『現代文解釈の方法 新訂版』遠藤嘉基・渡辺実/ちくま学芸文庫2022-12-24

2022年12月24日 當山日出夫

現代文解釈の方法

遠藤嘉基・渡辺実.『着眼と考え方 現代文解釈の方法 新訂版』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2022
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480511485/

この本の初版は、一九六〇年。新訂版は、一九七九年である。中央図書出版社。

去年、『現代文解釈の基礎』が文庫本(ちくま学芸文庫)で出て、今年、その続編が同じく文庫で刊行になったことになる。

読んで思うことはある、と書きたいところだが、そんなに細かく読んでいない。はっきり言って、もうこの本の組版を読むのがつらくなってきた。老眼である。解説はだいたい読み流して、問題文となっている文章を確認しながら読んだというところである。

このような読み方をしても、やはりこれは名著と言っていいだろう。

ただ、出典が古風である。三木清の文章など使ってあるが、もう今では三木清は読まれないかと思う。山崎正和とか、加藤周一ぐらいなら、今でも読まれるかと思う。丸山眞男は今でも多く読まれるだろう。総じて、問題に使ってある文章は、総合文明批評的な文章が多いかと感じる。これは、おそらく著者(渡辺実)の意向を反映してのものだろう。

その渡辺実が、『国語構文論』や『平安朝文章史』などを書いたのかと思って読むと、なるほどと考えるところがある。

この本を読んで、問題文にあつかわれた文章のいくつかを読みなおしてみたくなっている。

2022年12月23日記

『教科書名短篇-科学随筆集-』中公文庫2021-10-07

2021-10-07 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇

中央公論新社(編).『教科書名短篇-科学随筆集-』(中公文庫).中央公論新社.2021
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/09/207112.html

中公文庫のシリーズである。これまでに刊行になったのは、読んできている。

やまもも書斎記 2020年3月13日
『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/13/9223694

やまもも書斎記 2020年3月14日
『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/14/9223989

やまもも書斎記 2021年6月7日
『教科書名短篇-家族の時間-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/07/9385430

これもこれまでのものと同様に、戦後の中学校の国語教科書に載った文章のアンソロジーである。

収録されているのは、次の科学者たち。

寺田寅彦
中谷宇吉郎
湯川秀樹
岡潔
矢野健太郎
福井謙一
日高敏隆

面白いのでいっきに読んでしまった。読んで思うこととしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、エッセイとしての面白さ。

「科学随筆」となっているが、どれも一級のエッセイである。読んで面白い。教科書に採録されるぐらいだから、そう難しい話しということではないし、また、長いものでもない。短ければ数ページぐらいである。そのなかに、文章としての面白さを感じる。

第二には、科学ということ。

一般に、「科学技術」ということばがあるように、科学は技術と結びついて語られることが多い。しかし、この文庫に採録の文章は、純粋に知的ないとなみとしての、科学にかぎって話しが進行する。テクノロジーについてのことは、ほとんど出てこない。

これは、中学生むけの教科書ということで、このような選択になったのかとも思われる。人間の知的ないとなみとして、自然と向き合って、何を知りうるのか、それを知るためにはどうするべきなのか、あるいは、逆に分からないことは何なのか……まさに「知」ということについて、誠実に答える文章になっている。

以上の二点が、この文庫本を読んで思うことなどである。

その他、たとえば、有効な数字として三桁あれば現実的に問題はないとする、中谷宇吉郎の文章など、円周率を、3.14で覚えてきたことを思い出して、いろいろと考えることがある。

さて、日本において、中等教育における国語教育が大きく変わろうとしている。これから、この種の科学的な読み物は、どのようにあつかわれることになるのだろうか。

上質の科学エッセイは、子どもにとって、科学へのとびらとなるにちがいない。これからも、このとびらは閉ざさないでいてほしいものである。

2021年10月4日記

「中央公論」8月号「教養と自己啓発の深い溝」2021-07-26

2021-07-26 當山日出夫(とうやまひでお)

中央公論2021年8月

中央公論 2021年8月 教養と自己啓発の深い溝

基本的に雑誌の類は、読まないのだが、この号の「中央公論」だけは特集に関心があったので買って読んでみた。

知識の豊かさが本質ではない 村上陽一郎
修養ブームが生み出した潮流 大澤絢子
格差ゆえに教養が求められた時代 福間良明
「ビジネスマンの教養」の系譜と現在 牧野智和
新たな知の共同体を作れるか 隠岐さや香
独学のススメ 読書猿

