「毛沢東 革命と独裁」2024-12-05

2024年12月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 毛沢東 革命と独裁

私が中学生のころだったと記憶するが、ラジオをつけて北京放送を聴いていたときがある。内容的には、絶望的と思えた病気について、医者たちが「毛沢東語録」を読んでその精神にしたがったら手術が成功した、というたぐいの、今から思えばなんともたあいないプロパガンダ放送であった。しかし、その時代、毛沢東は英雄であった。中国の人民をひきいる文化大革命の指導者であった。

また、揚子江を泳いでいる毛沢東の映像をテレビで見たのも記憶している。毛沢東の復活を印象づけるシーンであったことになる。

京都の街の書店でも「毛沢東語録」が売られていた。岩波文庫でもあった。これは今ではないようだが、調べると、平凡社ライブラリー版が今でも手に入る。その内容は別にして、歴史的文献として、手に入るように刊行されていることは、いいことだとは思う。

たぶん、日本では、世代によって毛沢東への評価や感じ方は、いろいろだろう。中国の革命の英雄として評価することもできるが(私の印象ではこの側面が強い)、一方で、大躍進政策、文化大革命で、その失敗によって、中国を混乱させ大規模な粛正を行ったことも、認めなければならない。これは、もうすこし時間がたってからでないと難しいことかと思う。少なくとも、中国共産党の一党支配独裁体制が終わってからでないと、無理だろう。

ただ、思うことは、今の中国で毛沢東の再評価が行われていることは、私としては危惧の念をいだくことになる。これは専門家の判断を聞きたいところであるが、経済が低迷するなかで、若者や地方の人びとにとって、革命の夢を再び、ということなのかもしれない。人びとの社会に対する閉塞感があるのかとも思う。

将来のこととしては、中国は民主化するだろうか。まあ、民主化といってもいろんな場合があるが、普通選挙による代議制民主主義、三権分立、ということが、中国で実現するだろうか。そして、それを、今の中国の領域内……無論、台湾を除いて考えることになるが……にすむ、数多くの人びとは納得するだろうか。

アメリカでの李鋭の日記の裁判の件。これはどうなるだろうか。もし、中国に返還となっても、それは、アメリカで全部をデジタルアーカイブして残してということにはなるだろうか(おそらくこれは秘密裏に)。それを公開するかどうかは、また別の判断であるが、中国に渡して実物が廃棄されることになるよしマシである。

2024年12月3日記

「膨張と忘却〜理の人が見た原子力政策〜」2024-12-05

2024年12月5日 當山日出夫

ザ・ベストテレビ ETV特集「膨張と忘却〜理の人が見た原子力政策〜」

今年(二〇二四)のベストテレビである。このETV特集は、見損ねていた(録画し損ねた)ものだった。ETV特集は、基本的に見ることにしているが、全部を必ず見ているということではない。

たしかにいい番組である。このことは認める。そのうえで、やや批判的に思うことを書いてみる。

番組の中では、「科学技術」ということばをつかっていた。吉岡斉もこのことばをつかっていた。一般的なことばとして問題ないようなのだが、今の私としては、「科学」と「技術」は、可能な限り分けて考えることにしたい。「科学」というのは、あくまでも「サイエンス」という方法論で、自然界に対する探求を意味するものであると理解しておきたい。その根底にあるのは、人間の知的な探究心である。その「科学」を使って生み出され、また、逆に「科学」を推進するものが、「技術」である。

とはいえ、実際には「科学技術」ということばで、この両者が融合して用いられていることはたしかである。また、大学の学部名で、理工学部というのが普通であるが、しかし、理学と工学は、基本的に異なるものであるという認識も必要かと思う。

(ちなみに、私は、「人文科学」ということばは使わない。「人文学」は「サイエンス」の方法論では語りえないものであると思うからである。)

「科学」(サイエンス)の観点から見た合理性と、「技術」あるいは「科学技術」の観点から見た合理性は、同じといえるだろうか。また、経済の観点からの合理性はどうなるのだろうか。さらにそのうえに、政治としての判断がからむことになる。政治については合理性で考えることは難しいかもしれないが、少なくとも政治の安定性(継続した国家の統治)という視点は必要になるかもしれない。これらを、総合して考えるということが、吉岡斉の言ったことであると理解している。

