BS世界のドキュメンタリー「なぜ父は殺されたのか 少年ジャーナリストが見たケニアの現実」 ― 2025-10-23
2025年10月23日 當山日出夫
「なぜ父は殺されたのか 少年ジャーナリストが見たケニアの現実」
BS世界のドキュメンタリーで放送があったとき、同時に録画したい他の番組と重なっていて、できなかった。ドキュランドへようこそ、でも放送があったので、こちらを録画しておいて見た。
ケニアの広大な自然保護区が私有地であるということを、はじめて知った。イタリア人のお金持ちの女性が手にいれて、そこを自然保護区として管理している。こは、観光の場所にもなっている。殺された父親は、そこでガイドの仕事をしていた。
いろいろと考えるところのある番組である。
ただ、この番組として言いたいことは分かる……気候変動の被害を最も強く受けるのは、それに対する影響の最も小さい人びとである……ということは、たぶんそうなのだろう。(番組の中では言っていなかったが、CO2を最も出している、アメリカや中国の人びとは、その被害の影響を受けることが少ない。)
アフリカのケニアの乾燥ということは、地球温暖化、気候変動、ということで、科学的に実証されているということでいいのだろうか。ここのところが、短絡的であるかなという印象がある。確かに乾燥してしまった大地ということはあるにしても、それは、地球上で繰り返されてきた気候の変化の一つの現象なのか、人間の活動が関与した結果なのか。ここのところは、きちんと考えるべきことだとは思う。だからといって、乾燥してしまった地域のことを、ほっておいていいということではない。
放牧で生活する人々と、農耕で生活する人びと、これらの人びとの利害が、乾燥した大地の上で対立することになる。そして、そこに、自然保護区における野生動物の保護がからんでくると、議論はややこしくなる。
ケニアは、イギリスの殖民地だったところだが、それ以前の生活は、遊牧民と農耕民とは、どのようにおりあいをつけて生活してきたのだろうか。仲よくしてきたのか、あるいは、闘争ということがあったのか。
放牧民と農耕民という対立であったが、宗教的にはどうなのだろうか。少年が通っている学校の教室の中が映っていたが、黒板の上、教室の正面には、十字架があった。(おそらくは、イギリスがもちこんだキリスト教と、現地の人びとの昔からの信仰と、あるいは、イスラムの信仰、これらの複雑にからみあった状況かと思うが、どうなのだろうか。)
放牧の人びとが、自分たちは昔からこうして生活してきたのであり、これからもつづけていきたいだけである……ということを言っていたが、たしかに、そのとおりかなとは思う。だが、近代の国民国家の枠組みとしては、人間は、どこかに定住するものである、という思いこみのようなものによってなりたっていることもある。放牧はいいとしても、国境を越えて自由に行ったり来たりということになると、問題はややこしくなるはずである。
地球温暖化の問題は、放牧のみならず、農耕にも、そして、野生生物にも、影響を与えることになる。こういう現実は、知られるべきことだと思う。
結局、父親を殺した犯人は分からないということだったのだが、ケニアという国の事情としては、いたしかたのないことなのかもしれない。
放牧の人びとの人口が急激に増えたとあったが、おそらくこれは、昔ながらの生活をまもりながら(子どもはたくさん産む)、同時に、医療の普及の結果として、乳幼児死亡率の減少ということがあった結果、こういうことかなと思って見ていたのだが、どうなのだろうか。だが、こういうことも、これからは多くの世界の地域のように、人口減少という方向に向かうかもしれない。いくぶん先のことにはなるかもしれないが。
2025年10月16日記
「なぜ父は殺されたのか 少年ジャーナリストが見たケニアの現実」
BS世界のドキュメンタリーで放送があったとき、同時に録画したい他の番組と重なっていて、できなかった。ドキュランドへようこそ、でも放送があったので、こちらを録画しておいて見た。
