『女のいない男たち』村上春樹2019-06-17

2019-06-17 當山日出夫(とうやまひでお)

女のいない男たち

村上春樹.『女のいない男たち』(文春文庫).文藝春秋.2016 (文藝春秋.2014)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167907082

続きである。
やまもも書斎記
『東京綺譚集』村上春樹 2019年6月15日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/15/9087095

村上春樹の作品、短編集としては、一番あたらしい作品ということになる。ここに、日本の文学の二一世紀の達成を見る……というのは、大げさではないと思う。それほどまでに、収録されている作品の完成度は高い。

特に私がいいと感じたのは「木野」。どうということのない物語の展開なのだが、読み始めて、村上春樹の小説世界にひたっていくことに気付く。おそらく、短編小説という形式でもって、一つの文学的世界を構築する、その究極の到達点のひとつであるように思える。

ここまで、ある日ふと思い立って、『1Q84』からスタートして、村上春樹の長編作品、それから、短篇作品を読んできた。普通に手にはいる文庫本で読めるものは、読み切っただろうか。読んで見て感じることは、村上春樹は、短篇小説がいいということ。世評としては、長編小説の方が話題になるようだが、文学的な密度の高さという点では、短編小説にその才を発揮している。類い希なる小説の書き手である。

おそらくは、小説という形式の文学で世界に通用する普遍性を獲得していると言っていいのだろう。村上春樹の小説には、よく音楽、特に、ジャズが登場する。ジャズもまた、その歴史をさかのぼればアメリカのローカルな音楽であったのかもしれない。しかし、今に残っている演奏……それは、LPレコードであったり、今ではCDになったりであるが……は、世界に通用する普遍性を獲得している。そのような演奏が残っている。

小説という文学の形式で、普遍的な何かを表現しうるとするならば、まさに村上春樹は、それを達成している。日本語という、世界の中で見ればローカルな言語で書かれた小説であるが、それは世界に通用する普遍的な何かとなり得ている。

ともあれ、文学を読む楽しみというようなものがあるとするならば、村上春樹の小説作品を読んでいくなかに、それはあると言えるだろう。私が、今年になってから読んだものであげるとするならば、『源氏物語』がある。村上春樹と『源氏物語』を同列に論じようとは思わないが、しかし、文学を読むことの楽しみとでも言うべきものにおいては、ともに共通するところがある。文学という芸術が、何かしらの普遍性にまで達しているとするならば、その点において、共通するところがある。

『なつぞら』あれこれ「なつよ、アニメーターは君だ」2019-06-16

2019-06-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第11週「なつよ、アニメーターは君だ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/11/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月9日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、絵に命を与えよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/09/9083230

なつやようやくアニメーターになることができた。

この週で描いていたのは、アニメーション映画『白蛇姫』の「メイキング」であったと思う。これから、なつが働くことになるであろうアニメーションの世界が、どのようにしてなりたっているのか……作業の分業、仕事の手順など……また、その当時におけるアンメーション映画とは、人びとの生活、歴史、社会のなかでどのような位置づけになるのか、このあたりのことを、描いていたように思う。

その『白蛇姫』は、『白蛇伝』をもとにしているようだ。私は『白蛇伝』を見た記憶がある。いったいどこでどのようにしてとなると、さっぱり憶えてはいないのだが。

出来上がった映画に、声を吹き込むシーンがあった。今でこそ、「声優」というのは、社会的に認識された存在になっている。だが、アニメーション映画の初期のころ、あるいは、外国のテレビドラマの日本語版の放送において、日本語の声を担当する「声優」は、そんなに知られた仕事ではなかった。

そういえば……昔は、アメリカ制のテレビドラマの日本語吹き替え版というのが多くあった。私の記憶しているところでは、『コンバット』がそうであり、それから、『奥様は魔女』などがあった。(これらは、ドラマの現在……昭和三〇年代はじめ……からすると、もう少し後のことになるはずだが。)

ところで、なつは、アニメーションの天才なのだろうか。まったく無能ということでもないようだが、際だった才能があるようでもない。が、若いなりに天性の何かがあるようである。そして、田舎娘である(東京に出てきて一年以上になるが、まだ北海道方言で話している)。また、人間的な成熟としては、未熟ということになる。まだ若いのである。

