西川武臣『ペリー来航』2016-06-30

2016-06-30 當山日出夫

西川武臣.『ペリー来航-日本・琉球をゆるがした412日間-』(中公新書).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/06/102380.html

ペリーがどのような航路をたどって日本にやってきたかについては、このブログでも、すでにふれている。

やまもも書斎記 2016年6月11日
ペリーはどうやって日本に来たのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/11/8108879

これを書いたときには、この本が出ることを知らなかった。さっそく読んでみた。やはり、ペリーは、大西洋から喜望峰をまわってインド洋に出て、インド・中国を経て、日本にやってきている。具体的な寄港地としては……セイロン島・シンガポール・マカオ・琉球・小笠原、などになる。

では、ペリーのひきいた「東インド艦隊」とは、どのような目的のものであったのか。

「一八三五年に中国・日本・東南アジアの海域を活動範囲に、自国の権益と自国民の保護を目的に設立された艦隊である。」(p.15)

当時の国際情勢はどうであったかというと、

「日本にロシアやイギリス船が来航するようになった頃、アメリカ商船も東アジアでの活動を始めていた。(中略)商船の目的は中国との貿易で、アラスカなどで捕獲したアザラシやラッコの毛皮を満載した船は、アフリカやインドでも交易を続け、中国に至った。帰り船は中国で茶を中心に、生糸・絹織物・陶器などを購入しアメリカに運んだ。」(p.7)

このような状況のもと、

「(ペリーは)最終的に「今のところ、日本および琉球にはイギリスの手が及んでおらず、この地域でのアメリカが自由にできる港を、早急に確保すべきである」と主張した。」(p.29)

ペリーの日本来航は、しかるべくしてやって来たということになるのだろう。

この本は、ペリー来航をめぐる様々なことが書いてあるが、やはり重要なのは、琉球との関係であろう。

「翌五四年七月一一日には琉米修交条約が結ばれ、アメリカ合衆国は琉球と最初に近代的な条約を結んだ国となった。」(p.24)

このこと、アメリカと琉球との関係については、私の知見の範囲では、通常の日本史で出てこないことのように思われる。だが、琉球の歴史……かつては、独立した王国であり、中国(清)の冊封体制にあると同時に、日本の薩摩藩の支配下で幕藩体制のもとにあった……そして、明治維新後、日本の領土の一部に組み込まれていった、このような歴史のなかにおいて、条約を締結する、つまり、アメリカにとっては、パートナーであった(たとえ不平等条約であろうとも)ことの意味は、ないがしろにできない。

それから重要な意味をもっていたのが、小笠原である。

「実は小笠原諸島もアメリカの支配下に置く計画があった。(中略)近い将来、太平洋を航行する捕鯨船の寄港地や日本を経由して、カリフォルニアから中国にいた得蒸気船航路が確立された際、小笠原諸島は貯炭地として利用できるというのがその理由であった。」(pp.37-38)

このペリー来航は、まったくの突然のことだったのかというとそうでもないようだ。幕府は、『別段風説書』などによって、事前に情報を得ていたらしい。教科書に書いてあるように、1853年にいきなり黒船が出現して仰天したということでもないようである。

それはともかくとしても、ペリー来航に際しての日本の世間の様子が面白い。黒船見物に大勢おしかけている。そして、それに対して幕府が禁令をだす。ワシントン生誕の祝砲のこと、また、日本でおこなわれた乗組員の葬儀のこと、写真撮影のこと、汽車のこと、電信機のこと、など、明治の文明開化につらなるいろんなことがあって、これはこれで興味深い。もちろん、吉田松陰の事件もある。

この時代(ペリーが日本にやってきた時代)、それは、アメリカが、東回りで中国から日本をめざしたと同時に、西海岸から太平洋をわたって日本をめざす、まさにそのような時代であったことになる。

だいたい、以上が、私がこの本を読んで感じ取ったところであるが、さらにいうならば、それは、日本の幕末・維新の時代が、まさに、アメリカ南北戦争とほぼ同時代のできごとであり、これは『風と共に去りぬ』の時代でもあるといってよいであろうか。これについては、おって考えてみたい。

