NHKスペシャル「臨界世界 1万キロに人生かけて 中国ドライバー ロシアへ」 ― 2026-03-26
2026年3月26日 當山日出夫
NHKスペシャル「臨界世界 1万キロに人生かけて 中国ドライバー ロシアへ」
見始めて思ったのは、このおじさんには見覚えがある。たしか、「爆走風塵」で、ラオスのバナナをチベットまで運んだトラックの運転手……そう思って、X(Twitter)を検索してみると、同じことを思った人はたくさんいたようだ。
見ながら思ったことはいっぱいある。
まず、中国の南の方から、清涼飲料をロシアのモスクワまでトラックで輸送するということの合理性である。コンテナで船で運んだ方がはるかに安いと思うのだが、そうではないらしい。燃料コストなど考えれば、トラック輸送の方が高いと思われるのだけれど。(これが、将来、北極海航路が、実用化されるとどうなるだろうか、ということも考えたことの一つである。中国が北極海の覇権を狙っていることも視野にいれて考えることになる。)
以前の「爆走風塵」の終わりのとき、運転手の男性は、チベットからさらに中央アジアやパキスタンなどに行くことを語っていたかと覚えているのだが、それが、ロシアのモスクワまで仕事で行くことになるとは、思わなかった。中国の一帯一路構想の中で生きるトラックドライバーのことを思ったものだった。これも、世界情勢の変化である。
まずは、中国からロシアのモスクワまで、かなりいい道路が整備されているということも、大事なことだろう。番組の中で出てきた道路は、チベットとは比べものにならない、きちんと舗装された道路である。(何度も書いているかと思うが、道路は、生活物資もはこべるが、軍事物資もはこべる。そして、ウクライナによるクモの巣作戦も可能になった。)
中国からロシアの国境を越えるのに、何日も待たなければならないというのは、どういう事情なのだろう。国境管理が厳重だからということでもないようである。だからといって、国境の役人に渡す賄賂で手間取っているとしうこともなさそうである。いったいどうなのだろうか。
ロシアでも極東エリアは、ウクライナの戦争の犠牲は大きい。いわゆる経済的徴兵ということが実感できる。(こういうことは、小泉悠などの書いていることでもある。)
途中の道路で、追い越そうとして正面衝突した事故車のあとはすさまじい。こういう事故があっても、トラックドライバーの仕事は、それをやるしかない。
燃料は闇で安いのを入れる。これは、中国においても同様のことが行われている。こういうところで節約するしかない。(ロシア国内のガソリンや軽油の事情は、どうなっているのだろうか。)
道中の町でも、中国製品があふれている。中国とロシアの経済的な結びつきの強さを実感することになる。
食事は、インスタントラーメンを作って、道ばたの野草を入れている。いまどき、野草を食事にする人は、日本だとごく一部のマニアックな人はいるかもしれないが、これが日常の食事というのは、おどろく。ドライブインのレストランで食事をする余裕など、まったくない。過酷な労働のしわ寄せは、ドライバーが背負わされることになっている。
トラックドライバーの労働の過酷さに比べると、荷主の社長さんは、贅沢である。これが、今の中国の、経済格差ということなのだろう。
中国東北地方出身のドライバーの男性は、洪水で家を流されて、自前のトラックも失って、借金が700万円ほどあるという。日本で、700万円の借金は少なくない金額であるが、それで、どうにもならなくなるというほどのことは、めったにないだろう。ロシアに行く仕事のために、保証金を11万円用意しなければならないのだが、それを貸してくれる親戚などがいない。結局、進学を目指して勉強している息子が調達してくれた。
中国の人びとは、一族のまとまりが強く、助け合うということがあったかというイメージを持っていたのだが、まったくそうではない。金の切れ目は縁の切れ目。落ち目になった人を助けようという、相互扶助の精神は持っていないようだ。
洪水で家が無くなったような場合、公的な援助とか、今の中国ではどうなっているのだろう。(日本のように仮設住宅を公的に用意してくれる、ということではないのだろう。)