付箋をつけた箇所を引用してみる。

自己啓発と教養には、個人の問題なのか、知の共同体かという前提の違いがあると思う。
隠岐さや香 pp.66

真面目な話、まともな書物を一冊ちゃんと読めば、その書物が検索エンジンで収集できる情報のみでできていると信じることはおよそ不可能でしょう。
読書猿 pp.75

「古典は本当に必要なのか」という議論がある。否定論の言い分としては、古典教育は、個人の利益に資するものでなければならないという。具体的にいうならば、それを勉強することによって、年収が上がるということである。また、国家レベルでは、GDPの増大に貢献しなければならない。(みもふたもないいい方になるが、このような議論が堂々と語られる時代になったことはたしかである。)

それに対していろいろと反論はあるが、その一つの論点は、教養としての古典という観点である。

少なくとも数十年前までは、古典……日本のみならず外国をふくめてよいが……についての造詣があることは、教養の中核をしめる部分であった。それが、今はどうだろうか。古典についての好き嫌いはあるかもしれないが、教養として必須であるという価値観は、かなり薄れてきているといっていいのではないか。

教養とはなにか、あるいは、その教養に何をもとめるのかは、時代とともに変わっていく。その時代の変遷のなかに、古典もあると、私は考えている。

「中央公論」を読んでみて思うことであるが、上述の、時代とともに教養にもとめられるものが、変わっていくのであるということへの切り込みが浅いように感じられてならない。まあ、確かに現代においては、社会で生きていくうえにおいて、コンピュータのスキルは必要になってきてはいるだろう。だが、それを、人格を豊かにするものとしての教養といっていいかどうかは、また別の問題があるように思う。

ここで、「人格を豊かにする」と書いてみた。これは、教育、特に教養教育についていえることだろう。だが、教育に何を求めるか、ということも、時代とともに変わりつつある。「古典は本当に必要なのか」の議論は、教養とは何か、教育とは何か、という議論とふかくかかわってくることは確かなことである。

2021年7月25日記

『高校に古典は本当に必要なのか』2021-06-14

2021-06-14 當山日出夫(とうやまひでお)

高校に古典は本当に必要なのか

長谷川凜・丹野健・内田花・田川美桜・中村海人・神山結衣・小林未來・牧野かれん・仲島ひとみ(編).『高校に古典は本当に必要なのか』.文学通信.2021
https://bungaku-report.com/blog/2021/06/post-968.html

「古典は本当に必要なのか」という議論については、これまでに書いてきた。この本を読んでも、私の考えるところに大きな変化はない。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

やまもも書斎記 2019年10月11日
『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/11/9163517

それから、

やまもも書斎記 2020年7月12日
『「勤労青年」の教養文化史』福田良明
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/12/9267249

そして、この『高校に……』を読んで感じるところは、最初に出た『古典は……』の本や、もとになったシンポジウムよりもよくできているということである。

私は、次のことを書いた。これも繰り返しになるが、再々度書いておく。

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最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

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この自制がよくきいている。あるいは、これは、「ディベート」としての本であるから、おのずとそうなっているというところでもある。

高校生だから、教科の好き嫌いはあるだろう。もっと端的にいえば、その教科を教えている教師に対する好き嫌いということもあるにちがいない。だが、この本のなかでの議論には、これに触れることがまったくない。この点は高く評価してよいと、私は考える。(逆にいえば、先に出た『古典は……』の本は、この問題点に満ちている。)

「古典は本当に必要なのか」は、大学での研究のみならず、高校での教育、さらには、一般社会での出版など、幅広い視点からの議論が必要である。特に、大学入試の科目に必要なのか、学校教育で教える必要があるのか、この論点は重要であり、そして、その当事者である高校生の意見には、耳を傾けるべきだろう。

高校生にカリキュラムを決める権限はない。しかし、今ある学校のカリキュラムについて、意見をのべる権利はある。

そして、この本は、それを意図したものではないかもしれないが、「ディベート」の参考書として、非常によくできている。このようなテーマについて、企画立案し実行にうつすことのできた高校生たちはすばらしいと思う。

