『慟哭』貫井徳郎2017-02-25

2017-02-25 當山日出夫

貫井徳郎.『慟哭』(創元推理文庫).東京創元社.1999
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488425012

初出は、1993年の鮎川哲也賞候補。それを、文庫本化したものということになる。

あまりにも有名な作品であるが、なんとなく手にしそびれてきて今にいたってしまった。おくればせながら読んでおこうと思って読んだ次第。で、結果としては、やはり、世評にたがわず、読むに値する傑作である。

ただ、ミステリとして見たとき、ちょっと弱いと感じる点がないではない。しかし、それは、瑕瑾というべきものだろう。私としては、文句なしの傑作としておきたい。

東京近郊でおきる、幼女連続誘拐殺人事件。その捜査にあたる警察。そして、それと平行して語られる、ある男のストーリー。ふとしたことから、新興宗教に入信して、そのなかにのめりこんでいく。この二つの物語が平行して語られ、最後に合流するところで、「真相」にたどりつく。この意味では、ミステリの語りの常道をいっている。

この作品、北村薫が絶賛したよし。その観点からみると……本書のタイトル「慟哭」がそれを表している。なぜ、犯人はその犯罪を犯すにいたったのか、この経過が、本書の最終的なメッセージになる。

そして、それが説得力あるものとして描けるかどうか、そのように読めるかどうか、ここの解釈が、この作品の評価を分ける点になる。

ただ、蛇足を書けば……この作品の発表は、1993年の鮎川哲也賞において。新興宗教の起こした社会的事件といえば、言うまでもなく思い浮かぶのが、オウム真理教の事件。地下鉄サリン事件のあったのは、1995年。この作品が出てからのことになる。ここのところだけは、留意して読んだ方がいいかと思う。もし、1995年以降に書かれた作品なら、もうちょっと違ったものになったにちがいない。

さらに余計なことを書いておけば、トリックの基本はだいたい見抜ける。近年の日本のミステリになじんだ読者なら、だいたいの見当がつくはずである。だが、だからといって、この作品の評価が下がることはない。それは、やはり、犯行にいたる動機をどう描くか、というとことにかかわっている。これに納得する人は、高い評価をあたえることになるだろう。

貫井徳郎は、なんとなく読まずにきた作者なのであるが(たまたまである、別に嫌っていたわけではない)、これをきっかけにして、他の作品も読んでおくことにしようと思っている。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)2017-02-24

2017-02-24 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

この本を読んで印象に残ったことをいくつか。昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

二点ほど、思ったことを書いてみたい。

第一に、徴兵制である。

この本の第三章「オンタケの頂き」では、2014年の御嶽山の噴火災害救助の様子が語られる。ここで、著者は、長野県の第13普通科連隊が、その任務にあたったことを記す。この部隊は、山岳地域での活動に特化した訓練をうけている。

自衛隊は、各地にあるが、それぞれの地方にあった特殊な訓練をおこなっている。たとえば、八甲田山では、第5普通科連隊が、今でも冬季の雪中訓練をおこなっている。雪のなかでの行動については、エキスパートであるといってよい。

日本の軍備、安全保障、憲法などについて議論されるとき、必ず出てくるのが徴兵制のことである。本書の記述をふまえて考えるならば、理念として徴兵制を論じるのはいいだろう。例えば、井上達夫のようにである。

だが、これも、現実的な、自衛隊の訓練の場に即して、そこで「兵士」が何を行っているのかをみれば、そう簡単にいえるものではない。昔の軍隊でいえば歩兵である普通科であっても、その訓練は、その地方の状況に即して、過酷とでもいうべきものである。簡単に、若者をつれてきて訓練すればよいという程度のものではない。

徴兵制を理念として語るのはそれでいいのかもしれないが、現実に、自衛隊の「兵士」たちが、どのような訓練をうけ、どのような任務にあたっているのか、現場に即して考えてみれば、そう軽々と言えるようなことではないことがわかる。実際に自衛隊員がどのような日常の訓練、任務をになっているか、その実際を見た上での議論でなければならない。

第二に、尖閣諸島の問題である。

本書のテーマからはちょっとはずれる。しかし、本書の第一、二章が、沖縄、尖閣での、対中国の活動を描いていることをふまえれば、やはり考えて見なければならないだろう。

アメリカの大統領が、トランプに替わった。国防長官が日本にやってきている。そのとき、明言したこととして、尖閣諸島も、日米安保の対象であるということがあった。この件は、ニュースなどでもおおきく報じられていた。

