『政治学の名著30』佐々木毅2017-01-02

2017-01-02 當山日出夫

佐々木毅.『政治学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2007
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063557/

ちくま新書には、『~~の名著30』というタイトルの本がいくつかある。そのうちの一つ。『歴史学の名著30』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年12月23日
山内昌之『歴史学の名著30』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/23/8286305

『歴史学~~』の方は、今では売っていないようだが、こちら『政治学~~』の方は、今もあるようだ。(こういう違いはどかからきているのか。著者の意向によるものなのだろうか。単に売れ方の違いなのか。)

古典的名著というべき本のブックガイドである。

「Ⅰ 政治の意味」では、
プラトン 『ゴルギアス』
マキアヴェッリ 『君主論』
ヴェーバー 『職業としての政治』

「Ⅷ 歴史の衝撃の中で」では、
福沢諭吉 『文明論之概略』
孫文 『三民主義』
ハイエク 『隷従への道』
アレント 『全体主義の起源』
丸山眞男 『(増補版)現代政治の思想と行動』

政治学についての本であるが、これは、私流に解釈すれば、ひろい意味での「文学」の範疇にはいるものと理解している。「ことば」によって、いかにして、その「思想」をつたえるか……これは、「文学」ということで理解する。狭い意味での小説とか詩歌とかだけが、「文学」であるのではないという立場で考えている。

このなかには、読んだことのある本もあれば、名前だけの本もある。これから、本を読んでいくガイドとして手元において眺めている。

その「まえがき」につぎのようにある。「政治学」の本を集めてあることの意義についてである。ちょっと長くなるが引用する。

 その際に大事なことは、政治についてどう考えるかが政治の現実を構成する要因である、という無視できない現実に思いを致すことである。これらの名著が単なる知的アクセサリーの域を遙かに超えて、まさに現実を支え、さらには新しい政治的な現実を生み出した原動力であったことを忘れてはならない。
(中略)
その意味で政治学の名著はシリアスに受けとめられなければならない。そしてシリアスなものをシリアスに受けとめる習慣をなくすことはやがて大きな災いの素になるであろう。

以上 p.13

このような筆者の意図に即してみるならば、バークの『フランス革命についての考察』などは、ただ保守主義の古典としてではなく、現に、アクチュアルに今の政治のあり方を考える立場から、吟味されて読まれなくてはならない、ということになる。丸山眞男の本など、まさに戦後政治の背景によりそって存在するといってもよかもしれない。そして、これからもそのように読まれねばならないであろう。

ところで、私は、自分自身のことを、これまで非政治的人間だと思って生きてきた。だが、この世の中で生きているという限りにおいて、まったく非政治的であるということは不可能であるということも、なんとなく実感するようになってきている。近代という時代、現代という社会のなかで生きているうえで、何を考えていくべきか、これから本を読みながら、自分なりに時間をつかいたいと思っている。今、自分が生きている、近代、現代、ポストモダンの時代とはいったい何であるのか、である。

水島治郎『ポピュリズムとは何か』2016-12-29

2016-12-29 當山日出夫

水島治郎.『ポピュリズムとは何か-民主主義の敵か、改革の希望か-』(中公新書).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/12/102410.html

最近の中公新書はいい本を出しているなと感じるなかの一冊である。タイトルは、ずばり「ポピュリズム」を前面にうちだしている。だが、その内容はというと、むしろ、「デモクラシー」について問いかけた本であるといえるかもしれない。それも、今後、21世紀のデモクラシーのあり方を問いかけている本として読めると思う。

この本、論点を、要所要所について、箇条書き方式で整理して書く方式をとってあるので、非常にわかりやすい。そして、この本については、多くの紹介などがWEBでなされるであろうから、特にここで内容を整理してみるなどのことはやめにしておきたい。

ただ、この本を読んで、私の思ったことをすこしだけ書いておくことにする。

第一に、ポピュリズム政党の事例として、ベルギーの例があげてある。ベルギーという国は、言語的には、フランス語とオランダ語の国である、これは、言語研究の常識的知識だと思う。そして、国家の言語として固有の言語、たとえば、フランスにおけるフランス語のようなものをもたない、同時に、多言語(フランス語・オランダ語)の国として、知られている。このようなことは知ってはいても、では、そのベルギーの国の内部で、言語がどのような状態であるのかまでは、知らなかった。