だが、この男性の家族を思う思いは強く、何よりも、子どもの進学に夢をかけている。学歴信仰といえばそれまでなのだが、今の中国では、まだかろうじて生き残っているということでいいのだろうか。
ロシアの警察官は、賄賂でどうにでもなる。いや、どうどうと賄賂を要求するために、交通違反をとりしまる。その賄賂といっても、中国のお茶とか、煙草とかである。とてもセコいというか、みみっちいというか、庶民的というか、現実的というか。これを用意して行くのも、ドライバーの自腹ということだと思うが、ロシアの警察官も、大変だよなあ、と思ってしまう。腐敗といえば腐敗であり、これで、ロシアという国家は大丈夫なのだろうかとは思うが。
ところで、この番組を作ったのは、テムジンである。中国関係では、いい番組を作る。おそらく、現地の事情に通じたスタッフがいるのだろうと思う。(さらにいえば、中国の政府要人へのコネもあるのかとも想像するが。)
中国でも、ロシアでも、このような番組の取材は、スパイ行為と見なされる危険と隣り合わせだろうと思う。中国やロシアの当局の許しのある範囲で作った番組と見るべきか、あるいは、今の中国やロシアの規制が緩んできたから作れた番組なのか、さあ、どうなのだろうか。
NHKのBSの「ワールド・トラックロード~俺の助手席に乗らないか~」のシリーズは、私の好きな番組で、BGMを聞きながらのんびりと眺めているのがいいのだが、しかし、この中国からロシアの旅は、ゆっくりとテレビの前でリラックスして見るという気にはなれなかった。
2026年3月23日記
フロンティア「南極海漂流 超巨大氷山A23aを追う」 ― 2026-03-26
2026年3月26日 當山日出夫
フロンティア「南極海漂流 超巨大氷山A23aを追う」
あの小さな帆船はいったいどういう人たち、組織で運航したものなのだろうか。まず、ここのところが明確でないし、航海や調査の目的や手法についても、なんだか分からないところが多い。
南氷洋は荒れる海だと思っているのだが、あえて小さな帆船で長距離を航海する意味はなんなのだろうか。船が小さいから、多くの精密な観測機器を積むことはできないはずである。今の時代であれば、とにかく電源が必要であるが、そういう設備が十分にあるとは思えない。
海水のサンプルを採取するのに、ダイバーが水中に潜って作業するということは、普通はあまりないだろうと思っているのだが、どうなのだろうか。海水サンプルを採取した位置(緯度経度と氷山との位置関係)と時間、水深は、重要な情報だろうが、網羅的、継続的に、氷山の周囲を調査したということなのだろうか。
氷山の海中の表面がデコボコになっているのは、面白いが、そうなる説明が、そうなのだろうかと思うところがあった。ちょっと説明不足かなという気がする。
南極全体でどれぐらいの氷があるのか、細かく分かるようになったのは、ここ20年ぐらいのことで、衛星画像の解析によってであるらしい。私としては、こういうことの舞台裏の事情、南極観測の技術の歴史、ということが知りたいことである。(こういうことこそ、フロンティア、というべきだろうか。)
氷山の上はいったいどうなっているのか、何にも言っていなかったのが、ちょっと気になる。
南氷洋の海底の地形について、どれぐらいのことが分かっているのだろうか。地形が分かっているのなら、島に衝突する前に、海底がはばんで、氷山が座礁することは、十分に予測できたことだろうと思われる。
フォークランド諸島というのを、久しぶりに目にした。私の年代では、領有権をめぐっての紛争で記憶している。今のところは、まだ英国領ということである。
南極の食物連鎖の頂点にいるのが、アザラシなどになるらしいが、見ていて思ったことは、食物連鎖の頂点よりも、底辺……つまりは、植物プランクトンということになるだろうが……これがゆたかでないと、全体の生態系がなりたたない。こういうことは、別に南氷洋だけではなく、他の地域においてもいえることであるにちがいないが。
現代の南極研究の最前線はどうなっているのだろうか(これまでの研究の蓄積をふくめて)、という気がしたことになる。
2026年3月24日記
時をかけるテレビ「万年時計〜江戸時代の天才が生んだ驚異の機械時計」 ― 2026-03-26
2026年3月26日 當山日出夫
時をかけるテレビ「万年時計〜江戸時代の天才が生んだ驚異の機械時計」
