『おんな城主直虎』あれこれ「第三の女」2017-05-23

2017-05-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年5月21日、第20回「第三の女」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story20/

前回は、
やまもも書斎記 2017年5月16日
『おんな城主直虎』あれこれ「罪と罰」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/16/8560810

今回もネコがでてきていた。ネコが出てくると安心する。

今回の見どころは、なんといっても、直親の娘の登場だろう。高瀬という名である。この娘の出現をめぐって、直虎と、しののやりとりが興味深い。いつもは、仲の悪い二人が、直親の娘の登場ということで、共通するものを感じて、共感し合う。その心のゆれうごきが、面白かった。直虎は、しのと一緒になって、「スケコマシ」と言っていた。

まあ、直親の娘(らしい)人物の正体は、間者であるのかもしれないのだが、ともあれ、井伊の家の一族としてうけいれることになったようだ。ここのあたりも、井伊の家をどのように維持していくかに苦心することになる、直虎の立場というものがあったように思う。

ところで、興味深いのが、名前だけ出てきて、まだドラマの上では姿を現さない織田の存在。たぶん、これから、織田、それから、徳川家康との関係のなかで、井伊という一族の存亡をかけた駆け引きがはじまるのであろう。

それから、最後のシーン。謎の旅の男(柳楽優弥)が出ていた。まだ、正体があきらかになっていない。しかし、この男の存在が、これからの井伊の生き方に深く関わっていくことになるのだろうと思う。

鉄砲の製造、それから、綿布の製造、このあたりの中世における商工業のあり方をどう描くかも、このドラマの見どころかもしれない。このドラマ、戦国時代を舞台にしているが、合戦、戦闘の場面はほとんどない。そのかわりに出てくるのが、商工業と武士とのかかわり。

前作『真田丸』にはない、新しい戦国時代のドラマを期待したいものである。

さて、次回もまたネコは登場するであろうか。

本の整理をしている2017-05-22

2017-05-22 當山日出夫(とうやまひでお)

近況などいささか。

ここ数日、本の整理をしている。整理といっても、自分の部屋の机の周りとか、廊下とかにあるような本を、別のところ(家の外にある物置)に移動させて、どうにか背表紙の見えるような状態にするだけであるが。

これまで何度となくひっこしのたびに、悩まされてきたのが本である。

私はこれまで基本的に本は売ったことがない。雑誌、それから、マニュアルの類は、処分してゴミにしてしまったことはある。しかし、高校生ぐらいのときに読んだ本、小説など、いまだに持っている。(なお、本と本棚以外の家具類は、最小限しかない。)

だが、年をとってしまったので、昔の小さい活字の本を読むのがつらい。そして、今でも読みたいような本は、多くの場合、新しい活字で新しい本が出ていたりする。翻訳もあたらしくなっていたりする。

最近読んだ本では、『楡家の人びと』(北杜夫、新潮文庫)がそうである。昔の単行本もしまいこんであるのだが、読むのは、新しい文庫本の方が楽である。それから『風と共に去りぬ』などは、近年、新しい翻訳が出た。岩波文庫版と、新潮文庫版と、ふたつの種類が刊行になった。これは、両方とも買って読んだ。二つの訳を読み比べると、いろいろ思うところもあるのだが、これも、機会を見て書いてみたい。若い時、昔の新潮文庫版で読んだ作品である。

このブログを、しばらく休止していて、昨年のいまごろ、再開した。ちょうど、訓点語学会のころであったのを憶えている。仕事を整理して……本を読む、そして、文章を書く生活をおくりたいと思うようになった。まだ、読んでいない本がたくさんある。読みそびれている、名著、古典が、数多くある。それらのうちいくらかでも自分の時間として本を読むことで、時間をすごしたいものである。

そう思っていると、いつの間にか、身の周りが本だらけになってしまっていた。ブログに書いた本、書くつもりで読んで付箋をつけてある本、これから読もうとおもっている本、などなど……いつの間にか、机の周囲にたまってしまった。

身動きがとれない、机の前に座るのも一仕事というような状況になってきたので、整理することにした。

それから、このごろ始めたのが、身の周りの季節の移り変わりを写真に撮ること。たとえば、タンポポでも、その目で観察してみるならば、我が家の周囲には、在来種と外来種の二種類のタンポポが咲いていることがわかる。

