『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その三)2017-03-29

2017-03-29 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月25日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/25/8419677

この作品で、本多が、故・清顕の「生まれ変わり」である勲と出会うのは、大神神社の瀧のところである。そこで、その印である黒子を目にする。

ところで、『豊饒の海』は、宗教小説といってもよいかもしれない。仏教の輪廻転生をモチーフにしているのみならず、次の『暁の寺』では、タイ、それから、インドでの、人びとと宗教が濃厚に描写される。この『奔馬』においても、大神神社に代表される神道、神社というものが、重要な位置をしめる。

三島は、大神神社などの神道の信仰を、日本古来のものとしてそのまま信じているかのごとくである。無論、これは小説だから登場人物にそのように信じさせておくだけのことかもしれないが、読んでみるとどうもそれだけという感じはしない。三島自身が、神道を日本古来の宗教の姿をとどめているものと感じているように読めるのである。

この点については、現在の観点からは、いくらでも批判することができよう。神道といっても、現在につたわっているものは、特に仏教などの影響をうけたものとして、今にいたっている。それが、明治維新で、復古したような、あるいは、それが、昔からの姿をとどめているような印象をあたえるものになっているだけのことである。

やまもも書斎記 2016年6月9日
安丸良夫『神々の明治維新』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/09/8107799

三島由紀夫にとって、日本の「伝統」とか「信仰」とかは、どのようなものであったのか。それと彼の美意識はどう関連するのか。そして、それは、『豊饒の海』のテーマである、輪廻転生、唯識とどうかかわっているのであろうか。

日本近代文学を専攻しているというのではないので、このようなことに、現在、どのような研究の目が向けられているのか知らないでいるのだが、考えておくべき重要な問題だろうと思っている。日本の文化とか伝統、あるいは、信仰、宗教というようなものを引き受けていくのも文学の役割であると同時に、それに対する自覚的な反省の目をつちかっていくのも、また、文学の役目であると思うのである。

『おんな城主直虎』あれこれ「おんな城主直虎」2017-03-28

2017-03-28 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年3月26日、第12回「おんな城主直虎」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story12/

前回は、
やまもも書斎記 2017年3月21日
『おんな城主直虎』あれこれ「さらば愛しき人よ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/21/8412696

亀が死んでしまった。そして、ついに、「おんな城主直虎」の誕生のシーンを迎えることになった。で、最後になって、続くときた。

そして、ネコであるが、今回も登場してきていた。ちょっとではあるが、画面のすみっこに小さく映っていた。

今回の見どころは、「おんな城主直虎」になる決意をかためるまでの、特に、寺でのシーンだろう。様々な煩悶、葛藤のなかで、遂に、次郎法師が、直虎になる決心をすることになる。そして、それを影でささえることになる和尚。

とはいえ、ここできっぱりと還俗するというあたりの描写が希薄であったように感じられる。出家するときには、その心構えにするどく迫った和尚であったが、還俗するときはすんなり許してしまっている。まあ、これは、和尚といえども、完全に俗世を離れた立場ではなく、井伊の一族ということになるので、これは、いたしかたないといえば、そうなるだろうか。

私が気になることとして見ていたのは、やはり、戦国の「国衆」として城主になることを決意する、次郎(直虎、おとわ)のエトスの描き方である。ともかく、井伊の一族、イエをまもることに、それこそが、何よりも大事であるということは、なんとなく分かるのだが……まあ、こんなものかなあ、と思って見ていた。

このドラマ、井伊の一族がメインに登場するのだが、それに並ぶ、他の国衆が登場しない。出てくるのは、今川(太守様)と、まだ、弱小な徳川家康ぐらい。これらの戦国大名に囲まれて、井伊のイエがどう生き延びていくのか、これが、これから先のドラマの核になることなのだろう。それは、前作『真田丸』のように、同盟と裏切りの渦巻くなかで知謀にたけたものが生き残るというよりも、なんとなく、その場の流れのなかでどうにかこうにかして、かろうじて生き残る舵取りをしていく、そんな感じになるのだろうか。

たぶん、これからのこのドラマの基軸にあるのは、戦国領土ナショナリズムというよりも、パトリオティズム(愛郷心)としての井伊谷での一族の暮らしをどう安寧にたもっていくか、そのために、今川、徳川、それから、織田(まだ登場していないが)と、どうわたりあっていくか、このあたりの、その場その場の状況の読みと判断にかかってくる、このように思っておけばいいだろうか。

