『真田丸』におけるパトリオティズム2016-06-01

2016-06-01 當山日出夫

『真田丸』(NHKの今年度、2016の大河ドラマ)について、いささか。

今、舞台は、大坂城である。秀吉の馬廻衆としての、真田信繁が描かれる。ここで、私が気になっていること……それは、大坂編の前にはよく登場した、信州の真田の郷が、まったく登場しなくなっていることである。このドラマの初期のころ、毎回のように、真田の郷の、いかにも平和で牧歌的な風景がよく出ていた。それが、大坂編になってから、さっぱり見られない。

これは、どうしたことなのだろう。どのような意図があってのことなのだろうかと思って見ている。

「愛国心(ナショナリズム)」「愛郷心(パトリオティズム)」と、とりあえず言ってみよう。戦国時代から、ようやく、安土桃山時代である。まだ、国民国家としての日本は成立していない。であるならば、この当時の人々(特に、武士について考えてみれば)、「ナショナリズム」ではなく「パトリオティズム」というものを、想定して見ることは、無理でないかもしれない。

いや、戦国武将の実際はそうではないという、歴史学からの反論もあり得るとは思う。たとえそれがどこであれ、自分の領地として、勝ち取ったもの、安堵されたものであれば、そこを守るのが武士である、とすることもできよう。

しかし、ここで言いたいのは、ドラマの世界でのことである。このドラマにおいて、主人公・信繁にとって、真田の郷はどんな意味があるのであろうか。

現在の我々は、歴史の結果を知っている。信繁は死ぬ。真田の郷に帰ることはできない。

では、信繁は、いったい何のために死ぬのであろうか。平和な時代がおとずれて、再び、真田の郷で、のどかに暮らす将来を夢見てのことだろうか。それとも、豊臣家(秀頼や淀君)への忠誠心の故であろうか。

『真田丸』の特色の一つは、その歴史考証にある。たとえば、よく登場人物がつかうことば「国衆」。これは、基本的には、歴史学用語であると、私は理解して見ている。そして、「国衆」という概念でもって戦国時代を考えるようになったのは、歴史学でも近年のことに属する。

戦国武将のエトスとして、何が、死に向かわせるのであろうか。この疑問に、このドラマの歴史考証は、どのような答えを用意しているのであろうか。

ドラマがはじまって、ようやく半年ちかくになる。これから、いよいよ、関ヶ原の合戦、大坂の陣にむけて、時代は流れていく。一族の存亡、覇権の争奪、いろんな要素がからみあって、登場人物は動いていくであろう。このなかにあって、主人公・信繁の心情の底にあるもの……エトスと言っておく……これは、いったい何であるのか。

私の立場として、このドラマの最大の見所は、信繁のエトスをどんなものとして描くかにある。

と、ここまで書いたのが先週のことである。しばらくおいておいて、5月29日第22回「戦端」を見ると、これから、沼田の城をめぐっての攻防になるようだ。現代でいえば、さしずめ「領土ナショナリズム」といったところか。これもまた、戦国武将のエトスと言うべきなのであろうか。

あるいは、尖閣諸島とか竹島とかの領土問題をかかえている現在の日本にとって、「領土ナショナリズム」の方がわかりやすいのかもしれない。ともかく、次回が楽しみである。

宮下志朗『カラー版書物の歴史への扉』2016-05-31

2016-05-31 當山日出夫

本は好きな方である。そして、本についての本も好きである。これは、本好きの人間にとっては、魅力的な本である。

『図書』、これは言うまでもなく岩波書店の広報誌である。その図書の表紙を飾った書物について、カラー版として再編集して、一冊にまとめたもの。2008年から2014までのものがまとめてある。

宮下志朗.『カラー版書物の歴史への扉』.岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?head=y&isbn=ISBN4-00-061134

著者(宮下志朗)は、ルネサンス文学の研究者・翻訳者。みずから「どうしてもその時期の書物に偏りがちになる」としながらも、近現代の書物にまで、幅広くその目はおよんでいる。

