『死刑 その哲学的考察』萱野稔人2017-10-13

2017-10-13 當山日出夫(とうやまひでお)

萱野稔人.『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069870/

死刑についての本である。死刑については、えてしてその賛否の結論のみが議論されがちである。無論、結論として賛成するのか反対するのかは重要である。だが、それにもまして重要なのは、なぜそのように考えるにいたったかの経緯でなくてはならない。そのような立場もあっていいだろう。

この本では、死刑について考察している。主に二つの論点があると思って読んだ。

第一には、道徳的な面からの考察。いかなる場合でも人を殺してはいけないと道徳的に裏付けることは可能か。そもそも、道徳とは、普遍的な規範たりうるものなのであろうか。

第二には、政治哲学的な面からの考察。刑罰の根底にあるものは、人間社会を維持するための応報論であるとする。では、死刑は究極の刑罰たりうるのであろうか。

主に、二つの論点からこの本は論じてある。なかでカントなどへの言及がすこしあるとはいうものの、基本的に、参考文献があってそれを論駁するというようなスタイルはとっていない。ゼロのところが考え始めて、死刑の是非を問うている。また、冤罪の問題についても考察してある。

死刑に賛成する/しないの立場は、読者によっていろいろあるだろうが、このことを考えるのに、この本は、必読だろうと思う。

死刑への賛否としてこの本から読みとるべき点は次の二点かと思う。

第一に、死刑に反対するならば、終身刑ということになる。では、どちらがより重い刑罰であるのか、ということをさらに考えてみるならば、より重い刑罰の方が応報としてふさわしい、と単純にいいきれるのかどうか。

死刑は残酷であるというのならば、では、終身刑は残酷ではないのであろうか。

第二は、冤罪の可能性が制度的にゼロでない以上は、死刑は否定されるべきであるという論点は、尊重しなければならないだろうということ。

この二つの点が、私がこの本を読んで感じたところである。この本は、あくまでも死刑という制度の是非を論じた本である。具体的に、日本で行われている死刑は、絞首刑であるが、その方法の是非については言及していない。もし死刑を認めるならば、どのような死刑の方法がふさわしいか、これがさらに考えるべき問題としてはあることになる。

感情的にあんな悪いやつは死刑にすればいいでもなく、逆に、いわゆる人道的立場からの反対論でもなく、死刑という刑罰の是非そのものを根本的に考えるのに、まずは冷静に、その論のよってきたるところをかんがみる必要がある。

なぜ、自分はそのように考えるのか、その根本をかえりみることこそ、哲学というものであろう。

『街場の天皇論』内田樹2017-10-09

2017-10-09 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『街場の天皇論』.東洋経済新報社.2017
https://store.toyokeizai.net/books/9784492223789/

内田樹の本は、なるべく読むようにしている。これは、好きだからというわけではなく、自分の考え方がどれだけまともであるか、判断するのにと思ってのことである。

最新刊は、『街場の天皇論』。だが、特に目新しいことが書いてあるというわけではない。特に、天皇について書いたところは、これまでに既出であるもののよせあつめ。そして、それ以外の雑多な文章については、ほとんどまともに論ずるにたえないといっておけばいいだろう。

この本の奥書の著者の紹介のところにも、「思想家」とある。いったいいつから、内田樹は思想家になったんだろう。昔、まだ、20世紀だったころ、大学でフランス語を教える先生であり、フランス現代思想研究者、あるいは、評論家、ということでとおっていたように記憶しているのだが、はてどうであろうか。それが、近年では、思想家になってしまっている。

まあ、その思想家の思想をみとめるとしよう。であるなら、もし、内田樹がこれから先にも残る思想家であるとするならば、21世紀の初頭において、保守の理念を語った人物として残ることになるだろうと思う。

その言っていることは、反体制的なものが多い。だが、だからといって、いわゆるリベラルとは違う。保守の立場である。その保守の立場としての内田樹の思想とでもいうべきものを、端的に表している本であると思って読んだ。

2016年8月8日の、今上天皇の退位の意向を示された「おことば」。ここに、戦後日本がつちかってきた、また、今上天皇が考え、実践してきた、象徴天皇としてのあり方を読みとっている。

