『おちょやん』あれこれ「うちの守りたかった家庭劇」2021-04-04

2021-04-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第17週「うちの守りたかった家庭劇」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/17/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月28日
『おちょやん』あれこれ「お母ちゃんて呼んでみ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/28/9361296

この週は、太平洋戦争の開戦から昭和二〇年三月の大阪の空襲まで。みどころとしては、次の三つかと思う。この時期の、戦時下の道頓堀の人びとを情感をこめて描いていたと思う。

第一に、福助のこと。

福助のところに召集令状が来た。出征することになる。その福助のために、みつえは最後にトランペットを吹かせてやりたいと思う。それに、千代や一平たちも協力する。

また、出生後の福富の店に、婦人会の人がやってくる。トラペットを供出するようにせまる。それを、みつえはなんとかのりきって守ることになる。

第二に、岡安のこと。

シズは、ついに岡安を閉めることにした。お茶子たちは、それぞれバラバラになって散っていった。岡安は閉めても、シズは、道頓堀を動く気はないという。芝居茶屋と一緒に生きてきた女性の意地であろう。

第三に、家庭劇のこと。

千代と一平の家庭劇を鶴亀は解散するという。もはや、家庭劇を上演する劇場も閉鎖されてしまっている。だが、なんとか、千代は家庭劇を守ろうとする。その意気に、他の劇団員たちも、共感して一座に残ることになった。

以上の三つぐらいのことをおりまぜて、この週は話しが展開していた。

そして、最後が、昭和二〇年三月の大阪の空襲である。これは、以前の朝ドラでは、『ごちそうさん』で描かれていた。大阪が大きな被害をうけることになる。道頓堀も戦禍にみまわれる。はたして、岡安や福富の人びとは、無事でいるのだろうか。

次週、戦時下での千代たちの活動を描くことになるようだ。戦争という時代に喜劇役者たちがどのように生きてきたことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年4月3日記

追記 2021-04-11
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月11日
『おちょやん』あれこれ「うちの原点だす」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/11/9366100

プロジェクトX「巨大台風から日本を守れ」2021-04-03

2021-04-03 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKが「プロジェクトX」を4Kリストア版で再放送するということなので、見てみることにした。(ただ、見ているテレビは普通のテレビであるが。)

「プロジェクトX」がはじまったのは、二〇〇〇年のこと。かなり長く続いた番組である。人気もあった。そして、その番組のイメージは、今にいたるまで残り続けている。

今(二〇二一)から振り返ってみて、二〇年前のことになる。その時代はどうだったろうか。バブル崩壊後の、平成の時代であった。不景気というのではないが、どことなしか閉塞感のようなものがあったように思い出される。

その時代にあって、かつての日本の高度経済成長の時代、そして、それを支えたのは、無名の人びとであったことを、この番組は描いていたと思う。普通の会社の人の、普通の仕事、それは、その時代にあって、必要とされたことであり、また、次の時代のために必要なことでもあった。その仕事を淡々とひきうけてこなしていく姿に、多くの人びとが、何かしら郷愁のようなものを感じていたのではなかったろうか。

この番組の主題歌は、「地上の星」である。歌ったのは、中島みゆき。ただ、私は、この歌よりも、エンディングでつかわれた「ヘッドライト・テールライト」の方が好きである。中島みゆき自身も、その後に出したアルバムのなかでは、この曲を大事にあつかっている。(ちなみに、私は、中島みゆきのCDは、そのほとんど全部を持っているはずである。すべて、Walkmanにいれてある。)

再放送であったのは、番組の第一回の放送。富士山の気象レーダーの建設のこと。そういえば、私の若かったころ、天気予報では、富士山頂の気象観測データも語られていたように記憶する。そのレーダーが、台風の観測に是非とも必要なものであったことは、容易に理解される。

重要なポイントとしては、そのレーダーは、今ではもう使われていないということにあるのかもしれない。気象観測衛星にその役割はとって代わられている。命がけで作ったレーダーも、時代とともに、その役割を終えれば姿を消していくことになる。

だからといって、その仕事が無駄であったということはない。時代の流れの中で必要とされたことであり、次の時代を切り拓いていくための仕事でもあった。

思えば、天気予報ぐらい、近年になって急速に発達したものはあまりないかもしれない。昔の天気予報は、当たらないというのが常識であった。だが、今や、数日先の天気まで、ほぼ確実にわかる。この技術の発展は、身近に存在するものであり、その恩恵を多大にうけている日常なのだが、そう意識することはない。このような技術こそ、本当に人びとの生活のために役立つものといっていいのだろう。

