『本で床は抜けるのか』西牟田靖2018-04-21

2018-04-21 當山日出夫(とうやまひでお)

本で床は抜けるのか

西牟田靖.『本で床は抜けるのか』(中公文庫).中央公論新社.2018 (本の雑誌社.2015)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/03/206560.html

先に結論を書けば……本で床は抜けるのである。その経験が私にはある。人ごとではないのである。

学生のとき(慶應の文学部)のことである。目黒に下宿していた。四畳半の部屋だった。お医者さんの家の二階であった。そこに、スチールの本棚を、三つか四つぐらい立てていただろうか。その当時の学生としては、本は持っていた方だと思う。

その頃、国文科の学生として、勉強のために、折口信夫全集も、定本柳田国男集も、そろえて持っていた。

ある日、隣の部屋(これも四畳半の部屋)との仕切りの壁のところの床が、ちょっと沈んでいるかなという感じがしたのを覚えている。その後、特にどうということなくすぎていた。引っ越しすることになった。同じ屋根の下で、もうちょっと広い部屋にである。

本棚を片づけてみると……確かに床が沈んでいるようだった。大家さん(病院であるから、お医者さんの一家である)に報告して見てもらった。大工さんに調べてもらったら……床が抜けていた。

といっても、半分は、木材の腐食か虫食いのようなもので、その箇所が弱くなっていたのではあるが、しかし、本棚の重みには耐えられなかったようだ。ちょうど、病院の診察室の真上に位置する。

このときは、大家さんの好意で、特にとがめられることもなく、全額大家さん負担で修理してもらうことになった。(その後、大学院の学生のとき、そのお医者さんが亡くなってから後、建物も取り壊されてしまうことになった。)

このとき、しみじみと感じたものである。本の重みで、家の床を破損することがあるのである、と。

それ以来、引っ越しするときに考えることは、その建物が本の重みに耐えるかどうかであった。その後、とにかく鉄筋の建物に住むことにした。木造の建物では、不安があったからである。

幸い、その後、本で床を抜いたという経験はしていない。

今の住まい……二十年ほど前に建てた木造の建物であるが、これを考えるとき、とにかく床を頑丈にということを考えた。通常の建築よりも、数倍は、床を頑丈に造ったはずである。家の中、どの部屋や廊下に本棚をおいても、大丈夫なようにと思った。少なくとも、一階は、どこにどれだけ本をおいても大丈夫なはずである。

二階もかなり頑丈にしてもらった。これは、本よりもピアノ(アップライトである、これは子どものため)を置くためである。ピアノも重い。二百キロを超えるとのことであった。

今、本は、自分の部屋の他に、外の書庫……という立派なものではない、ただの倉庫、しかし、特徴としては、窓はなくて、ひたすら床を頑丈に造った建物……においてある。自分の部屋からだと、いったん外に出て歩かなければならないので、億劫である。そのためもあって、自分の部屋の机のまわりの床は本だらけである。

これも、数ヶ月に一度は、整理して、まとめて外の倉庫の方に移動させることにしている。そうでないと、身の周り、文字通り足の踏み場もない状態になってしまう。

そして、この本『本で床は抜けるのか』であるが……最初に出た単行本を買って、また、文庫版が出たら買ってしまった。このようなことをしていると、本で床を抜くことになるのであろう。

それにしてもである、『日本国語大辞典』(第二版)は、私の机に座って手のとどくところにならべてある。しかし、今では、これを使うことはめったにない。ほとんど、デジタル版のジャパンナレッジで済ませてしまう。にもかかわらず、紙の本としての辞書は、手元においておきたい。

以前、旧版の『日本国語大辞典』を使っていたころは(これは、手元にはおいていない、外の倉庫の方に移動させた)、鉛筆(青)で、用例に印をつけたりしながら、辞書を「読んで」いたものである。デジタル版になって、辞書を「読む」ということがなくなってしまっている。これも、時代の流れなのかなと思ったりもする。だが、紙の『日本国語大辞典』が手のとどくところにないと不安である。

デジタルの時代になっても、紙の本というものがある限り、床の心配はなくならない。

これから読みたい本のことなど2018-01-01

2018-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

謹賀新年。

今年(2018)に読みたい本のことなど、いささか。

中公文庫で、『城下の人』シリーズの新装版がでている。これは、旧版で出版されているのは知っていたが、なんとなく読みそびれたままになっていた本。このシリーズを、きちんと読んでおきたい。

