『本で床は抜けるのか』西牟田靖2018-04-21

2018-04-21 當山日出夫(とうやまひでお)

本で床は抜けるのか

西牟田靖.『本で床は抜けるのか』(中公文庫).中央公論新社.2018 (本の雑誌社.2015)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/03/206560.html

先に結論を書けば……本で床は抜けるのである。その経験が私にはある。人ごとではないのである。

学生のとき(慶應の文学部)のことである。目黒に下宿していた。四畳半の部屋だった。お医者さんの家の二階であった。そこに、スチールの本棚を、三つか四つぐらい立てていただろうか。その当時の学生としては、本は持っていた方だと思う。

その頃、国文科の学生として、勉強のために、折口信夫全集も、定本柳田国男集も、そろえて持っていた。

ある日、隣の部屋(これも四畳半の部屋)との仕切りの壁のところの床が、ちょっと沈んでいるかなという感じがしたのを覚えている。その後、特にどうということなくすぎていた。引っ越しすることになった。同じ屋根の下で、もうちょっと広い部屋にである。

本棚を片づけてみると……確かに床が沈んでいるようだった。大家さん(病院であるから、お医者さんの一家である)に報告して見てもらった。大工さんに調べてもらったら……床が抜けていた。

といっても、半分は、木材の腐食か虫食いのようなもので、その箇所が弱くなっていたのではあるが、しかし、本棚の重みには耐えられなかったようだ。ちょうど、病院の診察室の真上に位置する。

このときは、大家さんの好意で、特にとがめられることもなく、全額大家さん負担で修理してもらうことになった。(その後、大学院の学生のとき、そのお医者さんが亡くなってから後、建物も取り壊されてしまうことになった。)

このとき、しみじみと感じたものである。本の重みで、家の床を破損することがあるのである、と。

それ以来、引っ越しするときに考えることは、その建物が本の重みに耐えるかどうかであった。その後、とにかく鉄筋の建物に住むことにした。木造の建物では、不安があったからである。

幸い、その後、本で床を抜いたという経験はしていない。

今の住まい……二十年ほど前に建てた木造の建物であるが、これを考えるとき、とにかく床を頑丈にということを考えた。通常の建築よりも、数倍は、床を頑丈に造ったはずである。家の中、どの部屋や廊下に本棚をおいても、大丈夫なようにと思った。少なくとも、一階は、どこにどれだけ本をおいても大丈夫なはずである。

二階もかなり頑丈にしてもらった。これは、本よりもピアノ(アップライトである、これは子どものため)を置くためである。ピアノも重い。二百キロを超えるとのことであった。

今、本は、自分の部屋の他に、外の書庫……という立派なものではない、ただの倉庫、しかし、特徴としては、窓はなくて、ひたすら床を頑丈に造った建物……においてある。自分の部屋からだと、いったん外に出て歩かなければならないので、億劫である。そのためもあって、自分の部屋の机のまわりの床は本だらけである。

これも、数ヶ月に一度は、整理して、まとめて外の倉庫の方に移動させることにしている。そうでないと、身の周り、文字通り足の踏み場もない状態になってしまう。

そして、この本『本で床は抜けるのか』であるが……最初に出た単行本を買って、また、文庫版が出たら買ってしまった。このようなことをしていると、本で床を抜くことになるのであろう。

それにしてもである、『日本国語大辞典』(第二版)は、私の机に座って手のとどくところにならべてある。しかし、今では、これを使うことはめったにない。ほとんど、デジタル版のジャパンナレッジで済ませてしまう。にもかかわらず、紙の本としての辞書は、手元においておきたい。

以前、旧版の『日本国語大辞典』を使っていたころは(これは、手元にはおいていない、外の倉庫の方に移動させた)、鉛筆(青)で、用例に印をつけたりしながら、辞書を「読んで」いたものである。デジタル版になって、辞書を「読む」ということがなくなってしまっている。これも、時代の流れなのかなと思ったりもする。だが、紙の『日本国語大辞典』が手のとどくところにないと不安である。

デジタルの時代になっても、紙の本というものがある限り、床の心配はなくならない。

『やちまた』足立巻一(その五)2018-03-26

2018-03-26 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 『やちまた』足立巻一(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/24/8810196