それが、この本で紹介してある、ベルギーのポピュリズム政党の活動して描き出されている。やはり、ベルギー国内において、フランス語とオランダ語の対立、それから、それに対しての様々な融和政策がある。それをふまえて、オランダ語地域の独自性をもとめて、ポピュリズム政党(VB)の活動がある。

国民国家と言語、また、民族という問題を考えるうえで、やはりベルギーという国で起こっていることは、非常に興味深いと言わざるをえない。

第二に、ポピュリズム政党とリベラルの親和性である。ポピュリズムの運動は、えてして、反移民、反イスラムという方向をもつ(ヨーロッパにおいては)。この運動の方針として、イスラムは、政教分離ではない、女性を蔑視している、などの論理を展開する。リベラルの先進的な価値観によりそう形で、運動を展開する。

つまり、リベラリズムの立場からは、ポピュリズム政党の主張を、批判できないのである。

以上の二点が、この本を読んで印象に残っているところである。このうち、特に後者の問題、ポピュリズムとリベラリズムの問題は、今後の、21世紀のデモクラシーの行方を考えるうえで、きわめて重要なポイントになると思う。

この本は、特に日本のことには言及することは避けているようである。時々、維新の会のことが登場する程度である。まだ、日本では、欧米のようにポピュリズムは、さしせまった「危機」ではないといえるのかもしれない。

だが、既成政党への政治不信がたかまり、それ以外に選択肢がないという状況になったとき、ポピュリズムが存在感をもってくる。この意味では、現代日本の既成政党が、今後どのような政権運営をするか、注目しなければならないだろう。

この本では、日本のポピュリズムの事例としては、維新の例が言及されているのだが、私がこの本を読んで感じるところでいえば、小池東京都知事も、ある意味では、ポピュリズムの動きにのって当選をはたした政治家であるといえるだろう。イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ現象に目をうばわれるのではなく、この日本において、今後、ポピュリズムがどのように現れてくるのか注目しなければならない。

『ポピュリズムとは何か』は、ポピュリズムそのものに対しては、価値判断を保留している。いや、若干の否定的イメージをもちながらも、それを、いわば、民主主義の宿痾のようなものとして、とらえている。私には、そのように読める。

これからの日本の政治のあり方を考える上で、この本は価値ある仕事であると思う。




天皇とポツダム宣言2016-10-27

2016-10-27 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

日本は、太平洋戦争(大東亜戦争)を、ポツダム宣言の受諾によって、降伏ということになった。そのとき、重視されたのは、国体の護持ということであったことは、知られていることである。国体の護持、つまり簡単に言い換えれば、天皇制をどうするか、昭和天皇はどうなるのか、といったことになる。

ところで、ポツダム宣言には次のようにある。

「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ」

国立国会図書館 日本国憲法の誕生 憲法条文・重要文書
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

戦後の日本占領、憲法制定、天皇制をめぐっては次のような状況にあったと、半藤一利は書いている。

「いまや天皇退位は天皇の私事ではなく、まさしく戦後日本の運命を左右する根本の大事となっていた。特にアメリカでは最大の難問なのである。それで九月から十月にかけて、ワシントンの国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会(とくに下部の極東小委員会)において、時をおかず天皇の身柄をいかにすべきかについての激しい討議がつづけられていたのである。/実のところ、彼らはジレンマに直面していた。公然と、軍国主義の源泉たる天皇制の全面廃止をうちだせないのである。なぜならポツダム宣言受諾をめぐって、せっぱつまったところで日本政府に、天皇制の将来は日本国民の自由意志にまかせると、アメリカは約束していた。「いまになって、信義にもとるようなことはできない」と、強硬論者はホゾを噛まざるを得ない。」(p.156)

この本、『日本国憲法の二〇〇日』は、憲法制定のプロセスをめぐる歴史を描いている。と同時に、戦後の天皇制のあり方について、どのような思惑が交錯したかをも、同時に書いてある。