石光真清(著).石光真人(編).『城下の人』(中公文庫).2017
http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/11/206481.html

それから、同じ中公文庫で、辻邦生の『背教者ユリアヌス』が刊行である。これは、最初、単行本が出たときに買って読んだ。たしか、高校生のころだったろうか。辻邦生をよく読んだ。去年は『西行花伝』を再読したりもした。この新版の『背教者ユリアヌス』は、読んでおきたい作品である。

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(中公文庫).中央公論新社.2017
http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/12/206498.html

一昨年から刊行の「定本漱石全集」(岩波書店)、これも順番に買っている。読むのは、多少前後することがあるのだが、とにかく、これまで刊行された主な小説類は読んだ。このシリーズも、今年もひきつづいて買って順次読んでいくことにしようとおもっている。

今年は、明治150年である。NHKの大河ドラマでは、西郷隆盛をやる。たぶん、西郷隆盛関係、さらには、幕末・明治維新関係の本がいろいろでるだろう。これも、気のついた本は読んでいくつもりである。自分が生きている時代……「近代」という時代……が、どのようなものであるのか、自分なりに考えてみたい。

去年の終わりごろから、詩の本など読むようになった。そのことについては、昨日書いた。

やまもも書斎記 2017年12月31日
今年読んだ本のことなど
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/31/8758573

広義の「文学」……小説などに限らず、歴史や、宗教、思想、哲学といった人文系の書物をこういっておくが……を、味わうとき、根底にあるのは、それをよむときに〈詩〉を感じるかどうかだと思うようになってきた。自分で、詩作とか、俳句、短歌などこころみようとはまったく思わないのだが、それでも、読んでそれに何かしら感じる心をもっておきたいと思う。

冬休みの自分の「宿題」にして読もうとおもっているのが、ドストエフスキー。還暦をすぎて二年たっている。もう若くはない。だが、若い時に読んだのとはまた違った印象で、ドストエフスキーの作品に接することはできる。世界文学の名作、特に近代小説の作品を、これからできるだけ読んでいこうと思う。

これからどれだけ読めるかわからないが、近代の小説……たとえば、去年読んだ作家では、ゾラ、モーパッサン、チェーホフなど、まさに「近代」を描いた作家たち……を読んでいると、まさに自分が「近代」という時代の中にいきてきたことを、つくづくと感じる。私が生きてきた時代、「近代」という時代について、考えていきたいと思う次第である。

今年読んだ本のことなど2017-12-31

2017-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(2017)に読んだ本で印象に残っていることなど、いささか。

一番、強く印象にのこっているのは、

中村真一郎.『頼山陽とその時代』(上・下)(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2017(中央公論社.1971)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097781/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097798/

である。再読になる。ちくま学芸文庫で出たので読んだ。この本について、読後感など書こうと思いながら、そのままになってしまっている。面白い本であった。

私の関心をひいたのは、頼山陽その人よりも、周辺の詩人たち。この本に引用されている多様な詩人たちの詩(漢詩)を、読んで強く共感するところがあった。〈詩〉というものを感じながら、その引用作品を味わった。

近世の漢詩に、近代の詩歌に通じる、いや、それに先んじた近代的詩情を感じる……これは、中村真一郎も指摘してることである……ことに、新鮮なおどろきがあった。そして、老年にさしかかっても、まだ、そのような〈詩〉を感じうる自分自身に気付いたことでもあった。

さらに、〈詩〉といえば、

鹿島茂(編).『あの頃、あの詩を』(文春新書).文藝春秋.2007
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166606085

これについては、

やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826

これを読んで、「詩」を読んでみたくなった。昔、国語の教科書に載っていたような近現代詩や短歌などである。今でも売っている、岩波文庫、新潮文庫などの詩集を買ったり、古本で「日本の詩歌」(中央公論社)を買ったりしてみた。

そのうちいくつかについては、ブログに書いたりもした。たとえば、

やまもも書斎記 2017年12月22日
『高村光太郎』「日本の詩歌」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/22/8752805

今年(2017)、広義の「文学」……狭義の文学作品、小説などにとどまらず、歴史、哲学といった広い分野……を読んで、時間をつかおうとおもった。そのなかで、感じたことは、「文学」の根底にあるものは〈詩〉である、ということである。〈詩〉を感じないでは、「文学」を読んだことにはならない。

