『「兵士」になれなかった三島由紀夫』杉山隆男2017-03-05

2017-03-05 當山日出夫

杉山隆男.『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館文庫).小学館.2010 (小学館.2007)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09408473

どうやら、著者(杉山隆男)は、この本で、「兵士シリーズ」を終わりにしたかったらしい。小学館のこの本のHPには、

三島自決の真実に迫る兵士シリーズ最終巻

とある。だが、実際は、その後、続編を書くことになる。

杉山隆男.『兵士は起つ-自衛隊史上最大の作戦-』(新潮文庫).新潮社.2015 (新潮社.2013)
http://www.shinchosha.co.jp/book/119015/

があるし、このブログでもすでに取り上げた、

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

がある。

この『「兵士」になれなかった三島由紀夫』である。この本は、二つの視点から読むことができるだろう。

第一には、三島由紀夫論の観点からである。三島由紀夫にとって、自衛隊とはどのような存在であったのか。訓練への体験入隊の意味したものとは。そこで、三島は、どのような訓練をうけ、どのようにふるまっていたのか。

これをふまえて、最終的には、三島にとって自衛隊のもつ意味。盾の会とはなんであったのか。さらには、その最後の行動……自決にいたる過程。これらを考えて見るというものである。

第二には、逆に、自衛隊にとって、三島由紀夫とはどのような存在であったのか。特に、その体験入隊で訓練にあたった、現場の自衛隊員「兵士」は、どのように、三島のことを記憶しているのか。三島とは、どのような存在であったのか。

この本は、この二つの視点が、ないまざって、主に、三島の自衛隊体験を軸に語られる。タイトルがしめしているように、三島は、ついに、「兵士」にはなれなかった人間である。だが、三島は、「兵士」であろうとした。

その「兵士」になろうとして「兵士」になれなかった姿は、実際の訓練の描写として、本書に詳しい。

そして、最後に、自衛隊とは、日本にとって何であるのか、という問いかけで終わる。三島の語ったように、自衛隊は米軍の傭兵でしかないのか。だが、三島事件の後、数十年を経、今や、日米同盟ということが公然と言われる時代を迎えている。

この本を理解するためには、たぶん、これに先立つ「兵士シリーズ」のいくつかを読んでおく必要があると思う。また、同時に、ある程度は、三島由紀夫について知り、その作品を読んでおくことも必要かもしれない。

もちろん、この本、単独で読んで、十分に有益な本だとは思うのだが、上記のような準備のもとに、接した方がいいと、私は思う。

個人的な思い出をしるせば、三島由紀夫事件のことは、記憶にある。学校(中学校の時だった)、その事件のおこった日、教師(担任)が、熱っぽく、その事件があったことを教室で語っていたことを憶えている。

文学者としての三島由紀夫の作品を読むようになったのは、高校生になってからだったろうか。『金閣寺』『午後の曳航』などは読んだ記憶がある。『豊穣の海』四部作を読んだのは、大学生になってからのことであった。

一方、杉山隆男の著作については、何よりも、『メディアの興亡』である。この本を読んで、名前を覚えた。その後、「兵士シリーズ」が刊行になって、いくつを手にとったものである。

なお、『メディアの興亡』は、いまだにその価値を失っていない。最近出た本では、

武田徹.『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか-ネット時代のメディア戦争-』(新潮新書).新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/610700/

このひとつの章が、かつての杉山隆男の仕事『メディアの興亡』をふまえたものになっている。

ともあれ、この本は、「兵士シリーズ」の一冊として読んでもいいし、また、三島由紀夫の文学を理解するためにも、価値のある仕事である。

『空母いぶき』かわぐちかいじ2017-03-03

2017-03-03 當山日出夫

かわぐちかいじ、惠谷治(協力).『空母いぶき』.小学館.2015~
http://www.big-3.jp/bigcomic/rensai/ibuki/index.html

私は、基本的に漫画は読まないことにしているのだが、希に手にすることがある。その一つは、最近、話題になったものでは、『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