このあたり……才能があり、努力家であり、若い田舎娘であり……このあたりの微妙なところを、広瀬すずが、うまく演じているように思える。

次週、なつは本格的にアニメーション映画制作の現場で働くことになるらしい。また、妹の千遙のことがどうなるか、これも気になる。楽しみに見ることにしよう。

『東京綺譚集』村上春樹2019-06-15

2019-06-15 當山日出夫(とうやまひでお)

東京綺譚集

村上春樹.『東京綺譚集』(新潮文庫).新潮社.2007 (新潮社.2005)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100156/

続きである。
やまもも書斎記
『神のこどもたちはみな踊る』 2019-06-14
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/14/9086543

これは、二十一世紀の日本文学の最高の作品ではないだろうか。

おさめてあるのは、何かしら奇妙な物語である。だが、怪異譚という類ではない。ちょっと不思議な話しである。そのちょっと変わった話しのなかに、読んでいて思わず引きずり込まれるような印象がある。

文学的感銘というのともちょっと違う。しかし、何か、心に残るものがある。たぶん、この日常の世界を、ちょっと視点をずらしてみたときにたちあらわれる別の顔、とでもいうことができるだろうか。

村上春樹は、長編作品においては、異界の物語を多く書いている。この作品には、異界というべきものは出てこない。しかし、今の世界が、ふとしたひょうしに反転して、ポジの世界がネガになる、それを経過したものとして、元のポジの世界が再構築される、このように言うこともできるかもしれない。

これまで、村上春樹の作品を、長編、短篇と読んで来て……この『東京綺譚集』において、その文学的達成の頂点にあると感じる。が、のこり『女のいな男たち』がある。これを続いて読むことにしよう。

追記 2019-06-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月17日
『女のいない男たち』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/17/9088040

『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹2019-06-14

2019-06-14 當山日出夫(とうやまひでお)

神の子どもたちはみな踊る

村上春樹.『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫).新潮社.2002 (新潮社.2000)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100150/

続きである。
やまもも書斎記
『レキシントンの幽霊』村上春樹 2019年6月13日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/13/9085919

文学的想像力……この世界におこったできごとを「文学」として把握する洞察力とでもいえるだろうか、この作品には、何よりもこのことを強く感じる。

収録作品の初出は、1999年。連作『地震のあとで』その一~その六、として発表されたもの。「地震」は、1955年の、神戸の地震である。

この地震のあった時のことは、私は、まだかなり鮮明に記憶している。一月一七日、朝、地震で目が覚めた。幸いなことに、我が家においては被害はなかった。その日から、数日は、テレビを見て過ごしていた。

この震災について、いくつもの文学作品やノンフィクションがあるだろう。その中で、小説、文学として、この震災を描いた作品として、この『神のこどもたちはみな踊る』は、傑出していると思う。

だが、直接、震災の描写があるというのではない。どの作品にも、どこかで、ふと言及されるだけなのだが、どの作品においても、その震災があったことが、ストーリーの展開のうえでキーになるように書かれている。

震災のとき、この世に生きる人びとに何がおこったのか……それを、文学的に表現するとなると、このような表現の仕方もあるのか、そう感じさせる。これは、震災文学といってもいいだろう。(このように規定されることを、作者は、否定するかもしれないが。)

収録されている作品のなかで、一番印象にのこるのは、『かえるくん、東京を救う』である。なんとも奇妙な物語なのだが、読み始めて、その物語世界の中に入ってしまう自分に気付く。そして、読後、この作品が、震災を描いた作品に他ならないことを、あらためて感じる。

ともあれ、文学的想像力というものが、震災のようなできごとをどう描くことができるか、この点において、きわめてすぐれた文学的達成をはたしている。おそらく、村上春樹の長編では描くことのなかった世界がここにはある。

次は、『東京綺譚集』である。

追記 2019-06-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月15日
『東京綺譚集』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/15/9087095

『レキシントンの幽霊』村上春樹2019-06-13

2019-06-13 當山日出夫(とうやまひでお)

レキシントンの幽霊

村上春樹.『レキシントンの幽霊』(文春文庫).文藝春秋.1999 (文藝春秋.1996)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502034

