『スカーレット』あれこれ「夢は一緒に」2019-12-15

2019-12-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第11週「夢は一緒に」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index11_191209.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月8日
『スカーレット』あれこれ「好きという気持ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/08/9186516

この週で大きく物語は展開することになる。

第一に、八郎との恋。

喜美子は、父親の常治に八郎のことを認めてもらおうとする。何度でも八郎がいえをおとずれる。あるとき、ふと常治の気持ちが、八郎にかたむく。自分自身もかつては、妻のマツと駆け落ちして一緒になった。その過去を思い出して、喜美子との仲がうまくいってくれるように願う。結局、陶芸展に入賞したら、二人を許すということになったようだ。

このあたりの、父親の屈折した感情を、うまく表現していたように思う。なかなか素直に二人の言うことを聞いてやれない、父親のどうにもならな気持ちがうまく出ていたように思う。

第二、陶芸。

本格的に、喜美子は陶芸の道に入り込んでいくことになる。その師匠は、恋人である八郎でもある。二人の仲がちかづくことと、喜美子が陶芸の世界に徐々に入り込んで行くことが、平行して、うまくからみあって描かれていた。

そして、このドラマは、喜美子という女性の物語であると同時に、陶芸という世界がどのようなものであるのか、その魅力と難しさをも、伝えていると感じる。単に技術と知識だけではうまくいかない。感性が必要である。はたして、これから喜美子には、陶芸家としての感性が開けていくのであろうか。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

ところで、脇役であるが、照子(大島優子)が、いい感じである。これからに期待したい女優の一人ということができようか。

次週、喜美子はさらに陶芸の道に進むことになるようだ。また、ちや子さんも登場するらしい。楽しみに見ることにしよう。

『おしん』あれこれ(その一〇)2019-12-14

2019-12-14 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月18日
『おしん』あれこれ(その九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/18/9178325

このドラマについては、以前の再放送のとき、全部見て知っているのだが、そのなかで、どうしてもふにおちない、あるいは、ちょっと疑問に感じるところがある。それは、竜三の自決である。

終戦の玉音放送の後、竜三は家を出る。そして、人知れず離れた山のなかで一人死をえらぶことになる。

はたして、竜三は、そこまで思い詰めるほどのことをしてきたのだろうか。たしかに、軍需工場の経営にはたずさわっていた。また、隣組の組長もしていた。この意味では、戦争に加担していたといってもいえなくなくはない。

しかし、この程度のことであるならば、その当時の多くの日本国民のしていたことである。ことさら、竜三がきわだって軍国主義的であったということはない。

さらにいえば、竜三が死んだのは、玉音放送の後ではあるが、日本が正式に降伏文書に調印した日……九月二日……よりも前のことである。連合軍の進駐もまだはじまっていない。無論、東京裁判があって、それによって、戦前、戦中の日本について裁きが始まる、そのはるか以前のことである。

なぜ、竜三は死ななければならなかったのだろうか。以前にこのドラマを見たときに疑問に思ったことであるし、今回の再放送を見ていても、やはり気になることである。

おそらくは、脚本(橋田壽賀子)においては、竜三の死ということで、戦争というものを精算してしまいたかったのかと思う。竜三一人が責任を感じて死ぬことで、それでおしんの気持ちも、ある意味で軽いものになる。

おしんにとって、竜三の死の衝撃は大きかった。また、おしん自身も、戦争のときに、それに反対しなかったことへの自責の思いもある。しかし、竜三の死によって、その自責の念も、払拭されてしまったかとも思われる。

そのまま、戦後をむかえ、新しい時代になっていったとして、おしんは、戦争に反対しなかった自分を責める気持ちから逃れることはできないであろう。特に、子どもの雄を死なせてしまったことの思いが、残るにちがない。このような思いをひきずったままでは、新しい時代を生きるおしんを描くことはできない。