と言っても、やはり西洋の書物が中心である。だが、見ると、中には日本の本もいれてある。

鈴木信太郎・渡辺一夫訳『サン・ヌゥヴェル・ヌゥヴェル――ふらんす百綺譚』
1949年、東京、洛陽書院刊

もあれば、

江戸川乱歩『押絵と旅する男』フランス語版
カリーヌ・シュノー訳、2000年、アルル、フィリップ・ビキエ刊

のような本もとりあげられている。

各本について、一ページの解説がついている。宮下志朗の本である。ただ、その本について言及するだけではなく、その周辺の出版史は無論のこと、文化史・社会史にまで、ひろく目配りの聞いた記述である。

このような本、どこからともなく、適当にページを開いて見るのが楽しい。(本自体は、全体として、テーマ別に編集してあるのだが。)

なお、上記の記事、とりあげてある書物の書誌の記載方法については、この本の方式にしたがって書いておいた。

対話とディベート2016-05-30

2016-05-30 當山日出夫

このことは、何かの本で読んだことである。でも、何の本で読んだか忘れてしまっている。それはそれとして、記憶に残っている(と私が思っている)範囲で書いてみる。

「対話」と「ディベート」である。

学生にプレゼンテーションを教えるときに、ちょっとだけではあるが話しをすることにしている。「対話とディベート、どう違うと思いますか?」、と。学生は、まず、何のことだかわからないという顔をする。

似ているが、これらは本質的に違っている。

ディベートは、自分がとった立場について、賛成でも反対でもかまわない。自分自身の意見とは、まったく別の立場を主張することもある。そして、ディベートにおいては、首尾一貫して、その主張を変えてはならない。言い換えるならば、相手の意見に影響されて変わるようなことがあってはならないのである。もちろん、最終的な判定で負けになれば失敗である。

ところが、対話はそうではない。対話を始める前と、終わった後とでは、自分が変わっていてもいい。いや、変わらなければならないのかもしれない。相手の意見に触発され、自分とは違った意見に耳をかたむけ、自分の考えを変えていってよい。そして、相手も自分も、対話の終わった後では、それぞれに別の考えに達することができるなら、それにこしたことはない。

だいたい、上記のように言う。そして、「君たちは、ディベートで勝ちたいと思いますか、それとも、対話で新たな自分を発見していきたいと思いますか?」、と問いかけることにしている。

ちょっとしたことだが、これについての学生の反応はいいようだ。それまで、ディベートとか、議論とか、プレゼンテーションとかについて、あまり、どういうことなのか考えたことがないせいもあるだろう。

ところで、いわゆるプレゼンテーションというのは、ディベートであろうか、対話であろうか。これは、なかなか難しい問題である。

学会発表のような場面、基本、自分の意見がぐらつくようなことがあってはならない。終始一貫して、同じ主張をつらぬかなければならない。この意味では、ディベートに近いだろう。

しかし、そうではないようなものもある。問題提起をしたいような発表。たとえば、この前(5月22日)の訓点語学会(京都大学文学部)における、石塚晴通の発表。これは、あきらかに、自分の主張を述べると同時に、これから、仮名の研究について、どのような視点がありうるかの問題提起でもあった。質疑応答において、「そのような考えもありますね」という趣旨の発言もあったかと記憶する。

そして、教育の場面では、どうあるべきだろうか。教える教師の立場からすれば、話の途中で意見が変わるようなことはあってはならないのが、原則だろう。しかし、学生同士が議論するようなときはどうだろうか。お互いに、その主張をゆずらず、平行線のままで終わるのがいいのか。それとも、異なる意見をぶつけることで、新たな知見を得るようにもっていくのがいいのか。

たぶん、場面によって判断しなければならないことだとは思う。だが、対話という姿勢のあり方……相手の言うことに耳をかたむけ、自省し、なぜ自分はこのように考えるのか、相手のように考えることがないのはどうしてなのか、みずから考えてみる……このようなこともあっていいのではなかろうか。そのような心の持ち方も、また、大切なものだと思っている。

米窪明美『明治天皇の一日』2016-05-29

2016-05-29 當山日出夫

米窪明美の本について、いささか。

米窪明美.『明治天皇の一日-皇室システムの伝統と現在-』(新潮新書).新潮社.2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/610170/


米窪明美.『明治宮殿のさんざめき』(文春文庫).文藝春秋.2013(原著.
2011.文藝春秋)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167838782

著者の経歴を見ると興味深い。まず、「学習院大学文学部国文科卒」。これは普通だろう。その次がすごい。「学習院女子中等科の非常勤講師として作法を教えている」。へえ、さすが学習院。「作法」なんてな授業があるんだと感心してしまう。それから、NHKの『坂の上の雲』の宮廷関係の歴史考証、とある。これは、さらにすごい。

