斎藤美奈子『文章読本さん江』2016-09-01

2016-09-01 當山日出夫

斎藤美奈子.『文章読本さん江』(ちくま文庫).筑摩書房.2007(原著、筑摩書房.2002)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424037/

大学生を相手に文章の書き方を教えるようになってから、10年ぐらいたっている。そのころには、すでにこの本は出ていて、単行本で出たときに買って、それから、文庫本になってまた買ってもっている。今回、この本を本棚から探してきて読んだ理由は、谷崎潤一郎の『文章読本』が、新潮文庫で出て読んだからである。このことについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年8月23日
谷崎潤一郎『文章読本』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/23/8160014

このときにも書いたように、私の立場ははっきりしている。文学的情操教育としての文学教育、作文教育と、言語コミュニケーション技術とは別のものとして考えるべきである、この立場にたっている。

この本『文章読本さん江』が出たのが、2002年。Windows95が出て、インターネットが、一般に利用されるようになって、数年後のころのことである。2007年の文庫本になった時の「追記」には、

「とはいえブログが新時代の「劇場型の文章」であることに変わりはない。」(p.149)

とある。それが、今では、ブログは、見方によっては旧式のメディアになってしまって、SNSが中心になってきている。現時点でのSNSの主流は、TwitterとFacebook、それからLINEだろう。いま、この文章を書いているようなブログは、ちょっと時代遅れという感じがしないでもない。ましてや、それを、毎日、なにがしかの文章を掲載しているような人間(私のような人間であるが)は、もはや化石的な存在かもしれないと、なかば自嘲的に思っている。(それでも、やっているのは、ブログに書くことになにがしか意味を感じているからなのであるが。)

ところで、学生に文章の書き方……レポートや論文の書き方……を教えていて、思っていることを書いておくならば、それは、次の一言につきる。

〈一読してわかる。〉

そして、さらにいえば、

〈一読しかされない。〉

ということである。学生が書いたレポート、それから、試験の答案用紙の文章(論述試験の場合)、これらの文章が、何度も熟読玩味されることは、絶対にないと言っておく。一読して意味がとおれば、OK。意味がとおらなければ、不可。

そして、〈一読してわかる〉ためのテクニックとして、
・事実と意見を分けて書くこと
・パラグラフで書くこと
・結論から先に書くこと
を教えている。もちろん、これらの事項は、木下是雄の本から借りてきている。それから、大事なこととして、
・参考文献リストをきちんと書くこと
・脚注をつけること
を言っておく。

ところで、この本『文章読本さん江』によると、文章読本の隆盛期は、戦前戦後を通じて三度あったとある。1930年代、50年代後半、70年代後半、である。ある意味、2010年代の今の時期も、ひょっとすると、ひとつの文章読本の隆盛期の一つになるのかもしれない。それは、文章一般を対象とした文章読本ではなく、大学生を相手としたレポートや論文の書き方のマニュアル本の類の隆盛である。

いわゆる大学全入時代のせいか、レポートや論文、それ以前に、文章の書けない大学生が多く生まれている。そのような学生を対象として、参考文献の探し方からはじまって、テーマの設定、全体の構成の仕方、参考文献リストの書き方、もちろん、パラグラフで書くことをふくめて、懇切丁寧に教えるマニュアル本が、たくさん出ている。私も、以前は、書店で目にするごとに買っていたりしたが、最近では、もうとても買い切れるものではないとわりきって、買わなくなってしまっている。

レポートや論文の書けない大学生を対象としたマニュアル本をふくめて考えるならば、今後、ますますこの種の文章読本の隆盛期を迎えるのではないかと思えてならない。

このような問題を考えるうえで、この『文章読本さん江』は、いろいろ参考になるところがある。特に、初等中等教育における作文のあり方について、この本の指摘する問題点は貴重である。戦前からのながれをひく学校での作文教育は、すっかり伝統芸能化してしまっているとしたうえで、つぎのようにある。