「プロジェクトX」の再放送は、いくつか続けてあるようだ。見ることにしようと思っている。

2021年4月2日記

追記 2021-04-10
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月10日
プロジェクトX「友の死を越えて」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/10/9365712

映像の世紀(1)「20世紀の幕開け」2021-04-02

2021-04-02 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKが「映像の世紀」を再放送しているので、録画しておいて見た。デジタルリマスター版である。

もとは、一九九五年の番組である。二〇世紀の終わりにこの番組がつくられたことになる。その当時、どんな時代だったろうか。一九九五年といえば、神戸の震災の年であり、地下鉄サリン事件の年である。むろん、Windows95の発売の年でもあった。バブル景気の破綻ということはあったが、世の中そんなにまだ悪くなっているという印象はなかったと覚えている。(その後、平成の時代となり、二一世紀になって、世の中ろくなことになっていない、と思うのだが。まあ、確かにインターネットの発達、スマホの普及ということはその後のこととしてあるのだが、それで、生きていくのに良い時代になったという印象を私はあまり持っていない。)

この番組が放送された当時、私は、これを全部は見ていないが、時々見ていたと記憶している。語りが山根基世であったことは、覚えている。

再放送を見てまず一番に感じたことは、語りの山根基世アナウンサーの声の若さと、その語りのスピードである。今、時々、放送のある「映像の世紀プレミアム」でも語りを担当しているが、その口調は、もっとゆるやかである。ゆっくりとしゃべっている。

この語りのスピードの違いが、一九九五年から、二〇数年たった時間の流れを象徴しているように感じたというのが、まずは正直なところである。

そして、番組について語るならば……やはりNHKがちからをいれた作った番組であるということであり、まさに、二〇世紀という時代が「映像の世紀」であったことを実感する。明治の日本をはじめとして、中国、ヨーロッパ、ロシア、アメリカなど、さらには、植民地であった地域の映像が残っている。そこには、映像の語る迫力というものを感じずにはいられない。

百聞は一見に如かずというが、映像そのものが語るちからには圧倒されるものがある。

ただ、これは、今日(二〇二一)の目で、一九九五年の番組を見るということもあるのだが、映像を発掘してきたということのインパクトで作った番組という印象をどうしてももってしまう。無論、ところどころに、歴史の流れへの批判を見てとることはできるが、そう強いものではない。(この意味では、今の「映像の世紀プレミアム」は、非常に歴史に対して批判的である。)

それにしても、よくこんな映像が残っていたものだと感心することしきりである。素朴な印象であるが、一般的な歴史として知っている知識や感想を、一つの映像で強固にうらづける、あるいは、打ち砕いてみせるというところがある。

ところで、あらためてこの番組を見て思うことの一つに、残された映像を映したのは、やはり、世界の支配者の側の人間の目である、ということがある。植民地の映像など、その植民地支配を正当化するために作成され、残されたものである。ロシアのロマノフ王朝の映像なども、その王家の繁栄を誇示するためと見ていいものだろう。

興味深かったのは、映像の記録という手段を手に入れた人間は、すぐに、面白い動画撮影にもとりくんでいることである。今では、YouTubeに投稿するようなものだろう。それを、映画というものの登場してすぐの段階でやっている。

この番組の再放送は、ここしばらく続くようだ。COVID-19で居職の生活である。録画しておいて、後日の昼間にゆっくりと見ることを続けられたらと思っている。この回は、二〇世紀になって歴史が映像にとどめられるようになった始めのころのことだった。次は、第一次政界大戦がはじまって、映像に残る戦争の時代ということになるはずである。

2021年4月1日記

追記 2021-04-09
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月9日
映像の世紀(2)「大量殺戮の完成」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/09/9365370

『警視庁草紙』山田風太郎2021-04-01

2021-04-01 當山日出夫(とうやまひでお)

警視庁草紙

山田風太郎.『警視庁草紙』(「山田風太郎明治小説全集」第一巻).筑摩書房.1997(文藝春秋.1975)

山田風太郎を読み返してみたくなって古本で買った。(この本、今では古本でかなり安価で買うことができる。)

