浦沢直樹の漫勉neo「水木しげる」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

浦沢直樹の漫勉neo 水木しげる

たまたま番組表を見ていて気がついたので録画しておいて見た。

「鬼太郎」は、子どものころ「少年マガジン」で連載が始まったのを読んだと記憶している。そのときのタイトルは「墓場の鬼太郎」であった。それが後に「ゲゲゲの鬼太郎」に変更になった。

初期の漫画雑誌版の「鬼太郎」はリアルタイムの読者だったことになる。しかし、貸本マンガの「墓場鬼太郎」は読んでいない。私の世代だろ、かろうじて貸本屋という存在が記憶のなかにあるのだが、自分で漫画を読むようになったころは、漫画雑誌の時代になっていた。(ちなみに、「サイボーグ009」なども雑誌連載で読んだ世代ということになる。)

テレビアニメも見た。しかし、徐々につまらなくなって見るのを止めた。それは、いつのまにか、鬼太郎が正義のために戦うヒーローになってしまっていったからである。そこに「鬼太郎」の持っていた、どこか人間の世界を斜めに見ているような視点が欠落していくのを感じたのである。言いかえるならば、「鬼太郎」の面白さは、単なる勧善懲悪の物語ではない、ということになる。

番組では、「鬼太郎」の作画の謎のいくつかについて説明があった。なるほどと思うところが多くある。鬼太郎の髪の毛の描き方とか、草むらの描写、ベタの使い方、たしかに「鬼太郎」の絵の魅力は、こういうところにある。

ベタの使い方が、アメコミの影響であるという指摘は面白かった。

写真を撮って、それをもとに背景だけを描いてストックしてあった。使われないままになってしまったものもある。

水木しげるは、Gペンを使って描いたという。Gペンは、私も使った経験がある。漫画を描いたりはしなかった。普通に文字を書くためである。近所の小学校の近くの文房具屋さんで、普通に売っていた時代である。

そのGペンでなければ欠けない、点描であったことになる。

「鬼太郎」の魅力は、その絵やキャラクター、妖怪たちにあるのは無論であるが、どこか世をすねたような視点で見ている、ニヒルな雰囲気にあったかと、今になって思うところがある。その意味では、少年漫画で、よくこのような作品を描いたものだと思う。「鬼太郎」においては、ねずみ男の存在が意味のあるものであることが分かる。

今、「鬼太郎」を読もうと思うと、中公文庫版ということになる。買ってはみたのだが、文庫版に作ってあるので、字が小さすぎて老眼の身にはつらい。読むのをあきらめた。どこか、昔の「少年マガジン」の大きさで刊行してくれないものかと思う。漫画にとって、どの大きさの本で読むかというのは、とても重要なことだと感じる。

2024年3月21日記

『光る君へ』「思いの果て」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

『光る君へ』第12回「思いの果て」

平安時代の貴族の婚姻制度がどのようなものであったか、どうにも分かりにくい。男性が女性のもとに通う、通い婚という形態でありつつ、家は男系によって受け継がれていく。男性にしてみれば、嫡妻の他に妾を多く持つことができた。このあたりが、現在の婚姻制度とかなり違うところがあるので、今ひとつ理解できないところがある。

このような時代的背景をもとに、『源氏物語』では光源氏が多くの女生と関係をもちながらも、それぞれを大事にあつかうという「いろごのみ」を実践した理想的な男性ということになるのだろう。

ドラマの始まりは、まひろの父の為時の妾(といっていいのだろうが)なつめの死からであった。臨終にのぞんで出家するのはいいとしても、死ぬところまでその場にいるというのは、どうなのだろうかと思う。平安朝貴族にとって死は忌むべきものであったと思うのだが、このあたりの描き方は、現代の人間の感覚に近いものとし作ってあるようである。

『源氏物語』などを読んだ知識では、平安貴族は、女性はそう簡単に男性に顔を見せることはなかった、と理解しているのだが、このドラマでは、かなり簡単に顔を見せている。ドラマの演出上、顔を隠してばかりではうまくいかないということもあるのだろうと思う。

