『マッサン』「鬼の目にも涙」 ― 2025-12-28
2025年12月28日 當山日出夫
『マッサン』「鬼の目にも涙」
これも、最初の放送のときに、全部見ているはずである。
主題歌の「麦の唄」は中島みゆきであるが、ドラマの前半では一番が、後半では二番が、使われていた。たしか年があけて、後半になったところで、歌が二番に変わったと思ったことを、憶えている。
シャーロット・ケイト・フォックスは、ちょうど『ばけばけ』で、イライザ役で出ている。どうしても比べて見てしまうことになるのだが、『マッサン』のときは、やはり若くて溌剌とした印象がある。『ばけばけ』になると、おちついた大人の女性という雰囲気である。
ドラマとしては、私の記憶では、後半の北海道の余市でのことが、印象に残っている。
この『マッサン』がきっかけになって、国産のウィスキーが、注目をあびるようになったといっていいだろう。「響」とか「白州」とか「山崎」とか、高級品ばかりが売れて、それも、品薄で、このごろでは高くなって買うのが難しくなってきている。私の世代だと、サントリーの角瓶ぐらいが、日常的な妥当なレベルである。オールドでちょっと高級という印象だった。
最初の週の中で、「オールド・ラング・ザイン」(蛍の光)使ってある。日本に来る船の中で歌っていたし、広島の酒屋の実家でも、エリーが歌っている。この曲は、余市が舞台になってから、非常に印象的に使われていた。
ドラマの設定としては、あえてステレオタイプな人物像で描いていると感じる。外国人の嫁を認めようとしない、頑固な母親。息子の夢をかなえさせてやりたいと思う父親。大正時代の家というしがらみ。こういう考え方が、普通だった時代ということを感じさせるようになっている。
ところで、『マッサン』の中で、避けていることばが、「異人」である。最初の週では、法事のときの和尚が使っていたが、これ以外は、すべて「外国人」という言い方をしている。昔、『マッサン』の放送を見ていたときは、おそらく「異人」という用語は避けているのだろうと思って見ていた。これも、今の『ばけばけ』になると、あえて「異人」という言い方をしている。
2025年12月27日記
『マッサン』「鬼の目にも涙」
これも、最初の放送のときに、全部見ているはずである。
主題歌の「麦の唄」は中島みゆきであるが、ドラマの前半では一番が、後半では二番が、使われていた。たしか年があけて、後半になったところで、歌が二番に変わったと思ったことを、憶えている。
シャーロット・ケイト・フォックスは、ちょうど『ばけばけ』で、イライザ役で出ている。どうしても比べて見てしまうことになるのだが、『マッサン』のときは、やはり若くて溌剌とした印象がある。『ばけばけ』になると、おちついた大人の女性という雰囲気である。
ドラマとしては、私の記憶では、後半の北海道の余市でのことが、印象に残っている。
この『マッサン』がきっかけになって、国産のウィスキーが、注目をあびるようになったといっていいだろう。「響」とか「白州」とか「山崎」とか、高級品ばかりが売れて、それも、品薄で、このごろでは高くなって買うのが難しくなってきている。私の世代だと、サントリーの角瓶ぐらいが、日常的な妥当なレベルである。オールドでちょっと高級という印象だった。
最初の週の中で、「オールド・ラング・ザイン」(蛍の光)使ってある。日本に来る船の中で歌っていたし、広島の酒屋の実家でも、エリーが歌っている。この曲は、余市が舞台になってから、非常に印象的に使われていた。
ドラマの設定としては、あえてステレオタイプな人物像で描いていると感じる。外国人の嫁を認めようとしない、頑固な母親。息子の夢をかなえさせてやりたいと思う父親。大正時代の家というしがらみ。こういう考え方が、普通だった時代ということを感じさせるようになっている。
ところで、『マッサン』の中で、避けていることばが、「異人」である。最初の週では、法事のときの和尚が使っていたが、これ以外は、すべて「外国人」という言い方をしている。昔、『マッサン』の放送を見ていたときは、おそらく「異人」という用語は避けているのだろうと思って見ていた。これも、今の『ばけばけ』になると、あえて「異人」という言い方をしている。
2025年12月27日記
『どんど晴れ』「ライバル登場」 ― 2025-12-28
2025年12月28日 當山日出夫
『どんど晴れ』「ライバル登場」
要するにスポ根ドラマなのだから、主人公の前にたちはだかるライバルは、当然でてくる。横浜では、柾樹をめぐって恋敵(ことばが古めかしいが)の女性が出てくるし、盛岡の加賀美屋では、女将の座をめぐって新たなライバルの登場ということになった。