そのうえで、この番組が高く評価できるとすると、国の原子力政策決定のプロセスにおける「合理性」「透明性」ということを、吉岡斉の視点から追求しているところにある。

多くの原子力関係の報道では、いわゆる原子力村の利権ですべてが決まる構造、ということから議論を組み立てることが多い。このような面は確かにあるにちがいない。だが、それを批判するだけでは、議論は先に進まない。原子力政策の是か否かだけの水掛け論の不毛な議論になるだけである。

始めから推進ありきの原子力政策は問題であるが、その一方で、反対に、始めから反対ありきの原子力利用否定論には、問題がないといえるだろうか。

強いていえば、「合理的」で「透明性」のある議論をつくしたうえで、原子力利用ということになるならば、逆に、否定することになっても、そのリスクは引き受けなければならない……おそらく吉岡斉の主張としては、このようになる。これが「理の人」としての吉岡斉の立場だろう。

また、「合理性」というのは、社会の常識の反映でもある。その常識は、時代とともに変わりうる。現代では、二〇一一年の東日本大震災の福島第一原子力発電所事故をふまえるのは当然である。そして、番組のなかのゲストの話のなかで出なかったこととして、地球環境問題がある。(これは、意図的に話題に出さなかったのだろう。)原子力発電の是非の変化……賛成の人が増えている……の背景にあるのは、ただ福島の事故が過去のものになったということだけではない。新たな問題として、近年なってから地球温暖化の問題が大きくクローズアップされてきたこともある。(ただ、原子力発電がその解決策になるということではない。このことは保留して考えなければならない。)だが、このことをあえて無視しているのは、NHKもフェアではない。

原子力の利用ということは、高度に専門的な知識が必要である。そこに一般市民の感覚(これは時代とともにかわり、それには、マスコミやSNSなどが大きく影響する)をふまえて、「合理的」で「透明性」のある議論をつくし、政策決定にいたるには、かなり、いや絶望的にハードルが高いと感じるところではある。しかし、これからの時代における、政治における大きな課題の一つであることは認識しておかねばならない。

だが、人間の合理的判断というのは、そんなに信頼できるものなのだろうか。こういう根本的な疑問は残るのだが、しかし、今のところはそれにかけるしかないということになる。(今になってのことであるが、旧優生保護法は、その成立の当時においては、合理的な判断にもとづいたものであったはずである。議員立法で全会一致で成立したという経緯がある。)

2024年12月4日記

偉人の年収「政治家 勝海舟」2024-12-04

2024年12月4日 當山日出夫

偉人の年収 How much ? 政治家 勝海舟

番組のタイトルを書いてみて、勝海舟は「政治家」なのだろうか、という気がする、しかし、そうでなければ何なのかと思うことになる。海軍を作った人物ではあるが、軍人ということでもない。

若いとき慶應義塾大学の学生だったので、田町の駅を利用していた。改札を出て三田の方へ行くのに階段を降りる。その途中、ビルの壁に、勝海舟と西郷隆盛の会談の様子を書いたレリーフがあった。立ち止まってじっくりと見ることはなかった。(それも、今では、三田の再開発でどうなってしまったのだろうか。)

『氷川清話』は、学生のころに読んだと憶えている。それから、国語学を勉強すると、『夢酔独言』のことを知ることになった。勝海舟の父親の勝小吉の書いた自伝である。江戸時代の武士のことばの資料として、有名なものである。

幕末のころをあつかったドラマでは、勝海舟はよく登場する。それも、非常に重要な人物としてである。たしかに、幕末維新史を考えるときには、勝海舟の存在は大きいことになるにちがいない。