いうまでもなく、現在の天皇は憲法によって規定されている。つまり、天皇制について議論することは、憲法について、その成立について、その正統性について、議論することにつながる。

日本国民の意思によって、憲法が制定され、その憲法には、国民の総意のもとに天皇の存在が規定されている……これが、タテマエの筋道ということになる。

少し前の国会で、首相がポツダム宣言をつまびらかに読んでいるか、いないか、ということが話題になったことがあった。

ポツダム宣言の受諾によって、日本が戦争を終結させ、その占領下にはいることになった。これは冷厳な事実としてうけとめなければならない。と同時に、そのとき、我が国の国体(強いていえば、天皇制)のあり方をめぐっても、なにがしかの方向性の取り決めがあった、これもまた事実とすべきことであろう。

であるならば、ポツダム宣言受諾を受け入れるならば、天皇制維持ということもまた、日本国民の選択としてあったのだ……このように理解することもできる。

天皇制の行方は、憲法の問題でもあるし、歴史的には、ポツダム宣言受諾の時点にさかのぼって考える問題であるように思う。

半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』2016-10-26

2016-10-26 當山日出夫

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

現在の憲法については、その成立をめぐって、また、改正をめぐって、様々に議論がある。それらのなかで、この本は、読まれていい本だと思っている。と同時に、天皇というもの……今上天皇は退位の意向をしめされているようだが……について考えるとき、憲法の問題とあわせて考えるべき視点を提供してくれる本だと思う。

著者(半藤一利)は、「歴史探偵」として多くの歴史にかんする著作を書いている。この本も、その「歴史探偵」の面目躍如たるところがある。この本には、主に、三つの視点がある。

第一には、客観的な歴史記述をする、一般の歴史家の視点。この視点から描かれる日本国憲法の成立過程は、他に多くある。特にきわだって新発見の史料があるというわけではない。しかし、それはそれとして、知られていることを、実に手際よく整理してしめしてある。

第二には、当時の世相の描写である。著者の使っている用語でいうならば、「民草」の視点であり、「B面」の歴史である。ここで、頻繁に登場させているのが、山田風太郎と高見順の日記。

山田風太郎の日記……その代表的なものは『戦中派不戦日記』だろう、講談社文庫版で新旧の版を持っている……それから、作家として名をなし近代文学史に足跡をとどめる仕事をしていた高見順。この高見順、その作品自体は、もう読まれないものになってしまっているようだが、文学史をたどるうえでは、その仕事は貴重である……これらの日記史料をつかって、当時の世相を描きながら、政府に対して批判的な視点のあったことをわすれてはいない。

第三には、著者(半藤一利)の視点である。終戦当時、著者は、新潟県の長岡に疎開してして、中学生であった。その当時の中学生の視点を解雇して、どのように時代の動きがみえたか記している。この箇所についてみれば、これは、これとして、貴重な史料になるだろう。

以上、主に三つの視点をおりまぜながら追っていく日本国憲法の成立は、ただの政治史としての憲法論ではない、面白さがある。だからこそというべきなのだろうが、上記のような三つの観点は大事かと思って読んだ。

で、なぜか出てこないなあ、と思っていたのが永井荷風である。その『断腸亭日乗』がこの本では、基本的に使っていない。しかし、一カ所だけに登場させている。なるほど、このことを荷風のことばをつかっていいたかったのか、という場面においてである。

日本国憲法は、「おしつけ」であったかどうか……論者によっては様々な議論があることは承知しているが、ともかく、実際の歴史的経緯は、どんなであったか、それをその当時の人びとはどううけとめていたのか、まず、そこのところを確認することが重要なのだと思う。

この本は、2003年の刊行であるが、その「あとがき」にこう記している。

「そしてわが日本である。基本の国家戦略をいまだうち樹てないままに、「新しい戦争」を、つまり「ブッシュ戦争を支持します」とただ恰好をつけていうのは、目をつむってテロのターゲットになることを覚悟した、ルビコン河をあっさり渡ったと同義になろう。あの日から五十七年、いまの日本の指導層のなかでは、すでにして「大理想」は空華に化しているのであろう。非命に斃れた何百万の霊はそれを喜んでいるであろうか。」(p.365)

