もみじ2017-12-13

2017-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、花ではなく紅葉である。

「紅葉」と書いて「もみじ」と読む。用法には基本的に二つある。

第一には、秋になって木々の葉っぱが色づくことの一般である。
第二には、カエデのことをさす。

これは知っていたことだが、例によって、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。すると、紅葉一般を指す用法は、古く万葉集からある。これは、納得できる。ところが、カエデのことを「もみじ」というようになったのは、ごく最近のようだ。

2として、「楓(かえで)、または楓の葉をいう。」の用例であがっているのは、

小学読本(1874)と、浮雲(1887〜89)である。明治7年と、明治20~22年、ということになる。近代になってからの用法であることがわかる。意外と、このカエデの意味で「もみじ」というのは、新しい使い方である。

写真にとってみたのは、我が家の近所のカエデ。カエデといっても、いろいろ種類がある。その詳しいことまでは不案内である。早いものは、10月下旬ごろに色づく。おそいものは、12月になっても、まだ葉が残っている。

カエデの種類まで、図鑑で調べるのはちょっと大変かなと思うが、来年は、もう少しこまめに観察して、いろいろと見ていって、写真に撮ってみようかと思っている。

モミジ

モミジ

モミジ

モミジ

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

『おんな城主直虎』あれこれ「本能寺が変」2017-12-12

2017-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年12月10日、第49回「本能寺が変」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story49/

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月5日
『おんな城主直虎』あれこれ「信長、浜松来たいってよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/05/8742156

今回は、タイトルのとおり本能寺の変。でも、本能寺のことは、ほとんど出てこなかった。「人間五十年・・・」もなかった。なんだか変な本能寺の変であった。合戦場面を描かない、このドラマの方針としては、これはこれで一つのあり方ではあるのだろうが。

そのかわりに描いていたのが、徳川家康の伊賀越え。これもまた、虚実いりまじって、どこまで誰が本当のことを言っているのかわからないままに終わってしまった。

そして、直虎(おとわ)と龍雲丸の堺での再会。龍雲丸は分かれて堺に行ってしまったのだが、その後のことが出てきていなかった。それが、この最終盤になって、堺での再会となっていた。そして、家康を無事に三河に返すための画策にかかわることになる。このあたり、どうせフィクションなんだろうと思うが、それなりに説得力のある構成だったと思う。たぶん、堺のシーンは無いだろうと思っていたのだが、意外であった。

このドラマも最終になって……井伊の家は、まるで徳川の臣下である。井伊谷という地方の国衆ではなくなっている。直虎(おとわ)も、徳川が天下を取ることを望んで行動している。徳川の家臣としての井伊というものが、ここから確立することになるのであろう。

ところで、最後のシーンで出てきた少年。明智の子。ドラマも後最終回を残すのみとなっているのだが、この子供の決着をどうつけるのだろうか。

今回は、ネコがちょっとだけ、最初の方で登場していた。次回、最終回も登場するだろうか。

国語語彙史研究会(117回)に行ってきた2017-12-11

2017-12-11 當山日出夫(とうやまひでお)

土曜日(12月9日)は、第117回の国語語彙史研究会。近畿大学(東大阪)であったので、行ってきた。

たまたま子供が仕事が休みで、遊びに行くので、そのついでに駅まで一緒。ちょっと時間が早めになったが家を出る。我が家からだと、八戸ノ里から行くことになる。各停しか止まらないのが、ちょっと不便であるが。

早い目について、大学の近所のファミレスで昼食。コーヒーを飲んでから、大学へ。行ってみると実にきれいなキャンパスである。(これと比べると、京都の国立の大学など、スラムのように見えてくる・・・)

発表は、いつものように三件。今回も、ある程度、研究発表の経歴をつんだ人の発表だったので、それぞれに勉強になった。

漠然とした印象を書いておくならば……いい発表というのは、いい「問い」の立て方をしている発表である。「答え」として、鮮やかにきれいな結果を出す、ということもあるが、それよりも、この文献、このことば、この資料に、こんな見方があったのか、と気付かせてくれるような発表がいい。

終わって懇親会。新しく建物をつくっているキャンパスである。できたばかりの話題の図書館の中であった。ホテルのラウンジかと思うような会場。そのせいか、(それから、参加者が予定より少なかったせいか)、会費がいつもよりも高かった。

