『エール』あれこれ「東京恋物語」2020-05-31

2020-05-31 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第9週「東京恋物語」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_09.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月24日
『エール』あれこれ「紺碧の空」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/24/9249893

この週で印象にのこっているのは、次の二点だろうか。

第一には、裕一のレコード。

ようやくのことで、裕一は、「福島行進曲」を作曲して、レコードになった。作詞は、鉄男である。先週は「紺碧の空」であったが、これは応援歌であって、レコードということではなかった。それが、ようやくレコードの作曲が世に出ることになった。

第二には、音の頑張りと歌。

「椿姫」のヴィオレッタの役を勝ち取ろうと、音は勉強のためということで、カフェーにつとめて出る。結果的には、ここで出会った、希穂子という女性と、鉄男との悲恋が、音の心象につよくのこったようだ。それが、最終選考のときの歌に表現されることになった。

この最終選考のときの、歌っている音の表情が良かった。それと重なって描かれていた、希穂子と鉄男の恋が、こころに響くものがあった。

以上の二点、裕一のレコードと、音の「椿姫」が、小山一家にとってのおおきな出来事ということになる。

その一方で、傍系の話しとして出てきた、希穂子と鉄男との関係が切なく悲しいものであった。いずれ、鉄男は作詞家ということになるのだろうと思うのだが、その人生にはいろいろな陰影があるようだ。

ところで、この『エール』も、COVID-19の影響で、6月27日で一端中止となるようである。ともあれ、これから東京での裕一の作曲家人生、それから音の声楽の道のりを描いていくことになると思う。次週を楽しみに見ることにしよう。

2020年5月30日記

オンライン授業あれこれ(その六)2020-05-30

2020-05-30 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月23日
オンライン授業あれこれ(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/23/9249568

そろそろ普通の授業を再開という動きがないではないが、基本的には前期の間はオンラインでということになるだろう。

もし、一部の授業を再開したとしても、オンラインとの組み合わせをどうするか、これが新しい問題として起こってくる。リアルタイム双方向(ZOOM、Webexなど)でやっていると、そのために、家に帰る、あるいは、学内でWi-Fiのつながる場所を求めることになる。これは、非現実的である。通常の授業と組み合わせるのなら、オンデマンド方式にせざるをえないと思う。

ところで、第一回のレポートを課題として出して、提出させた(電子メール)。このときに思ったことなど書いておく。

第一には、大学のメールシステムが使えない、使わない学生がいるということである。

このことは、きちんと最初の課題提出のときに書いておいたことである。必ず大学のメールシステムから送信すること。プロバイダメールや、Gmailなどからは、受け付けない。このことは書いておいた。

しかし、Gmailなどで送ってくる学生がいる。これは、不受理として再提出とした。

また、中には、何故か理由は分からないが、大学のメールシステムが使えない、アクセスできないという学生がいる。レポートの課題をLMSで送信しているので、それを見ることができるなら、同じアカウントとパスワードで問題なく使えるはずである。これは、とりあえず、大学の窓口に相談してみなさいということで、特別に受付を延長することにした。

このような学生は、これまで大学のメールシステムを使ったことがないのかもしれない。これから、オンライン授業ということが、なにがしかの形で定着したものになっていくだろう。そのとき、大学のメールシステムが使えない、使わない、ということではすまないはずである。その大学のメールシステムが使えることは、学生としての身分証明なのである。

ここは厳しくして、大学のメールシステム以外から送ってきたものは、絶対に不受理ということにしておきたいと思っている。

第二には、文章が書けないこと。

これは、今にはじまったことではないのだが、レポートの文章を、まったく段落、パラグラフに切らずに、連続して書いてくる学生が非常に多い。これまで、高校のときに、文章を書くときには、段落に分けて書くということを習ってきていないのだろう。あるいは、習ったかもしれないのだが、身についていないということなのであろう。

これは、特に電子メールの本文に書いてくる学生に顕著である。添付ファイルとして、Word文書ファイルで送ってくる学生は、まだましというべきだろうか。ワープロで文章を書くにせよ、電子メールの文章を書くにせよ、文章の書き方の基本をまず学んでおくべきだろうと思う。