私にとって、山田風太郎は、まず、『戦中派不戦日記』の作者である。これは学生のときに読んだ。そして、『警視庁草紙』からはじまる一連の明治伝奇小説の書き手である。また、晩年の仕事としては、『人間臨終図鑑』がある。それから、『八犬伝』も読んだ作品である。ただ、世の中では、忍法ものの作者として知られているかと思う。

『警視庁草紙』を読んだのは、たしか学生のとき。文春文庫版であったと記憶する。その後、『幻燈辻馬車』など、作品が出ると買って読んだ。以降の作品は、ほとんど単行本が出るとそのつど買って読んでいったのを覚えている。その大部分は、読んでいるはずである。

山田風太郎の明治小説には、一部に熱烈なファンがいるらしい。そのせいだろう、以前に筑摩書房から、「山田風太郎明治小説全集」として、この類の作品をあつめて刊行になった。このような「全集」が出るということは、いわゆる大衆文学にとっては、希有なことかもしれない。このとき、「全集」と同時に、ちくま文庫版でも刊行になった。筑摩書房としては、かなり力を入れた本になっていると思う。

本文にちがいはないはずだが、「全集」版は、解説(木田元)がついている。このことをとってみても、この一連の小説に対する人気ぶりがわかろうというものである。ただ、この本が出た当時、私としては、すでにほとんどの作品を読んでいたということもあって、買わずに済ませてしまっていた。

今、見てみると、依然として人気があるようで、山田風太郎の作品のいくつかは、新しい文庫本で刊行されているものがかなりある。明治伝奇小説のいくつかもあるようだ。

『警視庁草紙』であるが、この作品については、すでに多くのことが語られているであろうから、特に私が何ほどのことを書くこともないだろう。が、強いて書いてみるならば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などとどうしても比較して読んでしまう。(ちなみに、私は、司馬遼太郎のこれらの作品は、少なくとも二回は繰り返して読んでいる。)

司馬遼太郎が、明治からはじまる近代日本の「光」の部分を描いたとするならば、山田風太郎は「影」の部分を描いている。「光」があるところには、かならず「影」がある。と、このようなことを、山田風太郎自身がどれほど意識していたかは、かならずしも定かではないようだ。明治というメチャクチャな時代を舞台にして、虚実入り交じった面白い物語を書きたかったらしい。

どこまで本当で、どれぐらい嘘が混じっているか、考えながら、あるいは、だまされながら読むのが、この作品の面白さというものだろう。たとえば、樋口の家のなつという少女と、夏目の家の金之助という少年が出会って話しをするシーンなど有名だろう。事実、樋口一葉と夏目漱石は、さほど年が離れているわけではない。文学者として活躍する時期には、一世代の違いはあるが。文学史の知識として知っていることではあるが、果たしてこの二人が会ったことがあるのか、どうだろうか。あったとしておかしくはない。このあたりの虚実皮膜の間が、実にたくみである。

それから、山田風太郎の明治伝奇小説は、必ずしも、幸福な終わり方をしない。『警視庁草紙』のラストのシーンなど、悲壮感にあふれているといってもいいだろう。明治の近代を作りあげる「影」の部分に、まなざしがそそがれている。

そして、『警視庁草紙』は、明らかに「歴史」を意識している。近代日本の歴史の行き着く先のひとつの結果が、昭和二〇年の敗戦ということになるが、そこを「不戦日記」の作者の目で、近代の歴史をふりかえっている。

COVID-19のこともあって、基本的に居職の生活である。本を読むことにしている。今、小川洋子の作品をみつくろいながら読んでいるところである。それから、ブッカー賞の受賞作品で翻訳のあるものについては、読んでみようとか思っている。その合間に、山田風太郎の明治伝奇小説を、読みなおしてみたい。再読、再々読、再々々読……の作品が多いが、ここは楽しみの読書である。読み返すたびに、新たな発見があるのも、また、読書の楽しみである。

2021年3月29日記

追記 2021-04-08
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月8日
『幻燈辻馬車』山田風太郎
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/08/9365078

雨に散る桜2021-03-31

2021-03-31 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は、雨に散る桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月24日