からくり儀右衛門、田中久重、については、最近「英雄たちの選択」でとりあげていた。録画しておいて見たのだが、なんとなく書くことのイメージが固まらないままに放っておいた。
「時をかけるテレビ」は、4Kで放送があったのを、たまたま目にして、録画しておいた。最初の放送(オリジナル)は、2005年。
愛・地球博のために、田中久重の作った万年時計を解体して、そのメカニズムを解明し、復原してみようというプロジェクトであった。番組としては、こちらの方が面白かった。メインの内容が、メカニズムの解明にあてられていたということもあるが。
機械式時計というのは、ゼンマイを動力源として、等速の回転運動を生み出して、それを、歯車の組み合わせで、どのようにコントロールするか、ということになるかと思う。
それを、不規則な動き……万年時計でいえば、太陽と月の動きであり、また、江戸時代の不定時法に合わせる、そのためにどう工夫したかということが、見どころになる。
天球儀の太陽と月については、それぞれ別に動くとしても、それぞれは、等速運動であるから、なんとかなることは理解できるつもりでいる。
しかし、不定時法に合わせるためには、(1)歯車の回転の速度を季節と時間帯(昼夜)によって変えるか、(2)文字盤の数字の位置を季節によって変えるか、ということになるかと思うのだが、田中久重は、文字盤の数字の位置を変化させる工夫を考え出したことになる。そのために、虫歯車を考案した。回転運動を、半年が経過するときに、水平の動きに変える、ということでいいだろうか。
実際の復原した機械が動く様子を見ると、なるほど、という気がする。よく、考えついたものである。
現代の機械式時計の名工という職人さんでも、復原は難航した。現代の最新の加工機械をつかっていても、最後は、手作業でやすりをつかって微調整することになる。
一年動くということで、真鍮のゼンマイを使ったのだが、これが、現代の技術でも作るのが容易ではない。
それぞれのアイデアもすばらしいと思うが、全体を、一つの万年時計という機械の中に実現する、その構想力というべきものが、けたはずれだという気がする。しかも、これを、江戸時代の技術で作ったのであるから、すごいとしかいいようがない。
現代の番組の中で、山田五郎が、この時計の心臓部は、スイス製と言っていたが、これは、どのようなことになるのだろうか。また、江戸時代の終わりには、その技術が日本にやってきていたということにもなるし、それを、日本人が見て応用することができたということにもなる。
ところで、江戸時代の人びとは、時間、というものをどんなふうにイメージしていたのだろうか。不定時法を日常的に使っていたということは、それで生活の不便が無かったからといっていいだろう。これは、時間の進み方が一定ではない。
現代のわれわれとしては、時間を、物理的な等速運動(歯車の回転運動)、振り子の往復運動、あるいは、直線的な等速運動としてイメージすることが多いと思うが、これは、時計(普通の文字盤のある時計や、振り子時計)などが、日常的に身の回りにあって目にすることから、そう思うようになっているからなのかと思う。現代のようにデジタルの数字表示がメインになっても、数字の切り替わるタイミングの等間隔の無限連続ということで、時間をイメージすることになる。
時計と時間のイメージの歴史、ということになる。
ミシェル・フーコーをもちだすまでもなく、時間は近代の産物であり、時間が近代をつくった。それを決定づけたのが、ラジオなど放送だっただろう。時間は、「国民」のものとなり、そして、「世界」のものになった。
2026年3月24日記
魯山人のかまど「秋編」 ― 2026-03-26
2026年3月26日 當山日出夫
山口淑子・李香蘭、それから、イサム・ノグチについては、もうすこし説明的なところがあってよかったかもしれないが、いや、むしろ、余計なことは言わない方いいかなとも思ったところである。日本と中国・満州、日本とアメリカの間にあって、いろいろと複雑な人生をあゆんだ人なのであるが、それと、魯山人のかかわりを描くことで、魯山人もまた、普通の日本の人びとの感覚から外れたところに生きた人間であったということにつながるのだろう。
