「78年目の和解 ~サンダカン死の行進・遺族の軌跡~」2025-12-01

2025年12月1日 當山日出夫

「78年目の和解 ~サンダカン死の行進・遺族の軌跡~」

かなり昔のことになるが、『敗戦後論』(加藤典洋)をめぐる議論が、なんにも終わっていないと感じるところがある。このときの、加藤典洋と高橋哲哉の論争は、すれちがっていたが、そのすれ違いの意味を、いまだに理解して克服できていないのが今の日本だろう。

この回についても、少数意見ということになると思うが、思うところを書いておく。

まず、軍人が上官の命令にしたがうのは当たり前のことで、それをとがめることは、基本的にあってはならない。いかに非人道的な命令であってもしたがわなければならない。それがなければ、軍というものの秩序が崩壊してしまう。それは、より大きな悲劇を生むことになる。(とはいえ、自分の良心にしたがって、抗命するという選択肢をまったく排除するということではない。だが、その場合でも、結局は、他の軍人に命令が下されて実行されるだけのことである。)

BC級戦犯の裁判が、どのようにおこなわれたかについては、いまだに多くの疑問が残っているはずである。この事件の場合、正当に裁判がおこなわれたという記録が残っているのだろうか。

いうまでもないことだが、大東亜戦争・太平洋戦争の終盤においては、多くの戦死者が、戦病死、実際には餓死というべき、であったことは、広く知られていることだと思う。そのうえで、昭和20年(1945)になってからのことだから、きわめて戦況は悪化しているなかのでのことで、この時期の、戦争の全般的な状況ということを、説明しておくべきだったろう。

謝罪ではなく、何がおこったことなのか、事実の記録を残すこと……このことに、最も意味がある……私としては、このように思う。その事実から、何を読みとるかは、それぞれの時代の状況、その国の人びとのおかれた環境によることになるが。

この観点からして、この番組は、事実として何がおこったことなのか、それについてどのような記録が残っているのか(日本軍の記録であり、BC級戦犯の裁判の記録であり)、体験者がどのようなことを語っていたのか、それが親族などの人びとにどう伝承されてきているのか、(えてして、過去におこった災厄についての記憶は、いわゆる語り部によって改変されたりするものであるが)、これらのことが、番組の構成としてゴッチャになっている。強いていえば、きちんとした史料批判がなされていない。これは、ドキュメンタリー番組として、致命的な欠点であるというべきである。(このことについてトークの部分で誰も批判的なことを言わないでいるというのも、私にいわせれば変である。)

よくいわれることだと思うが、人びとは、戦争について語るとき、直近に体験した戦争について語ることになる。日本の場合は、太平洋戦争・大東亜戦争ということになる。そして、オーストラリアについても、ほぼ同様ということになるのだろう。これが、ウクライナの人びとだったらどうか、朝鮮半島の人びとだったらどうか、ベトナムの人びとだったらどうか、ということを、考えてみる必要もある。太平洋戦争・大東亜戦争だけが、かつてあった戦争ではない……このごく当たり前のことが、忘れられがちである。いわゆる先の大戦について語っただけで、戦争について語ることの全てであるかのように思いこんではいけない。

番組の中で言っていたことだが、被害者の側の意識としては、忘れることは困難である。これは、日本における、原爆の被害であったり、都市部への無差別爆撃であったり、について日本の人びとがいだく感情のことがある。それと同様に、戦禍の犠牲になった人びとは、容易に忘れることのできないことがある。だから、どうこうということではなく、まず、人間とはそういうものだということを、認めることが重要である。だから、記録は残さなければならないし、そこには、史料批判の目が必要である。

記録を残すというが、このときに考えなければならないことは、何を史料として残す価値のあることと認定するか、ということが、また、歴史的な文脈によって変わるものである、ということである。(たいていの場合、自分に都合のいい史料しか残そうとしないものである。)

いまどきのことばでいうならば、物語をどう共有するかということの問題であるが、それは、その人びとにとっては重要な意味をもつものであっても、絶対的なものではないし、立場によって変わり、また、歴史的にも変化していくものである。かりに平和が絶対的な価値をもつものだとしても、それについてどう語るかは、可変的であることは認めなければならないだろう。

今の御時世でこういうことを言うと怒られそうだが……もし、中国が南シナ海、東シナ海で戦争を起こして、それに日本とオーストラリアとが共同して戦うというようなことがあるとしたら、これは、新たな物語(敵ではなく戦友の物語)として、かつての太平洋戦争・大東亜戦争の物語の上に、上書きされていくことになるだろう。

2025年11月30日記

『八重の桜』「襄のプロポーズ」2025-12-01

2025年12月1日 當山日出夫

『八重の桜』「襄のプロポーズ」

新島襄も、ずいぶんと強引な人物である。八重に結婚を申し込み、京都にキリスト教の学校を作ろうとする。

明治のはじめのころの京都では、たしかに同志社の設立ということがあった。ドラマの中では描いていないが、街中に小学校が出来たということもある。これは、京都の市民の手によって作られたものである、というのが一般の理解としていいだろう。それから、(ドラマの中では悪者として描かれていたが)仏教のお寺なども、いくつか学校を作っている。現在、京都にある仏教系の大学の多くは、明治のころにその起源をもつはずである。明治になって、仏教の世界でも、近代的な教育に歩み始めた。