足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html

『やちまた』(足立巻一)を読んで、今ひとつよくわからないことがある。それは、『詞八衢』(本居春庭)という書物が、いったいどんな書物で、何が書いてあるのか、よくわからないことである。

たぶん、著者(足立巻一)は、意図的に、『詞八衢』という書物の内容には言及していないのである。もし、『詞八衢』について解説しだしたりすると、それだけで、さらに一冊の本を書かなければならないかもしれない。

『詞八衢』は、大部な書物というわけではないが、決してわかりやすい本ではない。それは、ここに掲載した画像を見ればわかる。無論、変体仮名で書いてあるので、読むのはちょっと難しいかもしれない。だが、難しさは、変体仮名で書いてあることではない、この書物の眼目とでもいうべき、用言の活用表についてである。

一般に、現在の国語教育、古典教育で教えられる文法……いわゆる学校文法、古典文法……は、演繹的である。四段活用なら、基本だけを示して、あとは、五十音図によって演繹的に考えるようになっている。

だが、江戸時代、五十音図というのが、一般に流布する前のことである。一部の国学者ならば分かったかもしれないが、一般の読者まで視野を広げて考えるならば、五十音図による演繹的な説明は無理である。あくまでも、実例に即しながら、帰納的実証的に説明するしかない。

その結果、活用を図にしてしめすと次のようになる。表紙(上巻)、本文のはじまり、活用図の画像、刊記(下巻)を示す。

詞八衢(表紙)

詞八衢(本文)

詞八衢(活用図)

詞八衢(刊記)

これでは、今の読者……学校文法をならっているような……には、すぐには何のことか分からなくてもしかたがない。『やちまた』を書いたとき、著者(足立巻一)は、このような江戸時代の国学者の書いた活用の表を、読者に提示することをしていない。だが、著者(足立巻一)は、この表をきちんと理解している。だからこそ、先行研究とのつきあわせということもできる。このことは、わかった上で、『やちまた』は、今日において読まれるべきであろう。

これ以上のことは、専門的な国語学史、あるいは、学校文法の教育史ということになるので、ここまでにしておきたい。

ここで使用した画像は、国立国会図書館デジタルコレクションにある。PDFでダウンロードして、画像(JPEG)に変換したものである。著作権保護期間満了となっている。

蛇足ながら……この画像の題簽(本の表紙の紙に書いてあるタイトル)には「言葉のやちまた」とある。しかし、内題(本の本文の最初に書いてあるタイトル)「詞八衢」とある。この場合、内題を優先する。

上巻
永続的識別子 info:ndljp/pid/2562833
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562833

下巻
永続的識別子 info:ndljp/pid/2562834
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562834

桑原武夫の蔵書のゆくえ2017-04-29

2017-04-29 當山日出夫

最近、WEBで話題になっていること……故・桑原武夫の蔵書が、京都市に寄贈されたものの、それが、廃棄されてしまっていたとのことである。理由としては、図書館において利用実績が無いから、ということらしい。

この件については、NHKも報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170427/k10010963631000.html

この点について、FBやTwitterなどでの反応は、主に次の二点になるだろうか。

第一には、京都市の対応を非難するもの。桑原武夫の蔵書をゆずりうけていながら、それをきちんと管理できないというのは、京都市の責任である。

第二には、それと反対に、いったん京都市に渡してしまったものなら、それをどうしようと市の側の自由である。利用されない本をもっておくだけの余裕は、京都市の図書館にはないので、これはいたしかたない。

まあ、ざっと以上のような二点に分けられるだろうか。

これ以外には、桑原武夫ほどのビッグネームであっても、その蔵書の維持はもう無理なのか、というような慨嘆の声もある。また、図書館にただ本を寄贈するだけではなく、その維持管理のコストのことも考えなければならないという意見もある。あるいは、学術資料として貴重なのは、一部の稀覯本をのぞけば、むしろ蔵書目録の方である、という見解もある。

ただ、この件に関して私の思ったことを記すと……「廃棄」というのは、どういうことなのだろうか、ということ。文字通り、廃棄処分、つまり、ゴミにしてしまったということなのだろうか。あるいは、図書館から除籍して、古書店にでも売ったということなのであろうか。私の持っている本でも、古書で買ったものの中には、もとは図書館の蔵書であったものがある。

