『作家的覚書』高村薫2017-04-27

2017-04-27 當山日出夫

高村薫.『作家的覚書』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b285380.html

小説家としての高村薫の作品の主なものは読んできているつもりでいる。最新作は、『土の記』を読んだ。

やまもも書斎記 2016年12月22日
高村薫『土の記』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285770

また、『晴子情歌』にはじまる一連のシリーズも読んではきている。その高村薫の、おりにふれての時事的な小文を編集したものである。

読んでみて、面白いというよりも、共感するというところのある本である。例えば、次のような箇所。付箋を付けた箇所を引用する。

(東京都知事選の候補者についてふれて)「はて、なかなか尽きるものではない欲望と物理的老いの間で、ひっそりと背筋を伸ばしていられる歳の取り方はないものだろうか。」(p.16)

(安保法制をめぐって)「もっとも、ひたひたときな臭い気配が迫っているとはいえ、私たちの足下には当面差し迫った危機があるわけではない。そんな平和な先進国で思い巡らせる不安など、いざというときに備えた予行演習ですらなく、ひまつぶしの誹りを受けても仕方がないかもしれない。現に、静かな書斎で私がこんな長閑なコラムを書いている最中にも、紛争地域では女性や子どもたちが為すすべもなく銃撃戦や爆撃の犠牲になっているのだ。その厳しい現実を、先進各国も国連も、私をふくめた一般市民も、もはや正面から捉えるすべを失っているように見えるのは私の杞憂だろうか。この私が、自身の無気力の言い訳にしているだけだろうか。」(pp.46-47)

時事問題を論じながら、そのできごとを見る自分自身のあり方について、反省のまなざしをわすれない。これがこのエッセイのいいところだろう。

えてして、神の高みから正義の裁断をくだすような時事評論はいくらでもある。それが、右であれ、左であれ、いずれの立場からであっても。

この本は、どちらかといえば、反体制的な立場からの言説である。だが、それが、単純な体制批判にとどまっていない。なぜ、そのような批判の意見を自分がもつのか、そして、そのような意見をもっている自分にはいったい何ができるのか、自分は、今なにをなしうるのか……この自省の念が、常に文章のうらにはりついている。この自己反省、自己抑制が、このエッセイ集を、きわだったものとしている。

必ずしも、著者(高村薫)と意見を同じくするということはないかもしれないが、その時事問題について語る、著者の姿勢には、強く共感するところがある。

なぜ自分はこのように考えるのか、そして、何ができるのか、何をしているのか、このような視点は、現代においては、貴重なものになっているように思う。仕事の合間に、ふと手にとって読んで、一服の清涼剤を得たような、そして、それだけではなく、いま、こうしてこの本を読んでいる自分のあり方を反省してみるような、そんな時間を与えてくれる。

著者(高村薫)の生まれは、1953年とある。私とさほどちがわない。そのような年にうまれ、そだってきた人間として、戦後の日本のあゆみ、阪神大震災、東日本大震災、安保法制などなど、その時々の世相において、何を考え何を感じるのか、そのゆえんはどこにあるのか、常に自問する姿勢がある。

今日においては、性急に結論の正しさだけを求めがちであり、そこのみで議論しがちかもしれない。そのなかにあって、冷静に、自己の考えのよってきたるところを顧みる姿勢は、きわめて貴重であるというべきであろう。

『空母いぶき』かわぐちかいじ2017-03-03

2017-03-03 當山日出夫

かわぐちかいじ、惠谷治(協力).『空母いぶき』.小学館.2015~
http://www.big-3.jp/bigcomic/rensai/ibuki/index.html

私は、基本的に漫画は読まないことにしているのだが、希に手にすることがある。その一つは、最近、話題になったものでは、『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

そして、もう一つ、刊行と同時に、第1巻から読んでいるのが、かわぐちかいじの『空母いぶき』である。現在、第6巻までが刊行。なお、雑誌では読んでいない。そこまでは手が回らない。コミックスで出たのを買っている。

