井上達夫「憲法と安全保障」2016-07-24

2016-07-24 當山日出夫

さらにつづけることにする。

やまもも書斎記 2016年7月20日
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/20/8134764

やまもも書斎記 2016年7月22日
井上達夫「戦争の正義」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135835

やまもも書斎記 2016年7月23日
井上達夫「護憲派の欺瞞」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/23/8136356

井上達夫.『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください-井上達夫の法哲学入門-』.毎日新聞出版.2015
http://mainichibooks.com/books/humanities/post-68.html

この本の真骨頂というべきは、ここにいう九条削除論であろう。

「私は、憲法九条を削除せよ、と主張しています。」(p.52)

「誤解してほしくないのは、私が言っているのは九条「削除」であって、九条改正、ではない。」(p.52)

「私は、安全保障の問題は、通常の政策として、民主的プロセスのなかで討議されるべきだと考える。ある特定の安全保障観を憲法に固定化すべきでない、と。だから「削除」と言っている。」(p.52)

「憲法の役割というのは、政権交代が起こり得るような民主的体制、フェアな政治的競争のルールと、いくら民主政があっても自分を自分で守れないような被差別少数者の人権保障、これらを守らせるためのルールを定めることだと私は考えます。」(p.53)

「安全保障の問題も、通常の民主的討議の場で争われるべきです。」(p.53)

そして、「護憲主義」の「欺瞞」を批判している。

「それがいやだからといって、憲法で自分たちの主張を固定しようとする。これは、自分たちの安全保障観を、自分たちの政敵に押しつけるための、政争の道具として、憲法を使っていることになる。自分たちが望む範囲内に現状を維持するためには、解釈改憲をやってもいい、現状を違憲だ、違憲だと言い続けて、現状を固定してもいい。こういう欺瞞が、護憲派にもあったということです。」(p.54)

そして、そのうえで、憲法九条を削除、そして、徴兵制に言及する。

「だから、徴兵制の採用は、軍事力をもつことを選択した民主国家の国民の責任である、と。自分たちが軍事力を無責任に乱用しないために、自分たちに課すシバリだ、ということです。/そして、徴兵は、絶対に無差別公平でなければいけない。富裕層だろうが、政治家の家族だろうが、徴兵逃れは絶対に許さない。」(p.62)

徴兵制を認めるとしたうえで、

「そのうえで、兵役への良心的拒否権を保障する。」(p.63)

以上、井上達夫の本に依拠して、護憲の欺瞞、さらには、その九条削除論、徴兵制、と見てきた。

基本的に、前にもしるしたとおり、井上達夫という人は、知的にラディカルにものを考える人だと感じる。だが、それが、実際に説得力のある議論になっているかどうかは、また別の問題かもしれない。

特に、九条削除論は、逆に、否定的な見解をもつ人が多いだろうとおもわれる。なんらかの形で、軍備を持つにせよ(持たないによせ)、憲法に明記して、その運用に限定をかけておくべきだというのが、おおかたの考えではないだろうか。

しかし、だからといって、これまでみてきたように、憲法についてラディカルに考えることが無意味だとは、私は思わない。特に、「護憲」の「欺瞞」については、もっとその意味するところを考えてみる必要があるだろう。

とにかく、「欺瞞」に無自覚であるとういのが、一番の問題だろう。どのような主張をうするとしても、すくなくとも「欺瞞」を自覚していないといけない。この意味では、この本は、読まれていい本だと思うし、議論の出発点になる本だと思うのである。

井上達夫「護憲派の欺瞞」2016-07-23

2016-07-23 當山日出夫

つづきである

やまもも書斎記 2016年7月22日
井上達夫「戦争の正義」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135835

やまもも書斎記 2016年7月20日
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/20/8134764

井上達夫.『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください-井上達夫の法哲学入門-』.毎日新聞出版.2015
http://mainichibooks.com/books/humanities/post-68.html

結論的には、井上達夫、憲法九条廃止論者なのだが、その前に、護憲派をラディカルに批判する。これを見ておきたい。

まず「原理主義的護憲派」として「憲法九条の字句どおり要請にしたがって、自衛権と安保は違憲だ、とする立場」とする。(p.47)

次に「「修正主義的護憲派」として「選手防衛の範囲なら自衛隊と安保は九条に違反しない」とはっきり言いだす人たちが出てきた。憲法学界では長谷部恭男さんが代表例です。」(p.47)

そのうえで、それぞれに「欺瞞」があるという。

「原理主義的護憲派」については、

「九条を守れというなら、彼らの解釈は非武装中立なのだから、自衛隊と安保を廃棄せよということを言わなければなければならない。でも、それらは専守防衛の範囲内ならOKと事実上容認している。」(p.49)