これは、いまでも簡単にHPで見ることができる。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

その天皇論であるが……これについては、私は、かなりのところ同意する。百年、千年の歴史をせおって、さらに、今から百年、千年の将来をになうものとして、今の天皇がある。その職務は、日本の人びとのために、祈ること、苦楽によりそうことである……ざっとこのような趣旨の天皇観については、深く同意するところである。

この限りにおいて、私は特段、内田樹を批判しようとは思わない。このような天皇観があってもよい。そして、それについては、私も同意である。

だが、強いて批判的に考えてみるならば、なぜ、そのような天皇が連綿と日本の国においてつづいてきたのか、その歴史的検証と考察が必要かもしれない。また、近代になってから、近代天皇制、特に、昭和戦前の天皇制が、本来の姿……と思われるもの……からゆがめられたものになってしまったことについては、厳しく批判的に考えなければならない(この点については、いくぶん言及してはあるが。)

さらにいえば、そのような、新たな象徴天皇制を育んできた、戦後日本のあゆみについても、歴史的に考察する必要があろう。私の経験からいえば、戦後の天皇制についての議論は、昭和天皇の崩御の時に、ある種のピークを迎えている。昭和天皇崩御に際しての、国民の反応、マスコミの言説、これらを今後検証していく必要があると思う。

今から思い返してみれば、昭和天皇崩御の時の、狂おしいばかりの国民的な熱狂とでもいうべきものを経たからこそ、それを経過したものとしての平成の時代の天皇制があり得たのだと思う。個人的な感慨としては、昭和天皇という方は、やはり昭和という時代を背負っていた。崩御のときの国民的熱狂によって浄化された、あるいは、昇華されたものとして、今の平成の象徴天皇制があるように感じている。昭和の末期、昭和天皇崩御の事件は、国民的祝祭であったともいえるのではないか。あるいは、日本の国民としての通過儀礼のようなものであったともいえようか。

私は、昭和天皇崩御の件を抜きにして、平成の象徴天皇制はないだろうと思う。そして、このことにふれていない、内田樹の戦後象徴天皇制論には、一抹の不満もある。強いていえば、「天皇論」といいながら、「平成天皇論」にとどまっている。

「昭和天皇崩御の研究」こそが、今、求められている。あるいは、昭和から平成にかけての天皇史が必要である。

また、この本で述べられたことを延長して言うならば、安倍首相などは、まさに君側の奸であるというべきだが、はたしてどうであろうか。

『日本の覚醒のために』内田樹2017-06-30

2017-06-30 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『日本の覚醒のために-内田樹講演集-』.晶文社.2017
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4321

内田樹という人は、いつから「思想家」になったんだろうか。この人が、本を書き始めていたころ、今から10年以上も前のことになるが、そのころは、大学の教員であると同時に、評論家、あるいは、せいぜいフランス現代思想研究者であったように憶えている。それが、近年、マスコミなどの登場するときは「思想家」になってしまった。

まあ、どのような肩書で呼ぶかは、本人のあずかり知らぬところといってしまえばそれまでかもしれないが、はたして、本人はそれでいいのだろうか……余計な心配をしたくなってくる。

この内田樹、近年出た対談などは、はっきりいって読むにたえるものではない。まあ、居酒屋での与太話である。しかし、この本『日本の覚醒のために』は、いいと思って読んだ。

まだ、あまり有名でないころ、初期のエッセイでこんな意味のことを書いていたのを憶えている……なぜ、自分はひとと違う意見をもっているのか、自分と違う考え方のひとがいるのは何故なのか、その点について、自覚的であり自省しなければならない……このような意味のことが書いてあって、この点については、なるほどと思って読んだ記憶がある。

対談になると、相手と意見の一致を見るところだけで、勝手に話しがあらぬ方向にいって、ホラ話、与太話になってしまうことが多い。このあたりのことについては、すでにちょっとだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月10日
内田樹・白井聡『属国民主主義論』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134271

それから、
内田樹.姜尚中.『世界「最終」戦争論 近代の終焉を超えて』(集英社新書).集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0836-a/