さて、直虎が誕生してしまったが、トラが出てきて、ネコはどうなるのだろうか。

『疑心 隠蔽捜査3』今野敏2017-03-27

2017-03-27 當山日出夫

今野敏.『疑心 隠蔽捜査3』(新潮文庫).新潮社.2012 (新潮社.2009)
http://www.shinchosha.co.jp/book/132157/

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月23日
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/23/8416674

この春休みにと思って、今野敏の「隠蔽捜査」シリーズを読んでいる。これで、第三作目。どうやら、主人公(竜崎)のキャラクターも、安定してきた感じがする。

朴念仁の警察官僚(キャリア)である。警察庁にいたが、ある不祥事をきっかけに、大森署の署長という設定。前作と同様、署長だから、基本的には現場に出るということがない。管理する立場で仕事をする。その竜崎と対照的な位置にいるのが、刑事・戸高。有能だが、ちょっとすねたような態度がある。これは、徹頭徹尾、現場の人間。この組み合わせで、事件に対処していくことになる。

この作品の舞台になるのは、アメリカ大統領の来日。その警備の方面警備の責任を負うことになる。羽田空港は、大森署の管轄下にある。そこにやってくる、アメリカのシークレットサービス。彼らは、空港の監視カメラに不審人物を発見する。テロの可能性がある。だが、羽田空港を閉鎖するわけにはいかない。あくまでも大統領の安全を第一に考えるシークレットサービスと、日本の官僚機構の中にある警察に身をおく竜崎の間で、おこる衝突。一方、戸高の方は、都内でおきた交通事故に奇妙な点を発見して、単独で捜査にあたっているが……そして、登場する女性キャリア。年がいもなく、竜崎は彼女に心引かれてしまううのだが。

今回の作品も、いろいろと見せ場がある。特に、大統領の安全を第一に考えるシークレットサービスのプロ意識と、日本の警察官僚としての竜崎のやりとりが、興味深い。と同時に進行する竜崎の女性キャリア・畠山への思い、煩悶、そして、竜崎の家族、妻、娘とのやりとり……このあたり、警察官僚小説(といいっていいだろう、一般の警察小説とはちがって)としての面白さと、その家庭の事情を描いたホームドラマの面白さが、うまくからみあっての物語となっている。

たとえば、次のような箇所。

自分の役割は、そうした鋭い捜査能力や危機管理能力を持った人間を使いこなすことだと認識していた。キャリアにはキャリアの役割がある。管理者が現役の捜査員と現場感覚を競ってもかなうはずがないのだ。
(p.263)

こういうところを読むと、キャリアを主人公としたこのシリーズが安定してきていることを感じさせる。

次は、『初陣』である。3.5となっている。スピン・オフの物語とのこと。これも、楽しみに読むことにしよう。

『べっぴんさん』「老い」を描けない2017-03-26

2017-03-26 當山日出夫

NHKの朝ドラ『べっぴんさん』が、次週で最終週をむかえる。いよいよおわりである。一応、毎朝、見てはいるのだが、このところ、毎回が、これで最終回かというようになっている。

ここで気になっているのが、ドラマにおける「年齢」「老い」の描き方である。

ヒロインのすみれには孫の藍が生まれている。孫が生まれれば、家庭内での呼称は、「おかあさん」から「おばあさん/おばあちゃん」に変わってもいいと思うのだが、そうはなっていない。意図的に若く描く必要もないのかもしれないが、会社もリタイアして、これから第二の人生を歩み出そうというのが、この週のメインであったように見ている。

だが、ドラマを見ていると、「老境」とでもいうような人物描写にはなっていない。まあ、それほどの年齢もない、ということなのであろうか。

過去の近いところで、朝ドラを思い出してみると、たとえば、「おひさま」は、年取ったヒロインを若尾文子が演じていた。その回想という形で、ドラマが進行していた。また、「カーネーション」では、年をとった場面になったとき、主演が夏木マリに代わっていた。年配の女優を起用することで、それなりに老年というものを描いていたように思う。

それから、「マッサン」では、ヒロインの交替こそなかったものの、エリーの老年の状態を、シャーロット・ケイト・フォックスが、見事に演じていたのを憶えている。

年をとったから、年寄りとして描かねばならないということではないだろう。朝ドラである。朝に見るドラマで、老人の淡々とした毎日を見せられるのも、どうかと思わないでもない。ましてや、人生の終わり、あるいは、「死」を意識させるような描写も、基本的には避けるのだろう。