「要するに彼らは、憲法九条を、政治的主張のための戦略カードとして使っている。」(p.50)

「利益を享受していながら、認知せずその正当性を認めない。私に言わせれば、これは右とは左とかに関係なく、許されない欺瞞です。」(p.50)

「彼らは「護憲派」と称しているけど、実際には自衛隊に永遠に違憲の烙印を押し続けることで、違憲状態を固定化しようとしている。それは「護憲」の名に値しない。そのうえ、自分たちが違憲の烙印を押している自衛隊に乗っかっている。」(p.51)

と、厳しく批判する。一方、「修正主義護憲派」についても、次のように指摘する。

「解釈改憲は、改正手続きの軟性化よりも、さらに深く立憲主義の精神を掘り崩している。憲法改正手続きをバイパスして、自分たちの気に入らない憲法規範を無視できるわけだから。/でもこれは、内閣法制局見解がやり、修正主義的護憲派もやってきてことなんだ。」(p.54)

「だから私は、安倍政権の姿勢を批判する論理的および倫理的資格が、護憲派にあるかというと、ないと今思っています。解釈改憲OKの修正主義的護憲派にも、違憲事態固定化OKの原理主義的護憲派にも、そんな資格はない。」(pp.54-55)

また、「改憲派」については、

「改憲派のほうが、まだしも、憲法を正式に改正しようとした点で、政治的欺瞞性があったとしても、憲法論的欺瞞性はなかった。」(p.54)

要するに、「原理主義的護憲派」も「修正主義的護憲派」も、さらには「改憲派」をふくめて、なんらかの「欺瞞」をかかえているという意味では、五十歩百歩というところ、こうなるであろうか。

そして、井上達夫は、憲法九条廃止を提言することになる。このことについては、つづいて書いてみたい。

追記 2016-07-24
このつづきは、
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326

井上達夫「戦争の正義」2016-07-22

2016-07-22 當山日出夫

井上達夫.『リベラルのことは嫌いでもリベラリズムは嫌いにならないでください』.毎日新聞出版.2015
http://mainichibooks.com/books/humanities/post-68.html

この本については、すでに言及した。
やまもも書斎記 2016年7月20日
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/20/8134764

続きを読んでみようと思う。

44頁以下のところ。「戦争の正義」の四タイプ、として、次のようにある。

「まず、「平和主義」について言っておけば――「正義なんてものにこだわるから戦争が起こる」「正義なんて要らない、正義よりも平和が大事」というタイプの「平和主義」は、とくに戦後日本で根強いですが、古今東西で繰り返し現れる考え方です。」(p.44)

そして、

「このタイプの平和主義は、心情に訴えると同時に「醒めた感じ」が知的に感じられる。それゆえ根強い人気があるのですが、論理的には破綻しています。」(p.44)

その論理的破綻は、こうだという。

「それを貫けば、現状がいかに不正に思えても、実力行使に現状変更は禁止される。しかし、そうなると自分に有利な現状を作ってしまえば勝ちだということになり武力による現状変更へのインセンティヴがかえって高まる。」(p.44)

そうなると、「すくなくとも手続き的正義の理念にはコミット」(p.44)しなければならなくなり、「戦争を律する正義論のタイプを四つにわけました。」(p.45)として、四つの正義論をしめす。

「積極的正義論」
「これは、自分の信じる宗教だとか道徳の実現のために武力を使っていいという立場。」(p.45)

「無差別正義論」
「国益追求の手段として、外交が有効なら外交を使ってもいいし、戦争がいいなら戦争を使ってもいい、と。ただし、それは国家と国家との「決闘」のようなものだから、その作法があって(以下略)」(p.45)

「絶対平和主義」
「自衛のためでも、戦争という手段はつかっちゃいけない、とする。」(p.45)

「諦観的平和主義」
「侵略や専制は不正だ、抵抗せよと正義を主張している。ただし、抵抗の手段はデモ、ゼネストなど非暴力でなくてはならない。暴力に対して暴力で戦うのは侵略者・専制的支配者と同じ不正を犯すことだ、と。」(p.45)

では、日本はどれに該当するのか、どの道をえらぶべきなのか、ということになる。ここで、井上達夫は、「護憲派」の「欺瞞」を指摘するととにも、九条廃止をとなえることになる。それは、つづいて、改めて書くことにする。

追記 2016-07-23
このつづきは、
井上達夫「護憲派の欺瞞」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/23/8136356

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」2016-07-21

2016-07-21

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

まず、加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』について書いたとき、長谷部恭男の本への言及(ルソー)について、ふれた。

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年7月12日
長谷部恭男『憲法とは何か』「冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/12/8129901