だからといって、詩歌、短歌、俳句、漢詩を読むということでもない。それらを〈詩〉として鑑賞しうる心のもちかた、自分自身の感性の問題としてである。

来年は、〈詩〉という「文学」の原点にたちかえって、読書ということに時間をつかっていきたいと思っている。

『夏目漱石と西田幾多郎』小林敏明2017-07-07

2017-07-07 當山日出夫(とうやまひでお)

小林敏明.『夏目漱石と西田幾多郎-共鳴する明治の精神-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b287528.html

この本は、比較的おもしろく読んだ。

私が西田幾多郎を読んだのは、いつのころになるだろうか。たしか、高校生のころ『善の研究』を岩波文庫版で読んでみた経験はある。当然のことながら、さっぱりわからなかった。しかし、それでも、哲学というものへの畏敬の念はいまだにもっている。

漱石の方は、中学・高校の時から読んできている。その当時出た、岩波版の「全集」を買って読んだ。そのうちでも、『猫』は、もっとも多く読み返しただろうか。その後、数年おきぐらいには、その主な作品、特に『三四郎』以降の長編小説は、まとめて読み直すようにしてきている。

ところで、この『夏目漱石と西田幾多郎』である。ほぼ同じ時代に生まれた二人について、その評伝的記述を交錯させながら、そこに接点を見いだしていこうというようなこころみ、とでもみればいいだろうか。サブタイトル「共鳴する明治の精神」が、この本の内容をよく表している。

といって、二人の人生がそんなに深く交わっているということはない。しかし、同じ時代に生きた人間として、また、家庭環境に共通するようなところもあり、二人には共通するところもあるという。その弟子たちのとの関係をめぐっては、

「フロイトによれば、子供(息子)は父親という畏敬すべき「権威」を自分の中に取り入れることによって、無意識裡に自分を統御する「超自我」を形成するという。それが精神分析の考えるモラルの起源である。その意味で漱石や西田の弟子たちが自分たちの理想とした師が「父性」を帯びるのは不思議ではない。それは師の側にいえることで、彼らもまた知ってか知らずか「権威」としての「父」を演じるようになるのである。」(p.151)

このようなあたりが、二人の生き方において共通する要素とでもなろうか。

また、このような指摘もある。

「漱石と西田が追求した孤独な思索、一言でいってしまえば、それは内省である。ひとり自分の内面世界にとどまって、ひたすら自分の想念をめぐらす作業である。」(p.214)

このような観点にたって、漱石の、特に『それから』以降の心理小説を、内省の文学ととらえてある。さらに、

(藤村操にふれた後)「これは当時の明治の青年たちの間に広がっていたロマン主義の風潮のなせる業で、漱石も西田もこれと同じ空気を多分に呼吸していたということである。こういう目で漱石の内省的な作品を眺めてみると、いずれも男女間の愛がテーマになっていることに気づくだろう。」

この本は、漱石論としても、西田幾多郎論としても、たぶん、両方の観点から読んで、それなりに面白い着眼点があるにちがいない。私は、どちらかといえば、「文学」の側の人間になるので、漱石の作品論、評伝のようなものとして、読むことになったが。

次のような指摘は興味深かった。

(漱石の心理小説について)「正宗白鳥の辛辣な批判を受けたのだったが、それから一世紀を過ぎた今日、漱石の作品だけが残って、白鳥の批判がまったく忘れ去られたのはなぜか。これは白鳥の批評がまちがっていたということではない。そうではなく、時代が漱石の方に流れたということである。当時は白鳥の方にリアリティがあったであろう。しかし、今は圧倒的に漱石の方にリアリティが移っているということだ。」(pp.203-204)

「われわれ今日の読者が、たとえば『こころ』を読んでも、言語的にはほとんど違和感がない。しかし、そのことをもって、漱石も現代語を書くことができたと考えるのは倒錯である。なぜなら、漱石たちこそが、そのような「新しい日本語」を創り出した当人なのだから。」(p.226)

『こころ』は、今の日本の中学生、高校生でも読める。それは、その延長線上に、現代の日本語、日本文学があるということでもある。この意味では、今後も、漱石の作品は、読み継がれていくことになるであろう。