国を国旗であらわしていいか2016-06-29

2016-06-29 當山日出夫

昨日の大学での講義(実習授業)でのこと。プレゼンテーションの練習をさせている。自分の好きなテーマで、10分ぐらい教室の前にたってみんなの前で発表してもらう。

それに対して私は、簡単なコメントを言うことにしている。基本的には、一つは良かったところを褒めて、一つは改善すべき注意点について述べる、このようにしている。

この前、ある学生の発表について、いつになく、つい厳しい口調で注意してしまったことがある。(なるべくおだやかに話しをすることをこころがけている私としては、自分で顧みても、少しきつかったかな、と感じる。)

それは、国を国旗であらわしてしまうことの是非についていである。

発表のテーマは、WBC(野球)について。何年かに一度、各国であつまってその世界一を決める大会である。これについて、発表した学生がいた。プレゼンテーションの巧拙、スライドの作り方の上手・下手は別にして、特に私が気になったことは、参加国をしめすのに、国旗のデザインで示していたことである。

これに対して……国旗で国を表すことには、かなり注意をはらう必要がある。いわゆる国民国家の枠組・概念が現在の国際社会のなかではゆらいでいる。ついこの前、英国のEUからの離脱、それをめぐって、さらに、スコットランドの独立がとりざたされている。中近東などでは、もはや国民国家の体裁をなしていない。また、日本については、その国旗(日章旗)は、確かに国をあらわすものであるが、同時に、反日・反体制のシンボルでもある。国旗には、このような側面がある。このことを十分にわきまえたうえで、国旗の使用には慎重であるべきである……まあ、こんなふうなことを言ってみた。

だが、別に学生が悪いわけではない。WBC(野球)の試合は、国を単位として参加して、国ごとに勝負をきそう形式である。だから、参加国の国旗でもって、その国をあらわしても、特に問題があるというわけではない。プレゼンテーションとして問題があるとしたら、国旗のデザインを見ただけで、それがどの国のものであるか、すぐにはわからない場合があるかもしれないので、注意が必要である、というぐらいであろうか。

とはいえ、国というものを、国旗で表象してしまうことに、私は、なにかしらの違和感のようなものを感じるのである。特に、それが、大学の教室という場面においてなされると、何か、場違いなような感じがしてならない。

私は、日本国の国旗は日章旗であることに、異論はない。このことは十分に認識している。だが、いや、だからこそ、その国旗というものが、反日のシンボルにもなり得るものであることを、十分にふまえておかなければならない。そして、それを、素朴に持ち出してくることは、ちょっと考えてみた方がいいとも感じるのである。

おもわず口に出して、それも、かなりきつい口調で言ってしまったことではある。そのことについては、反省の必要はあるだろう。だが、その場所で私が感じた違和感のようなものは、どうしてもぬぐいさることができない。

日章旗を日本国の国旗であると考える私であってさえも、何かしら落ち着きのない気持ちになってしまう。これは、気にしすぎであろうか。

では、他にどのような代替案があるかといえば……名称・名前で文字で示す、地図で示す、などが考えられるが、どれも問題がないわけではない。国の呼称はいろいろ問題のある場合がある。また、国境の画定していない国というものもある。だからといって、では国旗でいいかとなると、そうもいかないように思う。

ちかいうちにオリンピックがひらかれる。その時には、参加国を示すものとして国旗のデザインがつかわれる。これはいたしかたのないことである。このようなことにまで、私は反対しようととは思っていない。

だが、国旗で国を表してしまう、このような行為のもつ、ある種の無邪気さのようなものは、「大学」という場所には、どうもなじみがわるいように感じられてならないのである。

この問題、これから、考えていかなければならないことだと思っている。

島田裕巳『「日本人の神」入門』2016-06-28

2016-06-28 當山日出夫

島田裕巳.『「日本人の神」入門-神道の歴史を読み解く-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883702

神道関係の新書本程度の入門書をいくつか読んでみたなかで、この本はよく書けているなと思う。わるい本ではない。ざっくりと日本の神道とはどんなもので、どんな歴史があるのか、ということを知りたい向きには、おすすめである。

