ねほりんぱほりん「整形を繰り返す人・前編」2025-10-15

2025年10月15日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 整形を繰り返す人・前編

私個人としては、整形美容にはなんの関心もないのだが、世の中で大きなビジネスになっていることは、知っている。2020年からの、COVID-19パンデミックのとき、全国的に医療従事者の人手不足ということが言われながらも、美容整形のクリニックのCMは普通に流れていた。どんなビジネスをしようと、それは今の社会としては自由だから、別に悪いということは絶対にないのだが、美容整形でもうけるよりも、(もうからなくてもいいから)普通の病院の業務の手助けをしたい、と思うような医師や看護師のことが話題になってもいいかと思うが、私の見てきたかぎりでは、そういう事例はなかったようである。また、最近では、医学部を出て医師の国家試験に受かって、すぐに美容整形の仕事をするようになる医師が増えてきたことが、問題になっていたりもする。その一方で、外科医の不足ということも言われている。

人間の顔は、そのままで十分に魅力的なのである……ということを感じるようになるのは、私の経験からすると、やはりある程度、年齢を重ねてからのことになるかと感じている。

(もう憶えていない人がほとんどであろうが)昔のフジカラーのCMで、美人、そうでない人……というのがあったが、こんなCMは、今では放送できないだろう。が、世の中の一般的な考え方として、美人、ということがあることは確かなことである。

美容整形というのは、一種のプラセボである面もあるだろう。それをすることによって、自分が変わったという意識が生じる、そのことによって、対人関係などがうまくいくようになる、こういうことはありそうである。

美と身体論、というようなことでは、近代になってからの人間観、美意識、自然観、ということがある。自然のままが最も美しいのであり、その状態にちかづけるために、今の状態に人工的に手を加える……とても矛楯していることなのだが、身の周りにはこういうことがいくつかある。例えば、棚田である。きわめて人工的なものなのだが、日本の原風景として自然のままであるかのような、評価で見ることが多い。

この意味では、化粧、ということも、相反する面がある。化粧していることがはっきり分かる化粧もあれば、化粧していることが分からない、それが素のままの自然の顔であるように見せるという化粧もある。こういう矛楯した意識の中に、人間の身体についての美の感覚というものが、文化的、歴史的に、蓄積されてきたものがあることは、たしかなことである。

美容整形することによって社会的評価が高まる、言いかえると、それができるだけのお金がある人が、社会の中で得をする、ということは、あまり好ましいことではないように思っている。

2025年10月12日記

NHKスペシャル「米価騒乱 揺れる“主食の未来”」2025-10-15

2025年10月15日 當山日出夫

NHKスペシャル 米価騒乱 揺れる“主食の未来”

お米の値段が上がっているのだが、しかし、である、今の日本で、食事ができなくなって飢え死にした、という話しは聞かない。食料としては、十分に足りているということであり、価格が倍以上になったからといって、それで、まったく手に入らなくなったということでもない。

お米の価格の問題と、適正な需給の問題は、関連するがちょっと分けて考えた方がいいかと思える。

何よりも知りたいのは、日本における、エンゲル係数の変化、さらにその中で、お米の占める割合の変化、である。できれば、地域別、社会階層別に、分かるといいのだが、はたしてこういうデータは存在するのだろうか。こういうデータなしで、お米の生産量や需給や価格を議論しても、どうなのだろうかと思う。

かなり昔のことになるが、食管法がなくなるころ、お米の売買が自由になるというころ、NHKでは、農家の人たちと、消費者の人たちを、集めて、スタジオで討論会のような番組を、作っていたことがある。こういう番組があったということを記憶している人は、もうNHKの中にも少ないかもしれない。(私は、お米の通帳、と言われて体験的に知っている世代になる。)

