二〇二四に読みたい本のことなど2024-01-01

2024年1月1日 當山日出夫

毎年、一月一日はこの年に読みたい本のことなどである。

昨年、刊行になった本で気になっているのが、『励起-仁科芳雄と日本の現代物理学-』(伊藤憲二、みすず書房)。書評の評価が非常に高い。あまり書評を見て本を買うということはないのだが、これは気になっている。日本の近代について、改めて考えてみたいという気がしている。

司馬遼太郎の「街道をゆく」を昨年読み始めて、途中までになっている。これは、読み切ってしまいたい。今となっては、特に司馬遼太郎の歴史観に強く共感するということはないのだが、しかし、この文章が書かれた時代、それは、私の若いころのことになるが、その時代の日本の姿を各地を旅して書きとどめている。その時代を回顧する意味でも、読んでおきたい。

毎年のことだが、今年は『光る君へ』ということで、平安時代や王朝貴族、紫式部などについての本がかなり出ている。もう国文学の専門書は読まないでおこうと思っているのだが、一般向けに書かれた新書本などで、専門の研究者が書いたものが刊行になっている。これらについても、読んでおこうと思って目についたものは買ってある。

AIとか、脳とか、遺伝子とか、科学的な入門書については、なるべく読んでおきたい。今、これからの時代がどんな時代になるのか、やはり考えていきたい。

昨年末に発表になった、ミステリのベスト。気になる作品は買ったのだが、あれこれあって買ったままになっている。これも読んでおきたい本である。

無論、これからも読んでいきたいのは古典である。古典とともにある生活をおくりたいと思う。

2024年1月1日記

二〇二三に読んだ本のことなど2023-12-31

2023年12月31日 當山日出夫

毎年、大晦日は一年のふりかえりである。

去年(二〇二二)の終わりごろから、生成AIのことが話題になりはじめた。このとき、いろいろ考えるところがあったのだが、その一つとして、大学で国語学を教える仕事を辞めることにした。生成AIの作り出すことばは、はたしてことばなのだろうか。これは、言語観によって変わる。認知言語学の立場にたてば、これは言語ではないということになるだろう。しかし、それを受け取る人間にとって、ことばとして受けとめることがあるならば、それはまごうかたなく言語の機能を持っていることになる。このような状況にあって、言語とは何か根本的な見直しが必要になるにちがいない。ここから先、私などの旧態依然とした人間の出る幕ではないと感じた。大学で訓点資料について話しをするのに、生成AIは役にたつというものではない。しかし、言語の研究にたずさわってきた人間としては、人間にとって言語とはなんであるかという問いかけは常に意識の根底にある。それが大きくゆらごうとしている。このあたりがそろそろ潮時かと感じた。

そこで読んでおきたいと思ったのが、プラトンの著作などである。たぶん、生成AIを作るときには、プラトンなどは真っ先に入力し学習させる対象になっているかと思う。対話、ということを再確認するために自分で再度読んでおきたいと思った。古代ギリシャ哲学は、学生のときの一般教養の講義以来である。対話しながら、知識を確認していくということがどういうことなのか、読んでおきたいと思った。無論、現代日本語訳である。光文社古典新訳文庫とか、岩波文庫などで、代表的なものは読める。

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読み始めた。たまたまNHKで「奈良散歩」をあつかった番組を放送しているのを見て、興味がわいた。これまで、司馬遼太郎の著作は、小説はかなり読んできているのだが、「街道をゆく」は手にしたことがなかった。これは、私が若いころ、「週刊朝日」に連載されたものである。今となっては、一昔、二昔前のことになる。また、司馬遼太郎の歴史観については、決して全面的に賛同しているということでもない。いや、かなり批判的にとらえているかとも思う。しかし、「街道をゆく」を読むと、歴史観の問題よりも、紀行文としての文学的な面白さがあることに気づく。そして、日本の各地を旅しながら、そこで歴史に思いをはせるというスタイルに共感するところもある。全部読もうと思っていたのだが、今年のうちに読めたのは半分ぐらいであった。