そして、もう一つ、刊行と同時に、第1巻から読んでいるのが、かわぐちかいじの『空母いぶき』である。現在、第6巻までが刊行。なお、雑誌では読んでいない。そこまでは手が回らない。コミックスで出たのを買っている。

一般的にいうならば、軍事エンタテインメントというジャンルになるのだろう。だが、この作品は、その枠をこえた、リアリティ、あるいは、問題提起がある。

近未来、中国が、沖縄に軍事的に侵略、占領するとことから物語ははじまる。中国側の条件は、尖閣諸島を中国領土と認めること。だが、それに対して日本政府はイエスとはいえない。そこで、空母いぶきを中心として、日本側からの対中国軍事作戦が発動することになる。

まあ、いってみれば、「もし、東シナ海で日中たたかわば」という設定の、軍事物語である。

とはいえ、私がこの作品にある種のリアリティを感じるのは、次の二点。

第一に、さすが、かわぐちかいじの作品だけあって、軍事的にリアルに描いてある。この点については、多くの専門的知識のある人が同意することだろう。

第二に、さりげなくであるが、国際状況の設定として、アメリカが介入しないということを前提としていること。つまり、中国側の判断として、尖閣諸島に軍事的に侵攻しても、米軍はかかわってこない、という読みがあっての軍事行動ということになる。この漫画の描写では、沖縄、尖閣諸島の防衛は、日本の個別的自衛権のもとに行っていることになっている。

この予測に、どれだけの裏付けがあるのかは不明である。しかし、そういうことももあり得るであろうとは予想できる。

かつての湾岸戦争のとき、イラクは、クェートに侵攻しても、アメリカが介入してくることはないという判断のもとに、作戦をおこなった。その読みが、あやまっていたことは、その後の歴史の推移が証明するところではある。しかし、イラクが、その時点で、アメリカ不介入と判断したことは確かなことだろう。また、この時の、アメリカ、多国籍軍の軍事作戦が、その後の世界情勢に与えた大きさははかりしれない。

現在、アメリカの政権が、トランプにかわって、日米同盟の確認ということがあったようだ。そのなかで、アメリカは、尖閣諸島は、日米安保の対象地域であることを明言した。

これも、裏をかえしてみれば、アメリカ・ファーストのトランプ政権の政策の方向いかんによっては、日米同盟もどうなるかわからない、ということがあってのこととも考えられる。むろん、日米安保、日米同盟も、永久につづくというものではない。その時々の、国際情勢のなかで存在にするにすぎない。

以前、このように書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

「中国はあまりものごとを考えていないように見えて、実は、非常に長い射程で歴史を捉え戦略的思考をする国なのです。鄧小平は尖閣諸島の問題について「今の世代で解決するのは難しいだろうから、後世にいい知恵が出るまで待とう」と言って、日本側に譲ったとされています。しかし、それは違う。中国は尖閣に関する権利を留保しつつ時間を稼ぎ、将来自分たちに有利な状況になった時に日本を交渉のテーブルに着かせることを狙っていると解釈すべきです。」(pp.23-24)

絶対に、中国は、尖閣諸島に軍事的に手を出してこないといえるだろうか。もし、国際情勢によっては、アメリカは、日本と中国が紛争を起こしても手を出してはこないだろう、と判断されたとき、どうなるかわからないと、私は考える。といって、かわぐちかいじが書いているような軍事行動をとるということではないが。

もちろん、このようなことは、中国共産党政権の内情、それから、アメリカの東アジア政策、それから、台湾、韓国などの、周辺諸国、東南アジア諸国の動向など、総合的に関連して、おこるべくして、ことはおこるとすべきことではある。

ただの空想ではなく、リアルな国際政治の展望のあり方として、考えてみるに値することの一つであるとは思っている。現実に今、沖縄は、日本の国防の最前線なのである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

『空母いぶき』は軍事エンタテイメントとして読めばいい作品なのであるが、そのはらんでいるものは、リアルである。そして、重要なことは、軍事的行動を視野にいれてこそ、現実的な平和主義も構築しうるということである。