一般的にいうならば、軍事エンタテインメントというジャンルになるのだろう。だが、この作品は、その枠をこえた、リアリティ、あるいは、問題提起がある。

近未来、中国が、沖縄に軍事的に侵略、占領するとことから物語ははじまる。中国側の条件は、尖閣諸島を中国領土と認めること。だが、それに対して日本政府はイエスとはいえない。そこで、空母いぶきを中心として、日本側からの対中国軍事作戦が発動することになる。

まあ、いってみれば、「もし、東シナ海で日中たたかわば」という設定の、軍事物語である。

とはいえ、私がこの作品にある種のリアリティを感じるのは、次の二点。

第一に、さすが、かわぐちかいじの作品だけあって、軍事的にリアルに描いてある。この点については、多くの専門的知識のある人が同意することだろう。

第二に、さりげなくであるが、国際状況の設定として、アメリカが介入しないということを前提としていること。つまり、中国側の判断として、尖閣諸島に軍事的に侵攻しても、米軍はかかわってこない、という読みがあっての軍事行動ということになる。この漫画の描写では、沖縄、尖閣諸島の防衛は、日本の個別的自衛権のもとに行っていることになっている。

この予測に、どれだけの裏付けがあるのかは不明である。しかし、そういうことももあり得るであろうとは予想できる。

かつての湾岸戦争のとき、イラクは、クェートに侵攻しても、アメリカが介入してくることはないという判断のもとに、作戦をおこなった。その読みが、あやまっていたことは、その後の歴史の推移が証明するところではある。しかし、イラクが、その時点で、アメリカ不介入と判断したことは確かなことだろう。また、この時の、アメリカ、多国籍軍の軍事作戦が、その後の世界情勢に与えた大きさははかりしれない。

現在、アメリカの政権が、トランプにかわって、日米同盟の確認ということがあったようだ。そのなかで、アメリカは、尖閣諸島は、日米安保の対象地域であることを明言した。

これも、裏をかえしてみれば、アメリカ・ファーストのトランプ政権の政策の方向いかんによっては、日米同盟もどうなるかわからない、ということがあってのこととも考えられる。むろん、日米安保、日米同盟も、永久につづくというものではない。その時々の、国際情勢のなかで存在にするにすぎない。

以前、このように書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

「中国はあまりものごとを考えていないように見えて、実は、非常に長い射程で歴史を捉え戦略的思考をする国なのです。鄧小平は尖閣諸島の問題について「今の世代で解決するのは難しいだろうから、後世にいい知恵が出るまで待とう」と言って、日本側に譲ったとされています。しかし、それは違う。中国は尖閣に関する権利を留保しつつ時間を稼ぎ、将来自分たちに有利な状況になった時に日本を交渉のテーブルに着かせることを狙っていると解釈すべきです。」(pp.23-24)

絶対に、中国は、尖閣諸島に軍事的に手を出してこないといえるだろうか。もし、国際情勢によっては、アメリカは、日本と中国が紛争を起こしても手を出してはこないだろう、と判断されたとき、どうなるかわからないと、私は考える。といって、かわぐちかいじが書いているような軍事行動をとるということではないが。

もちろん、このようなことは、中国共産党政権の内情、それから、アメリカの東アジア政策、それから、台湾、韓国などの、周辺諸国、東南アジア諸国の動向など、総合的に関連して、おこるべくして、ことはおこるとすべきことではある。

ただの空想ではなく、リアルな国際政治の展望のあり方として、考えてみるに値することの一つであるとは思っている。現実に今、沖縄は、日本の国防の最前線なのである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

『空母いぶき』は軍事エンタテイメントとして読めばいい作品なのであるが、そのはらんでいるものは、リアルである。そして、重要なことは、軍事的行動を視野にいれてこそ、現実的な平和主義も構築しうるということである。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)2017-02-24

2017-02-24 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

この本を読んで印象に残ったことをいくつか。昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

二点ほど、思ったことを書いてみたい。

第一に、徴兵制である。

この本の第三章「オンタケの頂き」では、2014年の御嶽山の噴火災害救助の様子が語られる。ここで、著者は、長野県の第13普通科連隊が、その任務にあたったことを記す。この部隊は、山岳地域での活動に特化した訓練をうけている。

自衛隊は、各地にあるが、それぞれの地方にあった特殊な訓練をおこなっている。たとえば、八甲田山では、第5普通科連隊が、今でも冬季の雪中訓練をおこなっている。雪のなかでの行動については、エキスパートであるといってよい。