対中国、という意味では、これを大きく報道することに意味があると思う。

しかし、日本の立場として、尖閣諸島が我が国固有の領土であるとするならば、その防衛は、まず、我が国の問題である。個別的自衛権で、我が国において対処すべき事であるのが基本だろう。

では、それに対応できるだけの装備、準備があるのか、ということが、問題になる。このことに、本書は、直接に答えることはしていない。しかし、本書を読んだ延長には、この問題があることは確かなことである。はたして、日本だけで、中国の侵略に対応できるのであろうか。

ここは、中国の海洋進出といった一般論で論ずるのではなく、具体的に、日本の自衛隊で、尖閣諸島を守れるのか、現実的な議論が必要だろう。その議論をする立場に、日本はある。このことを否応なく認識させられるのが、本書の読後感でもある。

以上の二点が、本書を読んで、思ったことである。

なお、さらに書いておくならば、この「兵士シリーズ」がはじまってから、自衛隊への取材が非常にきびしくなっていると、筆者は記している。シリーズがはじまったころは、かなり自由にできた隊員へのインタビューも、本書を書くときになると、きわめて厳しい制約のもとにおこなわざるをえなくなっているとある。

これは、何故なのだろう。一般の印象としては、自衛隊は、以前よりも、現在の方が、広報活動には力をいれているように見える。だが、それは、表面だけのこと。実際の自衛隊の活動、任務にかかわることになると、突然、堅くなる。それだけ、現在の日本において、自衛隊の置かれている立場が変化したということになる。

「兵士シリーズ」がはじまったころは、東西冷戦がおわったとはいえ、まだ、基本的にその枠組みのなかにあった時代であった。それが大きくかわるのは、2001年のアメリカの同時多発テロ以降の国際情勢、それから、アメリカ、ロシア、EUなどの動向がある。それをふまえて、自衛隊の海外活動の本格化もある。

このような情勢のなかにあって、自衛隊は、より開かれた存在でなければならないと思われるのだが、実際に取材にあたった著者の感じるとことは、その反対のようである。

日本において、自衛隊がどのような存在であるか、それを理念的に考えることも必要だろう。例えば、憲法論議。しかし、その一方で、現実に存在する自衛隊が、何をしているのか、どのような組織であるのか、そして、それは、国民に対してどのようであるのか……このような観点からも、常に検証されなければならない。この意味では、この20年以上にわたってつづいてきた「兵士シリーズ」は貴重な記録になっていると思うのである。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男2017-02-23

2017-02-23 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

杉山隆男の「兵士シリーズ」の最新刊であり、また、これが最後であるらしい。

「兵士シリーズ」は、いくつか読んできている。自衛隊の実際の有様を、現場の「兵士」の日常の任務、生活に密着して描いたルポルタージュとして、非常にすぐれた仕事だと思っている。本の帯をみると、開始から24年とある。20年以上前、今の私の住まいの自分の部屋で仕事をする前のこと、仮住まいをしていた座敷(そこに本棚などおいて書斎がわりにしていた)で、読んだのを憶えている。

見てみると、「兵士シリーズ」、初期のものは読んでいるが、最近のものは読んでいない。新聞の広告など、見落としていたらしい。これを機会に、読みそびれた本を読んでおきたい気になっている。いや、最初のものから、再読してみたい気になった。

この『兵士に聞け 最終章』である。この本で主に描かれるのは、日本の自衛隊のおかれている最前線、中国との対峙である。無論、今、日本と中国とは、戦争しているわけではない。しかし、その間に軍事的な緊張がまったく無いかといえば、それは嘘になる。尖閣諸島をめぐって、一触即発とまではいかないにしても、それにいたる寸前の緊張状態にある。それを、著者は、空と海の防衛に密着して描いている。

まず、沖縄のF15戦闘機のスクランブル。2012年に、日本政府が尖閣諸島を国有化してからというもの、沖縄方面における国籍不明機の接近、侵犯が急増したという。それに24時間体制で対応している航空自衛隊の活動が密着して語られる。その自衛隊員にとって、「死」は身近な存在だと、さりげなく書いてある。

ある若いF15パイロットは、こう言う。

「思いますよ。きょうはいくら呑んでも、あした死ぬことはないからと……」
(p.52)