ただ、私の担当している授業は、文章の書き方の授業ではないので、今回は、特に減点するなどのことはしないつもりでいる。次回のレポートからは、文章のマナー、ルールにしたがって書くこととして、守っていないものは、減点することにしようかと思う。厳しいかもしれないが、こうでもしないといつまでたっても文章の書き方が身につかないことになる。

以上の二点が、第一回のレポートを提出させて、思ったことなどである。

レポートは、前期の間に四回の予定でいる。次回以降、文章の書き方、文書作成の基本ということも、説明したうえで、課題を出すことにするつもでいる。

2020年5月29日記

『渋江抽斎』森鷗外2020-05-29

2020-05-29 當山日出夫(とうやまひでお)

渋江抽斎

森鷗外.『渋江抽斎』(岩波文庫).岩波書店.1940(1999.改版)
https://www.iwanami.co.jp/book/b249228.html

『渋江抽斎』を読むのは、何度目になるだろうか。新潮文庫版の森鷗外を読んだ続きで、これも再読してみることにした。

この本、書誌を書いてみて、一九四〇年、昭和一五年から、岩波文庫で刊行され続けてきていることを、改めて認識した。たしかに、他の史伝類にくらべると、『渋江抽斎』は読みやすい。そして、面白い。

『渋江抽斎』の面白さは、どこにあるのだろうか。二点ほど書いてみる。

第一には、ファミリーヒストリーとしての面白さである。

森鷗外は、武鑑の収集から目にした、渋江抽斎という人物の周囲を探索していく。その家族、親戚、知人のあとを追っていく。まさに、ドキュメンタリーであり、NHKの番組でいうならば、「ファミリーヒストリー」である。その探索の緻密さと、そして、いくつかのドラマチックな場面、これが『渋江抽斎』の面白さの眼目であろう。

第二は、考証学。

渋江抽斎は、考証学者であった。その著作として、『経籍訪古志』がある。いや、今では、一般には、鷗外の書いた『渋江抽斎』の主人公として名が残っていると言ってよであろうが、しかし、日本の古典籍について少しでも勉強したことがあるならば、『経籍訪古志』は一度は目にしたことのあるはずの本である。

この考証学という学問は、ある意味では、今日まで細々とではあるが、その命脈がつづいている学問の一つと言ってよいのかもしれない。少なくとも、国語学、日本語学の分野では、狩谷棭斎の『箋註倭名類聚抄』は、必須の文献の一つとして、今まで伝えられてきている。(あるいは、見方によっては、考証学は、すでにその命が尽きているとも言えなくもないかもしれないのだが。)

ともあれ、国語学、日本語学という分野のはしくれにいる人間の一人として、考証学という江戸時代の学問は、その勉強の視野のうちにいれておくべきことの一つとしてある。その考証学を担ったのが、どのような人物であったかの興味、関心というものが、この本の一つの魅力でもある。

以上の二点が、何回目かに『渋江抽斎』を読みなおしてみて、改めて感じるところである。

さて、森鷗外を、新潮文庫版、そして、岩波文庫『渋江抽斎』と読んできてであるが、印象として残るのは、その文章の端正さである。落ち着いている。そうでありながら、ドラマチックな場面や心情を、見事に描き出している。森鷗外が「文豪」と称されている所以を、改めて認識した次第でもある。

森鷗外は、「全集」(岩波版)も持っているのだが、しまいこんだままである。「鷗外歴史文学集」(岩波版)も持っている。これらの本も、これから読んでおきたいと思う。

2020年5月28日記

『ヰタ・セクスアリス』森鷗外2020-05-28

2020-05-28 當山日出夫(とうやまひでお)

ヰタ・セクスアリス

森鷗外.『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫).新潮社.1949年(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102003/