『「兵士」になれなかった三島由紀夫』杉山隆男2017-03-05

2017-03-05 當山日出夫

杉山隆男.『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館文庫).小学館.2010 (小学館.2007)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09408473

どうやら、著者(杉山隆男)は、この本で、「兵士シリーズ」を終わりにしたかったらしい。小学館のこの本のHPには、

三島自決の真実に迫る兵士シリーズ最終巻

とある。だが、実際は、その後、続編を書くことになる。

杉山隆男.『兵士は起つ-自衛隊史上最大の作戦-』(新潮文庫).新潮社.2015 (新潮社.2013)
http://www.shinchosha.co.jp/book/119015/

があるし、このブログでもすでに取り上げた、

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

がある。

この『「兵士」になれなかった三島由紀夫』である。この本は、二つの視点から読むことができるだろう。

第一には、三島由紀夫論の観点からである。三島由紀夫にとって、自衛隊とはどのような存在であったのか。訓練への体験入隊の意味したものとは。そこで、三島は、どのような訓練をうけ、どのようにふるまっていたのか。

これをふまえて、最終的には、三島にとって自衛隊のもつ意味。盾の会とはなんであったのか。さらには、その最後の行動……自決にいたる過程。これらを考えて見るというものである。

第二には、逆に、自衛隊にとって、三島由紀夫とはどのような存在であったのか。特に、その体験入隊で訓練にあたった、現場の自衛隊員「兵士」は、どのように、三島のことを記憶しているのか。三島とは、どのような存在であったのか。

この本は、この二つの視点が、ないまざって、主に、三島の自衛隊体験を軸に語られる。タイトルがしめしているように、三島は、ついに、「兵士」にはなれなかった人間である。だが、三島は、「兵士」であろうとした。

その「兵士」になろうとして「兵士」になれなかった姿は、実際の訓練の描写として、本書に詳しい。

そして、最後に、自衛隊とは、日本にとって何であるのか、という問いかけで終わる。三島の語ったように、自衛隊は米軍の傭兵でしかないのか。だが、三島事件の後、数十年を経、今や、日米同盟ということが公然と言われる時代を迎えている。

この本を理解するためには、たぶん、これに先立つ「兵士シリーズ」のいくつかを読んでおく必要があると思う。また、同時に、ある程度は、三島由紀夫について知り、その作品を読んでおくことも必要かもしれない。

もちろん、この本、単独で読んで、十分に有益な本だとは思うのだが、上記のような準備のもとに、接した方がいいと、私は思う。

個人的な思い出をしるせば、三島由紀夫事件のことは、記憶にある。学校(中学校の時だった)、その事件のおこった日、教師(担任)が、熱っぽく、その事件があったことを教室で語っていたことを憶えている。

文学者としての三島由紀夫の作品を読むようになったのは、高校生になってからだったろうか。『金閣寺』『午後の曳航』などは読んだ記憶がある。『豊穣の海』四部作を読んだのは、大学生になってからのことであった。

一方、杉山隆男の著作については、何よりも、『メディアの興亡』である。この本を読んで、名前を覚えた。その後、「兵士シリーズ」が刊行になって、いくつかを手にとったものである。

なお、『メディアの興亡』は、いまだにその価値を失っていない。最近出た本では、

武田徹.『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか-ネット時代のメディア戦争-』(新潮新書).新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/610700/

このひとつの章が、かつての杉山隆男の仕事『メディアの興亡』をふまえたものになっている。

ともあれ、この本は、「兵士シリーズ」の一冊として読んでもいいし、また、三島由紀夫の文学を理解するためにも、価値のある仕事である。

『空母いぶき』かわぐちかいじ2017-03-03

2017-03-03 當山日出夫

かわぐちかいじ、惠谷治(協力).『空母いぶき』.小学館.2015~
http://www.big-3.jp/bigcomic/rensai/ibuki/index.html

私は、基本的に漫画は読まないことにしているのだが、希に手にすることがある。その一つは、最近、話題になったものでは、『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

そして、もう一つ、刊行と同時に、第1巻から読んでいるのが、かわぐちかいじの『空母いぶき』である。現在、第6巻までが刊行。なお、雑誌では読んでいない。そこまでは手が回らない。コミックスで出たのを買っている。

