ETV特集「密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜」 ― 2025-05-17
2025年5月17日 當山日出夫
ETV特集 密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜
この文章を書こうとして、NHKのHPを見てみた。番組のタイトルの確認のため、いつもしていることである。簡単な番組紹介の文章が載っているのだが、そこに、
「自分らしい」生き方とは
とあったのだが……これは、どうなのだろうか。番組のタイトルにも、「自分を探す」とある。私の考えることとしては、このような遍路を旅しようと思っている人に対して、一番言ってはいけないことばであるように思うのだが。
医者の家に生まれたから医者にならなくてもいい。これはいいだろう。だが、さらに、これについて、自分は自分らしくあらななければならない、というのは、結果的には逆転した脅迫観念になりかねない。決められたレールの上をあゆむ人生が苦痛かもしれないが、しかし、自分で自分の道を決めなければならないというのも、また(人によっては)さらなる苦痛である。
自分なんか探さなくてもいいよ、と思うけれど、それではいけないのだろうか。この世の中のどこかに自分の居場所があるはず、というも、一つの思い込みであり、場合によっては、それが人を追いつめることにもなりかねない。
別に家族や世間からどう思われようと……そこには、人間にはそれぞれの個性があり、それに従って自分らしく生きるべきだという考え方をふくむ……無為徒食に生きているのであっても、それはそれでいいのではないか。無芸大食といわれようと、かまわない。(まあ、少なくとも犯罪さえ起こさなければ、というぐらいの限定はつけてもいいかもしれないが。)
働かざる者、食うべからず……とはいうけれど、中には、働かない働きアリがいてもいいだろうし、人間の社会の全体というのは、そういう部分をふくむものであるはずだろう。(そんなにたくさんでなければ、ということにはなるけれど。)
私が、高村逸枝の『娘巡礼記』を読んだのは、学生のときだった。今から半世紀ほど前のことである。たしか、朝日選書だったと思う。今では、岩波文庫版が普通のテキストになる。これを読んで憶えていることは、高村逸枝が、四国巡礼をしたとき、それはほとんど乞食であり、社会からの逸脱者であった、という時代であったことである。
たまたまのことだが、四国のあるところに住む人の話を聞くことがあったのだが、これも今から数十年前の話で、そのときに、もう老人といっていい人だったから、今からかなり昔のことになるのだが……四国遍路を旅する人のことを、あからさまに、侮蔑、差別、軽蔑のことばで語っていたのを、記憶している。
一方で、宮本常一の『忘れられた日本人』などに描かれたような、前近代の人びとの心性も考えてみることになる。旅に生きる人びとがいた時代でもあった。
四国遍路についての考え方も、時代によって変わってきていることは確かである。
民俗学的、宗教的な観点から見るならば、選ばれた巡礼寺院は、それぞれ、どのような歴史があるのだろうか。もともと、なにがしかの霊場というところであって、そこを巡るシステムとして、八十八箇所の巡礼が整備されていったということになるだろう。(おそらく、このことは、研究されていることにちがいないが。)
私が行ったことのある巡礼寺院の一つに、石手寺がある。ここは、本堂の背後の山の中をぐるりと通り抜けるトンネルがある。いわゆる胎内くぐりであり、トンネルをとおって擬似的に別世界に行って(強いていえば死の世界)、またこの世に帰ってくることになっている。こういうところが、霊場になっていたことは、理解できることである。
この番組を見ていいなと思ったことは、巡礼の旅に出た若者たちの一行から、脱落する人を描いていたことである。これは、巡礼を達成するという目的はあったとしても、そこからはずれることはあってもいいのだ、というメッセージになっている。八十八箇所をめぐることは、とりあえずの目標であったかもしれないが、それが束縛と感じられることがあってはならない。こういう自由こそ、むしろ重要である。
しかし、番組を見ていて思ったことであるが、四国遍路をテレビで映すとなると、どうしても、『砂の器』のイメージに重ねて映像を作ってしまうことになっていると、感じた。このイメージから脱却することも大事だと思うのだけれど。
2025年5月16日記
ETV特集 密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜
この文章を書こうとして、NHKのHPを見てみた。番組のタイトルの確認のため、いつもしていることである。簡単な番組紹介の文章が載っているのだが、そこに、
「自分らしい」生き方とは
とあったのだが……これは、どうなのだろうか。番組のタイトルにも、「自分を探す」とある。私の考えることとしては、このような遍路を旅しようと思っている人に対して、一番言ってはいけないことばであるように思うのだが。
医者の家に生まれたから医者にならなくてもいい。これはいいだろう。だが、さらに、これについて、自分は自分らしくあらななければならない、というのは、結果的には逆転した脅迫観念になりかねない。決められたレールの上をあゆむ人生が苦痛かもしれないが、しかし、自分で自分の道を決めなければならないというのも、また(人によっては)さらなる苦痛である。
自分なんか探さなくてもいいよ、と思うけれど、それではいけないのだろうか。この世の中のどこかに自分の居場所があるはず、というも、一つの思い込みであり、場合によっては、それが人を追いつめることにもなりかねない。
別に家族や世間からどう思われようと……そこには、人間にはそれぞれの個性があり、それに従って自分らしく生きるべきだという考え方をふくむ……無為徒食に生きているのであっても、それはそれでいいのではないか。無芸大食といわれようと、かまわない。(まあ、少なくとも犯罪さえ起こさなければ、というぐらいの限定はつけてもいいかもしれないが。)
