ドキュメント72時間「渋谷駅前“最後”の新聞スタンド」 ― 2025-10-03
2025年10月3日 當山日出夫
ドキュメント72時間 渋谷駅前“最後”の新聞スタンド
BKでは、たしかこの回の放送のとき、他の番組をやっていて、放送がなかったかと憶えている。再放送で見ることになった。
渋谷のここの新聞スタンドは、気づかなかった。私が東京に住んでいたのは、学生のときであるから、ほぼ半世紀前のことになる。そのころから、この新聞スタンドはあったらしいのだが、特に気にしたことはなかった。このあたり、昔は、道ばたに靴磨きの仕事の人がいたと記憶するのだが、今では、路上での靴磨きというのも、なくなってしまったものの一つかもしれない。当たり前だった都市の風景の一部が、いつのまにか消えてなくなってしまう。この新聞スタンドが消えても、気づかない人が大多数だろう。
夕刊を読み比べるという女性が出てきていた。私も、新聞は、学生のころから購読しているが(ずっと朝日新聞である、学術書のサンヤツ広告は朝日にしか出さないという出版社が多かった)、夕刊を細かく読むということはしてこなかった。一時期は、社説をよく読んだこともある。新聞の社説は、ある意味でとても面白い。(別に、朝日新聞の主張に賛同するということではないけれど。)
他の新聞……朝日の他、毎日、読売、日経、産経、はWEB版は、毎日確認している。個人的に思うこととしては、もう毎日新聞はジャーナリズムを名乗るのをやめた方がいい。日刊のオピニオン誌と思うべきだろう。だが、そうなったところで、どれだけ読者がついてくるかは、不安であるが。
競馬新聞は紙の新聞の紙面で見た方が分かりやすいというのは、そういうものだと思う。私は競馬にはまったく興味がないし、競馬新聞は買ったこともないのだが、情報の一覧性という点では、ネット記事よりはるかにすぐれている。
英字新聞を毎日買っている男性。塾の英語の先生らしいが、ずっと勉強をつづけるというのは、なかなかできることではない。
しかしながら、そもそも、新聞スタンド、といって、今の若い人には通用しないことばだろう。他には、ミルクスタンドもあるかと思う。私の年代だと、日常生活の中にあることばとして生きているのだが、もういつのまにかすがたをけしてなくなってしまうものであろう。男性が、子どもにとっての近所の駄菓子屋ようなものと言っていたが、こういうところが、社会の中からどんどん消えてなくなっているのが、今の日本だろう。
馴染みの店で、馴染みのお客さん、ということがあってもいいし、逆に、そういうのがまったくない無機質な関係でいられるのも都市というものである。どちらがいいということではないが、こういうところが消えていくのは、やはり一抹のさびしさがある。
2025年9月27日記
ドキュメント72時間 渋谷駅前“最後”の新聞スタンド
BKでは、たしかこの回の放送のとき、他の番組をやっていて、放送がなかったかと憶えている。再放送で見ることになった。
渋谷のここの新聞スタンドは、気づかなかった。私が東京に住んでいたのは、学生のときであるから、ほぼ半世紀前のことになる。そのころから、この新聞スタンドはあったらしいのだが、特に気にしたことはなかった。このあたり、昔は、道ばたに靴磨きの仕事の人がいたと記憶するのだが、今では、路上での靴磨きというのも、なくなってしまったものの一つかもしれない。当たり前だった都市の風景の一部が、いつのまにか消えてなくなってしまう。この新聞スタンドが消えても、気づかない人が大多数だろう。
夕刊を読み比べるという女性が出てきていた。私も、新聞は、学生のころから購読しているが(ずっと朝日新聞である、学術書のサンヤツ広告は朝日にしか出さないという出版社が多かった)、夕刊を細かく読むということはしてこなかった。一時期は、社説をよく読んだこともある。新聞の社説は、ある意味でとても面白い。(別に、朝日新聞の主張に賛同するということではないけれど。)
他の新聞……朝日の他、毎日、読売、日経、産経、はWEB版は、毎日確認している。個人的に思うこととしては、もう毎日新聞はジャーナリズムを名乗るのをやめた方がいい。日刊のオピニオン誌と思うべきだろう。だが、そうなったところで、どれだけ読者がついてくるかは、不安であるが。
競馬新聞は紙の新聞の紙面で見た方が分かりやすいというのは、そういうものだと思う。私は競馬にはまったく興味がないし、競馬新聞は買ったこともないのだが、情報の一覧性という点では、ネット記事よりはるかにすぐれている。
英字新聞を毎日買っている男性。塾の英語の先生らしいが、ずっと勉強をつづけるというのは、なかなかできることではない。
しかしながら、そもそも、新聞スタンド、といって、今の若い人には通用しないことばだろう。他には、ミルクスタンドもあるかと思う。私の年代だと、日常生活の中にあることばとして生きているのだが、もういつのまにかすがたをけしてなくなってしまうものであろう。男性が、子どもにとっての近所の駄菓子屋ようなものと言っていたが、こういうところが、社会の中からどんどん消えてなくなっているのが、今の日本だろう。
馴染みの店で、馴染みのお客さん、ということがあってもいいし、逆に、そういうのがまったくない無機質な関係でいられるのも都市というものである。どちらがいいということではないが、こういうところが消えていくのは、やはり一抹のさびしさがある。
2025年9月27日記
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