(高校生には無理な注文かもしれないのだが)ただ、一読して難点かなと思ったところは、「ナショナリズム」を即「悪」として議論しているあたりは、議論の底が浅い。「ナショナリズム」については、いろいろと考えるべき多様な論点があるはずである。

また、「古典」はアプリオリに存在するものではなく、近代になってから「国文学」という学問の成立、あるいは、近代以降の学校の「国語教育」のなかで創出されてきたものであるという側面も、十分に考える必要がある。「日本人」の「アイデンティティー」などについては、そう軽々に語れるものではない。

さらには、「教養」というものが、社会的、歴史的に変化するものである、という視点をもっととりこんで議論した方がよい。この問題の大きな流れとしては、「古典」が「教養」であった時代が終わろうとしていることなのである。

ともあれ、「古典は本当に必要なのか」ということを考えるうえでは、必須の本であるといってよいだろう。

2021年6月13日記

オンライン授業あれこれ(その二五)2021-05-24

2021-05-24 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月17日
オンライン授業あれこれ(その二四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378376

オンライン授業(オンデマンド)ということで、一番こまるのは、学生が教材を見てくれないことである。

四月の最初の授業のときにいっておいた。COVID-19の感染状況によっては、今後どうなるかわからない。授業はオンラインになるかもしれない。その場合は、大学のLMSで連絡することになるので、これを必ず見るようにと、いった。二回目の授業のときにも、次週(三回目)からオンラインになると思うので、それに対応するようにといっておいた。

にもかかわらず、今にいたるまで、最初に送信した教材(プリントやYouTubeのURLが記してある)を、見ていない学生が少なからずいる。

まあ、YouTubeについてみれば、最初にアップロードしたものについては、かなりの学生が見ているようではある。しかし、これも、回数がすすむにしたがって、視聴する人数が減っていっている。

これは、いたしかたのないことかもしれない。YouTubeにアップロードしてあるからといって、別に見て面白いものではない。そのようには、意図していない。ただ、授業の内容について、淡々と語るのみにしている。それも、配布のプリントと基本的に同じことを述べるようにしている。(これは意図的にそうしている。プリントを読むだけの学生と、YouTubeを視聴する学生との間に差が生じないようにするためである。)

考えたことを整理してみるならば、次の二点になる。

第一には、特に配慮すべきこととして、学生のPCスキル、インターネット接続環境である。

昨年から、大学の授業がオンラインを主体とするものになったとき、学生のPCスキルやインターネット接続環境については、いろいろ議論されたことである。しかし、今年度になってからは、あまりその問題点について指摘したという声をきかない。これは、問題が解決されたことではないと思う。

おそらくは、PCスキルなどで、オンライン授業についてこれない学生を、暗黙のうちに切り捨ててしまっていることなのだろうと思って見ている。最近の話題でいえば、大阪市の小学校が、オンライン授業をやるといって、結局、もとにもどすことになったということがある。生徒の一人一人には、タブレット端末が行きわたっているから可能であると判断したものであろう。しかし、ただ、端末があればできるというものではない。それにくわえて、通信環境の整備、教員のノウハウ、それから、準備の時間など、もろもろのことが必要になってくる。大阪市の失敗例は、いい教訓になるかと思う。小学校教育であるから、なによりも公平であることが求められる。家庭の事情などによって、通信環境などが脆弱な環境にいる子供を切り捨てることはできない。

第二には、では、どのような学生に、どう配慮すべきかである。

考え方は二つあるだろう。

(1)PCスキルなどに関係なく、やる気のある学生をなるべくとりこぼさないようにする。

(2)ある程度のPCスキルがあること、インターネットへの接続が可能であることを前提にする。これは、PCでインターネットがつかえない、という学生は、切り捨ててしまうことになる。(この御時世である。大学生として勉強する気があるなら、PCを持っていて、インターネットにつながるようにしておくのが当然ということも立場としてはあり得る。)

私は、このうち、(1)の立場をとることにした。PCスキルなどが未熟であっても、とにかくやる気さえもっていれば、どうにかついてこれる方式を考えて、採用することにした。

今の学生のPCスキルは、貧弱である。すでに書いたことだが、繰り返し確認してみるならば、授業の最初のとき、コメントペーパーで、ワープロでレポートが書けるかどうかたずねてみた。その結果は、できませんという学生がかなりの数にのぼる。ワープロでレポートが書けませんという学生に対して、オンラインの授業は、いきなりハードルが高いだろう。