そのうちこのブログにも写真を掲載することになるかもしれない。これは、Facebookでは、やっていることなのだが、ここ(やまもも書斎記)にも残してみようかと思っている。

『ひよっこ』あれこれ「椰子の実たちの夢」2017-05-21

2017-05-21 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

ひよっこ 第7週 椰子の実たちの夢
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/07/

岡田惠和脚本の特色のひとつといえるかもしれないのは、主人公(ヒロイン)以外の登場人物を丁寧に描くことにあるだろう。この週は、そんな特色がいかんなく発揮された展開であった。

「椰子の実」は、島崎藤村作詞の歌『椰子の実』からとったものである。この歌を、職場のコーラスで合唱していた。これについては、別に書いた。

やまもも書斎記 2017年5月19日
『うたごえの戦後史』河西秀哉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/19/8565235

やまもも書斎記 2017年5月20日
『椰子の実』の歌詞を誤解していた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/20/8567357

この週は、みね子よりも、脇役たちのことを描いていたと見るべきかと思う。

第一に、澄子。故郷から出稼ぎに出てきてはいるが、帰るべき故郷というわけではないようだ。故郷から手紙も来ない。もし、故郷に帰っても自分のいる場所があるわけではない。なつかしく思い出すのは、ばあちゃんのこと。

そんな澄子の姿が見えない。仕事がおわってから、どこかに行ったのかもしれない。みね子たちは、その行方をもとめて上野駅にむかう。結局、澄子は、銭湯に行っていただけなのだが、それを心配するみね子や愛子たちの、気持ちが丁寧に描かれていた。

第二に、時子。女優になる夢を持って東京に出てきた。NHKのオーディションをうけるが、落ちてしまう。そんな時子のことをきづかって、みね子は、三男と一緒に銀座にでかける。

同じ故郷から東京に働きに出てきた若者たちの友情というべきものであろう。

第三に、故郷に残っている母たち。ナレーション(増田明美)は、「女子会」と言っていた。それぞれに、家庭の事情がことなり、子どもたちも個性がある。その母たちも、また、それぞれに子どもへの思いは異なっている。しかし、故郷を離れている子どもへの思いには、共通するものがある。

以上の三点にあるような、脇役とでもいうべき人物の気持ちを、細やかに描いていたのがこの週の見どころであろうか。脇役的登場人物の個性をきちんと描き分けているのが、このドラマのいいところだと思ってみている。

ところで、最後、土曜日の放送で、みね子の心の声が言っていた……だんだん父親のことを思うことが少なくなってきている……それだけ、東京での生活に慣れ親しんできているということなのだろうが、東京に出てきたばかりころとは、気持ちの持ち方も変わってきているようだ。

この週は、失踪した父親を探すというシーンはなかった。そのかわりに、最後のみね子の心の声で、父親への思いを語っていた。このドラマ、失踪した父親の存在が常にどこかにひそんでいる。最終的に、どのような決着になるか。たぶん、みんな笑顔で終わることになるのだろうと予測するが、その結末のつけかたが、今から期待される。

なお、この週のタイトルが「椰子の実たち」と複数になっているのは、孤独な思いでただよっているのはみね子だけではなく、職場の仲間たち、それから、故郷にいる家族をふくめてのことだと理解しておきたい。

『椰子の実』の歌詞を誤解していた2017-05-20

2017-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

私は、どうやら『椰子の実』(島崎藤村)の歌詞を誤解していたようだ。

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。その中で、コーラスのシーンがある。今週は、『椰子の実』が歌われていた。

ヒロイン・みね子の働くような職場で、合唱がおこなわれていたことの背景については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年5月19日
『うたごえの戦後史』河西秀哉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/19/8565235

この放送では、歌詞もでていたのだが、次の箇所、

「おもいやる やえのしおじお」

この「しおじお」は、「汐々」であった。ここを、私は、てっきり、「汐路を」であると思ってこれまで聞いていた。

海岸にたどりついた椰子の実が、これまではるばる旅をしてきた海の道について思いをはせているのだとばかりおもっていた。これは、誤解だったようだ。(強いていえば、「汐々」であっても、「汐路を」であっても、そんなに意味は変わらないかもしれない。)

