『夫婦善哉』「めをとぜんざいひとりでふたつ あほは二人で一人前」2025-12-02

2025年12月2日 當山日出夫

夫婦善哉 めをとぜんざいひとりでふたつ あほは二人で一人前

最終回で、別府編である。

はじまって、最初の回にも出てきたカレー屋さんのシーンからはじまる。ここで、蝶子は父親(種吉、火野正平)とカレーを食べるのだが、カレーをまぜるスプーンの音が聞こえる。普通は、ドラマの中でも、あまり食事のシーンで、食器の音をさせないのと思うのだが、ここでは、意図的にスプーンがお皿に当たる音がある。この音の使い方が、とても効果的である。

別府でのダンスホールのシーンがとてもいい。ここでの蝶子と柳吉がダンスをしながら、蝶子がしゃべるのだが、かなり長い科白である。これをダンスをしながらしゃべっている。とてもうまいなあ、と思う。

そして、ダンスホールの支配人が、中原丈雄なのだが、一言も科白がない。しかし、蝶子と柳吉のことをきちんと見て理解している人物であり、ひかえめながら、画面のなかで存在感がある。

時代背景としては、昭和12年からの日中戦争の時代ということになる。はじまったころは、世の中の景気もよく、別府の街にも外国人のお客さんがいたりする。しかし、徐々に世の中が、戦時色が強くなっていく。別府の蝶子と柳吉の店でも、商品の確保に苦労するようになる。出征兵士の場面はあったりするのだが、それよりも、日常の商売の中で世の中が変わってきていることを描いているというのは、たくみであると感じる。

芝居でうまいと思うのは、柳吉の酒の飲み方。おちょこを口にもっていく所作で、そのときの気分や境遇を表現している。

この回には手紙が映っていた。大阪のヤトナを仕切っているおきんさんからのものと、惟康に残してきた娘の文子からである。どちらも達筆であるが、かなり年配の水商売の女性(かなり教養のあると感じる文字であるが、おきんさんの過去はいったいどうだったのだろうかと想像する)、女学校を出た若い娘、という雰囲気を感じさせる文字であった。最初の回には、蝶子が書いた手紙があったが、これは、ほとんどまともな教育をうけていないことが分かる下手な大きな文字であった。こういう小道具の用意も、うまく作ってあるところである。(この時代だったら、まだ、巻紙に筆で書いてもおかしくないと思うが、それでは準備が大変ということもあるだろう。)

これからのことを想像してみると……柳吉は徴兵されることはなかったかもしれない。別府の街でなんとか生きのびられたら、その後はどうだろうか。戦後の闇市の中で、この二人は、なにか食べ物屋さんでもやってしのいでいくことになるだろうか。アホな二人が闇市でおでんを売っている姿を想像してみるのも、楽しい。

2025年12月1日記

ねほりんぱほりん「路線バス運転手」2025-12-02

2025年12月2日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 路線バス運転手

最近はバス、それも路線バスというものに乗らなくなった。我が家が駅からちょっと遠い。一番近いバス停まで、20分ぐらい歩かないといけない。それを歩くぐらいなら、駅まで自動車で行ってしまう。こういう環境にたまたま住んでいることになるので、めったに路線バスには乗らない。

多く乗ったのが、東京の立川の国立国語研究所に用事があって行くときであった。立川駅から、バスに乗って行くことにしていた。これも、今では、行く用事が終わってしまったし、研究会などもあったりするが、もう学会とかは基本的に出ないことにしているので、行かない。

路線バスについては、近年では、その運転手の確保の難しさ、人手不足ということが言われている。大型二種免許が必要で、その仕事も、決して楽とはいえないようである。なり手は少ない職業になっているかと思う。そのせいか、バスの減便があり、運行本数が減れば、ますます乗る人が減っていく。悪循環の中にある。

それでも、都市部の中では路線バスは、重要な交通機関である。

見ていて、路線バスの運転手さんも大変だよなあ、とつくづく思う。番組の中では出てきていなかったが、乗車運賃の管理も業務のうちなので、その気苦労は並大抵のものではないかもしれない。

このごろは、バスに乗る、電車に乗るときもそうだが、切符を買ったりすることはない。京都に行くとき、近鉄と京都市営地下鉄を使うことになるが、PiTaPaのカードで乗る。東京に行ったときには、Suicaを使うが、これも、ここ数年の間使っていない。(ちなみに、近所のコンビニでは、PiTaPaが使えるので、現金で払うとことはない。しかし、これも、京都まで行って大学で教えるということを辞めてしまったので、お昼ご飯のおにぎりを買うということもなくなってしまった。)