これらの思いをいったんたちきって、新しい時代を生きていくおしんを描くためには、竜三の死というものが必要であったのではないだろうか。このようにでも考えないと、なぜ竜三が死ななければならなかったのか、理解がおよばない。

以上は、あくまでも私が見て思ったことである。人によっては、また別の解釈をすることになるかもしれないと思う。が、私の思ったこととして書きとめておくことにしたい。

『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-12-13

2019-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)

ビギナーズ

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『ビギナーズ』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2010
http://www.chuko.co.jp/tanko/2010/03/403531.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月7日
『村上ラヂオ2』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/07/9186095

やまもも書斎記 2019年11月30日
『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/30/9183071

ひとまず説明するならば、『愛について語るときに我々の語ること』という作品集は、実は、編集者による大幅な改変(削除)をうけていた。それを、元の原稿にもどして、改めて作品集として刊行したもの、ということになる。このあたりの経緯については、この本に詳しく説明がある。

ただ、読んでみての感想めいたものを書くとするならば……レイモンド・カーヴァーは、その作品について、「ミニマリスト」と言われることを嫌ったらしい。そうだろうと思う。『愛について語るときに我々の語ること』を評して、そのように言われたとするならば、絶対に許せないにちがいない。

それほど、大きな改編がなされている。読んで、もとの作品とがらりと印象が異なる。これでは、まったく別の作品になってしまっていると言っても過言ではない。ともあれ、この『ビギナーズ』を読んで、作者(レイモンド・カーヴァー)が、どのような文学を目指していたのか、その本当のところがわかったような気がする。

たとえば、「ささやかだけれど、役にたつこと」。この作品は、いったい何がどう役にたつことになるのか、短縮、改編版の方では今一つよくわからなかったといってよい。たしかに、改編後の作品でも、それなりに文学的余韻を感じさせる作品にはなっているのだが、これは、絶対にもとの方がいいと感じる。私は、少なくとも、この『ビギナーズ』で元のかたちのものを読んで、やっとこの作品に納得がいった。ああそうか、作者(レイモンド・カーヴァー)は、このようなことを、この作品で語りたかったのか、理解できたような気がする。

また、文学研究の立場からみても、このような作品の改編ということが、作品、作家にとってどのような意味のあることなのか、考えることができよう。この意味では、復元版とでもいうべきこの『ビギナーズ』を、同じく村上春樹の翻訳で読めるというのは、興味深いことでもある。

次の村上春樹は、またエッセイにもどって、『村上ラヂオ3』である。

『行人』夏目漱石2019-12-12

2019-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

行人

夏目漱石.『行人』(新潮文庫).新潮社.1952(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101012/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月6日
『彼岸過迄』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/06/9185705

はて、漱石という作家は、緻密な計画をたてた上で小説を書いていたのだろうか、ふと疑問に思うところがある。特に、この前作『彼岸過迄』と『行人』を読むと、どうもどのような結末になるか、あらかじめ計算しておいて執筆したとは、あまり感じ取れない。何となく小説を書き始めて、それが興味のおもむくままにストーリーが展開していって、気がつくと、作者としては、近代的な人間のエゴイズム……通俗的な理解かもしれないが……を、ほりさげることになってしまっていた……どうやら、こんな感じがしてならない。

「朝日新聞」の読者を相手に「小説」を書く。その技量において、漱石は卓絶したものをもっていた。小説の結末を決めていなくても、ペンのおもむくままに書いていって、それが「小説」として読めるものになっている。自分の小説家としての技量に自信があってのことなのかもしれない。

以上のようなことを思って見るのは、この『行人』という小説も、どうも、はじまり……二郎郎が大阪に旅行するところ……からはじまって、その家の人びとが出てきて、最後には、兄の一郎の内面の苦悩するこころのうちを、Hさんからの手紙で語らせる……この筋のはこびが、はじめから、このように計画して書いたとするならば、どうにも行き当たりばったりでストーリーがすすんでいくように思われてしかたがないからである。