こういう設定は、定番のことなので、ある意味で安心して見ていられる。
彩華は、盛岡の老舗料亭の娘ということになっているのだが、何か、裏の事情がありそうである。
佳奈が火傷をしたとき、板場の水ですぐに冷やすことを優先するか、あるいは、板場に女性は入ってはいけないというしきたりを優先するか……現代だったら、しきたりよりも、治療を優先するということになるだろう。このドラマを作った時代では、かろうじて、古くからの形式的しきたりに価値をおくことを、そう悪いことではないとして描けたことになるのかと思う。
ただし、一般論になるが、古くからの伝統(と意識される)しきたりが、なにもかも悪いということではなく、臨機応変に、時代の流れに合わせて変わっていくべきもので、伝統というのは、時代に合わせて変わることで保たれるものでもある、ということはあるかと思っている。まあ、旅館の板場が、女性が入ってはいけないというのは、まもるべき伝統かどうかは、別の問題かとも思うが。
さて、無くなったお金は、どういう結末になるのだろうか。
2025年12月27日記
『どんど晴れ』「ライバル登場」
要するにスポ根ドラマなのだから、主人公の前にたちはだかるライバルは、当然でてくる。横浜では、柾樹をめぐって恋敵(ことばが古めかしいが)の女性が出てくるし、盛岡の加賀美屋では、女将の座をめぐって新たなライバルの登場ということになった。
こういう設定は、定番のことなので、ある意味で安心して見ていられる。
彩華は、盛岡の老舗料亭の娘ということになっているのだが、何か、裏の事情がありそうである。
佳奈が火傷をしたとき、板場の水ですぐに冷やすことを優先するか、あるいは、板場に女性は入ってはいけないというしきたりを優先するか……現代だったら、しきたりよりも、治療を優先するということになるだろう。このドラマを作った時代では、かろうじて、古くからの形式的しきたりに価値をおくことを、そう悪いことではないとして描けたことになるのかと思う。
ただし、一般論になるが、古くからの伝統(と意識される)しきたりが、なにもかも悪いということではなく、臨機応変に、時代の流れに合わせて変わっていくべきもので、伝統というのは、時代に合わせて変わることで保たれるものでもある、ということはあるかと思っている。まあ、旅館の板場が、女性が入ってはいけないというのは、まもるべき伝統かどうかは、別の問題かとも思うが。
さて、無くなったお金は、どういう結末になるのだろうか。
2025年12月27日記
『ばけばけ』「サンポ、シマショウカ。」 ― 2025-12-28
2025年12月28日 當山日出夫
『ばけばけ』「サンポ、シマショウカ。」
この週で、今年の放送として前半が終わったことになる。ここまで見てきて、このドラマは傑作といっていい。
この週で印象に残るのは、月照寺の大亀の前でのシーン。ここで、おトキと銀二郎。ヘブン先生とイライザ、そして、錦織がそろう。この場合、それぞれにお互いのことをよく知らない。おトキとイライザは初めて会う。ヘブン先生と銀二郎も初めてである。ただ、このときの人物のことを最も知っているのは、錦織だけということになる。(そして、錦織は、ヘブン先生のアメリカでのマーサとの過去のことも、知事の家で聞いて知っている。このことは、イライザは知らないことだったかもしれない。また、銀二郎の東京でのことも知っている。)
このシーンが上手いと感じるのは、会話が立体的であることである。それぞれがお互いに事前にどれだけのことを知っているのか、微妙にすれ違っている。おトキと銀二郎は、元夫婦である。イライザはヘブン先生をしたって松江までやってきている。ここで、それぞれの思いが交錯する。また、ことばが必ずしも通じるということではない。イライザは日本語が分からない。おトキと銀二郎は、英語が分からない。ここで、錦織が通訳として、どの会話をどこまで通訳するかも、面白いことになる。
英語なら分かるものどうしの会話、日本語しか分からないどうしの会話、両方分かる錦織、これらの会話が行き違う。ことばが通じるからといって意思疎通ができるとは限らない。自分の気持ちをことばにして言えば、それで聞く相手に伝わる、という安直な考え方では、このドラマは作られていない。
これまでのこのドラマでそうだったのだが、会話している当事者(話し手と聞き手)以外に、その会話を聞いている他の登場人物の存在を、うまく表現している。むしろ、それを聞いている人の表情で、会話の意味がより深く表現されるように演出されている。