一般的にいうならば、軍事エンタテインメントというジャンルになるのだろう。だが、この作品は、その枠をこえた、リアリティ、あるいは、問題提起がある。

近未来、中国が、沖縄に軍事的に侵略、占領するとことから物語ははじまる。中国側の条件は、尖閣諸島を中国領土と認めること。だが、それに対して日本政府はイエスとはいえない。そこで、空母いぶきを中心として、日本側からの対中国軍事作戦が発動することになる。

まあ、いってみれば、「もし、東シナ海で日中たたかわば」という設定の、軍事物語である。

とはいえ、私がこの作品にある種のリアリティを感じるのは、次の二点。

第一に、さすが、かわぐちかいじの作品だけあって、軍事的にリアルに描いてある。この点については、多くの専門的知識のある人が同意することだろう。

第二に、さりげなくであるが、国際状況の設定として、アメリカが介入しないということを前提としていること。つまり、中国側の判断として、尖閣諸島に軍事的に侵攻しても、米軍はかかわってこない、という読みがあっての軍事行動ということになる。この漫画の描写では、沖縄、尖閣諸島の防衛は、日本の個別的自衛権のもとに行っていることになっている。

この予測に、どれだけの裏付けがあるのかは不明である。しかし、そういうことももあり得るであろうとは予想できる。

かつての湾岸戦争のとき、イラクは、クェートに侵攻しても、アメリカが介入してくることはないという判断のもとに、作戦をおこなった。その読みが、あやまっていたことは、その後の歴史の推移が証明するところではある。しかし、イラクが、その時点で、アメリカ不介入と判断したことは確かなことだろう。また、この時の、アメリカ、多国籍軍の軍事作戦が、その後の世界情勢に与えた大きさははかりしれない。

現在、アメリカの政権が、トランプにかわって、日米同盟の確認ということがあったようだ。そのなかで、アメリカは、尖閣諸島は、日米安保の対象地域であることを明言した。

これも、裏をかえしてみれば、アメリカ・ファーストのトランプ政権の政策の方向いかんによっては、日米同盟もどうなるかわからない、ということがあってのこととも考えられる。むろん、日米安保、日米同盟も、永久につづくというものではない。その時々の、国際情勢のなかで存在にするにすぎない。

以前、このように書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

「中国はあまりものごとを考えていないように見えて、実は、非常に長い射程で歴史を捉え戦略的思考をする国なのです。鄧小平は尖閣諸島の問題について「今の世代で解決するのは難しいだろうから、後世にいい知恵が出るまで待とう」と言って、日本側に譲ったとされています。しかし、それは違う。中国は尖閣に関する権利を留保しつつ時間を稼ぎ、将来自分たちに有利な状況になった時に日本を交渉のテーブルに着かせることを狙っていると解釈すべきです。」(pp.23-24)

絶対に、中国は、尖閣諸島に軍事的に手を出してこないといえるだろうか。もし、国際情勢によっては、アメリカは、日本と中国が紛争を起こしても手を出してはこないだろう、と判断されたとき、どうなるかわからないと、私は考える。といって、かわぐちかいじが書いているような軍事行動をとるということではないが。

もちろん、このようなことは、中国共産党政権の内情、それから、アメリカの東アジア政策、それから、台湾、韓国などの、周辺諸国、東南アジア諸国の動向など、総合的に関連して、おこるべくして、ことはおこるとすべきことではある。

ただの空想ではなく、リアルな国際政治の展望のあり方として、考えてみるに値することの一つであるとは思っている。現実に今、沖縄は、日本の国防の最前線なのである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

『空母いぶき』は軍事エンタテイメントとして読めばいい作品なのであるが、そのはらんでいるものは、リアルである。そして、重要なことは、軍事的行動を視野にいれてこそ、現実的な平和主義も構築しうるということである。

今年読みたい本のことなど2017-01-01

2017-01-01 當山日出夫

謹賀新年

このブログを、去年の五月に再開した。本を読んで、そして、それを文章にする生活をおくりたいと思うようになったからである。

もう、私は年齢としては、還暦をすぎた。そして、今では、それから一年以上すぎている。決して若くはない。しかし、だからといって、まだ年をとって衰えたというのは、早いかと思う。たしかに、目は老眼になってきて、小さい文字の本を読むのがつらくなってきている。眼鏡をはずさないと読書できない。だが、まだ、本は読めるし、こうして、パソコンに向かって文章をつづることもできる。