帰りも八戸ノ里まで歩いた。たまに外に出て、コンクリートやアスファルトの上を歩くと、つかれる。が、翌日は、いつものとおに起きて、子供を仕事に駅まで送っていく。

次回は、来年の4月、大阪大学でとのこと。

『わろてんか』あれこれ「笑いの神様」2017-12-10

2017-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第10週「笑いの神様」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/10.html

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月3日
『わろてんか』あれこれ「女のかんにん袋」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/03/8739898

この週の見どころは、落語家の二人……団吾と団真、それから、お夕である。

芸人、芸能の世界に生きる人間としての悲哀を、それぞれの立場で十分ににじませている。豪遊、道楽三昧をしているような団吾であるが、その一方で芸にかける意気込みは、半端ではない。また、団真……その崇徳院がうまかった。上手なのか、下手なのか、やる気があるのか、ないのか、どうともとれるような不幸なめぐりあわせの落語家を見事に演じていた。さらには、お夕。朝ドラでは何回目かの出演になるはずだが、薄幸な若い女性を演じさせたら、実に似合っている。

このような落語家、芸人の世界を描く一方で、風鳥亭の芸人たちの労働争議、ストライキがコミカルに描かれていて面白かった。実際にそのような騒動があったかどうかは別にして、このような芸人たちと対比される形で、団吾、団真の芸にかけるそれぞれの人生の生き方が、シリアスに、かつ、哀惜を込めて描かれていた。

このドラマは、芸能ビジネスの世界を描いているが、決してお笑いドラマではない。コメディではない。が、しかし、どことなく、登場人物が真剣に演じていればいるほど、どこかしら滑稽を感じさせる。大真面目な人間の生き方ほど、滑稽に見える。それが、別の角度から見れば、芸能の世界に生きる人間の悲哀でもあるのだが。

団吾、団真、お夕は、さらに来週も出てくるようだ。楽しみに見ることにしよう。

『文学問題(F+f)+』山本貴光2017-12-09

2017-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

山本貴光.『文学問題(F+f)+』.幻戯書房.2017
http://www.genki-shobou.co.jp/index.html

夏目漱石の『文学論』についての本である。が、この本のタイトルには、そのことが明示されていない。これは、意図的にそうしたのだろう。『文学論』についての本でありながら、それを超えたとことの議論をしたい、そのような思いがあってのことと思われる。

だが、読んでみると、まぎれもなく、『文学論』の解読である。

漱石の『文学論』は、著名ではあるが、難解で、あまり誰も読もうとしない、という感じの本としてあったように思う。岩波文庫版でも出ているし、無論、「全集」にもはいっているが、はっきりいって、私は、これまで、きちんと読むことをしてこなかった。

ともあれ、この本が出たおかげで、『文学論』がいったいどんなことを語っている本なのか、その輪郭がつかめた……無論、著者(山本貴光)のひいた筋にしたがってであるが。

この本は、三部構成になっているが、その第一部が、「漱石の文学論を読む」として、『英文学形式論』『文学論』の、解読にあてられている。メインは、『文学論』であり、その主張となる、文学は(F+f)である……ということで、漱石が何を言おうとしていたのかの、解説になっている。

順次、現代語訳をあげ、原文を示し、また、必要に応じて脚注、参考文献の指示などがある。実に丁寧なつくりになっていることが実感される。

この本を通読してみて……脚注まで細部にわたって読むということはなかったのであるが……『文学論』の読解としてすぐれていると感じさせるのは、「問い」を設定することによって『文学論』を読んでいることである。

章節ごとの区切りに、そこで漱石は何を問いかけているのか、「問い」が設定されている。これは、実にすぐれた本の読み方であると思う。

勉強するということは、「答え」「解答」を知ることではない。そこにどんな「問い」があるのかを発見することである。『文学論』を読んで、文学とは何であるかの「答え」を見いだそうとはしていない。そうではなく、漱石が、どのような問題意識でもって文学というものをとらえているのか、「問い」をそこから導き出すことで、読み解いている。

これは、すぐれた本の読み方である。

この「問い」が重要であるということについては、すでに書いたことがある。

やまもも書斎記 2017年3月31日
人文学は何の役にたつか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/31/8634014