あるいは、こうも言えようか……漱石は、「小説」を書くことによって、この「小説」では兄の一郎を登場させることによって、書きながら近代的な人間のエゴイズムを、発見していったのである、と。

そして、『彼岸過迄』『行人』を書いてしまって、これらの「小説」を書くことによって、近代的な個人という問題につきあたった漱石は、次には、正面からそのテーマで作品を書くようになる。それが次の『こころ』以下の作品になる。

それから、この『行人』は、Hさんの手紙で終わっている。このような終わり方というか、小説の構成は、次の『こころ』でも用いられることになる。先生からの手紙である。

手紙、書簡、それも言文一致体……「ですます体」の文体で書かれた……このような日本語文が、その当時、明治の終わりから大正の始めにかけて、一般的に確立していないと、この小説はなりたたない。ここから先は、日本語史の分野における、近代的な文章の成立プロセスと密接な関係のある議論になる。(今の私としては、ここから先に踏み込んで、周辺の資料を見るだけのちからがない。このような問題点につらなるということを、書いておくにとどめる。)「ですます体」書簡文で、人間の心理描写をこころみる、このことに成功したのが、この『行人』であり、『こころ』であるのだろうと思っている。

ピラカンサ2019-12-11

2019-12-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は、花ではなく実。ピラカンサの赤い実である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月4日
桜の紅葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/04/9184799

カタカナで書くと「ピラカンサ」あるいは「ピラカンサス」と言う。和名では、「トキワサンザシ」となるらしい。このあたりの名称は、いろいろと用いられているようである。

我が家の近くに、三箇所ほどにこの木のあることを確認している。たぶん、ピラカンサであっているのだろうと思う。初夏に白い花を咲かせ、秋になると赤い実がいっぱいなる。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)で、「ピラカンサ」を見る。この名称で項目がたててある。

バラ科トキワサンザシ属植物の総称。

とあり、さらに説明がある。しかし、残念なこと、ことばとしての用例が載っていない。これは、残念である。

また、「ときわさんざし」でも項目がある。

バラ科の常緑低木。ヨーロッパ原産で、生垣にする。

とあり、「ピラカンサ」と書いてある。だが、このことばについても、用例は載っていない。このあたりのことについては、やはり、ことばの辞典として、出典を書いておいてほしいものである。

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2019年12月9日記

『いだてん』あれこれ「炎のランナー」2019-12-10

2019-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第46回「炎のランナー」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/046/

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月3日
『いだてん』あれこれ「火の鳥」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/03/9184379

この回のメインの話題は、聖火のこと。

一九六四年(昭和三九)の東京オリンピックの時、私は小学生だった。そのいくつかの競技をテレビで見たのを記憶している。特に、最後にあった、女子バレーボールのソ連との試合を見たと憶えている。

聖火リレーである。どういういきさつがあって決まったルートなのかしらないが、その当時、私の通っていた小学校の近くを通ることになった。それで、授業を中断して、学校そろってその走るのを見に行った。ただ、それは、人が走るのを見たというのにとどまる。特に、それがオリンピックの聖火であるという感慨などは、特に感じることなく終わってしまった。実にあっけなかったというのが、正直なところである。

その聖火リレーのスタートが、沖縄であったということは、このドラマを見て知った。その当時、沖縄は、アメリカの統治下にあった。そのため、日の丸の旗を掲揚することも、自由にはできなかったとのこと。その後の知識として、日の丸の旗が、沖縄の本土復帰のシンボルとなっていったことを知っている。(さらにいえば、今では、逆に、日の丸の旗は、日本のなかで虐げられた立場にある沖縄を象徴するものに、変化してきている。)

その当時は、まだ小学校であったこともあるのだが、特にナショナリズムということを感じてはいなかった。ただ、日本の選手が頑張ればうれしかった。

しかし、今になって思う……ナショナリズムとは、素朴な社会の人間の感情のなかに醸成されていくものである、ということを。(ただ、私は、ナショナリズムそのものを悪いものだとは思ってはいない。)