この回でも、猫の小麻呂が出てきていた。倫子は、猫が大好きであるが、その猫よりも道長の方が好きであったらしい。

まひろと道長はこれからどういう関係になるのだろうか。まひろは道長の妾になることを拒否する。ただ、この先のこととしては、まひろは道長の娘の彰子の女房となるはずだが、この立場であると道長と関係があってもおかしくはないということだろうと理解しているのだが、はたしてどうなることかと思っている。

2024年3月24日記

「フラッシュ・ウォー 自律型致死兵器システムの悪夢」2024-03-24

2024年3月24日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー フラッシュ・ウォー 自律型致死兵器システムの悪夢

二〇二三年、オーストリア、ドイツの制作。

日本でも、AIについての議論はあるが、軍事技術とからめて論じることは、どこかしらタブー視されている感じがする。日本、イギリス、イタリアで共同開発することになった戦闘機についても、その輸出の是非をめぐる議論(これが重要ではないとは言わないが、まあ常識的に考えてNATOで使用することはありうるだろう)が主であって、具体的にどんな性能なのかということについては、(軍事機密ということもあるのだろうが)一般に報道されることはまったくないと言っていい。おそらく、AIをつかったシステムが搭載されることになるのは、確実だろう。

こういう番組を見て思うことは、何故、日本でこのような議論がなされないのか、ということである。AIの専門家、軍事の専門家は、当然ながら考えていること、研究していることだろう。自立型のロボット兵器の登場によって、これからの戦争がどうなるのか、今、ウクライナで行われていることであり、近未来には東アジアでも現実の課題になりうる(いや、もうすでになっている)ことである。

自立型ロボット兵器と戦争の倫理……今まさに考えなければならないことである。イスラエルとパレスチナの紛争において、国連事務総長が、戦争にもルールがあると言ったが、このような発言についてさえも忌避感を示す人がいる。絶対平和主義というべきだろうが。だが、ルールについて議論しておかなければ、まったくのルールなしの状態になってしまうことになる。その危険性を考えるべきだろう。例えば捕虜の処遇ということも、戦争のルールである。

まず、AIの技術が、デュアルユースであるということをはっきりと認識することが必要である。

ふと思うのだが、イスラエルは、なぜロボット兵器を使わないのだろうか。(あるいは使っているのかもしれないが、日本での報道では触れられることがない。ドローンは使っているのだろうが、どのような性能でAIによる自立型なのかどうか、伝えられてはいない。)自立型ロボット兵器は、技術的には可能かもしれない。だが、自立型ロボット兵器が、ガザの一般市民を殺す場面があったとしたら、世界の論調はどうなるだろうか。ここは、あえて人間の兵士が武器を持って戦っているという場面を、作り出していると思うのだが、これはうがち過ぎだろうか。

そして、最も危険なのが「フラッシュ・ウォー」。AIによる軍事システムの暴走である。ささいなパラメーターの変化に、AIが過剰に相互反応して、人間ではとめることのできない事態になってしまう危険性がある。

ところで、以前、小泉悠があるテレビ番組でこのようなことを言っていた。もしAI兵器が実用化されたとして、では、AI兵器だけが戦争をおこなって決着がついたとして(人的被害はない)、じゃあ沖縄を中国にさしあげます、というような状況になり得るだろうか。そんなことに、国民は納得するだろうか。

やはり戦争は人間がおこなうものである、というのが、この世のあり方なのかもしれない。ただ、その戦争のあり方は、これから大きく変わっていくにちがいない。

2024年3月22日記

『ブギウギ』「ズキズキするわ」2024-03-24

2024年3月24日 當山日出夫

『ブギウギ』第25週「ズキズキするわ」

年末の歌合戦に向けてのスズ子のこころのゆらぎをうまく描いていたと思う。

新しい歌手、水城アユミが登場してくる。実は、昔、梅丸にいたときの先輩、大和礼子の忘れ形見だという。そのアユミが、歌合戦で、スズ子の「ラッパと娘」を歌わせてくれと言う。そこで、スズ子は決断できないでいる。羽鳥のもとに行き、相談する。しかし、羽鳥は特に明確な返答をしない。さらに、茨田りつ子が、スズ子にせまる。自分の気持ちから逃げてはいけない、と。