WEBで確認してみると、「汐々」となっている。

椰子の実
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yashinomi.htm

この曲、自動車のなかで聞くことにしているCDにもはいっている。薬師丸ひろ子が歌っている。アルバム「時の扉」に収録。これを、MP3にして、SDカードにいれて、自動車のなかで聞いたりしている。

たぶん、この他にも誤解している歌詞はたくさんあるのだろうが、たまたま気付いたので書き留めておいた次第である。

『うたごえの戦後史』河西秀哉2017-05-19

2017-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

河西秀哉.『うたごえの戦後史』.人文書院.2016
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b241570.html

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。ヒロイン・みね子たちの勤める工場には、合唱部がある。これには、社員は、なかば自主的に、なかば強制的に参加させられるようである。

はじめてみね子たちが、会社にやってきた時には、歓迎のコーラスがあった。「手のひらを太陽に」だった。それから、みね子たちも参加してうたっていた。ここでは、「トロイカ」が歌われていた。

私の世代(昭和30年生)では、さすがに、歌声喫茶の体験はないのであるが、しかし、歴史的な知識としては、そのようなものがあったことは知っている。番組でも、ナレーションで説明があった。

戦後、多くの「日本人」「国民」が歌をうたっていたといえるだろう。もちろん、学校での音楽の授業の延長ということもあるのかもしれないが、それだけではなく、職場などを単位として合唱団を組織するということが、ひろくおこなわれていた。

この本は、このような戦後の日本の合唱のありかたをあつかった本。

私が注目したのは、次の二点になる。

第一には、戦後の合唱ブームとでもいうべきものは、戦後になってから作られたものではなく、戦前からの連続性があるという指摘。太平洋戦争中、日本国民の一体感を高めるために、合唱がよくおこなわれていたという。この側面、戦前からの連続性のうえに、戦後の合唱をとらえる視点というのは、重用だと思う。

第二には、戦後の合唱の隆盛には、下から自然発生的に生まれた側面と、逆に、上から組織してつくった側面と、両方があるという指摘。これも、いわれてみれば、なるほどと納得のいくことである。ただ、自発的に始まったというものではないようであるし、同時に、上からの命令だけで組織されたというものでもない。両方の動きが相まって、合唱ということがおこなわれた。

本書の帯には、「民主主義はうたごえに乗って」とある。まさに、戦後日本の民主主義……みんなで共同してひとつの仕事をなしとげる……は、合唱に象徴されるといってもいいかもしれない。

以上の二点が、私が読んで特に気になったところである。そのほか、本書には、「うたごえ運動の歴史」とか「おかあさんコーラスの誕生」など、興味深い考察がなされている。

うたごえ運動……これはなにがしか左翼的なものではあるのだが……において、日本にもたらされたものとして、ロシア民謡がある、とある。「ひよっこ」でも、職場の合唱団では、「トロイカ」を歌っていたのを思い出す。番組のナレーションでは、シベリア抑留からの帰還者が、日本にもたらしたと説明があった。

日本でロシア民謡が人びとの合唱曲としてうたわれてきたその背景には、歴史的な背景があることがわかる。「トロイカ」は、私の子どものころ(小学校のころ)、よく耳にした記憶がある。この曲が日本で歌われる背景があることを知ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

さて、今、合唱はどうなっているだろうか。学校を単位としての合唱はいまだにつづいている。コンクールもある。だが、その一方で、音楽の享受という面では、限りなく「個」にちかづいているともいえそうである。iPodやスマホなどでひとりで聞く音楽が、今の音楽の聴き方の主流であろう。

この本は、合唱というものについて、それなりの歴史があるということを教えてくれるいい仕事であると思っている。

『白鯨』メルヴィル(その四)2017-05-18

2017-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月17日
『白鯨』メルヴィル(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/17/8562384

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

『白鯨』を読み終えて、やはり最後には、現代においてこの作品を読むとするならば、いったいどのように読めるか、ということを考えることになる。岩波文庫版の翻訳は、2004年時点のものである。この解説においては、たとえば次のようにある。