ただ、日本の近代の仏教史という分野が、これまであまり研究されてこなかったということがある。清沢満之などの一部の人物をのぞいて、大きく思想史や宗教師、教育史の中で研究されてきてはいないだろう。近代の宗教というと、どうしても国家神道にふれざるをえず、それが、昭和の時代だと、なんとなくやりづらいということがあった。これも、昭和が終わり、平成から令和になって、近代の宗教史を総合的に考えるという動きが大きくなってきたかと思っている。

明治8年というころだと、まだまだそれまでのキリスト教禁教の名残が社会の中に残っていた時代だともいえよう。しかし、意外と新しいもの好きな京都の街で、ミッションスクールが出来たということも、また事実である。

このドラマを見るのは二度目であるが、斉藤一(藤田五郎)が、こういう役どころで出ていたということを、改めて思ったことになる。まあ、新撰組の生き残りというと、斉藤一と、永倉新八ということになるのだろうが。

明治維新の物語を、薩摩や長州ではない視点から描くという意味では、このドラマは新鮮なものだったことになる。とはいえ、やはり西郷隆盛などは、きわだった人格者として描かざるをえないということはあるかと感じるが。(別に西郷隆盛を悪く描くべきだとも思わないけれど。)

2025年11月30日記

『べらぼう』「曽我祭の変」2025-12-01

2025年12月1日 當山日出夫

『べらぼう』「曽我祭の変」

このドラマの企画の段階で、写楽をどう描くのかということを考えたと思うのだが、最終的に、写楽をこのような形にするということで、これまでのストーリーがあったと考えるべきだろうか。それにしては、ちょっと終盤にきて無理筋なところがあるかと思えてならない。

写楽は役者絵で世に出た。だが、これまでの『べらぼう』では、芝居のことがほとんど出てきていない。歌舞伎の俳優が、登場してきていないし、また、役者絵のことも大きくあつかわれたということもない。

ドラマの前半は吉原を舞台にした展開であった。ここで、番組制作のコストを使い果たしてしまったのかとも、考えてみたくなる。吉原は、確かに、豪勢に作ってあった。これと同じようにとまではいわないまでも、江戸時代の芝居のことを、芝居小屋のセットを作って、歌舞伎俳優とはこんな人間で、それを江戸市中の人びとは、どんなふうに見ていたのか、ということがあってよかった。

そうでなければ、写楽の役者絵の革新性が理解できない。写楽の絵は、現代の我々には美術的に価値のあるものであるが、同時代には、かならずしも評価されたということではない。(西洋の人びとの再評価をうけるまで、写楽の絵は、ゴミであった。)

役者という人物がいて、それが芝居の中で役を演じる、その二重性を、それぞれの個性の表現として描いたことになるのだが、こういう人物の個性を絵画的に表現する、それも大首絵で、ということの斬新さと、それに描かれた役者がどう感じたのか、一般の観客であった人びとがどう思ったのか、このあたりのことが、なんとかこの回の中につめこんであったとことになるのだが、かなり無理をしていると感じるところでもある。これまでのドラマの流れの延長として、自然に感じとれるという作り方にはなっていない。

この写楽のことと、一橋治済が、実は時代の黒幕として、本当は悪いやつだったということが、(私の見るかぎりの印象ということになるが)今ひとつ、かみ合っているとは感じられない。これに源内のことを、さらにからめるのは、よけいややこしくなるだけだと思える。

少し前の作品になるが、『鎌倉殿の13人』は、権力者の孤独と自滅という筋があって、それが、後半になればなるほどはっきりと感じとれるように作ってあったので、まあなるほどなあと思って見ることができた。

『べらぼう』では、一貫してこれを描きたいというものは、いったい何なのだろうか。もしエンタテイメント、娯楽、遊び、ということを描きたいなら、先に書いたように、歌舞伎の世界などは、もっと積極的に描いてきていいはずである。悪所といえば、吉原、芝居、それから、博打であった時代である。博徒など、出てきていてよかったし、また、上層の町人の遊びとして、俳諧などは欠かすことができないものでもあろう。吉原と浮世絵と戯作だけで、一年間のドラマを作るというのが、ちょっと無理だったのではないかという気がしてならない。

また、このドラマの中には、時代の流れを、超越的な俯瞰的な視点で見る人物が存在しない。田沼意次の時代から、松平定信の時代まで、いや、それ以前の神君家康公の時代からの江戸の政治と文化と人びとの生活感覚を語り、さらに、その後の幕末にいたるまでを予見するような、視点人物がいてよかったと思う。それは、裏店の老人でもいい、どこかの商家のご隠居でもいい、あるいは、市井の漢学の師匠でも、本居宣長のような人物でもよいのだが、なにかしら超越的な視点から見ることがあってこそ、べらぼうな時代をべらぼうに生きた蔦重が、どんな人間であったか描くことができるのではないかと、私などは思うことになる。

エンタテイメントとはどんなものなのかという筋があるとしても、それを描くことが、エンタテイメントして、全体として、今ひとつ分かりにくい、共感しにくいものになっていると思える。だが、個々の回を見ると、演出はとても凝っているし、役者さんたちの演技もいいし、映像的にも非常にすばらしいと感じるところが多々あることは、確かであるのだが。

2025年11月30日記