は、読むには読んでみたが、とても読後感など書く気になれなかったので、そのままにしてある。

しかし、こんど出た講演集はいい。講演ということだから、どちらかといえば、不特定多数の人を相手にしゃべることになる。どんな人が聞いているわからない。自分の意見に賛同してくれるひとばかりではないかもしれない。そのようなひとになんとかして、自分の考えていることを、とどけたい、説明したい、語りかけたい、という姿勢でのぞむことになる。そのような姿勢が、この講演集には、みられる。だから、全体として抑制のきいた論調になっている。(とはいっても、内田樹のことだから、かなり思いつきで言っているというようなところもあるのだが。)

「あとがき」で内田樹本人が書いていることだが、この本に収められた講演のなかでは、Ⅲの「伊丹十三と「戦後精神」」が、面白い。

私は、これまで、伊丹十三は、映画監督として見てきて、あまり、その著作を読むということがなかったのだが、これは、読んでおくべきかと思う。『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫版)など、買って読み始めたところである。

逆にあまり感心しなかったのが、Ⅵの「憲法と戦争-日本はどに向かうのか-」である。政治がらみの話で、いろいろと話題がとんでいるので、一貫して何を主張したいのか、今ひとつ、説得力をもってつたわらなかった。

ともあれ、この内田樹というひと……去年のブログで書いたように、基本的に保守的なひとであると思っている。その保守の思想が、いい意味であらわれているのが、伊丹十三を論じたあたりであるといえようか。

ヨーロッパの古くからの文化とそれを支える職人たちに、日本の伝統と共通する物を見いだして読み解いていくあたりは、「保守」の発想である。

気になったことを書いておけば、伊丹十三について論じながら、その父親である、伊丹万作については、まったくふれていない。伊丹万作の著作集だったか、出版されたのは、私の若い時、学生のころであったろうか。その時から、伊丹万作のことは気になっている。たぶん、伊丹万作のことについて触れなかったの、それなりの意図があってのことだと思って読んだ。

内田樹が、もし「思想家」であるとするならば、21世紀における「保守」の理念を語ったひととしてであるように思うのである。

『憲法サバイバル』森達也・白井聡2017-06-12

2017-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

白井聡については、このブログでも以前にとりあげたことがある。

やまもも書斎記 2016年6月25日
白井聡『戦後政治を終わらせる』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/25/8118252

この時の私の白井聡についての評価はきわめて低い。「永続敗戦論」というテーマはいいとしても、では、これから我々はどうすべきかとなったときに、精神力で頑張れ、としか言っていない。これは、何も言わないよりもたちが悪いとしかいいようがない。

この対談を読んでも、その印象が好転することはなかった。所詮、言っていることは、毒にも薬にもならないようなことである。

だが、そうはいっても読みながら、いくつか付箋をつけた箇所を見ておきたい。

(森)「象徴天皇制を採用するのであれば、人間宣言するべきではなかった。現人神のままでいれば象徴になり得たわけですが、人間ならば象徴になりえない。しかも戦後の天皇は実は人間以下のです。なぜならば憲法が規定する人権が保障されていない。選挙権もなければ職業や居住地を選択する自由すらない。」(p.174)

(白井)(天皇の退位表明の放送について)「天皇は、象徴の役割を果たすということについての自らの見解を具体的に語った。役割の基本は祈りです。つまりこの国が平安であれという祈りを捧げることと、傷ついた人たちを慰めることですね。」(p.207)

現在の憲法においては、天皇に人権が認められていないことについては、このブログでもすでにふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年8月12日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』天皇は憲法の飛び地
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/12/8150156

もし、「人権」ということを本当に考えるならば、天皇の人権はいかにあるべきか、それとも、特殊に制限されるものなのか、もっとラディカルに考えるべきことになると思っている。

また、象徴天皇の役割を「祈り」とすることは、言われるまでもなく、すでに多くの国民が、自ずと納得していることだろうと思う。でなければ、天皇の被災地訪問などの行為が、歓迎されるはずもない。

また、白井聡は、このようにも言っている。

「私は天皇を論じるときは、明治以降の極めて近代的なシステムとしての天皇制を基本的にはとらえるべきだと思います。これは明治維新をやった革命家たちが、ものすごく人為的・人工的につくったものです。/その一方で、仮に天皇制が単にすごく底の浅い作り物だったとしたら、それがある時期「天皇陛下のために死ぬのは当たり前だ」というとてつもない国民動員装置になったことを説明できない。神道を考える際にも同じことが言えると思います。ここのバランス感覚はなかなか難しいんですね。」(pp.214-215)