今年読みたい本のことなど2017-01-01

2017-01-01 當山日出夫

謹賀新年

このブログを、去年の五月に再開した。本を読んで、そして、それを文章にする生活をおくりたいと思うようになったからである。

もう、私は年齢としては、還暦をすぎた。そして、今では、それから一年以上すぎている。決して若くはない。しかし、だからといって、まだ年をとって衰えたというのは、早いかと思う。たしかに、目は老眼になってきて、小さい文字の本を読むのがつらくなってきている。眼鏡をはずさないと読書できない。だが、まだ、本は読めるし、こうして、パソコンに向かって文章をつづることもできる。

「読んでいない本」がたくさんある。これからは、これまで名前は知っていても「読んでいない本」のいくつかでも、読んでおきたいと思う。古今東西の古典、名著、名作。

ひろい意味での「文学」……文学・歴史・哲学といった本を読んでおきたい。人文学の基礎的書物である。

かつて、このブログを始めたとき、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズということを考えていた。これを推進する立場に今も私はかわりはない。デジタルの世界が、どんどんこれからの人文学の世界を変えていくだろう。そのことは、自分なりに十分承知しているつもりでいる。

いや、だからこそというべきか、人文学の人文学たるゆえん……本を読むこと、文章を書くこと、それから、人と語ること……これらのことに時間をつかっていきたいと思うようになってきている。このことをわすれて、人文情報学というものはないだろうと思う。

今年(2017)、読んでおきたいと思っている本(シリーズ)としては、まず、『定本漱石全集』がある。夏目漱石の作品は、若い頃、高校生のころからしたしんできた。数年おきに、その代表的な小説作品は読み返すようにしている。2016年は、漱石没後100年。2017年は、漱石生誕150年になる。岩波書店がまたあらたに『定本漱石全集』を刊行する。前の版ももっているのだが、この新しい漱石全集で、漱石の作品を、もう一度、自分なりに確認しながら読んでみたい。
https://www.iwanami.co.jp/news/?action=detail&news_no=17359

それから、去年(2016)に完結した『井筒俊彦全集』(慶應義塾大学出版会)。私が大学生になったとき、井筒俊彦は、すでに慶應を去った後だった。だが、鈴木孝夫、池田弥三郎などの諸先生を通じて、その面影を感じたものである。直接、その謦咳に接したのは、岩波ホールでの講演会の時であった。このようなすぐれた知性がこの世に存在するのか、と感銘をうけた覚えがある。『井筒俊彦全集』はそろえて買ってある。また、その生前に出た単行本もほとんど持っている。これらの本を、今の自分でどれだけ理解できるかどうかわからないが、読んでみたい。
http://www.keio-up.co.jp/kup/izutsu/cw.html

みすず書房が、『中井久夫集』(全11巻)を刊行する。これも、読んでみたい。
http://www.msz.co.jp/topics/08571-08581/

その他、『歴史学の名著30』(山内昌之)『政治学の名著30』(佐々木毅)(ちくま新書)などのブックガイドを参照しながら、そのいくつかでも、読んでおきたい。これら、ひろい意味での「文学」に属する本……古典的名著……を読みたい。私の学生のころに出た、中央公論の「世界の名著」、これは、古本で非常に安く買えるようになっている。あるいは、なかには、新しい新訳が文庫本などで刊行されているものもある。

ともあれ、読書ということで生活をおくりたい、これが新年にあたっての抱負である。

なお、蛇足でつけくわえれば、私は、若いときからミステリ好きである。いや、ここは古風に探偵小説といいたい。良質なミステリ、探偵小説、を読んでいきたいとも思っている。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

定本漱石全集『吾輩は猫である』2016-12-14

2016-12-14 當山日出夫

夏目漱石.『定本漱石全集:吾輩は猫である』.岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/book/b266526.html