とはいっても、会社をリタイアして、そして、次週では、孫(藍)も大きく成長するようだ。そのような状況にあって、人生の「老い」というものから無縁の生活ということも、またないのではなかろうか。それを、朝ドラの中で、どのように描くのか、あるいは、俳優としてどのように演じるのか、このあたり、ドラマの最期の段階になって、ちょっと気になっている。

さらにいえば、年をとるのは、ヒロインのすみれだけではない。仲間の女性達も、また、夫も、年をとる。だが、テレビをみていると、それぞれに年をとってきているようには見えないのである。

女性の半生、一代記を描くということでドラマをつくるなら、年をとった場面で、どのように「老い」を描くかというのは、重要なことだろうと思っている。

『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)2017-03-25

2017-03-25 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月24日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/24/8418304

この小説を、40年ぶりに再読してみて、思ったことをいささか。

主人公の名前が「勲」であること。これは、再読するまで忘れていた。この「勲」という名前、他で見ておぼえていた。『きんぴか』(浅田次郎)の「軍曹」の名前である。

私は、浅田次郎の作品は、たぶん、出たもののかなりを読んできているとは思っている。そのなかで、一番好きなのは、その処女作である『きんぴか』である。そのつぎぐらいの『プリンズンホテル』のシリーズもいい。『天切り松』のシリーズもいい。『壬生義士伝』もいい。しかし、私が一番すきなのは『きんぴか』なのである。この作品のなかに、その後の浅田次郎の各種の作品に展開していく、いろんな要素がつまっていると思う。

で、この『きんぴか』で「軍曹」の名前に、「勲」をつかっている……これは、明らかに、三島由紀夫の『奔馬』を意識してのことである。

また、『きんぴか』の最初の方で、「軍曹」が拳銃で自決をはかろうとする場面があるが、この一連の動きも、明らかに、三島の事件をうけて書いている。

ほかにも、浅田次郎の作品では、エッセイ集『勇気凜々ルリの色』で、三島由紀夫にかなり言及していたかと記憶している。(今では、本を、しまいこんでしまったので、確認できないのだが。)

おそらく、『きんぴか』を書いた当時の浅田次郎は、ほとんどまだ無名の作家。だからこそ、あからさまに三島事件をふまえたことがわかる小説を書けたのだと思う。

とにかく、浅田次郎……現在は、日本ペンクラブの会長である……の作品が、三島由紀夫の影響を、なにがしかの形でうけている、それが、本人が望んだものであるかいなかは別にして……このことは確かなことだろうと思う。

浅田次郎が、現代日本の小説を代表する一人であることは、一般に認められることであろう。その浅田次郎作品を、読み解いていくうえにおいて、三島由紀夫と、その最後の事件は、影をおとしている。影響をあたえている。

1970年、昭和45年の秋。三島の事件は、現代文学にまで、その影響を及ぼしていることなのである。

追記 2017-03-29
この続きは、
やまもも書斎記 2017年3月29日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/29/8424864

『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫2017-03-24

2017-03-24 當山日出夫

三島由紀夫.『奔馬ー豊饒の海 第二巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105022/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

やまもも書斎記 2017年3月19日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

やはりこの作品については、ラストだろう。三島由紀夫の市ヶ谷での自決という最期を知っていて読むと、この小説のラストは、強く印象に残る。

あるいは、ひょっとすると、三島由紀夫は、この小説を書いたがために、自らの最期を、あのように演出することになったのかもしれない、このように考えて見たくもなる。

私がこの小説『奔馬』を読んだのは、先に書いたとおり、大学生になってからのことであった。古い新潮文庫で読んだ。その時、三島の主な作品(文庫本で読める)は読んでいたとおもうし、無論、その市ヶ谷での事件の顛末については、知識としてはもっていた。だから、この作品の最後のシーン、そのことばが、強く印象に残っているということはあるだろうと思う。

『豊饒の海』四巻のなかでは、最初の『春の雪』とこの『奔馬』が、小説としての完成度が高い。それだけで独立した作品として読むにたえるだけのものをもっていると同時に、『春の雪』と『奔馬』は、その内容においても、登場人物においても、密接に連携したものとなっている。