この本『憲法とは何か』には、注がついている。そこを読むと、つぎのようにある。

「ジャン=ジャック・ルソーのホッブズ批判は、彼の遺稿「戦争状態論」(中略、原著名など)で展開されている。拙著『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、二〇〇四年)一一七頁以下に簡単な紹介がある。」(p.62)

これをみて、くだんのちくま新書の本を読んでみることにした。今回のその本でどのように記述されているかを確認しておきたい。

つぎのように記されている。第7章「ホッブズを読むルソー」。

「ただ、ルソーの批判は、この点にとどまっていない。彼が指摘するのは、そもそも人々の安全の確保を名目に国家が設立されたはずなのに、複数の国家相互の関係がなお自然状態にとどまっているため、国民の間の戦争と殺戮とがはるかに大規模なかたちで生み出されるというきわめて悲惨な現状である。」(p.117)

「ところで、ルソーは、「戦争」と「戦争状態」とを区別している。後者は現代社会では「冷戦」といわれるものに近い概念で、複数の国家が実際の戦闘行為に入ることなく、敵対的な関係にある状態である。」(p.119)

「二〇世紀は、核兵器を典型とする大量破壊兵器の世紀であった。(中略)そこでは、社会契約の解消というルソーの提案がより現実味を帯びてくる。しかもこの提案は、階級対立の解消による「国家の死滅」というマルクス主義の主張とも容易に合唱しうる。/そうした時代に、日本国憲法の文言をことばどおりに受けとる「非武装中立平和」というアイデアが多くの人々の心をとらえたのは、不思議なことではない。」(pp.126-127)

そのうえで、こうのべる、

「問題は、そうした提言(非武装中立のこと、引用者)がもたらすマイナスの側面をいかに評価するか、そして、それが立憲主義というプロジェクトとどのような関係に立つかである。」(p.127)

このような記述をみると、この本『憲法と平和を問いなおす』の書かれた時代背景を考慮しなければならないようである。まだ、冷戦の記憶が残っていたころ……マルクス主義、非武装中立ということばが余韻をのこしていたころ……冷戦の崩壊を理論的に考えると、そのようにも考えられるということで、ルソーのいっていることがもちだされている、と理解すべきだろう。

ここで、問題点は、二つ(あるいは三つ)あるかと思う。

第一に、このルソーの理論が、太平洋戦争にあてはまるかどうか。この点については、私は、妥当な解釈だと判断する。加藤陽子のルソー(あるいは、長谷部恭男)解釈が、否定されるということはないと思う。戦争に勝つ/負けるとは、憲法の書き換えを強制することでもある、この発想は、有効であろう。すくなくとも、近代の立憲国家どうしが戦争をした結果である、という観点からはそういえると考える。

第二に、だが、この理論が、現代のいわゆる「テロとの戦い」に適用できるかどうかは、別問題である、ということがある。テロリストは、そもそも立憲国家ではない。現代の国際社会の問題を、ホッブズのように、また、ルソーのように理解できるかどうかは、改めて検討されなければならないと思うのである。

さらに第三として、強いていうならば、南シナ海・東シナ海をめぐる中国の膨張主義が、あらたな「冷戦」をアメリカをはじめとする周辺各国との間に生じるならば、その終焉は、中国の体制の崩壊という形でありうるのかもしれない。このように予想することもできるだろう。

以上の、二つ(あるいは三つ)が、この本から考えてみたところである。『憲法と平和を問いなおす』については、さらにふれておきたいところがあるが、それは別にすることにする。

『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』2016-07-20

2016-07-20 當山日出夫

井上達夫.『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください-井上達夫の法哲学入門-』.毎日新聞出版.2015
http://mainichibooks.com/books/humanities/post-68.html

なんとも長いタイトルの本であるが……売れているらしい。私のもっている本の帯には、「東京大学生協のベストセラー 3ヵ月連続 人文1位」と書いてある。

読んでみての感想であるが、知的にラディカルに考えるひとつの典型かな、という印象である。それが、実際の社会に対してどのように影響力があるかどうかは、また別の問題としてであるが。

そのような箇所のひとつ。日本と東アジアとの戦争責任の問題について、論じたところを見てみたい。まずアメリカの例をあげる、

「アメリカは、自分が侵略した他国(ベトナム、引用者)に対し、謝罪なんかしませんよ。それどころか、ベトナム戦争後、統一ベトナムに対し、南ベトナム政府に貸したカネを返せなんて要求しているくらいですからね。」(p.34)

「そんなアメリカにくらべればもちろん、国際的に見ても、アジア女性基金のように、法的責任について争いがあり、決着できないときに道義的責任としてではあれ、戦争責任問題にここまで踏み込んで、〈他国民〉に賠償・謝罪した例はないはずです。日本としてはそれを誇るべきなんですね。」(p.34)〈 〉内は、原文傍点。