古い神社の姿として、社殿が無いものを想定してみている。たとえば、大神神社とか、沖ノ島における古代祭祀遺跡などを例にあげる。神道の神として、八幡・出雲・天神など各種の神々について概説する。それから、神仏習合の歴史についても、わかりやすく説明してある。

ところで、私がこの本を読んで興味深く思ったのは、伊勢神宮についての記述のいくつかである。伊勢神宮については、このブログで、以前に書いている。

やまもも書斎記 2016年6月5日
『華麗なる一族』の風景
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/05/8102763

ここでも、島田裕巳の本に言及しておいた。

次の指摘は重要だろう。

「明治天皇の前に伊勢神宮に参拝した可能性のあるのが、持統天皇である。そのことは『日本書紀』に記されているのだが、可能性ということばを使ったのは、はっきりと参拝したとはされておらず、伊勢に行幸したとされているだけだからである。」(p.64)

伊勢神宮は、皇室の神様をまつったところである……というのが、一般の理解だと思う。しかし、歴代天皇は、伊勢神宮には参拝していないという。そのかわり、伊勢に「斎宮」がおかれていた。

いわば、敬して遠ざける、と理解しておけばよいだろうか。非常に重要な神ではある、しかし、その霊力が強いが故に、都(奈良・平安)からはへだたった伊勢の地に祭祀することになったと解される。

「明治天皇が伊勢神宮に参拝することによって、そこに祀られた天皇家の祖神としての天照大神との結びつきが改めて確認され、それは、明治になって新たに確立された天皇を中心とした国家のあり方がいかなるものかを知らしめることに貢献した。しかも、参拝の準備のために、伊勢神宮での神仏分離が徹底され、仏教寺院が破却されたことで、明治時代の新たな信仰のあり方が具体的に示されたのだった。その点で明治天皇の伊勢神宮参拝は宗教史上の一つの事件だった。」(p.242)

それから、現在普通におこなわれている神社の参拝の形式「一揖、再拝、二拍手、一揖」も、明治になってから定められたものである。(p.233)

それまでは、拝殿で合掌する、ぬかずくなど、多様な礼拝の形式があったようである。

「これは、江戸時代において、神社に参拝した場合にも、現在の作法とは異なり、拍手を打たなかったことを示している。」(p.234)

このことの証拠としてあげている資料は『伊勢参宮細見大全』。三重県立図書館デジタルライブラリーで見られるとある。調べてみると、次のURLだろう。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/library/da-tosyo/detail?id=163163

なお、この本の第七章「人を神に祀る」で、柳田国男の『先祖の話』にふれてある。柳田の論を完全に肯定することはむずかしいが、否定もできないといったところである。

ところで、人を神に祀るといえば、靖国神社がある。この本では、(敢えてであろうが)靖国神社にはついては記述がない。それについては、

島田裕巳.『靖国神社』(幻冬舎新書).幻冬舎.2014
http://www.gentosha.co.jp/book/b7985.html

がある。靖国神社については、また改めて考えてみたい。

佐伯啓思『従属国家論』2016-06-27

2016-06-27 當山日出夫

佐伯啓思.『従属国家論-日米戦後史の欺瞞-』(PHP新書).PHP研究所.2015
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-82539-7

さしずめ先に書いた「永続敗戦論」の保守版とでもいえるだろうか。筆者は、いうまでもなく保守派の論客である。

たとえば、次のような箇所。

「だから、いかにも「革新」と「保守」が対立するように見えても、それは見せかけにすぎず、この両者がもたれかかりながら、「戦後レジーム」を作り出したというわけです。「保守」は、たえず「革新」を急進的な体制転換をもくろんでいる、と批判し、「革新」の側は「保守」を憲法改正をもくろみ、戦前への道を逆戻りするナショナリストと批判したりするのですが、いずれにせよ、こんな批判は両方ともまったくあたりません。/社会主義であれ、戦前への回帰であれ、「戦後レジーム」を否定する気など、「革新」にも「保守」にもなかったのです。/両者ともに、アメリカを背後に置いたあの非対称的な二重構造によりかかっていたのです。本当の体制は、まさにこの「構造」そものにこそあった。」(pp.196-197)