日本の軍備、安全保障、憲法などについて議論されるとき、必ず出てくるのが徴兵制のことである。本書の記述をふまえて考えるならば、理念として徴兵制を論じるのはいいだろう。例えば、井上達夫のようにである。

だが、これも、現実的な、自衛隊の訓練の場に即して、そこで「兵士」が何を行っているのかをみれば、そう簡単にいえるものではない。昔の軍隊でいえば歩兵である普通科であっても、その訓練は、その地方の状況に即して、過酷とでもいうべきものである。簡単に、若者をつれてきて訓練すればよいという程度のものではない。

徴兵制を理念として語るのはそれでいいのかもしれないが、現実に、自衛隊の「兵士」たちが、どのような訓練をうけ、どのような任務にあたっているのか、現場に即して考えてみれば、そう軽々と言えるようなことではないことがわかる。実際に自衛隊員がどのような日常の訓練、任務をになっているか、その実際を見た上での議論でなければならない。

第二に、尖閣諸島の問題である。

本書のテーマからはちょっとはずれる。しかし、本書の第一、二章が、沖縄、尖閣での、対中国の活動を描いていることをふまえれば、やはり考えて見なければならないだろう。

アメリカの大統領が、トランプに替わった。国防長官が日本にやってきている。そのとき、明言したこととして、尖閣諸島も、日米安保の対象であるということがあった。この件は、ニュースなどでもおおきく報じられていた。

対中国、という意味では、これを大きく報道することに意味があると思う。

しかし、日本の立場として、尖閣諸島が我が国固有の領土であるとするならば、その防衛は、まず、我が国の問題である。個別的自衛権で、我が国において対処すべき事であるのが基本だろう。

では、それに対応できるだけの装備、準備があるのか、ということが、問題になる。このことに、本書は、直接に答えることはしていない。しかし、本書を読んだ延長には、この問題があることは確かなことである。はたして、日本だけで、中国の侵略に対応できるのであろうか。

ここは、中国の海洋進出といった一般論で論ずるのではなく、具体的に、日本の自衛隊で、尖閣諸島を守れるのか、現実的な議論が必要だろう。その議論をする立場に、日本はある。このことを否応なく認識させられるのが、本書の読後感でもある。

以上の二点が、本書を読んで、思ったことである。

なお、さらに書いておくならば、この「兵士シリーズ」がはじまってから、自衛隊への取材が非常にきびしくなっていると、筆者は記している。シリーズがはじまったころは、かなり自由にできた隊員へのインタビューも、本書を書くときになると、きわめて厳しい制約のもとにおこなわざるをえなくなっているとある。

これは、何故なのだろう。一般の印象としては、自衛隊は、以前よりも、現在の方が、広報活動には力をいれているように見える。だが、それは、表面だけのこと。実際の自衛隊の活動、任務にかかわることになると、突然、堅くなる。それだけ、現在の日本において、自衛隊の置かれている立場が変化したということになる。

「兵士シリーズ」がはじまったころは、東西冷戦がおわったとはいえ、まだ、基本的にその枠組みのなかにあった時代であった。それが大きくかわるのは、2001年のアメリカの同時多発テロ以降の国際情勢、それから、アメリカ、ロシア、EUなどの動向がある。それをふまえて、自衛隊の海外活動の本格化もある。

このような情勢のなかにあって、自衛隊は、より開かれた存在でなければならないと思われるのだが、実際に取材にあたった著者の感じるとことは、その反対のようである。

日本において、自衛隊がどのような存在であるか、それを理念的に考えることも必要だろう。例えば、憲法論議。しかし、その一方で、現実に存在する自衛隊が、何をしているのか、どのような組織であるのか、そして、それは、国民に対してどのようであるのか……このような観点からも、常に検証されなければならない。この意味では、この20年以上にわたってつづいてきた「兵士シリーズ」は貴重な記録になっていると思うのである。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男2017-02-23