続きである。
やまもも書斎記 2019年6月10日
『TVピープル』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/10/9083904

この短編集は、1999年に出ている。あとがきによれば、『七番目の男』『レキシントンの幽霊』は、『ねじまき鳥クロニクル』のあとで書かれた。それ以外の作品、『綠色の獣』『沈黙』『氷男』『トニー滝谷』、これらの作品は、『ダンス・ダンス・ダンス』『TVピープル』の後で書かれた。

そして、『めくらやなぎと、眠る女』は、『めくらやなぎと眠る女』の改稿版である(短縮版)。また、その他の作品も、単行本収録にあたって手をいれてある旨がしるしてある。

村上春樹の作品論、作家論を考えようとするならば、これらのテキストを、逐一読み比べて、その異同について考える必要がある。

だが、現代文学を専門とするわけではなく、ただ楽しみとして村上春樹の作品を読んでいこうと思っている立場としては、そのようなことは理解したうえで、この作品集を読むことになる。

ここまで、村上春樹の作品を読んできて、ここにいたって、寓意とでもいうべきものを感じるようになった。作品にただよう詩情……散文詩とでもいえるような……でもなく、最後になにかしらオチのあるような話しでもなく、物語全体として、何かを表していると感じる。一般的にいってしまうならば、寓意のある物語として理解されるということになる。

たぶん、村上春樹の文学を考えるうえで、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』あたりが、重要な転換点になっているであろうことは、これまで、長編を読んできて感じるところである。初期の作品にあった散文詩的な叙情性から、寓意のある物語への変化とでもいえるだろうか。私には、そのように理解される。

では、村上春樹は、その寓意によって、何を表現しようとしているのか……短篇の方が、長編よりも、難解な感じがしてならない。読んで決して難しいという感じる作品ではないのだが、しかし、では、何を語りかける作品なのか、ことばにしようとすると、どうにもならない。とはいえ、そこには、村上春樹ならではの文学の魅力がある。

ところで、『めくらやなぎと、眠る女』であるが、単行本(また、その文庫本)において、新旧二つのテキストを、同時に刊行してある、これは、珍しい事例になるだろう。文学研究の分野において、このようなテキストをどうあつかうか、考えるか、これはこれで興味がある。

次は、『神の子どもたちはみな踊る』である。

追記 2019-06-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月14日
『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/14/9086543

セイヨウイボタノキ2019-06-12

2019-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日はセイヨウイボタノキである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月5日
ネジキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/05/9081230

この花は去年も写している。
やまもも書斎記 2018年7月4日
セイヨウイボタノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/04/8908790

我が家の駐車場の垣根に植えてある木である。去年、名前をしらべてみて、セイヨウイボタノキであることを知った。今年は、花の咲く前から楽しみにして待っていた。五月の下旬ごろに花が満開になったろうか。並んで花を咲かせるシモツケ(あるいは、コデマリかと思うが)の花が終わってから、花をつける。

非常に香りがつよい。花が咲いてくると、甘い香りが駐車場に出るとただよってくる。

今年は、どちらかといえば図鑑的な写し方で撮ってみた。花の写真はいろいろ写し方があると思うが、できれば図鑑的な写し方をとこころがけている。どの花であるのか、その特徴をとらえた写し方とでもいおうか。そのためには、その花の特徴となることがら……花びらの数とか、形、雄しべ、雌しべの数、葉の形や付き方……このようなことが分かるように写すことになる。これはこれで、かなり難しい。

しかし、花の写真としてなんとか見られるものであることと、図鑑的に花の特徴をとらえることとは、なんとか両立することだろうと思っている。これからも、身の周りの草花や樹木などの写真を撮っていきたいと思う。

ところで、先週に掲載したネジキであるが、それから、何カ所かで花が咲いているのを見つけた。歩いていて、足下に、ちょっと大きめの米粒のような白い花が落ちているのを見て、上を見てみるとネジキの花が咲いている。我が家の周囲のかなりにこの木の花があることがわかった。