「ところが、学校を卒業したその日から、過酷な現実が待ち受けている。「作文」「感想文」は、一般の文章界では差別語である。「子どもの作文じゃあるまいし」「これでは子どもの感想文だ」は、ダメな文章をけなすときの常套句である。学校のなかでは「子どもらしい」という理由で賞賛された作文が、学校の一歩外に出たとたん、こんどは「幼稚である」という理由で嘲笑の対象にされるのである。子どもらしい「表現の意欲」を重んずる学校作文と、大人っぽい「伝達の技術」が求められる非学校作文は完全に乖離している。なんという理不尽!」(p.303)

大学生を相手に、読書感想文を求めるわけにはいかない。論文を読む技術(読解力とそれを要約する文章技能)が求められる。これは、社会に出て、伝達の文章を書くときにも通ずるものである。だが、これが、初等中等国語教育の分野に浸透するのは、いつのことになるだろうか。

たぶん、問題の根は深い。子供に子供らしさをもとめる、これは自明のことなのだろうか。こどもの作文は子供らしい文章であるべきか。それを認めるとしても、教育において、何をどう教えるべきことなのだろうか。このあたりの議論から問題はあるように思う。

だが、しかし、である……『文章読本さん江』には、「文は人なり」が批判的に解説されている。ナルホドである。いま、まさにここに書いたように、文章教育を論じるのに、教育の問題、子供とはなんであるか、を考えてしまわざるをえない。ことほどさように、問題は奥深い、また、ややこしいものなのである。

谷崎潤一郎『文章読本』2016-08-23

2016-08-23 當山日出夫

谷崎潤一郎.『陰影礼賛・文章読本』(新潮文庫).新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/100516/

新潮文庫で新しい本がでたので、買って再読してみた、というところである。

谷崎潤一郎は、昭和40年(1965)になくなっている。つまり、もう、著作権の保護期間が終わっているということになる。そのせいか……『谷崎潤一郎全集』が刊行になるし、また、この新潮文庫の『陰影礼賛・文章読本』が出ている。他には、気づいたところでは、『細雪』が、角川文庫で出ている。ちなみに、この新潮文庫版の帯には、「没後五〇年」と記してある。

角川文庫版『細雪』
http://www.kadokawa.co.jp/product/321512000005/

ところで、この『文章読本』、いまどきどんな人間が買って読むのだろう……たぶん、私のような人間か、昔、谷崎の作品のいくつかを読んだり、また、『文章読本』をどこかで読んだ経験があって、今、新しいのが出たので買って読んでみよう……というような人間なんだろう、と思ったりしている。

というのも、読んでみて(再読になるか)、なるほどと思わせるところもある一方で、こんなにも陳腐な文章論、日本語論であったのか、と今更ながらある意味で感心したりする。

たとえば次のような箇所。

「語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。」(p.178)

現在の言語研究の観点からすれば、日本語は、特に、語彙・文法の面において、特殊な言語ということはない、というのが常識的なところだろうと思っている。日本語があいまいな言語だとかというのは、単なる思い込み、迷信のようなものにすぎない。

にもかかわらず、やはり『文章読本』というと谷崎のこの本をあげることになってしまう。これは、日本語における文章教育、国語教育の宿痾のようなものかと思っている。よくいわれることであるが、言語コミュニケーション技能と、文学的情操教育の関係の問題である。本来、これらは、別の観点から教えられるべきものであるはずである。しかし、それが、未分化なまま混在しているのが、日本の国語教育(特に、初等中等教育)の問題なのであろうと思う。いまだに、読書感想文などというものが横行していることを見ても、そのことは言えると思うのである。

私は、学生には、「文章読本」の類は、すすめることはない。教えているのは、大学(高等教育)における、文章コミュニケーション技能のトレーニング、つまり、論文やレポートの書き方である。論文やレポートを書くのに、「文章読本」の類は、役にたつことはないと言っておく。それよりも、紹介するのは木下是雄の本『理科系の作文技術』『レポートの組み立て方』などである。

とはいえ、文学とか、言語文化というような領域について勉強しようという学生にとっては、「文章読本」の類は、読んでおくべき一群の書物ということになるだろう。谷崎潤一郎のほかにも、今、名前がうかぶだけでも、三島由紀夫、川端康成、などが書いている。ほかにも、井上ひさし、丸谷才一などにも、著作があある。文学部で、文学研究などに興味関心のある学生にとっては、むしろ、逆に必読書といえるかもしれない。