それから、江藤淳が勝海舟を非常に高く評価していたことを思い出す。

明治になってから伯爵になったことは知っていたが、その生活ぶりはどんなものだったか、興味深い。もと幕臣として、その生き方を貫いた人物ということはできるのだろう。

なお、勝海舟が登場する作品としては、坂口安吾の『安吾捕物帳』がある。日本のミステリにおける傑作といってよい作品である。

2024年12月3日記

「幻の地震予知 〜大森房吉と関東大震災〜」2024-12-04

2024年12月4日當山日出夫

英雄たちの選択 幻の地震予知 〜大森房吉と関東大震災〜

再放送である。最初の放送は、いつだったか番組のHPでは書いていないのだが、杉浦アナウンサーだったので、一年ぐらい前になるのだろうか。

たまたまであるが、録画してあったのを順番に見ていって、「サイエンスZERO」の能登半島地震のことをあつかったのを見た、その連続で見ることになった。P波から震源地を特定するという方法は、明治の時代に、大森房吉が考案していたことであるのは、とても興味深い。サイエンスとしての地震学ということと、その研究の結果を地震予知ということで、社会に発表することの問題、これについて、いろいろ考えることになる。

私の考えることとしては、地震学は、基本はあくまでもサイエンスであるべきである。だが、その学問に求められる社会的責任ということについて、無自覚であってはならないだろう。このことは、科学者もそうであるが、一般社会の方でも理解しておくべきことである。

この放送(再放送)の時期としては、今年の夏の南海トラフ地震についてのニュースがあって、来年には能登半島地震から一年になる。朝ドラで『おむすび』では、阪神淡路大震災のことが出てきている。番組表を見ると、英雄たちの選択の次回は、今村明恒のことをとりあつかう。

磯田道史が言ったことだが、東大のトップにいるような立場では、無謬であること、ミスをしないことの責任があると同時に、社会に対するお知らせ責任、説明責任がある……これはそのとおりだと思うのだが、サイエンスというものは、そもそもそのような思考法ではできあがってはないはずである。むしろ、ここは、(近年のことばでいえば)サイエンス・コミュニケーション、というような概念で考えるべきことのように思う。あるいは、一般社会におけるサイエンスへの理解というべきかもしれない。

税金を使ってやっている研究なのだから、その結果については、責任をもって社会に説明すべきである……とばかりは言えない、というのが私の思うところである。サイエンスは、あくまでもサイエンスであるべきである。

だが、今日では、説明責任という部分の多くは、行政とマスコミやジャーナリズムにかかわることが多くなってきている。だからといって、サイエンスが何をやってもいいということではない。今日の問題としては、生命倫理にかかわるようなことは、社会全体の合意が求められる。地球環境問題や、原子力利用についても、社会的合意なしには、進められないことである。

この番組は科学番組ではないのであるが、大森房吉が日本でゼロから地震学を構築していったあゆみについては、興味深いものがある。考案した地震計の仕組みについても知りたい。

それにしても、大森房吉教授は、今村明恒助教授を、二〇年以上、無給のままにしておいたというのは、むかしの帝国大学は、そんなものだったのかという思いである。(まあ、私の知りうる範囲だと、金田一京助が万年東京大学助教授で貧乏で苦労したというのは、金田一春彦先生が語っていたことであるが。)

現代の地震学者は甘やかされている、というのは磯田道史の言ったことであるが、これはちょっと厳しすぎるのではないかと感じるところでもある。かつて、大森房吉の感じていたプレッシャーはものすごいものだったにはちがいないが。

必要なのは、科学史についての重厚な知見と、冷静な科学ジャーナリズム、である。また、COVID-19パンデミックのときに思ったことであるが、専門的知識をもつものの社会的責任ということも、確かにある。

2024年12月2日記

「能登半島地震 最新研究 大地震から住まいを守れ!」2024-12-04

2024年12月4日 當山日出夫

サイエンスZERO 能登半島地震 最新研究 大地震から住まいを守れ!

あと一ヶ月ほどで、能登半島の地震から一年になる。おそらく、来年のお正月前後には、特別番組もいくつか放送になると思うが、やはり、科学的なデータの裏付けが何よりも重要だろう。同時に、地震が起こってからの救難活動や支援活動については、いろいろな側面から検討しなければならないにちがいない。

能登半島の地震が、三つの活断層が動き、長時間の揺れが、被害を大きくしたことになる。そして、軟弱地盤のこともある。

人間が住んでいるところが軟弱地盤であるというよりも、そのような地盤のところが、昔から人間の住みやすいところであった、ということになるのかもしれない。関東地方で大きな地震があったら、どういうことになるだろうか。