私の感想としては、ゴミにしてはいけないと思う。少なくとも、古書店を介して、次の読者にわたっていくようにするのが、ある意味で、桑原武夫の蔵書のあり方としては、望ましいと考える。

どこかで読んだエピソード。確か、桑原武夫の話しだったと思う。ある時、登山について人と話をしていた。そのとき、図に書いて説明する必要があった。すると、手近にあった本……それは、海外から届いたばかりの貴重な本であった……の余白のページをやぶって、そこに図を書いて示した。いわく、本というのは、利用するためのものである。ただ、持っておくためのものではない。

この話し、何で読んだのかは忘れてしまったが、いまだに憶えている。

私の本には、古書店で買ったものが多い。本というものは、古書店を介して、リサイクルするところにも価値がある。古書として流通して、次のしかるべき読者のもとにわたってくれれば、幸いとすべきかもしれない。

桑原武夫の蔵書の一件は、書籍の再利用、古書としての流通という観点から、どのような利活用の方法があったのか、考えて見てもよかったのではないだろうか。

山内昌之『歴史学の名著30』2016-12-23

2016-12-23 當山日出夫

山内昌之.『歴史学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063540/

今では、絶版のようである。古本で買った。

ちくま新書は、『~~の名著30』というタイトルで、いくつか本を出しているが、その一つ。

また、著者・山内昌之にしてみれば、歴史学の入門・概論的な本をいくつか書いているが、そのなかの一つということになる。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

やまもも書斎記 2016年10月24日
山内昌之『歴史とは何か-世界を俯瞰する力-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/24/8234864

で、この『歴史学の名著30』である。その「Ⅰ 歴史への問いかけ」で取り上げられているのは、次の本。

ヘロドトス 『歴史』
トゥキディデス 『戦史』
司馬遷 『史記』
班固 『漢書』
原勝郎 『日本中世史』

おわりの「Ⅵ 現代への視座」では、次の本。

ヴェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
宮崎市定 『科挙』
バーリン 『父と子』
フーコー 『監獄の誕生』
網野善彦 『無縁・苦界・楽』

見ると、『文明論之概略』(福沢諭吉)がはいっていない。その理由として、「はじめに」のところで、これは、同じちくま新書のシリーズ『政治学の名著30』でとりあげられているから、とある。

この本が意味があると思うのは、歴史学のブックガイドという側面もあるが、より具体的に、どのテキストで読むか、というところまで案内してあること。

たとえば、上記の私の過去のブログでとりあげた、『歴史という武器』では、ビジネスパーソン向けに、読むべき歴史学の本が紹介してあったのだが、具体的にどの本がいいとまでは書いてなかった。特に、『史記』について、ただ書名だけがあがっていたのは、やや不満が残った。

それがこの本では、具体的に挙げられている。著者(山内昌之)の勧めるのは、

小竹文夫・小竹武夫(訳).『史記』(ちくま学芸文庫).ちくま書房 全8巻

である。

調べてみると、この本は、いまでも入手できる。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082008/

この本が『史記』を読むのにふさわしい本かどうかは、東洋学の専門家からは、また、意見のあるところであるかとは、思う。しかし、『史記』が、現代日本語訳で読めるというのは、ある意味で幸福なことでもある。そして、それが、山内昌之が回想するように、中高生でも読めるというのは、よろこぶべきことであろう。

この『歴史学の名著30』、ざっと見ると、読んだことのある本、名前だけしっている本、読んだことのない本と、いろいろである。

今年(2016)の年内の授業は、終わった。来年一月にすこしある。試験もしなければならない。しかし、その後は、かなり時間がとれるはずである。このようなブックガイドをもとに、昔読んだ本を再読したり、読んでいない本を読んだりとして、時間をつかうことにしたいものである。そして、歴史とは何か、これは、ひろい意味での「文学」ということになるだろうが、そのようなことについて、自分なりに考えをすすめてみたいと思っている。

山内昌之『「反」読書法』2016-12-04

2016-12-04 當山日出夫

山内昌之.『「反」読書法』(講談社現代新書).講談社.1997

今では絶版のようだ。

著者は、言うまでもなく、現代イスラームの歴史、国際情勢についての専門家。そして、私の見るところで、現代におけるすぐれた人文学者であり、読書家でもある。いや、読書家などと言っては失礼にあたろうか。だが、著者の書いた書評の類は、どれも興味深い文章である。