また、国籍不明機の侵入は、沖縄の慰霊の日(6月23日)であろうと、おかまいないくやってくる。個人的な感想を記せば、中国にとって、沖縄の慰霊の日など何の関係もない、ということなのだろう。

そして、海。ここで語られるのは、海上自衛隊のP-3C。もはや旧式になってきたとはいえ、現役で、対潜哨戒のみならず、その他、海上の守りの役目をになっている。そして、不審船をみつけるのは、最新鋭の電子機器によるのではなく、人間の目、その職人技とでいうべき技術によっている。

私の読後感としては、まさに「最前線」ということばが思い浮かぶ。このことばは、著者はつかってはいない。だが、このように感じてしまう日々の任務を遂行している人たち(自衛隊員)がいることは、確かなことである。

安保法制が成立してしばらくたつ。今、国会で議論されているのは、南スーダン派遣の自衛隊の活動。海外での自衛隊の活動に目をむけることも必要かもしれないが、この平和な日常の日々において、スクランブルの、海上監視の任務を黙々とこなしている、自衛隊員がいることを、忘れてはならない。日本の、特に、沖縄、東シナ海は、最前線といってもよいのである。

さらに、日本において、自衛隊はいかにある存在なのか、いろいろ考えさせられるが、それは明日のことにしておきたい。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年2月24日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/24/8373463

『誰もいない夜に咲く』桜木紫乃2017-02-22

2017-02-22 當山日出夫

桜木紫乃.『誰もいない夜に咲く』(角川文庫).角川書店.2013 (『恋肌』.角川書店.2009 改題、改稿)
http://www.kadokawa.co.jp/product/321206000249/

桜木紫乃の北海道を舞台にした短編小説集。この本、最初『恋肌』のタイトルで、単行本で出ていたものに、文庫化にあたり、「風の女」を追加して、改題、改稿したもの。

この短編集で気にいったのは、「絹日和」。着物の着付けの職人が主人公。その自分の職業にかけた意地、あるいは、プライドといった方がよいか、のようなものが、見事に描かれている。

桜木紫乃の作品、特に、短編に出てくる女性は、どの作品でも、決して幸福とはいいがたい。何かしら、人生の影のようなものを背負っている。にもかかわらず、自分のおかれた境遇のなかで懸命に生きようとしている。

そのせいだろうか、「絹日和」のような、職人を主人公とした作品に、自分ひとりで生きていくことの、つらさ、せつなさ、しかし、その一方での矜恃とでもいうべきもの、それが、ひしひしと伝わってくる。

また、これまで読んできた桜木紫乃の作品のように、北海道の風土の描写と切り離すことはできない。この短編集においても、描かれている北海道は、決して明るくない。そして、象徴的なのは、やはり、空の色と、海の色。

付箋をつけた箇所、

「健次郎の肩ごしに、青色の絵の具で塗りつぶした空がある。」(p.59)

「アーケード商店街を抜けて少し走ると、青よりは黒に近い色の海原が見えてきた。」(p.145)

文庫本の解説を書いているのは、川本三郎。この作品においても、時代と、土地、風土、というべきものを読み解いている。21世紀になって、不景気と過疎とともに生きていかなければならない、北海道の人びとの生活のありさまが、この短編集のどの作品からも読み取れる。

おそらく、北海道という土地にこだわって書いてある小説であるが故に、そこに生きる人びとを通じて、この作品は、ある種の普遍性を獲得しているといってよいだろうか。決して幸福とはいえない人生のなかにあって、あくまでも自己にしたがって生きようとする人間の生活が、この小説から読み取れる。

文学が、ある時代とともにあるものであるとするならば、この作品は、現代という時代、そのあり方の一部かもしれないが、確実にその一部を描ききっている、そのような作品として存在するといってよいであろう。

『おんな城主直虎』あれこれ「検地がやってきた」2017-02-21

2017-02-21 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年3月18日、第7回「検地がやってきた」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story07

前回は、
やまもも書斎記 2017年2月14日
『おんな城主直虎』あれこれ「初恋の分れ道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/14/8360887

今回も、ネコがでていた。和尚にだかれていた。

この回の見せ場は、鶴・亀・おとわ(次郎)の、それぞれの思いの交錯する対話のシーン。それから、最後の検地の場面だろう。

「指出」(さしだし)については、番組中で解説があった。ジャパンナレッジでこのことばを検索してみると、「指出検地」(さしだしけんち)の項目がある。国史大辞典。この解説通りに、「指出」だけでことが終わるなら、別に問題はない。そこを、無理をして、隠し里を隠し通そうとするから、まあ、ドラマになる、ということか。