働かざる者、食うべからず……とはいうけれど、中には、働かない働きアリがいてもいいだろうし、人間の社会の全体というのは、そういう部分をふくむものであるはずだろう。(そんなにたくさんでなければ、ということにはなるけれど。)
私が、高村逸枝の『娘巡礼記』を読んだのは、学生のときだった。今から半世紀ほど前のことである。たしか、朝日選書だったと思う。今では、岩波文庫版が普通のテキストになる。これを読んで憶えていることは、高村逸枝が、四国巡礼をしたとき、それはほとんど乞食であり、社会からの逸脱者であった、という時代であったことである。
たまたまのことだが、四国のあるところに住む人の話を聞くことがあったのだが、これも今から数十年前の話で、そのときに、もう老人といっていい人だったから、今からかなり昔のことになるのだが……四国遍路を旅する人のことを、あからさまに、侮蔑、差別、軽蔑のことばで語っていたのを、記憶している。
一方で、宮本常一の『忘れられた日本人』などに描かれたような、前近代の人びとの心性も考えてみることになる。旅に生きる人びとがいた時代でもあった。
四国遍路についての考え方も、時代によって変わってきていることは確かである。
民俗学的、宗教的な観点から見るならば、選ばれた巡礼寺院は、それぞれ、どのような歴史があるのだろうか。もともと、なにがしかの霊場というところであって、そこを巡るシステムとして、八十八箇所の巡礼が整備されていったということになるだろう。(おそらく、このことは、研究されていることにちがいないが。)
私が行ったことのある巡礼寺院の一つに、石手寺がある。ここは、本堂の背後の山の中をぐるりと通り抜けるトンネルがある。いわゆる胎内くぐりであり、トンネルをとおって擬似的に別世界に行って(強いていえば死の世界)、またこの世に帰ってくることになっている。こういうところが、霊場になっていたことは、理解できることである。
この番組を見ていいなと思ったことは、巡礼の旅に出た若者たちの一行から、脱落する人を描いていたことである。これは、巡礼を達成するという目的はあったとしても、そこからはずれることはあってもいいのだ、というメッセージになっている。八十八箇所をめぐることは、とりあえずの目標であったかもしれないが、それが束縛と感じられることがあってはならない。こういう自由こそ、むしろ重要である。
しかし、番組を見ていて思ったことであるが、四国遍路をテレビで映すとなると、どうしても、『砂の器』のイメージに重ねて映像を作ってしまうことになっていると、感じた。このイメージから脱却することも大事だと思うのだけれど。
2025年5月16日記
ダークサイドミステリー「黄金時代の怪奇文学!名作の秘密に迫る ドラキュラ!タイム・マシン!ジキルとハイド!」 ― 2025-05-17
2025年5月17日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 黄金時代の怪奇文学!名作の秘密に迫る ドラキュラ!タイム・マシン!ジキルとハイド!
『ドラキュラ』『タイム・マシン』『ジキルとハイド』であるが、このうち『ジキルとハイド』は、たしか読んだことがある。たしか新潮文庫版だったと憶えている。見てみると、他に日本語訳としては、岩波文庫版、光文社古典新訳文庫版、などがある。『タイム・マシン』も『ドラキュラ』も、新しい翻訳がある。
イギリスのビクトリア女王時代というと、私などは、シャーロック・ホームズを思い出すし、夏目漱石のロンドン留学を思うことになる。この時代に、人間の闇の部分というべきところを描いた作品が書かれ、それが現代まで読み継がれていることは、興味深い。また、切り裂きジャックの時代でもあった。
この時代、出版文化史的には、新しい都市部における読者層が広がりつつあった時代ということになるかと思っている。「シャーロック・ホームズ」などは、まさにこの時代の新しい読者層に受け入れられた作品である。この番組であつかっていた『ドラキュラ』『タイム・マシン』『ジキルとハイド』は、どういう読者層に読まれたものだったのだろうか、この時代の英国の社会の構造……階級のあり方といってもいいだろうが……と、出版史、読書史、という観点から、説明があるとよかったと思う。
『ドラキュラ』というと、ルーマニアぐらいしか思いうかばない。それほど予備知識がない。おそらく、この小説が書かれる以前に、「吸血鬼」をめぐる物語のいいつたえはあったのだろうが、どうだったのだろうか。そして、「ドラキュラ」の物語は、現代のいろんなところに影響が及んでいる。「吸血鬼」をモチーフにした、現代の小説やドラマなど、たくさんある。
『タイム・マシン』は、いまでこそ当たり前のように考えることであるが……番組のなかで言及していた『ドラえもん』もうそうだし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』もそうだし、他にもたくさんある……はじめてこれを考えついたウェルズは、すごいというべきだろう。そして、その描き出した未来の人間の姿は、こういうことをその当時に考えていたかと思うと、これもすごいことだと思う。
『ジキルとハイド』は、善と悪という対立ではなく、普通の人間のなかに存在している悪の部分、これが顕在化したときどうなるか、ということになる。
ダーウィンの『種の起源』について出てきたが、この本の影響は、生物学だけではなく、むしろ、文化史的、社会思想史的に、非常に大きなものがある。狭い範囲で、生物学の理論として見るだけではなく、その広範囲な影響を考えるべきだろう。日本では、この『進化論』の受容はどうだったのだろうか。私の知っている範囲だと、たしか内村鑑三は、この本のことをとても高く評価していたはずである。一方、今でも、アメリカの一部では、進化論を学校で教えてはいけない、という声が残っている。
ビクトリア女王の時代がどんな時代で、その時代だったからこそ生まれた文学作品ということになるのかとも思う。このことについては、さらに深く考える番組があっていいと思う。
ここで出てきた作品は、今では、新しい翻訳で読むことができる。Kindle版もあるので、読んでおきたいと思う。
2025年5月15日記
ダークサイドミステリー 黄金時代の怪奇文学!名作の秘密に迫る ドラキュラ!タイム・マシン!ジキルとハイド!