ケニアの広大な自然保護区が私有地であるということを、はじめて知った。イタリア人のお金持ちの女性が手にいれて、そこを自然保護区として管理している。こは、観光の場所にもなっている。殺された父親は、そこでガイドの仕事をしていた。
いろいろと考えるところのある番組である。
ただ、この番組として言いたいことは分かる……気候変動の被害を最も強く受けるのは、それに対する影響の最も小さい人びとである……ということは、たぶんそうなのだろう。(番組の中では言っていなかったが、CO2を最も出している、アメリカや中国の人びとは、その被害の影響を受けることが少ない。)
アフリカのケニアの乾燥ということは、地球温暖化、気候変動、ということで、科学的に実証されているということでいいのだろうか。ここのところが、短絡的であるかなという印象がある。確かに乾燥してしまった大地ということはあるにしても、それは、地球上で繰り返されてきた気候の変化の一つの現象なのか、人間の活動が関与した結果なのか。ここのところは、きちんと考えるべきことだとは思う。だからといって、乾燥してしまった地域のことを、ほっておいていいということではない。
放牧で生活する人々と、農耕で生活する人びと、これらの人びとの利害が、乾燥した大地の上で対立することになる。そして、そこに、自然保護区における野生動物の保護がからんでくると、議論はややこしくなる。
ケニアは、イギリスの殖民地だったところだが、それ以前の生活は、遊牧民と農耕民とは、どのようにおりあいをつけて生活してきたのだろうか。仲よくしてきたのか、あるいは、闘争ということがあったのか。
放牧民と農耕民という対立であったが、宗教的にはどうなのだろうか。少年が通っている学校の教室の中が映っていたが、黒板の上、教室の正面には、十字架があった。(おそらくは、イギリスがもちこんだキリスト教と、現地の人びとの昔からの信仰と、あるいは、イスラムの信仰、これらの複雑にからみあった状況かと思うが、どうなのだろうか。)
放牧の人びとが、自分たちは昔からこうして生活してきたのであり、これからもつづけていきたいだけである……ということを言っていたが、たしかに、そのとおりかなとは思う。だが、近代の国民国家の枠組みとしては、人間は、どこかに定住するものである、という思いこみのようなものによってなりたっていることもある。放牧はいいとしても、国境を越えて自由に行ったり来たりということになると、問題はややこしくなるはずである。
地球温暖化の問題は、放牧のみならず、農耕にも、そして、野生生物にも、影響を与えることになる。こういう現実は、知られるべきことだと思う。
結局、父親を殺した犯人は分からないということだったのだが、ケニアという国の事情としては、いたしかたのないことなのかもしれない。
放牧の人びとの人口が急激に増えたとあったが、おそらくこれは、昔ながらの生活をまもりながら(子どもはたくさん産む)、同時に、医療の普及の結果として、乳幼児死亡率の減少ということがあった結果、こういうことかなと思って見ていたのだが、どうなのだろうか。だが、こういうことも、これからは多くの世界の地域のように、人口減少という方向に向かうかもしれない。いくぶん先のことにはなるかもしれないが。
2025年10月16日記
芸能きわみ堂「掘って探って!忠臣蔵(1)~史実と芝居のギャップ~」 ― 2025-10-23
2025年10月23日 當山日出夫
芸能きわみ堂 掘って探って!忠臣蔵(1)~史実と芝居のギャップ~
ヤボなことを考えるものだと自分でも思うのだが、書いておくことにする。
この番組にケチをつける気持ちはまったくない。古典芸能を分かりやすく解説して見せるという点では、とてもよくできた番組であり、貴重であると思っている。また、忠臣蔵が、日本の芸能史において、きわめて重要な作品であることはいうまでもない。こういうことを言ったうえで、野暮といわれるのは承知で、あえて書くのだが、私は、忠臣蔵が嫌いである。いや、忠臣蔵をただただ愛好する庶民の心性について、批判的でありたいと思っている。
目的が正しければ、その手段が違法なものであっても許される……この考え方には、どうしても最後まで納得できないものがある。