そして、つぎのように方向をしめす。日本とドイツの比較である。

「過度の自己否定は間違っている。同時に、過度の自己肯定も間違っている。」(p.35)

「ドイツは、自分たちの戦争責任の追求を、日本よりもずっと立派におこなった、という「神話」がある。」(p.35)

「ドイツは、自分たちの戦争責任というのを、二重の意味で限定している。」(p.35)

「まず、責任の主体は、ドイツ国民ではなく、ナチです。ナチの犯罪だと、と。ドイツ国民はむしろ、ナチの犠牲者だ、みたいなね。」(p.35)

「そして、責任の対象は、ドイツがやった侵略戦争の相手じゃなくて、ユダヤ人です。ユダヤ人に対しておこなった強制収容と集団虐殺、それに限定されているんです。」(p.35)

また、

「勝者の裁きであるニュルンベルク裁判の受忍を超えて、自発的に戦争責任を認めてきたわけではない。」(p.36)

これは、確かに、法の理論としてはそうなのかもしれないが、実際の日韓関係などに、適用できることなのだろうか。

ここで、二つの論点をあげてみたい。日本の戦争責任のとりかたと、日韓関係についてである。

第一には、国内の問題として。ポツダム宣言受諾・東京裁判・サンフランシスコ講和条約、といった一連の法的手続きを経た後において、日本は、どれだけの責任をみとめるべきかということ。現在、これらの経緯の上に現代日本がある、ということになっている。これに対して、それを否定しようとする発想がある。いわゆる東京裁判否定論である。これをどう考えるか。では、これに対してどう向き合うべきか、ということである。

第二には、国外の問題として。はたしてそもそも韓国はゆるす気があるのか、という問題。先般の従軍慰安婦問題のときにも、またゴールポストを動かすのではないか、という懸念があった。これは、日本側からいうべきことではないのかもしれないが、しかし、あくまでも被害者の立場に拘泥して、道義的優位をたもちつづけようとする態度も、また、批判されるべきではないか。

以上の二つの論点が、日韓関係において問題になるかもしれない。実際の国際政治・外交の場面において、知的にラディカルに考えることは重要かもしれないが、それだけでは、解決のつかない、いわば民族の情念にかかわる問題があるように思っている。これは、ただ、知性にもとづいた対話があれば解決するという性質のものではない。

だから、ラディカルに考えても無駄ということではない。いや、それは必要である。しかし、一方、その限界もあるだろうとは思っている。

この問題、また、さらにつづけて考えていきたい。

このつづきは、
井上達夫「戦争の正義」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/22/8135835

内田樹・白井聡『属国民主主義論』2016-07-19

2016-07-19 當山日出夫

特に、決めているわけではないのだが、内田樹の本は、なるべく読むようにしている。そのいっていることに賛成というのではない。近年の内田樹の書いたものは、色濃く、その時代を反映したものになっている。それを、反省的に考えてみるのに、と思ってのことである。

最近の本は、対談。
内田樹・白井聡.『属国民主主義論-この支配からいつ卒業できるのか-』.東洋経済新報社.2016
http://store.toyokeizai.net/books/9784492212271/

はっきりいって、居酒屋談義と思っているし、そのように読んだ。双方、気楽に、自分の思っていること、感じていることを、しゃべっているだけのことである。そんなに、深く「対話」を通じて、思考を深めていこうという性質の本ではない。

だが、というよりも、だからこそというべきか、この本を読んで、なるほどと思った箇所をまず二つあげておく。内田樹の発言。

(内田)「僕は自分のことを「保守派」だと思っていますし、人から「右翼」と言われることもありますけど(以下略)」(p.85)

(内田)「ただ、僕自身も自分にファシズムへの親和性を感じて、けっこう危険だなと思うことがあるんです。僕は武道をやって、能楽やって、伝統的な祭祀や儀礼が大好きで、「農業再生」とか「里山に帰れ」というようなことをつねづね言っているわけですから、一歩間違えれば簡単にファシズムに行っちゃう。」(p.320)

たしかに、私は、内田樹の書いているものを読んで、このひとは保守的な発想をするひとである、とは思っていた。それが、この本では、自らが認めることになっている。

だが、私の考える「保守」とは、そこに常に理性的な反省……自分の依拠しようとしている伝統的価値・歴的価値は、本当ににそれでいいものなのだろうか……という理性的な反省をともなう、謙虚な姿勢を必須とする。だが、内田樹(特に近年の)には、それが見られない。ただ、伝統的な価値観を大事にするというだけでは、日本会議の連中と大差ない。