『ドラキュラ』『タイム・マシン』『ジキルとハイド』であるが、このうち『ジキルとハイド』は、たしか読んだことがある。たしか新潮文庫版だったと憶えている。見てみると、他に日本語訳としては、岩波文庫版、光文社古典新訳文庫版、などがある。『タイム・マシン』も『ドラキュラ』も、新しい翻訳がある。
イギリスのビクトリア女王時代というと、私などは、シャーロック・ホームズを思い出すし、夏目漱石のロンドン留学を思うことになる。この時代に、人間の闇の部分というべきところを描いた作品が書かれ、それが現代まで読み継がれていることは、興味深い。また、切り裂きジャックの時代でもあった。
この時代、出版文化史的には、新しい都市部における読者層が広がりつつあった時代ということになるかと思っている。「シャーロック・ホームズ」などは、まさにこの時代の新しい読者層に受け入れられた作品である。この番組であつかっていた『ドラキュラ』『タイム・マシン』『ジキルとハイド』は、どういう読者層に読まれたものだったのだろうか、この時代の英国の社会の構造……階級のあり方といってもいいだろうが……と、出版史、読書史、という観点から、説明があるとよかったと思う。
『ドラキュラ』というと、ルーマニアぐらいしか思いうかばない。それほど予備知識がない。おそらく、この小説が書かれる以前に、「吸血鬼」をめぐる物語のいいつたえはあったのだろうが、どうだったのだろうか。そして、「ドラキュラ」の物語は、現代のいろんなところに影響が及んでいる。「吸血鬼」をモチーフにした、現代の小説やドラマなど、たくさんある。
『タイム・マシン』は、いまでこそ当たり前のように考えることであるが……番組のなかで言及していた『ドラえもん』もうそうだし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』もそうだし、他にもたくさんある……はじめてこれを考えついたウェルズは、すごいというべきだろう。そして、その描き出した未来の人間の姿は、こういうことをその当時に考えていたかと思うと、これもすごいことだと思う。
『ジキルとハイド』は、善と悪という対立ではなく、普通の人間のなかに存在している悪の部分、これが顕在化したときどうなるか、ということになる。
ダーウィンの『種の起源』について出てきたが、この本の影響は、生物学だけではなく、むしろ、文化史的、社会思想史的に、非常に大きなものがある。狭い範囲で、生物学の理論として見るだけではなく、その広範囲な影響を考えるべきだろう。日本では、この『進化論』の受容はどうだったのだろうか。私の知っている範囲だと、たしか内村鑑三は、この本のことをとても高く評価していたはずである。一方、今でも、アメリカの一部では、進化論を学校で教えてはいけない、という声が残っている。
ビクトリア女王の時代がどんな時代で、その時代だったからこそ生まれた文学作品ということになるのかとも思う。このことについては、さらに深く考える番組があっていいと思う。
ここで出てきた作品は、今では、新しい翻訳で読むことができる。Kindle版もあるので、読んでおきたいと思う。
2025年5月15日記
心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー) ― 2025-05-17
2025年5月17日 2025年5月16日 當山日出夫
心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー)
録画してあったのをようやく見た。
鈴木敏夫の名前は知っている。しかし、どんな人物であるかは、あまり気にしたことがなかった。
私より少し上の年代になる。ちょうど、学生運動(70年安保)の時代に学生だったことになるだろう。この時代に学生時代を過ごしているとすると、読む人は、かなりたくさんの本を読んでいたはずである。なにせ、ろくに大学の授業などはなかった時代である。その数年後に、私は、同じ慶應義塾大学の文学部で勉強したことになるが、その時代でも、あまり授業に拘束されることなく本を読むことのできた時代である。(今は、どうだろうか。)
出てきていたのは、マンションの部屋を、それぞれに書庫にしてあるという非常に贅沢な本の所有のしかた。これだけ本があれば、東京都内なら、普通は、可動式書庫などを作ることが多いと思う。しかし、この場合は、本をすべて背表紙の見える状態で並べてある。これは、とても贅沢なことである。無論、各部屋のインテリアとかも贅沢だと感じるところがあるが、それよりも何より、本の背表紙が一覧できる状態というのは、本を持っている人間にとってのあこがれである。
出てきた本について思うことはいくつかある。
『大菩薩峠』(中里介山)は、たしか日本で最も長い小説だったはずである。ただし、未完である。この作品、大学の一年のとき(日吉の教養のとき)、読んでみようと挑戦したことがある。この時代の大学の図書館は、まだ、貸出カード式だったのだ、誰が借りたか、カードを見ると分かるようになっていた。日吉の図書館にあった、『大菩薩峠』は、誰かが全巻読破していたことが、そのカードに記された名前から分かった。ただ、私の場合、全巻読もうとこころみたが、途中で挫折してしまったのであるが。これを、今からもう一度読みなおしてみようとは思わない。だが、『大菩薩峠』は、特にその文体の特徴も重要だし、机竜之介という主人公の造形についても、日本文学史としては、研究しなければならない作品であると思っている。まだ、私の世代だと、盲目の剣士としての机竜之介ということは、その作品を読んでいなくても知っていることになるかと思う。
加藤周一は、あまり読んでいない。『日本文学史序説』『羊の歌』ぐらいは、読んだ本であるが。明晰な知性は感じるのだが、いや、それだけに、いまひとつ読む本のなかにふくめないできた。
『忘れられた日本人』は、私の学生のころ、つまり、鈴木敏夫より少しあとのころになるが、これは、学生なら普通に読んでいて当たり前の本だった。これを読んでいなくて、宮崎駿に馬鹿にされたというエピソードは、この時代ならではのものである。この本で描かれた、前近代の日本の心性、生活の感覚、ということは、加藤周一に代表されるような、近代的な知性と並行して、つい最近まで、日本の社会のなかにあったことである。(余計なことではあるが、『遠野物語』は、前近代の日本人の心性をたどるための最高の作品であると思っている。)