「読んでいない本」がたくさんある。これからは、これまで名前は知っていても「読んでいない本」のいくつかでも、読んでおきたいと思う。古今東西の古典、名著、名作。

ひろい意味での「文学」……文学・歴史・哲学といった本を読んでおきたい。人文学の基礎的書物である。

かつて、このブログを始めたとき、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズということを考えていた。これを推進する立場に今も私はかわりはない。デジタルの世界が、どんどんこれからの人文学の世界を変えていくだろう。そのことは、自分なりに十分承知しているつもりでいる。

いや、だからこそというべきか、人文学の人文学たるゆえん……本を読むこと、文章を書くこと、それから、人と語ること……これらのことに時間をつかっていきたいと思うようになってきている。このことをわすれて、人文情報学というものはないだろうと思う。

今年(2017)、読んでおきたいと思っている本(シリーズ)としては、まず、『定本漱石全集』がある。夏目漱石の作品は、若い頃、高校生のころからしたしんできた。数年おきに、その代表的な小説作品は読み返すようにしている。2016年は、漱石没後100年。2017年は、漱石生誕150年になる。岩波書店がまたあらたに『定本漱石全集』を刊行する。前の版ももっているのだが、この新しい漱石全集で、漱石の作品を、もう一度、自分なりに確認しながら読んでみたい。
https://www.iwanami.co.jp/news/?action=detail&news_no=17359

それから、去年(2016)に完結した『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版会)。私が大学生になったとき、井筒俊彦は、すでに慶應を去った後だった。だが、鈴木孝夫、池田弥三郎などの諸先生を通じて、その面影を感じたものである。直接、その謦咳に接したのは、岩波ホールでの講演会の時であった。このようなすぐれた知性がこの世に存在するのか、と感銘をうけた覚えがある。『井筒俊彦全集』はそろえて買ってある。また、その生前に出た単行本もほとんど持っている。これらの本を、今の自分でどれだけ理解できるかどうかわからないが、読んでみたい。
http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html

みすず書房が、『中井久夫集』(全11巻)を刊行する。これも、読んでみたい。
http://www.msz.co.jp/topics/08571-08581/

その他、『歴史学の名著30』(山内昌之)『政治学の名著30』(佐々木毅)(ちくま新書)などのブックガイドを参照しながら、そのいくつかでも、読んでおきたい。これら、ひろい意味での「文学」に属する本……古典的名著……を読みたい。私の学生のころに出た、中央公論の「世界の名著」、これは、古本で非常に安く買えるようになっている。あるいは、なかには、新しい新訳が文庫本などで刊行されているものもある。

ともあれ、読書ということで生活をおくりたい、これが新年にあたっての抱負である。

なお、蛇足でつけくわえれば、私は、若いときからミステリ好きである。いや、ここは古風に探偵小説といいたい。良質なミステリ、探偵小説、を読んでいきたいとも思っている。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

定本漱石全集『吾輩は猫である』2016-12-14

2016-12-14 當山日出夫

夏目漱石.『定本漱石全集:吾輩は猫である』.岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/book/b266526.html

この本、発売は12月10日以降であったと思うが、奥付を見ると、12月9日と記してある。9日は、漱石の命日である。

いろいろ考えたすえであるが、この新しい全集を買うことにした。

私はすでに、漱石全集は二セット持っている。
1974年版の17巻(別巻1)
1993年版の28巻(別巻1)
である。

特に、後者(1993年版)と、今回の版と大きく内容が変わるわけではないようだ。確かに、一部では、新出資料があったり、部分的に作品の本文校訂が変わるとことはあるらしい。しかし、これまで漱石は、古い校訂で、あるいは、一般には文庫本などで読まれてきたのであり、普通に読むのには、それで十分だともいえる。

では、なぜ、今回の全集を買ってみようという気になったのか。それは、自分へのモチベーションのためである。

私は、漱石の作品は、数年おきぐらいには、主な小説類(『猫』から『明暗』までぐらい)を、読み直すことにしている。いままで、何回、読んだことだろうか。

しかし、その書簡とか漢詩、俳句などは、あまり読まずにきているということもある。これらも、一度は、読んでみたいものである。古い全集を取り出してきて読んでもいいのだが、せっかくなら新しい全集の新しい活字で読んでみたい、このような気もする。