それにしても、隠してあった田畑が、「南朝の……」のいいわけで、無事に納得してくれたのが、どうも解せない。このあたり、ちょっと無理があったように思う。ここは、鶴が頑張って隠し通したというストーリーの運びの方が自然であったように感じたが、どうであろうか。

おとわ(次郎)の観音経の読経も、そんなに効果があったとはおもえないし。

それから、不気味な存在なのが、やはり、徳川家康(まだ、その名前ではないが)。今後、どのように、井伊の家とかかわるのか、興味深い。『真田丸』とは、どのようにちがう徳川家康を描くことになるのだろうか。

鶴・亀、それから、おとわ(次郎)のエトスはなんだろうかと、考えてみたりもする。井伊のイエをまもることか。井伊谷の山里にたいする、パトリオティズムか。これまでのところ、井伊のイエへの忠誠心というものは、そんなに出てきていないように見ている。それよりも、鶴と亀の、おとわへの思いの方が強い。

さて次回も、ネコは出てくるだろうか。

『定本日本近代文学の起源』柄谷行人2017-02-20

2017-02-20 當山日出夫

柄谷行人.『定本日本近代文学の起源』(岩波現代文庫).岩波書店.2008 (岩波書店.2004)
https://www.iwanami.co.jp/book/b255833.html

この本の初版は、1980年(所収の、初版あとがきによる。)

今から30年以上も前の本である。初版が出てから、幾度か版を変え、あるいは、外国語版(翻訳)があって、それへのあとがきを追加などがある。この岩波現代文庫版が、最新のものということになる。

この本を再び読んでみたくなったのは、武田徹が、『日本語とジャーナリズム』で言及していたからである。再度、自分の目で、読んで確認しておきたくなった。

やまもも書斎記 2016年12月28日
武田徹『日本語とジャーナリズム』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/28/8296921

この本からは、次の二ヶ所を引用しておきたい。

「つまり、表現されるべき「内面」や「自己」がアプリオリにあるのではなく、それは「言文一致」という一つの物質的形式の確立において、はじめて自明のものとしてあらわれたのである。かつてのべたように、「言文一致」とは、言を文にうつすことではなく、もう一つの文語の創出にほかならなかった。したがって、単に口語的に書く山田美妙や二葉亭四迷の初期の実験は、森鴎外の『舞姫』(明治二三年)が登場するやいなや、たちきえるほかなかった。」(p.170)

「これまでにもくりかえし述べたように、私は「文学史」を対象としているのではなく、「文学」の起源を対象としている。」(p.149)

だが、そうはいっても、この本は、「文学史」として読まれてしまうことになる。これは、その「起源」を尋ねることが、おのずと「歴史」を語ることになってしまうからである。そして、これは、筆者には不本意なことかもしれないが、現代において、本書を除いて、手軽な「近代文学史」がほとんど無い、ということもある。

さらに引用するならば、次の箇所になるだろうか。

「明治二十年代における「国家」および「内面」の成立は、西洋世界の圧倒的な支配下において不可避的であった。われわれはそれを批判することはできない。批判すべきなのは、そのような転倒の所産を自明とする今日の思考である。(中略)「文学」、すなわち制度としてたえず自らを再生産する「文学」の歴史性がみきわめられなければならないのである。」(p.137)

このような視点たったとき、今、私の考えることとしては、日露戦争後の文学としての、夏目漱石の諸作品……漱石は、ほとんど日露戦争と同時に文学(小説)の世界にはいったと考えていいだろう……を、どう理解し、読むかということになる。

あるいは、(最近、私が読んだりしたもののなかでは)志賀直哉の作品など。明治40年すぎてから書かれている。これらの作品を、今日の視点から、どのように、読むのか、ということが問いかけられることになるのだと理解する。

ただ、私は、近代文学については、単なる読者の一人でありたいと思っているので、これ以上の言及はしない。だが、漱石などを読むとき、その文章(近代的な口語散文)の成立と、その文学とは、密接に関連しているということを確認しておけばよいと思っている。

