世界で開け!ひみつのドアーズ「タイ・天然ゴム生産者に“ありがとう”」 ― 2026-05-18

2026年5月18日 當山日出夫

世界で開け!ひみつのドアーズ「タイ・天然ゴム生産者に“ありがとう”」

天然ゴムをどうやって採取しているのか、その具体的様子については、まったく知らなかった。なるほどああやっているのか、ということになる。

タイが世界で、もっとも重要な生産国である。タイで、ゴム農園プランテーションということになったのは、どういう経緯があってのことなのだろうか。タイは、その歴史として、欧米列強の殖民地支配を受けたということはないはずである。実質的に経済的に、大きな支配的な影響力を受けたということは、あっただろうと思うが。タイにとっても重要なビジネスになっているのは、国策としてすすめてきたからということだろうか。

見ていると、天然ゴムの樹液の採取は、どうにも合理化できる仕事とは思えない。今のところは、人の手による夜間の仕事にならざるをえないだろう。(これを、人型ロボットが代行する時代がくるだろうか。木の幹をけずるのは難しいだろうが、お椀にたまった樹液を回収して回ることは、ロボットでもできそうである。AI自律型ロボットになるが。)

樹液を集めてからの工程は、機械化、合理化、ロボットの利用、ということもできるかと思うが、だからといって、それで製造コストが劇的に下げられるということでもなさそうに思える。

天然ゴムが素材として安定した需要があるし、ゴム農園としても、ゴムの木を継続的に使えるように工夫して栽培し、採取している。こういうことは、これからも持続可能な仕事といっていいだろう。(日本でお米を作るよりもよっぽどいいかもしれない。)

気になるのは、獣医師になりたいと言っていた娘さんが、その希望が最終的にかなうかどうかである。

2026年5月14日記

『太平記』「悲恋」 ― 2026-05-18

2026年5月18日 當山日出夫

『太平記』「悲恋」

見ていて、このドラマは面白いと思う。池端俊策の脚本であるが、非常に分かりやすいストーリーの展開の中に、政治のこと、高氏と藤夜叉のこと、父(貞氏)の立場や思案、こういうことが、うまく描いてある。そして、必要以上に説明的になっていない。台詞も少なめであるし、演出としても、特に感情を強く表現することにはなっていない。

これは、どうしても、『豊臣兄弟!』を続けて見るので、それと見比べてしまうからということもある。

この回だと、高氏と藤夜叉のことがメインといっていい。それが、鎌倉時代の終わりに生きた高氏と、その周辺の人物たちの中で、うまくストーリーにとけこんでいる。藤夜叉のことが忘れられない若者であることと、鎌倉の政治の状況が理解できない、足利の棟梁としてどう判断すべきか分からないでいる若者、こういうまだまだ未熟な高氏のことが、きちんと描いてあって、おそらく、これが、今後の動乱の時代において、成長していくことになる。

同時に、藤夜叉たちの旅芸人や白拍子などの人びとから見れば、鎌倉の武士の争乱などが、どう見えるのか、という視点にもなっている。

フィクションである部分(藤夜叉など)と歴史の流れが、からまりあって物語を構成している。こういう例としては、山田風太郎の明治小説を思い浮かべる。

2026年5月17日記

『豊臣兄弟!』「過去からの刺客」 ― 2026-05-18

2026年5月18日 當山日出夫

『豊臣兄弟!』「過去からの刺客」

この回は、慶のこと。

その背景に、信長の安土築城のことなどが、ちょっと出てきていた。

こういう「太閤記」があってもいいと思うが、いや、そうではなく、現代で「太閤記」を描くとなると、こんなふうになるしかないのか、とも思ったりする。これが、悪いというわけではないのだが、百姓出身の秀吉が天下人にまで上り詰めていくサクセスストーリーの爽快感ということは、無くなっている。だが、これも、今の時代だと、おのれの才覚一つで成り上がっていくというサクセスストーリーということ自体が、もう時代遅れなのかとも思ったりもする。

見ていて感じることは、登場人物の心情が誰も非常に屈折していることである。そのなかで、まあまあ素直かなと感じるのは、小一郎であるが、しかし、これも見ようによっては、ドラマが始まったころから、あまり人間的な成長が感じられないということもある。

慶は、いったい何を思っているのか。残してきた子どものことが気がかり、ということではあるが、それをストレートに表現できない、武士の女としてのしがらみといことにはなるだろう。子ども(与一郎)もあまり素直な子どもではない。じいさんも、ばあさんも、偏屈である。

たしかに、なかなか素直に自分の気持ちが分からない、自分でも自分の気持ちが分からない、ということは、今の時代のドラマとしてはあっていいかと思うが、そのからまりあいかたが、見ていてどうにもややこしい。

もっとシンプルに、憎い仇を討つ、可愛い子供のことを思う、ということでは、もはやドラマにはならない時代ということなのだろうか。普通の視聴者は、そんなに屈折した人間の心情表現を求めてはいないと思うが。

血がつながっていなくても一緒に暮らしていれば家族である。これは、そういうこともある。だが、こういうことをここで言いたいならば、そもそものドラマの設定として、藤吉郎と小一郎が、父親が別であってもよかったし、その方が、家族とはどういうものかを描くことにつながっていたかと思える。(時代考証としては、父親が同じでも、別でも問題はないはずである。)

さらに考えることとしては、この時代の百姓(これにはいろんな職業や生業をふくむが)と武士における家族構造とはどんなものであったか、血縁関係のある親子だけだったのか、このあたりは、歴史学研究として、いろいろと考える余地があるだろう。

出てくるのが、武士でなければ百姓(ほぼ農民とイコール)だけというのは、どうなのだろうか。商人が出てきたり、漁民が出てきたり(琵琶湖の漁業であったり、水運であったり)、山の中の人びとが出てきたり、こういう社会を構成する多様な人びとのことを、描くべきではないだろうか。こういうことの歴史学からの研究はあるはずだと思っている。

2026年5月17日記