カナメモチ2021-01-06

2021-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

今年も水曜日は写真の日。今日はカナメモチである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月30日
公孫樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/30/9331895

去年のうちに撮影しておいた写真である。もう鳥が食べて無くなってしまっている。

我が家の駐車場の入り口のところにある木である。初夏に白い花を咲かせる。それが、秋になると赤い実がなる。常緑樹である。

身近な草花の写真など撮ろうと思って、その初めのころに、この木の白い花を写したのを覚えている。最初は名前がわからなくて困った。秋になって赤い実をつけるのを確認して、カナメモチだろうと見当をつけたものである。

お正月を過ぎて、家の周囲に花は見られない。千両の赤や黄色の実も、ほとんど鳥が食べてしまったようで、少なくなっている。万両の赤い実は、まだ見ることができる。ヤツデの白い花が目立つ。庭に出て写真を撮ってみようと思うと、梅や木瓜の木の冬芽が目につく。つぼみというには早い。しかし、春になるとこれがつぼみになって花が咲くであろうことを予感させる様子である。

使っているレンズは、タムロンの180ミリ。カナメモチの実を写真に撮ろうと思うと、何よりも風が気になる。少しの風にもゆらぐ。日中、風の無い時間をみはからって、何度か外に出て写したものからである。

この冬が過ぎて、春になって、この木に白い花の咲くころ、また写真に撮れたらと思っている。

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年1月5日記

追記 2021-01-13
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月13日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/13/9337126

『麒麟がくる』あれこれ「本願寺を叩け」2021-01-05

2021-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十九回「本願寺を叩け」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/39.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月29日
『麒麟がくる』あれこれ「丹波攻略命令」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/29/9331552

正月の三日に大河ドラマの通常の放送があるというのは、異例のことかもしれない。いよいよこのドラマも、残り少なくなってきた。

この回で描いていたことで、印象に残るのは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、信長。

本願寺を攻めている光秀のもとにあらわれて、自ら陣頭にたつ。いさましくはあるのだが、無謀ともいえる。また、建築中の安土城がいかも自慢の様子である。

このような信長をなんといえばいいのだろうか。戦国乱世の英雄というよりも、むしろ幼児的といった方がいいかもしれない。そのような信長であるから、朝廷に対しても礼を失することもある。このあたりを契機として、光秀は信長とうまくいかなくなる、そのようなこれからの展開を予想させる。

第二に、熙子。

この回の後半は、光秀の病気と、それを懸命に看護する熙子であった。結局、熙子は、この回で死んでしまうことになる。その熙子を思う光秀の愛情が、情感深く描かれていたと思う。

以上の二点が、この回で印象に残っているところである。

このあたりにきて、信長は「天下」ということをかなり強く意識しはじめたようだ。安土城は、その「天下」の象徴でもあろう。この「天下」をめぐる信長と、光秀がどうなっていくのか、これからの展開を楽しみに見ることにしよう。

2021年1月4日記

追記 2021-01-12
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月12日
『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/12/9336833

『無名仮名人名簿』向田邦子2021-01-04

2021-01-04 當山日出夫(とうやまひでお)

無名仮名人名簿

向田邦子.『無名仮名人名簿』(文春文庫).文藝春秋.2015(文藝春秋.1980 文春文庫.1983)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277031

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月3日
『父の詫び状』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/03/9333732

向田邦子をまとめてよみかえしている。主な作品……エッセイ……は、若いときにだいたい買って読んできたつもりでいる。何十年ぶりかの再読ということになる。

この『無名仮名人名簿』は、読んだ記憶がある。特に印象にのこっているのは「カバーガール」。タイトルがいい。(といっても、今ではもう「カバーガール」ということばが過去のものになってしまっている。)

向田邦子のエッセイを読んで感じることは、やはり次の二点になるだろう。

第一には、時代が刻印された文章であること。昭和戦前のことから、高度経済成長期のころにいたるまでの、日本の地方都市、それから、東京の町が、細やかな視点で描かれる。どの文章を読んでも、その文章の描いた時代、書かれた時代というものを感じさせる。その多くは、大げさに時代を論じるというものではなく、あくまでも市井の人びとの視線である。

