『べらぼう』「歌麿筆美人大首絵」 ― 2025-10-27
2025年10月27日 當山日出夫
『べらぼう』「歌麿筆美人大首絵」
冒頭にいきなり林子平の名前が出てきて、終わりの方になって、加藤千蔭が登場してきた。いかにも唐突という印象がある。この時代背景としては、林子平は登場していい人物だし、蔦重は、加藤千蔭の本の出版にかかわっていることは事実であるので、これで問題があるというわけではない。しかし、このドラマのこれまでの作り方からすると、この時代にあって、学芸や思想の主流にあるべきことが(俳諧であったり、漢学であったり、心学もそうかと思うが)、傍流から急にドラマの中に入りこんでしまって、それで終わりということになっていると感じることが多い。
江戸時代の戯作や戯作者をきちんと描くことは、とても面白いことだと思うのだが、しかし、その背景となる江戸時代の学芸や出版の世界のことを、あまりにも、これまでに軽くあつかいすぎてきた、という印象がどうしてもある。何度も書いていることだが、狂歌が分かるためには、古典の和歌についての知識があることが、大きな前提になっているはずなのだが、ここの部分がすっかり抜け落ちてしまっている。戯作者でありながら、同時に文人であり知識人である、こういう側面をまったく描こうとしていない。これは、どうなのかなと、私としては思うことになる。
加藤千蔭の書道の本を出版するのに、ていが、背景を黒で、とアイデアを思いつく。これも、雲母ずりの浮世絵を見ながらのことだった。だが、江戸時代、書道関係のお手本の書物……一般的な名称としては、法帖ということが多いが……は、黒い墨に白い文字になるように作ってあったものである。ていの思いついたアイデアということではなく、権威ある法帖と同列の書物の作り方をした、加藤千蔭の書の価値をそういうことで表現した、ということだろうと思ってみるのだが、出版史、書道史の専門家は、どう見ることになるのだろうか。
歌麿の大首絵の美人画については、観相ということで、蔦重は売り出す。
これも、これまでに何度も書いたことだが、現在の芸術としての視点では、モデルとなった女性の個性を、画家(歌麿)の個性的な技法で、描き出した人物画、ということで見ることになる。しかし、江戸時代の同時代の人たちは、どういう視点で、歌麿の美人画を見ていたのか、分からないかもしれない。少なくとも、美術品として、大事に保存しておくようなものではなかったことはたしかである。その後、浮世絵は、紙くずとして、大量に西洋に流出することになる。
同時代の人の評価はどうだったかということと、歌麿はどういう意図で、その作品を描いたのか、このあたりのことを考えてみると、まあ、このドラマの描いたことのようであっても、そうおかしいとは思わない。それなりに、説得力のある脚本になっている。いつの時代の設定であっても、芸術家、というものをドラマで描くのは、非常に難しいことである。
歌麿は両刀と言っていたが、別に、この時代だったら珍しいことでもなかっただろう。むしろ、平賀源内のように男だけということが、希少だったかもしれない。だからといって、それで、社会的に差別されるというようなことではなかった。近代の西洋や、現在のイスラム圏の国々のように、同性愛が犯罪である、ということは、日本では、少なくとも一般の人びとの意識としてはなかったことだろうと、私は思っている。性的規範、性的指向、こういうことについては、多様性の多様性、時代や社会によってそれぞれに異なる、というメタな視点から考えなければならないと、思うところである。
この回を見て、映像としてはとてもいいし、脚本もたくみだとは思うのだが、なんとなく現代の視聴者の、性的な規範意識を配慮しすぎかなと感じるところがある。まあ、NHKの大河ドラマだから、そうなるのかとも思うのだが、もっと自由に表現するところがあってもいいようにも思う。ただ、それが、作り手の独善にならなければ、ということは必要だが。
2025年10月26日記
『べらぼう』「歌麿筆美人大首絵」
冒頭にいきなり林子平の名前が出てきて、終わりの方になって、加藤千蔭が登場してきた。いかにも唐突という印象がある。この時代背景としては、林子平は登場していい人物だし、蔦重は、加藤千蔭の本の出版にかかわっていることは事実であるので、これで問題があるというわけではない。しかし、このドラマのこれまでの作り方からすると、この時代にあって、学芸や思想の主流にあるべきことが(俳諧であったり、漢学であったり、心学もそうかと思うが)、傍流から急にドラマの中に入りこんでしまって、それで終わりということになっていると感じることが多い。
江戸時代の戯作や戯作者をきちんと描くことは、とても面白いことだと思うのだが、しかし、その背景となる江戸時代の学芸や出版の世界のことを、あまりにも、これまでに軽くあつかいすぎてきた、という印象がどうしてもある。何度も書いていることだが、狂歌が分かるためには、古典の和歌についての知識があることが、大きな前提になっているはずなのだが、ここの部分がすっかり抜け落ちてしまっている。戯作者でありながら、同時に文人であり知識人である、こういう側面をまったく描こうとしていない。これは、どうなのかなと、私としては思うことになる。
加藤千蔭の書道の本を出版するのに、ていが、背景を黒で、とアイデアを思いつく。これも、雲母ずりの浮世絵を見ながらのことだった。だが、江戸時代、書道関係のお手本の書物……一般的な名称としては、法帖ということが多いが……は、黒い墨に白い文字になるように作ってあったものである。ていの思いついたアイデアということではなく、権威ある法帖と同列の書物の作り方をした、加藤千蔭の書の価値をそういうことで表現した、ということだろうと思ってみるのだが、出版史、書道史の専門家は、どう見ることになるのだろうか。
歌麿の大首絵の美人画については、観相ということで、蔦重は売り出す。
これも、これまでに何度も書いたことだが、現在の芸術としての視点では、モデルとなった女性の個性を、画家(歌麿)の個性的な技法で、描き出した人物画、ということで見ることになる。しかし、江戸時代の同時代の人たちは、どういう視点で、歌麿の美人画を見ていたのか、分からないかもしれない。少なくとも、美術品として、大事に保存しておくようなものではなかったことはたしかである。その後、浮世絵は、紙くずとして、大量に西洋に流出することになる。
同時代の人の評価はどうだったかということと、歌麿はどういう意図で、その作品を描いたのか、このあたりのことを考えてみると、まあ、このドラマの描いたことのようであっても、そうおかしいとは思わない。それなりに、説得力のある脚本になっている。いつの時代の設定であっても、芸術家、というものをドラマで描くのは、非常に難しいことである。
歌麿は両刀と言っていたが、別に、この時代だったら珍しいことでもなかっただろう。むしろ、平賀源内のように男だけということが、希少だったかもしれない。だからといって、それで、社会的に差別されるというようなことではなかった。近代の西洋や、現在のイスラム圏の国々のように、同性愛が犯罪である、ということは、日本では、少なくとも一般の人びとの意識としてはなかったことだろうと、私は思っている。性的規範、性的指向、こういうことについては、多様性の多様性、時代や社会によってそれぞれに異なる、というメタな視点から考えなければならないと、思うところである。
この回を見て、映像としてはとてもいいし、脚本もたくみだとは思うのだが、なんとなく現代の視聴者の、性的な規範意識を配慮しすぎかなと感じるところがある。まあ、NHKの大河ドラマだから、そうなるのかとも思うのだが、もっと自由に表現するところがあってもいいようにも思う。ただ、それが、作り手の独善にならなければ、ということは必要だが。
2025年10月26日記
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