本棚にある本で目についたのが、本多勝一。やはり鈴木敏夫ぐらいの世代だと……その延長に近いところに私もいることになるが……本多勝一は、読んでおくべき人の一人であった。(もう、今では、あまり読まれない人になってしまったかと思うけれど。)
堀田善衛は、できれば読みなおしてみた作品がいくつかある。特に『方丈記私記』は、若いときに読んだ本であるが、今になって読むとどう感じるだろうか。
2025年5月15日記
心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー)
録画してあったのをようやく見た。
鈴木敏夫の名前は知っている。しかし、どんな人物であるかは、あまり気にしたことがなかった。
私より少し上の年代になる。ちょうど、学生運動(70年安保)の時代に学生だったことになるだろう。この時代に学生時代を過ごしているとすると、読む人は、かなりたくさんの本を読んでいたはずである。なにせ、ろくに大学の授業などはなかった時代である。その数年後に、私は、同じ慶應義塾大学の文学部で勉強したことになるが、その時代でも、あまり授業に拘束されることなく本を読むことのできた時代である。(今は、どうだろうか。)
出てきていたのは、マンションの部屋を、それぞれに書庫にしてあるという非常に贅沢な本の所有のしかた。これだけ本があれば、東京都内なら、普通は、可動式書庫などを作ることが多いと思う。しかし、この場合は、本をすべて背表紙の見える状態で並べてある。これは、とても贅沢なことである。無論、各部屋のインテリアとかも贅沢だと感じるところがあるが、それよりも何より、本の背表紙が一覧できる状態というのは、本を持っている人間にとってのあこがれである。
出てきた本について思うことはいくつかある。
『大菩薩峠』(中里介山)は、たしか日本で最も長い小説だったはずである。ただし、未完である。この作品、大学の一年のとき(日吉の教養のとき)、読んでみようと挑戦したことがある。この時代の大学の図書館は、まだ、貸出カード式だったのだ、誰が借りたか、カードを見ると分かるようになっていた。日吉の図書館にあった、『大菩薩峠』は、誰かが全巻読破していたことが、そのカードに記された名前から分かった。ただ、私の場合、全巻読もうとこころみたが、途中で挫折してしまったのであるが。これを、今からもう一度読みなおしてみようとは思わない。だが、『大菩薩峠』は、特にその文体の特徴も重要だし、机竜之介という主人公の造形についても、日本文学史としては、研究しなければならない作品であると思っている。まだ、私の世代だと、盲目の剣士としての机竜之介ということは、その作品を読んでいなくても知っていることになるかと思う。
加藤周一は、あまり読んでいない。『日本文学史序説』『羊の歌』ぐらいは、読んだ本であるが。明晰な知性は感じるのだが、いや、それだけに、いまひとつ読む本のなかにふくめないできた。
『忘れられた日本人』は、私の学生のころ、つまり、鈴木敏夫より少しあとのころになるが、これは、学生なら普通に読んでいて当たり前の本だった。これを読んでいなくて、宮崎駿に馬鹿にされたというエピソードは、この時代ならではのものである。この本で描かれた、前近代の日本の心性、生活の感覚、ということは、加藤周一に代表されるような、近代的な知性と並行して、つい最近まで、日本の社会のなかにあったことである。(余計なことではあるが、『遠野物語』は、前近代の日本人の心性をたどるための最高の作品であると思っている。)
本棚にある本で目についたのが、本多勝一。やはり鈴木敏夫ぐらいの世代だと……その延長に近いところに私もいることになるが……本多勝一は、読んでおくべき人の一人であった。(もう、今では、あまり読まれない人になってしまったかと思うけれど。)
堀田善衛は、できれば読みなおしてみた作品がいくつかある。特に『方丈記私記』は、若いときに読んだ本であるが、今になって読むとどう感じるだろうか。
2025年5月15日記
BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」 ― 2025-05-16
2025年5月16日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」
2024年、イギリスの制作。
アメリカのトランプ大統領が、グリーンランドを自国のものにしたいと言ったとき、日本の、特に、反トランプの立場をとるいわゆるリベラルよりの人たちは、馬鹿げた誇大妄想として、ほとんどとりあわなかった。しかし、これが、北極海の覇権をめぐる争いに、これからアメリカはプレゼンスを増す方針である、その表明である(確かに言い方は粗雑ではあったが)と、理解した人がどれぐらいいただろうか。
どこに書いたか忘れてしまったが、このとき私は、このように書いたのを憶えている。トランプ大統領の発言に、デンマークの首相は、即座に拒否する姿勢を見せず、それは、グリーンランドの人びとの決めることだ、という意味のことを言った。これは、グリーンランドの北極海の地政学的な重要性を理解したうえで、将来的にここをデンマーク一国で管理し防衛することの困難を分かった上での発言だと、私は理解して、ニュースを見ていた。
北極海の軍事的意味については、以前から、小泉悠などが指摘してきていたところだったはずである。
地球温暖化の影響で、北極海の氷がとけるとすると、その石油やガス、レアアースなどの資源、漁業、それから、北極海航路の確保……これらをめぐって、熾烈な争いがおこる可能性がある。このことにいち早く手をつけたのがロシアであり、見方によっては、ウクライナ侵攻も、大きなロシアの対世界戦略の一環であったと理解することができよう。
これに対抗するのがNATOであり、ノルウェーやフィンランドなどのことが、紹介されていた。
そして、北極海の権益については、中国も意欲を示している。
そうなると、日本海からオホーツク海について、日本のみならず、韓国や北朝鮮をもまきこんで、きわめて複雑な情勢が生まれてくることは予想される。いや、もうすでにそうなっている、というべきである。
開かれたインド太平洋と言っているが、その太平洋は、北極海にも続いている。日本周辺の北の海は、中国とロシアを相手にしての、軍事的緊張の最前線であるということになる。
しかし、この番組では、日本のことは一言も出てきていなかった。現状では、まだ日本が北極海の覇権をめぐるゲームのプレーヤとは、認識されていないということかもしれないが、そんなことはないはずである。