これが、『暁の寺』『天人五衰』になると、『豊饒の海』四巻のなかの一冊という位置づけで読まないと、どうも面白くはない。まあ、これは、私の個人的な感想であろうとは思うが。また、小説としての完結性という点でも、『春の雪』『奔馬』と比べると劣るようにも思える。

さて、この『奔馬』である。時代は、前作『春の雪』が、大正の初期であったのをふまえて、次の時代、昭和初期の時代……世の中の不況、国際情勢の変化、満州事変、五・一五事件……といった世相を背景にした、いわゆる国粋主義に殉じた若者をえがいている。その行為の是非についていえば、今の価値観からすれば、決して褒められるものではない。しかし、小説として描き出した、その時代に、ある観念のもとに純粋に生きようとした若者の姿を、見事にとらえている。

これはこれとして、三島の最期の事件とは切り離して、独立した小説として十分に読むにたえるものである。しかしながら、三島の事件と切り離して読むことがもははできない、というのは、文学というものが、やはりある時代の流れのなかに存在するものである、ということから免れないことを示しているだろう。私は、三島のこの作品を読むとき、純然たるテクスト論者にはなれない。

ただ、いま、振り返ってみれば……若い時、三島由紀夫の事件というのは、それほど強く意識していなかった。もちろん、知識として知ってはいたが、それによって、衝撃をうけたということはない。これは、おそらく、私の世代で、数年の年の違いで、それぞれに、非常におおきくちがうことだろうと思う。

たぶん、私よりも数年年上の人で、『豊饒の海』をその同時代に読んでいた人であるならば、市ヶ谷の事件で、まず、この『奔馬』を思い浮かべただろう。逆に、私ぐらいの世代になれば、三島の事件をすでに知っていて、この『奔馬』を読んだことになる。この文学的体験の違いというのは、大きいと思う。

時代の流れのなかで、文学のテクストはどう読まれるのか、という問題点をつきつけてくる作品でもある。

追記 2017-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2017年03月25日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/25/8419677

『果断 隠蔽捜査2』今野敏2017-03-23

2017-03-23 當山日出夫

今野敏.『果断 隠蔽捜査2』(新潮文庫).新潮社.2010 (新潮社.2007)
http://www.shinchosha.co.jp/book/132156/

このシリーズの第一作『隠蔽捜査』については、
やまもも書斎記 2017年3月17日
『隠蔽捜査』今野敏
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/17/8407879

山本周五郎賞、および、日本推理作家協会賞の作品である。シリーズの二作目として読んでみた。

なるほど、これなら、推理作家協会賞だけのことはあるな、と思わせるできである。警察小説としても、また、ミステリとしても、よくできている。

主人公は、前作『隠蔽捜査』にひきつづき竜崎。警察庁官僚(キャリア)であったものが、前作の結果をうける形で、この作品からは、大森警察署長という立場で登場する。

普通、警察小説で、キャリアの署長といえば、敵役になるか、無能の代表としてでてくると相場がきまっている。が、この『果断 隠蔽捜査2』では、警察署のトップとして捜査の指揮をとる立場で、活躍することになる。

これは、警察官僚としての責任感にもとづくものとしてである。とはいえ、現場の直接の指揮をとるということは、基本的にはない。立場上、責任をひきうけはするが、実際の活動は、部下にまかせるということになる。

このあたりの距離感の設定が、前作にひきつづいてうまい。キャリアとして、捜査の現場の刑事とはちがった、警察署という組織をどう動かすか、それが、警察の機構のなかでどうあるべきか……警視庁、警察庁とどう関係をとりもっていくのか……という管理者としての立場があり、それでいながら、実際の犯罪の捜査の現場にかかわっていかざるをえない。このところの判断、考え方というのが、非常に巧妙に描いてある。とにかく、読ませる小説にしあがっている。

たとえば、次のような箇所。

「いやしくも君は、この警察庁の長官官房の総務課長をつとめた人間です。現場と同じレベルで物事を考えてもらっては困ります。君は管理する側の人間です」
 それは同感だった。所轄書の署員というのは兵隊なのだ。統率する者がいなければ、兵隊は動かない。
(p.266)

この作品でも、竜崎の基本的性格はかわっていない。東大法学部出身にあらざれば人にあらず、あいかわらずである。しかし、その偏屈とでもいうべき人物造形に、読みながら、なんとなく親近感を感じるようになってくる。