結局、アユミは「ラッパと娘」を歌い、スズ子は「ヘイヘイブギー」を歌った。

このドラマの良さの一つは、ステージのシーンにあるのだが、ここでも、アユミの歌も、スズ子の歌も良かった。

史実としては、昭和三一年の紅白で笠置シズ子が歌っている。ただ、ちょっと気になることとしては、この時代、まだラジオの時代である。テレビはあったが、普及していない。テレビが普及するきっかけといわれているのが、時の皇太子(現在の上皇陛下)の御成婚のときのことである。昭和三四年である。

たぶん、ステージの演出もラジオ中心ということになっていたのだろうと思う。しかし、ドラマでは、舞台で派手に動き回ってテレビ向けの歌唱であった。まあ、ここは、今の時代のテレビドラマとして、それに合わせてのことということになるのだろう。

さて、次週、最終週になる。どのようにこのドラマをしめくくることになるのか、楽しみに見ることにしよう。高瀬アナウンサーは登場するだろうか。

2024年3月23日記

「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」2024-03-23

2024年3月23日 當山日出夫

NHKスペシャル 古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る

邪馬台国はどこにあったのか、というのは、相変わらず古代歴史の謎になっている。この番組の場合は、畿内説、それも纒向遺跡を重要な候補地ということで作ってあった。

信頼できるかと思うのは、年輪年代学。これは、日本の学問として世界にほこることのできる分野の一つであると思っている。纒向遺跡から発掘された木材の年輪の調査から、邪馬台国の時代として矛盾はない(学問的にはこのような表現になるかと思うが)ことになる。

それから、古代の人骨によるDNA鑑定。これによって、古代において、大陸から多くの人びとが日本列島にやって来ていたことが分かる。この研究の向かう方向としては、縄文時代、弥生時代、古墳時代、その後の時代……と、「日本人」はどのような出自の人びとによって構成されてきたかということになる。

また、航空測量のデータをAIで解析することによる、古墳(前方後円墳)の発見。従来の手法としては、地形図を見て、現地を歩いてようやく分かることが、地図上にデータとして特定することが可能になる。最終的には、現地調査ということにはなるだろうが。

興味深かったのは、防災科学技術研究所の実験。たぶん、河川の堤防などを作るための技術の研究の一部だろうと思うが、日本の土木技術史という観点から考えて面白い。中世の城などはどう作ってあったのだろうか。

このあたりまでは信用していいとしても、ここから先の議論はどうかと思わないでもない。

当時の東アジアにおける、交流、交易、侵攻、様々な人びとの行き来があったことは確かだろう。ただ、それが、三国志の時代……魏・呉・蜀……において、倭と魏とが結びつく原因になったとまで言えるかどうか、ここは疑問に思うところがある。当時の倭の国は、東の海のはての小国である。いや、国ということさえ無理かもしれない。その当時の海洋航海技術で、魏と倭とがつながることが、はたしてどれだ現実的だろうか。

このあたりの議論は、かなりうがった見方になるとは思うのだが……東アジアの海は古来から中国の影響の及ぶところであった、という戦略的な意図がないわけではないだろうと思ってしまうのだが、はたしてどうだろうか。基本的に、歴史学は、現代の政治状況を反映するところがある。(まあ、これが発展すると陰謀史観とでもいうものになってしまう危険性があるが。)

それよりも問題だと思うのは、古代の日本に統一国家があったという、イデオロギー的側面かもしれない。たしかに古代統一国家は存在しただろう。それを、次の倭の五王の時代、古墳時代、ということにするか、あるいは、それを邪馬台国の時代に接続させてさかのぼって考えることになるのか、このあたりの議論になるかと思っている。