この作品も、若いころに読んだかと思うのだが、すっかり忘れてしまっていた。新しい新潮文庫で再度読んでみることにした。

性についての自伝的作品であるということは、覚えていたのだが、再読してみて感じるところは、むしろ、小説的な面白さである。

明治四二年(一九〇九)の成立(解説、高橋義孝)。これは、鷗外が本格的に文学の世界で活躍をはじめた時期の作品ということになる。そのこともあるのだろう、文章の端正さに魅了されるところがある。描いているのは、主に性についての子どものころから青年期までの回想である。それが、実に整った文章で描かれている。微塵も、性にまつわる暗さとでもいうようなものは感じられない。

そして、読んで感じるところは、読んでいって小説として面白く書けているということである。性のことをあつかいながら、これまで小説的な物語の面白さで読者をひきつける作品は、そうあるものではないだろう。これを読むと、さすが鷗外という気になる。

今、新潮文庫で読める鷗外の作品というと、この『ヰタ・セクスアリス』の他には、これまで読んできた『青年』『阿部一族・舞姫』『山椒大夫・高瀬舟』ということになる。漱石ほど大量には、今の文庫本で読めるという状況ではないようである。(古本でさがせば、筑摩版の文庫の全集がある。また、『渋江抽斎』の岩波文庫もある。)漱石は、その小説のほとんどが、文庫版で読むことができる。

『ヰタ・セクスアリス』は、短い作品であるが、森鷗外が文豪と呼ばれるのが、よく理解できる作品である。

2020年5月27日記

シャガ2020-05-27

2020-05-27 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はシャガである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月20日
ハナニラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/20/9248606

このところ……花の写真を撮るようになってから……毎年、この花は写しているかと思う。我が家の敷地のなかにも、また、ちょっと歩いて出たところにもこの花が咲く。私の身近にある花のなかで、特に季節を感じる花のひとつであるといっていいだろうか。

ただ、写真に撮るのはちょっと難しい。普通に撮って見るには、特にどうということはないのであるが、この花のような薄紫の色は、非常に発色が微妙である。ちょっとした日の当たり方の違いとか、撮影データの現像処理の違いとかで、色合いがちがってくる。

ここに掲載の写真は、同じ光源のとき、連続して写しておいたものから選んである。これが、違った日に撮影した写真と比べてみると、色合いが違って見える。これも、違って見えるのは、光源が異なるから当たり前といえばそれまでだが、同じ花の写真を並べてみるのに、発色が異なるものが並ぶのは、どうも違和感がある。

使っているレンズは、これもタムロンの180ミリである。このところ、どうしてもこのレンズの出番が多くなっているようである。

撮影したのは、先月のうち。今、五月の末になっているので、この花の季節は終わっている。この花が終わったころに、その周辺に、カラスノエンドウが花を咲かせる。が、これも花が終わって実をつけている。身近な花を見ていると、確実に季節が移り変わっていくことを感じる。

シャガ

シャガ

シャガ

シャガ

シャガ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年5月26日記

『麒麟がくる』あれこれ「信長を暗殺せよ」2020-05-26

2020-05-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十九回「信長を暗殺せよ」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/19.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月19日
『麒麟がくる』あれこれ「越前へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/19/9248280

この回を見て思ったことなど書いて見る。次の二点ぐらいだろうか。

第一には、光秀の生き方。

歴史の結果として、光秀は、戦国大名として「天下」をねらうということにはなっていない。(これは、一般的な見方だろうが。)ただ、本能寺の変で信長を討つことにはなる。

「天下」をめざすのではない光秀にとって、戦乱の世を生きるというのは、どういう意味があったのであろうか。このあたりの屈折したとでもいうべき光秀の心理が、どうにももどかしく感じるところがある。以前の『真田丸』とか『おんな城主直虎』では、登場人物の心のうちがもっと分かりやすく描かれていたように思う。故郷である明智の地へのパトリオティズム(愛郷心)もないようだし、かといって、誰か主君につかえてその忠誠心で行動するというのでもないようだ。