我が家のテレビが壊れたので買い換えた。新しい機種であるので、当然4Kである。録画用のハードディスクも、4テラのをつけた。このせいもあるのだが、テレビをよく見るようになった。特に、ドキュメンタリー番組を見る。BSで放送の世界のドキュメンタリーなど見ると、日本のテレビ番組ではない視点があり、いろいろと考えることが多い。夜の放送が多いので、録画しておく。翌日以降の昼間に見ることが多い。

いろんなことがあったような、あるいは何事もなかったような一年であったが、ともあれ、この年も無事に終えることができたという安堵の思いである。

2023年12月31日記

『敗戦後論』加藤典洋/ちくま学芸文庫2023-06-10

2023年6月10日 當山日出夫

敗戦後論

加藤典洋.『敗戦後論』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2015
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096821/

再読になる。この本の始めの単行本の時に読んでいる。一九九七年に講談社。その後、二〇〇五年にちくま文庫。ちくま文庫の時は読んでいない。二〇数年ぶりの再読になる。

この本が出たとき、かなり話題になったのを憶えている。

だが、今になってこの本を改めて読みなおしみると、なぜあんなに大騒ぎしたのか、釈然としない。素直に読めば、「敗戦後論」は至極まっとうな議論である。そして、また、こうも言えようか。たぶん、世の中の、「戦後」をめぐる議論は、この本が昔出たときから、さほど進歩はしていない。いや、近年になってむしろ劣化していると言ってもいいだろう。これは、右よりの視点からも、左寄りの視点からも、同様にそう思う。

憲法をめぐる「ねじれ」の問題は、特にこの本が始めて言ったことではないだろうと思うが(まあ、このあたりを細かく戦後憲法論争史を調べようという気にはならないが)、しかし、この本が出た当時は、非常に刺激的な論点であったことは確かである。

ちょうど、東西冷戦が終わり、ベルリンの壁の崩壊があり、日本では昭和という年代が終わりをつげたときである。国内政治では、五五年体制が終わった。これは私の持論であるが……昭和の終わり、冷戦の終わりのとき、日本は、それまでの日本のあり方、戦前から戦後につらなる昭和という時代について、根本的に考えるということをしてこなかった。昭和の終わりのとき、膨大な情報が流れた。昭和を回顧する報道番組などでテレビはいっぱいだった。しかし、そのなかで、昭和天皇の責任論を追求することはなかった。これは、死者になったのだから、そうっとしておくべきだという配慮がどことなく働いたせいかもしれない。だが、昭和天皇の崩御のときにこそ、昭和天皇の昭和の歴史における責任というものを、深く考えておくべきだった。また、戦後の憲法と政治体制(五五年体制)のことも、徹底的に歴史的な考察が必要であった。それを怠ったつけが、この「敗戦後論」という論考をめぐる、右往左往に現れていると言ってもいいのではないだろうか。

代表的なのは、高橋哲哉との論争であるが、今になって読みかえしてみると、私には、加藤典洋の語ったことの方が、自然に思えてならない。どんなに国民国家、あるいは、国家というものに対して否定的にであるとしても、現実には、今ある国家のシステムを前提にしないと議論はすすまない。(ただ、これは、盲目的な現状肯定ということではない。現実にどのように批判的であるにしても、まず、現実からスタートすべきだということである。)

「敗戦後論」を読んで思うことの一つは、加藤典洋の議論のなかには、「戦後」という時代の記憶が生きている。その記憶の生々しさが、議論の根底にはある。これに反論するのに、ただ論理的に正しい立場につけばよいというものではない。

記憶の生々しさを感じるのは、太宰治について論じたところにもある。いや、逆に、太宰治の文学に何を感じ取るかというところに、加藤典洋の文学的感性の根本がある。この感性の部分を、まず読みとっておく必要があるだろう。