ただ、古代の統一国家が成立したとしても、出雲とか東北地方とか、それから、アイヌとか、琉球とか、これらをふくめて考えることも必要だろう。

さらに書いてみるならば、番組では字幕で触れていたことだが、「魏志倭人伝」という書物が単独であるのではない。『魏書』という史書の一部分である。文献学的に、『魏書』がどのような書物であり、そのなかで、いわゆる「魏志倭人伝」がどのような位置づけになるのか、『魏書』において、東アジアのその他の地域の歴史はどう記述されているのか、それは信用できるものなのか、何を史料としてその記述はなされたのか、このあたりを総合的に考察する必要がある。この方面については、近年における、各種の古典籍のデジタル化を最大限利用して今後はすすめることになるにちがいない。

シシド・カフカをテレビでじっくりと見るのは、朝ドラの『ひよっこ』いらいのことかと思う。卑弥呼の役がよく似合っていた。

どうでもいいことだが、卑弥呼の時代に、人びとがどんな「日本語」を話していたのか、ということは、基本的に不明とすべきだろう。おそらく「日本語」を話していたのかもしれないが。


2024年3月20日記

「100分de名著forユース (3)生きづらさに向き合う ロビンソン「思い出のマーニー」」2024-03-23

2024年3月23日 當山日出夫

100分de名著forユース (3)生きづらさに向き合う ロビンソン「思い出のマーニー」

『思いでのマーニー』は、名前は知っている本であるのだが、読んだことはない。映画も見ていない。

面白かったのは、解説の河合俊雄のことばのいくつか。臨床心理学者として名前は知っている人ではあったのだが、その著作を読んだことはない。

心理学者が、児童文学を読むと、このような理解になるのか、というあたりがとても興味深かった。やはり、人間の心理、発達のプロセス、ということについて、すぐれた児童文学は、ふかくかかわるところがあることを認識させてくれる。

番組では出てこなかったが、今の若い人たち……少年、少女……は、物心ついたときからSNSのある世代である。そこでの成長のあり方とか、人間関係のこととか、いろいろと考えることはあるかと思う。さらに近い将来には、AIが社会の中に入りこんでくるにちがいない。AIは友達になり得るだろうか。そのような時代になって、『思い出のマーニー』はどう読まれていくことになるだろうか。

2024年3月22日記

2024-03-22

2024年3月22日 當山日出夫



2024年3月22日撮影

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

フロンティア「宇宙人はどこにいるのか?」2024-03-22

2024年3月22日 當山日出夫

フロンティア 宇宙人はどこにいるのか?

一月ほど前の放送だが、録画して残してあったのをようやく見た。

天文学にはまったく知識がない。そんなものなのかな、という気分で見たことになる。

宇宙人、地球外高度生命体、について、その存在をまったく否定する合理的理由がない以上、それが存在することを考えてみることに価値がある。おそらく、天文学者のほとんどが、宇宙人の存在を肯定している。少なくとも、まったく否定するということは無い(らしい)。

宇宙人についての研究は、その観測技術の進歩とともにある、ということが理解される。電波望遠鏡の利用、あるいは、宇宙そのものの成り立ちについての理解、これらの技術の開発、科学的知見によって、宇宙人についての考え方も変わってきたことになる。

何よりも重要なことは、宇宙人の存在を考えること、それを探査することは、人間にとって地球とはなんであるか、人間とはどのような存在なのか、根本的な反省をともなうことになることである。人間観、文明、文化、社会、政治、そして、宗教、さらには、神にいたるまで、多くの人文学のかかわる分野に影響をおよぼすことになる。宇宙人について考えることは、人文学の立場からも、重要な意味がある。

コンピュータやAIの発達が、人間観の変革をせまるものであるように、宇宙人とはどんな存在であるのかも、また、最新の技術や科学的知見とともに変化してきたことになるし、これからも、大きく変化していくことだろう。技術の発達、科学の発達が、人間とはなんであるか、生命とはなんであるか、知性とはなんであるか、その問いを常にささえるものになっていることについても、考えることになる。