それから、ファシズムをどう定義するかにもよるが、「農業再生」「里山に帰れ」は、何もファシズムに限ってのことではないだろうと思う。いや、現代では、むしろ、逆に、このような発想こそファシズムからとおい。現代社会の一般のありかたとして、行きすぎた近代化・グローバリズムへの反省としていわれることはあり得ても、それが、いわゆるファシズムに結びつくものではないと思う。

むしろ現在、警戒すべきは、特に都市部における、集団的ヒステリーじみた狂騒、それが……反原発・反安保法制であっても……こういうものこそ、全体主義的な考えに近いように、私は感じている。いわく、国民主権なんだから、国民の声を聴け、国民に決めさせろ、これは、近代的な立憲主義、社会・政治の制度を踏み越えようとするものである。この意味でなら、内田樹が、ファシズムと親和性が高いという自己評価は、受け入れられるかもしれない。

それから、もうひとつ、気になったところを書いておく。現代の大学教育の問題についてである。白井聡の発言。

(白井)「私はある学校で初年次向けの演習科目を持ったことがありました。それで期末レポートを出させた。でも、提出してきた七、八人のレポートの半分以上は、読まずに即返しました。返した理由は、段落を改行しているのに、そこで一字、冒頭を空けていなかったからです。/おそらく彼らは、「改行したらそこで一文字空けなければいけない」ということを、一〇年近くずっと学校で教えられて続けてきたはずなんです。一〇年近く言われてきたにもかかわらず、それができない。これは僕は本当に恐るべきことだと思うんです。」(p.231)

これは、居酒屋談義ならいってもいいことかもしれない。大学の教師が、自分の教えている学生がいかに馬鹿であるかを自慢するのは、私も、よく経験することではある……

だが、これを本に書いていいかどうかは、また別問題だし、さらに、問題は、初等・中等教育のレベルからあることである。ただ、最近の大学生はダメである、といっただけではすまない。

では、大学でどうすべきか、各大学でそれぞれの事情に応じてではあろうが、各種の取り組みが始まっている段階である。まず、そちらの取り組みとして、今の大学として何をなすべきかを考えるべきではないのか。それが、すくなくとも、現職の専任の大学教員たるもののつとめだろう。

具体的に、大学教育においてどのようにとりくんでいくべきか提言できないようなら、こんなことをいうべきではないと思う。

以上、内田樹、白井聡から、気になる発言をとりあげてみた。たしかに、気楽な対談集としてよめば、特に問題ないのかもしれない。だが、内田樹など、近年では、その影響力が増している。そのなかで、みずから、どのような立場で、何をいっているのか、もうすこし、反省する時間をもつべきではないのではないか。

萱野稔人『成長なき時代のナショナリズム』「ナショナリズムの新局面」2016-07-18

2016-07-18 當山日出夫

萱野稔人についてはすでにふれた。

やまもも書斎記 2016年7月 日
萱野稔人『成長なき時代のナショナリズム』従軍慰安婦をめぐる問題
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/11/8129273

また、先に成立した安保法制についての反対運動が「ナショナリズム」である、という指摘についてもふれた。私は、この意見に賛成である。安保法制反対は、ナショナリズムにもとづくものだといってよい。

やまもも書斎記 2016年7月14日
細谷雄一『安保論争』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/14/8131019

では、「ナショナリズム」はわるいものなのか。萱野稔人については、その主著とでもいうべき、次の本について見るべきであるが、ここは、コンパクトに集約されているという観点から、先にもとりあげた『成長なき……』を見てみたい。

萱野稔人.『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書).NHK出版.2011
https://www.nhk-book.co.jp/ns/detail/201110_1.html

萱野稔人は『成長なき時代のナショナリズム』第一章「ナショナリズムの新局面」で次のような論を展開している。

いま、ナショナリズムというと、いわゆる、保守・右翼・ネットウヨクなどが思い浮かぶところであろう。それに対しては、まず、次のようにいう。

「いまの排外主義的なナショナリズムの盛り上がりに対して、進歩的知識人は眉をひそめ、道徳的観点から「他者への寛容が失われた」と批判する。しかし、進歩的知識人は彼らの危機感をまったく理解していない。問題はそうした道徳的な他者への寛容性といったレベルにあるのではない。もっと実際的なレベルにある。」(p.17)

それは、次のような感じ方であるとする。

「「われわれ日本人の財産や、本来われわれ日本人が受けとるべき貴重な社会的・経済的リソースを外国人が不当に奪っているのではないか」という感覚である。/さらに、この裏には「いまや日本人ですら生活保護費を受給できないほど社会的パイは枯渇していて希少なのに……」という認識がある。」(p.16)

