歴史探偵「「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

歴史探偵 「ばけばけ」コラボ 小泉八雲とセツ

期待して見ていたというわけではないが、だいたい予想どおりの内容であった。

小泉八雲の日本についての理解としては、肯定的に見れば、明治の20年代のころに、その人びとの考え方や感じ方、生活の感覚、ということに、深い理解をしめした人ということになる。

だが、その一方で、『日本の思い出』など読むと分かることだが、明治になって近代化した日本のこと……学校教育のシステムであったり、軍隊であったり、天皇であったり、教育勅語であったり……についても、まるごと日本のすばらしさ、ということで肯定している。

小泉八雲の見た日本は、すでに近代化がということが人びとの生活の中に浸透し始めていたころであったと、考えるべきだろう。それをまるごと肯定していることになる。

無論、その後の日本のさらなる近代化ということについては、非常に否定的な見方をしている。それは、松江の次に移った、熊本の五高からのことになる。最終的には、東京に移って、日本の近代を象徴する、東京帝国大学で教えることになっている。

こういうところを考えると、小泉八雲の見た日本というのは、非常に恣意的な感覚的判断にもとづくものである、ということもできる。

それから、やはり気になるのは、小泉八雲=松江、と結びつけすぎていることであろう。小泉八雲(このときは、まだ、ラフカディオ・ハーンであるが)は、松江には、一年とちょっといただけにすぎない。日本での活動の大部分は、その後の、熊本、神戸、東京ですごしていることになる。最後は、東京で亡くなっている。その代表作とされる『怪談』は、東京にいたときに書かれたものである。松江にいたときは、ただの御雇外国人英語教師にすぎなかった。

小泉八雲の、現代の価値観では評価するのが難しい部分、松江以外のこと、こういうことについて、もっと触れるところがあっていいと思うのだが、そんなに難しいことなのだろうか。

八雲のセツにあてた手紙が映っていた。これは、興味深い。日本語の表記、学習の問題としては、面白い事例になる。カタカナで書いている。この時代であれば、ひらがなは多くの変体仮名をふくむのが通常であった。この点では、カタカナの方が整理されているし、書き方も直線を主体とするものなので、書きやすい。八雲が、どのようにしてカタカナを習得したのか、日本語研究のこととしては非常に興味のあるところである。

2025年12月4日記

映像の世紀バタフライエフェクト「アメリカと中東 終わりなき流血」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト アメリカと中東 終わりなき流血

この回の協力は、酒井啓子。現代の中東問題の専門家として知られる。

見ていて思ったことは、出てきていなかったのが、サイクス・ピコ協定、そして、アラビアのロレンス。これまでの「映像の世紀」シリーズだと、中東問題となると必ず言及があったのだが、この回では、まったくふれることがなかった。

それから、イスラムということばは可能な限り使わないように作ってあった。また、アラブということばもほとんど使っていない。このあたりは、かなり周到に考えて作ったという印象がある。

メインは、イラクとイラン、そして、そこに介入することになるアメリカ、ほぼこの三者の歴史、ということになっていた。

さかのぼれば、イランは、ペルシャであったし、言語としては、ペルシャ語の国ということになる。イスラムの中では、シーア派の国ということになるだろう。無論、中東のそれぞれの地域……その範囲となるのは、必ずしも今の国家の領域と重なるわけではない、ということが、中東の問題のややこしさだろうと思っているが、そのややこしさがどんなものかについては、基本的にふれることがなかった。

ソ連のアフガニスタン侵攻のことも、まったく出てきていなかった。(アフガニスタンは、地域としては、中東というよりも、中央アジアになるのだが、しかし、現代のイスラムの問題を考えるときには、さけてとおることはできないはずである。中東というエリアではない、ということで、アラブの春のこともふれることをしなかったと理解していいだろうか。)

イランのアメリカ大使館の事件は、イランとアメリカとの関係において重要なことだが、それが起こったことは言っていたが、どう解決したのか、このことによってどんな問題が残ったのか、ということについては、何もいわなかった。

非常にシンプルな構図……イランとイラクとアメリカ……ということで語っているのだが、見ていて、それほど大きな破綻や矛楯を感じるところなく作ってあったのは、うまく考えたということになるのだろう。

私の思うこととしては、ただ、アメリカが余計な介入をしなければよかった、ということではすまないことが多くあるはずであり、近現代の国際社会の中で、イスラムの地域の人びとが、どのようにして生きていくことになるのが良いことなのか……近代的な国民国家の枠組みで対処できるのか……というあたりのことは、もうちょっと踏み込んで語るところがあってもよかったかもしれない。

憎悪の連鎖ということは、望ましいことではない。気に入らない相手を、この世界から抹殺してしまうべきだと考える人がいる。これは、現実のものとなったときには、ジェノサイド、民族浄化として、厳しく指弾されることである。だが、このような思い……敵対する相手を消し去りたい……をいだく人が、現実に存在するということは、たしかなこととして認めなければならないことである。

これは、その原因を作りだしたのが誰かという詮索をすることでは、解決できない問題である。

2025年12月5日記

ブラタモリ「信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?」2025-12-06

2025年12月6日 當山日出夫

ブラタモリ 信長の安土城▼わずか3年で消えた幻の城!信長が描いた夢とは?

安土城については、いろいろと研究が進んできて、実際にどんなだったか、かなり分かるようになってきている、ということだと思う。信長が、安土城を作ったのは、琵琶湖のことがあって、その水運を考えてのことであり、また、畿内をおさえる要衝でもあったということである。

見ていて、私が一番興味深く思ったのは、今ではもう無くなってしまった琵琶湖の内湖。昔は、安土城の近くまで水辺であった。それが、昭和の戦前までは残っていた。では、なぜ、その湖を埋め立てたのだろうか。おそらくは、干拓して農地にしたということなのかと思うのであるが、この経緯や理由、そして、その現在の様子ということが、知りたいところである。そして、これらをふくめて、琵琶湖のまわりに人びとがどんな生活をいとなんできたのか、総合的に考えることになる。

楽市楽座は、歴史の教科書にはかならず出てくることである。特に、信長の先見性をしめすものとしてあつかわれる。これは、日本の経済史の全体をみわたしたときには、どのように考えられることになるのだろうか。その後、江戸時代になれば、藩を単位としての統制経済という方向になったかとも思える。産業、交易、流通、経済、ということに、それぞれの時代の為政者は、どうかかわってきたのか、あらためて考えることがあっていいかと思っている。(とはいえ、今から、こういうことを自分で勉強してみようという気にはならないでいるのだが。)

2025年12月5日記