この本を読んで、「文学」とは何であるかを知ることもできるだろう、また『文学論』に何が書いてあるかを知ることもできるだろう。だが、それよりも重要なことは、本を読むということは、ある問題意識をもって、その著者が何を「問い」として問いかけているのかを読みとることである、このことを実践して見せてくれた本として、この本はきわめて意味のある本だと思う。

この『文学問題(F+f)+』は、文学とは何かを考えた本であり、また、『文学論』を解読した本でもあるが、それと同時に、『文学論』からどのような「問い」を取り出すことがことができるのか、この視点から本を読んでみせた、すぐれた実践的な本である。

『赤光』斎藤茂吉2017-12-08

2017-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

斎藤茂吉.『赤光』(新潮文庫).新潮社.2000
http://www.shinchosha.co.jp/book/149421/

ふと、高校生の頃に読んだ短歌……それも学校の教科書に載っていたもの……を、読み返したくなった。『あの頃、あの詩を』を読んだ影響である。

やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826

今でもおぼえている。

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉の短歌を読もうと思って、見てみると、いくつかある。岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』。新潮文庫版『赤光』。それから、古本になるが中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』がある。

新潮文庫版『赤光』を読んでみた。

この本について、書いておきたいことは次の二点。

第一に、「歌集」というものを、これほどまでに一気に読んだのは始めてである。

日本語の歴史的研究という分野にいると、和歌集は目にすることがある。歴史的資料としてである。だが、近代の短歌になると、日本語史の資料としてあつかわれることは、まずないといってよい。これは、純然と文学作品として読むことになる。上代語の資料となると、「万葉集」などの歌の集が、まず資料としてうかぶ。

これまで、近代短歌にまったく無縁ということではないが……ある程度、有名なものは手にとってみたりした……だが、それほど、ある作品に傾倒するということなく、すごしてきた。今回、『赤光』(新潮文庫版)を読み始めて、ほとんど一気に全部を読んでしまった。

それほどまでに、『赤光』は、魅力的な本である。

読めば、それが「万葉集」につらなる歌風を継承しているものであることはすぐにわかる。しかし、それだけではない。近代の人間の感覚が、そこに詠み込まれている。「万葉集」からの伝統的な歌の世界と、近代の感性とが、融合した歌の世界がある。

斎藤茂吉の歌の文学史的位置というものについて、一通りの知識は持っているつもりであったが、そのような知識をもっているということと、自分自身が、読んで、そこに文学的感銘を感じるかどうか、ということは、また別のことでもある。この意味において、『赤光』は、はじめて私にとって文学作品として、現れてきたということになる。

これは、私も年をとってきたということもあるのかもしれない。そろそろ隠居的生活をおくりたい、本を読む生活をおくりたいと思っている。昔、若いころに読んだ文学作品など、もう一度手にとってみたくなる。そのようにして本を読んでいると、もう自分も年をとってしまったな、若いころのような感性で読むことはできないな、と感じる一方で、再び若いころの感性がよみがえってきて、作品にこころひかれることもある。

『赤光』は、まさに、今の私にとって「文学」……個々の歌もさることながら、歌集として……なのである。

第二には、その編集。新潮文庫版は、初版をもとにしている。

作品の配列をみると、新しいものから、古い作品へと、さかのぼって配列してある。新潮文庫版のもとになったのは大正2年の初版。これが、斎藤茂吉は、後年、成立順に配列をかえ、作品に手を加えている。大正10年の改選版である。中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』は、この新しい改選版によっている。

歌集であるから、どちらで読んでもいいようなものかもしれないが、書物として順番に読んでいくとなると、初版の方がいい。

何故だろうかと思うのだが……やはり、「歌集」として編纂された作品として読むとき、どのように配列してあるかは、重要である。『赤光』は、初版のような配列であってこそ、文学的な魅力が増す。より完成度の高い、新しい作品が先にきて、どこか、まだ未完成と感じさせるような、「万葉集」のことばの影響を直接残しているような初期の作品を順次読んでいくことによって、この「歌集」の作者の根源的な歌人としてのエネルギーの源に触れていくような感じがある。読み進んでいくにしたがって、斎藤茂吉の歌人としての源泉にまでさかのぼっていくような印象をもつ。