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

セイヨウイボタノキ

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G IF-ED

『いだてん』あれこれ「ヴィーナスの誕生」2019-06-11

2019-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年6月9日、第22回「ヴィーナスの誕生」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/022/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月4日
『いだてん』あれこれ「櫻の園」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/04/9080773

人見絹枝が魅力的であった。

この回もまた女子スポーツのこと。今から一〇〇年ほど前のこと、大正時代である。そう簡単に女子スポーツに理解があったというわけではない。ここのところを、さほど深刻にならずに、どちらかといえばコミカルな感じで描いていた。

当事者が大真面目になればなるほど、傍目にはどこかしら滑稽に見えたりもする。しかも、四三はあいかわらずの熊本方言である。熊本方言で一生懸命になればなるほど、見ている側としては、どこかしら冷めた目で見てしまうところがある。

この回から人見絹枝が登場してきている。女性として初のオリンピックのメダリストである。ただ、私の知識としては、ただ、最初のメダリストとして名前は知ってはいるが、どのような人物像であったか、詳しくは知らない。その人見絹枝をどのように描くか、関心を持って見ていた。人見絹枝をどのように描くか、これもまた、日本の近代におけるスポーツの歴史を描くうえでは重要なポイントになるにちがいない。

その人見絹枝の人間的な魅力を、菅原小春がうまく演じていたように思う。

ところで、一方の志ん生の話し。今回のストーリーでは、まったくオリンピックにからんだ場面はなかったが、しかし、これはこれで、面白いドラマの展開になってきていると感じる。若い落語家の放逸な生活と哀愁とでもいうべきものが、うまく出せていたと思う。

次回は、関東大震災の話しになるようだ。関東大震災は、『おしん』(BSで再放送中)でも出てくる。ここをどのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

『TVピープル』村上春樹2019-06-10

2019-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

TVピープル

村上春樹。『TVピープル』(文春文庫).文藝春秋.1993 (文藝春秋.1990)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167502027

続きである。
やまもも書斎記
『パン屋再襲撃』村上春樹 2019年6月6日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/07/9082153

村上春樹の短編集を読んできて、この作品ぐらいから、ちょっと雰囲気が変わってきていると感じる。

二点ほどに整理してみる。

第一には、短篇という文学の形式で何を語るか、その物語の構造がちがってきている。簡単に言ってみるならば、いわゆる「オチ」のある話しになってきている。初期の村上春樹の作品(短篇)を読んで感じることは、ストーリーの面白さよりも、その作品を語ることによって感じる、なにかしら詩情のようなものであった。それが、ストーリー自体の面白さで読ませるように雰囲気が変わってきている。

第二には、時代、ということがある。この『TVピープル』に収録されている「我らの時代のフォークロア――高度資本主義前史」。この作品は、ある時代……いわゆる七〇年安保の時代の学生生活にまつわる感覚を描いている。といって、政治的なことはまったく出てこない。しかし、あの時代、多くの若者が共感していた何かを、この作品は描こうとしている。

以上の二点が、『TVピープル』を読んで感じるところである。

この作品が、本として出たのは、1990年。収録の作品が書かれたのは、1989年のころになる。ちょうど、東西冷戦の終わったころになる。

私は、村上春樹より少し若い(1955年の生まれ)。その年齢から感じるところとして、やはり、1989年のベルリンの壁の崩壊は、強く印象に残っている。世界は、このようにして変わってしまうものなのか、感慨深く思ったものである。

また、このころは、「昭和」という時代の終わりでもあった。

一つの時代の節目であった、今になってみれば回想される。この時代の変わり目ということが、村上春樹の文学にどのように影響しているのか、現代文学研究の門外漢の私はよく知るところではない。だが、一つの時代の変わり目において、村上春樹の文学もまたどこかしら変化していっていることだけは、確かなことであるように思える。

次は、『レキシントンの幽霊』を読むことにする。

追記 2019-06-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月13日
『レキシントンの幽霊』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/13/9085919

『なつぞら』あれこれ「なつよ、絵に命を与えよ」2019-06-09

2019-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第10週「なつよ、絵に命を与えよ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/10/

前回は、
やまもも書斎記 2019年6月2日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢をあきらめるな」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/02/9079887