最低限、スマホは持っている、あるいは、とにかくインターネットにつながったPCがある、これが可能なら、どうにか授業についてこれる方式を選ぶことにした。ただ、こちらが求めているのは、やる気なのである。

2021年5月22日記

オンライン授業あれこれ(その二四)2021-05-17

2021-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月10日
オンライン授業あれこれ(その二三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/10/9375974

オンライン授業といっても、オンデマンド方式。学生が、自由な時間に、自由に教材にアクセスして見るという方式である。このとき、選んだ方式としては、パワーポイントのスライドショーの送信ということにした。(大学のすべての授業がオンラインになったわけではないので、リアルタイムの双方向通信ではできない。)

パワーポイントのスライドショーには、音声解説をつけられる。それを、動画像(MP4)に変換して、YouTubeに限定公開の設定でアップロードする。これは、指定したURLから見ることが可能になる設定である。

学生には、通常の授業があったときのプリント(A4で二ページ)と、その解説(A4で二ページ)を、送信しておく。これは、Word文書と、PDFと、同一内容で送る。このときに、YouTubeのURLも記載しておく。

この方式ならば、最低限、スマホしか持っていないような学生でもどうにかなる。あるいは、自分のPCが無いとしても、たぶん大学のPC教室の利用などでどうにかなるだろうと思う。

このときのパワーポイントの使い方としては、あえて最もシンプルな方式をえらんだ。プリントに書いてあることから、一つの項目、あるいは、一つのパラグラフを、コピーした文字だけのスライドにした。特に、アニメーションなどはつけない。ある程度のまとまりがあって、文字の大きさが、読みやすければそれでよいとした。

スライドショーでは、原則的に、各スライドに書いてあることだけを、読んで解説することにした。この路線をはずれないように意図的にしている。

通常の授業があった場合であれば、プリントを読んで解説しながら、横道にそれて話しをしたりということが多々あるのだが、それは一切しないことにした。単に、スライドを読み上げて説明するだけである。

こうした理由は二つある。

第一には、もし、YouTubeを見られない、配布のプリントを読むだけ、という学生がいたとしても、不利にならないようにするためである。YouTubeを見るのと、プリントを読むのと、同じだけの情報がつたわるようにした。

第二には、教材のスライドショーをつくるときの負担の軽減である。ただ、PCの画面に向かって話しを一時間つづけるというのは、相手の顔が見えない、反応がわからないということで、困ることになる。これを避けるためには、基本路線として、各スライドに書いてあることのみを説明するということに決めておくと、気分的に楽になる。

以上の二つの理由で、あえて最もシンプルなスライドショーとして、作ることにした。

これも凝ろうとおもえば、いくらでも凝ったものを作ることができる。しかし、そのために労力を費やす気にはもうなれないでいる。アニメーションなど多用して凝ったスライドを作れば、つくれるだろう。あるいは、文字の配色なども、変えることもできよう。だが、そんなことは一切しないことにした。

ただ、配布したプリント(Word文書、PDF)と同じことを語るのみとした。

また、パワーポイントを使うことにした理由としては、編集が簡単だということもある。スライドショーの各スライド単位で、音声データが記録される。編集しようと思えば、各スライド単位での操作ということになる。

これが、動画像をカメラでとって、後から編集ソフトで編集してということになると、作業量が膨大なものになる。(そこまで、こちらのエネルギーをついやす義理は無いというのが、正直なところでもある。時間があるなら、本を読むことに使いたい。)

また、これは、昨年度の経験でも分かっていることだが、無理に動画配信などしても、それで学生の教育効果にすぐつながるものではないということがある。逆に、シンプルに文字、文章を基本として、プリントの送信ということだけでも、十分な学習につながることも確認できた。(学生のインターネット接続環境によっては、動画配信はしてほしくないという声もある。)

課題は、四回のレポートである。これも、ただプリントを丸写しにしただけのものは認めない。配布したプリントを自分で読んで、自分のことば、文章でまとめるものとしてある。そのためには、配布のプリントをとにかく読むことになるはずである。おそらく、これが、一番の勉強になる。それを文章に書くということが、勉強である。