だが、この今ひとつよくわからない光秀の行動の原理、心のうち、というものが、あるいは、このドラマの面白さであるのかもしれないとは思う。

第二は、「天下」ということ。

まだ、このドラマでは、「天下」を手中にするということは出てきていない。これから、信長、秀吉、家康といった面々が歴史の表舞台に登場して、「天下」をめぐって覇権をあらそうということになるのだろう。

その前の段階である。「天下」をおさめるのは将軍の役目ということになる。だが、その将軍には、力がない。大名同士の争いを止めさせるだけの実力がそなわっていない。

この無力な将軍に見切りをつけるのが、信長ということになるのかもしれない。信長に「天下」ということが視野にはいってくるのは、どういう経緯によってということになるのだろうか。「天下」をおさめるには、まず武力ということになるのだろうが、まだ信長は、尾張の大名にすぎない。

また、美濃を手にした義龍は、美濃の国のことしか眼中にはない。「天下」ということが見えていないようだ。そして、結果としては、「天下」をめぐる争いの前に、歴史から退場してしまうことになる。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

さらに書いてみるならば、信長もまた、単に戦乱と武略に生きる戦国武将ということではない。その母(土田御前)から、嫌われ孤独で屈折した心理状態にある。そんな信長のことを一番に理解しているのが、帰蝶なのかもしれない。

次回、今川、それから家康が登場することになるようだ。放送も次回はまだつづくとのこと(6月7日まではあるようだ。)。楽しみに見ることにしよう。

2020年5月25日記

『青年』森鷗外2020-05-25

2020-05-25 當山日出夫(とうやまひでお)

青年

森鷗外.『青年』(新潮文庫).新潮社.1948(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102002/

文学史的には、漱石の『三四郎』と並ぶ名作ということになる。かなり若いころに読んだかと思うのだが、今になってはすっかり忘れてしまっていた。改めて読みなおしてみることにした。

『青年』は、明治43年(1910)である。(なお、漱石の『三四郎』は、明治41年(1908)である。)

読んで感じたところを書けば次の二点になる。

第一には、やはりこの作品は、『三四郎』をかなり意識して書いているな、と感じさせる。いや、『三四郎』のみではなく、漱石という小説家を意識していると言った方がいいかもしれない。

地方出身の青年が、東京に出てきて、いろんな人物と出会う。そして、成長していく。恋(のようなもの)もあれば、芸術もある。まさに、『三四郎』の世界である。

第二には、『三四郎』と比較してのことになるが、次のような箇所が気になる。

田舎から出てきた純一は、小説で読み覚えた東京詞を使うのである。p.6

『三四郎』でも、三四郎は、九州から上京して東京にくると東京語をつかっている。だが、そのことに作者(漱石)は、何の断り書きもしていない。東京に出てきた人間は東京のことばを使うのが当たり前のごとくに書いている。これは、漱石が東京の出身だからこのような小説の書き方ができているのだろう。

しかし、森鷗外はそうではない。鷗外にとって、東京のことばは、学習して覚えるべきものであったにちがいない。その面が、この『青年』という小説にも反映していると見るべきであろう。

以上の二点が、読んで思ったことなどである。

新潮文庫版の解説を書いているのは、高橋義孝。解説によると、『青年』は「教養小説」であるとのこと。そして、時間をかけて読まれるべき小説であるとある。なるほど、そう思ってみるならば、この『青年』という小説は、ストーリーの展開の面白さで読ませるという作品ではない。主人公である小泉純一によりそって、その人生をたどっていく作品である。

ただ、小説として面白いかどうかとなると、私の判断は微妙である。小説的な面白さという点では、『三四郎』の方が面白い。『青年』の魅力は、むしろ、その文章にあるといっていいだろう。端正な鷗外の文章で書かれた「教養小説」、そのなかには、鷗外の人生観、芸術観、世界観とでもいうべきものが凝縮されている。

起承転結のあるストーリーのある小説ではなく、「教養小説」として書かれた鷗外の文学として理解しておくべきかと思う。これは、再度、時間のあるときにさらに読みなおしてみたい作品である。