この指摘はあたっていると思う。だが、であるならば、これからの天皇制はいかにあるべきか、そこのところをもっと掘り下げて論じるべきではないか。

それは、森達也の言う、

「僕も、メディアの責任は非常に大きいと思います。タブーに抗する存在であるべきメディアの方が、これまでのタブーの濃度を追い越すかたちで、自粛・忖度などといった領域を広げてしまっている。」(pp.211-212)

これをふまえるならば、まず、メディアの側にいる人間……森達也も白井聡も、どちらかといえば、メディアの側の人間だろう……が、責任をもって、これからの天皇のあり方について、きりこんでいくのでなければならない。

なお、この対談が行われたのは、2016年である。その後、今年(2017年)になって、今上天皇の退位をさだめた特例法が成立した。次の天皇は、平成にかわるどのような時代をになっていくことになるのか。自粛も忖度も無い議論がこれから必要になってくるのであろう。

以上、『憲法サバイバル』を4回にわけて、順番に読んでみた。結果として感想をのべれば、一番面白いのは、冨澤暉・伊勢崎賢治の対談、一案くだらないのは、上野千鶴子・佐高信の対談、ということになろうか。憲法改正ということが、具体的な政治課題となろうとしている今、この本は、読んでおく価値のある本だとは思う。九条について、また、象徴天皇制について、考えるべき論点は、まだまだ残されていると思うし、考えていかなければならないことだと思っている。

『憲法サバイバル』冨澤暉・伊勢崎賢治2017-06-10

2017-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

この章を読んで、一番に感じたことは、ちくま新書の編集部の見識である。この本は、2016年に池袋のジュンク堂でおこなわれた対談を編集したものである。その観点からは、すべての対談を同列にあつかう必要がある。しかし、この本を読むとそうはなっていない。一見すると、同じようにあつかっているようだが、二番目の対談(上野千鶴子・佐高信)とは、あつかいで一線を画している。

単純に使っているページ数をみても、上野千鶴子・佐高信では、25ページほどの分量だが、冨澤暉・伊勢崎賢治では、65ページほどをつかっている。対談時間にそんなに差があったとも思えない。明らかにあつかいの上で差をつけている。

まあ、相変わらずの左翼与太話につきあっている暇はない……というのが、ここまで読んでの感想。逆に言えば、三番目の対談(冨澤暉・伊勢崎賢治)は、読み応えがあり、内容も充実している。(この本『憲法サバイバル』の中におさめるのは惜しい気がする。これだけで独立して一冊にした方がよかったのではないかと思わせる。)

中世が終わり、ナポレオンが出てきてから、国家と国家の戦争がはじまったと指摘する。それは、1945年までつづいた。その後、核兵器によって、戦争が抑止されてきたという現実を直視する観点を導入する。

また、憲法九条に関連して、「交戦権」こそが問題であるという。この「交戦権」については、護憲派の立場からきちんと理解されていないことを述べる。

緊急事態条項については、それを批判的にとりあげるリベラル陣営の側こそが、その本質を理解していないことを言う。

さらに、国連PKOについては、国連が交戦の主体となっている現状を指摘する。そのうえで南スーダンにおけるPKO活動の問題点を指摘する。(この点については、この本で指摘された議論がふかまることなく、日本は撤退ということで、終わってしまっている。)

この対談は、現実に世界の国々が、軍事力をもっていること、そして、現在では、テロリストなど新たな脅威と立ち向かわなければならなくなっている現状を、冷静に見ている。この本で、この対談まで読んでくると、その直前の、上野千鶴子・佐高信の言っていたことが、いかにも空虚に見えてくる。たまたまかもしれないが、そのような編集になっている。この意味では、上野千鶴子・佐高信の対談の最後に、伊勢崎賢治のことばの引用で終わらせているのは、かなり皮肉な編集をしていると感じさせる。

この章を読むためにだけでも、『憲法サバイバル』は買って読んで損はないと思う。

『憲法サバイバル』上野千鶴子・佐高信2017-06-09

2017-06-09 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

この本の二つ目の対談は、上野千鶴子と佐高信である。じつにきっぱりとした対談といえる。

憲法、あるいは、改憲をめぐっては、いくつか論点があるが、その中で、緊急事態条項について、言及してあるあたりが、まともな憲法論か。(まあ、それ以外は、左翼的な放談だと思って読めばいいと思う。)

