的なレベル、あるいは暗黙知と言ってもよいかもしれない、そのようなことを、あえて、俎上にのせて論じてみたということである、と理解する。

はっきりいって、この本を読まずに読んだふりをするのも、決して悪いことではないと思う。それは、この本の語っている内容が、ある意味で、きわめて常識的な読書についての考察であるといってもよいからである。常識的すぎる、あるいは、暗黙知であるがゆえに、いままであまりおもてだって言及されることのなかったことについて書いてある。この意味では、なぜ自分は読んでいない本について語ることができるのか、じっくりと内省してみれば、おのずと答えの出ることであるともいえる。

とはいえ、暗黙知とされるべきことについて、あえて論じるというのは、刺激的で知的な興味をそそる仕事ではある。この観点において、非常に面白い本だと思う。

山内昌之『歴史の想像力』2016-10-30

2016-10-30 當山日出夫

山内昌之.『歴史の想像力』(岩波現代文庫).岩波書店.2001 (原著 『二十世紀のプリズム』.角川書店.1999 再編集)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/7/6030480.html

著者は、イスラームが専門の歴史研究者であるが、それと同時に、すぐれた人文学者であると思う。さりげなく書いてあるが、次のような箇所。

「歴史と文学には大きな共通点がある。それは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼である。そして、歴史と文学は、〈叙述〉という表現手段が重視される点でも似通っている。」(p.214)

〈文学〉と〈歴史〉があまりにも離れすぎてしまった時代においては、貴重なことばといえる。一般的には、文学部に属する分野なのであるが、現在では、〈歴史〉を勉強する人間は〈文学〉を分からなくてもいいかのごとくである。また、〈文学〉の方でも、そもそも〈歴史〉とは何かと問いかけるというようなことは、なくなっているように思える。

たとえば、次のような指摘。

「もし辻邦生が歴史学者であったなら、どのような研究を仕上げたことであろうか。仮定とはいえ、どうしても想像してみたくなる問いである。その場合でも確実なのは、氏が歴史学者という狭いギルド的枠に留まらずに、大きなスケールの仕事を仕上げていたということだろう。」(p.51)

として、『背教者ユリアヌス』『西行花伝』『安土往還記』『嵯峨野明月記』『天草の雅歌』、などの作品名があがっている。これらの作品、私も、高校生のころに読んだものである。『西行花伝』は晩年の大作、これを読んだのは、出版されたときだったろうか。久しぶりに辻邦生の作品を読むという感じで読んだのを覚えている。ただ、私は、和歌という文学には向いていないのか、いまひとつ、理解が及ばなかったという気がしている。『背教者ユリアヌス』、出たときに読んだ。まだ高校生のころは「背教者」ということばの意味もろくに知らずに読んでいたのだが、今、読み返すとどう感じるだろうか。

いろいろ知的刺激に満ちた本であるが、次のような箇所は重要だろうと思う。付箋をつけた箇所。

「「イスラーム原理主義」という隠喩こそ、異文化理解の妨げになる「古い理論的鼻めがね」なのかもしれない。」(p.287)

(EUへの難民問題にふれて)「もとより、こうした試練から日本だけがひとり自由でいられるはずもない。実際、日本の歴史と社会にひそむ「単一民族国家の神話」は、二一世紀に向けて大きく揺らいでいる。日本人にしても、多民族の共存と調和の時代に新たに貢献することが迫られるであろう。」(p.265)

「小ぶりの歴史書再読のすすめ」の章。

「今の若い世代に勧めるとすれば、岩波文庫やちくま学芸文庫の百ページから百五十ページあたりの小ぶりの文庫本が適当だと思う。」

としてあげてあるのが、

郭沫若『歴史小品』
『ランケ自伝』
ハーバート・ノーマン『クリオの顔』
新井白石『読史余論』

これからの若い人にとっての読書案内としてもすぐれていると同時に、もう私のような年齢になって、昔読んだ本など再読したくなっている人間にとっても、有益である。

ただ、今、ちょっと調べてみたところ、みな絶版のようである。しかし、古本で手にいれることはむずかしくない。だが、これらの本がいまでは普通に売っている本ではなくなっていること、そのことは、現代の歴史学のみならず、人文学の状況……その危機的状況……をしめすものであると思う。『ランケ自伝』など、学生のころは、普通に買って読んだ本だと覚えているのだが。

そして、まさに、次の箇所はなるほどそのとおりと同意するところである。

「静かに机に向かって書物を繙く以上の喜びがこの世にあろうか。」(p.109)

山内昌之『歴史家の羅針盤』2016-10-29

2016-10-29 當山日出夫

山内昌之.『歴史家の羅針盤』.みすず書房.2011
http://www.msz.co.jp/book/detail/07568.html

山内昌之の書評集。みすず書房刊行のものとしては、これが三冊目になるらしい。(前の二冊は、まだ見ていない。買っておかないといけないかなと思っている。)

この本のタイトル、「羅針盤」が象徴的である。

このところ、山内昌之の書いたものをよく読むようになってきているのだが、この人、現代社会において「羅針盤」となりうる人であると感じる。その書いていることに、すべて理解できているというわけではないのだが、安心して読める。

まず、歴史家(イスラームの専門家)としての着実な歴史研究を基盤があって、そのうえで、現代社会、近現代の日本、世界の歴史を見る視点は、秀逸である。

この本は、編年編集になっている。中をみると、たとえば、塩野七生の本がいくつかとりあげてある。これは、現代の歴史家として、きわめて良心的な態度だと思う。(おそらく、西欧史専門の歴史研究者は、無視するのが通例だろう。)。むろん、歴史書として評価してのことではないにしても、なぜ、今、塩野七生の本が読まれているのか、そのことは、十分に考えるべき問題であると思う。

書評というものは、その本を批判することにあるのではないと思っている。そうではなく、その本の魅力をどう伝えるかに眼目がある。そして、できることなら、その本のエッセンスを伝えて、読者の導きとなるべきものだろう。この意味において、山内昌之の書いた書評は、特に歴史関係において、貴重な仕事を残してくれていると思う次第である。