保守・革新をふくめた対米従属の戦後レジームの継続という論点は、まさに、先に書いた白井聡のいっていることと重なる。私の認識では、「永続敗戦論」というのは、なにも左派からの特権的な発言でも何でもないのである。

ではこれからどうすればいいのか……具体的な提言が特にあるわけではないのだが、方向はしめしてある。アメリカを相対化することだという。

「すでにこの時期(冷戦終結)に、アメリカでは、冷戦以後の「敵」は日本である、という議論まで出ていたといわれています。」(p.37)

「ここで、日本は、思考の転換をすることができなかったのです。冷戦体制敵な思考がただ変形され延長されただけでした。ただ、アメリカとの良好な関係の維持とそのもとでの経済の活性化、という発想です。「アメリカとの良好な関係」が前提となり、その帰結が「日本の経済発展」なのです。これは戦後ずっと変わりません。」(p.42)

「こうして、日本独自の観点から「世界」を了解する、ということができない。むしろ、「世界」を見る見方を「アメリカ」から借りてくる。/こうなると、とても「アメリカ」を見る、外部的(超越的)観点を持ち合わせているとはいえません。ここに大きな問題があることをまずは了解してください。」(p.43)

そして、その先はどうすればいいのか……この点になると、筆者はこの本では語っていない。たぶん、次の本に書いてあることが、答えなのだろう。

佐伯啓思.『倫理としてのナショナリズム-グローバリズムの虚無を超えて-』(中公文庫).中央公論新社.2015 (原著、2005.NTT出版)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/12/206209.html

佐伯啓思.『大転換-脱生長社会へ-』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、2009.NTT出版)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/06/206268.html

これらの本については、おって後ほど書いてみたい。

中島みゆき「霙の音」2016-06-26

2016-06-26 當山日出夫

中島みゆきのアルバム『組曲』(Suite))については、すでに言及した。

やまもも書斎記:中島みゆき「36時間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/20/8115592

このアルバム『組曲』(Suite)のなかには、もうひとつ気にいっている曲がある。『霙の音』である。

中島みゆき……もし、シンガーソングライターにならなかったら、時代がもうすこしはやかったら、歌人か小説家になっていたかもしれない、という意味の発言をどこかで目にしたことがある。(何であったかは忘れてしまったが。)

初期の作、(70~80年代)ぐらいの作品を見ていくと、短編小説をおもわせるような作品がいくつかある。『まつりばやし』(『あ・り・が・と・う』)、『おまえの家』(『愛していると云ってくれ』)、『蕎麦屋』(『生きていてもいいですか』)、等々。

そのなかで、心境小説的な作品、孤独な絶望感をリリカルにうたいあげた作品として、『肩に降る雨』(『miss.M』)が、その極北に位置するものと、私は感じている。

『霙の音』も、これに匹敵するぐらいの、いやそれ以上の凄絶さを感じさせる作品になっている。この歌に表現されているものは、何といえばいいのだろうか。悲しみ、さびしさ、せつなさ、といった諸々の感情を、極言にまでつきつめていったいったところで、ふと自分をみつめてみたときにうまれる、ある種のむなしさのようなものといってよいであろうか。絶望といってもよい。

絶望的な感情を歌ったものとしては『うらみます』(『生きていてもいいですか』)がある。これは感情がストレートである。こころの叫びともいえる。だが、この『霙の音』の絶望は、屈折している。

かつての『肩に降る雨』のときには、最後に希望の光を感じることができている。しかし、『霙の音』には、もはやすくいがない。ただ、「みぞれのおと」が聞こえてくるだけである。絶望の絶唱、あるいは、ささやき、といってよい。このような絶望を叙情的にうたった歌をほかに知らない。そして、このすくいのない作品を、さりげなくアルバムのなかにいれている中島みゆきは、やはりすごいとしかいいようがない。

白井聡『戦後政治を終わらせる』2016-06-25

2016-06-25 當山日出夫

白井聡.『戦後政治を終わらせる-永続敗戦論の、その先へ-』(NHK出版新書).NHK出版.2016
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000884852016.html

この本、前半……「永続敗戦論」の解説として読めば、それなりの説得力があるのだが、では、その後半として……具体的にどうすればいいのかとなると、的確な方針がしめせていないように、私は読んだ。

