『おんな城主直虎』あれこれ「天正の草履番」2017-10-10

2017-10-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年10月8日、第40回「天正の草履番」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story40/

前回は、
やまもも書斎記 2017年10月3日
『おんな城主直虎』あれこれ「虎松の野望」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/03/8692699

今回の見どころは、井伊というイエとは何であるか、ということだと思う。

直虎(おとわ)は、井伊のイエを再興するつもりはないと言っている。しかし、井伊の一族のまとまりはあり、直虎(おとわ)は、実質的にそのリーダーである。当主と言ってもよいかもしれない。実質的に、井伊谷の土地とそこに住む人びとの暮らしをまもることが、直虎(おとわ)のエトスなのである。

虎松(万千代)との間で言っていたこと。直虎(おとわ)は、もはや百姓にすぎないと。ここで、中世、戦国時代の百姓とはなんであったか、ちょっと気になるところではあるが、少なくとも武家ではなくなったということと理解しておく。武家ではないかもしれないが、しかし、井伊谷の支配権を、実質的に掌握している立場である。

一方、虎松(万千代)のエトスは、井伊のイエを再興することにある。そして、それは、必ずしも、井伊谷の土地にしばられてはいない。井伊というイエが重要なのである。井伊を名乗ることに意味がある。

これは、随分と観念的、理念的な、イエの意識である。抽象的と言ってもよいかもしれない。だからこそ、虎松(万千代)は、妥協ができない。直虎(おとわ)のように、実質的な支配権を獲得していればよい、という妥協点を見いだすことができない。

もちろん、後世の我々としては、井伊のイエが、井伊谷から離れて、徳川に忠誠をつくす立場になることを知っている。井伊谷へのパトリオティズム(愛郷心)のもとにあるのが、直虎(おとわ)であるならば、井伊というイエと徳川への忠誠心で行動しているのが、虎松(万千代)ということになるのであろう。

ところで、この回では、ネコが二匹登場していた。ネコ和尚にだかれていた茶色ネコ。このネコ、昔からのものなのか。どうやら、ネコも新しくなっていたように見えたが、どうなのだろうか。ドラマとはいえ、同じネコをずっと飼っているとしたら、かなりの長生きである。そして、もう一匹は、直虎(おとわ)の家でのネコ。前回のようにカゴの鳥を見ていた。

次週、虎松(万千代)の徳川への忠誠心が、どのように描かれることになるのであろうか。

追記 2017-10-17
この続きは、
やまもも書斎記 2017年10月17日
『おんな城主直虎』あれこれ「この玄関の片隅で」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/17/8707112

『街場の天皇論』内田樹2017-10-09

2017-10-09 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『街場の天皇論』.東洋経済新報社.2017
https://store.toyokeizai.net/books/9784492223789/

内田樹の本は、なるべく読むようにしている。これは、好きだからというわけではなく、自分の考え方がどれだけまともであるか、判断するのにと思ってのことである。

最新刊は、『街場の天皇論』。だが、特に目新しいことが書いてあるというわけではない。特に、天皇について書いたところは、これまでに既出であるもののよせあつめ。そして、それ以外の雑多な文章については、ほとんどまともに論ずるにたえないといっておけばいいだろう。

この本の奥書の著者の紹介のところにも、「思想家」とある。いったいいつから、内田樹は思想家になったんだろう。昔、まだ、20世紀だったころ、大学でフランス語を教える先生であり、フランス現代思想研究者、あるいは、評論家、ということでとおっていたように記憶しているのだが、はてどうであろうか。それが、近年では、思想家になってしまっている。

まあ、その思想家の思想をみとめるとしよう。であるなら、もし、内田樹がこれから先にも残る思想家であるとするならば、21世紀の初頭において、保守の理念を語った人物として残ることになるだろうと思う。

その言っていることは、反体制的なものが多い。だが、だからといって、いわゆるリベラルとは違う。保守の立場である。その保守の立場としての内田樹の思想とでもいうべきものを、端的に表している本であると思って読んだ。