耐震構造、それから、耐震補強をするだけで、かなりの地震被害を防ぐことができる。これは、全国的にこれからの街作りや住宅政策の基本になるべきことであろう。だが、このことは、あまり表だって話題になることはないようである。(この問題を論じると、古い耐震基準の家の不動産価格に影響することは、避けられそうもない。)

2024年12月2日記

ウチのどうぶつえん「たくさんいるから」2024-12-03

2024年12月3日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん たくさんいるから

カンガルーがたくさんいる九州の動物園。フグがたくさんいる下関の水族館。それから、ウォンバットに人がたくさんおしよせる大阪の池田の動物園。

カンガルーは、たくさん飼育するからこそ見えてくるものがある、これはたしかなことだろう。この動物園では、時間を決めてであるが、小さな子供たちに、カンガルーに直接触れる機会を作っている。このようなとりくみは、各地の動物園や水族館などで行っていると思うが、カンガルーに触れるというのは、貴重である。

フグのなかでも、アマミホシゾラフグは面白い。なんで、あんな奇妙な形の巣を作るのだろうか。とても労力がかかっている。大きくて立派な巣を作れる雄のところに雌が魅力を感じるということなのかもしれない。これが、水族館での飼育が成功して、水族館で巣を作る様子が見られたら、とても面白いと思う。

ウォンバットという動物のことは知ってはいたが、日本には、二箇所しか飼育しているところがない。その一つが、池田の動物園。そのウォンバットをめがけて、たくさんの人がやってくる。これは、街をあげての大イベントということになる。いわゆる町おこしの企画としては、秀逸といっていいだろうか。ウォンバットは、一度見にいってみたい気がする。

その他、たくさんいるといえば……北海道のクマ牧場もそうかもしれないし、クラゲがたくさんいる水族館もあったかと思う。

2024年12月2日記

「食卓のかげの星条旗 米と小麦の戦後史」2024-12-03

2024年12月3日 當山日出夫

時をかけるテレビ 食卓のかげの星条旗 米と小麦の戦後史

私の小学校のときの学校給食はパンだった。それから脱脂粉乳である。昭和三〇年代のことになる。無論、子どものことだし、そのようなメニューになっていることに、どんな政治的な意味があるかなどは、まったく考えることはなかった。また、その後、大きくなってからも、食糧問題はニュースで見ることはあっても、それがどのような国際情勢、国内事情によるものなのか、ほとんど考えてみることもなかった。

私の世代だと、お米の通帳、というものを記憶している。いつからそれがいらなくなったか、(調べれば分かることなのだが)、特にそのことが印象に残っているということはない。

米の価格、減反政策をめぐっては、大きなニュースになったことは記憶にある。NHKの番組で、米農家の人と、都市部の消費者である人、それぞれが登場して、米の生産と価格をめぐって、議論をするというのがあったのを憶えている。米価、減反政策というのが、毎年のニュースであった時代もある。

今では、食糧安全保障という観点から議論されるようになってきた。番組では言っていなかったが、これも経営を大規模化して、機械化することでなんとかしようということなのだろうが、しかし、それは、農業のための機械を動かす燃料に依存することになり、エネルギー政策ととも考えなければならないことにもなる。もはや日本では、石油が入ってこなければ、米は作れないのである。

若いころ、民俗学に興味があったこともあり、日本人……日本列島に住んできた古来よりの人びとというぐらいの意味で使っておくが……が、何をどのようにして食べてきたのか、そのなかで、米という作物は、どういう意味がある食べ物であり、栽培植物であるのか、ということは、気になっている。

昔、若いころに読んだ本で次のようなことが書いてあったのを憶えている。世界で家畜用に使用されるトウモロコシの一部(一~二割ぐらいだったろうか)を回すだけで、世界の飢えを無くすことができる。ただ、これは、カロリー計算の上のことではあるが。今でも、世界には、貧困や飢えに苦しんでいる人たちがいる。戦争の影響もあるし、気候変動のこともある。日本国内にも、食糧の配給を必要とする生活をおくっている人もいる。

