新日本風土記「大阪 天王寺界わい」 ― 2025-10-03
2025年10月3日 當山日出夫
新日本風土記「大阪 天王寺界わい」
再放送である。最初は、2022年7月8日。
見て思ったことは、NHKであっても、帝塚山の住宅地の人びとの生活の感覚を描くような取材はできなかったのだろうか。あるいは、それは、しなかったということでいいのだろうか。
日本の中で、都市部で、居住地域によって社会的階級が歴然と区別されるという地域は、そう多くはないと思うが、大坂のこの地域は、希なそういうところである。
気になることとしては、カメラ屋さん。2022年の取材であるが、このとき、街中の昔ながらのカメラ屋さんは、いったいどういう商売をしているのだろうか。せいぜい、スマートフォンで撮った写真などのプリントの仕事はあるだろうが、(これもコンビニでもできるが)、いったい何でもうけているのだろうか。今の時代、昔のフィルムカメラを使って写真を撮るというのは、一部のカメラ好きのお金のかかる趣味になってしまっている。カメラなどの機材は、かなり安く買えるものがあるのだが、フィルムが高くなっているし、それの現像とプリントも手間である。(もっとも簡便には、現像したフィルムをスキャンしてデジタル化して、プリントすることなのだが、それでは、昔のカメラの楽しみとはいえないかもしれない。)
フラメンコを踊る女性については、はっきり言えばであるが、テレビに映っていた映像で見るかぎり、そう上手とも思えない。しかし、本人が、楽しんでやっていることは、十分に伝わってくる。
これは、ロックを歌っている男性も同じである。ロックが、(私の感覚が古いのかと思うが)抵抗の音楽であるとするならば、帝塚山で店を開くというのは、どういう意味を考えてのことなのだろうか。お客さんの層が違っても、音楽として楽しむならいい、ということだろうか。(もう今どき、アングラなどということばも死語といっていいだろうか。)
陸軍墓地については、その沿革も気になるところであるが、これをこれから、どのようなものとして維持管理していくのか、ということは問題である。基本的な性格としては、国立の施設として管理するのが妥当だろう。しかし、そうなると、世の中の平和活動団体が黙っていないにちがいない。いわく、戦争を美化して政治的に利用するものである、と。こういうところが、国営の墓地として適切に維持管理されてきていないということは、どのような立場にたとうと、必要なことであると、私は思っている。(これは、近代の国民国家が、想像の共同体であるために必要な、ある意味ではそのために必須の欺瞞ではあるが。)
寺町での、お寺どうしの助け合いというのは、今の時代においても必要なことになるだろう。ただ、これから未来についてどうなるかは、いろいろと難しい問題をかかえていることにはちがいないが。
あべのハルカスに行ったことがない。行ってみようと思ったこともない。しかし、こういうところに行って、景色を眺めてみたくなるのも、人の気持ちである。そして、その窓ガラスを拭く職人さんたちの仕事も興味深い。この仕事だけで、特別に番組を作ってもいいぐらいだと思う。
余計なことかもしれないが、縄文時代から人が住んできたエリアであることは確かであるとしても、どう考えても、縄文時代の人びとの子孫が住んでいるというのではない。おそらく、夕焼けの光景は同じようなものだったとしても、安易に、現代の人間の感覚を、古代……縄文であっても、弥生であってもいいが……に投影してイメージするのは、避けるべきだと考えている。(日本という国家を過去のどの時点にさかのぼって考えるか、ということについては、慎重であるべきである。)
2025年9月30日記
新日本風土記「大阪 天王寺界わい」
再放送である。最初は、2022年7月8日。
見て思ったことは、NHKであっても、帝塚山の住宅地の人びとの生活の感覚を描くような取材はできなかったのだろうか。あるいは、それは、しなかったということでいいのだろうか。
日本の中で、都市部で、居住地域によって社会的階級が歴然と区別されるという地域は、そう多くはないと思うが、大坂のこの地域は、希なそういうところである。
気になることとしては、カメラ屋さん。2022年の取材であるが、このとき、街中の昔ながらのカメラ屋さんは、いったいどういう商売をしているのだろうか。せいぜい、スマートフォンで撮った写真などのプリントの仕事はあるだろうが、(これもコンビニでもできるが)、いったい何でもうけているのだろうか。今の時代、昔のフィルムカメラを使って写真を撮るというのは、一部のカメラ好きのお金のかかる趣味になってしまっている。カメラなどの機材は、かなり安く買えるものがあるのだが、フィルムが高くなっているし、それの現像とプリントも手間である。(もっとも簡便には、現像したフィルムをスキャンしてデジタル化して、プリントすることなのだが、それでは、昔のカメラの楽しみとはいえないかもしれない。)
フラメンコを踊る女性については、はっきり言えばであるが、テレビに映っていた映像で見るかぎり、そう上手とも思えない。しかし、本人が、楽しんでやっていることは、十分に伝わってくる。
これは、ロックを歌っている男性も同じである。ロックが、(私の感覚が古いのかと思うが)抵抗の音楽であるとするならば、帝塚山で店を開くというのは、どういう意味を考えてのことなのだろうか。お客さんの層が違っても、音楽として楽しむならいい、ということだろうか。(もう今どき、アングラなどということばも死語といっていいだろうか。)
陸軍墓地については、その沿革も気になるところであるが、これをこれから、どのようなものとして維持管理していくのか、ということは問題である。基本的な性格としては、国立の施設として管理するのが妥当だろう。しかし、そうなると、世の中の平和活動団体が黙っていないにちがいない。いわく、戦争を美化して政治的に利用するものである、と。こういうところが、国営の墓地として適切に維持管理されてきていないということは、どのような立場にたとうと、必要なことであると、私は思っている。(これは、近代の国民国家が、想像の共同体であるために必要な、ある意味ではそのために必須の欺瞞ではあるが。)
寺町での、お寺どうしの助け合いというのは、今の時代においても必要なことになるだろう。ただ、これから未来についてどうなるかは、いろいろと難しい問題をかかえていることにはちがいないが。
あべのハルカスに行ったことがない。行ってみようと思ったこともない。しかし、こういうところに行って、景色を眺めてみたくなるのも、人の気持ちである。そして、その窓ガラスを拭く職人さんたちの仕事も興味深い。この仕事だけで、特別に番組を作ってもいいぐらいだと思う。
余計なことかもしれないが、縄文時代から人が住んできたエリアであることは確かであるとしても、どう考えても、縄文時代の人びとの子孫が住んでいるというのではない。おそらく、夕焼けの光景は同じようなものだったとしても、安易に、現代の人間の感覚を、古代……縄文であっても、弥生であってもいいが……に投影してイメージするのは、避けるべきだと考えている。(日本という国家を過去のどの時点にさかのぼって考えるか、ということについては、慎重であるべきである。)
2025年9月30日記
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