フランケンシュタインの誘惑「3人のキリスト 信念は変えられるか」2026-01-31

2026年1月31日 當山日出夫

フランケンシュタインの誘惑 3人のキリスト 信念は変えられるか

見終わって思うことは、たしかにこの心理学の実験は、倫理的に問題がある、ということは、今の社会においては、常識的なことになる。だが、なぜ、それが倫理的に問題であるのか、ということを説明するとなると、ちょっと難しいかと思うことになる。

この実験の場合、被験者が、精神病者である、ということなので、こういう部分をいくぶん考慮することになるかとは思う。だが、そうであっても、虚偽の情報で、人が信念として思っていることに介入すること、それを変えようとすることの是非、ということの問題となる。

私が、見て、もっとも興味深かったのは、それぞれ自分はキリストだと思っている三人の人を、共同生活させて……はじめのうちは対立があったけれども、そのうち、仲良くなる、というか、お互いに対立することを避けるようになって、共存する生活を選ぶようになる、ということである。自分の価値観とは相容れない人がそばにいて生活しているとしても、それが、どこかで妥協点を見出して、軋轢を避ける方向にむかう。これはこれで、非常に重要なことかと思う。(このことについて、心理学者などは、どう考えることになるのだろうか。)

今の時代、価値観の多様性ということがいわれるが、お互いに妥協点が見出せない対立が多くなっている。それでも、なんとか、共同で生活しているうちには、どうにかして、無用な軋轢を避ける方向を見つけることが可能かもしれない。必要以上に、相互に干渉しない、ということであっても、それで、争いが回避できるなら、それはそれでいい。

(とはいっても、どうしてもこの世の中に存在することを許しがたい考え方というものは、あるかもしれない。たとえば、ヒトラーを礼讃するような考え方があるだろうか。それでも、それが、その人の心のうちのことである限り、他から干渉されるべきではない、ということはいっていいだろう。どんな内容であっても、思想信条の自由は保障されるべきだろう。)

虚偽によって、人の考えを変えることは、倫理的に問題がある。これは、そのとおりかと思うが。だが、これに近いことは、今の時代に多くあるだろう。

たとえば、日本のこととしては、いわゆるカルトから脱退したい人、させたい人に対して、逆に、それこそ、マインドコントロールであり、個人の自由意志への強引な介入ではないか、というべきことが、おこなわれたりする。目指す方向が、正義であると一般に認められるなら、個人の自由意志への介入、それが、ときに虚偽をともなうものであっても、実際におこなわれているのが、現実の社会である。

強いていえば、その非常に緩やかなことが、教育である、といってもいいかもしれない。(それが、愛国教育であれ、平和教育であれ。)

この番組では言っていなかったことで気になるのは、自分はキリストだと信じこんでいるとして、そのキリストというのは、神そのものなのか、あるいは、預言者としてのキリストなのか、ここは微妙な違いがあるはずである。基盤となる信仰が、プロテスタントか、カトリックか、ということも、どうなのかと思う。

2026年1月29日記

木村多江の、いまさらですが…「豊臣秀長〜天下一統を支えた男〜」2026-01-31

2026年1月31日 當山日出夫

木村多江の、いまさらですが… 豊臣秀長〜天下一統を支えた男〜

たまたま番組表で見つけたので録画しておいて見た。この番組は、NHKの他の番組とは異なる視点から見るということがあって、面白いことがあるのだが、この回については、はずれだった。なんにも、新しい視点はない。

そもそも、豊臣秀長については、これまで、戦国時代ドラマでもあまりとりあげられてきていないし、一般に知られているということではない。また、歴史学においても、史料が無い、ということで、あまり研究がすすんでいない人物ということになるようである。

この、史料が無い、ということの意味。たまたまそうなのか、その仕事の関係として、文書の発給をしないし、残さない、ということであったのか……このことの歴史の意味があると思うのだが、歴史研究の方法論として、史料が無いことの意味を考えるというのは、ちょっと難しいことである。(史料によって論ずるということが歴史学であるかぎり、史料の無いことについては語れない。)

出てきたことは、他の『豊臣兄弟!』関連の番組であつかったことばかりであった。

秀長を、農民の気持ちの分かる為政者として見たい……こういう番組作成者の意図は分かるのだが、はたしてそうだろうか。刀狩りや、検地は、(古めかしいことばをあえてつかうならば)武力と経済の支配であり統制である、と見ることもできよう・