初版『赤光』が、このような新潮文庫版で出たのは、著作権の関係かなと思ってみたのだが、そうでもないようだ。新潮文庫版の刊行は、2000(平成12)年。斎藤茂吉の没年は、1953年。まだ、著作権の保護期間内に、新潮文庫版が出ていることになる。著作権継承者の了承を得てのことなのであろう。

ともあれ、『赤光』の初版本が、手軽に文庫本で読めるようになっているということは、とても幸運なことであると思う。

以上の二点が、『赤光』という歌集について確認しておきたいことである。

斎藤茂吉の他、中学・高校のころ、あるいは、大学生になってから、手にとった詩集・歌集など、読み返してみたくなってきている。順次、読んでいくことにしたい。

『井筒俊彦の学問遍路』井筒豊子2017-12-07

2017-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

井筒豊子.『井筒俊彦の学問遍路-同行二人半-』.慶應義塾大学出版会.2017
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766424652/

私が、慶應義塾大学に入学したとき、すでに、井筒俊彦は慶應を去ったあとだった。

だが、折りにふれて、その名前を耳にすることがあった。

井筒俊彦は、池田彌三郎と、慶應の予科の同期である。同じとき、文学部にかわっている。池田先生が、講義のとき、なにかのひょうしに、「井筒ってのは、…………」と語っておられたのを、今でも憶えている。井筒俊彦のいわく、自分のような人間は、スコラスティックであるのだという。ペダンティックではなく。であるらしい。(このところ、記憶だけをたよりに書いている。)

『ロシア的人間』など読んだのは、学部の学生の時だったろうか。北洋社版である。この出版社は、もう今はない。

その後、イランの革命があって日本に帰国してからの著作は出るたびごとに買っていた。いや、その前に、『思想』(岩波書店)の掲載でも読んだ。岩波ホールの講演会のときは、申し込んだ。こんなにもすぐれた知性がこの世の中に存在するのかと、驚きながら話しに聞き入ったのを憶えている。

『井筒俊彦の学問遍路』は、その夫人が書き残したもの。主に、慶應を去って国外に活動の場をもとめていた時代のことが回想してある。

読みながら付箋をつけた箇所。

「井筒の晩年のことですが、中央公論社の平林孝さんが、「先生、こんな奥様とご一緒でおもしろいでしょうね」とおっしゃったのを覚えています。おしゃべりは確かにたくさんしたのですが、本当のおしゃべりはあまりしていなくて、今となっては私も後悔しています。結局、井筒が亡くなってから、私は井筒を何となく理解し始めたのです。」(p.64)

今年の夏休み、井筒俊彦の著作のうち、日本に帰国してからのもの……主に、東洋哲学全般を論じたようなもの……を、まとめてよみかえしてみた。読むほどに、その思索の世界にひきこまれていく。新しい慶應義塾大学出版会版の全集も買ってそろえてはいるのだが、昔、買った岩波書店などの単行本で読んだ。その本が出た当時の雰囲気を感じ取りたいと思ってのことである。

これからの読書として、井筒俊彦というすぐれた日本の知性を自分なりにかみしめながら本を読んでいきたい。直接学ぶということはかなわなかったものの、少なくとも同じ時代に生きていたというのは、私の人生にとって幸運なことであったと思う次第である。

メタセコイア2017-12-06

2017-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は、花ではなく樹木。メタセコイアである。

この木は、我が家の近辺にかなり数ある。紅葉し、落葉する、針葉樹である。

例によって、ジャパンナレッジ(日本国語大辞典)を見る。

スギ科メタセコイア属の学名とある。「生きた化石」といわれる由来について、説明がある。しかし、その「ことば」としての用例はのっていない。

他に世界大百科事典などの項目を見てみると、この木の発見、再発見、さらには、日本への渡来など、実にドラマチックな出来事があった。(詳細は、省略することにする。)

ともあれ、そのようなドラマチックな来歴のある木が、身近にあることに気付くことになったというのも、身の周りの植物など、写真に撮り始めて、辞典や図鑑などで確認するようになってからのことである。

WEBなど見ると、この木は今では全国にひろがっているようだ。著名な並木もある。普段、何気なく目にしていた木に、このような歴史とドラマがあったことは、今まで知らなかった。見慣れた樹木の光景であるが、半世紀前までは無かったものである。そう思ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