2016年8月8日の、今上天皇の退位の意向を示された「おことば」。ここに、戦後日本がつちかってきた、また、今上天皇が考え、実践してきた、象徴天皇としてのあり方を読みとっている。

これは、いまでも簡単にHPで見ることができる。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

その天皇論であるが……これについては、私は、かなりのところ同意する。百年、千年の歴史をせおって、さらに、今から百年、千年の将来をになうものとして、今の天皇がある。その職務は、日本の人びとのために、祈ること、苦楽によりそうことである……ざっとこのような趣旨の天皇観については、深く同意するところである。

この限りにおいて、私は特段、内田樹を批判しようとは思わない。このような天皇観があってもよい。そして、それについては、私も同意である。

だが、強いて批判的に考えてみるならば、なぜ、そのような天皇が連綿と日本の国においてつづいてきたのか、その歴史的検証と考察が必要かもしれない。また、近代になってから、近代天皇制、特に、昭和戦前の天皇制が、本来の姿……と思われるもの……からゆがめられたものになってしまったことについては、厳しく批判的に考えなければならない(この点については、いくぶん言及してはあるが。)

さらにいえば、そのような、新たな象徴天皇制を育んできた、戦後日本のあゆみについても、歴史的に考察する必要があろう。私の経験からいえば、戦後の天皇制についての議論は、昭和天皇の崩御の時に、ある種のピークを迎えている。昭和天皇崩御に際しての、国民の反応、マスコミの言説、これらを今後検証していく必要があると思う。

今から思い返してみれば、昭和天皇崩御の時の、狂おしいばかりの国民的な熱狂とでもいうべきものを経たからこそ、それを経過したものとしての平成の時代の天皇制があり得たのだと思う。個人的な感慨としては、昭和天皇という方は、やはり昭和という時代を背負っていた。崩御のときの国民的熱狂によって浄化された、あるいは、昇華されたものとして、今の平成の象徴天皇制があるように感じている。昭和の末期、昭和天皇崩御の事件は、国民的祝祭であったともいえるのではないか。あるいは、日本の国民としての通過儀礼のようなものであったともいえようか。

私は、昭和天皇崩御の件を抜きにして、平成の象徴天皇制はないだろうと思う。そして、このことにふれていない、内田樹の戦後象徴天皇制論には、一抹の不満もある。強いていえば、「天皇論」といいながら、「平成天皇論」にとどまっている。

「昭和天皇崩御の研究」こそが、今、求められている。あるいは、昭和から平成にかけての天皇史が必要である。

また、この本で述べられたことを延長して言うならば、安倍首相などは、まさに君側の奸であるというべきだが、はたしてどうであろうか。

『わろてんか』あれこれ「わろたらアカン」2017-10-08

2017-10-08 當山日出夫(とうやまひでお)

わろてんか
https://www.nhk.or.jp/warotenka/index.html

第1週「わろたらアカン」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/01.html

『ひよっこ』に引き続き、『わろてんか』を見ている。思うことなど、いささか。

このドラマは、笑いをテーマにしているらしい。それはいいのだが、それについて思うことを書いてみておく。三点ほどある。

第一には、人は、なにも楽しい時にのみ笑うのではない。悲しい時、絶望の極みという時にも、笑う。いや、笑わざるをえない。そのような、人間の笑いの向こう側にある、悲哀とでもいうべきものを、どこまで描くのだろうか。

ただ、人を楽しくさせるための笑いだけが笑いではないはずである。

第二には、風刺とのかかわり。笑いは、場合によっては、政治権力への風刺をともなう。このような笑いをこのドラマでは、どうあつかうのだろうか。権力批判、風刺としての笑い、これもまた笑いというものがもっている一つの側面だと思う。

強いていえば、風刺の精神を無くしてしまった笑いなど、面白くもなんともない。ただ、おかしいだけのことである。それだけの笑いであってはつまらないと思うのだが、どうだろうか。