そして、さらに、その後の日本は、現行の憲法の解釈を変更し、集団的自衛権というところにまで、時代は変化してきている。

私は、必ずしも現行憲法を不磨の大典として守り抜けというつもりはない。そのときの国際情勢のなかで、常に見なおされてしかるべきだと思っている。だが、それは、たえず歴史をかがみとして、どのようにして今があるのか、たえざる反省をともなうものでなければならないと思っている。この意味において、憲法成立の過程をわかりやすく説いたこの本は、読むに値する本の一つであると考える。

服部龍二『田中角栄』2016-09-22

2016-09-22 當山日出夫

服部龍二.『田中角栄-昭和の光と闇-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883825

著者は、1968年(昭和43年)の生まれとある。私よりも若い……私ぐらいの世代(1955)だと、ちょうど、田中角栄の登場(首相になったとき)から、コンピューターつきブルドーザー、日中国交回復、日本列島改造論、立花隆の田中金脈問題、ロッキード事件、そして、その晩年から死にいたるまでを、マスコミなどでつきあってきて、記憶にもっている。そのせいであろう、この本をざっと読んで、あまりにも冷静・客観的に、「歴史」として田中角栄のことを書いてあるので、う~ん、このような見方ができる時代になったのか、という感慨の方が先になってしまう。

で、気になるところといえば、どうしても、ロッキード事件の真相はいかに、ということなのだが、この本、読んでみてもはっきりとは書いてない。まあ、真相は別にどうでもよくて、裁判がどのように推移したかを描いておけばよい、という立場もあるのだろう。しかし、なんとなく、物足りない気がしている。
第6章 誤算と油断――ロッキード事件(pp.228-259)

たぶん、このように感じるのは、私よりも上の世代までなのかもしれない。若い人になれば、もはや昭和の過去の歴史の一コマなのであろう。

「日本列島改造論」についても、結局は東京への一極集中をまねくことになったとの批判があることについて、

「これらのことを田中の限界とするのは簡単だろう。しかし、地方から東京に向かおうとするメンタリティは、政策や理屈を超えた日本人の本能である。田中といえども、それは容易に是正できなかったのである。(p.143)

というのは、どうなのだろうか。「日本列島改造論」の登場したときの熱気と、それから、田中金脈問題、ロッキード事件を契機として、手のひらを返したようなマスコミの反応、これらを体験的に知っている人間としては、そのようなドラマの背景にある日本の心性とでもいうべきものを探っていくべきではないかと思えてならない。ただ、政治、あるいは、政局の話をするだけではなく、それを受けとめる、あるいは支持する(しない)人びとの心情というものがある。

かつて、若いとき、『田中角栄研究』(立花隆)を読んだことのある人間としては、この本を通読してみて、時代が変わったな、という気がした本である。

おそらく、このような政治を歴史的に語る語法では、現代の問題として、民主党政権の誕生と挫折、それから、昨今の安保法案をめぐる攻防、このような動きも、いずれは、冷静に分析される対象となるのだろうと思う。これは、必要なことなのかもしれないが、その同時代に生きている人間の感じたこと、思ったこと、これをどのようにくみ上げていくか、その方法論も別にあってよいのではないかと思えてならない。

この本にかぎらず、最近、田中角栄についての本がたくさん刊行になっている。ここのところの一連の動きをみていると、やはり田中角栄というのは再評価されるべき政治家なのだと、再認識させられる。これは、これからの次の世代の人の仕事になるのだろう。ともあれ、昭和(戦後)という時代も、「歴史」として研究されるようになってきた、その思いをつよく感じた本である。

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』絶対平和主義2016-09-07

2016-09-07 當山日出夫

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月31日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492

現在の日本国憲法は平和主義であるという。たしかにそのとおりなのであろうが、では、平和主義であれば、それは憲法にかなったことになるのであろうか。この論点について、著者(長谷部恭男)は、否であると言っている。そのとろろを見ておきたい。