菊家の御城之口餅は、ときどきもらうことがある。わりとあっさりした味である。現代的に甘さを抑えているのかと思う。きな粉が上品な味になっている。

2026年1月27日記

偉人の年収 How much?「作家 林芙美子」2026-01-31

2026年1月31日 當山日出夫

偉人の年収 How much?「作家 林芙美子」

林芙美子について、目新しいことがふくまれれていたという内容ではなかったが、全体として、まとまったものになっていた。

『放浪記』は、むか~し、高校生の時の国語の教科書に出てきていたのを憶えている。筑豊の炭田で行商生活を送っているときの部分である。現在、『放浪記』として読むとすると、今でも、新潮文庫本などが、代表だろうが、これを読むと、はじめの方に出てくる。

『放浪記』は、出版されて大評判になって、その後、本になるとき、かなり改変しているということが言われている。おそらく最初の『放浪記』になるだろうが、Kindle版では、「放浪記(初出)」を読むことができる。0円である。(林芙美子は、著作権が切れている)。『放浪記』の書誌については、いろんな問題があるかと思う。それを追求してみようという気もおこらないでいるが、近代文学研究にとっては、かなり重要な部分になるはずである。

川本三郎の『林芙美子の昭和』は、出た時に買って読んだ本である。(このシリーズの『荷風の東京』『白秋望景』も読んだ。)

パリの滞在記も面白いが、その時代、日本からパリに行くのに、シベリア鉄道を使っている。それも、下のレベルの席である。その道中を書いているのだが、これも面白い。

日中戦争で、従軍記を書いていることは、常識的なことだろう。林芙美子は、時代の流れの中で、読者のもとめるものを書いてきたという意味では、このことを、否定的に見ることはないだろう。むしろ、その時代の人びとが、どのような読み物を求めていたかということから、考えるべきことになる。

とにかく書いて早くに亡くなってしまった作家なのだが、今、読んでみても、その作品は、庶民的な感情にうったえるものがあることはたしかである。

2026年1月29日記

よみがえる新日本紀行「西津軽小駅〜青森県西海岸〜」2026-01-30

2026年1月30日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 西津軽小駅〜青森県西海岸〜

再放送である。2024年。オリジナルは、昭和51年(1976年)。

(関係する人にはまことにもうしわけないと思うのだが)、見終わって、五能線がまだ廃線にならずに残っていたことに、いささかおどろいた、というのが正直なところである。

昭和51年というと、私が、大学生になって東京で生活を始めたころである。これとほぼ時をおなじくして、青森から東京に働きにでた若者が、現在では故郷に帰ってトラック運転手として働いている……これには、感慨深いものがある。

旧国鉄時代の赤字ローカル線は、非常に問題になったことである。国鉄の遵法闘争とか、スト権スト、ということを、実際の体験として憶えている。

しかし、一方で、鉄道が開通する、駅ができるということが、その地域の人びとにとって、どれぐらい大きな出来事であったかということも、これも分かる。私の生まれ故郷の地域には、鉄道は通っていたが、乗るには、バスで近くのちょっと大きな町までいかないといけなかった。そこに駅が新しくできた(無人駅であったが)ことは、お祭り騒ぎであったのを、記憶している。

昔は、バスが一日一往復、鉄道が五往復ということだったが、現在の場面で、映っていた時刻表を見ると、鉄道の運行状況は、そう変わらない。主に、学校に通う高校生が乗客であるというのは、日本のローカル線の今の姿だろうと思う。

海岸で流木をひろうおばあさんの姿が印象的である。ただ、何を話しているのか、ほとんど分からなかったけれど。(この地方の方言は、聞き取りづらい。)

燃料として使うのも流木であるし、家を建てるのにも、流木を使う、ということは、こういう地域もあるのかと思った。人が生活するのに、日常の燃料は必須である。日本の山林が、どのように薪炭として、燃料に利用されてきたのか、ということは、重要な日本に住んできた人びとの歴史であると思っている。流木が使えるということも、人が生活することのできる、一つの条件であったというべきだろうか。

子どもが病気になって、占いにみてもらう……こういうことが、実際におこなわれていた。今は、どうだろうか。

少しだけ映っていたのだが、オシラサマでいいのかと思う。

何にもないというところがいい、生まれ故郷が一番いい……これは、やはり、そこに生活する人々の、いつわらざる思いだろう。

風力発電も、これから先、順調にいくかどうか、心配なところもある。だが、観光列車が走るぐらいのところだから、今後の地域のあり方としては、希望がないわけではないといっていいだろう。

2026年1月28日記

ねほりんぱほりん「声優をあきらめた人」2026-01-30

2026年1月30日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 声優をあきらめた人

テレビのドラマなど見ていると、下手な役者が多いと思う。なんでこんな下手な俳優、女優がやっているんだと、感じることがある。脚本や演出が下手ということもあるが。ドラマだと、演技を総合的に見ることになる。強いていえば、芝居が下手でも、他の要素……見た目がかわいい、ルッキズムと批判されそうだが……ということで、なんとかなっているようだ。