NHKの『坂の上の雲』は、私は見ている。実をいえば、再放送をふくめて、おまけに録画して、何度も見ている。(残念ながら、テレビのHDの録画容量の関係で今では消してしまったのだが。)

『坂の上の雲』の宮中シーン……テレビを見ているときは、あんなものかなあと思ってみていた。強いて言えば、明治天皇がきわめて女性的なイメージで描いてあったのが印象的である。明治天皇といえば、その今に残る写真からして、武断的な印象がつよいのだが、それは、近代日本が必要とした天皇のイメージであるということになる。

さらに言えば、明治国家によって作られた明治天皇のイメージ……「武」の側面を強く前面におしだした……そして、昭和天皇のイメージ……白馬にまたがった大元帥としの姿……このようなイメージは、天皇・皇室の意思とは別に、近代日本国家によって「つくられた」ものでもある。

といって、筆者(米窪明美)は、政治史については、まったく語っていない。近代天皇制の政治的な方面については、触れてはいない。ただ、書いてあるのは、明治天皇の一日がどのようにすぎているか(『明治天皇の一日』)、あるいは、明治宮殿が一年にどんな行事をむかえていたか(『明治宮殿のさんざめき』)である。

だから、面白い。どんなところに寝ていて、いつ起きて、どんな食事をして、いつ仕事をして、どんな遊びがあって……日常のできごとを描いてある。しかし、想像ではない。あくまでも、歴史考証として、文献史料にのっとっての記述である。

たとえば、朝、天皇が目覚めると、「おひーる」「申しょー、おひるでおじゃーと、申させ給う」……と、伝言ゲームのように、次から次へと伝えていく。そして、御内儀(おないぎ)と表との区別。などなど、次々へと興味つきない話しの連続である。

そして、わかることは、明治の天皇制の、新しさと古さである。

言うまでもなく明治になるまで、天皇は京都にいた。それが、明治になって東京にうつって、旧江戸城を、皇居として住まいするようになる。それは、明治の近代国家日本のスタートと歩調をあわせてのものである。いや、そうではなく、明治国家が必要とした天皇のイメージに沿って、天皇のシステムも構築されていったと言った方がよいかもしれない。

しかし、その一方で、旧態依然として、京都の時代からの宮廷の作法・儀式を残している面もある。

これは、今上天皇の姿を見ても容易に想像がつく。テレビなどで目にする御公務などは、西洋式である。もちろん、天皇は、洋服を身にまとっている。皇后陛下、その他皇族方も同様である。

だが、宮中の儀式として、古来からの「伝統」を残しているところもある。私の世代なら、今上天皇の即位の礼の時を思い出す。あるいは、秋篠宮の結婚式のときの様子など。紀子様が、いわゆる十二単の衣装であったことを記憶している。

西洋式でありながら、同時に、平安時代を彷彿させるような「伝統的」な姿、これは、どのようにして形成されてきたものなのであろうか。

米窪明美の本(明治天皇について)は、政治関係のことは一切言及していない。しかし、だからこそと言ってよいであろうか、明治国家になってからどのような天皇が日本にとって必要であったのか、が浮き上がってくる。

近代国家日本、明治天皇、天皇制……このような論点については、様々な意見・立場あることは承知しているつもりである。この意味からは、近代天皇がどのように形成されてきたものなのか、天皇はいったい「日常で」何をしていたのか、これについて知っておくことは、議論をすすめるうえで、必要なことでもあろう。

著者(米窪明美)は、昭和天皇(その昭和20年)についても書いている。それについては、また改めて書いてみることにしよう。ともあれ、明治天皇についての本は、(少なくとも歴史に興味関心のあるひとにとっては)面白いものであると思う次第である。

池田健太郎訳『罪と罰』2016-05-28

2016-05-28 當山日出夫

文学とは文体である。ある意味、このように言うこともできよう。であるならば、海外文学の翻訳を読むのに、誰の翻訳で読むのがいいのか、ということになる。

ただ、翻訳には、誤訳がつきものである。それを指摘すれば、いろいろいえるのかもしれない。しかし、文学の翻訳についていえば、まず、何よりも文体の魅力である。それが無いと、まず読む気にならない。