いうまでもないが、これは、谷崎潤一郎の文章論、日本語論に賛成してのことではない。このような文章論、日本語論が、一般に受け入れられている日本の現状を認識しておかなければならない、という意味においてである。特に、日本語学などを専攻する学生にとっては、この谷崎潤一郎『文章読本』は、批判的に読まれるべき性質のものと考える。

ところで、今回、『文章読本』を読み直してみて、一つだけ面白い箇所があった。変体仮名についてである。これについては、また、別に書いてみることにする。

それから蛇足にもうひとつ。新潮文庫版を手にして、まず解説から読んだが……書いているのが、筒井康隆だった。どうして、斎藤美奈子に頼まなかったのだろう。あるいは、頼んで断られたのか。

『文章読本』を読んでから、本棚を探してみた。

斎藤美奈子.『文章読本さん江』(ちくま文庫).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424037/

この本についても改めて再読しての読後感など書きたいと思っている。

追記 2016-08-31
人名を間違えていた。斉藤→斎藤に訂正。

CiNiiで失うもの2016-07-03

2016-07-03 當山日出夫

あえてこういってみる。CiNiiで失うものがあるのではないか、と。

CiNii
http://ci.nii.ac.jp/

確かにCiNiiは便利である。ある意味では、勉強のあり方を根本的に変えてしまったとさえいえるかもしれない。しかし、だからこそ、それと同時に起こっている問題点も見逃すべきではないと考える。

参考文献リストの書き方である。

昔、私が学生のころであれば……なにかの課題について調べるとき、図書館でカードを繰って、そのテーマについて書かれた研究書をさがす。その本を見て、巻末についてい参考文献リストから、さらに本・論文をさがす。さらに、その本・論文の参考文献リストから、次の本・論文をさがす……このような方式で探したものである。(こんなことは、書くまでもないと思えることでもあるのだが、確認のため記しておく。)

このような方式で本・論文を探していくと、自分が見ている本・論文が、参考文献リストで、どのような書式やスタイルで書かれるか、実体験することになる。そして、このような過程を通じて、参考文献リストの書き方というのを、なんとなく、身につけていくことになった。

これで完全に身につくというわけではなく、やはり最終的には、自分でまとまった論文を書いたり、学会発表をしたりするときに、ある一定の方式で書くということを確認することにはなる。

しかし、CiNiiを使って論文を検索してしまう今の時代だと、上述のような体験……図書館で本を順繰りに探していく……を、学生はもつことができないですんでしまう。これはこれで、確かに便利になったことではある。だが、便利になったおかげで、参考文献リストの書き方を身につける機会をなくしているともいえる。

こう考えてみるならば、これからの大学教育において次のようなことは必要であろう。二つ考えてみる。

第一に、なるべく早い時期からの、アカデミック・ライティング教育。その中での、参考文献リストの書き方の指導である。これは、専攻分野によってちがう。日本史や日本文学などと、言語学や日本語学、さらには、心理学などで、それぞれのスタイルがある。これについて、違いがあることを前提として、その専攻分野での基本を教える必要がある。

第二に、CiNiiや図書館のオンライン検索の結果から、どのように参考文献リストを書くかのトレーニングである。検索結果を、そのままコピーしたのでは、参考文献リストにならない。スタイルをその専攻の方式にととのえて、さらに、並べてやる必要がある。並べる順番は、著者名順(あいうえお順・ローマ字順がある)、同一著者については、その中を刊行年順にする。

この並べ替え、参考文献リストの整理などには、エクセルを使うのが適当だろう。文学や歴史の勉強などで、表計算機能としてのエクセルを使うことはないかもしれないが、参考文献リストの整理には、非常に役にたつ。このような場面で、エクセルの操作に慣れ親しむというのも、ひとつのあり方だと思っている。