第三には、笑い、つまり、芸能の世界の近代、前近代というものは、差別の問題と密接にかかわる。ここを、このドラマは、どのように描くことになるのだろうか。

芸人というのは、被差別民であったということは、歴史として、つい近年まであったことは知られていることだろう。だが、近年のメディアの変化のなかで、タレント、お笑い芸人ということで、そのような側面は、消えてなくなってきている。それはそれとしておいても、ドラマの明治時代では、まだまだ、差別ということがあった時代であろう。

例えば、『伊豆の踊子』(川端康成)など、思い起こしてみても、その中の旅芸人の一行は、差別の対象として描かれている。だからこそ、身分の違う高校生との淡い交流が、抒情豊かに描かれることになる。

以上の三点が、笑いをドラマのテーマとすることで、ちょっと気になっていることである。これは、杞憂であろうか。あるいは、NHKとしては、上記のようなことは、分かったうえで、人を楽しませるものとしての笑いということに限定して描くことになるのだろうか。

このようなこと、次週の展開のなかでどのようなるか、見ていきたいと思っている。

追記 2017-10-15
この続きは、
やまもも書斎記 2017年10月15日
『わろてんか』あれこれ「父の笑い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/15/8705792

『モーム短篇選』(上)岩波文庫2017-10-07

2017-10-07 當山日出夫(とうやまひでお)

サマセット・モーム.行方昭夫(訳).『モーム短篇選』上(岩波文庫).岩波書店.2008
https://www.iwanami.co.jp/book/b247377.html

モーパッサンの短篇を文庫本(新潮、岩波)と読んで、次に手にとったのがモームである。モームの『月と六ペンス』については、すでに書いた。

やまもも書斎記
『月と六ペンス』サマセット・モーム
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/22/8681337

岩波文庫では、『モーム短編選』として、上下巻で出ている。まずは、上巻の方から。

収録作品は、
「エドワード・バーナードの転落」
「手紙」
「環境の力」
「九月姫」
「ジェーン」
「十二人目の妻」

このうちで、私の読んだところでは、最初の「エドワード・バーナードの転落」それから「手紙」が印象深かった。

以前にも書いたように、モームの作品は、人間性の奥底にある不可解とでもいうべきものを描いていると思っている。それが端的に表れている作品である。

一見すると、堕落したかのごとく見える人間が実は、その底に豊かな人間性があったり、あるいは、善良そうに見える人間の奥底にある邪悪な思いであったり、である。

ところで、岩波文庫版の上巻の解説には、次のようにある。

「(モームの作品について)日本には英語学習と絡めて、懐かしく思い出す年配の読者が意外に多い。学生時代に英語のテキストとして読んだことがあるというのだ。コミュニケーションの手段としての英語習得重視の昨今と違い、昭和五十年代は英米作家の短篇、エッセイなどを講読するのが、大学の英語教育の中心であった。全国の大学の教養課程の英語の授業において、他のどの英米作家にも増して、モームの短篇を教科書版で、あるいはプリントで読むのが流行っていたのだ。」(p.318)

私が大学……慶應義塾大学文学部……に入学したのが、昭和50年であるから、まさにこの時代に該当する。しかし、残念ながら、英語の授業で何を教材に読んだかあまり憶えていない。三田に移って、二年生の時に、イプセンの『人形の家』の英訳本を読んだのは憶えているのだが、それを除くと、さっぱり憶えていない。

だが、書店などで、モームの教科書版というのはかなり目にしたようにも憶えている。

どうせ、大学で英会話中心の授業をやっても、そう身につくものではないのだから、やはり、いっそのこと、文学的な文章を講読するというような授業をやってもいいのではないか……などと思うのは、天邪鬼のすぎるだろうか。そこまでいかないにしても、学生の英語学習の選択肢のなかに、文学的な文章を読むというのがあってもいいように思う。

そして、文学的な文章を読むとなると、まさにモームの書いているものなど、若い大学生が読むのにふさわしいと感じる。原文を読んだわけではないので、なんともいえないが、翻訳文から伝わってくる冷静な人間観察眼と、ストーリーの巧みさは、読書の楽しみを教えてくれる。