強いていえばということになるかもしれないが、日本の強みは、日本海、オホーツク海の海中を知っている……ソナーによる潜水艦探知能力がある……ということなのかと思うが、はたして実力のほどはどうなのだろうか。(これは最重要の軍事機密にちがいないが。)
そして、北極海での軍事的プレゼンスという意味では、日本とNATOとの連携ということは、確実に視野にいれて議論しなければならないことになるはずである。
2025年5月14日記
BS世界のドキュメンタリー 「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」
2024年、イギリスの制作。
アメリカのトランプ大統領が、グリーンランドを自国のものにしたいと言ったとき、日本の、特に、反トランプの立場をとるいわゆるリベラルよりの人たちは、馬鹿げた誇大妄想として、ほとんどとりあわなかった。しかし、これが、北極海の覇権をめぐる争いに、これからアメリカはプレゼンスを増す方針である、その表明である(確かに言い方は粗雑ではあったが)と、理解した人がどれぐらいいただろうか。
どこに書いたか忘れてしまったが、このとき私は、このように書いたのを憶えている。トランプ大統領の発言に、デンマークの首相は、即座に拒否する姿勢を見せず、それは、グリーンランドの人びとの決めることだ、という意味のことを言った。これは、グリーンランドの北極海の地政学的な重要性を理解したうえで、将来的にここをデンマーク一国で管理し防衛することの困難を分かった上での発言だと、私は理解して、ニュースを見ていた。
北極海の軍事的意味については、以前から、小泉悠などが指摘してきていたところだったはずである。
地球温暖化の影響で、北極海の氷がとけるとすると、その石油やガス、レアアースなどの資源、漁業、それから、北極海航路の確保……これらをめぐって、熾烈な争いがおこる可能性がある。このことにいち早く手をつけたのがロシアであり、見方によっては、ウクライナ侵攻も、大きなロシアの対世界戦略の一環であったと理解することができよう。
これに対抗するのがNATOであり、ノルウェーやフィンランドなどのことが、紹介されていた。
そして、北極海の権益については、中国も意欲を示している。
そうなると、日本海からオホーツク海について、日本のみならず、韓国や北朝鮮をもまきこんで、きわめて複雑な情勢が生まれてくることは予想される。いや、もうすでにそうなっている、というべきである。
開かれたインド太平洋と言っているが、その太平洋は、北極海にも続いている。日本周辺の北の海は、中国とロシアを相手にしての、軍事的緊張の最前線であるということになる。
しかし、この番組では、日本のことは一言も出てきていなかった。現状では、まだ日本が北極海の覇権をめぐるゲームのプレーヤとは、認識されていないということかもしれないが、そんなことはないはずである。
強いていえばということになるかもしれないが、日本の強みは、日本海、オホーツク海の海中を知っている……ソナーによる潜水艦探知能力がある……ということなのかと思うが、はたして実力のほどはどうなのだろうか。(これは最重要の軍事機密にちがいないが。)
そして、北極海での軍事的プレゼンスという意味では、日本とNATOとの連携ということは、確実に視野にいれて議論しなければならないことになるはずである。
2025年5月14日記
「疾走!タクラマカン砂漠鉄道 ~冬のシルクロードをゆく~」 ― 2025-05-16
2025年5月16日 當山日出夫
疾走!タクラマカン砂漠鉄道 ~冬のシルクロードをゆく~
NHK、というよりも、実質的にテムジンが作った番組ということになるのだろうが、中国の新疆ウイグル族自治区を、テレビで取材するとなると、こういう作り方なら、かろうじて中国政府が許している……このように理解して見ていたのだが、あまりに天邪鬼だろうか。
タクラマカン砂漠をぐるりとまわる鉄道を建設する。そして、それを、さらに中央アジアにまで延長しようとしている。以前は、ロシアが、中国の中央アジアへの進出に警戒的であったが、ウクライナ侵攻以来、ロシアの態度が軟化して(中国を味方にしておきたいということであるが)、建設がスタートすることになった。この番組として、一番つたえたかったことは、この最後に出てきたことかもしれない。ユーラシア大陸を、中央アジアをとおって東西にむすぶ交易を、中国がこれから支配することになる、少なくとも今の中国政府はこの方針である、ということだろう。
砂漠のなかにあった村を捨てて、都会に移住してきた男性の家族(その妻と子ども)が映っていたが、見ると、その家の扉のところに中国の国旗がかかげてあった。少しだけ映っていたのだが、そのように判断できる。これは、おそらく、こういう人物……中国共産党の支配を肯定する……だからこそ、取材して大丈夫ということなのだろうと思う。
現在の新疆ウイグル族自治区がどんなになっているか、という意味では、とても興味深い内容ではある。しかし、同時に、NHKであっても取材できなかった部分で、いったいどんなことが行われているのか、それは、見るものの想像力ということになるのかもしれない。
崑崙の玉の取引で、中国の都会と、スマホでやりとりしながら、売っていた。通信環境が整っているというふうに見ることもできる。しかし、これも、見方を変えると、新疆ウイグル族自治区の人びとの言動についても、中国の中央政府が直に監視できるということでもある。
スマホで中国の都市部とやりとりできるとはいいながら、玉や、家畜の、売買では現金である。スマホのオンライン決済のシステムは、ここの地域にまでは及んでいない、と理解できるだろうか。
最後になって、ようやくイスラムということばがつかってあったが、その信仰がいまはどういう状況であるかは、まったく言及がなかった。これについては、一切触れてはならないということだったのだろうと思う。出てきていたのは、家畜の売買の商習慣として、仲介人が介在するということで、これは、一〇世紀の昔からつづくことだという。それほどながく、イスラムの教えのなかで、この地域の人びとは生活してきた、ということを表現したかったのだろうと理解することになる。