以上の二つのことを、これから考えていかなければならないだろう。

私は、CiNiiの悪口を言おうとしているのではない。その便利さを十分にみとめつつ、それをさらに活用する、新しいアカデミック・ライティング教育の方向を考えてみたいのである。

さらにいうならば、論文の評価、という観点もある。CiNiiでは、論文の評価とは無関係に、特定のキーワードでヒットする論文が、網羅的に検索できる。研究の中身を読んで、吟味して、というプロセスがない。このことの問題はあるが、ここでは、あえて特にいわなことにしておく。

また、東洋学における目録学・書誌学のように、学問の基礎にそれをおくものもある。このような立場からは、本がデジタルで検索できればそれでよい、というわけにはいかない。

世の中で、なにがしか便利になることはある。便利になったとき、その便利さのなかに安住することなく、それで、何が変わったのか、あるいは、失ってしまったものがあるのではないか、反省してみる視点を自らのうちに持つ必要があるだろう。

特にデジタルの時代になって、世の中のいろんな仕組みが大きくかわろうとしている。そこで、あえて立ち止まって考えてみる余裕と、新しいものを積極的に利活用していくこと、この両方が求められていると考える次第である。

文献リストでサブタイトルの書き方2016-06-18

2016-06-18 當山日出夫

学生に論文・レポートの書き方を教える。そのなかで、文献リストの書き方も教えることになる。

論文において、参考文献リストは重要である。

第一に、これまでの、その研究テーマについての研究史を示すものになっていないといけない。(これがあまりに膨大になる、逆に、あまりにも乏しいものは、研究テーマとして再考した方がいい。)

第二に、そのリストは、研究の背景をしめすと同時に、論文それ自体とあいまって、今後の展望・発展をあらわすものである。卒業論文などの場合、たいていの学生ならば、それで研究は終わりで、そこから先は無いのが普通。しかし、論文である以上は、その先の研究の展望がしめせないといけない。

ところで、この参考文献リストの書き方が難しい。いろんな研究分野でいろんな方式がある。文学部のなかでも、日本文学、日本史のような分野と、心理学の分野とでは、大きくスタイルが違っている。統一的なルールを、これだ、といってしめすことはできない。

これについては、またあらためて整理してみたいが、今回、確認しておきたいのは、サブタイトル(副題)の書き方である。

たとえば、宮崎市定の『科挙』という中公新書の本がある。東洋史・中国文学のみならず、日本文学・日本史などの勉強をする学生にとっては、必読の本であるといってよい。この本、サブタイトルに「中国の試験地獄」とある。さて、これをどう表記するか。

(1)『科挙-中国の試験地獄-』 全角ハイフンまたはダッシュで前後をはさんでしめす。

(2)『科挙――中国の試験地獄』 全角のダッシュの二つでしめす。

(3)『科挙:中国の試験地獄』 コロン「:」でしめす。

私は、このうち、(1)と(3)を教えることにしている。(2)は言及しない。

その理由は、全角ダッシュ「―」がわからない学生がいるからである。半角のハイフンを二つ書いて「--」、それを書いたつもりになってしまう学生が出てくる。まず、半角・全角の区別ができるかどうかが問題なのだが、ともあれ、「―」を確実に入力できないといけない。(コンピュータ文字について、全角・半角の区別がわからないという学生は、意外と多い。)

普通の学生のコンピュータ技能、というか、ワープロの使い方として、キーボードの右端にあるテンキーの角にある「-(マイナス)」から、入力・変換できればよいとしておく。(それでも、これを半角記号で書いている学生も多いのだが。)

そして、何よりも重要なことは……サブタイトルの書き方は、原本の再現ではない、ということである。原本にどう書いてあろうとかまわない。それが、タイトルがあって、サブタイトルがついていることを、一定の書式でしめす、これが重要である、といっている。つまり、書き換えてかまわない、いや、書き換えないといけないのである。

参考文献リストを書くとき、絶対に書き換えてはならない箇所もあれば、書き手の意図にしたがって、一定のルールで書き換えないといけない箇所もある。その区別がある、このようなルールがあるという認識を、まず教えなければならない。