ここまで、このドラマを見てきて、一番上手い演技と感じるのは、魯山人(藤竜也)が、コップにビールをついで飲むシーンである。最初の吉田茂と一緒のときもそうだったが、無造作にコップを手にして、ビール瓶からダボダボとついで飲む。この何気ない無造作なうごきが、非常に魅力的に魯山人という人間を現している。
今の時代だったら、ビールについても、あれこれと蘊蓄をかたむけることが多い。ビールの種類のみならず、その冷やし方、コップ、注ぎ方、飲み方、いろいろとうるさい。魯山人は、なんの頓着もなしに、ただコップにビールをついで飲んでいる。
その一方で、料理に対する繊細な感覚、食材についての知識は、やはり魯山人と思わせるところがある。この落差が、非常に魅力的である。(まあ、自分が美味しいと思うものを、美味しいと思うように味わうのが一番ということなのだろうと思うことになるが。)
陶芸家として、人間国宝に推挙されるのだが、それを受けない。頑固というべきだろうか、偏屈というべきだろうか。魯山人は貧乏である。陶芸や料理にかかわる仕事を続けることも、難しくなりそうな状況にある。人間国宝になれば、その作品が高く売れる。(私としては、人間国宝だろうがなんだろうが、それで美術品の値段が決まるようなこと自体がどうかなとは思うが、世の中こんなものである。)
この場合、魯山人にパトロンというべき存在はいない、ということになる。意図的に、魯山人の作品を高い値段で買い取って……というような形で援助する金持ちとか、戦前なら財閥とか、あってもいいようなものだが、戦後のこととしては、そういうふとっぱらな人物はいなかった。いや、戦前でも、ひねくれものの魯山人を援助しようという人もいなかった。
柿が美味しそうである。食べ物の味というのは、個人的な経験とむすびついていることが多い。魯山人の娘とはどんな関係があったかは、明らかに描かれていないが、柿については、小さいときからのなにがしかの思い入れがあったのだろう。
使用人の春子をクビにして(これは、魯山人なりの思いやりだったかもしれないが)、一人で食事の用意をして食べるシーンは、非常にいい。だまって手を動かしているだけのことで、その人物のこころの深みを描いていると感じるところである。
2026年3月24日記
ブラタモリ「桶狭間の戦い・信長の逆襲▼戦国史上最大の逆転劇!いよいよ完結」 ― 2026-03-25
2026年3月25日 當山日出夫
ブラタモリ「桶狭間の戦い・信長の逆襲▼戦国史上最大の逆転劇!いよいよ完結」
桶狭間の第二回である。
要するに、桶狭間の戦いについては、よく分からない、というのが学問的なことになるだろう。そもそも、桶狭間という場所が、どこなのかがはっきりしていない。これで、史実はどうだったかと議論しても、あまり意味はない。
いや、普通に出てきている『信長公記』は、いったいどれぐらい史料として価値のあるものなのだろうか。これしか史料がないから見ているというだけのこと、といったら、これはこれでおかしい。今川の史料や、徳川の史料についてみれば、今川義元が死んでしまったことは確かなことなのだろう。(このあたりの事情を、『信長公記』の史料批判ということをふまえて語るような番組があってもいいかと思うのだが。専門家にとっては周知の知識だろうが。)
桶狭間がどこであったかは定かではないにせよ、どこに比定しても、そんなに離れたところということではないようである。山がちの地形の中を、急な豪雨があって、結果的に今川の本陣を奇襲攻撃することに成功した、これは、確かなことかと思うが、歴史学研究者は、どう考えるのだろうか。
いや、歴史学にとって、合戦の実態などは、研究する価値のないものであった、というのが、しばらくまえまで流行っていた(?)歴史学の考え方であった。合戦は、要する武力の行使であり、その武力をもった権力者の基盤(政治的、経済的)や制度がどんなものであったのか、というようなことこそが、重要だった。桶狭間が実際はどこにあったのか、などということは、枝葉末節のことにすぎなかった。極論すればかもしれないが、こんなふうだった。唯物史観こそが歴史であった時代としては、こんなだった。
だからということもないだろうが、戦国時代の戦国大名について、インテリジェンスの観点から考えてみたり、合戦のときのロジスティックスの実態を調べてみたりとか、こういう研究はあんまりなかった(はずである)。あったとしても、研究の主流ではなかった。