文学史的にいうならば、モームは、モーパッサンの系譜につらなる位置にある。するどい人間観察と、卓抜なストーリーの妙、それに、最後にある「おち」。人間というものを文学、小説、それも短編小説で描くとなると、このように書けるものなのか、ということに気付く。モームの短篇も、小説を読む楽しみを満喫させてくれる作家のうちのひとりということになる。

追記 2017-10-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年10月12日
『モーム短編選』(下)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/12/8703144

『モーパッサン短編集Ⅲ』(新潮文庫)2017-10-06

2017-10-06 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.青柳瑞穂(訳).『モーパッサン短編集Ⅲ』(新潮文庫).新潮社.1971(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201408/

新潮文庫のモーパッサンの短編集。三冊目は、普仏戦争に題材をとったもの、それから、怪異の話しをあつめてある。いうまでもないが、これも面白い。

普仏戦争といわれても、高校の世界史で習ったぐらいの知識しかない私には、今ひとつよくわからない……このあたりのことは、岩波文庫版の『脂肪のかたまり』の解説を読むとよくわかる。

やまもも書斎記 2017年9月16日
『脂肪のかたまり』モーパッサン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/16/8677649

ともあれ、普仏戦争というできごとは、そのデビュー作とでもいうべき『脂肪のかたまり』を始めとして、モーパッサンにとって、創作の材料を多く提供してくれていることがわかる。戦争を題材にしているからといって、それを肯定しているというのでもないし、また、反戦論という立場でもないようだ。ただ、歴史上の出来事としてそのような戦争があり、そのなかで生きてきた人びとの人生の機微を描き出している。戦争そのものを描くというよりも、戦争があるなかでの人間の生き方の様々な面白みを、小説として描いているように思える。

それから、怪異小説というべき一群の作品。岩波文庫版『モーパッサン短篇選』のなかにもあった『水の上』、これなど、本当に怖い話しといっていいだろう。怖い小説というのは、何も、幽霊やお化けがでてくるものとは限らない。普通の日常の中にある、ふとしたことでおこる出来事の背景に、身も凍るような恐怖があったりする。

モーパッサンの短篇、新潮文庫版と、岩波文庫版と、両方読んでみた。他にもあるのだろうが、ともかくこれだけ読んでみて、19世紀フランス自然主義文学における人間観察の巧みさというものを感じる。登場するのは、特に高貴な人でもないし、また、逆に、社会の底辺にいる労働者というわけでもない。一般にいる人びと……農民であったり、都市の生活者であったり……である。現代社会における、一般の人びとの生活感覚に近いところを描いている。そのせいもあるのだろう、現代の目から読んでみて、比較的すんなりと作品世界のなかにはいっていける。あまり、時代、歴史的背景の違いというようなものを感じない。純然と、短編小説を読む楽しさというべきものがある。

たぶん、世界の文学のなかで、短編小説に限らないが、小説という形式で、人間を描いたものとして、モーパッサンの作品は、読まれ続けていくにちがいないと思う。

モーパッサンの影響、その系譜につらなる作家としては、モームがある。また、別の系譜には、チェーホフとかマンスフィールドがいることになる。これからの読書の楽しみとして読んでいこうと思っている。若い時に読んだ作品でも、年を経てから再読すると、また新たな感慨があるものである。

『モーパッサン短編集Ⅱ』(新潮文庫)2017-10-05

2017-10-05 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.青柳瑞穂(訳).『モーパッサン短編集Ⅱ』(新潮文庫).新潮社.1971(2008.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201407/

新潮文庫のモーパッサン短編集の二冊目は、主に都市部を舞台とした作品群である。これも、面白い。

有名なところでは、『首かざり』が、この二冊目に納められている。この作品については、岩波文庫の『モーム短編選』の下の方の解説で、モームの作品と関連付けて論じられている。