ドラマも終盤である。次回、いよいよ最終回。東京オリンピック開催ということになる。

そして、今から振り返ってみるならば、東京オリンピックは成功であった。しかし、その裏側には、実に生々しい人間のドラマがあったことになる。この『いだてん』というドラマは、オリンピックの理念を描くと同時に、その理念のもとに展開された様々な人間ドラマを描いてきた。ともあれ、次回、最終回を楽しみに見ることにしようと思う。

2019年12月9日記

新潮日本古典集成『源氏物語』(三)2019-12-09

2019-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(3)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(三)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620820/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月2日
新潮日本古典集成『源氏物語』(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/02/9183986

『源氏物語』を読んでいる。岩波文庫でも読んでおきたいが、まだ全巻完結していない。が、これは、これとして、既刊分について読んでおくつもりではいる。新編日本古典文学全集のテキストが、今ではもっとも一般的なテキストであることは理解しているつもりではいるが、このシリーズは、現代語訳を見なければならないのが、読んでいてわずらわしい。『源氏物語』は、いくら古文を読むことができるからといって、その本文だけで理解できるというものではない。書かれてから千年以上にわたって、読み継がれてきた歴史の積み重ねの上に、現代の校注本がある。

新潮版で読んでみての第三冊目である。この本については、すでに書いている。

やまもも書斎記 2019年2月22日
『源氏物語』(三)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/22/9039182

再度読んでみて、基本的な印象は変わらない。特に「少女」の巻が難解である。いや難解というのとはちょっと違うかもしれない。なんとか注釈を読めば理解できるのだが、光源氏、内大臣(頭中将)、夕霧、雲居雁……これらの登場人物の錯綜するこころの動きをおっていくのが、骨がおれる。

それが、「玉鬘」の巻になると、すっかり雰囲気がかわる。西国で生い育った玉鬘が、京にでてきて、長谷寺で右近とめぐりあうというストーリーは、きわめて説話的である。この箇所は、明らかに観音霊験譚として書かれたものであろう。(このような霊験譚は、『今昔物語集』のなかにあってもおかしくない。)

ところで、なんで『源氏物語』を読んでいるかというと、(すでに書いたことであるが)その理由の一つとして、「書く」ということ、「文字」ということがある。『源氏物語』の登場人物たちは、たしかに「文字」を書いている。「文字」「消息」「歌」によるコミュニケーションで、意思疎通をはかり、行動している。これは、とりもなおさず、『源氏物語』が書かれ読まれた平安貴族の社会において、「文字」というものが一般化していたことと、表裏一体をなすものであろう。

こんなこと、ちょっと調べれば、先行研究の論文があるだろうと思うのだが、もう、老後の楽しみの読書である。自分の目でテキストを読みながら、確認していきたいと思って、付箋をつけながら読んでいる。「文字」によるコミュニケーションを基盤としたところに、『源氏物語』が書かれていることが、読みながら確認できる。(これは、先行研究を軽んずる意味ではない。もう限られた時間の使い方として、何よりも自分の目でテキストを読むことを優先させたいのである。また、『源氏物語』全体を通じて、「文字」「書く」「仮名」というようなことがどう書かれているかは、自分の目で全体を読み通しながら考えるしかないことでもある。)

これはすでに知られていることだが、「草(そう)」ということばがでてくる。「草仮名」のことである。「仮名」(=平仮名)ではない、また、「真名」(=漢字)でもない、草書体の万葉仮名ということになる。この「草」が実際に『源氏物語』のどの部分に、どのように出てくるのか、自分の目で読んで確かめておきたくもある。

