センリョウ2021-01-27

2021-01-27 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日は黄色いセンリョウである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月20日
千両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/20/9339278

我が家には、二種類のセンリョウの木がある。赤い実をつけるものと黄色い実をつけるものとである。今日は、そのうち黄色い実をつけるものの写真である。

これも、今では全部鳥が食べて無くなってしまっている。先月(去年の一二月)のうちに撮影して残してあったものからである。

どうして、赤い実のものと黄色い実のものがあるのか、その理由について詮索したことはない。センリョウは園芸植物であるから、好みによって、分かれていったものであろう。たまたま我が家には、その両方が植わっていることになる。

昨年のうち、まだ実がついているころは、ほぼ毎朝、NHKの朝ドラを見てからカメラを持って外に出て、センリョウやマンリョウの写真を撮っていた。これも見ていると、秋から冬にかけて、青かった実が徐々に色づいてきて、黄色く、あるいは、赤くなっていくのを観察することができる。

写真を撮るのは、基本的に朝早くである。まだ太陽が昇りきらないうちに撮ることが多い。これが、ちょっと遅く外にでると、日が昇って朝日があたっているときがある。光の状態によっては、実がきれいに光って見えたりもする。場合によっては、そこだけ朝日があたって、光っているように見えるときもある。毎日同じように見ている木の実であるが、写真に撮ると、日毎に見え方が異なってくる。

今庭に出て咲いている花としては、椿の花があるぐらいだろうか。梅も木瓜もまだ冬芽といってよい。沈丁花の冬芽も色が赤くなってきているのが見える。今年の冬は去年よりも寒い。しかし、確実に季節が進んでいることがわかる。

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年1月25日記

『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」2021-01-26

2021-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十二回「離れゆく心」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/42.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月19日
『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/19/9339010

この回で描いていたのは、やはり本能寺の変への道筋ということだろうか。

人びとの心が、信長から離れていく。正親町天皇も信長を信用していない。また、かつての将軍義昭も出てきていたが、信長については、見限っている。信長のいる京には上洛したくないとも言っていたかと思う。また、家康も信長にこころをゆるしてはいない。

そのなかにあって、信長への忠誠心を見せているのが、秀吉であり、光秀ということになりそうである。しかし、秀吉と光秀は、うまくいっていない。秀吉は、信長の家臣としての出世ばかりを考えているかのごとくである。天下の太平のことを思っているのは、光秀のみということになりそうである。

しかし、その光秀に対しても信長の疑心暗鬼の念は容赦ない。信長は、光秀を打ちすえることまでする。

徐々にではあるが、信長に対する反感、反信長の包囲網とでもいうべきものが、なんとなくできているようだ。これをうけて、光秀がどう行動することになるのか……その結果が本能寺の変ということなのだろうと思う。

この回においても、「麒麟」への言及があった。信長は麒麟たりえない。であるならば、光秀自身が麒麟になるほかないのかもしれない。

さて、このドラマもいよいよ最終に近づいてきた。四四回の予定だから、次回が四三回目。最終の一つ前ということになる。予告では、帰蝶の姿があったが、どのような登場のしたかをするのだろうか。ラストにむけてどのような展開になるのか。楽しみに見ることにしよう。

2021年1月25日記

NHKアナザーストーリーズ向田邦子2021-01-25

2021-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK「アナザーストーリーズ」突然あらわれ突然去った人〜向田邦子の真実〜
https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/episode/te/RYXGKM7GR7/

この番組のことは、轟亭さんに教えてもらった。夜の放送を録画しておいて、後日見ることになった。

今年(二〇二一)は、向田邦子が亡くなって四〇年になる。いろいろと関連する本が出たり、テレビ番組があったりするかと思っているのだが、これもその一つといっていいのかもしれない。

向田邦子については、昨年の暮れから今年のはじめにかけて、集中的に読んでみた。その著作の多く……エッセイのいくつかと小説……は、そのほとんどを、文庫本で読むことができる。