白井聡.『永続敗戦論-戦後日本の核心-』.太田出版.2013
http://www.ohtabooks.com/publish/2013/03/08173037.html

私の理解したところでいえば……「永続敗戦論」とは、昭和20年の敗戦の事実をそれとして直視しない姿勢であり、その後にうまれた、いわゆる55年体制が、1990年代以降、冷戦の終結とともに、その役割を終えたにもかかわらず、ずるずると現代にいたるまで、つづいている状態……ということに要約できるであろう。

これはこれとして、ナルホドとおもわせる議論の立て方ではある。ただ、これも、いわゆる左翼的な立場からの分析ではあるけれども、同じようなことは、逆の、いわゆる右翼・保守的な立場からも、同様の意見は出されている。なにも、左翼側だけの特権的見解というわけではない。

序章  敗戦の否認は何をもたらしたか
第一章 五五年体制とは何だったのか
第二章 対米従属の諸相(一) 自己目的化の時代へ
第三章 対米従属の諸相(二) 経済的従属と軍事的従属
第四章 新自由主義の日本的文脈
終章  ポスト五五年体制へ

とあるうち、第四章あたりまでは、なんとか議論についていける。しかし終章あたりになると、これでいいのだろうかと思ってしまう。

「戦後レジームからの脱却」には、「三つの革命」が必要だという。いわく、「政治革命」「社会革命」「精神革命」。

「政治革命」としては、たとえば、「二〇一六年の参院選を視野に入れた野党の共闘についてに合意形成です」とする。しかし、これで、再び政権交代となったところで、どうなるというのだろう。これを「革命」というのなら、以前の民主党政権のときのことを、まず総括しないといけない。それでもダメだったから「永続敗戦論」ということになったのではなかったのか。

「社会革命」としては、「近代的原理の徹底化を図るということです」そしてそれは具体的には「基本的人権の尊重、国民主権の原理、男女の平等」であるという。しかし、本当に「革命」がおこったら、このようなものこそまっさきに蹂躙されるものではないのだろうか。それに、これらの「徹底化」を「革命」というのはどうかと思う。

「精神革命」としては、「要するにそれは、意思の問題です」という。

これは、もうなにをかいわんや。意思の問題でことが解決するなら、とっくにどうにかなっている……と思わざるをえない。戦後の政治・社会がどのようなものであったかについての、一定の図式を考えてみたいというむきには、確かにそうかなという気はするのだが、では、これから具体的にどうすればいいのかの議論になると、最後は、「意思の問題」つまりは、スローガンに終わってしまう。最後は精神力だというのなら、かつての大東亜戦争・太平洋戦争のときの日本に逆戻りではないか。

問題点の分析はできるけれども、それに対する的確な処方はしめせていない、その典型のように読める本である。さらにいえば、的確な対処法がしめせないということは、そもそもの問題の分析に疑問点がある、と思うべきかもしれない。

電子書籍からの引用はどう示すか2016-06-24

2016-06-24 當山日出夫

電子書籍について思うことを書いてみる。

電子書籍の利便性については、いろんなところでいろんなひとが述べている。ここでくりかえすまでのこともないだろう。ここでは、私が困っていることについてしるしておきたい。

それは、「引用」と「典拠」のしめしかたである。

論文やレポートを書く。そのときに、引用・出典ということが重要になる。これは、紙の本についてであれば問題はない。さまざまな流儀があるとはいえ、これまでの各研究分野における、習慣というか、伝統的なスタイル、とでもいうべきものがある。

これが、電子書籍になるとどうか。

引用はできる。PCで見ているにせよ、Kindleなどの専用デバイスで見ているにせよ、とにかく、内容を書き写す(コピー)することは、紙の本と同様である。

では、次に、この出典を注記しようとしたとき、どうすればいいか。このときになって、はたと困ってしまうのである。ページが書けないのである。

いうまでもないことだが、電子書籍には「ページ」の物理的概念がない。本文のデータがあって、それをディスプレイに表示する。そのとき、文字の大きさにあわせて、ディスプレイの表示文字数は変化する。リフローするのである。引用して、その典拠・出典としての、どの本の何ページと、確定的に指示できないのである。