そして、同時に重要なことは、この小説が、この竜崎の家族の物語でもあるということである。とはいえ、竜崎のことである、決して公私混同などはしない。きわめて厳密に、そのけじめはまもっている。

だが、この小説全体としては、一連の事件の発生から解決にいたる流れ、それと、竜崎の家族におこるできごと、これが、ない交ぜになって巧妙に描写されている。このあたりも、実にうまい。

また、この作品で、重要な役割をはたすのが、大森署の刑事(戸高)。第一作で登場した、あまり感じのよくない刑事である。しかし、有能である。この刑事の登場がなければ、この作品は成立しない。指揮、管理する立場の警察署長には、その活動に限界がある。これを、警察署の組織のなかで、署長としてその組織を維持、管理することのなかで、うまく立ち回らせている。

この「隠蔽捜査」シリーズ、この春休みに読むことにしようと思っている。

追記 2017-03-27
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年3月27日
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/27/8423103

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その三)2017-03-22

2017-03-22 當山日出夫

『春の雪』についてさらにつづける。

やまもも書斎記 2017年3月20日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/20/8411334

この小説では、舞台としている、大正時代の華族社会の目からみたものとして、アンビバレントとでもいうべき、価値観が存在している。それは、明治という時代の偉大さと、喪われつつある本当の気高さ、とでもいおうか。

明治という時代は、この小説では、いくつかの意味を持っている。

第一に、日露戦争に勝った時代。偉大なる明治の時代のイメージである。

第二に、明治維新を成し遂げたのは、武士(それも下級の、地方の)である。その功業をみとめるにやぶさかでないにせよ、本当の文化、雅びは、千年の都である京都でうけつがれて、今日にいたっているという意識。

まず、第一の点。明治の偉大さ、ということ。この小説『春の雪』は、日露戦争の時の写真からはじまる。「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真の描写がある。日露戦争に勝った、だが、犠牲も大きかった。その日露戦争について、〈戦争を知らない〉世代として、松枝清顕と本多繁邦は、冒頭から登場することになっている。

だが、その一方、本物の文化となると、明治国家は、作り得なかった。清顕の家は、侯爵家である。明治維新の功業によって、身分を得た。また、金銭的にも豊かである。だが、もとをただせば、鹿児島の下級武士という設定になっている。だから、本物の宮廷文化を知らない。そこで、清顕は、綾倉伯爵家にあずけられて、養育をうけるという設定。綾倉伯爵家は、公家華族で、身分、格式こそあるものの、その財力では、とうてい松枝侯爵家におよばない。

このアンビバレントな価値観のなかに、清顕は、生まれ育ったことになる。明治維新をなしとげた祖父。それによって得た、侯爵という身分と巨万の富。それを、父はもっている。その息子、清顕は、三代目という設定。三代目の清顕にとって価値のあるものは、本物の文化、伝統、美、優雅、芸術である。そして、恋。

これは、三島由紀夫にとって、文化、古典とは何であるか、という問いかけにもつながるものかもしれない。あるいは、日本の伝統とは何であるのか、ということにもつながる問題であろう。

日本の伝統とは何か、という問いかけが、この次の『奔馬』へとつながっていくのだと思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「さらば愛しき人よ」2017-03-21

2017-03-21 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年3月19日、第11回「さらば愛しき人よ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story11/

前回は、
やまもも書斎記 2017年3月14日
『おんな城主直虎』あれこれ「走れ竜宮小僧」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/14/8405259

話しがややこしくなってきたので、よく分からないところがあるのだが、要するに、亀が井伊の家をになうことができなくなるので、次回に、いよいよ「おんな城主直虎」ということになる、ということでいいのだろう。

いろいろな場面があったが、今回、圧巻であったのは、寿桂尼(浅丘ルリ子)の貫禄だろう。

それから、ネコ……そんなに大きくではなかった。画面のすみに、ちょっとだけ、カゴのなかにはいっている姿が映っていた。

よく分からないというのは……ニセモノの徳川家康のところに鷹狩りに行くシーン。これが、今川の陰謀であるとして……どうして、この件が、ホンモノの徳川家康の察知するところとなっていないのだろう。鷹狩りに招待されて出かけて行ったということは、徳川の勢力範囲のなかに入っていったということになる。だが、どうも、ホンモノの知らない間に、おこった出来事のようである。