漱石が、その小説において、どのような文章の技巧をこらしているかは、すでに少し見たことがある。

やまもも書斎記 2016年12月1日
漱石『三四郎』の野々宮と野々宮さん
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/01/8263506

やまもも書斎記 2016年12月2日
漱石『三四郎』の野々宮と野々宮さん(その2)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/02/8265835

近代の文学において、どのような文章によって、何を書くのか、また、その対象は、はたして自明なことなのであろうか。近代的な市民社会における自己、自我というものは、アプリオリに存在するものなのだろうか。このようなこと、『定本~~』を再読してみて、いろいろと考えてみたりしている。

『慈雨』柚月裕子2017-02-19

2017-02-19 當山日出夫

柚月裕子.『慈雨』.集英社.2016
http://renzaburo.jp/shinkan_list/temaemiso/161028_book01.html

http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-771670-2

柚月裕子の作品は、すでに一冊とりあげた。

やまもも書斎記 2017年1月20日
『孤狼の血』柚月裕子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327720

面白かったので、他の作品も読んでみたいと思って手にした。この作品、週刊文春ミステリーベスト10(2016)を見ると、19位になっている。期待して読んでみたのだが……その期待に十分にこたえてくれる作品になっている。

ただ、まず、言っておかなければならないことは、「警察小説」というミステリのジャンルは、リアリズムを基本とする、しかし、実際の警察の姿をそのまま描くのではない、あくまでも、警察というを設定したうえでの、フィクションである、ということ。なぜ、こんなことを書いておくかというと、Amazonのレビューを見ると、低評価のコメントが目につく。いわく、こんな警察官は実際にはいない……それはそうかもしれないが、この作品は、あくまでも、小説なのである。これを、忘れて、警察の捜査のノンフィクションであるかのように読んでしまってはいけないだろう。

事件は群馬県でおこる。少女誘拐強姦殺人事件。この捜査が警察で捜査される。それと平行して、もう退職した警官が、四国巡礼のたびに出る。彼には、16年前におこった同類の事件の捜査の記憶があった。あの事件のことがよみがえる。はたして、正当に捜査され、事件は解決したのだろうか。だが、彼は、妻をともなって、巡礼をつづける。だが、気になってしかたがない。警察に携帯電話で連絡する。そして、巡礼の旅をつづけながら、携帯電話で連絡をとりながら、捜査にかかわりつづけることになる。

ここに描かれたのは、警察官の職務倫理、生き方の問題であり、夫婦の物語であり、親子のものがたりである。これらが、重層的におりかさなって、最終的に、事件の真相にたどりつく。

たぶん、次のことばが、この作品の基調にある。冒頭近くにある、ある先輩刑事の言ったこととして、

「罪を犯すのは生きている人間だ。被害を受けるのも生きている人間だ。事件ってのは生きてるんだ。俺はいつも、事件という名の生きた獣と闘っているつもりだ。」(p.34)

この作品に描かれているのは、生きた人間としての警官であり生きている事件である。

この小説の面白さは、「探偵」の役になる、退職した警官が、妻をともなって、四国巡礼の旅をつづけつつ、携帯電話で、もとの職場の後輩警官と連絡をとりあいながら、事件解決にむけて、歩みをすすめていく、という大きな構図にあるだろう。四国巡礼の旅が、まさに、事件解決への道程と重なって読むことになる。

また、現在において、徒歩で四国巡礼をあるく姿の描写が実にリアルに描いてある。このリアルな描写が、この作品の魅力をささえている。ある種の罪の意識をかかえた、元警官が、妻をともなって徒歩で四国巡礼を旅する、その物語と呼んでも十分に面白い。

これは、おそらく日本ならではの「警察小説」というジャンルにおける、すぐれた作品のひとつといってよいであろう。私としては、おすすめとしておきたい。

海の博物館に行ってきた2017-02-18

2017-02-18 當山日出夫

海の博物館に行ってきた。

海の博物館
http://www.umihaku.com/

ニュースなどによると、この博物館、経営上の理由で、運営している公益財団法人から鳥羽市に売却されるとのこと。

久しぶりに行ってみたくなったのと、移管される前の状態の博物館を再度見ておきたくなったからである。この博物館には、10年ぐらい前になるだろうか、行ったことがある。その時の印象としては、ここはいい博物館だな、ということ、そして、民俗学を中心として、自然科学の各方面からの、調査研究を展示している、文理融合の博物館である、そのような印象をもった。

