ザ・ベストテレビ「法医学者たちの告白」 ― 2025-12-03
2025年12月3日 當山日出夫
ザ・ベストテレビ NHKスペシャル 法医学者たちの告白
この番組は放送されたときに見ている。そのときに書いた文章を、まず、以下に再掲載しておく。
====================================
やまもも書斎記 2024年月6日
「法医学者たちの告白」 ―2024-07-06
2024年7月6日 當山日出夫
NHKスペシャル 法医学者たちの告白
法医学という分野のことが、テレビで大きくとりあげられること自体がとても珍しい。いろいろと面白かった。
思うことは多くあるのだが、一番驚いたことは、ルミノール反応のこと。血液がそこに存在したことの検証にルミノール反応が使われることは知っていたことである。このことは、ミステリ作品でもよく出てくる。
しかし、血液以外でも、山の中の落葉でも同様の反応が出ることは知らなかった。このこともあるのだが、実際に世の中のどのような場面や状況で、ルミノール反応があるのか、きちんとした実験データが無かった(らしい)。血液以外の何に反応するのか、その場合どのような結果が出るのか、実験データの蓄積がないところで、ルミノール反応があったので、そこが殺害現場です、とはとても言えないだろう。
さらに、血液に反応するとして、それが地面におちたものであるならば、血液はどのような土壌で、どのように中に染み込むのか、あるいは、雨が降ったりするとどうなるのか、実験データがなかった(らしい)。
本当に信用して大丈夫なのかと思ったというのが、正直なところである。
番組では栃木県の殺人事件のことがあつかわれていたのだが、どうなのだろうか、冤罪である可能性は否定できないだろう。法医学的に実証することが難しく、自白の信憑性にたよるというのは、かなり無理がある。
法医学において、科学的にこのようであると判断……その判断は、当然ながら幅があるものになるが……があるとして、それを、警察の捜査や裁判で利用するかは、どうやらかなり恣意的な部分があることになる。これは、科学的な考え方とはどういうものであるか、警察や司法において十分に理解されていないということなのかもしれない。
千葉大学の法医学研究室のことが出てきていたが、件数が多くてなかなか依頼された仕事がこなせないので、警察の方からは、もっと早くて安いところに依頼することになるかもしれないと話しがあったということなのだが、このような分野の仕事においても、コストカットが求められているというのが、今の日本の社会ということになる。しかし、犯罪を見逃すことになる、あるいは、冤罪を生むことにつながる、このようなコストカットは、将来的には社会の不安要因になる。警察や司法への信頼につながることである。
アメリカの事例が紹介されていた。参考になることは多くあると思うが、法医学が、警察や検察、また、弁護側から、独立したものであるということが重要だろう。それには、何よりも、法医学の科学的知見を社会のなかでどう利活用できるのか、という視点にたつ必要がある。
2024年7月5日記
====================================
同じ内容を再び見てみたことになるのだが、思うところは基本的にかわらない。法医学という専門の領域の研究であり仕事でありが、独立したものであること、そしえ、専門の知見について、一般の社会からの信頼があるかどうか、ということが重要である。
死亡推定時刻として、胃の内容物の消化の状態ということがよく言われると思っているのだが、これも、さほど信頼できるものではないらしい。地下鉄サリン事件の被害者で、脳死状態のようになった人の場合、事件の日に食べたものが、一年以上も残っていたということである。
ルミノール反応の信頼性ということについては、その後、新たな研究はあるのだろうか。
強いて付け加えるならば、専門家というのは、分からない、ということを自信を持って言えるものである、ということがある。こういうことが、専門的知識なのだということを、多くの人が理解する必要があるだろう。
2025年12月2日記
ザ・ベストテレビ NHKスペシャル 法医学者たちの告白
この番組は放送されたときに見ている。そのときに書いた文章を、まず、以下に再掲載しておく。
====================================
やまもも書斎記 2024年月6日
「法医学者たちの告白」 ―2024-07-06
2024年7月6日 當山日出夫
NHKスペシャル 法医学者たちの告白
法医学という分野のことが、テレビで大きくとりあげられること自体がとても珍しい。いろいろと面白かった。
思うことは多くあるのだが、一番驚いたことは、ルミノール反応のこと。血液がそこに存在したことの検証にルミノール反応が使われることは知っていたことである。このことは、ミステリ作品でもよく出てくる。