ただ、軍隊は何のためにあるのかについて、次のようにあるところは、見逃すべきではなかろう。来栖弘臣という人(統合幕僚会議議長をつとめた)が書いた『日本国防軍を創設せよ』という本にふれて、

(佐高)「その中に「自衛隊は国民の生命・財産を守るためにあると誤解している人が多い」と書いてある(笑)。」

(上野)「じゃあ、何を守るんですか?」

(佐高)「国の独立と平和を守る。彼らの中では、国民の生命・財産と国の独立・平和は違うんだよ。」

(佐高)「国とは、何とかに基づく伝統意識である。要するに天皇制でしょう。」

以上、p.83

左翼的な立場からの、かなり雑な議論である。そのところを大幅に割り引いて考える必要はあるが、ともかく、国家が何のために武力(軍隊)を持っているのか、ということに問いかけを発していることは確かである。

この対談は、私には、左翼的な与太話としか読めないのであるが、国家が軍事力を持つとするならば、それは何のためにあるのか、また、どのようにコントロールされるべきか、という問題意識を提起しているところは、評価して読むことができようか。

それから、現時点での改憲論議にふれては、最後にある次のような指摘は見ておくべきだろう。

(上野)「(伊勢崎賢治の言っていることとして)今さら「九条を守れ」なんて言うな。世界ではもうとっくに、日本は戦争をする国と思われてしまっている。そこで「九条を守れ」なんて言ったら、世界中にわざわざ「日本は嘘つきの国だ」と言って回るようなものじゃないか。」(p.90)

この指摘には同意できる。だが、そうは言っても、憲法の文言として九条があることが、ある種の歯止めになっていることも、また事実ではあろう。嘘をつくことになるかもしれないが、それでも歯止めとしの九条の役割はあると見るべきだろうか。それとも、実際に軍事力をもっている以上は、それを憲法に位置づけるべきなのであろうか。現在の改憲論議の焦点になっているところである。

ここで出てきた伊勢崎賢治は、次の対談に登場する。

『憲法サバイバル』加藤陽子・長谷部恭男2017-06-08

2017-06-08 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

筑摩書房から、ちくま新書の一冊として、この本が出たので読んでみた。四つの対談を編集したものなので、一日に一つづつ読んでいくことにする。まず、最初は、加藤陽子と長谷部恭男である。

加藤陽子、長谷部恭男については、以前にこのブログでも書いたことがある。たとえば、

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281

他にも触れたことがある。この対談でも、戦争とは、相手国の憲法を書きかえさせることに目的がある、との議論が両者の間で展開されている。この点について、さらに理解しておくためには、上記のところでとりあげたような、二人の書いた本を読んでおくべきかもしれない。

読みながら、いくつか付箋をつけたが、そのいくつかを引用しておきたい。

(長谷部)(大日本帝国憲法には)「天皇は全国家権力を掌握しているけれど、それを行使する時は自身がつくった憲法の条規に従う。この国家法人理論と君主制原理は、とても相性が悪いんです。」(p.20)

としたうえで、現在の憲法について、

「実は人民主権原理にも、同じような問題があります。人民は全国家権力・主権を持っているが、自らが制定した憲法の範囲内でのみそれを行使する。そんなことは本当に、理論的にあり得るのかということです。」(p.21)

と述べる。国民の主権ということは、今の憲法において当たり前のことのように思っているが、理論的に考えると、いろいろ問題をはらんでいるらしいことがわかる。といって、昔のように天皇主権にもどせばよいというものでもない。

それから、次のような発言も興味深かった。

(加藤)「つまり大日本帝国憲法というのは、究極の押しつけ憲法だと。」(p.28)

今の憲法についての改憲議論のなかに、GHQの押しつけ憲法だから改憲すべきだという意見もある。であるならば、その前の、大日本帝国憲法は、どうであったのか、考えてみてもいいだろう。

他にも、この対談で興味深い箇所がいくつかある。

憲法学という法律の学問分野は、意外と新しいのである、という指摘などは、憲法の専門家に言われてみて、なるほどそういうものかと思ったりする。また、憲法についての議論としては、美濃部達吉を非常に高く評価している。国家法人説、天皇機関説である。そして、今、その美濃部の著作を読もうとしても、全集、著作集のような形にはなっていないともある。そんなものなのかと思ってしまう。