ところで、問題となった宝飾品が本物か、偽物か、という点から、対をなす作品としては、同じ二冊目に入っている『宝石』という作品がある。これが、同じ冊にはいっているのも、興味深い。

やはり、この二冊目も、なにかしら「おち」のある作品となっている。そして、その背景になるのは、パリの市民の生活である。19世紀のパリの市民生活といえば、その最底辺を描いたものとしては、『居酒屋』(ゾラ)がある。

この『居酒屋』については、すでに書いた。
やまもも書斎記 2017年7月13日
『居酒屋』ゾラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/13/8619336

しかし、ここに収録されている作品は、そんなに最下層の住民を描いたというものではない。いわゆる都市の市民層というべきであろうか。ある程度のレベルの生活の人びとである。この意味では、今日の一般市民、庶民、の生活感覚に近いといえようか。

時代的背景は異なるのかもしれないが、しかし、現代にも共通するところのある、都市市民の生活の悲喜こもごもを、するどい人間観察の目で描いた作品は、充分に面白い。短編小説を読む楽しさ、また、市民生活を描くとはどういうことか、というようなことをここから、得ることができるように思う。今日に通じるところのある感覚で、読むことのできる作品群である。

歴史的な視点からみれば、都市のプチ・ブルジョアジーの生活描写ということになるのだろうが、それが、19世紀自然主義の視点で描写されている。人びとの人情の機微とでもいおうか。それが、なにかしら暖かみのある、しかし、自然主義文学としての冷静な視点から描かれていると思うのである。描き方によっては、冷酷ともなりかねないようなテーマであっても、その叙述は、どこか人間味のあるものになっている。これが、モーパッサンの作品の良さなのだろうと思う。

2017-10-04

2017-10-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので、花の写真。今日は、萩。

萩は、秋の七草のひとつである。日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見ると、古くは、播磨風土記に用例がある。それから、万葉集にもある。漢字の「萩」が当てられているものとしては、和名抄(十巻本)が、古いようだ。

我が家の近辺にもいくつか萩の花が咲く。赤いものと、白いものである。彼岸花同様、これも、秋の季節を感じる花の一つといっていいであろう。

花の一つを、接写してみると、これはこれでまた違ったイメージがある。

今月にはいって雨の日が多い。ここの写真は、先月、折りを見て写してみたものである。

萩

萩

萩

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『おんな城主直虎』あれこれ「虎松の野望」2017-10-03

2017-10-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年10月1日、第39回「虎松の野望」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story39/

前回は、
やまもも書斎記 2017年9月26日
『おんな城主直虎』あれこれ「井伊を共に去りぬ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/26/8684051

今回から、虎松(直政)が、本格的に登場してきた。ここで、気になるのは、虎松のエトスである。いったい何のために、井伊を名乗ろうとしているのであろうか。そのあたりが、もうひとつ説得力がなかったように思える。

虎松は、松下のもとで育った。そのことによって、徳川の配下にあるという意識が強くなりこそすれ、薄れることはないであろう。ところが、井伊は、ドラマの時点では、まだ徳川の支配下にあるというわけではないようだ。ここで、井伊を名乗ることは、徳川への忠誠心と、どう関係するのであろうか。

もし、井伊が代々の徳川の配下にあったというのなら、井伊を名乗ることと、徳川への忠誠心は、結びつく。しかし、ドラマの筋書きでは、ちょっと無理があるような気がしてならない。

このドラマの終盤の見どころは、直政の徳川への忠誠心の形成と、それにかかわる形での直虎(おとわ)の役割だと思って見ている。

そして、今ひとつよく分からないのが、直虎(おとわ)の立場。井伊のイエはつぶれたということになっている。にもかかわらず、井伊直虎を名乗り、そして、その一族が井伊谷に住まいすることについて、采配をふるっている。当主といってもいいだろう。いったい、今の直虎(おとわ)の身分というか、立場は、どうなっているのだろうか。