しかし、血液以外でも、山の中の落葉でも同様の反応が出ることは知らなかった。このこともあるのだが、実際に世の中のどのような場面や状況で、ルミノール反応があるのか、きちんとした実験データが無かった(らしい)。血液以外の何に反応するのか、その場合どのような結果が出るのか、実験データの蓄積がないところで、ルミノール反応があったので、そこが殺害現場です、とはとても言えないだろう。
さらに、血液に反応するとして、それが地面におちたものであるならば、血液はどのような土壌で、どのように中に染み込むのか、あるいは、雨が降ったりするとどうなるのか、実験データがなかった(らしい)。
本当に信用して大丈夫なのかと思ったというのが、正直なところである。
番組では栃木県の殺人事件のことがあつかわれていたのだが、どうなのだろうか、冤罪である可能性は否定できないだろう。法医学的に実証することが難しく、自白の信憑性にたよるというのは、かなり無理がある。
法医学において、科学的にこのようであると判断……その判断は、当然ながら幅があるものになるが……があるとして、それを、警察の捜査や裁判で利用するかは、どうやらかなり恣意的な部分があることになる。これは、科学的な考え方とはどういうものであるか、警察や司法において十分に理解されていないということなのかもしれない。
千葉大学の法医学研究室のことが出てきていたが、件数が多くてなかなか依頼された仕事がこなせないので、警察の方からは、もっと早くて安いところに依頼することになるかもしれないと話しがあったということなのだが、このような分野の仕事においても、コストカットが求められているというのが、今の日本の社会ということになる。しかし、犯罪を見逃すことになる、あるいは、冤罪を生むことにつながる、このようなコストカットは、将来的には社会の不安要因になる。警察や司法への信頼につながることである。
アメリカの事例が紹介されていた。参考になることは多くあると思うが、法医学が、警察や検察、また、弁護側から、独立したものであるということが重要だろう。それには、何よりも、法医学の科学的知見を社会のなかでどう利活用できるのか、という視点にたつ必要がある。
2024年7月5日記
====================================
同じ内容を再び見てみたことになるのだが、思うところは基本的にかわらない。法医学という専門の領域の研究であり仕事でありが、独立したものであること、そしえ、専門の知見について、一般の社会からの信頼があるかどうか、ということが重要である。
死亡推定時刻として、胃の内容物の消化の状態ということがよく言われると思っているのだが、これも、さほど信頼できるものではないらしい。地下鉄サリン事件の被害者で、脳死状態のようになった人の場合、事件の日に食べたものが、一年以上も残っていたということである。
ルミノール反応の信頼性ということについては、その後、新たな研究はあるのだろうか。
強いて付け加えるならば、専門家というのは、分からない、ということを自信を持って言えるものである、ということがある。こういうことが、専門的知識なのだということを、多くの人が理解する必要があるだろう。
2025年12月2日記
サイエンスZERO「“寄生昆虫”に学ぶ生存戦略!?」 ― 2025-12-03
2025年12月3日 當山日出夫
サイエンスZERO “寄生昆虫”に学ぶ生存戦略!?
これは面白かった。
生物の40%が寄生ということで生存しているということだったのだが、他の生物に寄生するという進化のあり方が、生物の世界全体でどういう意味があるのか、このあたりのことが、気になる。
番組では、寄生する側の昆虫を中心にあつかっていたのだが、逆に、寄生される側の生きもの(昆虫であったり、植物であったり、あるいは、哺乳類もあるはずだが)にとって、どういう意味があるのだろうか。ただ、寄生されてマイナスのことしかない、ということなのだろうか。あるいは、生物の世界をトータルに見ると、なにがしかの意味のあることなのだろうか。
寄生するにあたって、宿主の免疫を弱めるということがある。また、宿主が普通に昆虫として大きくなることを妨げることができる。こういうことを逆に見るならば、免疫とはどういうことで、また、昆虫が幼虫からさなぎになって成虫になるプロセスが、どういうメカニズムによっているのか、ということの解明にも繋がるはずである。
ゾウムシが植物に寄生して、光合成しない植物を、光合成するようにして、そこから養分を得ているというのは、とても興味深い。光合成をしなくなった植物にも、遺伝子レベルでは、その機能が残っていて、そのスイッチをいれれば光合成をするようになる、ということらしい。こういうことの研究としては、植物の光合成をコントロールできるようになる、そう考えてもいいのだろうか。
2025年11月25日記
サイエンスZERO “寄生昆虫”に学ぶ生存戦略!?