女性の運転手さんが、冬になってタイヤチェーンを装着しなければならないのは、仕事とはいえ、とても苦労だろうと思う。

バス運転手さんが、男性であることを前提にした勤務のルールであるので、女性の場合、いろいろと抜け穴(?)がある、というのは面白い。さて、これから、女性の運転手が増えてくるとしたら、勤務のルールも細かくなるだろうか。

私としては、バスに乗って運転手さんが、男性であっても、女性であっても、特に何とも思わないだろうけれど。

運転手さんの苦労の原因は、(番組で話題になっていたということであるが)ともかく乗客にある。しゃべる荷物、と言っていたが、まあ、そういうことになるだろうなあ、と思う。これから、どれぐらい路線バスに乗ることがあるか分からない生活をしているが、なるべく寡黙な荷物でいようと思う。

なお、近所の普通の道を自動車を運転していて、路線バスが前を走っていることがあるが、私は、基本的に追い越さないことにしている。バスの乗客の乗り降りなど、後ろで止まって待っていれば、すぐに終わる。

2025年11月26日記

「なぜ“原画”は海外へ マンガ・アニメ文化の行方」2025-12-02

2025年12月2日 當山日出夫

「なぜ“原画”は海外へ マンガ・アニメ文化の行方」

『べらぼう』の関係で、いろんな特集番組が作られてきた。その多くは見ていると思うのだが、不満がある。また、『べらぼう』にも不満がある。これについては、すでに書いてきたことだが、改めて確認しておきたい。

浮世絵が日本から流出したのは、ゴミだったからである。江戸時代から明治のはじめにかけて、それが美術として評価されることはなかった。日本人が捨てたものを、西洋人が拾っただけのことである。

今の日本にある著名な浮世絵のコレクションは、明治になって、西洋で評価されることを逆輸入することで、日本に残っていたもの、海外で手に入るものなどをかき集めたもの……ざっと、こういうことだろうと思っている。江戸時代の浮世絵が作られた同じ時代から、人びとが集めて残してきたというものではない。

蔦屋重三郎であっても、売れる浮世絵を作ることになったのだが、この同じ時代に、これを美術品として残すという発想はなかったことになる。歌麿しかり、写楽しかりである。

このようなことを、NHKで作った『べらぼう』関係の番組では、一切語ることはなかったし、また、『べらぼう』のドラマのうちでも、浮世絵を価値のあるものとして、残そうとしない同時代の人びとということを、まったく描いていない。

こういうNHKが、マンガの原画のことをあつかって、かつての浮世絵のようにしてはいけないと言っても、あまり説得力があるとは、私は感じない。

それから、マンガや、その原画が、現在では貴重な文化遺産であるという認識はあるとしても、もっとも通俗的な、いわゆるエロマンガについては、どうなのだろうかと思う。手塚治虫などの著名なマンガ家作品のことだけをあつかうのではなく、簡単に読み捨てられゴミになってしまっている、大人向けのエロマンガも、残しておけば、将来的には非常に価値のあるもの……文化史、出版史、漫画史、それからジェンダー史の観点から……になるはずである。

ようやく、最近になって、浮世絵でも、春画が一般に市民権を得て堂々と語ることができるようになったという経緯がある。評価は時代によって変わることがあるとしても、とにかく集めて残しておく必要がある、ということは、いろんな文化にかかわる事象について言えることである。

マンガ原画やセル画の保存については、保存科学の知見から、どのようにすべきか考えることになる。現代の紙であるから、脱酸処理が必要かもしれないし、また、写植で印刷した科白の部分のノリがどうなるか、課題は多いだろう。せめて、現在のマンガ家の家族が保存している原画が、中性紙の箱に保存されているのが、マシな対応というべきだろうか。

また、マンガについての言説史の資料も残すべきである。かつて、手塚治虫の作品は、低俗、子どもに読ませられない、と世間から評価された時代もあった。今、白ポストの実物は残っているのだろうか。マンガが、世の中でどう評価されてきたかという史料も残さなければならないものである。

県立の民俗博物館の民具コレクションが増えすぎたので、3Dスキャンしてデジタルデータを残して廃棄してしまえばいいと、維新の知事が言った。こういう政党が与党としている政権に、文化財を残すことの歴史的な意義を語っても、どうなるのかと思うところである。

2025年11月29日記