与えられた課題について、文章を読んで書く、これが勉強の基本となることだろう。この基本に忠実であろうとすると、あえてシンプルな方式の方が望ましいともいえる。

教える側の問題としては、どのような教材プリントで、どのようなことを伝えるのか、ということと、何を課題(レポート)とするか、このバランスがうまくとれればいいのである。

2021年5月16日記

追記 2021-05-24
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月24日
オンライン授業あれこれ(その二五)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/24/9380647

オンライン授業あれこれ(その二三)2021-05-10

2021-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月3日
オンライン授業あれこれ(その二二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/03/9373438

今年度(二〇二一)のオンライン授業は、オンデマンド方式。リアルタイムの双方向通信ではない。これにはいろんな方式があるのだが、私が選んだのは、パワーポイント(音声付き)の動画配信。

パワーポイントのスライドショーに音声解説をつけることができる。それを記録して、動画像(MP4)に変換して保存する。それを、YouTubeにアップロードする。公開の設定は、限定公開としておく。つまり、指定したURLから見ることができる設定である。

一方、学生の方には、授業のプリント(A4)二ページと、その解説(これも、A4で二ページ)を送信しておく。Word文書と、PDFと同一内容にしておいて、どちらかを見ることができればいいようにしておく。これを、大学のLMSで送信して、このときにYouTubeのURLも同時に教えるようにしておく。

時間を決めて学生に配信できるので、授業がある曜日の午前九時に配信される設定にする。

たぶん、これが、学生にとって一番負荷の小さい方式だろうと考えた。少なくとも、インターネットにつながったPCがあればどうにかなる。あるいは、最低限スマホしか持っていないとしても、なんとかなる。

今年度の四月の最初の授業のときに、学生にきいてみた。コメントペーパーに書かせた。ワープロでレポート作成ができるかどうか。たとえば……A4用紙に縦書き、10.5ptの明朝体(MS明朝とか游明朝とか)で、40字40行、上下左右余白各30ミリ……実は、これは、一太郎の初期設定なのだが、Wordだとちょっと設定を変更する必要がある。といっても、余白の調整と字数行数の設定だけである。これができるかどうかたずねてみて、かなり多くの学生が、できないと答えていた。

これがそんなに高度な要求だろうか。どう考えてみても、ワープロで文書作成をする基本の部分である。これができない、あるいは、要求されていることの意味が理解できないということは、PCスキルの程度が、かなり低いことを表しているとしか思えない。

新しい一回生であれば、おそらく大学に入学するにあたって、PCぐらいは用意しているだろうと思う。昨年、大学の授業がオンラインになり、今年度もどうなるか分からない状況において、PCを持たないままで大学生活を始めるということは、ちょっと考えられない。もし、PCがなくても、また、使えなくても大丈夫だろうと思っていたとしたら、これはこれで問題がある。

ところで、緊急事態宣言は延長、対象地域の拡大ということになった。大学の授業もオンラインになるものがある。あるいは、これから、オンラインになることが十分に予測できる。このような状況にあって、何の準備もしていない、そのための情報収集もしていない、となると、これも問題になることである。

だが、今年度になって、大学生をとりまく、PCスキルや、インターネットの接続環境が、大幅に改善されたという話しは、伝わってこないままである。せいぜい、スマホの料金プランの変更があったぐらいである。(最低限スマホがあれば対応できるようにはするつもりだが、できればインターネットに接続してあるPCが欲しいところである。)

学生のPCスキルなどは、最低水準のままであろうという前提で、オンライン授業を始めるしかないことになった。そこで、もっとも無理がなく、各学生に対してより公平な方法は何かと考えると、教材プリントの送信(Word文書とPDF)、音声付きパワーポイントのスライドショーのYouTubeでの視聴、このあたりかと判断した。

しかし、である。四月の最初の授業のときに、今後の成り行きではオンラインになるかもしれないのでそのときにどう対応するか、まず説明した。また、二回目の授業のときには、たぶん次週からオンラインになるだろうと話しをした。であるにもかかわらず、LMSで、こちらが送信したメッセージを読んでいる割合は、だいたい七割程度である。これも、今後の状況の変化……緊急事態宣言のさらなる拡大や延長ということも十分に予想できる……によっては、学生の方もそれなりに対応するかとは思うのだが、こればかりは、どうしようもない。

ともあれ、少なくとも前期の間は、授業がある曜日の朝九時に、教材とYouTubeのURLの送信ということでやっていきたいと思う。なお、評価については、四回のレポートということにしてある。