私が向田邦子のことを知ったのは、どういうきっかけだったろうか。脚本家としての名前は知っていたように覚えている。だが、決定的に向田邦子という名前を意識したのは、エッセイの『父の詫び状』を読んでからだった。この本を読んだときのことは、なんとなく記憶にある。

その後、向田邦子のエッセイが文庫本で出るようなことがあると買って読んでいた。そのエッセイのかなりの部分は読んだかと思う。この前、向田邦子をまとめて読みかえしてみて、忘れていた作品もあれば、読んだ記憶が残っている作品もある、といったところだろうか。私にとって、向田邦子は、軽妙洒脱な文章を書くエッセイストという印象で強くのこっている。

特にネコの話しが興味深かった。独身で暮らしていた向田邦子が、なぜ人間の機微をうがったようなホームドラマが書けるのかと問われて、ネコを見ていればわかるとこたえた……たしか、こんな内容のエッセイを読んだ記憶がある。

ところで、NHKの番組である。見ていて思ったこととしては、ネコのことがまったく出てこなかったということが、ちょっと気になる。残念ということでもないが、すこしぐらいネコのことに触れてあってもよかったのではないか。

病気のことについては、向田邦子自身は多くを語っていない。エッセイでも、わずかにそれとなく触れてあるばかりである。ここのところを、番組でははっきりと描いていた。

また、番組では、向田邦子の声の録音が紹介されていた。聞いて感じたことは、きれいな東京アクセントの声だな、ということである。

少し時間をおいてから、さらに向田邦子の作品を読み返してみたいと思う。

2021年1月23日記

『おちょやん』あれこれ「好きになれてよかった」2021-01-24

2021-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第7週「好きになれてよかった」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/07/

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月17日
『おちょやん』あれこれ「楽しい冒険つづけよう!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/17/9338341

この週で、映画女優としての千代のスタートということになった。

鶴亀の撮影所に女優として採用されることになった。最初は、大部屋女優の下っ端である。そこで失敗もする。が、なんとか生きのびていくことになる。千代を助けてくれたのは、助監督の小暮であった。また、高城百合子と再会する。

この週での見どころと思うのは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、千代の女優としての成長。

大部屋女優の下っ端からスタートすることになるのだが、高城百合子をかつて知っていたこともあって、なんとか女優として仕事をもらえるようになった。高城百合子はこのように言っていた……役者は人をだます仕事である、しかし、自分に対してうそをついてはいけない。自由なのである、と。この高城百合子の助言が功を奏したのか、「カルメン」の映画の代役に抜擢され、監督から褒められることになる。

第二に、千代の恋。

恋人役をあてがわれて、どのように演じていいのか困る千代は、助監督の小暮に恋人役になってくれとたのむことになる。一緒に映画を見に行き、食事したりする。その結果、千代は本当に小暮のことが好きになってしまったようだ。

だが、撮影所には、幼い時から知っている、一平がやってきていた。さて、これから、千代の恋と、一平とはどんな関係になっていくのだろうか。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

ところで、千代は、カフェーのキネマに住んでいるのだが、女給の仕事はしているのだろうか。あるいは、昼間は映画撮影所で女優の仕事をし、夜は女給ということなのだろうか。どうもこのあたりが、曖昧である。しかし、キネマの人びとは、千代に優しい。

次週、父親のテルヲが撮影所にやってくることになるようだ。たぶん、また金の無心かと思うが、これに対して千代やどう対応することになるのだろうか。それから、小暮との関係はどうなるのか。楽しみに見ることにしよう。

2021年1月23日記

『まちあわせ』柳美里2021-01-23

2021-01-23 當山日出夫(とうやまひでお)

まちあわせ

柳美里.『まちあわせ』(河出文庫).河出書房新社.2016(河出書房新社.2012 『自殺の国』改題)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309414935/

柳美里の本を読んでいる。

『JR上野駅公園口』『飼う人』と読んで、これらがよかったのでさかのぼって文庫版、古書などで手にはいるものを、ぼちぼちと読んでいこうかと思っている。そろそろ、学校の授業も終わりである。居職の生活をつづけるなかで、これまで買いためてある本を整理して読みながら、柳美里を手にしている。