井伊のイエがつぶれたというのは、支配する土地を失ったということだけのことなのだろうか。井伊谷の土地を安堵されなくなってしまったことなのか。しかし、それでも、直虎(おとわ)を中心にして、そのイエの、あるいは、一族、家族の結びつきは、依然として強固なものがあるように見える。

また、確かに井伊谷の土地はいいところなのかもしれないが、それに、虎松が、愛郷心(パトリオティズム)を抱いているとは思えない。井伊谷についてのパトリオティズムと、井伊のイエの意識とは、必ずしも、虎松のなかで、すなおに結びつくものでもないようだ。

これが、直虎(おとわ)なら、故郷としての井伊谷へのパトリオティズムと、井伊のイエの当主としての意識が結びつくのは自然である。だが、その直虎は、井伊のイエを再興する気はないと言っている。

さて、私がここで、虎松の忠誠心を問題にしてみたいと思っているのは、大河ドラマの次回作『西郷どん』のことが気になるからでもある。たぶん、来年のドラマの軸になるのは、西郷の、主君(斉彬)への忠誠心、故郷(鹿児島)へのパトリオティズム、そして、近代国家日本のナショナリズム、だと思う。

それはそうとして、ネコが登場していた。今度のネコは、鳥(文鳥だったか)が好きらしい。次回もネコがでてくるだろうか。

追記 2017-10-10
この続きは、
やまもも書斎記 2017年10月10日
『おんな城主直虎』あれこれ「天正の草履番」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/10/8700059

『ひよっこ』が終わって2017-10-02

2017-10-02 當山日出夫(とうやまひでお)

NHKの朝ドラ『ひよっこ』が終わった。はじまってから、基本的に毎週ごとに、思ったことなど書いてきた。終わってしまって、最後にふりかえって思うことなどいささか。

私は、このドラマについては、二つの視点から見ていた。一つは、「群像劇」という視点、もう一つは「教養小説」という視点である。

群像劇ということについては、登場人物のそれぞれを最後まで丁寧に描いていたことからも見てとれよう。みね子が主人公のドラマなのだが、みね子に何か事件がおこるということもなく、周辺の登場人物の出来事で、ドラマが進行するということがあった。故郷の奥茨城での同級生、東京での向島電機の乙女寮、そして、赤坂のあかね荘、そこに集う人びとの生活が、じっくりと描かれていたとみている。

そして、重要なことは、基本的に、それらの出来事が、みね子の視点からそう離れることがなかったことにある。あくまでもみね子の視点から見ての、登場人物におこる様々なできごとであった。周辺人物のことを描きつつも、ドラマの中心がみね子であるということは、ゆらぐことはなかった。

次に、教養小説ということ。WEBなどでの評価を見ると、このドラマは、これまでの朝ドラとちがって、ヒロインが何事かを成し遂げるというストーリーではないということが、指摘されている。それはそのとおりであるのだが、では、みね子に成長がないかというとそうではない。奥茨城の高校生からはじまって、東京の向島電機、倒産、すずふり亭、あかね荘、と生活が変わっていくなかで、様々な出会いがあり、恋愛もあり(これは、悲恋におわってしまったが)、最終的には、結婚にいたる。これは、普通の人間の人生である。波瀾万丈の物語ではなかったかもしれないが、しかし、ここには、確実にみね子というひとりの人間の成長の物語がみてとれる。ただ、それが、日常生活に密着していて、ゆっくりとしているだけのことである。

以上の二点が、このドラマの主軸をなすところかと思う。

そして、さらにいえば、このドラマは、きわめて理不尽、不条理を描いてもいた。父(実)の失踪と、記憶喪失である。悪い人の出てこないドラマという指摘もあった。また、特に大きな出来事がおこるわけでもない。しかし、このような人生の理不尽、不条理を描いたドラマは、これはこれとして、かつてあまり例がなかったと思う。

このドラマは、この人生の理不尽、不条理に直面しながらも、けなげに、そして「普通」に生きてきたヒロインの物語なのである。人生の理不尽、不条理があるからこそ、「普通」であることに意味がある。「普通」であることが、きわめて貴重なものになってくる。「普通」であることの意義を描き出した物語になっていたと思うのである。