今回、再訪してみて、その印象を確認した。

印象深く思ったことをのべるならば、

第一には、上記のような、文理融合型の総合的な博物館であること。このような博物館としては、私の知っている限りだと、滋賀県にある琵琶湖博物館がある。

海で生活する、漁師や海女などの仕事、生活。それから、海の生態系。その民俗学的な研究、これらが、総合的に展示されている。しかも、基本は、その実物を残しておいて展示するという方法。海女のつかう道具などが、伊勢のみならず、日本各地の海女漁で使用するものが、その歴史的背景とともに、展示されている。とにかく、実物(もの)を残しておいて見せる。しかも、その視点が、民俗学のみならず、自然科学の観点にたって、海の生態系のなかで生きる人間のいとなみをしめすものとして展示してある。

第二には、その建築である。前回、行ったときには、その建物にはあまり目をくばらなかったが、今回、再訪してみて、その建築としてのすばらしさに注目した。

日本建築学会賞、公共建築百選、などに選ばれている。それぞれの建物もいいが、外に出て、数棟の建物にとりかこまれた中庭にたって、周りを見回してみると、その建築の作り出す空間美を感じる。鳥羽の海辺にある別世界という印象である。

博物館は、道路から坂道を下ったとことに海岸沿いに建ててある。直接、海に面してはいない。展示棟から出て、さらに少しくだったところに海岸がある。リアス式海岸の内側になる。波はおだやかである。すぐ近くに、対岸の陸地が、こんもりとした小さな山々のつらなりのように見える。

第三には、収蔵庫に入れるようになっている……この博物館の最大の展示といってよいであろう……船のコレクションである。日本の木製の船の実物が、巨大なコンクリートの建物の中に、ぎっしりと並んで収められている。その数は、100にも達するだろうか。また、周囲の壁には、櫂や櫓といった、船をあやつる道具が、数限りなくと感じるほど大量においてある。この収蔵庫の中にはいると、まずその迫力に圧倒されてしまう。

どの船も、実際に日本各地で、つい近年まで実際に使われていたものばかりである。船の構造も大きさも実に様々。沿岸漁業の漁に現実に使われていたものがコレクションしてある。

以上の三点が、今回、この博物館に行って、再度確認したこと、感じたことである。非常に素晴らしい展示であり、コレクションである。

今回、行ってみて、追加になっていると気付いた展示がある。それは、東日本大震災の時の、津波の映像記録が、動画像としてディスプレイで見られるようになっていた。

近年、東日本大震災のことは、その復興の現状については報道されることが多いが、当日(2011年3月11日)、どのようであったか、その津波の襲ってくる場面の映像記録は、テレビなどで、放映されることは基本的になくなっている。それが、この博物館では、津波の映像資料として、その当日に記録された映像が見られるようになっている。

これは、貴重な記録であり、展示であるということができよう。

今後、この博物館がどうなるか分からない。しかし、私としては、これまでの、そして、今の展示の方針を変えることなく、貴重なコレクションを守っていってほしいと願う次第である。

『暗夜行路』志賀直哉2017-02-17

2017-02-17 當山日出夫

志賀直哉.『暗夜行路』(新潮文庫).新潮社.1990(2007改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/103007/

「暗夜行路』の成立の事情は複雑である。

ジャパンナレッジでみると、概略はつぎのようになる。

大正10年(1921)年から昭和12年(1937)にかけて『改造』に断続連載。前編は、大正11年(1922)。後編は昭和12年(1937)。十数年以上の年月をかけて書いた、志賀直哉の唯一の長編小説である。

この作品、若い時、高校生ぐらいのときだったろうか、読んだことを憶えている。そのときは、そう感動するということもなかったが、最後の、大山の登山の場面だけは、妙に印象深く記憶に残っていた。この作品をはじめとして、志賀直哉の作品など、改めて再読してみたくなって読んでみた。

作品中、地域としては、東京だけではなく、尾道、それから、京都を舞台にしている。この作品を読んだのが高校生のころだったとすれば、その当時は、京都の宇治に住んでいたから、京都を描いた文学として記憶にあってもいいようなものだが、その記憶が私にはない。

この意味では、『細雪』の京都の花見の場面を憶えているのとは対照的である。まあ、『細雪』は、国語の教科書でも出てきて読んだということもあるのかもしれない。だが、その土地を、どのように文学的に描写するかということも関係してくるだろう。