これは、特定の社会的属性によるものではないと指摘する。

「いまや何らかの社会的属性――非正規労働者、失業者、貧困層といった属性――によって排外主義的ナショナリズムの担い手を特徴づけることはできないのだ。そうではなく、私たちの社会的パイが縮小し、枯渇していっているという問題に敏感な人が右傾化していると考えなくてはならない。」(p.21)

では、彼らに対してどうすればいいのか。

「「パイの縮小」に危機感をもっている人にとって、そうした解決策(=社会保障の充実などのこと、引用者)は脳天気に映るだけでなく、彼らの危機感そものに対立する。進歩的知識人の批判が彼らをいらだたせる一つの理由がここにある。」(p.23)

そして、ナショナリズムを批判することの問題点について、さらに指摘する。

「正しくないことはほかにもある。排外主義的なナショナリズムの高揚を前にして、ナショナリズムそのものを批判することだ。」(p.23)

としたうえで、

「ナショナリズムという言葉には過激な印象がともなう一方で、国民主権という言葉のほうはごく自然に、むしろ肯定的に受け入れられている。しかしだからといって、両者を別のものだと考えてはならない。国民こそ国家の主役であると主張する国民主権の考えも、ナショナリズムの一つにほかならない。」(p.24)

これについては、

「しかし、(中略)リベラルな知識人たちはそのことに気づかず、ナショナリズムに対してだけ「よくないもの」だと断罪する。完全な誤解と無知がそこにある。」(pp.24-25)

ナショナリズムについて、ゲルナーの定義を引用した後で、このようにのべる、

ゲルナーはこう定義している……「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である。」(p.25)

これをふまえて、

「日本という国家は日本人のものであり、日本人のために存在すべきだと考える右派の主張も、国民主権(つまり、国民こそ国家の主役だということ)を要求するリベラル派の主張も、ともにナショナリズムだということになる。」(p.25)

無論、何を日本人と定義するかで、右派・左派は考えがことなる。しかし、国家とは国民のものである、という主張そのものには、変わりはない。国民主権の考え方も、またナショナリズムである。

ところで、「国民主権」……このことばを声高に叫ぶシーンを、最近、目にした記憶がある……そう、SEALDsの主張である。つまり、彼らは、ナショナリズムを主張しているのである。ただ、そのことに、自ら、あるいは、それを支援するひとたちは、気づいていないだけなのかもしれないが。

青木理『日本会議の正体』2016-07-17

2016-07-17 當山日出夫

青木理.『日本会議の正体』(平凡社新書).平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b226838.html

このところ、日本会議関連の本が、あいついで刊行になっている。

たとえば、新書本に限定しても、この本のほかにも、

菅野完.『日本会議の研究』(扶桑社新書).扶桑社.2016
http://www.fusosha.co.jp/Books/detail/9784594074760

山崎雅弘 .『日本会議-戦前回帰への情念-』(集英社新書).集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0842-a/

などがある。

日本会議については、これらの本ですでに記されていることなので、ここでくりかえし書くまでのこともないだろう。

簡単にいえば……現在の日本における右翼勢力であり、安倍政権に非常な影響力をもっている。その源流をたどれば、宗教教団である生長の家からはじまる。その後、紆余曲折あって、いまでは、神社本庁との関係がふかい。その活動は、基本的に「草の根」運動にある。地道な地方での活動を積み重ねることによって、最終的に、日本の国政にまで影響を与える巨大なちからをもつようになった。その主張するところは、伝統的な日本の価値観の復権にある。端的にいえば、明治憲法の昔にもどれ、ということになるだろう……ざっと、このように要約できるかもしれない。

ここで私が書いておきたいことは、思想信条の自由、表現の自由の保証された現在の日本において、日本会議は合法的な存在である。この観点から批判することはできない。

では、何が問題になるのであろうか。単に「右翼」というだけで敵視していいのだろうか。

私としては、次の二点をのべておきたい

第一には、日本会議が、「伝統的」な価値観の回復をめざしている。これはこれでいいとしても、これは、近代的な立憲主義にそむくことになりはしないか。多種多様な価値観・世界観の共存をゆるすために、近代的な政治の諸制度はつくられている。これを、昭和戦前、あるいは、明治の昔にもどすというのは、単なる懐古趣味をこえて、近代の立憲政治を否定することにつながるのではないか、という危惧がある。

近代的な立憲主義、政治的な諸制度に立脚して現在の日本がある以上は、それを根底から否定しようとする勢力に対しては、おのずと警戒的にならざるをえないだろう。ある意味では、革命的発想といってもよい。(もちろん、思想信条の自由、言論の自由をみとめるとしてもである。)