2017-02-23 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

杉山隆男の「兵士シリーズ」の最新刊であり、また、これが最後であるらしい。

「兵士シリーズ」は、いくつか読んできている。自衛隊の実際の有様を、現場の「兵士」の日常の任務、生活に密着して描いたルポルタージュとして、非常にすぐれた仕事だと思っている。本の帯をみると、開始から24年とある。20年以上前、今の私の住まいの自分の部屋で仕事をする前のこと、仮住まいをしていた座敷(そこに本棚などおいて書斎がわりにしていた)で、読んだのを憶えている。

見てみると、「兵士シリーズ」、初期のものは読んでいるが、最近のものは読んでいない。新聞の広告など、見落としていたらしい。これを機会に、読みそびれた本を読んでおきたい気になっている。いや、最初のものから、再読してみたい気になった。

この『兵士に聞け 最終章』である。この本で主に描かれるのは、日本の自衛隊のおかれている最前線、中国との対峙である。無論、今、日本と中国とは、戦争しているわけではない。しかし、その間に軍事的な緊張がまったく無いかといえば、それは嘘になる。尖閣諸島をめぐって、一触即発とまではいかないにしても、それにいたる寸前の緊張状態にある。それを、著者は、空と海の防衛に密着して描いている。

まず、沖縄のF15戦闘機のスクランブル。2012年に、日本政府が尖閣諸島を国有化してからというもの、沖縄方面における国籍不明機の接近、侵犯が急増したという。それに24時間体制で対応している航空自衛隊の活動が密着して語られる。その自衛隊員にとって、「死」は身近な存在だと、さりげなく書いてある。

ある若いF15パイロットは、こう言う。

「思いますよ。きょうはいくら呑んでも、あした死ぬことはないからと……」
(p.52)

また、国籍不明機の侵入は、沖縄の慰霊の日(6月23日)であろうと、おかまいないくやってくる。個人的な感想を記せば、中国にとって、沖縄の慰霊の日など何の関係もない、ということなのだろう。

そして、海。ここで語られるのは、海上自衛隊のP-3C。もはや旧式になってきたとはいえ、現役で、対潜哨戒のみならず、その他、海上の守りの役目をになっている。そして、不審船をみつけるのは、最新鋭の電子機器によるのではなく、人間の目、その職人技とでいうべき技術によっている。

私の読後感としては、まさに「最前線」ということばが思い浮かぶ。このことばは、著者はつかってはいない。だが、このように感じてしまう日々の任務を遂行している人たち(自衛隊員)がいることは、確かなことである。

安保法制が成立してしばらくたつ。今、国会で議論されているのは、南スーダン派遣の自衛隊の活動。海外での自衛隊の活動に目をむけることも必要かもしれないが、この平和な日常の日々において、スクランブルの、海上監視の任務を黙々とこなしている、自衛隊員がいることを、忘れてはならない。日本の、特に、沖縄、東シナ海は、最前線といってもよいのである。

さらに、日本において、自衛隊はいかにある存在なのか、いろいろ考えさせられるが、それは明日のことにしておきたい。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年2月24日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/24/8373463

『政治学の名著30』佐々木毅2017-01-02

2017-01-02 當山日出夫

佐々木毅.『政治学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063557/

ちくま新書には、『~~の名著30』というタイトルの本がいくつかある。そのうちの一つ。『歴史学の名著30』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年12月23日
山内昌之『歴史学の名著30』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/23/8286305

『歴史学~~』の方は、今では売っていないようだが、こちら『政治学~~』の方は、今もあるようだ。(こういう違いはどかからきているのか。著者の意向によるものなのだろうか。単に売れ方の違いなのか。)

古典的名著というべき本のブックガイドである。

「Ⅰ 政治の意味」では、
プラトン 『ゴルギアス』
マキアヴェッリ 『君主論』
ヴェーバー 『職業としての政治』

「Ⅷ 歴史の衝撃の中で」では、
福沢諭吉 『文明論之概略』
孫文 『三民主義』
ハイエク 『隷従への道』
アレント 『全体主義の起源』
丸山眞男 『(増補版)現代政治の思想と行動』

政治学についての本であるが、これは、私流に解釈すれば、ひろい意味での「文学」の範疇にはいるものと理解している。「ことば」によって、いかにして、その「思想」をつたえるか……これは、「文学」ということで理解する。狭い意味での小説とか詩歌とかだけが、「文学」であるのではないという立場で考えている。