この本を読んでふと思ったが、丸山眞男が「虚妄」ということばを使ったとき、丸山眞男には、戦後の「ねじれ」が体験的、感覚的にあったと思う。それは、かろうじて、私ぐらいの読者には、共有されているものかもしれない。

加藤典洋の書いたものを続けて読んでおきたいと思う。

2023年4月28日記

『編集者の読書論』駒井稔/光文社新書2023-06-06

2023年6月6日 當山日出夫

編集者の読書路

駒井稔.『編集者の読書論-面白い本の見つけ方、教えます-』(光文社新書).光文社.2023
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334046637

面白い本である。現代におけるすぐれた読書論、読書案内になっている。

著者、駒井稔は、元、光文社古典新訳文庫の編集長。その経験、それから、それ以前からの編集者としての経験が土台になっている。

まず興味を引くのは、編集者という仕事についてである。私の感じるところでは、一般には、編集者というと、出版社の社員というような感覚で思われているかもしれない。だが、この本を読むと、書籍編集者、特に文芸書の編集者は、著者と対等に本を作っていく重要な役割であることが分かる。日本はともかく、欧米ではそうであると言っていいのだろう。編集者の仕事や出版ビジネスについて、欧米各国の事例、体験について語ってあるところは貴重である。

それから、その編集者の仕事の延長として、書店、出版社、図書館、といった本にまつわるもろもろについて語られる。これが面白い。出版はビジネスであるという観点が強調されているのだが、これは、私も深く同意するところでもある。ただ、そうはいっても、ビジネスとして儲かればいいというだけのことではない。小規模でも、いい本をきちんと作っているところには、目配りもある。

そして、何よりもブックガイドとして面白い。ある面では、ブックガイドのブックガイドという側面もある。本について述べた本を数多く紹介してある。

紹介してある本のなかには、読んだことのある本もあるし、名前を知らなかった本もある。この本をきっかけにして、いろいろと読んでみたい本がある。特に、『若草物語』とか『小公女』とか、名前とストーリーの概要は知っているつもりでも、きちんと読んだことのないものが多い。これら、これからの読書の範囲に加えてみたいと思う。

ところで、著者の経歴には、慶應義塾大学とあるのだが、あるいは、三田のキャンパスに通っていた時期が、私と重なっているのかもしれない。

別に悪いことだとは思わないが、『福翁自伝』が自伝の傑作として紹介してあるのはいいのだが、現代語訳である。決して『福翁自伝』は、難しいことばで書かれてはいない。(まあ、慶應で学ぶと、福澤諭吉の著作は、遠ざけてしまう感覚があるということは、私としても分かる気がするのだが。)ここは、現代語訳ではなく、現代の校訂本(原文)の『福翁自伝』を紹介しておいてほしかった。

2023年5月19日記

『牧野富太郎自叙伝』牧野富太郎/講談社学術文庫2023-06-03

2023年6月3日 當山日出夫

牧野富太郎自叙伝

牧野富太郎.『牧野富太郎自叙伝』(講談社学術文庫).講談社.2004
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151235

もとの本は、一九五六(昭和三一)年、長嶋書房。ただ、これ以上の書誌が書いていないのが残念である。読めば分かるが、それ以前に書いた文章を編集したものになる。読むと、内容的にかなり重複した事柄がある。初出の文章をそのまま掲載したものだろうか。

三部に分かれる。
第一部 牧野富太郎自叙伝
第二部 混混録
第三部 父の素顔 牧野鶴代

さて、この本は、先に『牧野富太郎の植物学』(田中伸幸、NHK新書)、『牧野富太郎の植物愛』(大庭秀章、朝日新書)を読んでから読むということにした。そのせいか、かなり批判的な目で読むということにはなった。

やまもも書斎記 2023年5月12日
『牧野富太郎の植物学』田中伸幸/NHK新書
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2023/05/12/9585310