ここで第四の選択肢として、絶対平和主義をとりあげることになる。一般にいう現在の憲法についての護憲論は、これに近い立場かもしれない。たとえ攻撃されることがあっても、反撃のための武力行使を認めない。個別的自衛権も認めない。現在の憲法を、文字どおり解釈するならば、絶対平和主義ということになるだろう。とにかく、形式的な文言のうえでは戦力の保持を認めていないのであるから。

まず、立憲主義を確認しておくならば、

「善き生に関する観念は多様であり、相互に比較不能であるというのが、立憲主義の基本的前提である。」(p.167)

そして、絶対平和主義については、次のように述べる、

「これが個人レベルの倫理として語られるのであればともかく、それを国の政策として執行することは、国を守るために前線におもむくよう個人を強制する措置と同様に立憲主義の根本原則と正面から衝突するのではないかという疑念にいかに答えるかである。」(p.167)

そのためには、

「絶対平和主義に帰依しない個人は外国に「逃げる」というものであろう。」(p.167)

「ある特定の「善き生」に帰依できないのであれば、そういう人間は「日本から出ていけ」といっていることになり、立憲主義との整合性が本当にはかられているといえるか否かについては疑念が残る。」(p.168)

この論理は興味深い。憲法と平和主義という議論になると、必ず出てくるのが、頑迷な護憲的平和論、非武装論、である。その実現はともかくとして、それが、立憲主義にかなった論なのかどうか、という点では、長谷部恭男の立場においては、否であると言っている。絶対平和主義というと憲法にのっとっているように見えるが、実は、立憲主義には反していることになる。この論点は、今後の、憲法論、改憲論でおおいに配慮すべきことではないだろうか。

斎藤美奈子『学校が教えないほんとうの政治の話』2016-09-03

2016-09-03 當山日出夫

斎藤美奈子.『学校が教えないほんとうの政治の話』(ちくまプリマー新書).筑摩書房.2016
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480689665/

選挙権の年齢が18歳に引き下げられたのをうけて、斎藤美奈子の書いた、政治の入門書、とでもいっておけばいいだろうか。さっそく買って読んでみたのだが、はっきり言ってがっかりした、というのが正直なところ。もうちょっと深みのある議論ができないものか。

しかし、まあ、せいぜいほめてみることにする。

内容としては、そんなに目新しいことが書いてあるわけではない。いわゆる五五年体制の成立と崩壊から現代にいたるまでの政治のおおきな流れと、現代における政治的諸問題についての解説、と思ってよめばいいかな、というところである。

この本は、基本的に二分法の発想で書いてある。目次をざっとみれば、

第1章 二つの立場:体制派と反体制派
第2章 二つの階級:資本家と労働者
第3章 二つの思想:右翼と左翼
第4章 二つの主体:国家と個人
第5章 二つの陣営:保守とリベラル

このようにきれいに二分法で整理してある。あまりにきれいに整理してあるので、読んでいて、途中、ちょっと強引すぎやしないか、あるいは、はしょりすぎてはいないか、と感じるところが時々ある。とはいえ、現実の政治的判断において、保留ということを認めない以上は、いずれかの立場に立たざるをえない。どちらかの立場に立つしかない。では、読者(あなた)は、どっちにしますか……と、問いかけるものになっている。

高校生あるいは大学教養レベルの知識があれば、充分に読める文章である。だが、それを超えたところで、では、「保守思想とは何か」「立憲主義とはどういう考え方か」というようなことを考えるところまでは及んでいない。それはこの本の守備範囲を超えることになる。「ほんとう」はここのところまで踏み込んで議論しないといけないと思うのだが。

全体を通じておおむね両論併記の立場で記述してあるが、最終的に著者(斎藤美奈子)の立場としては、リベラル・個人・反体制を、自分は選ぶとしてある。このあたり、いつのまにか誘導してあるというよりも、一定のケジメをつけたうえで、自分の立場はこうだと言っているあたりは潔い。

ここで欲をいえば、なぜ反体制でなければならないのか、のあたりの説明に説得力が欠ける気がする。そして、現状の分析(国会でいわゆる改憲発議に必要な三分の二を与党系でしめている状態)が、強引、あるいは、悲観的にすぎはしないか、という気もする。確かに三分の二はとったかもしれないが、同じ方向をむいて三分の二というわけではない。改憲といっても、その中身を議論するのはこれからになる。一つの改憲案にしぼって三分の二の賛成を得るには、非常にハードルが高いと思っているのが、私の判断ではあるのだが。