歴史学の研究の流れも変わってきているのだろうが、だからといって、軍事についての研究が、政治や経済や文化などの研究と連続するものとして、社会に広く認知されるということではないようである。今でも、軍事史研究というのは、やや特殊な位置づけかと思わざるをえない。
2026年3月23日記
ねほりんぱほりん「アイドルトップオタ」 ― 2026-03-25
2026年3月25日 當山日出夫
ねほりんぱほりん「アイドルトップオタ」
再放送である。2018年1月。
何に金をつかおうと、そんなのは人の自由ではないか、と思うが、いろいろと気になるのが、今の世の中ということである。地下アイドルにみつぐ人がいてもいいだろう。趣味……何かのコレクションであったり、人の好き好きである……にお金をつかうことに、とやかくいうことはない、と私は思う。
その対象が、地下アイドルである、要するに、若い女性、ということで、オタクとして何か特殊なことであるとは、絶対にいえないだろう。ほうっておけばいいのである。
ホストに狂って、売春するしかなくなるような女性の方が、はるかに問題である。(それも、個人の自由であるというのが、近代的な価値観だと思うけれど。)
地下アイドルの女性は、そういうオタクの男性を、異性として見ていない。男性としては相手にしない。そういうものなのだろうと思う。それを、オタクたちも分かっている。いや、分かっているからこそ、お金をつかうことになるかと思うが、はたしてどうだろうか。
別に悪いこと(違法なこと)をしているわけではないし、まあ、いいじゃないか。(気に入らないとか、むしがすかないとか、思う人がいるのは、また、それはそれで自由であるとしても。)
2026年3月23日記
ドキュメント20min.「この素晴らしき分からない世界」 ― 2026-03-25
2026年3月25日 當山日出夫
ドキュメント20min.「この素晴らしき分からない世界」
サイエンスZEROの特番という感じだった。
ブラックホール、キャベツ、麻酔、ということが話題としてあった。
ブラックホールが、なぜ黒いのか……光でもなんでも吸い込んでしまうから、といわれればそうかなと思うが、しかし、私の知識では、そもそもブラックホールがどんなものなのか、よく分からないのであるけれど。
キャベツが丸くなるワケが分からない。これは、いくつかの論点に分けて考える必用があるかと思う。
まず、丸くなるものは、キャベツばかりではない。白菜も丸くなるし、レタスも丸くなる(これは、かなり隙間はあるが)。こういう植物が、丸くなる理由は共通していると考えられるのだろうか。
丸くなったのは、人間が栽培して食用に改良していった結果なのか、そうではなく、もともと野生の状態でも丸くなっていたのか。
丸くなる葉の構造とか、成長の過程とか、このメカニズムがどんなものなのか。
植物は基本的に葉っぱを広げて光合成するはずだが、丸くなってしまうと、光合成に不利である。しかし、丸くなっても困らない何か理由があるのだろうか。丸くなるメリットがあるのだろうか。
いろいろと考えられる。
麻酔が、その技術はあるのだが、なぜ人間の意識が無くなってしまうのか、根本的な理由は分からない……というのは、どこかで知って覚えていたことではある。
人間の意識とは、何であるのか。これは、近年のAIの発達によって、改めて考えるべきときにきている。
ふりかえってみると、脳死を人間の死とするという議論があったとき、脳死の状態では、人間の意識は無くなっているので、それを死んでいると考えてもさしつかえない、という理由だったと思う。人間の意識の有無について、これまでとはまったく異なる知見となるならば、脳死ということの見直しも必要になるのだろうか。
分からないことについて、これが分かっていないことである、と明確に示すことができるなら、それは大きな進展である。おおくの場合は、何が分からないのかも分からないということかと思っている。
研究は巨人の肩の上に乗っている……これは、ニュートンの言ったこととして知られていることだが、自然科学の場合は、たいていそうだろうと思う。しかし、人文学の場合、ちょっと事情が異なる。特に文学部で勉強するような、文学、歴史、哲学というような分野については、先行研究の参照ということはあるが、その上に乗ってというよりも、先行研究ではない別の視点を探すということが多い。