これからも、花や木の写真を撮っていきたいと思っている。

メタセコイア

メタセコイア

メタセコイア


メタセコイア

メタセコイア

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『おんな城主直虎』あれこれ「信長、浜松来たいってよ」2017-12-05

2017-12-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年12月3日、第48回「信長、浜松来たいってよ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story48/

前回は、
やまもも書斎記 2017年11月28日
『おんな城主直虎』あれこれ「決戦は高天神」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/28/8736014

このドラマ、最後にもってきたのは……本能寺の変の真相、である。

歴史の結果として、本能寺で織田信長は死ぬ。豊臣秀吉が次の時代をになう。そして、最後に天下を治めるのは、徳川家康である。だが、何故、明智光秀は本能寺の変をおこすことになったのか……その「真相」は、謎であるといってよい。これまで、いくつの大河ドラマで、本能寺が描かれてきただろうか。しかし、その中にあって、この『おんな城主直虎』ほど、その「真相」に迫ったものはなかったのではないか。

このドラマは、全50回のはずだから、残すところあと2回。本能寺の変を経て、その後の徳川の行く末まで描くことになるのだろうか。

ともあれ、私のこれまで見てきた記憶では、このドラマで、「天下」ということが、正面きって登場したのは、この回が始めてではなかったろうか。それまでは、世の中の安寧・平安ということは出てきても、「天下」の統一ということは出てきていなかったように覚えている。それが、ここにきて、「天下」は誰の手にわたることになるのか、という方向に向かってきた。もちろん、最終的に「天下」を手に入れることになるのは、信長ではなく、家康である。

最終盤になって、ドラマの主人公は、もはや誰でもない、天下の趨勢、とでもいうべきものになっている。無論、ドラマとしての主人公は直虎(おとわ)なのであるが、それが、本能寺の変にどのようにかかわることになったのか、そのいきさつが興味深い。たまたまのなりゆきで直虎(おとわ)も本能寺の変に深く関与することになる。その経緯が、巧みに織り込まれていたように思う。(多少、強引な気がしないでもないが。)

次回、本能寺で何が起こるのか、楽しみに見ることにしよう。

ただ、今回はネコは出てきていなかった。すこし残念である。

追記 2017-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月12日
『おんな城主直虎』あれこれ「本能寺が変」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/12/8746748

『日本の詩歌』大岡信2017-12-04

2017-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

大岡信.『日本の詩歌-その骨組みと素肌-』(岩波文庫).2017
(講談社.1995 岩波現代文庫.2005)
https://www.iwanami.co.jp/book/b325111.html

コレージュ・ド・フランスでの講義録(1994、1995)ということなのだが、そのあたりを割り引いて読む必要があるだろうか。たぶん、現代において、日本文学の分野で、和歌や歌謡の歴史を研究する立場からみるならば、いろいろと言いたいところがあるであろう。

だが、そうはいっても、日本の和歌、歌謡の歴史を、菅原道真の漢詩から始めて、紀貫之、和泉式部、それから、さかのぼって万葉集の笠女郎におよぶ。それから、梁塵秘抄から閑吟集にいたる歌謡を見る。このようにして、日本の和歌、歌謡の歴史を概観したこの本は、日本文学などを専攻する学生が、専門の論文を読む傍らに、副読本として見るには適当な本であると思う。その一方で、最新の和歌、歌謡の研究に目をくばるということが必要ではあるが。

私の勉強の範囲で、ちょっとだけ書いておくならば、最初の章に出てくる菅原道真の作品。そのなかで、庶民の困窮を歌った詩……これは、風諭詩というジャンルでとらえるべきもの、白楽天の作品の日本における受容の一つの表れとしてみるべきだろう。

蛇足を承知で書くと、今回の岩波文庫版の解説を、池澤夏樹が書いている。それを読んで……平安時代になって、女性が、五〇の平仮名をつくった、とあるのは、どうにもいただけない。日本文学、日本語史の、学部での概論的な講義の知識のレベルでみても問題がある。

道真の漢詩、それから、閑吟集の歌謡などをふくめて、日本の詩歌を概観したこの本は、読むに価するとは思う。これを見ながら、日本文学などの勉強で、さらに何を考えるかが、学生にとっては、課題となるにはちがいない。