この週でも、おトキの家を訪れた銀二郎は、たまたま同じ長屋のおサワと会って、おサワは、銀二郎が松野の家の人たちと会話するのを聞くことになるが、そのときのおサワの表情の変化がとてもいい、ドラマとして説得力がある。(こういう演出や脚本は、過去のあまり出来のよくなかった朝ドラでは、見られなかったことである。ただ、科白を言っている役者さんを名演技と褒めることはあったのだが、しかし、三人以上の会話の場面を立体的に描くということは、できていなかった。)
最終的に、イライザはヘブン先生のもとを去り、銀二郎も松江を離れる。両者ともに、自分で身を引いたということになっている。いいかえれば、ヘブン先生とおトキのことに、イライザと銀二郎が、それぞれに感じるものがあったということである。
最初、銀二郎からの手紙が来て会うことになり、ヘブン先生にお休みをもらうのだが、このとき、おトキは、「しりあい」と言ってしまう。結婚していた元の夫とは、ヘブン先生の前で言えなかった。それを聞いて、ヘブン先生は、「ホリュウ」とこたえる。だが、家に帰ってイライザからの手紙を見たヘブン先生は、態度を変えて「OK」となる。このとき、イライザの手紙をおトキからかくしていた。ヘブン先生としても、イライザとの関係をおトキに知られたくないという思いがあったことになる。
ヘブン先生は、月照寺で大亀の怪談を、おトキに語ってもらう。このとき、錦織が通訳しようとすると、それを止める。おトキに、日本語で、おトキのことばで語ってもらいたいという。これを見て、イライザは、ヘブン先生がおトキの方にかたむいていることを、察知することになる。(こういうことは、史実としては、小泉八雲が東京に移り住んでからのことかと思うのだが、ドラマでは松江でのこととして、上手く作ってある。)
イライザが、ヘブン先生の家に行っても、その部屋の中では、おトキの存在を強く感じる。
結局、イライザは、ヘブン先生が、松江で変わってしまったことを、感ぜざるをえないことになる。
ここまでを見てきて振り返って思うことであるが、橋が効果的に使われている。橋というのは、民俗学的にいえば、この世界と別の世界への通路、という意味合いがある。おトキは、ヘブン先生のところに橋を渡って仕事に行って、橋を渡って自分の家に帰る。このときの下駄の音(これは、実際の下駄の音ではなく、後からの効果音であるのだが)が、非常に印象的でもあった。
この週では、橋を渡って散歩に行こうとするヘブン先生を、おトキが、「あの~」と声をかけて呼び止める。橋を渡らずに、自分のいる側にとどまってほしいという気持ちを表現していることになる。
銀二郎がおトキに、「牡丹灯籠」のことを言っていたが、これは、伏線としてたくみである。東京で銀二郎と別れる前に、「牡丹灯籠」が東京の寄席で流行っているという場面があった。東京で、一緒に「牡丹灯籠」を聞こうという科白は、とても印象に残る。そして、このドラマの終盤で、東京でのことが描かれるなら、おトキとヘブン先生が、「牡丹灯籠」を聞きにいくことがあるだろうかと、想像することができる。
イライザと銀二郎が松江にやってきたことで、おトキの気持ちが変化していき、また、ヘブン先生の気持ちも、実はイライザからはなれていること、おトキのことを思っていることが、自然なこころの動きとして描かれている。
最後の松江の宍道湖の湖畔のシルエットのシーンはとても上手い。まったく音声は無い。しかし、おトキとヘブン先生の体の動きだけで、二人の会話が聞こえてくる。ヘブン先生が「テ、ツナグ、シマショウカ」と言って、おトキが「そげなこと、いやですけん」と返している様子が、見ているだけで耳に聞こえてくる。これは、それだけ、二人の日常の接し方や話し方を、見てきた積み重ねがあってのことである。
2025年12月27日記
『ばけばけ』「サンポ、シマショウカ。」
この週で、今年の放送として前半が終わったことになる。ここまで見てきて、このドラマは傑作といっていい。
この週で印象に残るのは、月照寺の大亀の前でのシーン。ここで、おトキと銀二郎。ヘブン先生とイライザ、そして、錦織がそろう。この場合、それぞれにお互いのことをよく知らない。おトキとイライザは初めて会う。ヘブン先生と銀二郎も初めてである。ただ、このときの人物のことを最も知っているのは、錦織だけということになる。(そして、錦織は、ヘブン先生のアメリカでのマーサとの過去のことも、知事の家で聞いて知っている。このことは、イライザは知らないことだったかもしれない。また、銀二郎の東京でのことも知っている。)
このシーンが上手いと感じるのは、会話が立体的であることである。それぞれがお互いに事前にどれだけのことを知っているのか、微妙にすれ違っている。おトキと銀二郎は、元夫婦である。イライザはヘブン先生をしたって松江までやってきている。ここで、それぞれの思いが交錯する。また、ことばが必ずしも通じるということではない。イライザは日本語が分からない。おトキと銀二郎は、英語が分からない。ここで、錦織が通訳として、どの会話をどこまで通訳するかも、面白いことになる。