ちなみに、以前にとりあげた『カラー版書物史への扉』では、上記のうち、(2)の方式で書いてある。

やまもも書斎記(2016-05-31):宮下志朗『カラー版書物の歴史への扉』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/31/8099280

文献リストの書き方は、何年教えていても、難しいと感じる。

『大学生からの文章表現』2011-05-04

2011-05-04 當山日出夫

黒田龍之助.『大学生からの文章表現』(ちくま新書).筑摩書房.2011

学生に、この本をすすめたものかどうか、まようところである。

たしかにおもしろい。おもしろい文章の書き方、の本である。だが、これで、「レポート」や「論文」を書くとなると、はたしてどうか、というのが、いつわらざるところである。

もちろん、筆者も、そんなことは承知の上で、この本を書いたのだろうし、また、実際に大学で授業もしているにちがいない。たぶん、その背景には、きまりきったレポートや論文の書き方の指導が、きちんとなされている、ということがあってのことだろう。そうでないのに、いきなり、このような文章の書き方だけを学んで、レポート・論文の役にたつとは思えない。

この一方で、最近出た本では、

黒木登志夫.『知的文章とプレゼンテーション』(中公新書).中央公論新社.2011

が、きわめて対照的である。さて、どうしようか、である。

當山日出夫(とうやまひでお)

初期設定が11ポイントになっている2010-10-04

2010-10-04 當山日出夫

授業の準備で、あれこれと、新しいWord2010をいじっている。で、ふと気づいたのが、文字サイズの初期設定。たしか、2007版までは、10.5ポイントであったように記憶するのだが、見ると11ポイントになっている。

普通にページ設定すると、丈夫余白35ミリ、左右30ミリ、下30ミリ。38字の36行になっている。

これが一太郎だと、10.5ポイントで、上下左右30ミリ、40字・40行で、きれいにおさまるように、初期設定がなっている。

まあ、教えることとしては、初期設定のままから、自分の思い通りにページ設定を変更できるように、ということである。この意味では、初期設定などどうでもいいといえば、いいのである。しかし、そのままで文章を書くと、ちょっと日本語の文書作成としては、どうかなと感じないではない。(ともかく、目的に応じて、自在に設定の変更ができるようになってくれればいいのである。)

ところで、なんで、文字サイズの、10.5ポイントという、中途半端な数字が出てきているのだったかな。確か、日本における、パソコンの歴史、プリンタの歴史が、そこにはあったと記憶するのであるが、いまひとつ判然としない。

理由はともあれ、30ミリづつの余白をとって、40字40行で書けるというのは、日本語文としては、旧来の原稿用紙の枚数に換算しやすい。しかも、この程度が読みやすい。この意味では、非常にすぐれた設定であると思うのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

『街場のメディア論』:書物「虚の需要」2010-08-23

2010-08-23 當山日出夫

内田樹.『街場のメディア論』(光文社新書).光文社.2010

この本は、後半の方は、電子書籍論となっている。この意味で、一読の価値ありと思う。特に次のような箇所、

>>>>>

この世界に流通している書物のほとんどはその所有者によってさえまだ読まれていない。書物の根本性格は「いつか読まれるべきものとして観念されている」という点に存します。出版文化も出版ビジネスも、この虚の需要を基礎にして成立しているのです。
p.164

※文中「虚の需要」には傍点。

<<<<<

いま、世上の多くの電子書籍論の多くは、書物=買う=読む、直線的に結びつけて考えているようにおもえてならない。だが、本は、「読む」ためだけに買うものであろうか。

少なくとも個人の蔵書というのは、読むためだけではないであろう。その本をいつか読む日の将来の自分の姿のために、いまから用意しておく、このような性質を持っている。

一方で、買って、即座に読んで、読み終わったら終わり、という意味での、きわめて実用的な本もある。本もいろいろ、本のあつめかた、買い方もいろいろである。

上記「虚の需要」だけが本の需要のあり方ではない。しかし、本というものの、少なくとも現在の、ある種のあり方を示していることは確かである。

これを音楽とくらべるとどうなるか。音楽の場合、ここでいう「虚の需要」を音楽配信は駆逐してしまった、といえるかもしれない。書物(電子書籍)も、このような運命をたどることになるのだろうか。