2021年5月9日記

追記 2021-05-17
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月17日
オンライン授業あれこれ(その二四)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/17/9378376

オンライン授業あれこれ(その二二)2021-05-03

2021-05-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月28日
オンライン授業あれこれ(その二一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/28/9341762

今年度(二〇二一)の前期も、オンライン授業ということになった。新学期がはじまって二回は、通常のとおり教室で話しをしたのだが、COVID-19感染症の拡大にともなって、私の担当している科目は、オンラインということになった。

オンラインといっても、オンデマンド方式。リアルタイムの送信ではない。すべての授業がオンラインになったのではなく、人数の多い科目を選んでそうすることになったので、リアルタイムのオンラインはできない。他の教室での授業の合間に、リアルタイムでPCに向かってというのは、無理である。あらかじめこちらが用意した教材を、学生が自分の好きな時間に視聴するということにならざるをえない。

ところで、これは、昨年からの懸案事項なのだが、学生のPC環境、インターネット接続環境が、劇的に改善されたという話しは、伝わってこない。昨年度は、オンライン授業をはじめるにあたって、学生のPC環境などが、まず議論になったと覚えているのだが、今年はそのような話しは伝わってこない。

これはどうしたことなのだろうか。

ほぼ一年がたって、学生の方も時代の流れに順応してきていると判断していいのだろうか。しかし、それを裏付けるような調査報告、アンケートの結果などは、目にしたことがない。おそらくは、かなり貧弱なままであるのではなかろうか。

ただ、昨年度の経験としては、オンライン授業でも教育的に一定の効果を得ることができる、これは、多くの教員が確信したことだろうと思う。無論、科目の性質によっては、違いはあるかもしれない。しかし、以前のように必ず教室で学生と一緒でなければならないということは、必ずしもあらゆる科目に必須ではないということは、大方の共通理解として成立してきたようだ。

これも見方を変えてみるならば、オンライン授業にしてついて来ることができない学生を切り捨てて考えているということである。通常の授業ができたからといって、出席率一〇〇%ということは、一般的にはありえない。(ごく少人数のゼミのようなものならあり得るかもしれないが。)

通常の授業をしたにせよ、オンラインになったにせよ、トータルで見て、ほぼ同じような割合で学生が授業についてきているということはいえるかもしれない。出席率、成績評価の結果として、だいたい同じようなことになるのならば、ということで、オンライン授業もまた一つの方式として、定着する方向にあるといっていいのだろうと思う。

少なくとも、オンラインになったからといって、劇的に良くなったとも、悪くなったともいえないのが、狭義の教育の実態だろう。

一方で、学生が大学のキャンパスに出てこないということで、相互の交流ができないなどの、マイナス面があることは確かにあるだろう。だからといって、すべての授業を教室で普通に行わなければならなないということにはならない。学生が、キャンパスに集まることができるだけのことは保証するとしても、大人数講義などはオンラインに切り替えても、特に支障があるということはない。

総合的に考えて、オンライン授業併用ということが、現実的なところかと思う。

これも、今後の、COVID-19感染症の成り行きいかんでは、キャンパスの閉鎖ということもありえないことではない。そのときは、そのときのこととして考えることにして、さしあたっては、オンライン(オンデマンド)ということで、すすめていきたいと思っている。

2021年5月2日記

追記 2021-05-10
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月10日
オンライン授業あれこれ(その二三)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/10/9375974

オンライン授業あれこれ(その二一)2021-01-28

2021-01-28 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月21日
オンラインの授業あれこれ(その二〇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/21/9339554

ようやく今年度(二〇二〇)の後期授業が終わった。オンラインの教材配信が終わったところである。後は、最後のレポートの電子メール提出である。

思い返せば、二〇二〇年度は異例ずくめの授業であった。前期は、オンライン。LMSを使っての教材配信と、電子メールでのレポート提出。後期は、教室で授業ができたのだが、例年と違って大きな部屋に変更になった。学生が着席して距離を取るためである。大きな教室なので板書して、説明ができない。やむをえず、配布した教材プリントについて、説明を加えるだけの話しになってしまった。授業はちょっと早く終わることにした。終わって、学生が、エレベーターや廊下、階段で密集しないためである。