新疆ウイグル自治区の伝統的な生活スタイルが残っているということも映像では映っていた……市場や旧市街など……まあ、これは、かつてナチスの、平和に安穏に生活しているユダヤ人のプロパガンダ映画を作ったようなものだろうと、私は思って見ている。それように、残してある、という側面もあるとも思う。もし、これに反論して、中国共産党を擁護したいのなら、外国のメディアが自由にこの地域を取材できるようになっているという状況になってから、ということになるにちがいない。
この番組では、漢族、ということばを多くつかっていた。普通、中国のことをあつかう番組では、このことばはほとんど使わないと思う。タクラマカン砂漠のこの地域が、中国の支配的民族である漢族とは、異なる民族の人たちの生活する地域である、ということになる。
映像的にはとてもきれいに作ってある。そして、そこに生活するひとたちの現状をレポートしている。しかし、見ていると、映っていないことが何だったのか、ということにどうしても関心がいく。新疆ウイグル族自治区をめぐっては、国際的に大きな問題になっている。何を映していないか、ということで、それなりのメッセージを伝えようという意図があったとは、感じるところである。
2025年5月5日記
疾走!タクラマカン砂漠鉄道 ~冬のシルクロードをゆく~
NHK、というよりも、実質的にテムジンが作った番組ということになるのだろうが、中国の新疆ウイグル族自治区を、テレビで取材するとなると、こういう作り方なら、かろうじて中国政府が許している……このように理解して見ていたのだが、あまりに天邪鬼だろうか。
タクラマカン砂漠をぐるりとまわる鉄道を建設する。そして、それを、さらに中央アジアにまで延長しようとしている。以前は、ロシアが、中国の中央アジアへの進出に警戒的であったが、ウクライナ侵攻以来、ロシアの態度が軟化して(中国を味方にしておきたいということであるが)、建設がスタートすることになった。この番組として、一番つたえたかったことは、この最後に出てきたことかもしれない。ユーラシア大陸を、中央アジアをとおって東西にむすぶ交易を、中国がこれから支配することになる、少なくとも今の中国政府はこの方針である、ということだろう。
砂漠のなかにあった村を捨てて、都会に移住してきた男性の家族(その妻と子ども)が映っていたが、見ると、その家の扉のところに中国の国旗がかかげてあった。少しだけ映っていたのだが、そのように判断できる。これは、おそらく、こういう人物……中国共産党の支配を肯定する……だからこそ、取材して大丈夫ということなのだろうと思う。
現在の新疆ウイグル族自治区がどんなになっているか、という意味では、とても興味深い内容ではある。しかし、同時に、NHKであっても取材できなかった部分で、いったいどんなことが行われているのか、それは、見るものの想像力ということになるのかもしれない。
崑崙の玉の取引で、中国の都会と、スマホでやりとりしながら、売っていた。通信環境が整っているというふうに見ることもできる。しかし、これも、見方を変えると、新疆ウイグル族自治区の人びとの言動についても、中国の中央政府が直に監視できるということでもある。
スマホで中国の都市部とやりとりできるとはいいながら、玉や、家畜の、売買では現金である。スマホのオンライン決済のシステムは、ここの地域にまでは及んでいない、と理解できるだろうか。
最後になって、ようやくイスラムということばがつかってあったが、その信仰がいまはどういう状況であるかは、まったく言及がなかった。これについては、一切触れてはならないということだったのだろうと思う。出てきていたのは、家畜の売買の商習慣として、仲介人が介在するということで、これは、一〇世紀の昔からつづくことだという。それほどながく、イスラムの教えのなかで、この地域の人びとは生活してきた、ということを表現したかったのだろうと理解することになる。
新疆ウイグル自治区の伝統的な生活スタイルが残っているということも映像では映っていた……市場や旧市街など……まあ、これは、かつてナチスの、平和に安穏に生活しているユダヤ人のプロパガンダ映画を作ったようなものだろうと、私は思って見ている。それように、残してある、という側面もあるとも思う。もし、これに反論して、中国共産党を擁護したいのなら、外国のメディアが自由にこの地域を取材できるようになっているという状況になってから、ということになるにちがいない。
この番組では、漢族、ということばを多くつかっていた。普通、中国のことをあつかう番組では、このことばはほとんど使わないと思う。タクラマカン砂漠のこの地域が、中国の支配的民族である漢族とは、異なる民族の人たちの生活する地域である、ということになる。
映像的にはとてもきれいに作ってある。そして、そこに生活するひとたちの現状をレポートしている。しかし、見ていると、映っていないことが何だったのか、ということにどうしても関心がいく。新疆ウイグル族自治区をめぐっては、国際的に大きな問題になっている。何を映していないか、ということで、それなりのメッセージを伝えようという意図があったとは、感じるところである。
2025年5月5日記
ザ・バックヤード「琵琶湖博物館」 ― 2025-05-16
2025年5月16日 當山日出夫
ザ・バックヤード 琵琶湖博物館
琵琶湖博物館には、二~三回、行ったことがある。まだ、子どもたちが小さいときのことである。そのころとは、展示の内容も変わってきているかと思う。
ここは、自然関係だけでなく、考古学や民俗学や歴史学などをふくめて、琵琶湖にかかわることを幅広く展示してある。このような総合的な、公立の博物館は、他にあまりないかもしれない。私が行ったことがあるところだと、鹿児島の黎明館がある。
琵琶湖が50万年前ぐらいにできた古い湖である、ということは、初めて知った。50万年で古いというなら、日本や世界にたくさんある他の湖は、どういうことになるのだろうか。
琵琶湖で絶滅危惧種になってしまっていた魚が、京都の平安神宮にいたというのは、面白い。まあ、琵琶湖疏水を通じて、琵琶湖と京都はつながったのだから、こういうことがあってもおかしくはないが。それにしても、平安神宮の池で、よく生きのこっていたものである。
考古学の遺跡としては、縄文から弥生ということらしい。日本における水中考古学は、まだまだこれからいろんな発見があるにちがいない。番組の中では言っていなかったが、場合によると旧石器時代のものもあるだろうか。ここは、日本列島にいつごろからどんな人が住んできたかという、DNA解析の研究の結果と総合的に考えることになるにちがいないが。