上記のように、この本は基本的に二分法でものごとを整理してある。しかし、二分法では、どこかで思考停止ということになりかねない。また、二分法では整理できな状況というものもある。このあたりの議論を整理したものとしては、

佐藤健志.『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』.徳間書店.2016
http://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198640637

がいいかなと思ったりする。私としては、現在の日本の状況についての分析としては、斎藤美奈子より佐藤健志の方をおしておきたい。本書でしめされているように二分法で対立しているように見える敵対陣営が、実はその水面下で通じるものがある。そして、単なる二分法では整理できない、実際の政治の状況というものがある。このような冷めた分析も必要かと思う次第である。

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義2016-08-31

2016-08-31 當山日出夫

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月29日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』平和主義と立憲主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/29/8165183

そろそろ、憲法九条の解釈の問題にとりかかる。

ここで著者は「穏和な平和主義」というのを持ち出してくる。

「第一に、各国が自衛のための何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢がある。」(p.160)

これは、冷戦後には現実味のある選択肢であるとしたうえで、

「穏和な平和主義が答えるべき第一の疑問は、はたして憲法第九条から軍備の保持および実力の公使に関する明確な限界を引き出すことができるか否かであろう。」(p.161)

「集団的自衛権は、自国の安全と他国の安全とを鎖でつなぐ議論であり、国家としての自主独立の行動を保障するはずはない。自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束として、充分に有りうる選択肢である。」(p.162)

そして、

「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもないからである。」(p.163)

ここでいう「譲歩」「踏みとどまる適切な地点」というあたりの考え方が、今般の安保法制で、違憲論が憲法学者から出されたおおきな理由の一つということになるのであろう。この本を書いた長谷部恭男も、まさにその一人である。そして、それは、「伝統」であるといっている。

「ときに、憲法第九条から導かれるとされるさまざまな制約が、「不自然」で「神学的」であるとか、「常識」では理解しにくいなどといわれることがあるが、こうした批判は全く的がはずれている。合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、この問題に関する議論の「伝統」をよく承知しない人たちから見て、その「伝統」の意味がよくわからないかどうかは関係がない。」(p.163)

集団的自衛権の否定が、憲法に違反するのが「伝統」であるから、それをみとめろ、端的にいえばこうなるか……国会審議のなかで出てきたことばを思い出せば「法的安定性」ということばが思い浮かぶ。憲法に集団的自衛権があるとも無いとも明記されていない以上、その文言の解釈の「伝統」というのは、尊重されるべきもの、ということになるのであろう。

これを、それなりの重みのある発想ととらえるか、あるいは、現実にそぐわない旧套墨守の考えとみるかは、これは、人によって意見のわかれるところかもしれない。しかし、これまで、緻密に議論を積み重ねてきた最後のところででてくるものとして「伝統」というのは、これはどうしたものかという気がしなくはない。

ここは、いずれの方向(集団的自衛権をみとめるにせよ、みとめないにせよ)であっても、憲法に明記するというのも、あっていいように思われる。これはこれで、筋のとおった改憲論であると思うのだが、どうであろうか。これに対しては、いかなる点においても、現行憲法の改正はみとめないという頑迷な護憲論者を相手にしなければならなくなるが。

なお、ここで「伝統」と著者が言っていることは、「国境」についてもあてはまるとする。(p.164) その必然性はないかもしれないが、ともかくそこに国境が引かれていること、そのこと自体に意味があるとする。この「国境」のことについては、

「国境はなぜあるのか」
長谷部恭男.『憲法とは何か』(岩波新書).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0604/sin_k286.html

に興味深い論考がある。国境というものを考えるとき、国民国家とか、民族の共同体とかというような概念をまったくつかわずに説明してある。法律の専門家はこのように考えるのか、ということが、その意味で理解される文章である。

追記 2016-09-07
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』絶対平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/07/8172624