この作品については、評価が難しいかなと思う。だが、これもまた柳美里の描いている作品世界の一つなのだということは理解できる。

その描くところは、現代という時代における人びとのあり方の一面であることは確かである。それが成功しているかどうか、あるいは、その登場人物に共感して読めるかどうかは、また別の問題ではある。だが、すくなくとも現代社会に生きる人びとの一つの姿をそこに見ることはできるだろう。

しかし、事実は小説よりも奇なりというが……この小説の書かれた時代の様相を、今の時代……インターネットが生活の隅々にまではいりこみ、SNSの情報洪水とでもいうべきなかにいると……この小説の描こうとしたことが、すでに過去の出来事のように思えてならない。

ともあれ、柳美里がこんな小説を書いていた作家であったのか、という意味で非常に興味深かったというのが、正直な感想である。

この小説の描いたこと……自殺サイトであり、また、崩壊した家族の物語……たぶん、柳美里にとって、家族とは何か、家族の一員として生きることはどういうことなのか、このことについての問いかけが根底にあるのだろうということは理解できるように思う。柳美里は、その好き嫌いは別にしても、現代という時代を描いている作家の一人であることは確かなことである。

ところで、柳美里で本を検索して見ていると、この作品は、『JR品川駅高輪口』というタイトルで、再び改題して刊行になるらしい。これは、河出書房新社もどうかと思う。ほとんど詐欺に近いように思ってしまうのだが。

2021年1月22日記

『藤原定家『明月記』の世界』村井康彦2021-01-22

2021-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

藤原定家『明月記』の世界

村井康彦.『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b530020.html

藤原定家という人物については、国語史、日本語史というような分野で勉強をしていると、かならずどこかで目にすることがある。その残した日記である『明月記』は、あまりにも有名であるといってもよい。

若いとき、ある目的……毎日の天候の記述の調査……のために、『明月記』は、全部のページを繰ったことがある。その当時の本は、国書刊行会本である。その後、古書店でみつけて、三冊を買ってもっている。しかし、そう手にすることなく今にいたっている。

国語史、日本語史の分野からいうならば、次の二つの点で『明月記』は貴重である。

第一に、定家は多くの平安朝の古典籍……和歌集や物語など……を書写、校訂している。なかでも、『源氏物語』については、今でも定家本を主につかうのが、この分野の主流であるといってよい。その定家の古典の校訂、書写についての記述を、『明月記』に見ることができる。また、歌人としての姿をそこから読みとることも必須である。

第二に、平安から中世にかけての、公家の日記としての『明月記』がある。いわゆる「変体漢文」である。その言語的な資料として、『明月記』の文章そのものが、研究対象になる。

以上の二点から、『明月記』は、重要な資料ということになる。

今では、冷泉家の時雨亭文庫の叢書のひとつとして、新しいテキストが刊行されている。(残念ながら、これは持っていない。)

以前、京都文化博物館で、冷泉家の展覧会があったとき、『明月記』も展示されていたのを見たことを覚えている。

このような『明月記』について、あるいは、藤原定家という人物について、いったいどんな人物で、どんなことが『明月記』には書いてあるのか……このあたりを、分かりやすくひもといてくれている本である。この本を読んで、なるほど藤原定家という人物は、このような人生をおくった人間であったのか、と認識を新たにするところが、少なからずあった。この意味では、国語史、日本語史のみならず、国文学、日本文学の勉強、さらには、日本史の勉強をこころざす、特に若い人にとっては、必読の本であるといってよいであろう。

2021年1月20日記

オンラインの授業あれこれ(その二〇)2021-01-21

2021-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年9月7日
オンライン授業あれこれ(その一九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/07/9293018

学部の授業(日本語史)が、再びオンラインになった。京都府などの緊急事態宣言をうけての対応である。

今年になってからの最初の授業は教室で話しをした。後期の授業としては、一三回目の話しになる。このとき、昨年末に出しておいたレポートの提出、それから、最後(一五回目)のレポートの課題を配布した。