なお、ここでいう近代的な立憲主義ということばは、長谷部恭男のいうところにしたがっている。

やまもも書斎記 2016年7月13日
長谷部恭男『憲法とは何か』「立憲主義の成立」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/13/8130465

第二には、かりに明治の時代にもどすという価値観をみとめるとしても、それは、本当に日本の「伝統的価値観」になるのだろうか、という論点である。いや、そもそも、日本の「伝統」とは何であるか、そう簡単にいえることなのであろうか。

実は、ここのところが、日本の「保守」思想の一番の弱点であるはずである。まもるべき「伝統」が何であるか、確定することは難しい。

この点については、

やまもも書斎記 2016年7月1日
宇野重規『保守主義とは何か』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/01/8122012

いや、あるいは、この「保守」の「伝統」について、深く考えないで、ただ、明治憲法の昔にもどれという単純な発想が、日本会議の本質であるのかもしれない。この意味では、日本会議は、きわめて単純であるがゆえに、その意味で、思慮や反省がないだけに、たちが悪い。

単純なスローガンこそ、人々はなびきやすい……これは、世界の歴史がしめしていることではないのか。

以上の二点が、日本会議について、私の思うところである。その上でいうならば、2016年の参院選をうけて、改憲が議論されているなか、すくなくとも、日本会議が影響力をもつようなかたちでの、改憲はなされるべきではないと思う。私は「保守」であることは、悪いことだとは思っていない。これはこれで、ひとつの立場だと認める。しかし、その「保守」には、たえず、本当に自分の価値観はこれで正しいのだろうかという自省の念が必要である。この自意識なしの「保守」は、単なる過去の礼賛であり、現在への反動でしかない。

そして、確認しておきたいことは、日本会議のあり方をみるかぎり、この「保守」に本来必要とされる、理性的な自省の発想が見られない。これは、きわめて危険であるといわざるをえない。

「とと姉ちゃん」一銭五厘で召集できたのか2016-07-16

2016-07-16 當山日出夫

NHKの朝ドラの『とと姉ちゃん』、このところ習慣のようにして見ている。ドラマは、いよいよ、雑誌の編集スタッフとして花山が参加するようになるあたり。この花山が、出版の仕事にかかわるのをためらうあたりの描写でちょっと気になったことがある。

それは、戦時中(太平洋戦争)、どのようにして召集令状は、とどけられたなのか、ということである。

『とと姉ちゃん』では、一銭五厘でいくらでも兵隊は集められる……という意味のことを言っていた。「一銭五厘」とははがきのことであろう。この箇所、気になっている。

さっそく、ジャパンナレッジで「召集令状」で検索してみたが、『国史大辞典』ではヒットしない。さらに全文検索をしても無い。ことばの用例としては、『日本国語大辞典』などにあるのだが、では、それがどのような制度であったか、どのように届けられたかについては、書いてない。

しかたがないので、Wikipediaを見てみた。このようにある。

「召集令状」で検索して、「一銭五厘」の見出しのところに、「従軍記などに見る「一銭五厘」の表現は、当時のハガキの郵便料金が一銭五厘であったことから、兵隊は一銭五厘で赤紙を送れば補充がきく、兵隊の命には一銭五厘の価値しかないという比喩である。ただし、実際には上述のとおり赤紙は役場の職員が直接持って来るのが原則だった。」とある。(2016-07-15アクセス)

どうやら、一銭五厘のハガキ一枚で兵隊を召集できるということではなかったらしい。

ただし、この項目(召集令状)については、「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。」との注意書きがある。

ところで、召集令状のとどく場面といえば、NHKの朝ドラでは『マッサン』(2014後)、『おひさま』(2011前)で、あったように記憶している。私の記憶では、たしか、これらの作品では、召集令状は、役場の係の人が、個別にその家をたずねて本人を確認したうえで、手渡していたように覚えている。

それから、私の読んだものでは、小説として、次の作品がある。

浅田次郎.『終わらざる夏』(上・下).集英社.2010
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-771346-6

がある。

この作品は、太平洋戦争末期の、占守島での戦闘を描いたものだが、その物語は、村の役場の担当の役人が、残り少なくなった人員のなかから誰を選びだして、召集すべきか、なやむところからはじまる。そして、その召集令状は、本人のところに出向いて手渡されていたと覚えている。

たった、70年ほど前のことである。そして、その紙一枚に、人間の人生のすべてがかかっていたといってもよい。その召集令状(赤紙)が、どのようにして選ばれた人間のもとに、どのようにして届けられたのか、これが、分からなくなってしまっているのが、今の日本の現状であるといってもいいかもしれない。

これは、単にNHKの時代考証のミスではすまない問題があるように思う。われわれにとって、戦争といえば、先の大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)であるとして、そこで戦った人間は、どのような手順をふんで戦地に赴くことになったのか、「記憶」「記録」として伝えられていないことを意味する。