長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』平和主義と立憲主義2016-08-29

2016-08-29 當山日出夫

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月19日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』外国人
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/19/8154768

いよいよこの本の本題のところにさしかかる。第8章「平和主義と立憲主義」のところである。この章、かなりわかりづらいところがあるのだが、ともかく、読みながら付箋をつけた箇所をひろってみることにする。

この章については、

「本章の議論の主要なテーマの一つは、こうした絶対平和主義と立憲主義の間にひそむ深刻な緊張関係を明らかにすることである。」(p.129)

とある。立憲主義……日本国憲法は平和主義の憲法なんだから、それは即ち平和主義にきまっているではないか……という立場を、この本はとっていない。いや、むしろ、そのような短絡的な発想を否定している。立憲主義ということと、平和主義ということとは、そう簡単に結びつくものではないらしい。

「調整問題」「囚人のディレンマ」については、この本に書いてある以上の要約はむずかしいので、割愛することにする。とはいえ、このようなモデルにもとづいて、国家としての意思決定のあり方を考えることは、絶対平和主義……たとえ外国から攻められることがあっても反撃すこともしない……とは、一線を画す議論を構築するためには、必要な手続きであることは確認しておきたい。このような問題が、国際的な国家間にあることをふまえたうえで、憲法について述べた箇所でつぎのようなところが気になった。

「ただ、日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。」(p.142)

としたうえで、

「国は、「いかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法第二〇条にもかかわらず、宗教とかかわる一切の国家活動が禁じられているわけではない。」(p.142)

とある。他に「表現の自由」も例にあげられている。それをふまえて、

「第九条の文言を文字どおりに理解しようとする支配的見解の背景には、それに対応する実質的な根拠が条文の外側にあると思われる。」(p.143)

とある。このあたりの議論になると、法律の専門知識がなければ、憲法の解釈には踏み込めない、という感じになってくる。では、法律学者は、これから先の議論をどのように考えているのであろうか。本書からいくつかひろって読んでみることにする。立憲主義と平和主義との関連では、つぎのような箇所がある。

「国内の政治過程が非合理な決定を行う危険、そして個々の国家にとって不合理な行動が国際社会全体としては非合理な軍拡競争をもたらす危険に対処するためには、各国が、憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的にも表明することが、合理的な対処の方法といえる。」(p.155)

これまで読んできたように、立憲主義というのは、ある意味では民主的な多数決を否定するものである。そのときの民主的多数派の意見に歯止めをかけるものとしての立憲主義ということになる。

この観点で、平和主義との関連では、つぎような箇所になるのだろう。

「ことに、第二次世界大戦前において、民主的政治過程が軍部を充分にコントロールすることができず、民主政治の前提となる理性的な議論の場を確保しえなかった日本の歴史にかんがみれば、「軍備」といえる存在の正統性をあらかじめ封じておくことの意義は大きい。」(p.156)

「リベラルな立憲主義にもとづく国家は、市民に生きる意味を与えない。それは、「善き徳にかなう生」がいかなるものかを教えない。われわれ一人ひとりが、自分の生の意味を自ら見出すものと想定されている。そうである以上、この種の国家が外敵と戦って死ぬよう、市民を強制することは困難であろう。以上の議論が正しいとすれば、立憲主義国家にとって最大限可能な軍備の整備は、せいぜい傭兵と志願兵に頼ることとなる。」(p.158)

そして、どのような軍備をそなえておくにせよ、

「合理的自己拘束としての憲法の役割は高まることになる。」(p.159)

としてある。

ここまで読んできたところでは、やはり井上達夫のいうところとするどく対立することになる。井上達夫は、憲法第九条を削除したうえで、徴兵制ということをいっている。

やまもも書斎記 2016年7月24日
井上達夫「憲法と安全保障」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/24/8137326

憲法の、いや、そもそも法律の門外漢としては、どちらの意見がただしいのかは、すぐに判断しかねる。しかし、憲法にもとづいた平和主義といっても、その立論の仕方には、いろんな考え方があることは理解できる。すくなくとも、憲法を尊重する、憲法学という立場からしても、そう簡単に、平和主義と結びつくものではないことが確認できるだろうと思う次第である。素人目には、かなり屈折したというか、複雑な議論が、そこにはあることになる。