このなかには、読んだことのある本もあれば、名前だけの本もある。これから、本を読んでいくガイドとして手元において眺めている。

その「まえがき」につぎのようにある。「政治学」の本を集めてあることの意義についてである。ちょっと長くなるが引用する。

 その際に大事なことは、政治についてどう考えるかが政治の現実を構成する要因である、という無視できない現実に思いを致すことである。これらの名著が単なる知的アクセサリーの域を遙かに超えて、まさに現実を支え、さらには新しい政治的な現実を生み出した原動力であったことを忘れてはならない。
(中略)
その意味で政治学の名著はシリアスに受けとめられなければならない。そしてシリアスなものをシリアスに受けとめる習慣をなくすことはやがて大きな災いの素になるであろう。

以上 p.13

このような筆者の意図に即してみるならば、バークの『フランス革命についての考察』などは、ただ保守主義の古典としてではなく、現に、アクチュアルに今の政治のあり方を考える立場から、吟味されて読まれなくてはならない、ということになる。丸山眞男の本など、まさに戦後政治の背景によりそって存在するといってもよかもしれない。そして、これからもそのように読まれねばならないであろう。

ところで、私は、自分自身のことを、これまで非政治的人間だと思って生きてきた。だが、この世の中で生きているという限りにおいて、まったく非政治的であるということは不可能であるということも、なんとなく実感するようになってきている。近代という時代、現代という社会のなかで生きているうえで、何を考えていくべきか、これから本を読みながら、自分なりに時間をつかいたいと思っている。今、自分が生きている、近代、現代、ポストモダンの時代とはいったい何であるのか、である。

水島治郎『ポピュリズムとは何か』2016-12-29

2016-12-29 當山日出夫

水島治郎.『ポピュリズムとは何か-民主主義の敵か、改革の希望か-』(中公新書).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/12/102410.html

最近の中公新書はいい本を出しているなと感じるなかの一冊である。タイトルは、ずばり「ポピュリズム」を前面にうちだしている。だが、その内容はというと、むしろ、「デモクラシー」について問いかけた本であるといえるかもしれない。それも、今後、21世紀のデモクラシーのあり方を問いかけている本として読めると思う。

この本、論点を、要所要所について、箇条書き方式で整理して書く方式をとってあるので、非常にわかりやすい。そして、この本については、多くの紹介などがWEBでなされるであろうから、特にここで内容を整理してみるなどのことはやめにしておきたい。

ただ、この本を読んで、私の思ったことをすこしだけ書いておくことにする。

第一に、ポピュリズム政党の事例として、ベルギーの例があげてある。ベルギーという国は、言語的には、フランス語とオランダ語の国である、これは、言語研究の常識的知識だと思う。そして、国家の言語として固有の言語、たとえば、フランスにおけるフランス語のようなものをもたない、同時に、多言語(フランス語・オランダ語)の国として、知られている。このようなことは知ってはいても、では、そのベルギーの国の内部で、言語がどのような状態であるのかまでは、知らなかった。

それが、この本で紹介してある、ベルギーのポピュリズム政党の活動して描き出されている。やはり、ベルギー国内において、フランス語とオランダ語の対立、それから、それに対しての様々な融和政策がある。それをふまえて、オランダ語地域の独自性をもとめて、ポピュリズム政党(VB)の活動がある。

国民国家と言語、また、民族という問題を考えるうえで、やはりベルギーという国で起こっていることは、非常に興味深いと言わざるをえない。

第二に、ポピュリズム政党とリベラルの親和性である。ポピュリズムの運動は、えてして、反移民、反イスラムという方向をもつ(ヨーロッパにおいては)。この運動の方針として、イスラムは、政教分離ではない、女性を蔑視している、などの論理を展開する。リベラルの先進的な価値観によりそう形で、運動を展開する。

つまり、リベラリズムの立場からは、ポピュリズム政党の主張を、批判できないのである。

以上の二点が、この本を読んで印象に残っているところである。このうち、特に後者の問題、ポピュリズムとリベラリズムの問題は、今後の、21世紀のデモクラシーの行方を考えるうえで、きわめて重要なポイントになると思う。