そして、「少女」の巻など、ああでもないこうでもない、いややはりああしようかこうしようか……あれこれと悩む心中については、たぶん、耳で聴いただけでは理解できるものではないだろう。目で読む「文字」の文学としてでなければ、読めないと思われる。そして、それが今において読めるのは、この『源氏物語』が書かれてからずっと読まれてきた歴史があるからである。でなければ、どうして、この文言の解釈がどうしてそのようになるのか、表面の字面だけでは、到底理解できるものではない。

秋の授業がはじまるまでに、『源氏物語』を最後まで通読しておきたいと思う。(追記、これを読んで文章を書いたのが夏のうちだった。)

『スカーレット』あれこれ「好きという気持ち」2019-12-08

2019-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第10週「好きという気持ち」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index10_191202.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月1日
『スカーレット』あれこれ「火まつりの誓い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/01/9183505

喜美子は恋をすることになる。

この週で描いていたところの見どころとしては、次の二点だろうか。

第一に、恋。

喜美子は、会社にいる十代田と恋をすることになる。そこにいたる過程を、じんわりと描いていた週だったと思う。ふとしたことから陶芸に興味をもった喜美子は、十代田に教わることになる。はじめのうちはぎこちなく他人行儀なふたりであったが、そのうちにお互いを意識しはじめる。そして、喜美子が大阪に出る前にひろった陶器のかけらを見るために、十代田は喜美子の家をおとずれる。そこで、二人は、お互いの気持ちを確認することになる。

第二に、陶芸。

喜美子が十代田と恋仲になるきっかけは、陶芸であった。ここで、喜美子は陶芸の基本を十代田から教わることになる。たぶん、これが契機として、これからの喜美子の陶芸家としてのスタートということになるのであろう。

以上の二点、喜美子の恋と、陶芸家への道、これをうまく融合させて描いた週であったと思う。

さらには、妹の直子のことがある。東京でうまくいっていないらしい。そこで、草間さんにたのんで直子のことを見てもらうことになる。どうやら、直子は、恋をしたらしい。しかも、片思いである。が、そのことを、母親に話したことで、どうやら気持ちの整理ができたようでもある。

ここで草間さんが言っていたこと……人を好きになる気持ちのこと、これが、喜美子と十代田の恋につながることとして、うまく出てきていたと感じる。

これから、喜美子の陶芸家への道のりと、十代田との恋のゆくえをめぐって、いろいろありそうである。今後の展開を楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-12-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月15日
『スカーレット』あれこれ「夢は一緒に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/15/9189442

『村上ラヂオ2』村上春樹・大橋歩2019-12-07

2019-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

村上ラヂオ2

村上春樹(文).大橋歩(画).『村上ラヂオ2-おおきなかぶ、むずかしいアボカド-』(新潮文庫).新潮社.2013(マガジンハウス.2011)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100165/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月30日
『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/30/9183071

やまもも書斎記 2019年11月22日
『村上ラヂオ』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/22/9179939

最初の『村上ラヂオ』の「アンアン」連載が、2000年(2001年に単行本、2003年に文庫本)。その一〇年後に、再度「アンアン」に連載したものである。

前の本との間に一〇年の開きがあるのだが、つづけて読んで違和感なくこの本のなかにはいりこんでいける。

村上春樹のエッセイというと、安西水丸と組んだものを先に読んでいるのだが、それらとくらべて、やはり、ちょっと雰囲気が違う。安西水丸とのものは、もっと気楽に肩の力をぬいて楽に書いていると感じる。それに対して、この『村上ラヂオ』では、少し気取った雰囲気の文章になっている。気取ったというか、ちょっと文章にひねりをきかせてあるというか、とにかく、少し身構えたところを感じてしまう。

だが、そうはいっても、そんなに大上段にふりかぶって大事を論じるというのではない。どの文章も、日常のささいなことをめぐる、ふとした感想のようなものが、独特の軽い感じの文章でつづってある。

ただ、このエッセイを読んで、なるほど村上春樹の小説はこのような背景があって書かれたのかと、思わずに納得するところがいくつかある。この意味では、村上春樹文学の理解にとって、重要な意味をもつ本であると言えよう。