しかし、何が分からないことなのかという設問の設定を確認できるということが、研究の大きなステップであることに違いはない。
それから強いていえばであるが……人類の知的遺産を巨人とするとして、巨人の肩の上に乗ってより遠くを見ようとするのが科学であるとしたら、その巨人の立っている足もとの地面をを掘り返して巨人がなぜ立っていられるのかを考えるのが人文学、ということになるかもしれない。(これも、隣に新しく穴を掘っては順番に埋めていっているだけともいえるだろうけれど。)
サイエンス、科学は、人間の知のもっとも重要な部分をしめることはたしかであるが、しかし、サイエンス、科学が、学問のすべてではない、知のすべてではないと、私としては考えている。
2026年3月10日記
BSスペシャル「灰色の黄金郷〜ペルー 標高5100mの金鉱山〜」 ― 2026-03-25
2026年3月25日 當山日出夫
BSスペシャル「灰色の黄金郷〜ペルー 標高5100mの金鉱山〜」
金価格が高騰していることは、ニュースで知っている程度である。だが、私にとっては、金を投資目的で買おうとかいう気は、まったくない。そもそも、どこで買えるのかということも知らない。
金に変えてしまうというのが、もっとも簡便なマネーロンダリングの方法なのだろうと思う。金を投資や資産として売買するような人間が得をしていて、末端の鉱山労働者がもっとも損をしている。こういう構図は、どのような産業であれ、昔も今も変わらないだろう。(さすがに番組に映像としては登場しなかったが)ギャングも、最末端の使い捨ての労働者(?)であろう。それを裏であやつっているやつがいて、それが、(国家や資本など)どことどういう関係があるのか、何があってもおかしくはないけれど。
金を掘り出して精錬するところまでおこなっている。精練の技術からすると、いろいろと問題がある。水銀を使う。環境への問題であり、働く人の健康への問題である。純度については、番組では言っていなかったが、おそらくは、ペルーから国外に持ち出され、集められて改めて加工するということなのだろう。このあたりの仕事になれば、いくぶんグレーの度合いが薄まってくる感じはするが。
ペルーでも、鉱山には、女性が入ってはいけない……というのは、そういうことなのかと思うが、これは、世界の鉱山などで、普通にあることなのだろうか。日本だと、女性蔑視と問題になるところだが、状況によっては、女性をそんな危ないところで働かせるなということになるのかもしれない。
番組で言っていなかったことは、鉱山の採掘や金の取引にかかわっている会社が、どういう資本なのか、ということ。今の時代である、これにどんな会社や国の名前が出てきても驚くことはない。
印象に残っているのは、鉱山で働く男性が言っていたこと……金をかせぐのが目的である。それは、家族のためである。家族のために男が危険をおかしてもはたらく、というようなことは、今の日本だと、ほぼ完全に否定されている古びた価値観である。それが、カトリックの信仰とともに、ペルーの山奥ではたらく人たちの心性である。
人間の住むところ、犬がいて、ネコがいる。男と女がいる。地球上の人間のくらしかとも思う。
2026年3月22日記
『悪魔の手毬唄』(後編) ― 2026-03-24
2026年3月24日 當山日出夫
『悪魔の手毬唄』(後編)
最後まで見て、エンディングの配役のところで、宮沢りえが、青池リカ/おりん、とあった。ここまで見て、ようやく納得できた。ドラマの中で、おりん婆さんは、そう大きな存在としてはあつかわれていない。金田一の手帖に老婆と書かれているのが、何度か映るぐらいである。
たしか、(もう半世紀ほど前のことなのではっきりと覚えているということではないのだが)おりん婆さんの正体が誰かということは、原作では、大きな謎としてあったはずである。このドラマでは、なぜ、青池リカが、おりん婆さんのふりをして登場してこなければならなかったか、ということが、すっぽりと抜けている。横溝正史の原作では、重要な部分であるので、省略するわけにもいかないので、こんなかたちになったということかなと思う。