食料安全保障ということであるならば、国内で需要を満たす生産が必要である。ここにおいて、どの程度の規模の生産者、農家が、どれぐらいの数(就業の人口)があって、それぞれが、どのぐらいの量を生産しているのか、その、今後の推移はどうなると予想されるのか。これがまず重要だろう。そして、この推移の予想のパラメータの重要な位置をしめるのが、お米の値段ということになる。だが、番組のなかで、はっきりとこういう観点から論じるということはなかった。

お米の生産は、量が確保できればいいというものだけではない。中山間地の農村が、日本の国土において、自然環境の保全にどのように役立っているのか、という観点も必要になる。治山治水の視点で、水田のある中山間地は、どのようにとらえることができるのだろうか。

さらには、棚田などは、生産コストから考えれば、ほとんど淘汰されてもいいようなものかもしれないが、しかし、観光資源としては価値がある。

では、そのような、中山間地の保全、棚田の保全のコストなどは、お米の値段として、どのようにふくまれることになるのが、妥当なのだろうか。これは、単なる需給関係のマーケットの論理では、決まらないことだろう。

昔、食管法があった時代、消費者の側から言っていたことは、古くて美味しくないお米は要らない、ということだった。今では、新しくて美味しいお米なら、少々高くても買うという時代になっている。その一方で、やはり、より安ければその方がいいということもある。

気候条件に左右される農作物であるから、安定供給と価格の安定のためには、ある程度のストックが必要である。つまり、保存してあった古いお米でも十分である、こういう価値観が広まる必要がある。これは、保存の方法と、ご飯の炊き方(炊飯器の改良)ということで、どうにかなる可能性はある。

もし、今後、お米を作りすぎて価格が暴落しそうになったとき、政府が、どのように介入して、流通と価格を安定化させることができるのか、こういうことの議論を、初めておく必要があるだろう。(農水省では、すでに始めていることなのかとも思うが。)

2025年10月13日記

映像の世紀バタフライエフェクト「ニューヨーク・ニューヨーク」2025-10-15

2025年10月15日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト ニューヨーク・ニューヨーク

はっきりいって、この回は、(私には)あまり面白くなかった。

ニューヨークの都市の歴史を語ることと、アメリカの人種問題を語ることと、ニューヨークタイムズなどのジャーナリズムを語ること、その他、いろんなことがごたごたと並べてあっただけで、では、ニューヨークという都市を見ることによって、何が見えてくるのか、ということがはっきりしなかった。個々のエピソードは、それぞれ興味深いものではあるのだが、全体として、何をいいたいのか分かりにくい。

都市のことを語りながらも、そこに生活する人々の感覚がどんなものだったが、感じられなかったということになるだろうか。それは、貧乏人であっても、お金持ちであっても、あるいは、いろんな国からやってきた移民の人びとであっても、黒人であっても、どういう暮らしをしていたのかが、うかがえないのである。

ニューヨークのセレブがどんなか分かったところで、それで世の中のことが理解できるということにはならないと思う。まあ、こんな人たちがいるとして、勝手にやっててくれればいい、というぐらいである。

ヒトラーの住まいで写した写真は興味深い。写真の不思議さなのだが、写す人と、写される人との関係性、という観点から見て、どういう気持ちで撮ったのだろうか。普通の日本人の感覚だと、ヒトラーの住居の浴槽で風呂に入ろうとは思わないだろうし、ましてや、その場面を写真に写ろうとも思わない、と私は思う。

これが、ハーレムに絞ったり、あるいは、高層ビルに絞ったり、ということであったならば、一般にいわれているような、アメリカとは違ったところが見えてきたのかもしれないと思う。セントラルパークの歴史でも、面白いことがあるかとも思う。ここで起こった出来事をたどるだけでも、いろいろなことがあるだろう。

とはいえ、一番興味深かったのは、最後に出てきたこと。超高層ビルの住居があっても、それは、一部の中国やロシアなどの超富裕層が、投資目的で買っただけで、住んでいる人はいない……ということだろう。人間の住まない、人間の生活のない都市には、魅力があろうはずがない。

2025年10月8日記