この本、発売は12月10日以降であったと思うが、奥付を見ると、12月9日と記してある。9日は、漱石の命日である。

いろいろ考えたすえであるが、この新しい全集を買うことにした。

私はすでに、漱石全集は二セット持っている。
1974年版の17巻(別巻1)
1993年版の28巻(別巻1)
である。

特に、後者(1993年版)と、今回の版と大きく内容が変わるわけではないようだ。確かに、一部では、新出資料があったり、部分的に作品の本文校訂が変わるとことはあるらしい。しかし、これまで漱石は、古い校訂で、あるいは、一般には文庫本などで読まれてきたのであり、普通に読むのには、それで十分だともいえる。

では、なぜ、今回の全集を買ってみようという気になったのか。それは、自分へのモチベーションのためである。

私は、漱石の作品は、数年おきぐらいには、主な小説類(『猫』から『明暗』までぐらい)を、読み直すことにしている。いままで、何回、読んだことだろうか。

しかし、その書簡とか漢詩、俳句などは、あまり読まずにきているということもある。これらも、一度は、読んでみたいものである。古い全集を取り出してきて読んでもいいのだが、せっかくなら新しい全集の新しい活字で読んでみたい、このような気もする。

これから、月に一冊の漱石全集の配本を追っていくぐらいの時間の余裕はとれそうである。これを機会に、漱石全集を、読んでみたいという気持ちになっている。

とはいえ、私は、漱石を研究しようという気はまったくもっていない。近代文学研究のような分野からは、まったくの門外漢であると同時に、いまさら、何を言おうという気もない。ただ、ひとりの読者として、若いころ(高校生のころ)から漱石を読んできて、また、読みたくなっているというだけのことである。

しかし、今は12月。毎年恒例の、年末の、今年のミステリーが発表される時期である。読んでおきたい本が、たくさんある。まあ、なんとか頑張って読むことにしよう。

こうの史代『この世界の片隅に』2016-12-11

2016-12-11 當山日出夫

こうの史代.『この世界の片隅に』(上・中・下).双葉社.2008
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94146-3.html?c=20108&o=date&type=t&word=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB

いま、話題の映画の原作である。
http://konosekai.jp/

私は、基本的にはコミックは読まないことにしている。(このジャンルまで手を出すと、「読んでいない本」がさらに増える)。だが、これだけは、読んでおきたい気になって買ってみた。(これ以外では、他に『空母いぶき』があるのだが。)

読んでみての感想は基本的に次の二点。

第一に、こうの史代の漫画ならではの表現であるということ。調べてみると、この作品のノベライズ版もあるようだが、しかし、これは、漫画でないと表現できない作品であると感じる。

ただ、それは、漫画についてのリテラシの無い私としては、表現することばを持たない。これは、残念である。

こうの史代については、平凡社のHPで、『ぼおるぺん古事記』を読んで、その表現力の確かさを知っていた。
http://webheibon.jp/kojiki/

たぶん、この作品全体からただよってくる淡い叙情性のようなもの……それは、一方で悲惨な戦時下の生活でもあるのだが……これは、文章化してしまうことはできないだろうと感じる。その絵の雰囲気から感じる何かなのである。

第二に、太平洋戦争の戦時下の日常生活を描いた作品であること。たしかに、文学作品、あるいは、ノンフィクションとして、戦時下の生活を描いた作品はある。だが、この作品ほど、「平凡な日常のいとおしさ」とでもいうべきものを、表現した作品を、私は知らない。逆に、その悲惨さを強調したものなら、いくらでも見つけることができるだろうが。

たとえば、
やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

戦時下の、いわゆる「非常時」であっても、それでも、人びとは、普通の生活をしている。寝て、起きて、食べて、家事をして、そして、家族があり、また、近所の人たちとのつきあいがある……このような「日常」は、続くものである。それは、戦争が始まっても、また、終わっても、変わることなく続いていく。

作中、玉音放送の場面がある。8月15日である。そして、その前に、広島への原爆の投下も描かれる。生活に多少の変化は確かにある。だが、そのような中にあっても、毎日おなじようにすぎていく日常生活が根本から変わるわけではない。