ところで、どうでもいいことのようだが……加藤陽子は、山田風太郎が好きらしい。これはなるほどと感じる。特に、歴史、また、文学に関心があるのなら、その明治伝奇小説の一群の作品は、私は、高く評価されてよいと思っている。山田風太郎は、司馬遼太郎が描かなかった明治、近代日本というものを描き出した作家だと思う。

『作家的覚書』高村薫2017-04-27

2017-04-27 當山日出夫

高村薫.『作家的覚書』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b285380.html

小説家としての高村薫の作品の主なものは読んできているつもりでいる。最新作は、『土の記』を読んだ。

やまもも書斎記 2016年12月22日
高村薫『土の記』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/22/8285770

また、『晴子情歌』にはじまる一連のシリーズも読んではきている。その高村薫の、おりにふれての時事的な小文を編集したものである。

読んでみて、面白いというよりも、共感するというところのある本である。例えば、次のような箇所。付箋を付けた箇所を引用する。

(東京都知事選の候補者についてふれて)「はて、なかなか尽きるものではない欲望と物理的老いの間で、ひっそりと背筋を伸ばしていられる歳の取り方はないものだろうか。」(p.16)

(安保法制をめぐって)「もっとも、ひたひたときな臭い気配が迫っているとはいえ、私たちの足下には当面差し迫った危機があるわけではない。そんな平和な先進国で思い巡らせる不安など、いざというときに備えた予行演習ですらなく、ひまつぶしの誹りを受けても仕方がないかもしれない。現に、静かな書斎で私がこんな長閑なコラムを書いている最中にも、紛争地域では女性や子どもたちが為すすべもなく銃撃戦や爆撃の犠牲になっているのだ。その厳しい現実を、先進各国も国連も、私をふくめた一般市民も、もはや正面から捉えるすべを失っているように見えるのは私の杞憂だろうか。この私が、自身の無気力の言い訳にしているだけだろうか。」(pp.46-47)

時事問題を論じながら、そのできごとを見る自分自身のあり方について、反省のまなざしをわすれない。これがこのエッセイのいいところだろう。

えてして、神の高みから正義の裁断をくだすような時事評論はいくらでもある。それが、右であれ、左であれ、いずれの立場からであっても。

この本は、どちらかといえば、反体制的な立場からの言説である。だが、それが、単純な体制批判にとどまっていない。なぜ、そのような批判の意見を自分がもつのか、そして、そのような意見をもっている自分にはいったい何ができるのか、自分は、今なにをなしうるのか……この自省の念が、常に文章のうらにはりついている。この自己反省、自己抑制が、このエッセイ集を、きわだったものとしている。

必ずしも、著者(高村薫)と意見を同じくするということはないかもしれないが、その時事問題について語る、著者の姿勢には、強く共感するところがある。

なぜ自分はこのように考えるのか、そして、何ができるのか、何をしているのか、このような視点は、現代においては、貴重なものになっているように思う。仕事の合間に、ふと手にとって読んで、一服の清涼剤を得たような、そして、それだけではなく、いま、こうしてこの本を読んでいる自分のあり方を反省してみるような、そんな時間を与えてくれる。

著者(高村薫)の生まれは、1953年とある。私とさほどちがわない。そのような年にうまれ、そだってきた人間として、戦後の日本のあゆみ、阪神大震災、東日本大震災、安保法制などなど、その時々の世相において、何を考え何を感じるのか、そのゆえんはどこにあるのか、常に自問する姿勢がある。

今日においては、性急に結論の正しさだけを求めがちであり、そこのみで議論しがちかもしれない。そのなかにあって、冷静に、自己の考えのよってきたるところを顧みる姿勢は、きわめて貴重であるというべきであろう。

『空母いぶき』かわぐちかいじ2017-03-03

2017-03-03 當山日出夫

かわぐちかいじ、惠谷治(協力).『空母いぶき』.小学館.2015~
http://www.big-3.jp/bigcomic/rensai/ibuki/index.html

私は、基本的に漫画は読まないことにしているのだが、希に手にすることがある。その一つは、最近、話題になったものでは、『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