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/24/9359999

先週は桜の花の咲いた状態であったが、今日は、それが雨に散ってしまったときのものである。

春になって桜が咲く。そのままきれいに満開になり、散っていくということはまずない。大抵は、その途中で、一度か二度は雨が降る。今年の場合、ちょうど満開になったとき、雨が降った。かなり強い雨だったので、桜の花も散ってしまった。ただ、全部散ってしまったというわけではなく、遠目には咲いて見える。だが、近寄って観察してみると、雨に打たれて散った後の花びらを目にすることができる。

毎年、三月ごろになると桜の花の冬芽を見ている。それがふくらんであかくなってくる。つぼみといっていい状態になって、花が咲く。数日すると満開になる。満開になったときには、先に咲いた花は、すでに散り始めている。そして雨がふると、咲いた花びらも雨に散ってしまう。この雨に散った後の桜も、またその目で見てみると、それなりに風情のあるものである。

雨に散った桜の花は、例年、写真に撮ることにしている。

使っているのは、85ミリのマイクロ。ニコンのDX用レンズであるが、これはもう生産中止になってしまっている。小型軽量につくってある。何よりも、ボケがきれいである。ここしばらく、このレンズを主につかっている。

我が家の駐車場の桜が散ると、その近くにある山吹の花が咲く。山吹のつぎは、藤の花になる。足下をみると、タンポポの黄色い色が見えるようになった。

桜

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

2021年3月30日記

追記 2021-04-07
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月7日
沈丁花
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/07/9364758

『青天を衝け』あれこれ「青天の栄一」2021-03-30

2021-03-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第7回「青天の栄一」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/07/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月23日
『青天を衝け』あれこれ「栄一、胸騒ぎ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/23/9359712

この回で描いていたのは、『青天を衝け』というドラマのタイトルの由来、といってもいいだろう。

まずは、例によって徳川家康の登場からであった。江戸時代、漢詩が多くの人びとによって読まれ、また作られていたことの説明から。このあたりは、入門的な知識としては妥当なところであったかもしれない。ここも専門的にいえば、日本における漢詩文の歴史ということを、論じなくてはならなくなる。そこを、さらりと流していた。

ただ、最近出た本としては、岩波文庫の『江戸漢詩選』(上・下)揖斐高(編訳)がある。たまたまということであったのだろうが、時宜にかなった番組のスタートであると感じた。

その「青天を衝け」であるが、これは栄一が作った漢詩のなかにある「衝青天」からとったものということになる。このあたり、ドラマのなかでは、漢文訓読ということではなく、漢詩の現代日本語訳という形式であつかってあった。ここは漢文訓読ということであった方が、雰囲気はでるにちがいないが、やはり一般の視聴者には、分かりにくいと判断してのことだったのだろう。

ところで、ドラマの方はというと、基本的に次の二点だろうか。

第一には、栄一をめぐる血洗島の様子。

ここでは、一つには、「尊皇攘夷」ということで時流に流されていく村の若者の一人という描き方であった。これは、たぶん、その当時の雰囲気としては、そんなものだったのだろうと思うところでもある。

もう一つは、栄一と千代とのこと。千代を演じているのは、橋本愛。屈折した感情というものをうまく表現していたように感じる。

第二には、江戸城のドタバタ騒ぎ。

一橋慶喜を次の将軍にということになるようだが、(実際、史実としては、慶喜が最後の将軍となる)、そこにいたる過程は、どうみてもドタバタ騒ぎである。最後に、井伊直弼が登場していたのだが、これから安政の大獄があることを考えてみるならば、どうも登場の仕方が、軽々しいという印象をもってしまう。

このあたり、このドラマでは、江戸幕府の最後の有様を、ドタバタ騒ぎのあげくに、慶喜が最後の将軍として英断を下したということになるのかと思って見ている。そう思って見ると、水戸の斉昭の軽薄さも、なんとなく理解できる。(普通ならもっと重厚な演技で見せるところだろうと思うのだが。)

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

次回、栄一と千代とのことが発展し、さらには、安政の大獄ということになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年3月29日記

追記 2021-04-06
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月6日
『青天を衝け』あれこれ「栄一の祝言」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/06/9364438

『原野の館』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子(訳)2021-03-29

2021-03-29 當山日出夫(とうやまひでお)

原野の館

ダフネ・デュ・モーリア.務台夏子(訳).『原野の館』(創元推理文庫).東京創元社.2021
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488206062