「アメリカはアフガンに侵入し、イラクにも多数の兵と武器をおくってなおも戦っているではないか。ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものとするいくらかキッチュな寓話として『白鯨』をよむ読み方もひらけてくる。」(pp.438-439)

としながらも、D.H.ロレンスの説をひいている。孫引きになるが、その箇所を引用すると、

「モービィ・ディックのことを「白色人種の最深奥に宿る血の実態、われわれの最深奥にある血の本質である」と看破した。」(p.439)

また、ロレンスは、こうも言っているという(これも孫引きになるが引用する)、

「メルヴィルは知っていた。彼の人種が滅ぶ運命にあることを彼は知っていた。彼の白人の魂が滅ぶこと、彼の白人の偉大な時代が滅ぶこと、理想主義が滅ぶこと、『精神』が滅ぶことを」(p.439)

そして、解説(八木敏雄)では、つぎのようにある、

「これをどう読むか。おそらく読者の頭の数ほどの読みがあるだろう。しかしし、『白鯨』はいかなる読みにもいささかもたじろぐことなく、これからも悠然と豊饒な言語の海を泳ぎつづけていくことだろう。『白鯨』は本質的にはアレゴリカルな作品である、しかも多重にアレゴリカルなそれなのである。」(pp.439-440)

「アレゴリー=寓意」の作品として、この『白鯨』をとらえている。しかも、それは、多重であるという。

だが、そうはいっても、この作品を現代の視点で読むならば、トランプのアメリカ、自国第一主義をかかげるアメリカ、その自国の権益を表象するものがモービィ・ディックではないのか……このような読み方もゆるされるであろう。

また、もちろん、この読み方は、数年後には、また別の解釈にとって変わられるにちがいない。この意味では、『白鯨』という小説は、常に、「アメリカ」を表象する小説でありつづけることになるのかもしれない。そして、「アメリカ」を表象するということは、ある意味では、今日の国際社会を表象することにもつながる。今の国際社会のありかたを、ピークオッド号になぞらえて考えて見ることも可能になる。

このように考えたとき、最後に、モービィ・ディックと共に海に沈んでしまうピークオッド号の宿命には、暗澹たるものを感じずにはおれない。

『白鯨』メルヴィル(その三)2017-05-17

2017-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月15日
『白鯨』メルヴィル(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/15/8559378

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

私が、この小説、岩波文庫版(三巻)を読みながら付箋をつけた箇所、それは、「日本」ということばについてである。この小説には、かなり「日本」の用例がひろえる。

岩波文庫版(三巻)には、各巻に、地図(ピークオッド号の航路)が掲載になっている。それを見ると、船は、アメリカ東海岸から出発して、大西洋を南下。いったん、南アメリカによったあと、アフリカ南端からインド洋にはいる。そして、日本をめざしている。日本近海から、さらに太平洋を南下して、最後には沈没する、という運命をたどる。

ここで思い出すのは、やはりペリーである。このブログでも以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2016年6月11日
ペリーはどうやって日本に来たのか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/11/8108879

やまもも書斎記 2016年6月30日
西川武臣『ペリー来航』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/30/8121187

ここで言及した、ペリーの日本来航の航路と同じである。ただ、『白鯨』のピークオッド号は、捕鯨しながらなので南アメリカの方にも行っているが。すくなくとも、アメリカの西海岸から、太平洋をわたって日本にやってきたのではない。大西洋からインド洋を経て、日本をめざした。

そして、これは、歴史の教科書にも書いてあったこと……ペリーの日本にきた目的は、日本近海で捕鯨をする船についての保護であった、と憶えている。

まさに、そのとおり、アメリカから、モービィ・ディックを追って捕鯨の航海をつづける、ピークオッド号は、ほとんどペリーのとった航路をなぞるように、日本近海をめざしてやってきている。

『白鯨』の原著の刊行は、アメリカで、1851年のことと解説にはある。ペリーが日本にやってきたのは、1853年である。ほぼ、同時期といってよい。

なぜペリーは日本にきたのか。そのころ、アメリカの捕鯨はどんなものであったのか。どのような航路をとってクジラを追っていたのか。そのようなことが、この小説を読むと、それなりに理解されるという面がある。