そして、もう一つ、刊行と同時に、第1巻から読んでいるのが、かわぐちかいじの『空母いぶき』である。現在、第6巻までが刊行。なお、雑誌では読んでいない。そこまでは手が回らない。コミックスで出たのを買っている。

一般的にいうならば、軍事エンタテインメントというジャンルになるのだろう。だが、この作品は、その枠をこえた、リアリティ、あるいは、問題提起がある。

近未来、中国が、沖縄に軍事的に侵略、占領するとことから物語ははじまる。中国側の条件は、尖閣諸島を中国領土と認めること。だが、それに対して日本政府はイエスとはいえない。そこで、空母いぶきを中心として、日本側からの対中国軍事作戦が発動することになる。

まあ、いってみれば、「もし、東シナ海で日中たたかわば」という設定の、軍事物語である。

とはいえ、私がこの作品にある種のリアリティを感じるのは、次の二点。

第一に、さすが、かわぐちかいじの作品だけあって、軍事的にリアルに描いてある。この点については、多くの専門的知識のある人が同意することだろう。

第二に、さりげなくであるが、国際状況の設定として、アメリカが介入しないということを前提としていること。つまり、中国側の判断として、尖閣諸島に軍事的に侵攻しても、米軍はかかわってこない、という読みがあっての軍事行動ということになる。この漫画の描写では、沖縄、尖閣諸島の防衛は、日本の個別的自衛権のもとに行っていることになっている。

この予測に、どれだけの裏付けがあるのかは不明である。しかし、そういうことももあり得るであろうとは予想できる。

かつての湾岸戦争のとき、イラクは、クェートに侵攻しても、アメリカが介入してくることはないという判断のもとに、作戦をおこなった。その読みが、あやまっていたことは、その後の歴史の推移が証明するところではある。しかし、イラクが、その時点で、アメリカ不介入と判断したことは確かなことだろう。また、この時の、アメリカ、多国籍軍の軍事作戦が、その後の世界情勢に与えた大きさははかりしれない。

現在、アメリカの政権が、トランプにかわって、日米同盟の確認ということがあったようだ。そのなかで、アメリカは、尖閣諸島は、日米安保の対象地域であることを明言した。

これも、裏をかえしてみれば、アメリカ・ファーストのトランプ政権の政策の方向いかんによっては、日米同盟もどうなるかわからない、ということがあってのこととも考えられる。むろん、日米安保、日米同盟も、永久につづくというものではない。その時々の、国際情勢のなかで存在にするにすぎない。

以前、このように書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

「中国はあまりものごとを考えていないように見えて、実は、非常に長い射程で歴史を捉え戦略的思考をする国なのです。鄧小平は尖閣諸島の問題について「今の世代で解決するのは難しいだろうから、後世にいい知恵が出るまで待とう」と言って、日本側に譲ったとされています。しかし、それは違う。中国は尖閣に関する権利を留保しつつ時間を稼ぎ、将来自分たちに有利な状況になった時に日本を交渉のテーブルに着かせることを狙っていると解釈すべきです。」(pp.23-24)

絶対に、中国は、尖閣諸島に軍事的に手を出してこないといえるだろうか。もし、国際情勢によっては、アメリカは、日本と中国が紛争を起こしても手を出してはこないだろう、と判断されたとき、どうなるかわからないと、私は考える。といって、かわぐちかいじが書いているような軍事行動をとるということではないが。

もちろん、このようなことは、中国共産党政権の内情、それから、アメリカの東アジア政策、それから、台湾、韓国などの、周辺諸国、東南アジア諸国の動向など、総合的に関連して、おこるべくして、ことはおこるとすべきことではある。

ただの空想ではなく、リアルな国際政治の展望のあり方として、考えてみるに値することの一つであるとは思っている。現実に今、沖縄は、日本の国防の最前線なのである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

『空母いぶき』は軍事エンタテイメントとして読めばいい作品なのであるが、そのはらんでいるものは、リアルである。そして、重要なことは、軍事的行動を視野にいれてこそ、現実的な平和主義も構築しうるということである。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)2017-02-24

2017-02-24 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

この本を読んで印象に残ったことをいくつか。昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

二点ほど、思ったことを書いてみたい。

第一に、徴兵制である。

この本の第三章「オンタケの頂き」では、2014年の御嶽山の噴火災害救助の様子が語られる。ここで、著者は、長野県の第13普通科連隊が、その任務にあたったことを記す。この部隊は、山岳地域での活動に特化した訓練をうけている。