ネットで検索して、古本で買って読んでみた。

読みながら付箋をつけた箇所。

「いずれにせよ、周囲とのやりとりで疲れたとき、歴史性と叙述性を兼ね備えた作品を読んでは気分を転換させたものです。とくに歴史と文学との間で感銘を受ける作品に出会ったことは、その後の私の進路に大きな意味をもちました。」(p.177)

として、あげてあるのが、大佛次郎の『パリ燃ゆ』と『天皇の世紀』である。

私は、『パリ燃ゆ』は、残念ながら読んでいない。『天皇の世紀』の方は、近年、(といっても、ずいぶん前になるが)、文春文庫版で出たのを、順番に読んでいったものである。(しかし、残念ながら、これも途中で挫折している。まあ、もともとが、未完の作品なので、いいかなとも思っているのだが。とはいえ、その冒頭の京都の雪の描写のシーンは、憶えている。)

『天皇の世紀』は、幕末・明治維新を描いた作品である。その関連で思い浮かぶのは『遠い崖』(萩原延壽)。これは、全巻買ってもっているのだが、まだ、手をつけていない。

ところで、『「反」読書法』は、上述の箇所のように著者の若い時の読書体験をつづったところがある。そのなかで、気付いたところ。

『パリ燃ゆ』を買ったのが、学生のときのこととして、その値段が、1400円であったとある。そして、

「岩波新書が百五十円の時代だったといえば、この本がいかに高価だったかをお分かりいただけるでしょう。」(p.178)

とある。

そうなのである。岩波新書は、昔は、150円均一だった。思えば、その当時、岩波文庫は、★の数で値段を表示していたものである。私の記憶にある、★ひとつの値段は、30円。

いまでも、手軽に手にとれる分量のすくない本のことを、「岩波文庫でほしひとつ分ぐらい」と、つい言ってしまうことがある。

ともあれ、『パリ燃ゆ』は読んでおきたい本のひとつ。今では新版が出ている。三巻になる。やはり三巻そろえると、岩波新書の一冊の10倍ぐらいの値段になる。それから、『天皇の世紀』も、再度、じっくりと読んでみたい。こんなことを思いながらも、今、興味があるのは、桜木紫乃の小説など。そして、その合間に、北原白秋や萩原朔太郎の作品を、パラパラとめくって懐かしんでいる。そんなこのごろである。

定本漱石全集2016-11-25

2016-11-25 當山日出夫

新しい「定本 漱石全集」(岩波書店)である。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/Soseki/img/all3.pdf

これは、はたして買う価値があるのか……特に、旧版(1993年)を持っている人間にとってはどうなんだろうか。まだ、どうしようか迷っているのが正直なところである。(でも、たぶん、買うことになると思っている。新しい全集で、漱石の作品を新たに順番に読んで生きたい気もする。)

『漱石全集物語』を読んで興味深いと思ったところ。それは、岩波書店が、最初の漱石全集を出したとき、予約・直販の方式をとったことである。書店を介してはいない。

やまもも書斎記 2016年11月24日
矢口進也『漱石全集物語』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/24/8259485

これは、出版史の問題になるが、現在のような書物の流通のシステムも歴史的にできあがってきたものである。ずっと昔、近代的な出版事業がはじまってから、このようであったわけではない。

広告を出して、予約・直販方式というのは、いまであれば、ネット販売にあたるといえるだろう。そのことを考えたうえで、では、なぜ、岩波書店は、今回の「定本 漱石全集」をネット販売しないのだろうか。

少なくとも、全巻予約の方式は、今回の全集ではとっていない。もう、そのような本の売り方をする時代ではないのかもしれない。

ネット直販で本(全集)を販売/購入する……この前例は、私にはある。小学館の『カムイ伝全集』(白土三平)である。これは、ネットで申し込んで、小学館から直販で買った。決済は、クレジットカード。

では、なぜ、このような方式(ネット販売、クレジットカード決済)が、岩波書店ではできないのであろうか。今では、古書店(日本の古本屋)でも、クレジットカードで本が買える時代である。