しかし、声優は、その声だけで勝負しなければならないので、ごまかしがきかない。この意味では、とても難しい仕事だろう。ごまかしようがない、実力勝負の世界であることを、あまり理解せずに、ただなんとなく声優を希望するということなのかとも思う。(そして、あえていえば、運の善し悪しも、勝負の実力のうちである。)

所詮、人間が生きていくのは、何かを諦めることでしかない。最初から思っていた夢や希望を、そのままかなえられる人生なんて、そんなにあるわけがない。いや、ほとんどないだろう。だからといって、宿命論で生きて、何の努力もしなくてもいい、というわけではない。

前近代の封建的社会で、その生まれた階層によって、親の職業を継ぐ、という生き方が一般的であった時代の方が、ある意味では、人間は幸福に生きられたともいうことができる。しかし、その昔に、もうもどせるわけではない。

ただ、番組を見ていると、声優の学校などが、声優希望の若者が多いことを材料にして、ぼったくりの商売をしている……という面もあるかと思う。需給のバランスが、どう見ても崩れている。

声優の希望者が多いということがあり、その技術が高くなっていくと、かえって素人っぽさのある仕事がもとめられるかとも思う。そうなると、さらに高度なスキルが要求され、仕事のハードルがどんどん高くなっていく、このようなこともあるかと思う。

また、声優を諦めた……このような人は、他の領域でもたくさんいるはずだが……人たちが、次のステップにむけて仕事を始められるような、社会のシステムが必要ということになる。リスキリングとはいっているのだが、基本的な職業訓練と就業の機会ということでは、日本の社会の全体の問題につながることかとも思う。

自己実現こそが人間が生きていく最高の目的である、というのは、近代の生んだ妄想である、というと言い過ぎかもしれないが、少なくも、こういうことにとらわれない生き方があってもいい。(それもまた、ある種の自己実現ではあるとしても。)

絵自衛隊の通信で、「おくれ」と言うのは、そのとおりである。

2026年1月20日記

ドキュメント72時間「富山・雨晴海岸 山の姿を待ちわびて」2026-01-30

2026年1月30日 當山日出夫

ドキュメント72時間 富山・雨晴海岸 山の姿を待ちわびて

富山湾の立山連峰の写真は見たことがあるが、雨晴海岸から撮影したものかと思う。雨晴で、あまはらし、と読むのは、簡単そうだが難しい。ATOKでは、あまはらし、からきちんと変換してくれた。

特にこの場所に思い入れがある人がいるということではなかった。写真目当てでやってくる人は多い。見れば、カメラとかレンズは、いいのを使っている人が多い。やはりキヤノンが多いのは、今の時代である。(私は、ずっとニコンを使っている。)

この番組としては、場所の魅力ということがある。ただ、72時間のことを番組にあするだけなら、渋谷の交差点でもいいのだろうが、それでも、新聞スタンドということにターゲットを絞っている。

雨晴海岸に道の駅があるのは、立山の風景をもとめてのことになる。それでも、きれいに景色が見えるのは、年に何日もないらしい。それよりも、それを予報することがあるというのは、ちょっとおどろいた。富山でも、魚津で蜃気楼が見られるときは、知らせてくれるようになっていたかと思うが(私は、まだ、見たことがない)。鹿児島の天気予報に灰の予報があるようなものかとも思う。

番組に映っていた中には、かなり遠くからやってきた人もいた。遠路はるばるやってきても、きれいな景色が見られるどうかは分からない。だからこそ、いいのかもしれない。お天気まかせ、運が良ければ見られる、というのもあっていい。

風景として見た場合であるが、立山の風景は、あまり文化的に意味づけされていないかと思う。歴史的文化的に意味づけされた風景というと、歌枕、ということになる。日本三景……松島、天橋立、宮島……などは、過去にそこを訪れた人や、文学や歴史を抜きにしては見ることができない。

しかし、富山湾の立山の風景は、あまりそういうところがない。山岳風景を美しいと感じるようになったのは、日本でも、近代になってからかもしれない。それまでは、美、として見るよりも、信仰、ということで見ていただろう。そして、風景写真ということの社会への普及があってのことだろうと思う。こういうことは、日本の風景と写真の歴史、ということで考えることになるだろう。