第二には、その普遍性だろう。確かに、向田邦子は、時代とともにあった。だが、そのエッセイに描かれる情感は、ある種の普遍性をもっている。言い換えるならば、文学たりえているということである。ただ、時代のなかで書いた文章ではない。人間を見る目の確かさというべきものがそこにはある。

この二つのことを、向田邦子の作品を読んで思うことである。

さらに書いてみるならば、向田邦子が活躍していた時代というのは、まさに女性が社会に出て活動しようという時代の前夜というべきころになる。その時代にあって、自分でかせいで自立した生き方をしている女性として、向田邦子の作品はある。あるいは、今にいたるまで人びとをひきつける要因のひとつとして、自立した女性の生き方を感じるということがあってであろう。

無論、その一方で、今では失われてしまった昭和の過去へのノスタルジーに満ちた文章という側面もあるのだが。

二〇二〇年もいろいろとあったが、冬休みの本ということで、向田邦子の作品をまとめて読んでみるつもりでいる。読むと、昔読んだときのことを思いだしてしまう。

2020年12月27日記

追記 2021-01-07
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月7日
『霊長類ヒト科動物図鑑』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/07/9335113

『父の詫び状』向田邦子2021-01-03

2021-01-03 當山日出夫(とうやまひでお)

父の詫び状

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月2日
『思い出トランプ』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/02/9333235

向田邦子.『父の詫び状』(文春文庫).文藝春秋.2006(文藝春秋.1978 文春文庫.1981)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277215

向田邦子の本をよみなおしてみたくなって順に読んでいる。この本は、若いときに読んでいる。書誌を書いてみて、たぶん一九八一年の文庫本だったろうかと思う。

何十年ぶりかに読みなおしてみて……まさに、この本に語られているとおりなのだが……この本を最初に読んだころのことを、ふと思い出す。まだ、若かったころのことである。

としをとってから再読してみると、向田邦子は、人情の機微、人間の生老病死、というものをたくみに書いていると感じる。特に、人間の「老い」とでもいうべきところに、視野がおよんでいる。これは、若いときによんだのでは気づかなかったところである。

留守番電話と黒柳徹子の話しは、どの本で読んだのかは忘れてしまっていたが、この本であったことを確認したことになる。

このエッセイに描かれたいくつかのシーンは覚えているものがある。それほど、最初に読んだときの印象が強かったということである。しばらくして、向田邦子が直木賞を受賞したと知ったとき、当然だろうと思ったものである。

これは忘れていたことになる。この本のなかに、いくつか飛行機のシーンがある。そのなかで印象的なのは、南米アマゾンに旅行して飛行機に乗る話し。飛行機事故があったというのだが、同行の沢地久枝と一緒に飛行機で旅することになる。普通に本を読んでいったのだが、このところで、ふとページをめくる手がとまってしまった。

向田邦子のエッセイは、私のわかい時の思い出のつまった本でもある。

2020年12月25日記

追記 2021-01-04
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月4日
『無名仮名人名簿』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334082

『思い出トランプ』向田邦子2021-01-02

2021-01-02 當山日出夫(とうやまひでお)

思い出トランプ

向田邦子.『思い出トランプ』(新潮文庫).新潮社.1983(2014.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129402/

川本三郎の本を読んだら、向田邦子を読みかえしてみたくなって読んでいる。

やまもも書斎記 2020年12月24日
『向田邦子と昭和の東京』川本三郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/24/9329899

この本が、向田邦子の直木賞受賞作ということになる。

向田邦子については、『父の詫び状』以来の読者でいるつもりである。これが出たとき、まだ学生のころだったろうか。テレビを持たない生活をしていた私にとっては、向田邦子は、脚本家であるよりも、まず、エッセイストであった。それが、小説も書くようになって直木賞をとることになった。

だが、この作品については、読んだという確かな記憶がない。手に取ったようにも覚えているのだが、いまではもう過去のことになってしまっている。新しい文庫本で読むことにした。

どれも巧いと感じさせる。短編小説の名手といっていいのだろう。特徴として思うこととしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、凝縮された時間。

どの短編も、非常に短い時間のながれをえがいている。その短い時間のなかに、過去の回想があり、思い出があり、小説の世界はふくらんでいく。そして、最後の一瞬のシーンで鮮やかに幕切れとなる。