昭和にはいってからの、五・一五事件の犯行におよんだ軍人たちに対する、一般の庶民、大衆、国民、市民、こういう人びとの反応はどうだったのか、歴史の常識である。減刑、助命嘆願が殺到した。こういう歴史の結果はいうまでもない。歴史の結果の責任を言いたいのではない。一般の人びとというのは、そういうものである、という認識が必要なのである。
手段を選ばないからこそ、革命ということが可能であるし、歴史は動く。全面的に否定されるべきだとは思わないのだが、目的と手段、その適法性、ということについては、あくまでも冷めた目で見ることが必要だと、私は思っている。
赤穂浪士たちを、義士としてたたえる心情は、これはこれとして、人間的なものなのである。だが、こういう気持ちが社会的に暴走してはいけない、ということも、同時に考えておくべきことである。
丸山眞男の『日本政治思想史研究』で論じられたことの一つは、赤穂義士たちの行為は正義であったのかどうか、それに対して、公儀(幕府)としてはどう対処すべきであったのか、ということの議論であった。吉良上野介を討ち取ったのは、犯罪なのか、義挙なのか。元禄赤穂事件の起こったときから、論争となったことであり、おそらく、この議論は、21世紀の今になっても、まだだ決着を見ているとはいいがたいだろう。いや、ずっと議論となり続けることかとも思うし、その一方で、義挙として賞賛する気持ちも、続いていくことだろう。
忠臣蔵を芸能として楽しむことは貴重な文化である。それと同時に、忠臣蔵の政治学、社会史、という視点を持ち続けていくべきだとも思うのである。また、喧嘩両成敗という法理の歴史と、いまの人びとの法と正義についての感覚ということも、忘れてはならないことである。(喧嘩両成敗ということが普遍的に妥当なら、イスラエルもハマスも両方とも悪いということで、決着するのだが、今の国際社会で通用しないことだろう。それぞれの立場や言い分は認めるとしても、正義にもとづく判断は、また別である。そして、その正義も、歴史の中で普遍的といえるかどうかも、また考えるべきことである。)
2025年10月21日記
芸能きわみ堂 掘って探って!忠臣蔵(1)~史実と芝居のギャップ~
ヤボなことを考えるものだと自分でも思うのだが、書いておくことにする。
この番組にケチをつける気持ちはまったくない。古典芸能を分かりやすく解説して見せるという点では、とてもよくできた番組であり、貴重であると思っている。また、忠臣蔵が、日本の芸能史において、きわめて重要な作品であることはいうまでもない。こういうことを言ったうえで、野暮といわれるのは承知で、あえて書くのだが、私は、忠臣蔵が嫌いである。いや、忠臣蔵をただただ愛好する庶民の心性について、批判的でありたいと思っている。
目的が正しければ、その手段が違法なものであっても許される……この考え方には、どうしても最後まで納得できないものがある。
昭和にはいってからの、五・一五事件の犯行におよんだ軍人たちに対する、一般の庶民、大衆、国民、市民、こういう人びとの反応はどうだったのか、歴史の常識である。減刑、助命嘆願が殺到した。こういう歴史の結果はいうまでもない。歴史の結果の責任を言いたいのではない。一般の人びとというのは、そういうものである、という認識が必要なのである。
手段を選ばないからこそ、革命ということが可能であるし、歴史は動く。全面的に否定されるべきだとは思わないのだが、目的と手段、その適法性、ということについては、あくまでも冷めた目で見ることが必要だと、私は思っている。
赤穂浪士たちを、義士としてたたえる心情は、これはこれとして、人間的なものなのである。だが、こういう気持ちが社会的に暴走してはいけない、ということも、同時に考えておくべきことである。