丸木舟の遺物があったが、これは、年輪年代学で年代測定が可能なのだろうか。
どうでもいいことかもしれないが、考古遺物の土器を手で持つときは、指輪ははずした方がいいと思う。
2025年5月13日記
ザ・バックヤード 琵琶湖博物館
琵琶湖博物館には、二~三回、行ったことがある。まだ、子どもたちが小さいときのことである。そのころとは、展示の内容も変わってきているかと思う。
ここは、自然関係だけでなく、考古学や民俗学や歴史学などをふくめて、琵琶湖にかかわることを幅広く展示してある。このような総合的な、公立の博物館は、他にあまりないかもしれない。私が行ったことがあるところだと、鹿児島の黎明館がある。
琵琶湖が50万年前ぐらいにできた古い湖である、ということは、初めて知った。50万年で古いというなら、日本や世界にたくさんある他の湖は、どういうことになるのだろうか。
琵琶湖で絶滅危惧種になってしまっていた魚が、京都の平安神宮にいたというのは、面白い。まあ、琵琶湖疏水を通じて、琵琶湖と京都はつながったのだから、こういうことがあってもおかしくはないが。それにしても、平安神宮の池で、よく生きのこっていたものである。
考古学の遺跡としては、縄文から弥生ということらしい。日本における水中考古学は、まだまだこれからいろんな発見があるにちがいない。番組の中では言っていなかったが、場合によると旧石器時代のものもあるだろうか。ここは、日本列島にいつごろからどんな人が住んできたかという、DNA解析の研究の結果と総合的に考えることになるにちがいないが。
丸木舟の遺物があったが、これは、年輪年代学で年代測定が可能なのだろうか。
どうでもいいことかもしれないが、考古遺物の土器を手で持つときは、指輪ははずした方がいいと思う。
2025年5月13日記
BS世界のドキュメンタリー「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」
2023年、フランスの制作。
再放送であるが、最初の放送がいつかNHKのHPには書いていなかった。
ロシアのウクライナ侵略以来、その周辺の国々のことは、いろいろと話題になることがあったが、この番組であつかっているようなことが、日本のメディアで大きく取りあげられたということはなかったと憶えている。たしかに、このような地域についての取材はむずかしいとは思うが。
モルドバの中の沿ドニエストル共和国、ジョージアの中のアブハジア共和国、これらの地域は、独立国家といえるのか、あるいは、モルドバやジョージアの一部というべきか、それとも、実質的なロシア領というべきなのか……このあたりの位置づけから、いろいろ問題がありそうである。
ソ連の時代をなつかしむ老人がいたが、こういう気持ちも分からなくはないと感じる。東西冷戦の時代、ある意味で、世界はある種の安定があったことはたしかである。(日本国内でも、いわゆる五五年体制ということで、政治的な安定の期間でもあった。)
一方、ロシアのウクライナ侵略に反対し、自由をもとめる人びともいる。
こういう地域について、では、住民投票で決めればいいではないか、といかないのが、むずかしいところである。形式的には、クリミア半島は、その結果、ロシアがとってしまった。(ここも、古くからの歴史的経緯を考えるならば、ウクライナの地域にあって、特別なところだとは思えるが。)
ロシアからすれば、ロシア人の国家は独立してあるべきだ、ということになるのだろう。これはこれとして、ロシア的なナショナリズムのあり方として、理解できないことではない。だが、そうであるからといって、武力で強引に支配することは、やはり国際的にルール違反である。
ロシアの領土的野望というようなことで理解することもできるが、視点を変えて見るならば、民族と国家、という問題でもある。ロシア人は自立した国家をもちたいのだが、その結果、地域に生活している他の民族を圧迫するすることになってしまっている。民族……言語や宗教……がからんでくる問題は、解決がそう簡単ではない。少なくともこれぐらいのことは、歴史から学ぶことのできることであると思っている。
2025年5月10日記
BS世界のドキュメンタリー 「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」
2023年、フランスの制作。
再放送であるが、最初の放送がいつかNHKのHPには書いていなかった。
ロシアのウクライナ侵略以来、その周辺の国々のことは、いろいろと話題になることがあったが、この番組であつかっているようなことが、日本のメディアで大きく取りあげられたということはなかったと憶えている。たしかに、このような地域についての取材はむずかしいとは思うが。
モルドバの中の沿ドニエストル共和国、ジョージアの中のアブハジア共和国、これらの地域は、独立国家といえるのか、あるいは、モルドバやジョージアの一部というべきか、それとも、実質的なロシア領というべきなのか……このあたりの位置づけから、いろいろ問題がありそうである。
ソ連の時代をなつかしむ老人がいたが、こういう気持ちも分からなくはないと感じる。東西冷戦の時代、ある意味で、世界はある種の安定があったことはたしかである。(日本国内でも、いわゆる五五年体制ということで、政治的な安定の期間でもあった。)
一方、ロシアのウクライナ侵略に反対し、自由をもとめる人びともいる。
こういう地域について、では、住民投票で決めればいいではないか、といかないのが、むずかしいところである。形式的には、クリミア半島は、その結果、ロシアがとってしまった。(ここも、古くからの歴史的経緯を考えるならば、ウクライナの地域にあって、特別なところだとは思えるが。)
ロシアからすれば、ロシア人の国家は独立してあるべきだ、ということになるのだろう。これはこれとして、ロシア的なナショナリズムのあり方として、理解できないことではない。だが、そうであるからといって、武力で強引に支配することは、やはり国際的にルール違反である。
ロシアの領土的野望というようなことで理解することもできるが、視点を変えて見るならば、民族と国家、という問題でもある。ロシア人は自立した国家をもちたいのだが、その結果、地域に生活している他の民族を圧迫するすることになってしまっている。民族……言語や宗教……がからんでくる問題は、解決がそう簡単ではない。少なくともこれぐらいのことは、歴史から学ぶことのできることであると思っている。