むろん、この方式をとれば、町の小売り書店を圧迫する、という理屈はあるのだろう。だが、小売り書店の存続のために出版があるのではないはずである。まず、出版があって、その上に、小売り書店が存在する。もともとの出版そのものが、なりたたなくなってしまえば、小売り書店も何もあったものではない。

ところで、私は、どのようにして本を買っているか。今では、基本的には、ネット書店に限定している。その理由は、履歴が残るからである。同じ本を二度買ってしまう心配がない。古書でも、ネット書店で買ってしまうことの方が、最近では多くなっている。

だからといって、街の書店に行くのが嫌いなわけではない。いや、いまだに好きな方であるし、できるならば、街の書店で本を買いたいと思う。だが、そのために、わざわざ自動車を運転して郊外の書店まで行くのも、無駄なような気がしている。昔のころのように、町中に住んでいて電車で毎日どこかにでかけるような生活を送っていれば、駅にある本屋さん(たいてい、ある程度の駅の近くには書店があったものである)で、買うのが一番いいだろう。

新書とか文庫……このごろでは、月のはじめごろに、主な新書・文庫の新刊をしらべて、ネット書店で注文しておくようになった。(これも、以前ならば、ある程度の規模の書店に行って、新刊の棚をみつくろっていたものである。)

書店ビジネスも、いま、曲がり角にきているのだろう。そのなかで、出版が今後どうあるべきなのか、また、「全集」のような出版がどうあるべきなのか、大きく変わっていくにちがいない。そして、読者のあり方も変わっていくだろう。

ただ、私としては、自分の読みたい本が手にはいればよい。この、読者が読みたいと思っている本が手にはいる、これが基本になると考える次第である。そのための書店であり、書籍の流通システムでなければならないと思う。

矢口進也『漱石全集物語』2016-11-24

2016-11-24 當山日出夫

矢口進也.『漱石全集物語』(岩波現代文庫).岩波書店.2016 (原著 青英社.1985 年表・参考文献に増補あり。)
https://iwanami.co.jp/.BOOKS/60/2/6022830.html

岩波書店が、あたらしく「定本 漱石全集」を刊行するにあたって、現代文庫で再刊したという本になる。このもとの本は、1985年の刊行であるので、1993年の「漱石全集」(全28巻、別巻1)のことについては、触れられていない。もちろん、今回のあたらしい「定本」版のことについては、言及がない。

私は漱石の全集は、二セット持っている。1974版の全17巻(別巻1)と、上記の1993年の28巻(別巻1)の、二セットである。

高校生のころから、漱石の作品は読んできている。好きな作家であったといっていいだろう。岩波書店から、全集が刊行になるというので、これはねだって買ってもらったものである。ただ、ちょっと安く買うために、当時、京都にあった取次店から直に買ったのを覚えている。

特に、『猫』はよく読んだ。大学受験を目の前にして、鬱屈した時間をすごすなかで、唯一読めた本といってよいかもしれない。(この意味では、漱石の「神経衰弱」がある程度は理解できるつもりでいる。)

ところで、この『漱石全集物語』であるが、いろんな意味で面白い本である。(よくぞ、岩波書店が、この本を出したものだと思う。内容的には、決して岩波書店に対して好意的な観点では書かれていない。その本文校訂をめぐっては、どちらかといえば批判的な立場である。)

この本、すくなくとも、文学、特に、近代文学を学ぼうとしている学生にはすすめておきたい気がする。一般の文学研究の場合、どの本をもちいるのか、まあ、「全集」が出ているなら、それにしたがっておけばよいというのが、常識的なところだろうとは思う。

しかし、その「全集」が漱石の場合、多種多様な校訂で出されている。たとえば、岩波の新しい版のように、自筆原稿の誤字まで残すのが正しい校訂本文といえるのかどうか、このあたりのことは考えてみる必要があるだろう。

この意味では、青空文庫の本文も批判的にあつかわれてよい。漱石の作品の多くは青空文庫にはいっている。基本的に、私は、青空文庫は、その企画そのものについては、高く評価する立場をとる。しかし、個々の作品の本文校訂にまで、細部にわたってみるならば、いろいろと問題があることは、容易に理解される。いや、このような問題点があることをふまえたうえで、それでも利用価値があるというところで、青空文庫の本文はつかわれるべきなのであろう。