これは、テレビドラマという時間の制約のある仕事で身につけた、作者ならではの感覚のなせるわざなのだろうと思う。

第二には、古風なことば。

これは、川本三郎が指摘していたことなので、特に留意して読むことになったのだが、この作品においては、ことばづかいが古風である。しかし、その文章、文体はまぎれもなく現代のものである。だが、そこで使用されることばにおいて、あえて古風な用語をえらんでいる。

これは、ドラマの脚本では、役者の台詞にはつかえないようなものであったのかもしれない。それを、自由につかうことを楽しんでいるかのごとく感じる。

以上の二点が、読んで思うことなどである。

それから、どの作品も、作品の発表された一九八〇年ごろよりも、ひとつ前の時代のことを描いている、あるいは、作品中に回想としてとりこんでいる。まさに、昭和という時代を描いた作品であると感じるゆえんである。

見てみると、向田邦子の作品の多くは、今でも文庫本で刊行されている。しばらく向田邦子の書いたものをまとめて読みかえしてみようかと思う。

2020年12月24日記

追記 2021-01-03
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月3日
『父の詫び状』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/03/9333732

二〇二一年に読みたい本のことなど2021-01-01

2021-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二一)に読んでみたい本のことなど書いてみる。

一昨年、夏目漱石を新潮文庫版で読むことをしてみた。昨年は、芥川龍之介、森鷗外、それから、太宰治について、新潮文庫で今出ている本で読んでみた。今年は、このつづきとして、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成など、読んでみようかと思っている。

今その「全集」を手にいれようと思えば、かなり安価で簡単に買えるようになってきてはいる。しかし、「全集」を読むのはやや気が重い。ここは割りきって、今の新潮文庫で読める範囲と限って読んでみるのも、一つの方針かと思う。

岩波文庫の『源氏物語』は、今年には完結するだろうと思う。これも、本編の部分については、読んでいる。残っているのは、「宇治十帖」である。全巻完結したら、最初にもどって、岩波文庫版のテクストで、通読してみようと考えている。(これも、新日本古典文学大系のテクスト……大島本に忠実……について、いろいろ考えることもあるだろう。だが、老後の楽しみの読書である。テクストは、読みやすければそれでいいと思うようになってきた。)

昨年の暮れから冬休みの読書と思って読んでいるのが、向田邦子。そのエッセイ、小説などを読んでいる。昨年末に読んで印象に残っているのが、柳美里の『JR上野駅公園口』。柳美里の他の作品も読んでみたい。また、日本の現代作家として、小川洋子とか、多和田葉子とか、読んでおきたくなっている。

昨年から話題の本といえば、『ディスタンクシオン』がある。これは読んでおきたい。

その他には、村上春樹の翻訳作品などで、まだ読んでいないものがかなりある。小説家としての村上春樹については、評価の分かれるところがあるかと思うが、海外文学の目利き、翻訳ということについては、非常にいい仕事をしていると思っている。村上春樹訳ということで、読んでおこうと思う。

COVID-19の影響がどうなるか、まったく予断をゆるさない。たぶん、この年も居職の生活になるかと思う。家にいる限りは、本を読む生活をおくりたいものである。古典を、文学を、読みたいと思う。そして、時間があるときは、カメラを持って外にでて身近な草花の写真など撮っていきたい。

2021年1月1日記

二〇二〇年に読んだ本のことなど2020-12-31

2020-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二〇)に読んだ本のことなど思いつくままに書いておきたい。

今年、まず読んでみたのが、宮尾登美子であった。『櫂』をふと読みなおしてみたくなって読んだ。それから順に自伝的作品をはじめとして、主な作品を読んだ。これほど人びとの日常生活の情感、人間の喜怒哀楽、生老病死にまつわる思いなどを、細やかに描いている作家は、希かもしれない。宮尾登美子については、読もうと思って買って、まだ手にしていない作品がいくつか残っている。これらについては、来年になって読むつもりでいる。

『復活』(トルストイ、藤沼貴訳、岩波文庫)を読んだ。『復活』を読んだら、カチューシャの唄を思い出してしまう。その流れで、『放浪記』(林芙美子)など読みなおしてみた。トルストイの作品では、『戦争と平和』(藤沼貴訳、岩波文庫、全六冊)も読むことができた。これは、以前に、新潮文庫版で読んだことがある。そして、今は、光文社古典新訳文庫版が刊行中である。これは、順番に買っている。全巻そろったら、まとめて読もうと思っている。