2026年1月24日記

サイエンスZERO「575でカガク!太陽 知られざる驚異の姿」2026-01-30

2026年1月30日 當山日出夫

サイエンスZERO 575でカガク!太陽 知られざる驚異の姿

正直にいえば、磁力線といわれて、なんとなく分かるのだが、それはいったいどんなものなのかとなると、さっぱり知識がない。だから、まあ、番組の内容の半分も、納得して見たということではなかった。

しかし、太陽について、これぐらいのことまで分かるようになっている、ということでは、とても興味深かった。

コロナが非常な高温になることについては、まだ定説というべきものがないらしい。番組では、二つの説を紹介していた。(こういう番組で、複数の学説のある場合、それを等しく紹介するというのは、いいことだと思う。分からないことは、分からないのである。)

SOLAR-C、次の観測衛星であるが、この打ち上げは無事にできるのだろうか。日本のロケット開発は、H3が途中で止まってしまっている。

2026年1月24日記

新日本風土記「奥信濃 秋のふるさと 冬支度」2026-01-29

2026年1月29日 當山日出夫

新日本風土記 「奥信濃 秋のふるさと 冬支度」

正直に言って……2011年の東日本大震災のあったとき、東北での地震と津波の被害のあった後、信州地方でも大きな地震があった、ということを、この番組を見て、思い出した。まったく忘れてしまっていたということではないのだが、おそらく多くの人がそうであるだろうと思うが、東北のことの方に関心がかたよっていたということは、たしかなことである。

見ながら思ったことはいろいろとある。

奥信濃という雪深い地域で人が生活していくことは、大変だなあ、と思うが、その一方で、こういう暮らしを昔から続けてきた歴史があるのだということも、感じる。

「故郷」(ふるさと)の歌は、月並みな言い方をあえてすると、日本人なら誰でも知っている、という歌になる。私の個人的な思いとしては、3番の歌詞「こころざしをはたして いつのひにかかえらん」というところにひかれる。故郷を出て、立身出世を夢みた人たちが多くいて、日本の近代をささえてきたのだろう、ということを思うことになる。(無論、このことについて、逆に、否定的な見方もできることは分かっているつもりではいるが。)

私の知識としては、高野辰之は、多くの文部省唱歌の作詞者であると同時に、日本の芸能史研究者として重要な仕事をした学者である。

ねこつぐら、というのが出てきていた。中島みゆきのアルバム「相聞」の中に「ねこちぐら」という作品がある。ネコのための、寝床であり隠れ家であり家というべきだろうか。(我が家のネコには、買っていない。冬は、ストーブの前か、ホットカーペットの上で、寝ている。夜は布団の中に入ってくる。)

ワラで作る。雪国での生活には、いろんなところでワラで作るものが必要である。これは、雪国で生活するためには、稲作とワンセットでなければならないということになるのだが、雪が冬になって積もるようなところで、稲作が普通におこなわれるようになったのは、いつごろのことからなのだろうか。イネというのは、基本的に南方の暖かいところで育てるものだと思っているのだが。

ワラ縄を売っていた。一巻きで、2000円。昔は、縄などは、農家が自分の家でなうものだった。だが、これも、「なわをなう」という言い方自体が、もう過去のものになったかもしれない。今から、半世紀以上前、私の生まれ故郷では、ハンドルをぐるぐる回して縄をなう機械(非常にシンプルなものだが)があったのを記憶している。番組の中で売っていた、ワラ縄は、どのようにして生産されているのだろうか。今なら、ワラ縄の工場などあるかとも思うのだが、稲作とワラと、その加工品の、全国的な生産や流通は、どうなているのだろうか。お米の減反や増産は、大きくニュースになるが、ワラのことも、実は日本での生活にとって、重要なことかとも思っている。

野沢温泉で共同浴場があって、地元の人でなく外から来た人でも入れる。料金は、お賽銭箱に入れる。お風呂のマナーということが出てきていたが、これは、実はかなり新しいものだろうと思っている。近代になってから、都市部に多く人が集まり、銭湯が増えて、そこで形づくられたものかとも思う。そこに、近代になってからの、清潔感という意識が加わったものだろう。江戸時代まで、大きな湯船など一般にはなかった(少なくとも都市部では、温泉地ではあったと思うが)はずなので、公衆浴場のマナーは、近代都市生活者の生み出したものといっていいかと思っている。(古いものではないから守らなくてもいいなどと思うわけではないけれど。)

野沢温泉の村では、惣代が一年おきに選挙で選ばれて、いろんなことを取り仕切る。土地の境界の確定から夫婦喧嘩まで。それが、江戸時代にさかのぼる史料、記録が残っているという。こういうことは、歴史学では、どう調査され研究されているのだろうか。村の自治であり、法規範意識、生活の習慣、ということについて、いろいろと面白いことが分かりそうである。