日常生活のいとおしさを描いているからといって、この作品は、特に、時局に抗した反戦平和を訴えるという性格のものではない。いや、むしろ、そのような政治的主張からは、もっとも遠いところに視点を定めている。

たぶん、日常のいとおしさを奪うものは、たとえ、それが「革命」であったとしても、同じように、何かしら嫌悪すべきものとして描かれることにちがいない。いや、どうしようもない大きな歴史の何か、とでもいうべきかもしれない。

以上、二点が、この作品を読んでみての、ざっとした感想である。

なお、蛇足で書いておくと……この作品中に、りんという女性が登場する。妓楼につとめている。この女性は、小学校にまともに通えなかったので、字がきちんと読めない。リテラシがないという人物設定。

私は、これまで、日本語史の講義において、日本人のリテラシについては、時折言及することがあった。そのとき、これなら学生でも知っているだろうと思って、例に出していたのは『おしん』(NHK)であった。ヒロインおしんの母親は文字が読めない。また、おしんが勤めていたカフェの女給たちも字が書けなかった。

さて、『この世界の片隅に』なら、今の学生でも読んでいてくれるだろうか。つい近年まで、まともに学校教育を受けられなくて文字が読めないという人は、決して珍しい存在ではなかった、このことの事例として、りんという女性の話をしてみるのもいいか、という気がしている。

山上浩嗣『パスカル『パンセ』を楽しむ-名句案内40章-』2016-12-07

2016-12-07 當山日出夫

名前は知っていても、「読んでいない本」である…パスカル『パンセ』。

この本については、『いまこそ読みたい哲学の名著』(長谷川宏)にも紹介してある。

やまもも書斎記 2016年11月18日
長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/18/8253270

この本では、中央公論社『世界の名著』版をおすすめとしてある。しかし、その後、岩波文庫から新しい訳が出ている。これは貴重な新訳であり解説なのであろうが、全三巻になると、ちょっと荷が重い。

パスカル/塩川徹也(訳).『パンセ』上・中・下(岩波文庫).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-336142-S

と思っていたところに、講談社学術文庫で、いい本が出た。

山上浩嗣.『パスカル『パンセ』を楽しむ-名句案内40章-』(講談社学術文庫).講談社.2016 (文庫オリジナル)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923941

この本は、『パンセ』のなかから、興味深い章句をとりだして、随意に註解を加えたという体裁になっている。どこから読んでもいいように作ってある。分量も手頃。300ページに満たない。これなら、挫折することなく、自在に『パンセ』の神髄を味わえるというものである。

「はじめに」を読むと、このような形式の本は、先例があるとのこと。

アントワーヌ・コンパニョン/山上浩嗣・宮下志朗(訳).『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』.白水社.2014
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b203908.html

ところで、『パンセ』という書物は、パスカルが書き留めた未完の断片・章句を総合したもの。どれがどの順番で書かれたのか、それぞれの章句の関係をめぐっては、複雑な研究史があるらしい。簡略ながら、講談社学術文庫版に解説がある。これは役にたつ。

そのなかで、興味をひいたのが、WEBで、『パンセ』研究資料を総合しようというこころみ。電子版パスカル『パンセ』サイト、として次のHPが紹介してある。(p.26)

http://www.penseesdepascal.fr/

門外漢の私には、残念ながらこのHPについてコメントすることはできないのだが、『パンセ』の研究というような仕事には、やはりWEBの仕組みが向いているとべきなのであろうと思う。

それから、この本を読んで、重要だとおもったこと。「あとがき」であるが、それは、ある学生(人一倍熱心な学生)が、

「パスカルのような何百年も前の人の思想を研究することに、いったいどのような意味があるのでしょうか。」

と質問したらしい。(p.263)

これにたいして、著者は、このように返信したとのこと。

「(前略)世の中には、ただ単に読んでいておもしろいと感じる作品もありますが、研究という厳格な方法的操作を長年経てはじめておもしろさがわかる作品もあります。」(p.264)