日本の古典では、『太平記』(岩波文庫版)を読んだ。『太平記』は、若いころに日本古典文学大系版で手にしたことはあるのだが、最初から通読するのは始めてになる。底本をいい本をつかっている。だが、岩波文庫につくるということで、国語学的に見て興味があるところについて、その本文校訂については、若干の不満があるというのが、正直なところである。が、ここは、もう老後の読書である。そのようなことはあまり気にせずに、ただページをめくっていく読みかたで読むことにした。『太平記』については、他に、古典集成や、新編日本古典文学全集のテキストもある。これらの本でも、読んでおきたいと思う。

『風と共に去りぬ』(岩波文庫版)も再読してみた。この作品については、旧版新潮文庫、新版新潮文庫、岩波文庫と読んでいる。このうち、岩波文庫版について、再読しておきたくなって読むことにした。やはり、この作品は、ある時代の人びとの世界を活写していると強く感じる。

今年読んだ本のなかで、一番印象に残っている本は、『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)である。ここに取り上げられている本について、全部読んでみようと思って、だいたい順に読んでみた。このうち『失われた時を求めて』については、岩波文庫、集英社文庫で、すでに読んでいる。この光文社古典新訳文庫版でも、既刊分については、読んでおくことにした。『文学こそ最高の教養である』は、光文社古典新訳文庫を基本に、古今東西の「古典」を解説してある。すぐれた文学論、古典論であり、また、翻訳論になっている。このようなことを思い立っていなければ、読まずにすましてしまったような作品が多い。時には、このような読書の方針もあっていいと思う。

新潮文庫で読める範囲に限定して、現在刊行されている本を読んでみようと思った。芥川龍之介を読み、森鷗外を読んだ。芥川龍之介も、森鷗外も、その岩波版の全集は持っているのだが、全集に手を出すのが億劫になってきたということもある。現在でも刊行されている範囲の文庫本に限って読むというのも、一つの考えかと思っている。

太宰治も、新潮文庫版を全部読んだ。その代表作の主なものは、若いときに手にしたことがあるのだが、改めて、ほぼ発表年代順に読んでみた。太宰治は、新潮文庫で、その小説のほとんどを読むことができる。特に、その中期といわれる時期……ほぼ戦争中になるのだが……に書かれた作品に、文学的にすぐれた作品がある。いまだに太宰治が読み継がれている理由が分かったかと思う。

ともあれ、この二〇二〇という年は、COVID-19の年として歴史に残るであろう。いや、来年もどうなるか、まったく予断を許さないのだが。大学の授業は、前期はオンラインということになった。外に出ることが基本的になくなった。学会、研究会なども、ほぼ中止か、オンライン開催であった。結果的には、居職の生活となった一年である。どれほど本が読めたか、ふりかえってみれば、思い残すところもある。来年もつづけて、本を読む生活をおくりたいと思っている。

2020年12月30日記

公孫樹2020-12-30

2020-12-30 當山日出夫(とうやまひでお)

年末であるが水曜日なので写真の日。今日は公孫樹である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月23日
椿のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/23/9329557

我が家のうちに一本の公孫樹の木がある。毎年、秋になると紅葉して、あたりの地面が黄色くなる。もう今ではすっかり葉が落ちている。掲載の写真は、先月のうちに撮影したものである。

公孫樹の木には、雌雄がある。この我が家の木のものには、銀杏はならない。

公孫樹の木の見頃は、初夏の新緑のころもある。青葉の公孫樹の木もまた写真に撮ってみると、なかなかきれいである。無論、秋の紅葉もいい。特に、公孫樹の木に朝日があたって、黄色く輝いているようなときに出会うと、思わずカメラを向けてしまう。

今年の秋、散歩に出る機会のあるときは、カメラを持ってで、いくつか公孫樹の木を写すことができた。見ていると、その紅葉の見頃は、数日の間のことである。

掲載の写真は、我が家の公孫樹の木で、望遠レンズで撮ってある。公孫樹の葉の造形は、写真に撮ってみると、いろいろと興味深い。

この年も、水曜日は写真の日ということで続けることができた。COVID-19のせいもあって、居職である。毎朝、日が昇ると、あるいは、NHKの朝ドラが終わると、カメラを持って庭に出る。季節ごとに身近な草花を写真に撮ることにしている。毎日同じような写真にはなるが、それでも、草花の生長があり、また、その日による光線の違いがある。写真もまた日々異なってくる。