無論、原文で読めればそれにこしたことはないのかもしれない。しかし、私の語学力では、もはや英語でさえも、原書を読むのにはおぼつかない。ましてやロシア語である。これは、もう翻訳にたよるしかない。

『罪と罰』である。

最近では、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳が著名だろう。

光文社古典新訳文庫版『罪と罰』
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334751685

この他、現在、普通に手にはいる本としては、

新潮文庫版(工藤精一郎訳)『罪と罰』
http://www.shinchosha.co.jp/book/201021/

岩波文庫版(江川卓訳)『罪と罰』
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/32/6/326135+.html

などがある。

だが、私は、断然、池田健太郎訳なのである。中公文庫版で、昔、読んだ。まだ、若かったころ。学生のころだったろうか。それまで、新潮文庫版、岩波文庫版も手にしてはいたように思うが、いまひとつ、しっくりこなかった。ところが、池田健太郎訳(中公文庫)である。これを読んで、いきなり、陰鬱なペテルブルグの世界に引き込まれてしまった。行間から、ペテルブルグの街の空気がただよってくるような感じだった。読んで、ああやっと『罪と罰』を読んだな、という気がした、そのように感じたことを今でも覚えている。

その中公文庫版も今は読めない。絶版。(家のなかを探せば、どこかで見つかるかもしれないのだが、もうあきらめるしかないのかな、と思っている。)

ところが、今は、WEBの時代。オンラインで、古書の検索・購入ができる。探してみると、中央公論社「世界の文学」のシリーズが見つかった。池田健太郎訳『罪と罰』である。(文庫版の、もとになったものである。)

値段は、「1円」(それに送料がかかる)。多少の送料がかかるといっても、電車に乗って古書店をめぐることを考えれば、オンラインで買ってしまった方が、はるかに手っ取り早い。

先日、注文しておいたのがとどいた。見ると、月報はないようだが、それ以外は、非常にきれいな本である。久しぶりに、池田健太郎訳の『罪と罰』が読める。これは、うれしい。

ところで、今、読んでいるのは、『カラマゾフの兄弟』(池田健太郎訳)。中公文庫版。これは、持っている古い本の中からみつかった。全5冊。見ると、奥付のところに、1984(昭和59年)の日付が、ペンで書き込んである。

『カラマゾフの兄弟』(あるいは、一般的には、長音「-」をいれて『カラマーゾフの兄弟』か)も、池田健太郎訳がいいと思う。ここしばらくは、ドストエフスキイ(この表記法も、池田健太郎の流儀)を読んで、読書の時間をつかいたいと思っている。

昔、若かったころに帰った気分で、本を読みたい。

なお、池田健太郎という人、WEB(ジャパンナレッジ)で見てみると、若くして亡くなってしまっているようだ。もうちょっと長生きしていれば、日本におけるロシア文学の受容に、大きな影響を与えたひとかもしれない。

バックル『文明史』2016-05-27

2016-05-27 當山日出夫

E・H・カー(清水幾太郎訳).『歴史とは何か』(岩波新書).岩波書店.1962
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/8/4130010.html

この本、1962年に初版の本であるが、2014年に83刷で改版している。私が読んでいるのは、84刷。厳密に言うならば、改版第2刷、とすべきであろう。

ところで、ここで書いておきたいのは、岩波新書の書誌のことではない。また、歴史・歴史哲学についてでもない。

カーの『歴史とは何か』(岩波新書)、読み返すのは数十年ぶりになるだろうか。一昨年あたりから、岩波新書のベストセラー、ロングセラーについて、活字を新しくして、きれいな印刷の本が出ている。これもその一冊。きれいになった本で、読み直してみたいと思って読んでいる。

(この本の内容……歴史とは何か……については、また別に書くことにして)読んでいた途中でおどろいたのは、バックル『文明史』がひかれていたことである。(p.82)

私がバックル『文明史』の名前を知っているのは、福澤諭吉『文明論之概略』のタネ本としてである。このことは、福澤研究でとっくに明らかになっていることなので、いまさら書くほどのことではない。

だが、私の世代の感覚からするならば、福澤諭吉『文明論之概略』は、はるか明治の昔の著作。歴史的存在といってよい。(とはいえ、現在の視点から『文明論之概略』を読んでも面白い。それは、たとえば、丸山真男『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)三巻を、読んでもわかることである。)