追記 2016-08-31
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/31/8166492

会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』フランシス・フクヤマ2016-08-27

2016-08-27 當山日出夫

先日は、この本のエピローグから、漱石の『こころ』がアメリカでどう受容されているか、興味深かったので、ちょっと書いてみた。今日は、この本の本筋にあたるところを読んでみたいと思う。

やまもも書斎記 2016年8月24日
会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』夏目漱石『こころ』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/24/8161273

会田弘継.『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫).中央公論新社.2016 (原著、新潮社.2008 文庫化にあたり加筆。)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/07/206273.html

この本の著者(会田弘継)、思想史研究者という感じの人ではないようだ。略歴を見ると、共同通信のジャーナリスト、ワシントン支局長などをつとめている。と同時に、フランシス・フクヤマの著書の翻訳などてがけている。現在は、青山学院大学教授。

私自身、アメリカ思想史というのにはとんと疎い。いやそもそも、一般にアメリカ思想史ということがあまりない。(フランス現代思想とかならまだわかるような気もするのだが。)そのような状況をふまえて、この本自身が、現代アメリカ思想の概説的な紹介になっている。ここでは、やはり、著者が翻訳にもたずさわっているフランシス・フクヤマの章を見ておくことにしたい。(さすがに、私でも、この名前ぐらいは知っているので。)

フクヤマの思想の前提として、

「リベラルな民主主義(政教分離、言論・結社の自由などを維持して行う民主制)は近代化プロセスの必然だという主張である。それはキリスト教文明の下でなければうまく機能しないという考え方をフクヤマはとらない。伝統的保守主義者がしばしば、西欧政治思想の伝統の中で生まれた自由主義などは西洋でしか機能しないと考えるのとは異なる。近代化プロセスは米欧だけでなく、日本をはじめ東アジアでも機能しているし、トルコやインドネシアのようなイスラム圏の国でも機能し始めているとみる。」(pp.174-175)

それは、フクヤマが、

「近代を前近代、ポストモダンの立場から見つめ直したうえで、近代化プロセスの意味をつかみ取った思想家だとみてよいだろう。」(p.177)

であるからとする。そして、それが、

「そうしてつかみ取られた近代への執念こそが、ネオコンサーバティズムの本質といえる。」(p.177)

という。そして、そのような近代批判のあり方については、福沢諭吉や夏目漱石の思想の構造との類比が指摘してある。(p.186)

そのフクヤマについて、

「学問の世界がどんどんと狭い専門領域に閉じこもる時代に、こうした大きな構えで著作を世に問う学者はきわめて少なくなった。一人で通史を書く学者もまれだ。そうした意味で、フクヤマは貴重な存在であり、また学者というより思想家と呼ぶのが相応しい。」(p.206)

と評価したうえで、最近の著書『政治の起源』について、次のように紹介する。会田弘継は、この本の翻訳者でもある。

「フクヤマの叙述は、政治制度の歴史をギリシャ・ローマから中世ヨーロッパ、宗教革命を経て啓蒙思想によるブルジョア革命から産業革命――と、西欧中心にたどるのとはまったく違う。まず中国の秦の始皇帝がつくった中央集権化した強力な国家権力と能力本位の官僚制創設に政治制度における「近代性」の萌芽を見る。」(pp.206-207)

「古典的な近代観――宗教革命による自我の確立と個人主義の誕生、それをベースにした啓蒙思想による社会契約の思想の発展――を振り切って、フクヤマは近代の政治制度発展をまったく新しい観点で論じる道に踏み出すことができた。古典的な近代観を離れたからこそ、あえてギリシャ・ローマに帰る必要もなくなり、近代政治制度の発展の道筋を、大胆に、広く人類全体のさまざま政治制度のなかに探っていくことができたのである。」(p.207)

と、このように引用してくると『政治の起源』を読んでみたくなる。この本かと思う。

『政治の起源』上
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171502

『政治の起源』下
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062171519

この本、いまから、夏休みの宿題にするには、ちょっと荷が重い。ちょっと待って冬休みの宿題ぐらいにしようかと思っている。