来年も、同じように身近な草花の写真を撮っていけたらと思っている。

公孫樹

公孫樹

公孫樹

公孫樹

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

2020年12月29日記

追記 2021-01-06
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月6日
カナメモチ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/06/9334765

『麒麟がくる』あれこれ「丹波攻略命令」2020-12-29

2020-12-29 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十八回「丹波攻略命令」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/38.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月22日
『麒麟がくる』あれこれ「信長公と蘭奢待」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/22/9329216

本来なら、年末のこの週になれば、総集編ということだったかと思う。今年は異例である。しかし、これも、世情を考えればいたしかたないか。

ともあれ、この週あたりから、いよいよ本能寺の変に向けて動き出したという印象がある。鍵になりそうなのが、正親町天皇である。まあ、これは、本能寺の変朝廷陰謀説ということになるのかもしれないが。

この回で描いていたのは、忠義、忠誠心ということだと思って見ていた。冒頭、三淵藤英の死があった。三淵は、将軍に忠誠心をいだいている。それを、信長は気にしてのことである。

さらには、斎藤利三が光秀のもとにやってくる。その主君であった稲葉一鉄に見切りをつけたようだ。その主な要因は、稲葉の忠誠心の節操のなさとでもいっていいか。

そして、光秀は、信長の家臣として信長に忠誠をつくす……かのごとくである。だが、本当にそうなのだろうか。このあたりの心情が、どうも微妙であるように感じる。(まあ、これは、最終的に本能寺の変ということを知っているから、そう思ってしまうだけのことかもしれないのだが。)

朝廷の内部においても、いろいろ抗争があるようだ。天皇、あるいは、上皇に対して、忠誠心を持っているのは、誰なのだろうか。そして、そのなかに、光秀も巻きこまれていくことになるようである。

次は、来年の放送になる。異例のことだが、これもしかたのないことだろう。お正月の放送を楽しみに見ることにしよう。

2020年12月28日記

追記 2021-01-05
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月5日
『麒麟がくる』あれこれ「本願寺を叩け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/05/9334406

『リベラリズムの終わり』萱野稔人2020-12-28

2020-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)

リベラリズムの終わり

萱野稔人.『リベラリズムの終わり-その限界と未来-』(幻冬舎新書).幻冬舎.2019
https://www.gentosha.co.jp/book/b12748.html

たぶん、ここで書く今年最後の本になる。今読んでいるのは向田邦子の作品。今手に入るエッセイなど……文庫本で出ているもの……を、集中的に読んでいる。向田邦子については、年があらたまってから書いていこうと思う。

萱野稔人という人……哲学者……は、気になっている人の一人である。その書いていることに賛成か、そうでないか、判断しかねるところはあるのだが、その問題提起について、なるほどと同感するところが多い。

この本についてもそうである。このような議論からはじまる……同性婚を認めるならば、一夫多妻や一妻多夫も認めなければならなくなる、当事者の合意があり、誰に迷惑をかけるわけではないのであるから……この議論は、確かに読んでいてなるほどこのように考えることもできるのか、と感心した。「リベラル」という立場をつきつめていくならば、どこまでの自由を認めることになるのか、また、その主義主張はどれほど社会的に有効なものであるのか、ここのところを、つきつめて考えてある。

ただ、この本の後半の議論……人びとが分かち合うべきパイの大きさのこととか、『自由論』に言及したあたりになってくると、はっきりいって、私にはよく分からないというのが正直なところである。しかし、著者はその立場として真剣に議論していることは分かる。

私個人としては、かなりリベラルな立場でものを考える方かとは思っている。しかし、なぜそのように考えるのか、そして、その思考の行き着くところはどこで、どのような限界があるのか、あまり考えてみたことはない。この意味においては、リベラルにものを考えるとはどういうことなのか、いったん立ち止まって考えることになる。

COVID-19で明け暮れてしまった一年であったと思うが、このような中にあってこそ、ものを考えること、そしてその考えを追求していくことの重要性を、改めて感じている次第である。

2020年12月27日記