はるか昔のできごとと言ってしまうと悪いかもしれないが、そのように感じていた本がでてきている。それも、過去の事例としてではなく、ほぼ同時代の事例として。あるいは、西洋史にうとい私にとっては、バックルとは、ただ、福澤研究のなかで名前が出てくるだけの存在であった、知らなかった、ということなのかもしれないのだが。

考えてみれば、E・H・カーという人は、1892―1982、であると調べればわかる。(このことは、ジャパンナレッジの日本大百科全書による。)

順番にみると、

バックル  1821-1862
福澤諭吉  1834-1901
E・H・カー 1892―1982
清水幾太郎 1907―1988

となる。

そして、カー『歴史とは何か』を読んでみると、マルクス(1818-1883)や、ウェーバー(1864-1920)が、歴史的な人物というよりも、同時代か、ちょっと前の歴史家という感じで、言及されている。見てみると、バックルとマルクスは、ほぼ同時代の人である。

現在とちがって、歴史のあゆみももうちょっとゆっくりしたものであったろう。この意味では、バックルへの言及も、その当時よりすこし前の歴史家として引用してあるという感じだろうか。『歴史とは何か』を読めばわかるように、20世紀になって書かれたこの本は、19世紀をほぼ同時代か、それより、少し前の時代のこととしてあつかっている。

私にとって、歴史的知識であったバックルが、カーと清水幾太郎を介して、福澤諭吉の時代を経て、今につながったことになる。これは、これで、新鮮なおどろきである。

無論、こんなことは、むかし『歴史とは何か』(旧版の岩波新書)を読んだ若いときには、思ってもみなかった。本を読むことのたのしみとは、このような発見にあるといえるかもしれない。

わかりやすいプレゼンテーション2016-05-26

2016-05-26 當山日出夫

大学の情報処理の授業で、プレゼンテーションの練習をしている。実際には、パワーポイントのスライドの作り方である。だが、それだけではつまらないので、実際に学生にやらせる。教室でスライドを見せて、教室のみんなの前にたってプレゼンテーションをやってもらう。実習である。

この授業、プレゼンテーションの授業であるが、「巧みなプレゼンテーション」「上手なプレゼンテーション」には、あまり重きをおかないでいる。そうではなく、「わかりやすいプレゼンテーション」「ユニバーサルデザインのプレゼンテーション」という方向をめざしたいと思っている。これらは、似ているが、ちょっと方向性が違う。

「上手なプレゼンテーション」というと、巧みな話術とか、スライドのアニメーションとかに、目がいってしまう。そうではない、多少はつたなくてもいいから、相手に自分の言わんとしていることが十分につたわる、ということを重視したい。

そこで、考える点、留意する点は、次の二つである。

第一に、「話すこと」と「見ること」が一致しているように。スライドで、見せることがら(その多くは文字で書いてある)、それは、基本的に読み上げて示すようにする。音声化してつたえる。よくあるように、「見て御覧のように~~」としてはいけない。また、逆に、スライドに書いていないことを、延々としゃべるようなこともしてはいけない。

原則、一つのスライドで、一つのこと(事実・意見)をしめす。それを文字でも書いておく。そして、それを、音声でもつたえる。そして、これ以上のことをしゃべってはいけない。

人は、五感をつかって、プレゼンテーション・発表をきいている。これは、パワーポイントをつかった場合に限らない。ただ、紙のレジュメを読み上げる方式で発表するときでも、同じことである。「目」からの情報と、「耳」からの情報に、齟齬がないようにしておく。

当たり前のことのように思えるが、これが以外と難しい。そして、これを実践すると、非常に「わかりやすい」プレゼンテーションになる。

もちろん、その前提として、プレゼンテーション全体の構成がきちんと考えられていないといけない、ということはある。しかし、上記のような、「見ること」「聞くこと」を一致させて説明しようと心がけて資料(スライドなど)を準備すると、自ずと、構成のしっかりしたものになる。

第二に、「ユニバーサルデザイン」に配慮しなさい、ということである。特に、「カラーユニバーサルデザイン」について。このことについては、以前、このブログでも触れたことがあるかと思う。