創元推理文庫の新刊、厳密には新訳ということで読んでみることにした。ダフネ・デュ・モーリアの作品は、『レベッカ』が有名かもしれない。他には、『レイチェル』がある。それから、『鳥』の作者でもある。『鳥』は、映画の方が有名だろうか。

主人公はメアリー。母が亡くなって孤独の身となって、叔母のもとにゆくことになる。それは、荒野のなかに立つ、ジャマイカ館という家だった。そこには、叔母の夫もともにいるのだが、何かしら怪しげである。謎につつまれた館の正体は、どうやら密貿易らしい。そして、悲劇が起こる。限られた登場人物でありながら、これから先いったいどうなることだろうと読みふけってしまった。

この作品は、舞台背景がいい。日本語訳のタイトルは、「原野の館」であるが、「原野」には「ムーア」とルビがふってある。英国の、荒涼たる原野のひろがる地域で、この作品は展開する。

サスペンスに満ちた作品であると同時に、ある種のフーダニットにもなっている。まあ、登場人物がきわめて限定的だから、事件の背後にある真相としては、あの人物なのかなとおぼろげには推測しながら読むことにはなる。しかし、そうはいっても、そこにいたる道筋は、実にたくみである。特に、「真犯人」が正体をあらわすところなどは、本から目がはなせなくなる。

それから感じることは、この作品などに見られる、英国のミステリの文学的芳醇さである。これは、なかなか日本の作品には求めがたいものがある。たぶん、ミステリという文学のなりたつ社会的、歴史的、文化的な背景の違いによるものなのだろう。ともあれ、この作品、新訳ということで再度世に出た作品であるが、間違いなく傑作といっていい作品である。

2021年3月28日記

『おちょやん』あれこれ「お母ちゃんて呼んでみ」2021-03-28

2021-03-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第16週「お母ちゃんて呼んでみ」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/16/

前回は、
やまもも書斎記 2021年3月21日
『おちょやん』あれこれ「うちは幸せになんで」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/03/21/9359042

この週の見どころは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、高城百合子のこと。

これは、岡田嘉子をモデルにしてのことだと思うが……小暮と一緒に千代たちのもとにやってきた高城百合子は、警察に追われている。それを、なんとかかくまって逃亡を手助けすることになる。

ここで、高城百合子や小暮との会話がいろいと興味深い。戦争の時代になっている。当局の検閲の目が厳しくなってきている。自分の望むような演劇はできない。多くの人びとを幸せにするような芝居をもとめている。ソ連への亡命を意図しているという。

だが、千代と一平は、今のところにとどまることになる。道頓堀での家庭劇を続ける。演じているのは、愛国ものの芝居である。ここには、いろいろと難しい問題がある。結果的に見るならば……現代の視点から振り返って考えてみるならばということになるが……千代たちの芝居は、人びとにうけていたかもしれないが、それは、ある意味で、時代の流れに流されていることに他ならない。強いていうならば、戦争の時代にあって、演劇ということで、時代に迎合したということになる。

これも考えようによっては、千代たちは、時代と共に生きたということになるのかもしれない。

無論、これは、今になってから言えることであって、その時代において生きていた人びとの価値観からするならば、これはこれで一つの生き方であったにちがいない。ここのあたりのことを、今日の価値観から批判的になるでもなく、また、必要以上に肯定するでもなく、高城百合子という批判の視点を設定したところは、このドラマの脚本のたくみなところといっていいだろう。

第二には、千代と一平と寛治のこと。

結果的には、寛治は、一平たちと家族ということになった。それまでのいきさつが人情味ある描き方であった。

千代は寛治の前で自分の人生を回顧してみる。親にすてられ、弟とも別れてしまった孤独な境遇である。一平も、母親に逃げられている。千代も一平も、家庭というものを知らずに育ってきた。そのような千代と一平だからこそ、寛治のおかれている立場が理解できる。三人で、一緒に家族として暮らそうということになった。

このドラマでは、千代は家庭にめぐまれていないことになっている。だからこそ、家庭劇ということで、人と人との心のつながりを、舞台で演じようとしていることになる。劇団が、いわば、千代たちにとっての、家庭ということになる。

以上の二点が、この週の見どころかと思ったところである。

ところで、高城百合子との別れのシーンで流れていたのが、カチューシャの唄だった。この音楽は、前にもドラマのなかでつかわれていた。以前は歌もあったが、今回は演奏のBGMだけだったが。このカチューシャの唄の使い方が非常に印象的である。