一方で、高級なコシヒカリを中東に輸出もしている。購入するのは、お金持ちの人たちである。(「コンテナ全部開けちゃいました 新潟港編」)。

最近のニュースでは、日本人のエンゲル係数が高くなってきたらしい。(エンゲル係数などということばは、昔、中学校のときに習って以来である。)

たしかに、今の我が身をふりかえってみて、お米の御飯を食べることは減った。朝ご飯は基本的にパンであるし、昼と夜が、ラーメンだったりパスタだったりして、お米の御飯を食べない日があったりする。

地方の農山村で、棚田のある風景は美しいが、それを守ることは、文化的な意味、あるいは、観光資源としての意味、これぐらいしかないのかもしれない。だから、無くしてしまえばいいとは思わないけれど。

この番組をみて、感じることはいろいろあるが、正直言って、なんだかなあ~、ということになる。少なくとも、富裕層が贅沢な食事をすることを特にとがめようとは思わないけれど、戦争や貧困で食べるものに困っている人たちを、もうちょっとどうにかできないものか、というのがどうしても感じることである。

そして、日本の食糧政策は、これから人口減少は必然であるという時代をむかえて、単なる少子化対策にとどまらない、国際情勢、環境対策を視野にいれた、総合的な観点から考えなければならない。月並みな言い方しかできないが、こういうことになるのだろう。

2024年12月1日記

「1000番地 土地と人間に関するリポート」2024-12-03

2024年12月3日 當山日出夫

ETV特集 1000番地 土地と人間に関するリポート

この土地の居酒屋のくっちゃんの日々については、「ドキュメント72時間」であつかってもいいような事例かもしれない。その場合には、この居酒屋にあつまる、札幌の人びとの生活を描くことになるだろう。

だが、この番組では、居酒屋とそこに集まる人びとだけではなく、その土地の再開発を考える不動産業者、それから、もともと、その1000番地を開拓した屯田兵のこと、さまざまな視点から、考えるものだった。

さかのぼれば幕末の戊辰戦争にまで話しはおよぶ。会津藩の藩士は、下北半島の斗南藩に移される。そこは過酷な土地であった。現在では、核燃料の中間貯蔵施設がある。日本の社会から見捨てられた土地……こういってもいいかもしれない。(幕末の会津藩士というと、私の場合は、何よりも『ある明治人の記録』を思い出す。それから、大河ドラマ『八重の桜』である。)

北海道の屯田兵として会津藩士の渡辺勝太郎がやってくる。原生林を開拓したことになる。屯田兵というのは、昔、学校の歴史の教科書に出てきたので憶えて知っている程度であるが。

その土地の権利は転変して、戦後になって、まわりの土地は都市のビル街になり、その土地は駐車場となったが、居酒屋などのはいる棟だけが残された。なんとも数奇な運命の土地であるが、時代の流れとして、都市再開発のなかでタワーマンションの建設になるのは、いたしかたないだろう。

渡辺勝太郎の玄孫のことまで追いかけているのは、あるいは、これが分かったということは、驚きでもある。台湾にいる。(その台湾においても、昔から住んでいる住人と新しく移ってきた人たちとの間で、いろいろとあるようだ。権利関係が複雑すぎて誰の所有かわからないので取りのこされている、昔ながらの民家というのは、印象的である。)

その再開発をになうことになる東京の企業の担当者が、くっちゃんに足をはこんでいたことは、興味深い。特に演出したということでないようである。このあたりは、この番組が、かなり幅広く取材をすすめ、時間をかけていることのあらわれといっていいだろうか。

不動産業者も、悪徳業者というわけではない。その仕事に意味を見出し、土地を活用することの価値を十分にわかっている。(おそらく、札幌の都市としての発展には、このような不動産業者の存在は不可欠であったはずである。)

そこに住んで仕事をしていれば、そこが故郷になる。これは人間としての普通の感情だろう。しかし、時代の流れのなかで、その故郷が昔のままであり続けることはできない。会津もそうであるし、下北半島もそうだろう。かつて屯田兵のいた札幌の土地においても、人びとの生活は移り変わり世相は変わる。

解体された居酒屋などの建物が、産業廃棄物として最終的にどうなるのか、というところまで見届けているのは、秀逸といっていいだろうか。普通の番組なら、ここまで追いかけることはしない。重機にによる解体の場面で終わるところである。(木材は、細かく砕かれて畜産に使われるらしい。)