男性の2~5%は、なんらかの色覚異常の症状がある。これらの人にとっても、見やすい、見てわかりやすい、デザイン・配色を考えなさいと、言ってある。

紹介してあるHPは、

色盲の人にもわかるバリアフリープレゼンテーション法
https://www.nig.ac.jp/color/

カラーユニバーサルデザイン機構(CUDO)
http://www.cudo.jp/

である。これらのHPの記載を参考にしなさいと言っておく。

なお、ユニバーサルデザインコンソーシアム(UDC)
http://www.universal-design.co.jp/

についても、紹介はしておく。

以上の、二点をふまえておけば、「わかりやすいプレゼンテーション」ということになるだろうと思っている。

もちろん、世の中には、パワーポイントなど使わないという人もいるし、使わないのが当たり前という学会・研究会もあったりする。しかし、それでも、目で見る資料(レジュメ)と、話している内容とが一致するようにということは、当てはまると思う。

だが、これは、スライド(資料)を読み上げればよい、ということではない。あくまでも、自分のことばで表現するように、これを忘れてはならない。自分のことばで語ってこそ、相手の心に、自分の思いがつたわるのである。

第114回の訓点語学会2016-05-24

2016-05-24 當山日出夫

5月22日は、京都大学文学部で、第114回の訓点語学会。このごろ、日本語学会の方はさぼりぎみであるが(会費は、はらってはいるが)、訓点語学会だけは、出るようにしている。

会員数は減少傾向にあるらしい。それでも、400名ちかくの会員がいる。学会としては、小規模な方だろうが、研究発表会に出席する立場としては、これぐらいの規模の学会がちょうどいい。

規模が大きくなりすぎると、研究発表会の会場が分かれてしまうことがある。それに懇親会に出ても、人が多すぎて、困惑する。

で、今回の訓点語学会であるが……私個人の興味としては、なかなか興味深かった。特に文字(漢字・仮名)についての発表があった。

最初の発表、略字「仏」の使用拡大と位相(菊地恵太)。
文字(漢字)についていえば、文字の「位相」というのをどう考えるかという論点がある。この点については、すでに、笹原宏之の研究がある。今回の発表についてみるならば、質疑の時にも指摘されていた観点として、漢字が使用されるとき、仏教語として使われているのか、あるいは、そうではない、漢籍の中で使われているのか、これを考えてみないといけないだろう。そのうえで、漢字の字体の異同を考えることになる。

それから、字体と字種との区別から見た篆隷万象名義の重出字(李媛)。
同じ漢字とは何か、という観点。字書のデータベースを作って、同じ文字コード(ユニコード)になる字、という方向で「同じ字」(重複字)を定義していた。これに対して、私が質問したのは、「たとえば、IDSで同じ記述ができる文字を同じと認定することはできないか。さらには、同じ文字コードになる、同じIDSになるといっても、それだけで、同じ漢字が認定できないならば、何か超越的な観点を導入して、この文字とこの文字は同じである/ちがう、という判断をくだすことになるのではないか」と、言ってみた。

最後の仮名の字体について。階層構造としての仮名字体(石塚晴通)。
これは、発表というよりも、問題提起として理解しておいた方がいいだろう。漢字については、書体・字体・字形・字種、といった議論、あるいは、定義が可能である。では、仮名(平仮名・片仮名)については、どうであろうか。漢字と同じように、書体・字体というような階層構造の定義ができるであろうか。

この論点については、これから、私自身、いろいろと考えていかなければならない課題であると思っている。考えたこと、ある程度まとまりそうなら、順次、このブログでも書いていってみたいと思っている。

『歴史学ってなんだ?』2016-05-23

2016-05-23 當山日出夫

小田中直樹.『歴史学ってなんだ?』(PHP新書).PHP研究所.2004

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-63269-8

いわば、歴史哲学の入門といってよいであろうか。

この本を知ったのは、

野家啓一.『歴史を哲学する-七日間の集中講義-』(岩波現代文庫).岩波書店.2016

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/0/6003420.html

で、参考文献にあがっていたからである。

大学で歴史学を学んでいる学生を相手にして、歴史学の意味とは、歴史的事実とは、などについて語ってある。いわゆる言語学的転回を経たのちの歴史学は、構成されたものとしての歴史を記述することになる。言い換えれば、神の視点からみた客観的な事実としての歴史は存在しないと考える、まあ、このようになるだろう。これについては、『歴史を哲学する』(野家啓一)で詳しく書いてある。