やまもも書斎記 2023年5月13日
『牧野富太郎の植物愛』大庭秀章/朝日新書
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2023/05/13/9585612

牧野富太郎は、東京大学に職を得たとは言っても、基本的に在野の人であり、独学の人である。そのことが別に悪いことではないのだが、そのような経歴の人にあることだと思うが、かなりの自信家であり、場合によっては独善的でもある。特に、東京大学に職を得たときのこととか、それを離れることになったときのことなど、はたしてどこまで信用していいものなのか、判断に迷うところがある。このあたり、牧野富太郎についての史料としては、あつかいに非常に注意を要するところになるだろう。

とはいえ、全体として、非常に読みやすく、面白い。波瀾万丈の人生であり、なみはずれた植物への愛は、時として異常とも感じられるほどである。が、読んで、とにかく牧野富太郎は植物が好きで好きでたまらない人間であることが、よく伝わってくる。

これはこれとして、読み物として面白く、また、近代の大学の学問についての一つの歴史の証言になっていると感じるところがある。

2023年5月10日記

『生きづらさについて考える』内田樹/毎日文庫2023-04-22

2023年4月22日 當山日出夫

生きづらさについて考える

内田樹.『生きづらさについて考える』(毎日文庫).毎日新聞出版.2023(毎日新聞出版.2019)
https://mainichibooks.com/books/paperback/post-599.html

内田樹の本は、たいてい読むようにしている。特にその語ることに賛成するということではない。賛同できるのは、半分ぐらいかなというところである。ただ、その姿勢については、かなり共感するところがある。

それは、情理をつくして説くという姿勢にあると言ってよい。(まあ、内田樹の本のすべてがそうであるとは思わない。単なる居酒屋談義としか読めない本もあったりもするが。)

この本についても、賛成するところ半分、どうかなと思うところ半分、といったところである。どうかなと思うのは、賛成しないということではない。単なる居酒屋談義的評論の域を出ないと感じるものが、かなりあることは確かである。

さて、この本で私が共感して読んだところは、天皇……この場合は、今の上皇陛下になる……について論じたあたりである。現にある天皇個人(と言っていいだろうか)と、制度としての天皇制は、区別して考えなければならないことは無論である。だが、そのような留保をつけるとしても、今の日本の天皇制は、かなりうまく機能していると言っていいのかもしれない。そして、この天皇という存在をどう現実の政治、社会、国家の統治のなかで生かしていくか、これが実際的な課題となる。

この本における、天皇論については、私はかなり賛同するところがある。

また、近未来の日本社会のあり方についても、悲観的予想をふまえたうえで、今できることを将来のために積み重ねていくしかないだろうとは思う。

そして、日本の学術、教育の現状と未来については、そのとおりとしかいいようがない。だがだからといって、昔の大学は良かったと懐古する気にはあまりなれないのだが。(といって、今の大学の方がいいともいえない。まあ、昔の方がよかったという面も否定できないというあたりになるか。)

2023年2月8日記

『ネット右翼になった父』鈴木大介/講談社現代新書2023-04-15

2023年4月15日 當山日出夫

ネット右翼になった父

鈴木大介.『ネット右翼になった父』(講談社現代新書).講談社.2023
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000374265

面白かった。一気に読んだ。

さて、もし私が死んだ後にネット関係の履歴が残ったとして、残った人たちはどう思うだろうか、とふとそんなことを考えてしまった。今の私のTwitterのタイムラインでは、右翼的発言もあるが、左翼的な発言も同じようにある。私としてはバランスをとっているつもりではいるのだが、傍目に見れば、支離滅裂と言うことになるかもしれない。(そして、私としては、どちらもそんなに信用して見ているわけではない。)

ところで、この本は、家族の物語である。死んだ父親の残したものをどう考えるか、家族の関係を、様々な資料、証言を探しながら再構築していく筋書きになっている。まさに、これは現代の家族の物語であると感じるところがある。