最後、ドラマは、父(実)の記憶がもどるかどうか、そのきざしのところでおわっていた。これはこれでいいのだろうと思う。これから、このまま記憶がもどらなくても、あるいは、もしもどったとしても、それはそれで、それなりに、新しい幸せな、「家族」の物語が再スタートすることになる、そのような終わり方であった。

もし記憶がもどらなくても、奥茨城で新しく花の栽培をはじめて、妻(美代子)と、新しく家庭を築いていこうとしている。そして、他の家族も、周囲の人びとも、そのような父(実)の生き方を支えている。

また、記憶喪失になって出会った世津子も、もう大丈夫というであろう。あかね荘に住むことになって、そこの住人たちと、新しい生活を始めている。実との関係は、かつてそのような人生の時期があったこととして、きれいな記憶としてしまわれていくことになるようである。

以上、考えてみてきたが、『ひよっこ』は、とにかく「普通」に生きることの価値のすばらしさを描いた作品であったと思う。岡田惠和脚本は、特に波瀾万丈の物語を描くことがない。かつての『ちゅらさん』も『おひさま』も、「普通」に生きた女性の物語であった。その系譜の上に、今回の『ひよっこ』もあると見ておくべきことなのだろうと思う次第である。

『ひよっこ』あれこれ「グッバイ、ナミダクン」2017-10-01

2017-10-01 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

最終週「グッバイ、ナミダクン」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/26/

このドラマもようやく最終週になった。最後になって、懸案になっていた伏線の重箱が登場してきた。

そして、最大の問題点は、父(実)の記憶が回復するかどうか、なのであるが、これが、どうも曖昧なままでおわっていた。すずふり亭にあずけてあった重箱のことを父(実)は思い出す。おそらく、これが、今後の記憶の回復のきっかけになるのであろう……というあたりを暗示するところでドラマは終わっていた。

これはこれでいいのだと思う。おそらく、記憶喪失になった人間が、記憶を回復するプロセスは、心理的に非常に重圧をともなうものにちがいない。このようなことは、以前に、世津子が言っていた。

故郷に帰って農業に従事することなった父(実)は、新しく花の栽培をはじめる。これは、新しい谷田部家のスタートでもある。もし、記憶がもどらないとしても、これはこれで、充分に充実した、ある意味では幸福な生活でもある。

東京に出て、家族の歌番組で、父(実)は言っていた。世界一の家族であると。父(実)自身にとっても、今のまま……記憶のもどらないまま……であっても、奥茨城で新しい人生を再スタートさせたことになる。そこで、満ち足りた生活をおくることができそうである。

むしろ、何かの拍子に、突然記憶がよみがえって心理的に重圧を感じるようなことがあるとすれば、むしろその方が、不幸である。父(実)にとっても、みね子たち家族にとっても、また、世津子にとっても。

記憶がもどるかもどらないか、そのギリギリのところで、このドラマは終わらせている。これはこれで、一つのハッピーエンドのあり方だと思う。父(実)の出稼ぎからの失踪、みね子の上京、就職、とこれだけでも、充分にこの世の中の理不尽、不条理を、登場人物たち……父(実)をはじめ、みね子たち家族、それから、世津子をふくめて……は、味わってきている。これ以上、さらに理不尽で不条理な展開になる必要はない。

最後は、みね子の結婚と、父(実)の記憶回復のきざし……これで、ハッピーエンドにした脚本は、一つの立場であると思うのである。

ところで、残念なことが一つだけある。最後に、谷田部家のみんなでハヤシライスを食べたのはいいとしても、みね子の夢であったビーフシチューはどうなったのだろうか。無事にみね子がビーフシチューを食べることができたかどうか、気になっている。あるいは、これはもう不要な心配か。ヒデと結婚したみね子は、今度は、新しい家庭で、家族のためにビーフシチューを作ることになるのだと、未来を想像しておくことにする。