それよりも、この『歴史学ってなんだ?』の面白さは、歴史哲学の本でありながらも、一方で歴史研究の面白さを語ってくれているところにある、といってよいだろう。

『ローマ人の物語』(塩野七生)をとりあげて、歴史学と歴小説の違いについて分析を加えていくあたりは、なるほどと思わせるところがある。いろいろ比較してみると、歴史学と歴史小説の間にはそう大きな違いはなさそうである……としたうえで、歴史学は「根拠を問いつづける」ところのその存在意義があるとする。つまり、史料批判をふまえているか、そして、そのプロセスが論文とし記述してあるか、ということになると私は理解する。

それよりも、この本についていえば、歴史学は何の役にたつのか、問いかけていることである。

最近、いわゆる国立大学を中心として、文系学部の再編・縮小をめぐるうごきがある。これについては、すでにいくつかの本がでている。が、この本は、今から10年以上前の本であるので、大学の危機、人文学の危機は、一部で言われていたにせよ、制度的な大学の再編にまでおよんではいない時期のものである。その時期に書かれたものとして読んでみても、なぜ歴史学は役にたつのか、という問いかけと、それをめぐる思考は、説得力がある。

ただ面白ければいい、あるいは、ひらきなおっって、役にたたないことに意義がある、とは著者は言っていない。何か、社会の役にたつ道筋を見いだそうとしている。

たとえば網野善彦の仕事。「日本人」とは何であるか、日本列島に住んできた人々の歴史はどうであったか、を問いかけるものである。この意味では、現在の「日本」において、そのアイデンティティを問いかける、実に現実的な問題意識をはらむものである、と指摘する。

『歴史学ってなんだ?』は、ブックガイドとしてもすぐれている。巻末の参考文献にあげてある本を、ちょっとひいてみる。最初から5冊しめすと、

浅羽通明.『大学で何を学ぶか』
東浩紀.『動物化するポストモダン』
網野善彦.『無縁・苦界・楽』
網野善彦.『日本社会の歴史』
池上俊一.『動物裁判』

などである。大学の学生にとって、歴史学をめぐってどんな本を読めばいいのか、迷っているような時に、かっこうのガイドになる。

私もこの本を読んで、

良知力.『青きドナウの乱痴気』
松田英二ほか.『新書アフリカ史』

など読みたくなった。

歴史哲学、物語としての歴史……このあたりのことについては、改めて考えて書いてみることにする。

『現代思想の遭難者たち』2016-05-22

2016-05-22 當山日出夫

いろんなマンガが文庫になっているが、この本もついに文庫になったか、しかも、講談社学術文庫。

いしいひさいち.『現代思想の遭難者たち』(講談社学術文庫).講談社.2016

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923644&_ga=1.201477649.1867401113.1463871198

この本、かなり売れているらしい。もとは、講談社の『現代思想の冒険者たち』の月報に掲載のマンガを編集したものである。

読んでみて……面白い……しかし、よくわからない……でも、やっぱり面白いと、いったところであろうか。

いわゆる「現代思想」については、汗牛充棟の書物がある。そして、難解であるというイメージがつきまとう。実は、私としても、苦手な方である。といって、興味がないわけではない。なんとか、わかりたいとは思っている。そんなときに、この本を、パラパラとひろい読みしてみると、う~ん、なるほどなあ、と思ったり、思わず笑ってしまったり、である。

ところで、構造主義もあつかわれている。レヴィ・ストロースは登場する。だが、ソシュールは出てきていない。言語研究のはしくれで仕事をしている人間としては、このあたりちょっと物足りない気もしないではない。

だが、そんなことは気にすることはないのであろう。読んで、おもしろければそれでいいのである。その解釈・解説がどうのこうのというのは、野暮というものであろう。

ところで、現代思想といえば、こちらも言及しておかねばならないだろう。

船木亨.『現代思想史入門』(ちくま新書).筑摩書房.2016

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068828/

こちらは、地図、というか、見取り図のようなものを、つくってくれる本である。

このような本『源田思想の冒険者たち』『現代思想史入門』、楽しんで読めばいいと思っている。いまさら、現代思想研究に何か発言しようとは思わない。でも、ちょっと気になっている。そんなとき、あの人はこんなことを言っているのか、そのイメージができればいいのだと思う。