小説の本筋とは関係のないことかもしれない。しかし、ペリーの日本来航は、日本史の大事件である。その背景にどのような事情があったのか、すこしでも、この小説を読むことによって理解できるのではないかと思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「罪と罰」2017-05-16

2017-05-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年5月14日、第19回「罪と罰」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story19/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年5月9日
『おんな城主直虎』あれこれ「あるいは裏切りという名の鶴」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/09/8550386

今回もまたネコがでてきていた。和尚様に抱かれておとなしくしていた。いいネコである。

今回については、主に次の二点か。

第一は、井伊というものの生き方である。これまで、今川の支配下にあるということでなんとかその存在を認められてきた。それが、今川が武田と縁を切ることになるらしい。すると、他の北条や上杉との関係がどうなるのか、また、松平との関係も気になる、といったところ。

大河ドラマの前作『真田丸』では、このあたりは、戦国乱世の世の中で、知謀と武略で生き延びる、「真田」の一族、というものが描かれていたように思う。そこには、当初は、信州、真田の郷へのパトリオティズムのようなものがあった。しかし、最終的には、真田という一族がどのように生き延びるかというところで、知謀の限りをつくすということであったように見た。

それに対して、今回の『おんな城主直虎』では、あくまでも、井伊谷を領地として支配する井伊の一族が、どのようにして生きていくか。そこには、武力という選択肢は、始めからないようだ。今川の支配下にあって、どのように生き延びていくか、このあたりが今のポイント。そこでのキーパーソンが、政次の存在ということなるのであろう。

政次の存在は、井伊の一族にとって決して望ましいものではない。しかし、政次に頼らねば、井伊は生きていくことができない。このあたりのもどかしさが、直虎と政次との関係において、描き出されていた。

第二は、中世、戦国時代の領主は、武力だけで領民を治めるものではない。領地の経営にも苦心しなければならない。その一つが、綿の栽培である。はたして、中世において綿の栽培と、その加工、さらには商品としての流通はどのようなものであったか、ちょっと気になるところである。

領地の経営ということでは、山林もある。山の木が何者かに切られた。その犯人をめぐって、今川方との対立になりかける。

このあたり、中世の法制史の方からの議論は、どうなんだろうかと思って見ていた。犯人を捕まえたとして、その処罰は、誰がどのような法のもとで裁くことになるのか。領主の遵法意識というのは、どのようなものであったのか。

以上の二点ぐらいが、今回で気になったところである。

また、旅の男(柳楽優弥)の正体は明らかになっていない。たぶん、この人物の存在が、井伊の運命を左右することになるのかもしれないと思って見ていた。

戦国時代のドラマではあっても、この作品には、戦闘・合戦の場面が出てこない。そのような戦国ドラマもあっていいと思う。そうではなく、乱世の時代にあって、どうやって領地領民を守っていくのかに苦心する領主の生き方を描こうとしているのだろう。これが、どう面白い展開になるのかは、たぶん、この謎の旅の男にかかっていると感じている。

さて、次回もまだネコが出てくるだろうか。

『白鯨』メルヴィル(その二)2017-05-15

2017-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月12日
『白鯨』メルヴィル
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/13/8556408

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

この作品の本題とは関係ないのだが、日本の視点からみて、気になったことをちょっと書いておきたい。何のために捕鯨をしていたのか、ということである。

私の世代(昭和30年生)であれば、鯨肉というのは、身近な食料であった。小学校の教科書などにも、日本は、南氷洋にまででかけていって捕鯨をしている国であることが、堂々と書かれていたと記憶する。

それが、今では、国際世論のなかで、日本の捕鯨はおいこまれている。

だが、19世紀、アメリカも捕鯨をしていた。その理由は、油(鯨油)をとるためである。肉を食料としたかどうかは、この小説『白鯨』ではさだかではない。ただ、作品中にクジラの肉を食べるシーンは出てはくる。