この本は、特に日本のことには言及することは避けているようである。時々、維新の会のことが登場する程度である。まだ、日本では、欧米のようにポピュリズムは、さしせまった「危機」ではないといえるのかもしれない。

だが、既成政党への政治不信がたかまり、それ以外に選択肢がないという状況になったとき、ポピュリズムが存在感をもってくる。この意味では、現代日本の既成政党が、今後どのような政権運営をするか、注目しなければならないだろう。

この本では、日本のポピュリズムの事例としては、維新の例が言及されているのだが、私がこの本を読んで感じるところでいえば、小池東京都知事も、ある意味では、ポピュリズムの動きにのって当選をはたした政治家であるといえるだろう。イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ現象に目をうばわれるのではなく、この日本において、今後、ポピュリズムがどのように現れてくるのか注目しなければならない。

『ポピュリズムとは何か』は、ポピュリズムそのものに対しては、価値判断を保留している。いや、若干の否定的イメージをもちながらも、それを、いわば、民主主義の宿痾のようなものとして、とらえている。私には、そのように読める。

これからの日本の政治のあり方を考える上で、この本は価値ある仕事であると思う。




天皇とポツダム宣言2016-10-27

2016-10-27 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

日本は、太平洋戦争(大東亜戦争)を、ポツダム宣言の受諾によって、降伏ということになった。そのとき、重視されたのは、国体の護持ということであったことは、知られていることである。国体の護持、つまり簡単に言い換えれば、天皇制をどうするか、昭和天皇はどうなるのか、といったことになる。

ところで、ポツダム宣言には次のようにある。

「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」

国立国会図書館 日本国憲法の誕生 憲法条文・重要文書
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

戦後の日本占領、憲法制定、天皇制をめぐっては次のような状況にあったと、半藤一利は書いている。

「いまや天皇退位は天皇の私事ではなく、まさしく戦後日本の運命を左右する根本の大事となっていた。特にアメリカでは最大の難問なのである。それで九月から十月にかけて、ワシントンの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会(とくに下部の極東小委員会)において、時をおかず天皇の身柄をいかにすべきかについての激しい討議がつづけられていたのである。/実のところ、彼らはジレンマに直面していた。公然と、軍国主義の源泉たる天皇制の全面廃止をうちだせないのである。なぜならポツダム宣言受諾をめぐって、せっぱつまったところで日本政府に、天皇制の将来は日本国民の自由意志にまかせると、アメリカは約束していた。「いまになって、信義にもとるようなことはできない」と、強硬論者はホゾを噛まざるを得ない。」(p.156)

この本、『日本国憲法の二〇〇日』は、憲法制定のプロセスをめぐる歴史を描いている。と同時に、戦後の天皇制のあり方について、どのような思惑が交錯したかをも、同時に書いてある。

いうまでもなく、現在の天皇は憲法によって規定されている。つまり、天皇制について議論することは、憲法について、その成立について、その正統性について、議論することにつながる。

日本国民の意思によって、憲法が制定され、その憲法には、国民の総意のもとに天皇の存在が規定されている……これが、タテマエの筋道ということになる。

少し前の国会で、首相がポツダム宣言をつまびらかに読んでいるか、いないか、ということが話題になったことがあった。

ポツダム宣言の受諾によって、日本が戦争を終結させ、その占領下にはいることになった。これは冷厳な事実としてうけとめなければならない。と同時に、そのとき、我が国の国体(強いていえば、天皇制)のあり方をめぐっても、なにがしかの方向性の取り決めがあった、これもまた事実とすべきことであろう。

であるならば、ポツダム宣言受諾を受け入れるならば、天皇制維持ということもまた、日本国民の選択としてあったのだ……このように理解することもできる。

天皇制の行方は、憲法の問題でもあるし、歴史的には、ポツダム宣言受諾の時点にさかのぼって考える問題であるように思う。

半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』2016-10-26

2016-10-26 當山日出夫

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

現在の憲法については、その成立をめぐって、また、改正をめぐって、様々に議論がある。それらのなかで、この本は、読まれていい本だと思っている。と同時に、天皇というもの……今上天皇は退位の意向をしめされているようだが……について考えるとき、憲法の問題とあわせて考えるべき視点を提供してくれる本だと思う。