これは、論文・レポートを書くとき、致命的に困ることだと思うのだが、はたして、ひとはどう思っているのだろうか。

たとえば、私のKindleには、「角川インターネット講座」(全15巻、合本版)がいれてある。(安かったから買ったのだが、今、確認してみると、値段があがっている。買ったときの値段を確認してみると、2700円だった。)

ともあれ、この本から何か引用しようとしたとき、本文をディスプレイ表示を見ながら書き写すのはいいとしても、その典拠・出典を書かねばならなくなったとき、困ってしまう。ページ番号が書けないのである。これでは、引用することができない。これでは、私が書く文章……論文とまではいわなくても、このようなブログに引用することもできない(少なくとも、典拠を明示して書こうとするならば。)

引用できないということは、学生の勉強につかえない、少なくとも、論文やレポートを書くときの参考文献としては利用できない、ということになる。論文やレポートでは、引用した箇所については、かならずその典拠をしめさなければならない。これは、アカデミックな世界における決まったルールである。そして、しめされた典拠にしたがって、その論は検証できなければならない。

電子書籍の利便性について語られることは多いが、上記のような問題点については、あまり言及されることがないように見ている。はたして、この問題、どのように考えればいいのだろうか。

志賀直哉『城の崎にて』は小説か随筆か2016-06-23

2016-06-23 當山日出夫

安藤宏.『「私」をつくる-近代小説の試み-』(岩波新書).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/4315720/

この本は、日本の近代小説における「私」(第一人称)のふるまい方をめぐる論考である。内容については、すでにWEB上にいろんなレビュー等があるので、くりかえさない。

すでにこのブログで書いたこととの関連で気になったことを一つだけ。

『城の崎にて』(志賀直哉)……この作品が、岩波文庫『日本近代随筆選』第三巻(思い出の扉)に収録されている。これは、はたして妥当なことなのであろうか。私の認識では、『城の崎にて』は、「小説」だと思っていた。

『日本近代随筆選』第三巻の解説にはつぎのようにある(長谷川郁夫)、

「随筆に記されるのは、いつの場合もこころの真実である。しかし、思い出には記憶違いもあれば、誇張もある。リアリティ尊重の究極のかたちが随筆だろうと理解しても、それが「作品」となる以上、そこには読ませる技術、読者を喜ばせる技術が必要とされる。(中略)ときにはフィクショナルな要素が、あるときには多分に加味される。」(p.346)

そして、吉田健一にふれた箇所をうけて

「随筆は虚実のあわい、その妙を味わうべきものとも考えられるのである。/などと記せば、本集に志賀直哉の心境小説の代表作とされる「城の崎にて」を収めた意図も、おおよそのところ推察されることと思う。」(p.347)

ここでいっていることは、私の理解では、「随筆」にはウソを書いてもかまわない。フィクションであってもよい。要はその文章の巧さをどう表現するかにある、ということである、と読める。

一方、『城の崎にて』について、安藤宏は、『「私」をつくる』で、次のように書いている。

「かつてある留学生にこの小説を薦めてみたところ、興味深く読んだけれども、これは「小説」ではなくエッセイなのではないか? という質問を受けたことがある。決してそのようなことはない、『城の崎にて』は発表当時から理想的な「小説」として高く評価されてきたのだ、と、とりあえずは答えてみたものの、実はエッセイではないという理由をうまく説明できず、その時の歯がゆさが「小説」における共同性について考えるきっかけにもなったのだった。/エッセイと「小説」とを区分するポイントは、やはりこの場合も「自分」が小説家であり、『城の崎にて』のできあがるプロセスが平行して示されている、という設定にかかっているように思われる。」(p.159)

「つまり「それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった」という執筆の現在までもが含まれている。特に右の「なるだけは」という文言には、結果的に助かったけれども、実は人生それ自体、この三年間のモラトリアムとはたしてどこが違うのか、という「現在」の認識がぬり込められている。温泉保養の挿話の背後には、一人の小説家が数年間かけて死生観を変容させていくプロセスが、いわば「もう一つの物語」として示されているわけである。」(pp.159-160)