その後、大学からの連絡でオンライン授業推奨ということになったので、そのように対応することにした。残りは二回である。一回分の講義と、それから、まとめの話し。そして、最後の四回目のレポートの提出である。

教室での授業のとき、京都府などの緊急事態宣言があるので大学の授業も次回以降どうなるかわからないから注意するようにとは言っておいた。たぶん、学生の方でも、それなりの準備はできているだろうと思う。

方式は前期と同様。毎回の授業のプリント(二ページ)に解説(二ページ)を加えたものである。それを、授業日の午前九時に送信するように設定して、送信した。

残りは、あと一回。最後の回のみである。通常の授業ができるなら、まとめの話しと、最後のレポートの提出ということになる。これも、オンデマンド方式の教材プリント配信と、電子メールでのレポート提出ということになる。締切は、最終授業日である。

ともあれ、イレギュラーな形ではあったが、教室での話しと、オンラインの教材配信とで、どうにか後期の授業はのりきることができたかと思う。

さて、次年度、四月からどうなるか、これがまったく先が見通せないのが困ることでもある。現時点の判断としては、感染が今のままで推移するなら(これからそんなに急拡大することがないなら)、四月から、今年度の後期のような形態で授業を進めることができるかと思う。大きめの教室を用意して、学生が集まらないようにする、大人数の講義でそれが無理なものは、オンラインにする……このような複合的な対応で、どうにかなるかもしれない。

これが、普通に教室に多くの学生が集まってということはたぶん無理だろうと思う。また、感染の拡大いかんによっては、キャンパスの立ち入り禁止のような対応も必要になってくるかもしれない。こればかりは、今後の推移を見守るしかない。

2021年1月20日記

千両2021-01-20

2021-01-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は植物の写真の日。今日は千両である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月13日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/13/9337126

掲載の写真は、先月(昨年の一二月)のうちに撮影しておいたものからである。今では、もう鳥が食べてなくなってしまっている。

我が家にいくつかの千両の木がある。赤い実をつけるものと黄色い実をつけるものとがある。どちらも、秋から冬にかけて実をつける。朝起きて、NHKの朝ドラを見てカメラを持って外にでる。千両、万両などの写真を撮る。

その千両の実も、ちょうど年が改まるころには、鳥が食べ尽くしてしまう。鳥が食べないように、防護策を講じてもいいようなものかもしれないが、これはこれとして、自然の姿だと思って特に何もしていない。

万両の実も鳥がたべる。だが、これは千両よりも後まで実が残る。庭に出ると、まだ万両の実を確認することができる。

写真については、現像処理のとき、ガンマ補正を少しかけてある。実の色合いを少し強調して見えるようにするためである。実際の肉眼で見たよりも、やや濃いめの色にしてある。

今年、初夏のころには、これらの千両の木の新芽が季節を感じさせることになる。そして、秋になるとまた実がつくことだろう。これらの写真を撮ることができたらと思っている。

千両

千両

千両

千両

千両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 DI MACRO 1:1

2021年1月18日記

追記 2021-01-27
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月27日
センリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/27/9341420

『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」2021-01-19

2021-01-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十一回「月にのぼる者」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/41.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月12日
『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/12/9336833

本能寺の変の背後には朝廷があったのか。あるいは、秀吉はそれを知っていたのか。

この回は、光秀を中心にいくつかの対面シーンで構成されていた。

第一には、光秀と秀吉。

この『麒麟がくる』における秀吉の描き方は、これまでのドラマとはかなりちがっていると感じる。抜け目がない、あるいは、権謀術数にたけた秀吉というイメージで描いている。これは、どちらかといえば真面目といっていい明智光秀と、どうもうまくいかないようだ。

第二には、光秀と信長。

光秀は、平蜘蛛の名器を信長にさしだす。名器はそれを持つにふさわしい人物を必要とする。だが、信長は素直にそれをうけいれようとはしない。売ってしまうといっていた。信長は、平蜘蛛を持つのにふさわしい人物たりうるのだろうか。