私の読んで感じたこととしては、ネットの閲覧履歴、ブックマークなどから、どれほどその人間の考えていたことが分かるものだろうか、ということがある。それから、いわゆる「ネット右翼」なるものが果たしてどれほど実在するものなのか、考えるところがある。(これは、逆に左翼的な立場についても言えることだろうと思うが。)

亡くなった人間のネット利用履歴から、その人間の人となりを考えてみる、これは、まさに現代的な課題としてあることだと思う。

2023年4月3日記

二〇二三に読みたい本のことなど2023-01-01

2023年1月1日 當山日出夫

今年(二〇二三)に読もうと思っている本のことなど書いておく。

読む本を選ぶようになってきた。ただ乱読というのではなく、読んでおきたい本というのがある。

一つには、古典である。今ほど、古典というものの存在意義が問われている時代はなかったかもしれない。ただ古いから古典なのではない。読まれてきた歴史があり、それを読んでくることが、一つの言語文化の基底にになっている、そんな書物のことだと思っている。読み直しておきたい古典、まだ読んでいない本が多くある。何よりも古典を読みたい。

二つには、本を読むときの基本的な問題意識である。私の場合、次の二つの興味関心がある。まず、日本人は何を読んできたのか、読書文化史というような興味である。無論ここには、リテラシーの歴史という観点が重要であることは言うまでもない。そのような配慮をしつつも、いったいどのような言語文化の歴史があったのか、古代から近現代にいたるまで考えている。次には、今の生きているこの世界が、なぜこのような世界であるのか、という問いかけである。これは、宇宙論から、進化論、さらには、現今の国際政治、社会の問題にまでおよぶ。今の世界が、他のなにものではなく何故このようになっているのか、このような問題意識を持ち続けていきたいと思う。

以上の二つのようなことを考えているのだがが、具体的に何を読もうと思うか、思いつくままに書いてみる。

これまでそんなに多く読むことのなかったが、例えば、鶴見俊輔がある。今でもその著作の多くは読める。今の時代を考えるためにも、読みかえしてみたり、新しくまだ読んでいない著作を手にしようかと思っている。

他には、埴谷雄高がある。『死霊』は若い時に、その始めの方の巻を手にしたのだが、全部を読んでいない。これは読んでおきたい。

ドストエフスキーの『未成年』の新しい訳がでている。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などふくめて、再読してみたい。それからトルストイも『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』など、改めて読みなおしてみたい。

日本の古典文学では、『源氏物語』を読みなおしておきたい。岩波文庫版でまとめて読もうと思って、これがまだ果たせていない。『平家物語』も読みなおしてみたい作品の一つである。

『リヴァイアサン』の新しい訳がでている。これは読もうと思っている。

他にもいろいろあるが、時間のゆるす限りで、古典を軸に本を読んでいきたいと思っている。どれだけ読めるか分からないが、老後の読書である。何よりも楽しみとして本を読んでいきたいと思っている。

2023年1月1日記

二〇二二年に読んだ本のことなど2022-12-31

2022年12月31日 當山日出夫

大晦日には、その年に読んだ本のことなどふり返ることにしている。

今年、読もうと思って読んでみたのが、川端康成、谷崎潤一郎である。川端康成は新潮文庫で今も出ている範囲のものは、読むことができたかと思う。多くの作品は、若いときに読んだことがある。再び読みかえしてみて、なるほど日本文学の中で傑作であると納得のいった作品もある。その一方で、今一つ作品世界にひかれないものもあった。川場康成が小説を書いていた時代と、今の時代と時の流れを感じる。