安藤宏の見解としては、書いてあることが「事実」かどうかは、たいした重要性はない、それよりも、どのような「自分」をどのように書いているのか、その「自分」のふるまい方にあるのだ、といっているように理解される。

たしかに『城の崎にて』は、「随筆」としても「小説」としても読める作品である、としかいいようがないのかもしれない。だが、しいていえば、私としては、「小説」であるといっておきたい。

以下、私見である。それは、作中の「自分」の描き方である。これは、第三者視点(神の視点)から見た「自分」であると、私には読める。限りなく素朴な実在論的な意味での自分にちかい「自分」もあれば、逆に、第三者視点(神の視点)を経由したうえで描き出される「自分」もある。この意味でいうならば、『城の崎にて』の「自分」は、「自分」とは書いてあるものの、第三者視点(神の視点)を経由して眺めた「自分」である。私には、そのように読める。

したがって、『城の崎にて』の「自分」が、読者との「共同性」をおびたものとして、ふるまってもおかしくはない。「共同性」を描こうとするならば、「読者」と「作者」の両方を、同時に俯瞰する視点が必要になるからである。

つまり、次のようにまとめることができる。

「随筆」と「小説」を分けるものは、事実か虚構かではない。「自分」をどのような視点から見るかである。「作者」イコール「自分」であるのが「随筆」。そうではなく、「自分」を第三人称視点(神の視点)から見たものとして描くのが「小説」。一人称視点の小説というものもありうるが、そのとき描かれる「自分」は、それが「私小説」であったとしても、「作者」からではなく、第三人称視点(神の視点)を経由したものでなければならない。

この意味では、『日本近代随筆選』に『城の崎にて』がはいっているのは、それなりの判断があってのことにせよ、多少の問題がないわけではない。

とりあえず以上のように考えてみた。さらに考えてみたい。

『日本近代随筆選』2016-06-22

2016-06-22 當山日出夫

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選1-出会いの時-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選2-大地の声-』(岩波文庫).岩波書店.2016

千葉 俊二・長谷川郁夫・宗像和重(編).『日本近代随筆選3-思い出の扉-』(岩波文庫).岩波書店.2016

https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/31/0/312031+.html

岩波文庫で出ているので、とりあえず買ってみるかと思って買ってみた本であるのだが……これは、あたり、だったと思っている。

全三巻。『一 出会いの時』『二 大地の声』『三 思い出の扉』……たぶん、このシリーズを買わなければ、「無常ということ」(小林秀雄)の文章を再読してみるということもなかったかもしれない。

やや長くなるが、第一巻の解説(千葉俊二)から引用してみる。

「若いころは小説や評論ばかり読んでいて、随筆の面白さにはなかなか気づかされないというのが、大方の読書の最大公約数ではないだろうか。ある程度の歳を重ねて、自分の経験してきた人生と照らし合わせて読みながら、心の底から共感し得る内容や、ほんのささやかなことだけれど、これまで気づくこともなかったようなことに眼を向けさせられ、新たな認識を与えられて、人生の滋味といったようなものに触れたとき、どんな短い文章であっても、しみじみいいなあと思うし、面白いと感じさせられる。これは読む側ばかりの問題でもなく、書き手側についても同じことがいえる。」(p.326)

こういうことばに共感するようになったというのも、たぶん私自身が歳をとってきたということなのだろうと思う。これも、悪いことではないのであろう。ただ、私の場合、小説や評論を読むというよりは、日本語学関係の専門書・論文などを読んできたのだが。そして、私の場合、この歳になって、文学・歴史・哲学、といった人文学の基本的な本を読んでおきたくなっている。

第一巻の冒頭においてある作品は、『サフラン』(森鴎外)である。次のような文からはじまる。

「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりでない。すべての物にある。」(p.10)

今では知らないものがあれば、コンピュータを起動して、ググってしまう。「サフラン」が知らないことばだったら、検索してしまうだろう。どんな植物なのか、そして、画像まですぐに出てきてしまう。名前だけが、記憶の底にのこるという時代ではなくなってしまっているのかもしれない。