2020年5月24日記

『エール』あれこれ「紺碧の空」2020-05-24

2020-05-24 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第8週「紺碧の空」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_08.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年5月17日
『エール』あれこれ「夢の新婚生活」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/17/9247572

音楽家のドラマであるからといって、一つの曲のことをめぐって一週間が進行するという構成は、あまりないのかもしれない。この週は、「紺碧の空」の一週間であった。

ここで描いていたことは、次の二点だろうか。

第一に、裕一の作曲家としての気持ち。

西洋音楽には自信がある。音楽には、自分というものを出したいと思っている裕一。しかし、それでは、人が聞いてくれる音楽を書くことができない。人のもとめるものにこたえるのでなければ、作曲家としてやっていくことはできない。

このことに裕一はようやく気付くことになる。早稲田の応援部が、何をもとめているのか、その声に耳を傾けることで、曲を書くことができた。ここからが、作曲家としての再スタートということになるのだろう。

第二には、その裕一をささえる音。

いわゆる内助の功というのとはちょっと違うかもしれないが、裕一の作曲家としての姿勢をささえることになるのが、音であった。音自も音楽の道をあゆんでいる。だが、それと同時に裕一の妻である。その夫が音楽家として、何が必用であるのかを、一番分かっている。それを助けるのが、音の役割ということになるようだ。

以上の二点がドラマの展開のポイントかと思う。

ところで、私は、塾員であるので、「若き血」はよく知っている。だが、「紺碧の空」は、耳にしたことはあるが、はっきりいってよく知らないといってよかった。しかし、早稲田の学生、卒業生が、この曲にこめている思いというのは、伝わってくるものがある。それは、塾生、塾員が、「若き血」に感じるものと共通するところがあるのだろう。

ただ、こういう感覚というのは、慶應とか早稲田に学んだ経験のある人間にしか、分からないとこであるのかもしれない。が、この週の脚本は、この感覚の機微をたくみに捕らえていたように思える。

次週は、音楽家としての裕一の新たな展開があるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年5月23日記

追記 2020-05-31
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月31日
『エール』あれこれ「東京恋物語」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/31/9252509

オンライン授業あれこれ(その五)2020-05-23

2020-05-23 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月16日
オンライン授業あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/16/9247182

前期の間、オンライン授業ということになっている。これまでのことで思うことなど書いておく。京都などの緊急事態宣言は解除されたが、しかし、大学の通常の授業再開は、まだまだ先のことになるだろう。

第一には、やはり学生の興味関心、意欲といったものである。

最初に私の担当の科目(日本語史)をオンラインですすめるとの通知を出したのが、四月一六日のことである。履修登録が確定するのを待って、学生に、大学のLMS(Learning Management System)「学生ポータル」で通知した。

しかし、これを今にいたるまで見ていない学生が、一割以上もいる。大学からは、学生ポータルを見るようにと通知があったはずなのだが、それでも見ていない。これは、私にはどうしようもない。

そういえばであるば、これまでも、毎回の授業の教材プリントは、授業が終わったあとで、PDFにして、この学生ポータルにアップロードしてきた。しかし、これも、学生ポータルにおいてあります、と言っても、分かってくれない学生がいたりした。どうも、学生には、あまり認知されていないシステムなのかもしれない。

どのような形式でオンライン授業を行うかは、まず、これを見てくれないことにははじまらない。

また、リアルタイムの双方向通信(ZOOMやWebexなど)の方が、あるいは、学生の興味関心をひいたかもしれないとは思うところがないではない。しかし、私が、最初に方針を示した時点では、大学としては、ZOOMの導入の予定はなかった。その後、Webexの採用ということになった。また、学生への教材配布やレポート提出のシステムとして、C-Learning というのがあるのだが、これも、その時点では、簡単な選択肢のテストをするぐらいしか機能がそなわっていなかった。これも、その後、拡充されて、レポートや添付ファイルの送信ということができるようになった。