これには同感する。

『パンセ』の場合は、フランスの古典になるが、日本の古典でも同じようなことがいえるはずである。日本語を母語としていれば、日本の古典の多くは、ある程度の註解をつければ、読める。『万葉集』など、そうかもしれない。しかし、『万葉集』を本当に理解しようとするならば、古代日本語、古代の文化、社会、歴史についての、厳格で緻密な研究にもとづかなければならない。

現代日本語で読めてしまうが故に、ある種の危険性がそこにあるともいえる。

研究という方法を経ることによってはじめて理解できる本当のおもしろさ、それを伝えていく必要がある。この意味において、人文学、そのなかでも、古典研究の分野の存在意義というのは、決して軽いものではないはずである。

呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』2016-11-23

2016-11-23 當山日出夫

呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/

いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。

そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。

はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。

1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。

白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。

『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。

もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。

それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、

吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/

今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。

吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。

若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。

そうはいっても、たとえば、

竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html

この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。

長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』2016-11-11

2016-11-11 當山日出夫

ピエール・バイヤール/大浦康介(訳).『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2008)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

最初、単行本で訳書が出たとき買って、ざっと読んで、今回、文庫(ちくま学芸文庫)になったので、また買って再読してみた。

この本の内容について、ふさわしくタイトルをあえて変えるとするならば、

『なぜ読んでいない本について堂々と語れるのか』

とでもした方がいいのかもしれない。

読んでいない本について、堂々と語る仕事としてまず、思い浮かぶのは大学の教師である。私の専門領域としては、国語学ということになるが、では、国語学の専門書、日本文学については、古典大系、古典文学全集の類を網羅的に読んでいるかというと、はっきりいってそんなことはない。

『源氏物語』を、最初から通読したことはないということは、すでに書いた。しかし、大学の講義で、『源氏物語』について言及するのに、なんら不都合はない。もちろん、全巻を順番に読んでおくにこしたことはないだろうが、それが必須の条件というわけではない。

では、なぜ、『源氏物語』について授業で語れるのか……それは、その作品の文学史的な位置づけ、研究史の概略を知っているからであり、全部を順番に読んだことはないにしても、かなりの箇所はきちんと読んでいる。部分的には精読しているといってよい。

つまり、『源氏物語』の読み方を知っている。勉強の方法を知っている、ということなのである。

だが、だからといって、『源氏物語』をまったく読んでいなければ、それについての研究書・論文のいくつかを読んだことがなければ、これは、はっきりいって、教師として失格と言ってよいであろう。

このようなことを、『読んでいない~~』では、次のような箇所が該当するのかと思う。

「教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本を始めから終わりまで読む必要はない。この能力が発達していればいるほど本を通読する必要はないのである。」(p.39)

「このように、教養とは、書物を〈共有図書館〉のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。」(p.66)

つまり、「教養」があれば、本を全部にわたって通読する必要はない。

では、どうやればその教養は身につくのか……それは、やはり、「読書」と「教育」によってである、ということになる。ある程度は、本を読み、その読み方について教育をうける、これが必要だろう。

本書『読んでいない~~』は、読書論であると同時に、教養論であり、教育論の本であると思う。タイトルはいたって挑発的であるが、しかし、その書かれている内容は、逆に、常識的な読書文化論、教養論であると、私は読んだ。その常識的なレベル、あるいは暗黙知と言ってもよいかもしれない、そのようなことを、あえて、俎上にのせて論じてみたということである、と理解する。

はっきりいって、この本を読まずに読んだふりをするのも、決して悪いことではないと思う。それは、この本の語っている内容が、ある意味で、きわめて常識的な読書についての考察であるといってもよいからである。常識的すぎる、あるいは、暗黙知であるがゆえに、いままであまりおもてだって言及されることのなかったことについて書いてある。この意味では、なぜ自分は読んでいない本について語ることができるのか、じっくりと内省してみれば、おのずと答えの出ることであるともいえる。

とはいえ、暗黙知とされるべきことについて、あえて論じるというのは、刺激的で知的な興味をそそる仕事ではある。この観点において、非常に面白い本だと思う。