第二巻の『鐘の声』(永井荷風)。

「住みふるした麻布の家の二階には、どうかすると、鐘の声が聞こえてくることがある。」(p.10)

今のインターネットは、YouTubeに接続すれば、音声付きの映像も見られる。しかし、実際に自分の耳で聞く鐘の声は、またちがっている。

インターネットのおかげ、随分と便利にはなった。しかし、知的に、また、情緒的に、豊かになったとはいえないのでないのかもしれない。この随筆集を読むと、そう思わざるをえない。

第三巻には、『城の崎にて』(志賀直哉)がはいっている。

ところで、これは、「随筆」なのであろうか。私の認識では、「小説」だと思っていたのだが。この論点については、また、次にあらためて考えてみたい。

JADS(2016年次大会)と古写真2016-06-21

2016-06-21 當山日出夫

今年もJADS(アート・ドキュメンテーション学会)の年次大会が終わった。
2016年6月11日・12日 奈良国立博物館

JADSブログ
http://d.hatena.ne.jp/JADS/20160318/1458261422

シンポジウムのテーマは、「文化財と写真~現物と複製 その境界を越えて~」

若いころから、写真は好きな方である。いまでも、(無事に作動するかどうかは不安であるが)ニコンのF2・F3・FE2・FA、と持っている。これらの機材で、子供の小さいころの写真などとっていた。(まだ、デジタルカメラなど登場する前のことである。)

ところで、写真がデジタルになって、大きく変わったなと感じることがある。プリントアウトしない……昔でいえば、印画紙に焼き付けない……写真が増えてきたということである。ディスプレイ(パソコンであったり、スマホであったり)で見るだけのものでおわってしまう。写真とは、紙の上にプリントしたモノである、という感覚がもう通用しない時代になってきたのである。

シンポジウムの中で、登壇者のひとり(写真史の専門家)が、「写真とは何ですか」との質問に対して「手にもつことのできるもの」と答えていたのが印象的だった。逆にいえば、今では、手にもつことのできない、いうならばデジタルのデータだけの写真が増えてきた、ということになる。

さて、私の写真であるが……上述のように、マニュアルフォーカスのフィルムカメラはよくつかった。つまり、オートフォーカスになってからの機種は買っていない。しかし、デジタルカメラの時代になってから、デジタル一眼レフなど買ったりはしている。(その当時、いろいろ考えてオリンパスにしたのだが。)

でも、はっきりいって、デジタルになって写真をとることが、面白くなくなってきた、という印象をまぬがれることはできない。どうしてだろう。これはやはり、モノとしての写真ではなくなってしまったせいだろうか。

シンポジウムで出てきたことだが……古写真の文化財指定ということがある。東京国立博物館の持っている、壬申検査(明治5年)のときの文化財調査の記録写真が、今では、重文指定になっている。

これは、e国宝のホームページで見られる。

e国宝
http://www.emuseum.jp/top?d_lang=ja

このなかの、「歴史資料」に「壬申検査関係写真」としてある。

かつての時代の最先端にあった写真というものが、100年以上の時間を経て、それ自体がこんどは文化財になっていく……考えてみれば、数奇なめぐりあわせである。

さて、話かわって、大学の授業の中で、私は、古写真についてふれることがある。基本は次のふたつ。

第一に、古写真というものがあって(主に幕末・明治初期に撮影された写真)それが、「デジタルアーカイブ」として見られるようになっていることの紹介。

第二に、古写真には、どう考えても、すくなくとも個々のコンテンツには、著作権はないはず。その著作権のないコンテンツを、デジタル化して、インターネットで公開するとき、いろんな方針がある。「無料で自由につかえる」「申請が必要である」「有料である」など。このことについては、また、後ほど考えてみることにしたい。

ともあれ、古写真として何が写っているか、これも興味深い。誰が何をとっているか。この点についていえば、シンポジウムのなかでの次のような発言……「明治になって、勝った側が、負けた側を写している」……ナルホドと思った次第である。

この意味で、まず、私の脳裏にうかんだのは、戊申戦争で負けた会津若松城の写真。国立公文書館のホームページで、自由に見られる。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M0000000000001126738

古い写真から、いろいろ考えさせられるものである。