これから、月に一冊の漱石全集の配本を追っていくぐらいの時間の余裕はとれそうである。これを機会に、漱石全集を、読んでみたいという気持ちになっている。

とはいえ、私は、漱石を研究しようという気はまったくもっていない。近代文学研究のような分野からは、まったくの門外漢であると同時に、いまさら、何を言おうという気もない。ただ、ひとりの読者として、若いころ(高校生のころ)から漱石を読んできて、また、読みたくなっているというだけのことである。

しかし、今は12月。毎年恒例の、年末の、今年のミステリーが発表される時期である。読んでおきたい本が、たくさんある。まあ、なんとか頑張って読むことにしよう。

こうの史代『この世界の片隅に』2016-12-11

2016-12-11 當山日出夫

こうの史代.『この世界の片隅に』(上・中・下).双葉社.2008
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94146-3.html?c=20108&o=date&type=t&word=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB

いま、話題の映画の原作である。
http://konosekai.jp/

私は、基本的にはコミックは読まないことにしている。(このジャンルまで手を出すと、「読んでいない本」がさらに増える)。だが、これだけは、読んでおきたい気になって買ってみた。(これ以外では、他に『空母いぶき』があるのだが。)

読んでみての感想は基本的に次の二点。

第一に、こうの史代の漫画ならではの表現であるということ。調べてみると、この作品のノベライズ版もあるようだが、しかし、これは、漫画でないと表現できない作品であると感じる。

ただ、それは、漫画についてのリテラシの無い私としては、表現することばを持たない。これは、残念である。

こうの史代については、平凡社のHPで、『ぼおるぺん古事記』を読んで、その表現力の確かさを知っていた。
http://webheibon.jp/kojiki/

たぶん、この作品全体からただよってくる淡い叙情性のようなもの……それは、一方で悲惨な戦時下の生活でもあるのだが……これは、文章化してしまうことはできないだろうと感じる。その絵の雰囲気から感じる何かなのである。

第二に、太平洋戦争の戦時下の日常生活を描いた作品であること。たしかに、文学作品、あるいは、ノンフィクションとして、戦時下の生活を描いた作品はある。だが、この作品ほど、「平凡な日常のいとおしさ」とでもいうべきものを、表現した作品を、私は知らない。逆に、その悲惨さを強調したものなら、いくらでも見つけることができるだろうが。

たとえば、
やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

戦時下の、いわゆる「非常時」であっても、それでも、人びとは、普通の生活をしている。寝て、起きて、食べて、家事をして、そして、家族があり、また、近所の人たちとのつきあいがある……このような「日常」は、続くものである。それは、戦争が始まっても、また、終わっても、変わることなく続いていく。

作中、玉音放送の場面がある。8月15日である。そして、その前に、広島への原爆の投下も描かれる。生活に多少の変化は確かにある。だが、そのような中にあっても、毎日おなじようにすぎていく日常生活が根本から変わるわけではない。

日常生活のいとおしさを描いているからといって、この作品は、特に、時局に抗した反戦平和を訴えるという性格のものではない。いや、むしろ、そのような政治的主張からは、もっとも遠いところに視点を定めている。

たぶん、日常のいとおしさを奪うものは、たとえ、それが「革命」であったとしても、同じように、何かしら嫌悪すべきものとして描かれることにちがいない。いや、どうしようもない大きな歴史の何か、とでもいうべきかもしれない。

以上、二点が、この作品を読んでみての、ざっとした感想である。

なお、蛇足で書いておくと……この作品中に、りんという女性が登場する。妓楼につとめている。この女性は、小学校にまともに通えなかったので、字がきちんと読めない。リテラシがないという人物設定。

私は、これまで、日本語史の講義において、日本人のリテラシについては、時折言及することがあった。そのとき、これなら学生でも知っているだろうと思って、例に出していたのは『おしん』(NHK)であった。ヒロインおしんの母親は文字が読めない。また、おしんが勤めていたカフェの女給たちも字が書けなかった。

さて、『この世界の片隅に』なら、今の学生でも読んでいてくれるだろうか。つい近年まで、まともに学校教育を受けられなくて文字が読めないという人は、決して珍しい存在ではなかった、このことの事例として、りんという女性の話をしてみるのもいいか、という気がしている。