著者(半藤一利)は、「歴史探偵」として多くの歴史にかんする著作を書いている。この本も、その「歴史探偵」の面目躍如たるところがある。この本には、主に、三つの視点がある。

第一には、客観的な歴史記述をする、一般の歴史家の視点。この視点から描かれる日本国憲法の成立過程は、他に多くある。特にきわだって新発見の史料があるというわけではない。しかし、それはそれとして、知られていることを、実に手際よく整理してしめしてある。

第二には、当時の世相の描写である。著者の使っている用語でいうならば、「民草」の視点であり、「B面」の歴史である。ここで、頻繁に登場させているのが、山田風太郎と高見順の日記。

山田風太郎の日記……その代表的なものは『戦中派不戦日記』だろう、講談社文庫版で新旧の版を持っている……それから、作家として名をなし近代文学史に足跡をとどめる仕事をしていた高見順。この高見順、その作品自体は、もう読まれないものになってしまっているようだが、文学史をたどるうえでは、その仕事は貴重である……これらの日記史料をつかって、当時の世相を描きながら、政府に対して批判的な視点のあったことをわすれてはいない。

第三には、著者(半藤一利)の視点である。終戦当時、著者は、新潟県の長岡に疎開してして、中学生であった。その当時の中学生の視点を解雇して、どのように時代の動きがみえたか記している。この箇所についてみれば、これは、これとして、貴重な史料になるだろう。

以上、主に三つの視点をおりまぜながら追っていく日本国憲法の成立は、ただの政治史としての憲法論ではない、面白さがある。だからこそというべきなのだろうが、上記のような三つの観点は大事かと思って読んだ。

で、なぜか出てこないなあ、と思っていたのが永井荷風である。その『断腸亭日乗』がこの本では、基本的に使っていない。しかし、一カ所だけに登場させている。なるほど、このことを荷風のことばをつかっていいたかったのか、という場面においてである。

日本国憲法は、「おしつけ」であったかどうか……論者によっては様々な議論があることは承知しているが、ともかく、実際の歴史的経緯は、どんなであったか、それをその当時の人びとはどううけとめていたのか、まず、そこのところを確認することが重要なのだと思う。

この本は、2003年の刊行であるが、その「あとがき」にこう記している。

「そしてわが日本である。基本の国家戦略をいまだうち樹てないままに、「新しい戦争」を、つまり「ブッシュ戦争を支持します」とただ恰好をつけていうのは、目をつむってテロのターゲットになることを覚悟した、ルビコン河をあっさり渡ったと同義になろう。あの日から五十七年、いまの日本の指導層のなかでは、すでにして「大理想」は空華に化しているのであろう。非命に斃れた何百万の霊はそれを喜んでいるであろうか。」(p.365)

そして、さらに、その後の日本は、現行の憲法の解釈を変更し、集団的自衛権というところにまで、時代は変化してきている。

私は、必ずしも現行憲法を不磨の大典として守り抜けというつもりはない。そのときの国際情勢のなかで、常に見なおされてしかるべきだと思っている。だが、それは、たえず歴史をかがみとして、どのようにして今があるのか、たえざる反省をともなうものでなければならないと思っている。この意味において、憲法成立の過程をわかりやすく説いたこの本は、読むに値する本の一つであると考える。

服部龍二『田中角栄』2016-09-22

2016-09-22 當山日出夫

服部龍二.『田中角栄-昭和の光と闇-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883825

著者は、1968年(昭和43年)の生まれとある。私よりも若い……私ぐらいの世代(1955)だと、ちょうど、田中角栄の登場(首相になったとき)から、コンピューターつきブルドーザー、日中国交回復、日本列島改造論、立花隆の田中金脈問題、ロッキード事件、そして、その晩年から死にいたるまでを、マスコミなどでつきあってきて、記憶にもっている。そのせいであろう、この本をざっと読んで、あまりにも冷静・客観的に、「歴史」として田中角栄のことを書いてあるので、う~ん、このような見方ができる時代になったのか、という感慨の方が先になってしまう。

