『ばけばけ』「ウラメシ、ケド、スバラシ。」2026-03-29

2026年3月29日 當山日出夫

『ばけばけ』「ウラメシ、ケド、スバラシ。」

最終回まで見てきて、総合的な感想としては、よく出来たドラマだったと思う。部分的には、無理をしている、時代設定に合わない、と感じるところもあったが、全体としては、明治の没落士族の生活を、その生活の感性ととも、面白く描いていたと思う。

ただ、最後の週になって、ちょっと急ぎすぎているかなと感じるところがある。

東京の街……明治の30年代になるが……の描写が、ほとんどない。街中をヘブンさんが人力車に乗ったり、ミルクホールに入ったりということは出てくる。しかし、近代的な文明都市になろうとしているころの東京の街の姿という感じではない。古くからの江戸の名残もあった一方で、近代的な西洋文明がどんどん入ってきていたころである。

ヘブンさんがつとめた東京帝国大学は、その日本の近代文明の象徴とでもいうべきところである。ここで、なぜ、ヘブンさんが、熊本から東京に行き(本当は間に神戸があるのだが)、しかも、東京帝国大学の教師という、おそらく、ヘブンさんがもっとも嫌っていたであろう仕事についたのは何故か。

東京の大学生の、英文学を講じてみたいという気持ちがあったのかもしれない。これは、小泉八雲の講義録が残っている。ロマン主義的であるが、文学というものの一つの理解をあらわしている。

あるいは、月給の400円にひかれたということだったのかもしれない。(松江のときの100円は、県知事と同じぐらいの高給であり、熊本に行って倍になって、東京でさらにその倍になった。)

東京帝国大学で英文学を講ずるヘブン先生ということが、出てきてもよかったのではないかと思える。(三四郎池のほとりにたたずむヘブンさんを想像してみたりするのだが、これは、東京大学の許可が得られなかったのだろうか。)

『怪談』の執筆にいたるプロセスが、端折りすぎかなという印象がある。また、その『怪談』をイライザが酷評して、それについておトキが自責の念にかられるというのも、そうであってもいいとしても、もうちょっと丁寧に描いた方がよかったかもしれない。

『怪談』は、再話文学ということになる。日本に古くから伝えられている伝承(昔話、伝説など、なお、民話という言い方は日本民俗学ではつかわない)や、古い文学作品などに題材をもとめて、それを、おトキが語る。それも、完全に自分のことばにして語る。ヘブンさんが、それを聞いて、英語で文章にする。かなり複雑なプロセスを経て成立している。このプロセスについて、東京での雨清水・松野の一家の生活をからめて、もう少し丁寧な描写であった方がよかったかもしれないと思うが、どうだろうか。

東京での生活としての、いろんなトラブルがあってもいい。かつて、台所で箸をおとして大騒ぎになったり、ウグイス(実はメジロ)を飼ったり、スキップしたり、いろいろとあったのだから、東京を舞台にして、いかにも文明の都市となりつつある東京ならではの、ヘブンさんとおトキのエピソードがあっていいかなと思う。

ヘブンさんとおトキで、「牡丹灯籠」の落語を見に行くというようなことがあってもよかったかもしれない。(ただ、時代的には、円朝の時代ではなくなっているけれど。)

それから、あえて無粋なことをいえばであるが……最後のところで、英語の『KWAIDAN』を日本語に訳しているところがあったが、明治の30年代のころだと、まだ、一般的には、外国語の文章を現代のような口語散文に訳すということは不可能なので、ここは、無理がある。しかし、話しことばの通訳ということはあっただろうから、丈が英語の本を読んで、おトキに語って聞かせるということはできただろう。そうすると、おトキの話しことばをヘブンさんが英語の文章にして、それを丈が日本語の話しことばになおして、おトキに聞かせる、このような込み入ったことが起こることになる。

だが、それでも、『怪談』という作品の魅力があるとするならば、翻訳の文章語(英語だったり日本語だったり)の根底に流れている、語られた文学としての魅力ということになるだろう。

この『怪談』の魅力ということについて、ドラマのような設定で描いてしまうと、説得力のある説明ではなくなってしまうと、私としては、思うことになる。

以上のようなことを思ってはみるのだが、半年の間、『ばけばけ』を見てきて感じることは、何気ない日常の中にあるいろんな感情を、過度に説明的にならず、まあ人間というのはこんなもんだよな、と感じさせるように描いてきた、ということは、評価したいと思う。明治の時代に異人さんと結婚して、松江から熊本へ、そして東京へ移り住み、東京帝国大学の教師の妻というのは、非常に劇的な人生であるのだが、そのなかに、ごく普通の人間の生活の感性が描きだされている。朝御飯のシジミ汁を飲んで、「あ~」と言うのは、はしたないことかもしれないが、ついついそう言ってしまうのが、人間というものなのである。

なお、ドラマの終わりで、おトキが、『思ひ出の記』を語って丈が筆録して本になる、それが、実は半年間の『ばけばけ』のドラマだった……ということで閉じていていた。これは、かつての『カーネーション』が似た構成として、最後を終わらせていたということになる。この意味では、すべてはおトキの視点からの物語ということになり、小泉八雲の日本文化観とか英文学観とかに深入りしないできたということの理由にもなっている。これはこれで、一つの作り方だと思う。

客観的に小泉八雲を描いたと見ると、もの足りないところは、いくらもあるのだが、おトキの視点から見ると、そのようであってもいいかなと思える。おトキの視点では、東京帝国大学で英文学を講義するヘブンさんの姿が見えていなくてもかまわない、それよりも、大学に、「フロッグコート」を着ていくかどうかの方が心配、これはそうかな思ってしまう。

その他、いろいろとあるが、最後はこれぐらいで終わりにしておきたい。

2026年3月28日記

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