その後期の授業も、京都の緊急事態宣言をうけて、最後の二回はオンラインになった。前期と同様の教材配信。

レポートは、教室で受け取ったものもあるし、電子メールで受け取ったものもある。A4一枚ぐらいに書くもので、四回。これで、通常の試験ができた場合と同じようなことを、答案の代わりに書いて提出ということになった。

オンライン、それも動画配信ではなく、教材プリント、解説の配信という、文字を基本のものとしたが、これはこれなりに、なんとかうまくいったかと思う。たまたまであるが、日本語史という科目で、日本語の文字や表記、文章といった内容の話しを中心にしたので、とにかく書いたものを読むことが重要になる。学生が読んで考えてくれなければ、意味がない。

これが、音韻とかアクセントとかのことについて触れるとなると、どうしても音声つきの動画像の配信ということが必要になっただろう。

それから、二〇二〇年度になって、急遽、授業がオンラインになるということで、当初心配されていたこと、学生のインターネット通信環境の問題は、どうなったのだろうか。学生が自分のパソコンを持ち、光回線などでインターネットに接続している、という状況になっているという話しは、伝わってこない。これはどうなのかなと思う。やはり、依然として、スマホだけしか持っていないという学生もいるのかもしれない。あるは、スマホも持っていない学生もいるのだろうか。このあたりの事情が、どう改善されるのか、詳しいことがわからないのが、どうにももどかしい。

これは、次年度(二〇二一)の授業をどう考えるかに影響してくる。これは、COVID-19感染症の程度によることは無論であるが、しかし、新年度から無事にそれまでと同じ通常の授業ができる状況になるとは考えられない。せいぜい楽観的に考えてみても、緊急事態宣言が解除されるかどうか、といったところである。感染症はつづくだろうから、以前のように教室で授業ができるかどうかわからない。こればかりは、今後の推移を見ながら判断することになる。

だが、ともあれ、オンライン方式にせよ、大教室での授業にせよ、どうにかなるということは経験的にわかってきたところでもある。なんとか、状況に合わせて対応していくしかないと思う。

2021年1月27日記

追記 2021-05-03
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月3日
オンライン授業あれこれ(その二二)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/03/9373438

オンラインの授業あれこれ(その二〇)2021-01-21

2021-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年9月7日
オンライン授業あれこれ(その一九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/07/9293018

学部の授業(日本語史)が、再びオンラインになった。京都府などの緊急事態宣言をうけての対応である。

今年になってからの最初の授業は教室で話しをした。後期の授業としては、一三回目の話しになる。このとき、昨年末に出しておいたレポートの提出、それから、最後(一五回目)のレポートの課題を配布した。

その後、大学からの連絡でオンライン授業推奨ということになったので、そのように対応することにした。残りは二回である。一回分の講義と、それから、まとめの話し。そして、最後の四回目のレポートの提出である。

教室での授業のとき、京都府などの緊急事態宣言があるので大学の授業も次回以降どうなるかわからないから注意するようにとは言っておいた。たぶん、学生の方でも、それなりの準備はできているだろうと思う。

方式は前期と同様。毎回の授業のプリント(二ページ)に解説(二ページ)を加えたものである。それを、授業日の午前九時に送信するように設定して、送信した。

残りは、あと一回。最後の回のみである。通常の授業ができるなら、まとめの話しと、最後のレポートの提出ということになる。これも、オンデマンド方式の教材プリント配信と、電子メールでのレポート提出ということになる。締切は、最終授業日である。

ともあれ、イレギュラーな形ではあったが、教室での話しと、オンラインの教材配信とで、どうにか後期の授業はのりきることができたかと思う。

さて、次年度、四月からどうなるか、これがまったく先が見通せないのが困ることでもある。現時点の判断としては、感染が今のままで推移するなら(これからそんなに急拡大することがないなら)、四月から、今年度の後期のような形態で授業を進めることができるかと思う。大きめの教室を用意して、学生が集まらないようにする、大人数の講義でそれが無理なものは、オンラインにする……このような複合的な対応で、どうにかなるかもしれない。

これが、普通に教室に多くの学生が集まってということはたぶん無理だろうと思う。また、感染の拡大いかんによっては、キャンパスの立ち入り禁止のような対応も必要になってくるかもしれない。こればかりは、今後の推移を見守るしかない。

2021年1月20日記

追記 2021-01-28
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月28日
オンライン授業あれこれ(その二一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/28/9341762