で、気になるところといえば、どうしても、ロッキード事件の真相はいかに、ということなのだが、この本、読んでみてもはっきりとは書いてない。まあ、真相は別にどうでもよくて、裁判がどのように推移したかを描いておけばよい、という立場もあるのだろう。しかし、なんとなく、物足りない気がしている。
第6章 誤算と油断――ロッキード事件(pp.228-259)

たぶん、このように感じるのは、私よりも上の世代までなのかもしれない。若い人になれば、もはや昭和の過去の歴史の一コマなのであろう。

「日本列島改造論」についても、結局は東京への一極集中をまねくことになったとの批判があることについて、

「これらのことを田中の限界とするのは簡単だろう。しかし、地方から東京に向かおうとするメンタリティは、政策や理屈を超えた日本人の本能である。田中といえども、それは容易に是正できなかったのである。(p.143)

というのは、どうなのだろうか。「日本列島改造論」の登場したときの熱気と、それから、田中金脈問題、ロッキード事件を契機として、手のひらを返したようなマスコミの反応、これらを体験的に知っている人間としては、そのようなドラマの背景にある日本の心性とでもいうべきものを探っていくべきではないかと思えてならない。ただ、政治、あるいは、政局の話をするだけではなく、それを受けとめる、あるいは支持する(しない)人びとの心情というものがある。

かつて、若いとき、『田中角栄研究』(立花隆)を読んだことのある人間としては、この本を通読してみて、時代が変わったな、という気がした本である。

おそらく、このような政治を歴史的に語る語法では、現代の問題として、民主党政権の誕生と挫折、それから、昨今の安保法案をめぐる攻防、このような動きも、いずれは、冷静に分析される対象となるのだろうと思う。これは、必要なことなのかもしれないが、その同時代に生きている人間の感じたこと、思ったこと、これをどのようにくみ上げていくか、その方法論も別にあってよいのではないかと思えてならない。

この本にかぎらず、最近、田中角栄についての本がたくさん刊行になっている。ここのところの一連の動きをみていると、やはり田中角栄というのは再評価されるべき政治家なのだと、再認識させられる。これは、これからの次の世代の人の仕事になるのだろう。ともあれ、昭和(戦後)という時代も、「歴史」として研究されるようになってきた、その思いをつよく感じた本である。

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』絶対平和主義2016-09-07

2016-09-07 當山日出夫

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月31日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492

現在の日本国憲法は平和主義であるという。たしかにそのとおりなのであろうが、では、平和主義であれば、それは憲法にかなったことになるのであろうか。この論点について、著者(長谷部恭男)は、否であると言っている。そのとろろを見ておきたい。

ここで第四の選択肢として、絶対平和主義をとりあげることになる。一般にいう現在の憲法についての護憲論は、これに近い立場かもしれない。たとえ攻撃されることがあっても、反撃のための武力行使を認めない。個別的自衛権も認めない。現在の憲法を、文字どおり解釈するならば、絶対平和主義ということになるだろう。とにかく、形式的な文言のうえでは戦力の保持を認めていないのであるから。

まず、立憲主義を確認しておくならば、

「善き生に関する観念は多様であり、相互に比較不能であるというのが、立憲主義の基本的前提である。」(p.167)

そして、絶対平和主義については、次のように述べる、

「これが個人レベルの倫理として語られるのであればともかく、それを国の政策として執行することは、国を守るために前線におもむくよう個人を強制する措置と同様に立憲主義の根本原則と正面から衝突するのではないかという疑念にいかに答えるかである。」(p.167)

そのためには、

「絶対平和主義に帰依しない個人は外国に「逃げる」というものであろう。」(p.167)

「ある特定の「善き生」に帰依できないのであれば、そういう人間は「日本から出ていけ」といっていることになり、立憲主義との整合性が本当にはかられているといえるか否かについては疑念が残る。」(p.168)

この論理は興味深い。憲法と平和主義という議論になると、必ず出てくるのが、頑迷な護憲的平和論、非武装論、である。その実現はともかくとして、それが、立憲主義にかなった論なのかどうか、という点では、長谷部恭男の立場においては、否であると言っている。絶対平和主義というと憲法にのっとっているように見えるが、実は、立憲主義には反していることになる。この論点は、今後の、憲法論、改憲論でおおいに配慮すべきことではないだろうか。