私が、オンライン授業の方針をどのようにするかを決めた時点(四月一六日)では、LMSによる教材配信と、電子メールによるレポート提出というのが、もっとも現実的であった選択だと、今になっても思う。

やはり、LMSによる、オンデマンドでの教材配布と、レポート提出というのは、PCなどの機材、インターネットへの通信環境という点での負担は、最も少なくてすむかもしれないが、学生の興味関心、意欲の持続という面からすると、逆にハードルの高いものであったかとも思う。

だが、これも、本当にやる気のある学生が取り組んでくれるということなら、本来の姿であるといえるのかもしれない。ただ、漫然と、大学に出てきて、時間割どおりに教室に座っている、というだけの学生生活から、一歩先んじて、自分で学ぶ意欲のある学生でないとついてこれない。これはこれで、意味のあることかもしれない。

第二には、レポートの送信である。

第一回のレポートの課題を出した。締切は二週間後としておいたのだが、早々と提出する学生がいる。しかし、これも見ていると、ルールを守っていない学生がいる。提出の絶対条件として、レポートの送信は、大学のシステムのメールをつかうようにと指示してある。プロバイダメールや、Gmailなどからのものは、受理しないとしてある。

だが、それにもかかわらず、指定した大学のシステム以外のメールで送ってくる学生がいる。私の提示したレポートの課題について、きちんと読んでいないのだろうか。あるいは、どのメールのシステムから送信しても、そんなことは、どうでもいいと思っているのだろうか。

学生の課題レポートの送信である。これは、大学のシステムのメールを使うのが、常識であると私は思っている。もし、学生が卒業して就職すれば、その就職先の企業のメールアカウントを使うことが必須になるだろう。すくなくとも、仕事のメールはそうであるにちがいない。これとは別に、個人のプライベートなメールアカウントを持っていることは、自由であるが、仕事には使うべきではないだろう。

このようなこと、学生のときに、きちんと習慣づけておく必用があると思って、大学のメールシステムからの送信を必須としている。そうでないものについては、再提出をもとめることにしている。

以上の二点が、今のところで思っていることなどである。

レポートの課題をしめしたメッセージをまだ読んでいない学生も、かなりいる。これは、私としては、もうどうしようもない。来週には、第一回のレポートの締切ということになる。いったいどれほどの学生が、きちんと提出してくれるかと思っている。

2020年5月22日記

追記 2020-05-30
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月30日
オンライン授業あれこれ(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/30/9252140

『戦争と平和』(六)トルストイ/岩波文庫(その二)2020-05-22

2020-05-22 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(6)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月21日
『戦争と平和』(六)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/21/9248933

『戦争と平和』の岩波文庫を読みながら、いくつか付箋をつけたところがある。そのうちの一つについて、書いておきたい。

第六冊目の、エピローグの第二編、p.361。ここに、「ギボンからバックルにいたるまで」とある。

このうちギボンは、『ローマ帝国衰亡史』をさして言っているのだと思う。

バックルである。私が、バックルの名前を知っているのは、福澤諭吉『文明論之概略』によってである。いや厳密には、『文明論之概略』のネタ本として知っていると言った方がいいだろうか。

ジャパンナレッジでバックルを見る。世界大百科事典には、『イギリス文明史』(1857-61)の著者として載っている。バックルの生没年は、1821~62である。

ちなみに、トルストイは、1828~1910である。『戦争と平和』が書かれたのは、1865~69。

ちょうど、『戦争と平和』が書かれたときは、バックルの没後まもなくのころであり、『イギリス文明史』の刊行から、それほど時間はたっていない。ほぼ、同時代の著作と言っていいことになろう。

おそらく、トルストイの生きていた時代、同時代のヨーロッパにおける高名な歴史家として、知られていたのかと思う。それを、福澤諭吉も読んだことになる。

なお、『文明論之概略』は、1875(明治8)である。

久々にバックルの名前を目にした。『文明論之概略』、あるいは、『「文明論之概略」を読む』(丸山眞男)を、読んでみたくなった。が、その前に、部屋の本を片づける必要があるのだが。

2020年5月21日記