このドラマが始まって三ヶ月ほどがすぎて、次回からようやく、あの台詞のシーンになるのか。これまで描いてきたことを総合して考えてみるならば、次郎法師のエトスというべきものは、井伊のイエをまもる、このことにつきるように思われる。

ただ、現代の我々は歴史の結果を知っている。今川は滅び、最終的に生き延びるのは徳川である。そして、井伊も生き残ることになる。それにいたる過程として、ドラマの現時点で、今川に反旗をひるがえすというのは、かなり無謀なこと、それが説得力を持って描けるかどうか、だろうと思う。

気になるのは、ネコ。次郎が還俗して直虎になってしまうと、もう出てこなくなるのだろうか。

追記 2017-03-28
この続きは、
やまもも書斎記 2017年03月28日
『おんな城主直虎』あれこれ「おんな城主直虎」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423978

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その二)2017-03-20

2017-03-20 當山日出夫

三島由紀夫.『春の雪ー豊饒の海 第一巻ー』(新潮文庫).新潮社.1977(2002.改版) (新潮社.1969)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105021/

つづきである。

やまもも書斎記 2017年3月19日
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

私が、ひさしぶりにこの作品を読んで、読み始めてまず思い浮かんだのは、明治宮廷のことである。

やまもも書斎記 2016年5月29日
米窪明美『明治天皇の一日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/29/8097931

『春の雪』の主人公、清顕は、明治宮廷において、お裾持ちの役目を、少年のときにしたとある。学習院から、しかるべき華族の子弟がえらばれて、その役目をはたす。そのことについては、米窪明美の本に詳しい。

このあたりの描写は、学習院出身の、三島由紀夫、いや、平岡公威として、学習院に学んだことが反映してのことであることは、想像できる。

それにしても、大正時代初期の華族社会を実に見事に描いている作品である。実際は、このようなものではなかったのかもしれないが、しかし、小説としては、見事である。さもありなん、という叙述になっている。

『春の雪』には、ほとんど、市民、庶民といった人物が登場しない。例えば、書生の飯沼など、出てはくる。そして、その後の『奔馬』では重要な位置をしめるのだが、『春の雪』の世界では、脇役でしかない。

主な登場人物は、主人公の清顕、その父親、その友人の本多、そして、恋の相手である、聡子。それから、シャムからきた王子たち。みな、貴顕の人びとばかりである。

そして、これは、作者(三島由紀夫)にとってはある意味で過去のできごとでもある。三島は、1925(大正14)年の生まれ。大正時代の初期のことは、知っているはずがない。だが、だからこそというべきか、自分の実体験していない世界のことだからこそ、華麗な装飾過多とでもいうべき文体で、その華族社会のひとびとの生活とその感覚を、鮮やかに描き出すことに成功している。

しかし、それにしても、この作品における三島の文章は、なんと過剰な虚飾に満ちたものかと思わないでもない。

読みながら付箋を付けてみた箇所、

執事が馬車の用意の調ったことを告げた。馬は冬の夕空へ嘶きを立て、白い鼻息を吐いた。冬は馬び匂いも希薄で、凍った地面を蹴立てる蹄鉄の音が著く、清顯はこの季節び馬にいかにも厳しくたわめられている力を喜んだ。若葉のなかを疾駆する馬はなまなましい獣になるけれど、吹雪を駆け抜ける馬は雪と等しくなり、北風が馬の形を、渦巻く冬の息吹そのものに変えてしまうのだ。
(pp.83-84)

このような文章が、延々とつづく。読んでいて、ちょっといやになる……そんな気がしなくもない。だが、このような文章だからこそ、虚栄、虚飾とでもいうべき、大正時代初期の華族社会の人びとの有様を、あからさまに描き出すことができている。著者は、その虚飾の面をあばきだそうというような意図はなかったのかもしれないが、今の目で読んでみると、虚栄を虚飾の修辞で描き出したと、読める。

それから、次のような箇所は、三島の最後の事件を知って読むと、なかなか興味深い。

百年、二百年、あるいは三百年後に、急に歴史は、〈俺とは全く関係なく〉、正に俺の夢、理想、意思どおりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとおりの形をとるかもしれない。俺の目が美しいと思うかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、俺の意思を嘲るかのように。
(p.126) 〈 〉内、原文傍点

このような文章を書いたとき、三島は、自分が最期におこすことになる事件を、予見していたのだろうか。

追記 2017-03-22
このつづきは、
やまもも書斎記 2017-03-22
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/22/8415222