2024年3月20日記

映像の世紀バタフライエフェクト「ロシア 暗殺と粛清」2024-03-22

2024年3月22日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ロシア 暗殺と粛清

一九五五年(昭和三〇)生まれの私としては、時代が変わったものだということを強く実感することになる。私の学生のころまでは、トロツキストということばが、堂々と使われていた。反革命の裏切り者として、罵倒することばとしてである。そのころ、スターリン批判はすでにあったが、それでも、ソ連を信奉する人たちが少なからずいた。(もちろん毛沢東の信奉者も多かった。)

レーニン、スターリン、プーチン、とつづくロシア、ソ連の支配者たちが、どのようにして権力をにぎり、独裁を強めていったのか。そして、その背後にある、粛正と暗殺の歴史をたどっている。

二〇二二年のロシアのウクライナ侵攻まで、おおむね日本のメディアはプーチンに対して好意的であったといえるだろうかと憶えている。侵攻がはじまってからでも、ゼレンスキーを、コメディアン出身の大統領と言っていた、ニュース番組のコメンテーターがいたりした。

それも、ここ二年の間におおきく変わった。

ロシアという国が、独裁によって統治されてきた歴史があり、自由を知らない……番組の最後のことばであるが、なるほどそういうことだろうかと思う。たぶん、同じようなことを、中国に対しても言うことができるだろうとも、私は思う。

さて、今、日本では、政権への支持率の低さが話題になっている。だが、支持率が高ければいいのかというとそんなことはないだろう。重要なポイントは、その政治のシステム、統治のあり方を、国民全体として支持しているかどうか、であるかもしれない。おそらく、今のロシア国民の多くは、今のロシアの統治を支持している。(一部に反体制の動きはあるだろうが。)一方、我が国においても、支持率がひくくても政府が転覆しないのは、多くの国民が、今の統治のあり方にさして不満を持っているというわけではないということになろうか。(無論、政治不信ということはあるのだが。)

この番組は四月以降もつづくようだ。続けて見ることにしようと思っている。

2024年3月19日記

「廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに」2024-03-21

2024年3月21日 當山日出夫

NHKスペシャル 廃炉への道2024 瀬戸際の計画 未来はどこに

おそらくNHKとしては、サイエンスZEROの取材と並行して番組を作っているのだろうと思う。同じ取材源を使って、どのように何を伝えるのか、考えてみることになる。録画しておいて見た順番としては、サイエンスZEROの方が先になる。

廃炉の技術的な可能性がゼロではない(リスクは当然あるとしても)、ということは言えるのだろう。世の中には、これを否定的に見る考えの人もいるだろうと思う。しかし、そのような立場にたってしまうと、今後の議論が全く先に進まないことになる。(ではどうすればいいのかということになってしまうのだが。)

NHKスペシャルで語っていたのは、技術的な課題の克服の可能性よりも、社会の合意の形成の方途についてであった。アメリカのスリーマイル島の事故のことが出てきていたが、これは、まず基本的にアメリカの社会における、ものごとを決める手続きに関する感覚の相違ということを考えておく必要があるだろう。同じ方法を日本で採用できるかどうかは、これも、(技術的な課題と同様に)未知数であるかと思うが、どうだろうか。

日本において、地元住民をふくめた対話の可能性を探る動きがあることは、歓迎すべきことである。しかし、最終的な合意形成にいたるまでの道のりはかなり険しそうである。(懸念されるのは、番組では触れていなかったことだが、国とか東京電力のことは何でも反対するという立場の人がいるだろうということであるが、こういう人たちの存在をふくめて、社会的合意にいたるのはかなり難しいかもしれない。)

問題を広い意味でとらえなおすならば、日本の社会全体としてどのように合意形成をめざすべきなのか、それはどのようにすれば可能なのか、という政治や統治のシステム、公共性、民主主義のあり方、というような広範囲な観点からの議論が必要になってくることであると思う。

すくなくとも、原子力発電そのものに賛成か反対か、という類いの踏み絵をつきつけるようなことは避けるべきだろう。そうではなく日常的な生活感覚を尊重しつつ、公共的なテーマへとどうつながるのか、あるいはつながることがないのか、というところから、手探りで始めるしかないのだろうと思う。必要なのは、相手を論駁することではなく、対話することである。

2024年3月19日記