近年の「全集」の企画といえば、中央公論新社の「谷崎潤一郎全集」がある。それから、晶文社の「吉本隆明全集」がある。もう、「全集」の時代ではないといえるのかもしれないけれども、漱石、谷崎、吉本あたりについては、みんなで共有する基本的テキストを集成したものとして「全集」があってもよいとは思っている。ただ、その販売方法は、今の時代にあわせたものを考えるべきであろうが。

ともあれ、『漱石全集物語』は、「全集」として本が出ているからといって、その本文を信用していいかどうか、このことを、実例に即して教えてくれる本である。どの「全集」のどの「本文」をつかうべきか、考えて見る必要がある。近代文学ならではの本文校訂の問題をかんがえるのに、非常によい本だと思う。

呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』2016-11-23

2016-11-23 當山日出夫

呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/

いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。

そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。

はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。

1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。

白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。

『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。

もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。

それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、

吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/

今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。

吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。

若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。

そうはいっても、たとえば、

竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html

この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。

長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

佐和隆光『経済学とは何だろうか』2016-11-17

2016-11-17 當山日出夫

佐和隆光.『経済学とは何だろうか』(岩波新書).岩波書店.1982
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/9/4201820.html

いうまでもないことだが、私は、経済学など専門外である。しかし、岩波新書のこの本ぐらいは読んでいる。で、ここで書いておきたいと思っているのは、「パラダイム」という語についてである。

今、「パラダイム」ということばはよく使われると思う。より広義には、思考の枠組みとでもいうような意味で使われるだろうか。もちろん、このことばは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』でもちいられた、科学哲学の専門用語である。

そして、今では、このことば「パラダイム」について論じようとするときには、クーンの本に依拠して述べるというのが、普通になっていると思われる。

トーマス・クーン/中山茂(訳).『科学革命の構造』.みすず書房.1971
http://www.msz.co.jp/book/detail/01667.html

だが、私の経験では、この「パラダイム」ということばを初めて眼にしたのは、クーンの本によってではない。それを引用してつかった、佐和隆光の岩波新書『経済学とは何だろうか』によってである。そして、私の見るところでは、日本の社会のなかで、「パラダイム」ということば多く使われるようになったのは、この岩波新書を契機としてであったように、思うのである。

そこを確認するならば、「クーンの「科学革命」論」として、

「「科学の客観性」への疑問を、もっと鮮明なかたちで提示したのが、科学史家トーマス・クーンである。クーンは、その著『科学革命の構造』(1962年、邦訳みすず書房刊)で、〈範型〉(パラダイム)という概念を提案し、古い〈範型〉が新しい〈範型〉によって、とってかわられる過程を、「科学革命」と呼んだ。」(p.154)( )内はルビ。

そして、パラダイムということば・概念をもちいて、経済学の潮流の変化を説明していく。(経済学の門外漢である私には、そのことについて評価はできないが。)

この本を若い時に読んで、経済学の何であるかは分からなかった(今でも分からないままであるが)、「パラダイム」ということばだけは、はっきりと覚えている。その後、何かのおりに使い初めて、今日にいたっている。

その後、みすず書房の『科学革命の構造』も買って読んだりしたものである。かなり難解な本で、あまりよくわからなかったというのが正直なところであるが。

現在ではどうなんだろうかと思う。「パラダイム」ということばが一般化しているので、特に意識することなく、普通の人は普通にこのことばをつかっていると思う。特に、若い人はそうだろう。もし、ちょっと勉強してみようという気のある若者ならば、直接に『科学革命の構造』を読んでみたりするかもしれない。

だが、学問史……というほどの大げさなものではないとしても、「パラダイム」という概念で、学問・研究の進展の枠組みを考えようとするならば、是非とも『経済学とは何だろうか』をはずすことはできないと思う。少なくとも、私の個人的経験からするならば、日本において「パラダイム」の語がひろまったのは佐和隆光の『経済学とは何だろうか』(岩波新書)によってであると、理解しているからである。

すくなくとも、上記のような観点において、『経済学とは何だろうか』は、読まれていい本だと思っている。