英語なら分かるものどうしの会話、日本語しか分からないどうしの会話、両方分かる錦織、これらの会話が行き違う。ことばが通じるからといって意思疎通ができるとは限らない。自分の気持ちをことばにして言えば、それで聞く相手に伝わる、という安直な考え方では、このドラマは作られていない。
これまでのこのドラマでそうだったのだが、会話している当事者(話し手と聞き手)以外に、その会話を聞いている他の登場人物の存在を、うまく表現している。むしろ、それを聞いている人の表情で、会話の意味がより深く表現されるように演出されている。
この週でも、おトキの家を訪れた銀二郎は、たまたま同じ長屋のおサワと会って、おサワは、銀二郎が松野の家の人たちと会話するのを聞くことになるが、そのときのおサワの表情の変化がとてもいい、ドラマとして説得力がある。(こういう演出や脚本は、過去のあまり出来のよくなかった朝ドラでは、見られなかったことである。ただ、科白を言っている役者さんを名演技と褒めることはあったのだが、しかし、三人以上の会話の場面を立体的に描くということは、できていなかった。)
最終的に、イライザはヘブン先生のもとを去り、銀二郎も松江を離れる。両者ともに、自分で身を引いたということになっている。いいかえれば、ヘブン先生とおトキのことに、イライザと銀二郎が、それぞれに感じるものがあったということである。
最初、銀二郎からの手紙が来て会うことになり、ヘブン先生にお休みをもらうのだが、このとき、おトキは、「しりあい」と言ってしまう。結婚していた元の夫とは、ヘブン先生の前で言えなかった。それを聞いて、ヘブン先生は、「ホリュウ」とこたえる。だが、家に帰ってイライザからの手紙を見たヘブン先生は、態度を変えて「OK」となる。このとき、イライザの手紙をおトキからかくしていた。ヘブン先生としても、イライザとの関係をおトキに知られたくないという思いがあったことになる。
ヘブン先生は、月照寺で大亀の怪談を、おトキに語ってもらう。このとき、錦織が通訳しようとすると、それを止める。おトキに、日本語で、おトキのことばで語ってもらいたいという。これを見て、イライザは、ヘブン先生がおトキの方にかたむいていることを、察知することになる。(こういうことは、史実としては、小泉八雲が東京に移り住んでからのことかと思うのだが、ドラマでは松江でのこととして、上手く作ってある。)
イライザが、ヘブン先生の家に行っても、その部屋の中では、おトキの存在を強く感じる。
結局、イライザは、ヘブン先生が、松江で変わってしまったことを、感ぜざるをえないことになる。
ここまでを見てきて振り返って思うことであるが、橋が効果的に使われている。橋というのは、民俗学的にいえば、この世界と別の世界への通路、という意味合いがある。おトキは、ヘブン先生のところに橋を渡って仕事に行って、橋を渡って自分の家に帰る。このときの下駄の音(これは、実際の下駄の音ではなく、後からの効果音であるのだが)が、非常に印象的でもあった。
この週では、橋を渡って散歩に行こうとするヘブン先生を、おトキが、「あの~」と声をかけて呼び止める。橋を渡らずに、自分のいる側にとどまってほしいという気持ちを表現していることになる。
銀二郎がおトキに、「牡丹灯籠」のことを言っていたが、これは、伏線としてたくみである。東京で銀二郎と別れる前に、「牡丹灯籠」が東京の寄席で流行っているという場面があった。東京で、一緒に「牡丹灯籠」を聞こうという科白は、とても印象に残る。そして、このドラマの終盤で、東京でのことが描かれるなら、おトキとヘブン先生が、「牡丹灯籠」を聞きにいくことがあるだろうかと、想像することができる。
イライザと銀二郎が松江にやってきたことで、おトキの気持ちが変化していき、また、ヘブン先生の気持ちも、実はイライザからはなれていること、おトキのことを思っていることが、自然なこころの動きとして描かれている。
最後の松江の宍道湖の湖畔のシルエットのシーンはとても上手い。まったく音声は無い。しかし、おトキとヘブン先生の体の動きだけで、二人の会話が聞こえてくる。ヘブン先生が「テ、ツナグ、シマショウカ」と言って、おトキが「そげなこと、いやですけん」と返している様子が、見ているだけで耳に聞こえてくる。これは、それだけ、二人の日常の接し方や話し方を、見てきた積み重ねがあってのことである。
2025年12月27日記
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