この週で、まだなつはアニメーターになれないでいる。

この週のポイントとしては、なつのアニメーターとしての感性の良さと、だが、それにともなわない技術ということになるだろうか。

棄ててあった動画を見てなつは自分で絵を描いてみる。それが目にとまって、再度、アニメーターの試験をうけることになる。その試験も、この週においては、まだ合格してはいない。だが、確実に言えることは、なつには、持って生まれたアニメーターの感性とでもいうべきものがある、ということだろう。

そのなつの感性を見抜いているのは、今のところ、中努(井浦新)、それに、大沢麻子(貫地谷しほり)といった人びと。しかし、作画の技術がともなわないでは、いくら感性があるといっても、アニメーターにはなれない。ここで、なつは、めげることなくアニメーターを目指して努力している。

それから、故郷の十勝でのこと。砂良と照男がどうやら一緒になるらしい。このときのプロポーズ(?)の場面が面白かった。天陽もからんでの一芝居ということであったようだ。

が、これも、天陽からしてみれば、東京に行ってしまったなつをそのままあきらめるということにつながっているようだ。その屈折した感情をうまく表現していたように思える。

なつは、東京でアニメーションの仕事で開拓者として生きていくことになる。そして、次週、なつはアニメーターになれるらしい。また、制作にたずさわっているアニメ映画も完成にむかうようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-06-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年6月16日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、アニメーターは君だ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/06/16/9087505

『おしん』あれこれ(その四)2019-06-08

2019-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年5月17日
『おしん』あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/17/9073429

以前に、再放送の時、『おしん』は全部見ているので、そのさきのことまで知ってはいるのだが、おしんの人生をふりかえって、今……東京で髪結いの仕事で生活しているころ……このころが、一番幸せな時であったかと思う。

東京に出てきて、おしんは、たか(渡辺美佐子)のもとで髪結いの仕事につく。はじめは日本髪を仕事にしようとしていたのだが、たかの考えるところもあって、洋髪の仕事にたずさわるようになる。そこで、カフェに出髪に行って、女給たちと親しくなる。

ここまでの放送でのポイントは、次の二点になるだろうか。

第一は、おしんは、自分の腕で稼いでいくようになるということである。今後、おしんの生活にはさまざまな苦労があるのだが、最終的には、スーパーの経営者、実業家として、成功をおさめることになる。それまで紆余曲折ある。しかし、どのような場合でも、おしんは、基本的に自分の才覚で事業をはじめている。

第二は、おしんのことばである。東京に出てきてすぐのころのことばは、まだ山形方言が強く残っていたが、髪結いとして独り立ちするようになるころには、東京方言を身につけている。これから、日本各地でおしんの人生が展開することになる。このとき、東京で働いて生活して、東京方言を身につけているということが、結局、おしんの仕事にとってプラスになっていくことになる。

実業家として名をなすには、やはり東京方言がふさわしいということになるのだろうか。ともあれ、ここで、おしんが東京方言を話すようになっていることは、これからのドラマの展開にとって、重要な意味をもってくることになると私は思っている。(ドラマの現在のおしん(乙羽信子)は、山形方言ではない。)

以上の二点が、今までの放送を見て、また、以前の再放送を見たときの印象を思い返して、考えることなどである。

時代設定は大正時代である。デモクラシーの時代である。小作農の娘に生まれたおしんが、自分の才覚ひとつで社会の階層をあがっていくストーリーとして、まさに、大正時代がふさわしいといえるのかもしれない。(その後、昭和になり、戦争の時代を生きていくことになるのだが。)

ところで、おしんの名前は「しん」であるようだ。米騒動で警察につかまって、警察官が髪結いのたかのところに来たとき、谷村しん、と言っていた。であるならば、おしんが、自分で自分の名前を名乗るときに、「おしん」と言っているのは、ちょっとおかしいと思うがどうであろうか。人から呼ばれるときは、「お」がついて「おしん」であってもいい。しかし、自分で名乗るときには、「お」はつけないのではないだろうか。

東京に出てきて、たかにあったときも、おしんは自分の名前をきかれて「おしん」と言っていた。が、これも、ドラマのタイトルが、「おしん」ということで、「おしん」という名前を強く印象づけたいための脚本かと理解して見ている。