次週、時代は、いよいよ戦争の時代になるようだ。戦時中の道頓堀に生きた人びとのことを、どう描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年3月27日記

追記 2021-04-04
この続きは、
やまもも書斎記 2021年4月4日
『おちょやん』あれこれ「うちの守りたかった家庭劇」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/04/04/9363716

『贖罪』イアン・マキューアン/小山太一(訳)2021-03-27

2021-03-27 當山日出夫(とうやまひでお)

贖罪

イアン・マキューアン.小山太一(訳).『贖罪』(新潮文庫).新潮社.2019(新潮社.2003)
https://www.shinchosha.co.jp/book/215725/

現代の英国文学の最高傑作と言われている作品である。文庫本で出た時に買ってつんであった。イアン・マキューアンは、読んでおきたいと思っている作家の一人。最新作『恋するアダム』を読もうと思って買って、その前に、この作品を確認しておくべきだと思って手にした。

(これは書いていいことだろうとおもうのだが)この作品、ミステリ用語でいう叙述トリックの作品である。叙述トリックというのは、作者と読者の関係は何なのか、作者とは何なのか、フィクションとは何であるのか……このような問いかけをふくんでいる。いいかえるならば、一九世紀的な、作者と読者の関係、神の視点からの人間描写ということを、うたがってみる視点をもつということでもある。

だからというべきか……私の場合、ミステリ大好き人間としては、特にこの作品の構造におどろくということはなかった。ただ、そうはいっても、文学作品として非常に巧みにつくってあり、また、文学的感銘の残る作品であることはたしかである。

私がこの作品を読んで感じたことは、近代の小説における「神の視点」ということである。そこに疑義をさしはさむというのではないが、もはや自明なものとして「神の視点」では、現代の小説は描けないということを、この作品は物語っているように思える。

二一世紀において、フィクションとしての小説がなりたつとしたならば、いったいどのようなところに可能なのか、そこのところを、この小説は問いかけているように思えたのである。

2021年3月24日記

『クララとお日さま』カズオ・イシグロ/土屋政雄(訳)2021-03-26

2021-03-26 當山日出夫(とうやまひでお)

クララとお日さま

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『クララとお日さま』.早川書房.2021
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014785/

話題の本といっていいだろう。出てさっそく買って読んだ。

読んで思うことはいろいろある。二つばかり書いてみる。

第一には、AIというものを、文学、特に小説のなかに大胆にとりいれた作品として、非常に興味深いということ。

たぶん、文学におけるAIということであるのならば、SF作品に多くの先行事例があるにちがいないのだが、あいにくと、私は、SFは読まないことにしている。それから漫画も読まない。これらにまで手をひろげると、読む本の際限がさらになくなって収集がつかなくなるので、割りきって読まないことにしている。

SFではない、(普通の)小説においてAIと人間ということについて、真正面からとりくんだ作品として、きわめて意欲的であるといえよう。

AIが、「意志」をもち、「感情」をもったとき、それは人間にとって何であるのか。いや、AI自身にとって、逆に人間とは何であり、自己とは何であるのか、根本から問いかける作品になっている。

といって、深遠な哲学的論議が交わされるという作品ではない。AIと人間との、日常的な交流の世界が、むしろ淡々と描かれるといっていいだろう。だが、そのなかで、人間が人間たる所以はいかなるところにあるのか、という問いかけが根底にあることは、理解される。

第二には、AIの物語ということを横においておいて、普通に物語として読んで面白いものになっているということである。これは、やはり、カズオ・イシグロならではの、作品作りのたくみさを感じさせるという展開になっている。

前述のように、この小説はあっとおどろくような波瀾万丈の大活劇という作品ではない。じっくりと読ませる作品になっている。そこで、じんわりとカズオ・イシグロの物語世界に入って読んでいく楽しみがある。

以上の二点が、この作品を読んで思うことなどである。

たぶん、AIと文学ということは、これからの文学の世界において、大きなテーマになっていくにちがいない。AIについて考えることは、人間の人間としてあることの意味を、根本的に考えることにつながる。その入り口のところまで、現代のAI技術はきている。このことに無関心であるということは……あるいは、あえてそのことについては発言はしないという選択肢はあるにしても……「文学」(広い意味での人文学をふくめて)において、喫緊の重要な課題の一つであると認識している。

2021年3月24日記