それは、また、『とと姉ちゃん』が、いみじくも描いていたように、「八月十五日」ですべてが変わった、それで気づいた……という、いわゆる「八月十五日の神話」の再生産(ある意味での知的怠慢)と無関係ではないだろう。

追記
たぶん、ドラマの描写は、

花森安治.『一戔五厘の旗』. 暮しの手帖社.1971
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/books/b_1034.html

によっているのだろうと思うが、しかし、だからといって、史実とかけ離れたことはあってはならないと思う。

細谷雄一『安保論争』違憲か合憲か2016-07-15

2016-07-15 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年7月14日
細谷雄一『安保論争』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/14/8131019

安保論争の前提として、次のことがまず重要だろう。安保法制が合憲か違憲かの前に、自衛隊そのものが合憲か違憲か、問われねばならない。

この本の「まえがき」にはつぎのようにある。

「すなわち、憲法学者の多数は、このアンケート調査(朝日新聞によるもの、引用者)によれば、自衛隊を「違憲」とみなしながら、その違憲状態が続くような状況を変える必要がないと考えているのである。立憲主義の観点からすれば、違憲状態を放置することを憲法学者の多数が好ましいと考えることを、どのように理解すればよいのか。自衛隊を違憲ととらえながらも、憲法改正の必要がないと説くことは、違憲状態を許容することを意味し、立憲主義にとっての脅威になるのではないか。論理的に考えれば、自衛隊を合憲とみなすのであれば憲法九条の改正は必要ないであろうし、自衛隊を違憲とみなすのであれば憲法九条を改正するか、あるいは自衛隊を廃止するかいずれかの主張をするべきであろう。」(pp.14-15)

そのうえで、さらにこうのべる。

「憲法学者の多くが、今回の安倍政権による憲法解釈の変更を立憲主義の否定ととらえている。しかしながら、彼らの大半は、政府が憲法解釈を変更すること自体には、反対していない。それでは、どのような場合に憲法解釈の変更が「立憲主義の否定」になるのか。あるいは、メディアの過去二〇年間における、自衛隊のPKO参加に対する立場の変化、そしてかつては自衛隊違憲論が大勢であったのに、個別的自衛権の行使を合憲とみなし、自衛隊の廃止を主張しない姿勢。これをどのように考えればいいのか。」(p.15)

私の考えでは、このあたりがもっとも妥当なところかと思われる。率直な疑問である。自衛隊が違憲であるというならば、その廃止を主張すべきだし、合憲というのならば、むしろすすんでその存在を認めるように憲法を改正すべきといわねばならないだろう。すくなくとも、その改正案に反対すべき理由はないことになる。

このようなことはすでに、言われていることである。しかし、まず、このことを確認しておかないと、安保法制の合憲/違憲をめぐる議論が整理がつかない。

私は、いわゆるアカデミズムの立場にいるので、「憲法学者」という立場の人間が、こぞって「違憲」であるというのならば、それにしたがいたい気でいる。しかし、何か、それをためらわせるものがあるのは、「憲法学者」の意見に、どこか違和感を感じるところがあるせいなのだろうと思っている。

このようなことは、「憲法学者」の世界では、論ずるまでもないことであるのかもしれない。しかし、そうではない一般の人間には、まず、このあたりの論理からしてわかりずらいと感じさせる。

しかし、そうはいっても、世の中の「憲法学者」のほとんどが否定的であるというのは、かなり重みをもって受け止めねばならならないことであるとも、思っている。(要するに、よくわからない、というのが正直なところではあるが。)

そして、この本『安保論争』は、基本的に、安保法制合憲の立場で書かれている。しかし、この論点(合憲か違憲か)にかんしていえば、私が読んだ印象としては、それほど説得力あるものとは読めなかった。まず、素朴な疑問としての問題提起はよい。だが、それをすすめて、安保法制が合憲であると積極的に主張するには、論じ方が弱いように感じた。

この本は、日本の国際的な安全保障について、きちんと向き合って書かれている本だけに、もうひとつ丁寧な説明がもとめられるのではないだろうか。たとえ、それが、国内世論向けの議論であったにせよ、である。

ところで、自衛隊の違憲/合憲をめぐる議論については、

井上達夫.『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』.毎日新聞出版.2015
http://mainichibooks.com/books/humanities/post-68.html

あたりが、ある種の知的ラディカリズムを感じさせる。この本については、また、改めてと思っている。

追記 2016-07-18
安保法案反対が、ナショナリズムであるという視点については、
やまもも書斎記 2016年7月18日
萱野稔人『成長なき時代のナショナリズム』「ナショナリズムの新局面」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/18/8133657