柿の木に実がなるのを、採らなければならないというのは、今の時代だと、クマを人里に近づけないために、必要なことになる。

蕎麦をうつ高校生がいる。その全国大会がある。(これなど、「知らなかった選手権」でやってもらいたい。あるいは、もうとりあげてしまったか。)

二八蕎麦として、普通は小麦粉を使うが、小麦粉が手に入らない地域であったので、山にはいってオヤマボクチという野草を使う。ボクチをつなぎにつかうということも、今では少なくなっているという。

托鉢の 声聞こゆれば この町に 住む安心の おのずから湧く

いい歌である。托鉢をしていたのは、臨済のお坊さんらしいが、地元の人たちがささえている。たぶん、次の仕事として大変なのは、ワラぶきの屋根のふきかえのときだろうと思って見ていた。

仏壇が、一般の家屋や家庭の中におかれるようになったのは、そう古いことではないだろうと思っている。古くからの旧家・名家というべき家には、仏壇がない。その代わりに、仏間がある(それ専用の部屋である)。さらにランクが上がると、仏間もない。その家に、お寺がひとつあって、そこにご先祖の位牌などを安置してお祀りしてある。これも、近年は、仏壇のない家、あるいは、あっても、非常にモダンなデザインに作ってあるものを使う家が、増えてきている。

駅を食堂にするというのは、アイデアとしてはとてもいい。赤字ローカル線の存続のためなら、できることは何でもやる、という時代である。

灌漑の水路などの保全を村の共同で管理する、ということは、多く見られることであるが、これを、前近代的因習の人間関係とみるか、そこに生活する人たちの相互扶助とみるか、これからどう変わっていくだろうか。

最後に出てきてた、ヤマウサギ汁、というのはどんなものだろうか。美味しそうである。

2026年1月26日記

クラシックTV「魅惑のひんやりサウンド グリーグ」2026-01-29

2026年1月29日 當山日出夫

クラシックTV 「魅惑のひんやりサウンド グリーグ」

ああ、あの曲やメロディは、グリーグの曲だったのか、というのが多くある。

そのひんやりサウンドの技法的解説は、そうなのだろうと思って見ていた。

私が見ていて興味深いと思ったのは、(こういうことを考えるのはヤボだということを承知であるが)、その音楽のナショナリズムである。

19世紀になって、ヨーロッパが、啓蒙主義的な普遍的理念をかかげて、それを、多くの人びとが共有するようになる。これは、歴史の流れである。と同時に、それに逆らうようなかたち、ローカルな地方の文化ということが、自覚されるようにもなる。これは、音楽のみならず、美術や文学などにも見られることだと思っている。

この流れのなかで、グリーグは、ノルウェー風の音楽ということをめざす。これはこれでいいと思うが、このときの、ノルウェー風ということは、歴史の流れの中でいうならば、「創られた伝統」という側面があったことになるだろう。

また、この時代が、日本の近代という時代でもあった。世界の歴史の中で、日本の近代が、ヨーロッパの近代と、どう重なるところがあるのか……これは、非常に絶妙なことだったというべきだろうか。ただ、西欧的帝国主義を真似しただけではなかった、と考えるべきだと私は思っている。

グリーグの作品にあるのが、ノルウェー風の文化であり、それは、強いていえば、アニミズム的ななにか、ということになるだろうか。これは、日本的な文化と非常に親和性がいい。さらにいえば、『ばけばけ』の小泉八雲の描いた世界とも、繋がるものである。

フィドルの演奏を聴くと、なんとなく、ケルティックということばが思いうかぶ。

2026年1月21日記

ドキュメント20min.「母の友 72年の問いかけ」2026-01-29

2026年1月29日 當山日出夫

今の時代、紙の雑誌がなくなる……休刊であったり、廃刊であったり……ということは、珍しいことではない。まだ紙の雑誌が出ていることが、奇妙な感じになっている。

パラパラと紙の本をめくって、なんとなく読んで、いろんな考え方があり、世の中のいろんなことを知る、ということは、たしかに意味のあることなのだが、意図的にそれをこころがけないといけなくなっている。

この種のことは、ある意味では思考の潤滑油とみることもできるが、別の面では、ノイズとみることもできる。これは、人によって異なるだろう。

自分とは異なる意見や立場からの考え方がどんなものなのか、これを知るためには、あえてコスト(時間も、場合によっては、お金も)かけないといけない時代になってきている。これは、いたしかたないことなのかとも思う。このコストを必要なものと思うかどうか、まずそこからの問題であるのだが。

これも今の時代の流れだなあと思うことの一つである。

2026年1月27日記