2025年5月10日記
ダークサイドミステリー「封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
ドキュメント72時間「博多 24時間のラーメン店で」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
ドキュメント72時間 博多 24時間のラーメン店で
290円、というのは安い。これでビジネスが成りたつ理由はいろいろとあるのだろうが、このことについては、まったく触れることがなかった。少なくともメニューを限って、コストを削減していることは理解できる。ラーメンと餃子だけのお店のようだが、この価格で、そこそこの味で作れるというのも、すごいことかもしれない。
番組の中でそうはっきりと映していたということではなかったが、この店で働いている人は、いわゆる日本人ではないようである。実際、どれぐらいの給料で働いているのか、ということも気になる。それは、当然ながら、価格に反映することになる。だからといって、低賃金でこき使っているとは思わないけれど。
24時間営業で、タクシー運転手が利用する店というのは、たぶん、非常にリーズナブルなお店ということでいいのかと思う。
意図的にそう編集したということではないだろうが、ネパールからやってきた男性、それから、中国からやってきた男性がいた。こういう人たちが、普通に暮らしているのが、今の日本の姿ということになる。一昔前の感覚からすると、ずいぶん変わってきたなあ、とは思うことになる。
ラーメンの食べ方、餃子の食べ方にも、いろんな流儀があるようで、これはこれとして、見ていて面白い。替え玉を最初に頼んで一緒に入れてしまう、結果的には、大盛りを頼んだということになるだろうが、合理的な食べ方かもしれない。
2025年5月10日記
ドキュメント72時間 博多 24時間のラーメン店で
290円、というのは安い。これでビジネスが成りたつ理由はいろいろとあるのだろうが、このことについては、まったく触れることがなかった。少なくともメニューを限って、コストを削減していることは理解できる。ラーメンと餃子だけのお店のようだが、この価格で、そこそこの味で作れるというのも、すごいことかもしれない。
番組の中でそうはっきりと映していたということではなかったが、この店で働いている人は、いわゆる日本人ではないようである。実際、どれぐらいの給料で働いているのか、ということも気になる。それは、当然ながら、価格に反映することになる。だからといって、低賃金でこき使っているとは思わないけれど。
24時間営業で、タクシー運転手が利用する店というのは、たぶん、非常にリーズナブルなお店ということでいいのかと思う。
意図的にそう編集したということではないだろうが、ネパールからやってきた男性、それから、中国からやってきた男性がいた。こういう人たちが、普通に暮らしているのが、今の日本の姿ということになる。一昔前の感覚からすると、ずいぶん変わってきたなあ、とは思うことになる。
ラーメンの食べ方、餃子の食べ方にも、いろんな流儀があるようで、これはこれとして、見ていて面白い。替え玉を最初に頼んで一緒に入れてしまう、結果的には、大盛りを頼んだということになるだろうが、合理的な食べ方かもしれない。
2025年5月10日記
よみがえる新日本紀行「山の城下町で〜福島県三春町〜」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「山の城下町で〜福島県三春町〜」
再放送であるが、見るのは二回目になる。半年ほど前にも見ているが、もう一回見ることにした。
オリジナルは昭和49年である。この番組の最初の放送は、おおむね私が高校生から大学生ぐらいの時期になる。この時代の日本のいろんな地域の生活の有様を記録して残していると感じるところが多い。それは、高度経済成長を経た後の日本に残っていた、それまでの古くからの日本の暮らしといってもいいだろう。
前回、見たときも思ったことだが、冒頭は鍛冶屋の仕事場のシーンからはじまっていた。もう今では、鍛冶屋という仕事自体が、ほとんど消滅してしまったかもしれない。春になって、農繁期を前に、農家の人たちが、鍬などの手入れのために鍛冶屋に仕事を頼む。もうこのような時代ではなくなっているというべきかと思う。
山火事のシーンがあったが、この時代、この地方では、小規模な山火事はごく普通にあることだったらしい。今ではどうなっているだろうか。
耕運機でリヤカーを引いて山の中を走る、このような風景はもう無くなったことかと思う。
三春人形のデコ屋敷、ここで作っている三春人形は、今では、ネット通販で買える。検索してみたが、そう高いものではないようである。もともとが、農家の兼業としての人形作りだったはずだから、そう高価であることはないだろう。
2025年5月14日記
よみがえる新日本紀行 「山の城下町で〜福島県三春町〜」
再放送であるが、見るのは二回目になる。半年ほど前にも見ているが、もう一回見ることにした。
オリジナルは昭和49年である。この番組の最初の放送は、おおむね私が高校生から大学生ぐらいの時期になる。この時代の日本のいろんな地域の生活の有様を記録して残していると感じるところが多い。それは、高度経済成長を経た後の日本に残っていた、それまでの古くからの日本の暮らしといってもいいだろう。
前回、見たときも思ったことだが、冒頭は鍛冶屋の仕事場のシーンからはじまっていた。もう今では、鍛冶屋という仕事自体が、ほとんど消滅してしまったかもしれない。春になって、農繁期を前に、農家の人たちが、鍬などの手入れのために鍛冶屋に仕事を頼む。もうこのような時代ではなくなっているというべきかと思う。
山火事のシーンがあったが、この時代、この地方では、小規模な山火事はごく普通にあることだったらしい。今ではどうなっているだろうか。
耕運機でリヤカーを引いて山の中を走る、このような風景はもう無くなったことかと思う。
三春人形のデコ屋敷、ここで作っている三春人形は、今では、ネット通販で買える。検索してみたが、そう高いものではないようである。もともとが、農家の兼業としての人形作りだったはずだから、そう高価であることはないだろう。
2025年5月14日記
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