これは面白かった。
生物の40%が寄生ということで生存しているということだったのだが、他の生物に寄生するという進化のあり方が、生物の世界全体でどういう意味があるのか、このあたりのことが、気になる。
番組では、寄生する側の昆虫を中心にあつかっていたのだが、逆に、寄生される側の生きもの(昆虫であったり、植物であったり、あるいは、哺乳類もあるはずだが)にとって、どういう意味があるのだろうか。ただ、寄生されてマイナスのことしかない、ということなのだろうか。あるいは、生物の世界をトータルに見ると、なにがしかの意味のあることなのだろうか。
寄生するにあたって、宿主の免疫を弱めるということがある。また、宿主が普通に昆虫として大きくなることを妨げることができる。こういうことを逆に見るならば、免疫とはどういうことで、また、昆虫が幼虫からさなぎになって成虫になるプロセスが、どういうメカニズムによっているのか、ということの解明にも繋がるはずである。
ゾウムシが植物に寄生して、光合成しない植物を、光合成するようにして、そこから養分を得ているというのは、とても興味深い。光合成をしなくなった植物にも、遺伝子レベルでは、その機能が残っていて、そのスイッチをいれれば光合成をするようになる、ということらしい。こういうことの研究としては、植物の光合成をコントロールできるようになる、そう考えてもいいのだろうか。
2025年11月25日記
未解決事件「File.07 ベルトラッキ贋作事件〜世界をだました希代の詐欺師〜」 ― 2025-12-03
2025年12月3日 當山日出夫
未解決事件 File.07 ベルトラッキ贋作事件〜世界をだました希代の詐欺師〜
それに「美」を感じることができるのなら、それでいいじゃないか。私は、こう思うだけのことである。
だまされた美術館の学芸員が見る目がなかったというわけではない。その持っている、「美」というものについての認識が、きわめて近代的な、ある意味で歴史的にみればきわめてかたよったものであること、このことに無頓着にすぎることに、気づいていないだけのことである。(いや、分かっていて知らないふりをしている。私には、これは喜劇に見える。)
「美」、あるいは、「芸術」というものを、個人のオリジナリティの表現であるというような芸術観は、きわめて近代的なものである。前近代まで、「美」とはそういうものではなかった。
絵画や彫刻などは、「工房」で作ることもあったはずである。たまたまその「工房」の代表者が、作者として名前が残っているだけのことである。
私が知識のある範囲でいえば、古い時代の日本文学については、歌の代作というようなことは、ごく普通におこなわれていたことである。『源氏物語』については、宇治十帖別作者説があるが、だからといって、文学作品としての『源氏物語』の価値がどうこうなるものではない。また、本居宣長の「もののあはれ」の論が、無効になるわけではない。
自然にあるもの、たとえば、富士山でもいいが、これに「美」を感じる人はいるだろうが、富士山に個人としての作者がいるわけではない。(こういうことは、漱石の『三四郞』の車中の会話であるが。)
近代、現代の感覚として、芸術作品は、それは何かを表現したものであり、それを想像した個人の個性があってのことである、それはオリジナルでなければならない……これは、歴史的にみれば、あまりにも、偏屈な考え方であると私には思える。
前近代には、師匠の作品そっくりに描くことが絵の上達であった時代があったことは、美術史の常識であろう。現代でも古典芸能においては、まず師匠の芸の模倣である。そっくりになることである。
無論、芸術論の問題として、「美」というものが人間の外に客観的に存在する何かであるのか、それとも、人間のこころ(現代なら脳というべきだろうが)の中に生じる何かなのか、これは古くからの議論があることは、承知しているつもりである。
将来、ベルトラッキの作品が芸術として評価されて、高額で取引される、美術館でも大事にする時代がきてもおかしくない。ベルトラッキ美術館ができるかもしれない。いや、絶対に、そういうことになるだろうと私は確信している。このときには、高知の美術館のお宝になるにちがいない。大事に保存しておいた方がいい。
このようなことは、番組を作る側でも分かっていることだろうと思う。見ていて、その作品に「美」を感じるかどうか、ということについては、基本的に言及することがなかった。しかし、そこに「美」を感じることがあるからこそ、芸術であったはずである。作者が誰であろうと、そこに「美」を感じることができるかどうか、見るものが、自分の感性に正直になれば、それでいいだけのことである。自分の感性に正直なれない、何かの権威(それが作者ということになるが)で見てしまう、これが精神の貧しさでなくて何だというのだろうか。
「美」を感じることがないにも関わらず(感じてもいいのだが)、誰それが描いた絵であるからということだけで陳列している今の美術館の存在こそが、非常に欺瞞的であることに、気づくべきなのである。
現代の人間の「美」についての思いが、いかに貧相なものになってしまったかを象徴する事件であり、長い文化の歴史の流れのなかで見れば、ベルトラッキの言っていることが、むしろまともなのである。現代の日本よりも、ヨーロッパの人びとの方が、「芸術」を分かっている。