時代の流れの果ての姿として、再開発が、建築資材の高騰で頓挫して、計画の見直しをせまられているというのは、なんとも割り切れない気持ちになるが、これも将来はどうなるのだろうか。

居酒屋は、移転して、また新しく営業を始めている。人間が生活していくというのは、こういうことなのであろう。

2024年11月27日記

「“百人一首” (4)時空と国境を超えて」2024-12-02

2024年12月1日 當山日出夫

100分de名著 “百人一首” (4)時空と国境を超えて

日本の古典文学の受容の歴史の流れのなかにあって、『百人一首』が今どのようであるか、また、これからどうなっていくだろうか、という観点からは面白いものであった。

学問的には、そもそも古文の現代語訳ということの歴史から、たどる必要のあることである。本居宣長などの国学者の仕事、それから、近代になってからの国文学という学問の成立と、古典文学作品の一般への教育と普及、これらの流れのなかの一つとして、『百人一首』をとらえなければならない。この意味では、超訳といわる大胆な訳についても、日本文学研究の研究テーマである。『百人一首』以外では、近年話題の作品としては、『源氏物語』がある。これは、たくさんの現代語訳があるので、これについて研究することになる。

この『百人一首』のことで重要だと思うことは、歌を声に出して読む、という行為についてである。今、日本の学校の古典教育では、作品の音読ということを、あまり重視しない。(テキストの音読ということは、英語教育でも意味のあることだと思っているが、このごろの会話重視の英語教育ではどうなのだろうかとも思う。)

古めかしい言い方かもしれないが、ことばのリズムや感触といったものは、音読して分かる、という側面がある。一方、文字として表記から感じとる部分もある。総合して、文学教育、言語教育であると、私などは思う。こういうことは、このごろの新しい国語教育では、あまりかえりみられないことになっている。近年、日本語学という研究が、国語教育と距離をおくようになってきたということもある。(そのかわり、日本語を知らない外国人への日本語教育が大きくあつかわれるようになってきている。)

ところで、『百人一首』は、特にその成立論をめぐっては、近年になってから格段に研究のすすんだ作品である。しかし、この「100分de名著」では、成立論については触れることがなかった。強いてここの点について言及しなかったということは、これはこれで一つの見識であったとは思う。

2024年11月30日記

ドキュメント20min.「嘘つき誰だ?」2024-12-02

2024年12月2日 當山日出夫

ドキュメント20min. 嘘つき誰だ?

企画の意図は分かるけれど、すこし時代遅れかなという気がしてしまう。SNSなどにおいて、人間が多重人格となりうることは、今さら言うほどのことではない。こんな言説は昔のパソコン通信の時代からあったことである。なぜ、人間は仮想空間のなかでは、別人格となってしまうのかということの意味、あるいは、そうなる人間についての、文化的、地域的、階層的、男女差、年齢差、その他の多様な面からの考察だろう。

もう今では、AIが勝手にメッセージを書いたり、RTしたり、という時代になっているということで考えなければならないと、私は思っている。

この番組では、「嘘つき」ということを悪いことという価値観で扱っている。しかし、ネット、仮想空間において、「本当」と「ウソ」を区別することの意味があるのだろうか。

素朴な意味でのリアルな人間社会における、「本当」と「ウソ」はあるし、それは、維持されなくてはならないものである。しかし、その規範意識をそのままネット空間に投影することは、ほとんど意味がない。一昔前、「ネチズン」あるいは、「WEB2.0」などということばで語られることのあった時代なら、まだかろうじて意味があったかもしれないが、もはやそんな時代ではない。

人間とはそういうものだというふうに、従来の人間観を根本的に考えなおさないといけなくなっているのが、今のネット社会であるというのが、私の認識である。人間を考えるとき、「本当」と「ウソ」というような、真と偽ではかれるような価値観では、考えることができない。虚実皮膜の間にあるというべきだろうか。

なお、番組を見ていて、PCに貼ってあったラベルには気がついた。文字を読むだけの時間的余裕はなかったけれど。

2024年11月30日記