第三には、光秀と菊丸。

思い起こせば、菊丸は、このドラマの最初の方から登場してきている。その正体はなぞであった。結果としては、家康配下の忍びということになる。それを、光秀は知っていて逃げろという。このドラマの要所には、菊丸の忍びとしての活躍が意味を持っていたところもあった。さて、最後の本能寺の変に、もはや菊丸はかかわることはないのであろうか。

第四には、光秀と正親町天皇。

光秀は正親町天皇と会うことになる。そこで、どうやら帝は、信長という人物に見切りをつけたかと思われる。すくなくとも、もはや信長が天下を平定するにふさわしい人物であるという評価ではなくなったようだ。では、その信長に対してこれからどうあるべきか。その責務が帝から光秀に託されたとみていいのではないだろうか。

以上のようないくつかの光秀を軸とした対面シーンで、今回は構成されていた。

ドラマは、最後の本能寺の変に向かって大きく動き出したようだ。ただ、現在のわれわれは、本能寺の変があったことを知っている。また、その後の光秀のことも。しかし、ここは、歴史のドラマとして、これからどうなるであろうか、そこのところが緊張感を持って描かれていたと思う。まさに、歴史の「今」の視点が、このドラマにはあると感じる。

また、冒頭の丹波での戦の後の光秀の台詞が印象にのこっている。戦に正義はない。勝ち負けはあるが、それは時の運である。このような台詞を語った人間のおこしたものとして、この後の本能寺の変があることにある。

さらに書いておけば、駒がよかった。どこかしら憂いをおびた表情にしんみりとした思いを感じた。駒がいなくてもこのドラマは成立したと思うが、歴史に翻弄されたひとりの人間としての存在感があったと思う。

2021年1月18日記

追記 2021-01-26
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月26日
『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341089

『飼う人』柳美里2021-01-18

2021-01-18 當山日出夫(とうやまひでお)

飼う人

柳美里.『飼う人』(文春文庫).文藝春秋.2021(文藝春秋.2017)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167916268

昨年の暮れに柳美里の『JR上野駅公園口』を読んだ。そのつづきで、柳美里の小説を読んでみようと思って手にした。

やまもも書斎記 2020年12月26日
『JR上野駅公園口』柳美里
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/26/9330511

本のタイトルは「飼う人」である。何を飼っているかというと、「イボタガ」「ウーパールーパー」「イエアメガエル」「ツマグロヒョウモン」とまあ、いわゆるペットとしてはなじみのないものばかりである。そして、なぜ、このような生きものを飼うことなったのか、そのいきさつは様々であるが、しかし、そこのところについての描写はほとんどないといってよい。ただ、結果として、これらの短篇作品に出てくる主人公の人物は、その生きものを「飼う」ことになる。

これを読んで感じるところとしては、「飼う」という行為のもつ意味である。生きものを「飼う」とは、本当はいったい何なのであろうか。何故ひとは生きものを「飼う」のか。そこには、自らが生きていることへの、確認とでもいうべき感覚を感じる。生きものは「他者」である。それを「飼う」ことは、その生命のすべてを引き受けることに他ならない。そして、その他者の生命を背負うことによって、自分自身の生命をそこに再帰的に確認することになる。私は、この作品を読んで「飼う」ことの意味をそのように感じる。

それから、この作品のなかで、特に印象に残るのが「イエアメガエル」である。東日本大震災、そして、原発事故……これをめぐっては、多くの文学が書かれ、これからも書かれていくことだと思うが、そのなかで、柳美里の「イエアメガエル」は、特筆すべき作品として残るものであるかと思う。原発事故の汚染地域に暮らす普通の人びと、その生活感覚をとらえる文学的想像力に、読んでいて思わずに、読みふけっていることになる。ああ、こういう生活感覚で生きている人びとがいるのか、いわゆる報道やジャーナリズムでは伝えることのできない、心のうごきとでもいうべきものを、この小説は見事に描き出していると思う。

柳美里は、名前は知っていたが、これまで手にすることがなくすごしてきた作家である。つづけて、柳美里の作品で文庫本、古本で、手に入るものを読んでいってみようかと思っている。

2021年1月16日記