もちろん、こういう議論の延長としては、AIが「芸術」を作ることができるのか、それは「芸術」なのか、という議論になる。だが、それは、この番組の趣旨からははずれることになるが、ベルトラッキという本物の人間の個人が描いた絵について議論できた時代をなつかしく思い出すときがくるはずである。いや、もうすでにそうなっている。
最初に書いた、「美」を感じるならそれでいいじゃなないか……これを論破できないような人間であっても、美術館の学芸員ができる。いや、学芸員には、そんなものは、はなっから必要ない。オークションの値段が分かればいいということなのか。まさにこういうことが問われていることになる。
2025年11月30日記
未解決事件 File.07 ベルトラッキ贋作事件〜世界をだました希代の詐欺師〜
それに「美」を感じることができるのなら、それでいいじゃないか。私は、こう思うだけのことである。
だまされた美術館の学芸員が見る目がなかったというわけではない。その持っている、「美」というものについての認識が、きわめて近代的な、ある意味で歴史的にみればきわめてかたよったものであること、このことに無頓着にすぎることに、気づいていないだけのことである。(いや、分かっていて知らないふりをしている。私には、これは喜劇に見える。)
「美」、あるいは、「芸術」というものを、個人のオリジナリティの表現であるというような芸術観は、きわめて近代的なものである。前近代まで、「美」とはそういうものではなかった。
絵画や彫刻などは、「工房」で作ることもあったはずである。たまたまその「工房」の代表者が、作者として名前が残っているだけのことである。
私が知識のある範囲でいえば、古い時代の日本文学については、歌の代作というようなことは、ごく普通におこなわれていたことである。『源氏物語』については、宇治十帖別作者説があるが、だからといって、文学作品としての『源氏物語』の価値がどうこうなるものではない。また、本居宣長の「もののあはれ」の論が、無効になるわけではない。
自然にあるもの、たとえば、富士山でもいいが、これに「美」を感じる人はいるだろうが、富士山に個人としての作者がいるわけではない。(こういうことは、漱石の『三四郞』の車中の会話であるが。)
近代、現代の感覚として、芸術作品は、それは何かを表現したものであり、それを想像した個人の個性があってのことである、それはオリジナルでなければならない……これは、歴史的にみれば、あまりにも、偏屈な考え方であると私には思える。
前近代には、師匠の作品そっくりに描くことが絵の上達であった時代があったことは、美術史の常識であろう。現代でも古典芸能においては、まず師匠の芸の模倣である。そっくりになることである。
無論、芸術論の問題として、「美」というものが人間の外に客観的に存在する何かであるのか、それとも、人間のこころ(現代なら脳というべきだろうが)の中に生じる何かなのか、これは古くからの議論があることは、承知しているつもりである。
将来、ベルトラッキの作品が芸術として評価されて、高額で取引される、美術館でも大事にする時代がきてもおかしくない。ベルトラッキ美術館ができるかもしれない。いや、絶対に、そういうことになるだろうと私は確信している。このときには、高知の美術館のお宝になるにちがいない。大事に保存しておいた方がいい。
このようなことは、番組を作る側でも分かっていることだろうと思う。見ていて、その作品に「美」を感じるかどうか、ということについては、基本的に言及することがなかった。しかし、そこに「美」を感じることがあるからこそ、芸術であったはずである。作者が誰であろうと、そこに「美」を感じることができるかどうか、見るものが、自分の感性に正直になれば、それでいいだけのことである。自分の感性に正直なれない、何かの権威(それが作者ということになるが)で見てしまう、これが精神の貧しさでなくて何だというのだろうか。
「美」を感じることがないにも関わらず(感じてもいいのだが)、誰それが描いた絵であるからということだけで陳列している今の美術館の存在こそが、非常に欺瞞的であることに、気づくべきなのである。
現代の人間の「美」についての思いが、いかに貧相なものになってしまったかを象徴する事件であり、長い文化の歴史の流れのなかで見れば、ベルトラッキの言っていることが、むしろまともなのである。現代の日本よりも、ヨーロッパの人びとの方が、「芸術」を分かっている。
もちろん、こういう議論の延長としては、AIが「芸術」を作ることができるのか、それは「芸術」なのか、という議論になる。だが、それは、この番組の趣旨からははずれることになるが、ベルトラッキという本物の人間の個人が描いた絵について議論できた時代をなつかしく思い出すときがくるはずである。いや、もうすでにそうなっている。
最初に書いた、「美」を感じるならそれでいいじゃなないか……これを論破できないような人間であっても、美術館の学芸員ができる。いや、学芸員には、そんなものは、はなっから必要ない。オークションの値段が分かればいいということなのか。まさにこういうことが問われていることになる。
2025年11月30日記
最近のコメント