谷崎潤一郎については、基本は、新潮文庫で読んだことになる。それから、中公文庫で、新しい「全集」をもとにして、新しく作った本がいくつか出たので、それも読んだ。谷崎潤一郎も、若い時にいくつかの作品を読んだのだが、時を経て、自分も歳を取ってきて、しみじみとこれは紛れもない文豪の作品だなと感じるところがいくつかあった。『細雪』を読んだのは何度目かになる。これは、何度読んでも面白い。読むたびに、新たな発見がある。また、『細雪』に見られる上方文化への傾倒が、なみなみならないものであることも、他の作品で理解が深まったところもある。

三島由紀夫を読もうと思って、これは頓挫してしまった。若い時にいくつかの作品を読んでいる。今でも、そのほとんどの小説は文庫本で読むことができる。まとめて集中的に読もうと思いながら、『金閣寺』『潮騒』など読んだのだが、止まってしまった。非常に技巧的で、確かに巧みな小説であることは理解できる。とはいえ、時の経過ということも感じる。三島由紀夫の時代と、今の時代との隔たりを感じることがあった。

ここしばらく、秋には、授業の傍らに、何かまとめて読む本を設定して集中的に読むことにしていたのだが、今年は果たせなかった。

その他、この年に読んだ本で印象に残っているのは、高峰秀子がある。『わたしの渡世日記』を読んだ。名前は知っていて、名文家として知られることも知っていたのだが、なんとなく手を出さずにきた作品である。名エッセイであると同時に、すぐれた映画論であり、時代の記録になっている。

本を読む生活をおくりたいと思って生きているのだが、なかなか大部なまとまった本をじっくりと読むことができないでいる。『源氏物語』の岩波文庫版が揃ったので、これを読もうと思っていたのだが、果たせなかった。これは来年まわしである。

2022年12月31日記

二〇二二年に読みたい本のことなど2022-01-01

2022年1月1日 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二二)に読みたい本のことなど書いてみる。

昨年末から、谷崎潤一郎を読んでいる。『少将滋幹の母』『盲目物語』など、中公文庫で刊行になっている。これは、中央公論新社版の「全集」をもとに、新しく文庫につくったものである。これなど読んでいると、谷崎潤一郎の作品を読んでみたくなっている。谷崎潤一郎は、若いころに一通りは読んだ作家である。その後、あまりしたしむことなく時が過ぎてしまって、今にいたっている。「全集」を買って読もうという気は起こらないのであるが、文庫本で出ている範囲ぐらいで、読みなおしてみたい。

まとめて読みなおしておきたい作家としては、川端康成や三島由紀夫などがある。これも「全集」ということではなく、今手にはいる文庫本の範囲ぐらいで、読み直しておきたい。昨年、読もうと思っていたのだが、読むことなく終わってしまった。

読んでおきたい作家としては、森鷗外がある。今、普通に手に入る文庫本の範囲は読んでいる。が、これをこえてさらに読んでおきたい。岩波版の「全集」は若いときに買って持っているのだが、しまったままである。

夏目漱石も、新しい岩波版の「全集」は持っているのだが、これも古い一七巻本の旧版の「全集」で読みなおしておきたいと思う。本文校訂の方針がちがっている。昔、高校生のころに読んだ本である。昔を思い出しながら読んでみたいと思う。

それから、持ってはいるのだがあまり手を出さずにいるのが、岩波の「日本思想大系」。全巻そろいである。これもぼちぼちと読んでいきたい。

次年度から、家を出るのが減る。教える仕事が少なくなる。無理に、もう増やそうとも思わない。時間をつくって、本を読みたいと思う。「思想大系」や「古典大系」(新・旧)、「古典集成」など、持ってはいるが読んでいない本が多い。これから、文学……思想や歴史などをふくめて……を、読むことに時間をつかいたいと思う。

考えなければならないこととしては、やはり「古典」ということがある。なぜ「古典」を読むのか。「古典」とは何か。浅薄な古典不要論が横行しがちな世の中にあって、自分自身で「古典」を読むことの意味を考えていきたい。

「古典」を読むことと、身近な草花の写真を撮ること、これをこの年も続けることができたらと思っている。

2022年1月1日記