大人のEテレタイムマシン「土曜美の朝 藍一色一生 染織家 志村ふくみ」2026-03-09

2026年3月9日 當山日出夫

大人のEテレタイムマシン「土曜美の朝 藍一色一生 染織家 志村ふくみ」

志村ふくみは、名前は知っているが、その作品をしげしげと見たということはない。

天然信仰というか、有機物崇拝というか、人工・工業否定というか……ものの考え方の方向は、はっきりと決まっている。(ただ、私は、こういう発想に疑問を持つところもある。素朴な感性としては理解できるとしても。)

藍染については、日本で藍がいつごろからどのように使われるようになったのか、ということがまず興味あることである。おそらく、それは、近世以降の木綿の普及と関連することであっただろう。

志村ふくみは、藍を使って絹を染めている。

日本における、線維の原材料としては、麻、絹、木綿、というところがメインであった。このうち木綿は新しい。

藍で染めるとしても、絹を選んでいる理由は、いったい何なのだろうか。(木綿や麻では出ない色があるからということなのだろうが、藍で絹を染めるのは、日本の歴史でメインであったとは思えないが。)

染色というのは、原理としては、染料と線維の素材との化学反応に他ならないのであるが、まあ、化学反応が起こっているということを否定しているのではないにしても、天然の染料であることに、そこまでこだわる必要があるのだろうかという感じもする。

どうでもいいことだが、こういう染色とか、織物とか、出来たものを作品として展示するとき、左右に両袖を広げて、衣桁にかかっているみたいにして見せるという方法は、いつごろからあるのだろうか。博物館などでは、多く、この方式で展示されている。

着物として畳んだままでは分からない。かといって、実際に人間が来てしまうと、生身の人間の感じが出すぎるだろうし、マネキンに着せるというのも、どうかと思うところであり……こういう展示の方式になるのかとは思う。しかし、これは、日本の着物の姿を見るのに、本来の形ではないといってもいいだろう。

こういう染色などの工芸作家の人たちは、実際に人間が着ることで作品を作っているのだろうか、と思うことがあるのだが、どうなのだろう。

志村ふくみの語る自然観には、私自身としては、かなり共感するところがある。だからこそ、それを距離をおいて見る視点を、自分のうちに持っておきたいのである。

2026年3月5日記

『八重の桜』「グッバイ、また会わん」2026-03-09

2026年3月9日 當山日出夫

『八重の桜』「グッバイ、また会わん」

ドラマとしては、どうしても新島襄を理想主義的に描くことになることは分かるし、実際に、新島襄はすばらしい人だったとは思う。だが、明治の時代のドラマとしては、理想主義に生きた人間だけで描いてしまうと、やはりつまらない。

私としては、理想を描くと同時に、現実の世の中はどんなふうであったのか、強いていえば、裏の面、暗黒面というべき部分があってもいい。でなければ、理想が理想として、浮かびあがってこない。ただ、そういう人間がいた、ということだけに終わってしまう。

別に、この時代のこととしては、山田風太郎の明治小説のようにとまでは思わないが、しかし、明治になって時代の流れに取りのこされる人びと、都市部の庶民層、農民の生活、というようなことが、ふくまれていてもいい。江戸時代からの侍の思想、明治になってからの文明開化の思想、時代の流れからとりのこされる人びと、こういうことが錯綜していたのが、この時代かと思うが、ドラマとしては、あまりに時代の描き方が表層的である。

秋月悌次郎が出てきていた。ちょうど『ばけばけ』の時代、ラフカディオ・ハーンが英語教師として、熊本の五高にいたとき、漢学の教師であった。(ちょうどこのことは、嘉納治五郎の時代であり、夏目漱石の時代でもある。)

2026年3月8日記

『豊臣兄弟』「竹中半兵衛という男」2026-03-09

2026年3月9日 當山日出夫

『豊臣兄弟』「竹中半兵衛という男」

軍師、竹中半兵衛の登場である。しかし、全然おもしろくない。

これは、この番組の目指している方向が、私の好みとかみ合っていないというだけのことなのだろうと思うが。

戦国時代ドラマの面白さは、登場人物どうしの虚々実々の心理的な駆け引きであり、また、かっこいい合戦シーンにあるだろうと思っているのだが、そのどちらの面についても、あまり感心しない。

竹中半兵衛を味方に引き入れることになるのだが、その決定的な魅力……齋藤達興を見限って、織田信長の方に寝返るのは何故なのか、そこの部分のコアになるところが、はっきりしない。織田の方が強いということなら、そもそも軍師などいらないはずである。より強くするためということはあるかとも思うが。あるいは、織田の方が、戦国の時代において、より先進的であり、優れた家臣団を組織している、ということだろうか。としても、では、その作戦は、どういうことから発案されたものなのか、これまでの描写できちんと描いてきているとも感じられない。

桶狭間の合戦の勝利を信長の知略とすることはいいとして(これまでは、たまたま運が良かったというふうに考えられてきたが)、そういう知略にたけた戦国大名のもとで、さらに軍師としての自分の働きの場所を見つけたい、ということであるとしても、その心理の動きとかが、感じられない。

このドラマの脚本や演出は、一つの場面に錯綜する多数の解釈がある、ということは避けている。多面的な人間の思考や感情が、一つの設定のなかにおとしこまれているということがない。一つの場面は、一つの意味を表す。しかし、それぞれの場面で表していることは、場面の転換ごとに、入れ替わっていく、という作り方になっている。この場面転換のタイミングと、見ている側の思考の流れが、うまく合致していればいいのだが、どうも合わない(少なくとも、私の見ている印象としては。)

強いて分ければ、小一郎(秀長)が平和主義的ということになる。今回のラストの部分では、こういう面を表していた。

だが、これが、実際の戦で、無用の争いを避けるということになるのならば、それこそ、現代のことばでいえば、インテリジェンスの限りを尽くすことになり、とことん人間を裏切っていくということになるはずである。だが、こういうことにかかわる人間観察と腹黒さというようなことが、これまでの小一郎(秀長)の人物造形には感じられない。

ほとんどのシーンで、小一郎(秀長)と秀吉が、並んで登場して、それぞれに科白を言っているのだが、ここで、兄弟のキャラクターの違い、考え方の違い、ということが、対比的に強く描かれているとも思えない。

これまでのドラマの展開では、別に、小一郎(秀長)を主人公に加えなくても、兄弟で描かなくても、十分に「太閤記」としての筋がなりたっている。小一郎(秀長)の視点を加えることによって、これまでの戦国時代ドラマとは違った新しい面白みが出ているかというと、そういうことはない。まあ、確かに、先週の一夜城のこととか、今回の稲葉山城の抜け穴のこととか、これまでの戦国時代ドラマではない設定で描いていることは確かなのだが、これが、小一郎(秀長)と秀吉の兄弟の二人を主人公としたドラマとして、意味のあることとして描かれているかというと、そういうことにはなっていない。別に、秀吉一人が主人公であっても、同じように描けるし、むしろ、その方がシンプルになるだけ、面白くなるだろう。

2026年3月8日記