丸山眞男の『日本政治思想史研究』で論じられたことの一つは、赤穂義士たちの行為は正義であったのかどうか、それに対して、公儀(幕府)としてはどう対処すべきであったのか、ということの議論であった。吉良上野介を討ち取ったのは、犯罪なのか、義挙なのか。元禄赤穂事件の起こったときから、論争となったことであり、おそらく、この議論は、21世紀の今になっても、まだだ決着を見ているとはいいがたいだろう。いや、ずっと議論となり続けることかとも思うし、その一方で、義挙として賞賛する気持ちも、続いていくことだろう。
忠臣蔵を芸能として楽しむことは貴重な文化である。それと同時に、忠臣蔵の政治学、社会史、という視点を持ち続けていくべきだとも思うのである。また、喧嘩両成敗という法理の歴史と、いまの人びとの法と正義についての感覚ということも、忘れてはならないことである。(喧嘩両成敗ということが普遍的に妥当なら、イスラエルもハマスも両方とも悪いということで、決着するのだが、今の国際社会で通用しないことだろう。それぞれの立場や言い分は認めるとしても、正義にもとづく判断は、また別である。そして、その正義も、歴史の中で普遍的といえるかどうかも、また考えるべきことである。)
2025年10月21日記
ねほりんぱほりん「整形を繰り返す人・後編」 ― 2025-10-23
2025年10月23日 當山日出夫
ねほりんぱほりん 整形を繰り返す人・後編
こういう番組に登場してくるような人だから、整形に多額の費用がかかっていても、生活がなんとかなっている。あるいは、そのおかげで、前向きに生きることができるようになっている、ということなのだと思う。費用を捻出するために風俗で働く、要するに体を売る、というのは、まだ許容の範囲といっていいだろう。
おそらく、背景にあることとしては、膨大な借金をかかえて自己破産してしまった人とか(これならまだいい方かもしれない)、手術が失敗して絶望的な気持ちになってしまった人とか、いろんな悲惨な人生があるのかもしれないと思うのだが、はたしてどうだろうか。
ルッキズムというと、今の時代で、ことあるごとに、左派的ないわゆるリベラルを自称する人たちが、猛然と攻撃することになっている。だが、人間の社会から、見た目で判断する、という部分を完全に排除することは出来ないだろう。いや、見た目について、何を評価するかということの歴史こそ文化であるのかもしれない。今の時代の美人、美男の基準が、普遍的なものであるわけではない。おそらく、平安時代の貴族の美人、美男が、現代に現れたら、大部分の人は幻滅するにちがいない。だが、その一方で、人間に普遍的な美ということは有りうる。
つきなみないいかたになるが、見た目は大事だが、見た目だけで判断してはいけない、ということぐらいであろうか。
2025年10月20日記
ねほりんぱほりん 整形を繰り返す人・後編
こういう番組に登場してくるような人だから、整形に多額の費用がかかっていても、生活がなんとかなっている。あるいは、そのおかげで、前向きに生きることができるようになっている、ということなのだと思う。費用を捻出するために風俗で働く、要するに体を売る、というのは、まだ許容の範囲といっていいだろう。
おそらく、背景にあることとしては、膨大な借金をかかえて自己破産してしまった人とか(これならまだいい方かもしれない)、手術が失敗して絶望的な気持ちになってしまった人とか、いろんな悲惨な人生があるのかもしれないと思うのだが、はたしてどうだろうか。
ルッキズムというと、今の時代で、ことあるごとに、左派的ないわゆるリベラルを自称する人たちが、猛然と攻撃することになっている。だが、人間の社会から、見た目で判断する、という部分を完全に排除することは出来ないだろう。いや、見た目について、何を評価するかということの歴史こそ文化であるのかもしれない。今の時代の美人、美男の基準が、普遍的なものであるわけではない。おそらく、平安時代の貴族の美人、美男が、現代に現れたら、大部分の人は幻滅するにちがいない。だが、その一方で、人間に普遍的な美ということは有りうる。
つきなみないいかたになるが、見た目は大事だが、見た目だけで判断してはいけない、ということぐらいであろうか。
2025年10月20日記
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