最後の、金田一耕助と、ご隠居さん(白石加代子)とのシーンは、原作にあっただろうか。覚えていない。これは、前回作った『犬神家の一族』と同様に、現代の解釈ということかな、どうだろうか。
『モロッコ』は、日本で公開されたトーキー映画の最初ということなのだが、名前を知っているぐらいで、内容は知らない。この映画のことをふまえた脚本になっていることは分かる。見ようと思えば、DVDも安くであるし、AmazonPrimeでも、見ることができる。
ただ、トーキーが登場したからといって、それで、活動弁士がまったく仕事がなくなったかとなると、ここは、少なくとも数年の余裕はあっただろうと思う。(余計なことだが、トーキーの登場は、映画の役者も、科白を音声で語らなければならなくなったので、上手にいい声で科白を言える役者ということで、淘汰されることがあった。職を失ったのは、弁士ばかりではない。)
このドラマのような時代設定で、人物設定、血族関係、これは、今の時代のドラマとしては、とても作ることはできないだろう。また、その家で育った子どもにとっても、自分の本当の親は誰なのか、それが、その人間の存在の根幹にかかわるというほどのことでもなかった。このドラマのように、結婚の相手としてはどうかということでは問題になることはあったが。これは、現代のように、自分のDNAが自分の自分たるすべてであると考えるようなことの、前の時代のことである。
ややこしい人間関係の愛憎ということなのだが、それを、映像のケレン味で見せるというのは、今の時代の横溝正史ドラマの方向になるだろう。
2026年3月22日記
ステータス「南禅寺界隈別荘群」 ― 2026-03-24
2026年3月23日 當山日出夫
ステータス 南禅寺界隈別荘群
この番組は、全部は見ていないが、ときどき見ていて……おそらく、この回が、もっとも取材のハードルが高かったかと思う。金を出せばどうにかなるということでは、まったくない領域である。たまたま、前澤友作が、その気になってくれたので番組にできたということだろう。誰が今の所有者であるかということから、そもそも、絶対に人には知らせないはずである。
ニトリの社長と面会する場面があったが、背景の壁にかけてあった絵は、本物なのだろう。なんだか、こういうところが気になってしまう。(下賎な想像と思われるかな。)
世の中にこういうところがあってもいいと思うし、あるいは、残しておくべきだとも思う。できれば、こういう別荘が、外国資本にとられることがないようにとは、思うところであるが。(犬と日本人、立ち入り禁止、となりかねない。)
庭の池の水を抜いて、底の石を一つずつひっくりかえして洗う。そして、新たに水を引き入れて池にする。それも、場合によっては、流れをとめて水面が波立たないようにしたりする。
こういうのを見ると、これが、自然の庭といっていいのか、疑問に思わないでもない。非常に人工的に作った庭園である。しかし、その人間の手が入っていることを感じさせない工夫が、背後にある。
これも、近代になってから、南禅寺のエリアで疎水の水がつかえるようになってからのこと、ということになる。この意味では、近世以前の庭園とは、おもむきが違う。
茶室に秀吉の手紙を掛け軸にしてある。そこで、お茶を飲んで、それから、ワインになって、かなりの人数でビジネスについて話しをする……まあ、はっきりいって、私の趣味ではない。秀吉の文書を、茶室にかけたいと思うのが、どうも理解に苦しむ。千利休の朝顔の故事など、思うのだけれど。
こういう状況だからこそ話せること、というのも、ビジネスの世界にも、政治の世界にもあるのだろう。
まったく出てきていなかったのが料理のこと。おそらくは、京都の名だたる料亭のものか、あるいは、このような特別な別荘に特化した専門職があるのか(このような存在があることすら、一般には知られない)かもしれない。
駐車場が用意されていないというのは、そんな無粋なものは不必要ということなのだろう。明治のころだったら、人力車だっただろうから、それをとめておく場所など気にすることもなかっただろう。
いわゆる京都人からすれば、このような別荘の所有者については、京の町にとっては新参者にすぎない、といっていいだろうか。
2026年3月19日記
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