自衛隊は、各地にあるが、それぞれの地方にあった特殊な訓練をおこなっている。たとえば、八甲田山では、第5普通科連隊が、今でも冬季の雪中訓練をおこなっている。雪のなかでの行動については、エキスパートであるといってよい。

日本の軍備、安全保障、憲法などについて議論されるとき、必ず出てくるのが徴兵制のことである。本書の記述をふまえて考えるならば、理念として徴兵制を論じるのはいいだろう。例えば、井上達夫のようにである。

だが、これも、現実的な、自衛隊の訓練の場に即して、そこで「兵士」が何を行っているのかをみれば、そう簡単にいえるものではない。昔の軍隊でいえば歩兵である普通科であっても、その訓練は、その地方の状況に即して、過酷とでもいうべきものである。簡単に、若者をつれてきて訓練すればよいという程度のものではない。

徴兵制を理念として語るのはそれでいいのかもしれないが、現実に、自衛隊の「兵士」たちが、どのような訓練をうけ、どのような任務にあたっているのか、現場に即して考えてみれば、そう軽々と言えるようなことではないことがわかる。実際に自衛隊員がどのような日常の訓練、任務をになっているか、その実際を見た上での議論でなければならない。

第二に、尖閣諸島の問題である。

本書のテーマからはちょっとはずれる。しかし、本書の第一、二章が、沖縄、尖閣での、対中国の活動を描いていることをふまえれば、やはり考えて見なければならないだろう。

アメリカの大統領が、トランプに替わった。国防長官が日本にやってきている。そのとき、明言したこととして、尖閣諸島も、日米安保の対象であるということがあった。この件は、ニュースなどでもおおきく報じられていた。

対中国、という意味では、これを大きく報道することに意味があると思う。

しかし、日本の立場として、尖閣諸島が我が国固有の領土であるとするならば、その防衛は、まず、我が国の問題である。個別的自衛権で、我が国において対処すべき事であるのが基本だろう。

では、それに対応できるだけの装備、準備があるのか、ということが、問題になる。このことに、本書は、直接に答えることはしていない。しかし、本書を読んだ延長には、この問題があることは確かなことである。はたして、日本だけで、中国の侵略に対応できるのであろうか。

ここは、中国の海洋進出といった一般論で論ずるのではなく、具体的に、日本の自衛隊で、尖閣諸島を守れるのか、現実的な議論が必要だろう。その議論をする立場に、日本はある。このことを否応なく認識させられるのが、本書の読後感でもある。

以上の二点が、本書を読んで、思ったことである。

なお、さらに書いておくならば、この「兵士シリーズ」がはじまってから、自衛隊への取材が非常にきびしくなっていると、筆者は記している。シリーズがはじまったころは、かなり自由にできた隊員へのインタビューも、本書を書くときになると、きわめて厳しい制約のもとにおこなわざるをえなくなっているとある。

これは、何故なのだろう。一般の印象としては、自衛隊は、以前よりも、現在の方が、広報活動には力をいれているように見える。だが、それは、表面だけのこと。実際の自衛隊の活動、任務にかかわることになると、突然、堅くなる。それだけ、現在の日本において、自衛隊の置かれている立場が変化したということになる。

「兵士シリーズ」がはじまったころは、東西冷戦がおわったとはいえ、まだ、基本的にその枠組みのなかにあった時代であった。それが大きくかわるのは、2001年のアメリカの同時多発テロ以降の国際情勢、それから、アメリカ、ロシア、EUなどの動向がある。それをふまえて、自衛隊の海外活動の本格化もある。

このような情勢のなかにあって、自衛隊は、より開かれた存在でなければならないと思われるのだが、実際に取材にあたった著者の感じるとことは、その反対のようである。

日本において、自衛隊がどのような存在であるか、それを理念的に考えることも必要だろう。例えば、憲法論議。しかし、その一方で、現実に存在する自衛隊が、何をしているのか、どのような組織であるのか、そして、それは、国民に対してどのようであるのか……このような観点からも、常に検証されなければならない。この意味では、この20年以上にわたってつづいてきた「兵士シリーズ」は貴重な記録になっていると思うのである。