漱石も京都を描いている。京都に足をはこんでもいる。だが、一般的に、近代文学のなかの京都というのは、あまり印象にのこっていない。個人的に強く印象にのこっているのは、『檸檬』(梶井基次郎)だろうか。これも、高校生ぐらいのときに、読んだ本である。ちなみに、そのころ、京都の丸善にはよく行った。むろん、『檸檬』に描かれた丸善とは違っているのだが。

やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499

やまもも書斎記 2016年12月12日
NHK「漱石悶々」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/12/8273984

今になって再読してみて、京都を舞台に描いている小説の一つだな、という感じはしても、その京都の街に文学的印象を持つような書き方にはなっていない。いや、文学的印象という観点では、始めの方に出てくる尾道の街の描写の方が印象深い。

再読してみて、やはり作品全体として印象的なのは、大山の登山のシーン。もっと延々と詳細な描写があったように記憶していたのだが、再読してみると、登山そのものの記述は、ごくあっさりとしたものである。

だが、そこで描かれている、自然描写、それから、人生観、人間観というべきものは、感動的といってもよい。

付箋を付けた箇所。

「それからの彼は殆ど夢中だった。断片的には思いのほか正気のこともあるが、あとは夢中で、もう苦痛というようなものはなく、只、精神的にも肉体的にも自分が浄化されたということを切りに感じているだけだった。」(p.558)

この長編は、決して読みやすいものではない。特に波瀾万丈の事件がおこるというようなものではない。なにがしか罪の意識とでもいうようなものを背負った主人公(時任謙作)の、心境小説とでもいうべき描写がながくつづく。だが、それを我慢して最後まで読んで、登山の場面になると、ああここまで読んできてよかったなあ、と感じる。最後の登山の場面において、主人公に同化して自分自身も浄化されるような印象が残った。

志賀直哉の作品、短編など、さらに読んでみようと思っている。

『沈黙法廷』佐々木譲2017-02-16

2017-02-16 當山日出夫

佐々木譲.『沈黙法廷』.新潮社.2016
http://www.shinchosha.co.jp/book/455511/

まず、私の読後感を記すならば、ミステリのベスト10にはいっていてもいい作品である。だが、この作品は、2016の各種のミステリのベストのなかにははいっていないようだ。

その理由として考えられることは……結局、犯人は誰であるのか、というミステリの一番肝心なところが、最後まで不透明なままに終わる……とはいえ、最後のところで、事件の「真犯人」は明かされるのであるが、それを、捜査と論理で明らかにする、特定する、という描き方ではない。

本の帯には、「警察小説の迫力、法廷ミステリーの興奮」とある。また、新潮社のHPには、「警察小説と法廷小説が融合した傑作。」ともある。これは、そのとおり。作品の前半は、警察の捜査を中心にした警察小説であり、後半は、その裁判(裁判員裁判)の様子が描かれる。その裁判の様子を見ているのは、ふとしたことから事件にかかわることになった、ある男性。その人物が、裁判を傍聴するという形式をつかって、裁判員裁判の進行の様子を叙述してある。

だから、非常にわかりやすい描写の小説である。が、その反面、少々、記述がくどくわずらわしいと感じる点がないではない。事件について、警察の捜査段階での描写と、裁判での証言の描写で、同じ事を繰り返し述べることになっている。

これをくどいと感じるか、あるいは、同じ事象を、警察捜査の視点から見るのと、裁判における証人の証言として語るのとで、異なってくる、その違いを楽しんで読むか、このあたりは、読者の好みの分かれるとこかと思う。

私としては、佐々木譲ならではの警察小説であり、また、法廷小説における検察・弁護の双方の意見の応酬に読み応えを感じる、すぐれた作品として読んだ。先に書いたとおり、私なら、ベスト10にいれたくなる。

ただ、蛇足としての感想を書いてみるならば……この作品のなかでも語られるように、ネット社会における虚像としての、ある人格、とでもいうようなものが印象的である。ネット社会の虚像、このようなものを、宮部みゆきならどのように描くだろうか、というようなことを思ってみたりした。

また、上記の新潮社のHPに文章を寄せているのは、川本三郎。現代社会の世相を、丹念にこの作品からよみといている。社会の底辺でひとり生きる女性、独居老人の生活など、すぐれた解説となっている。

ともあれ、これは、読んで損はない作品であるとはいっておきたい。