「アンアン」連載ということもあるのだろう。著者(村上春樹)自身は、特に読者を意識することはないと書いてはいるのだが、それでも、やはり、「アンアン」という雑誌に書いているということで、若い女性(たぶん、読者として想定されるのは、こうなるだろう)を意識していると感じさせるところがある。そして、それが、自然に文章の味わいとなっている。これを、一〇年間のブランクがあるにもかかわらず、前の作品と同じ雰囲気で、文章が書けるというのは、やはり村上春樹の文章の才能と言っていいだろう。

新潮文庫では、『村上ラヂオ』は、三冊出ている。続けて読んでいきたい。

追記 2019-12-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月13日
『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/13/9188650

『彼岸過迄』夏目漱石2019-12-06

2019-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

彼岸過迄

夏目漱石.『彼岸過迄』(新潮文庫).新潮社.1952(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101011/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月29日
『門』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/29/9182718

現代のわれわれは、この作品が漱石の「修善寺の大患」の後の作品であることを知っている。この体験が、漱石の作品にどのような影響があるのか、それは漱石研究の分野において研究のなされていることだろうと思う。ただ、今の私としては、二一世紀の読者として、自分の思うとおりに読んでみたいと思っている。

この作品を読んで思うことは、次の二点だろうか。

第一には、探偵について。

漱石は、「探偵」を最も嫌っていたと思う。『猫』など読むと、「探偵」ほど下劣な人間はいないという意味のことが書いてある。それが、この『彼岸過迄』になると、なぜ、「探偵」のまねごとなどしているのだろうか。あれほど嫌っていたと思う「探偵」のことを書いているのはなぜだろう。

第二には、その「探偵」にはいりこんでいく作者について。

ひょっとすると漱石は、人のこころを「探偵」することの楽しみ……無論、それは小説という架空の世界においてであるが……に気付いたのかもしれない。この作品の後半の部分になると、登場人物のこころのうちを「探偵」として、観察し、のぞき見ているような気がしてならない。

そう思って読むと、この次の『行人』も、『こころ』も、人のこころのうちを「探偵」してさぐる物語であるとも読める。

以上の二点が、『彼岸過迄』を読んで思うことなどである。

さらに書けば、この作品のなかで印象的なのが、子ども(幼児)の死と葬儀のシーン。漱石の作品を読んでいくなかで、このところは、特別に印象に残るものと感じる。近代文学のなかで、「父」や「母」を描いたものは多くあると思うが、幼い幼児とその死を描いたものが、他にどれくらいあるだろうか。

また、この時代、子どもの死というものも、そんなに珍しいことではなかった、ということもあるかと思う。乳幼児死亡率が激減するのは、戦後になって近年になってからのことである。

それから、この作品中の女性、千代子が、女学生ことばをつかっている。漱石の作品中で、女学生ことばをつかう女性は、作品中で独特の位置にある。若い女性として、下女も登場するのだが、これは、別のことばをつかっている。おそらく「役割語」というような観点を導入して分析するならば、漱石の作品中での登場人物のことばというのは、かなり興味深いことになるかと思う。これは、おそらくは、文学研究と言語研究の両方にまたがった研究になるにちがいない。

ところで、この作品『彼岸過迄』は、まさに「彼岸過迄」ぐらいの連載になるということで、このタイトルになったようだ。特に、小説としての構想があったというのではないように思える。もし、最初から緻密に構想して書いたとするならば、どうも全体としてチグハグな印象の残る作品である。そうではなく、まさに作者(漱石)が書いているように、どのようなストーリーの展開になるか、特に決めたこともなく、思いつくままに書いていった結果が、このような小説になった。そして、それは、人のこころのうちを「探偵」する物語になった。このように思ってみる。

次は、順番に読んでいって『行人』である。

追記 2019-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月12日
『行人』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/12/9188301