當山日出夫(とうやまひでお)

『日本語作文術』2010-06-10

2010-06-10 當山日出夫

野内良三.『日本語作文術』(中公新書).中央公論新社.2010

学生に作文の授業を教えている。いまの様子では、新しく、別に授業を担当することになりそうな雰囲気である。ま、来年度のことだから、なんともいえないが。

いま、教えているのは、「アカデミック・ライティング」。要するに、大学生に、まともな文章の書き方、あるいは、文書作成を教えるための授業。その練習として、この本、なかなかつかえるかなと思って読んだ。

特に参考になるかなとおもったのは、わかりやすい文章をかくためのいろんなテクニック。なるべく短い文で書く。たとえば、関係代名詞節などのおおきなものは、はじめの方にもってくる。読点のうちかたを工夫する。などなど。かなり、実践的に役にたつ。これを参考に、練習問題など、次年度からでも、当たらしく作ってみようかと思う。

なによりも書いて練習すること。これが一番である。ただ、文章の書き方の講釈を聞くだけでは、畳の上の水練。少しでも自分の手をうごかす……キーボードを打ってみる……ことが必要。それに、学生としても、ただ、講釈・解説を聞いているだけでは、90分がつまらないだろうし。

それから、この本でナルホドとおもったのは、いわゆる「かたい文体」の文章の書き方。論文は論文らしく書く…と、抽象的に言っても、なかなか説明しづらい。これが、「翻訳調」の文体で書くには、どうすればいいか。抽象的な概念を主語にもってくるなど、かなり具体的に書いてある。これは、参考になるかなと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

検定試験のこと2010-04-10

2010-04-10 當山日出夫

アカデミック・ライティング、という名前の授業。学校側の方針としては、学生に検定試験をうけさせることになっている。検定料金は、大学の負担で、団体受験。

以前は、日本語文章能力検定を受検していた。これは、いまは中止である。なにせ、この団体の母体は漢検であるので、本家のほうがしっかりしないことには、どうにもならない、という事情なのだろう。しばらく、この試験は中断ということらしい。

で、昨年の後期は、言語力検定。これは、新しくはじまったばかり。レベルを見ると、高校生レベルまで試験しか設定していないのだが、これを大学生で受験ということに。これは、趣旨としては、そう悪くはないとおもう。PISAを意識して、その日本語版という位置づけのようである。ただし、これは、前期にはない。年に一回だけ、秋に実施のようである。つまり、前期はなし。

となると残るのは、日本語力検定、ということになる。これは、国語の試験とおもえばいいだろうか。レベルも各段階に応じてそろっている。これしかなさそうな気がするのだが、はたしてどうなるのだろうか。

まあ、学校の担当の先生と事務とで考えて決めることで、私がどうのこうのということではない。しかし、受験日程がきまらないことには、授業の方の予定がきまらない。受験日(団体受験)は授業日あつかいになるので、試験監督して出なければならない。

どうなるにせよ、はやく決まってほしいものである。

當山日出夫(とうやまひでお)

文章能力検定がどうなるか2009-09-24

2009-09-24 當山日出夫

後期の授業の準備で、ひさしぶりに、文章能力検定のHPを見てみたら、秋以降の検定は、中止とあった。(予定が、くるう……)

日本語文章能力検定
http://www.kentei.co.jp/bunken/

まあ、文章能力検定の母体は、漢字検定だから、やむをえないとは思う。その一方で、日本語関係では、言語力検定、日本語検定、がある。ややこしい。来年から、どうなるのだろうか。

言語力検定 これはPISAを視野にいれている。
http://www.gengoryoku.jp/

日本語検定 これは普通にまともな日本語の文章が書けるように。
http://www.nihongokentei.jp/

大学生の作文教育、あれこれと考えるが、実践するには、ものすごくエネルギーが必要。文章なんか下手でいい。読める日本語を書いてくれ。そして、何を言いたいのか分かるように書いてくれ……

當山日出夫(とうやまひでお)