この作品中では、クジラについての蘊蓄が傾けられている。このような箇所を読んでも、捕鯨の主な目的は、食肉ではなく、油だったようである。油をとった後の、クジラ、その肉はどうしていたのだろうという気がするが、そのことについては、書いていない。

現在の日本の捕鯨は、窮地にたたされている。その観点から、かつてアメリカだって捕鯨をしていたではないか、と言えなくもない。だが、この小説をそのような材料につかうのは、文学の本筋からは離れた議論になるだろう。

とはいえ、捕鯨という行為が、かつては、アメリカなどを中心として行われたいたのであり、その目的は主として油をとるためであった、このことは、歴史的な事実として理解しておいた方がよいのではないかと思う。

捕鯨の文化史、社会史という観点から見ても、『白鯨』という小説は、価値のあるものである。

なお、むかし、若い時、『白鯨』を読んで(たしか昔の岩波文庫版だったと思う)、とにかく印象にのこっていたのが、捕獲したクジラから、油をとるシーンである。捕鯨といっても、肉をとるんじゃないのか、という感じで憶えていた。

『ひよっこ』あれこれ「響け若人の歌」2017-05-14

2017-05-14 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

ひよっこ 第6週 響け若人のうた
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/06/

今週は、みね子が東京の向島電機ではたらきはじめて、しばらくたったところ。見どころは毎日それぞれにあるが、気になっていることをいくつか。

第一は、やはりコーラスだろう。乙女寮に合唱部がある。そこに、自主的に、というか、半強制的に、入らされる。このあたりは、さらりと描いてあった。ともあれ、みね子にとって、みんなと歌うことは楽しいらしい。

ただ、実際にうたっているのは、登場人物たちではない。影武者(あまちゃん)である。とはいえ、登場した歌は、私も耳におぼえている。

印象的だったのは、「トロイカ」。ロシア民謡である。ナレーションで、ロシア民謡が日本ではやったのは、シベリア抑留の影響と説明があったのが、やはり時代を感じさせる。そのロシア民謡「トロイカ」は、子どものころによく耳にしたものである。ああ、子どものころによくこの曲を耳にしたなあ、と思いながら見ていた。

第二は、みね子たちの会社での生活。みんなで一緒に近所の銭湯に行って、1本15円のラムネを、三人でわけて飲む。そして、歌をうたいながら帰る。帰り道で歌っていた歌は、「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)であった。

また、はじめての給料日。みね子は、もらった給料のほとんどを、故郷に送金してしまう。手元にはほとんど残らない。欲しいと思った服もかえない。そこに、故郷の母が手作りのブラウスをおくってくれる。

いかにも、という展開ではあるが、しかし、しんみりと心に染み入る描写であったと思う。

第三に、すずふり亭。母が送ってくれたブラウスを着て、みね子は赤坂のすずふり亭をたずねる。手には、父ののこしていったマッチ箱。

月1000円で生活しなければならないみね子にとって、すずふり亭はちょっと高い。手頃なところで、ビーフコロッケを注文していた。その味はどんなだったろうか。茨城の田舎から東京に出てきて、初めての給料をもらって、赤坂の街にでかけて食べた洋食の味である。

よかったのは、そのようなみね子をあたたかく見守っている、すずふり亭のひとたち。鈴子(宮本信子)をはじめ、すずふり亭のひとたちは、みね子を大事に思っていてくれるようだ。

これから、このすずふり亭は、ふかくドラマに関わっていくことになるのだろう。今のところ、いい人たちばかりという感じなので、安心して見ていられる。

以上の三点ぐらいが、印象にのこっているところか。

それから、最初の方でできた、故郷のおじさん。犬をつれていた。この空は、ビートルズのいるリバプールにつながっていると叫んでいた。自由をもとめている。東京で暮らし始めたみね子は、楽しく寮生活をおくっているとはいえ、自由からは、まだとおいように感じる。これから、みね子が、どのような自由な世界で生きていくのか気になるところ。

また、今週も、通奏低音のように、父の失踪が描かれていた。父の消息がわかりかけて安堵するみね子。だが、その心中は複雑なようだ。このまま父がみつからないでいてくれればとも、思ったりする。このような屈折した父への思いと、東京での寮生活、これらが、うまく描かれていたように感じたのであった。