3か月でマスタースする古代文明「(9)オセアニア 海を渡った人類と謎の巨石」 ― 2025-12-04
2025年12月4日 當山日出夫
3か月でマスターする古代文明 (9)オセアニア 海を渡った人類と謎の巨石
オーストロネシア語族、ということばを久しぶりに耳にした。
日本語の歴史を勉強するとなると、私の学生のころまでは、日本語の起源はどこから来たのか、というところから説きおこすことが普通だった。南方から来たのか、北の方の大陸から来たのか、いろんな説があった。それも、大野晋のタミール語説が出てからというもの、日本語学の研究分野で、日本語の起源論は、そう大きなテーマではなくなってきたということがある。
その一方で、日本人はどこから来たのかという人類史的な関心の方がメインになってきている。
考古学という学問分野は、言語ということについて、そう重きを置かないということを感じている。これまでのこの番組でも、文字を書いた資料(史料)があっても、たいしたことは書いてないだろう、ということが言われることがあった。
しかし、言語研究の立場からすると、言語が文字に書かれるということは、大きな飛躍であるし、それが何語を書いたものなのか、どのような文字を使っているのか、重要な研究課題である。その言語と文字がどのような人びとに使われるものであったのか、範囲や時代を考えることになる。
太平洋の島々の文化・文明を、ひとくくりにするのに、言語がどれほどの意味があるのか、ということは、あらためて考えるべきことだろう。言語の系譜と、人類史ということは、かならずしも重なるものではないと考えるのが、今のおおかたの言語研究者であるかと思っている。
この回の内容は、分からないことだらけである。~~と考えられる、の連発であった。学問的に分からないことがあるなら、分からないというのが、専門家の矜恃であると思っているのだが、こういう番組では、そういうわけにはいかないらしい。
だが、太平洋の島々に人びとが広がっていったプロセスは、非常に興味深いものがある。船を作る技術、その材料となる木材など、航海の技術、それから、水平線の向こうに行ってみようという気持ちはいったい何だったのか、ということ。
現在の太平洋の島々に住む人びとについての、民族学的な研究から、多くの知見を得ることができるかと思うが、そうはいっても、厳密に学問的には、ただ想像してみることしかできない、ということはあることになる。
2025年12月3日記
3か月でマスターする古代文明 (9)オセアニア 海を渡った人類と謎の巨石
オーストロネシア語族、ということばを久しぶりに耳にした。
日本語の歴史を勉強するとなると、私の学生のころまでは、日本語の起源はどこから来たのか、というところから説きおこすことが普通だった。南方から来たのか、北の方の大陸から来たのか、いろんな説があった。それも、大野晋のタミール語説が出てからというもの、日本語学の研究分野で、日本語の起源論は、そう大きなテーマではなくなってきたということがある。
その一方で、日本人はどこから来たのかという人類史的な関心の方がメインになってきている。
考古学という学問分野は、言語ということについて、そう重きを置かないということを感じている。これまでのこの番組でも、文字を書いた資料(史料)があっても、たいしたことは書いてないだろう、ということが言われることがあった。
しかし、言語研究の立場からすると、言語が文字に書かれるということは、大きな飛躍であるし、それが何語を書いたものなのか、どのような文字を使っているのか、重要な研究課題である。その言語と文字がどのような人びとに使われるものであったのか、範囲や時代を考えることになる。
太平洋の島々の文化・文明を、ひとくくりにするのに、言語がどれほどの意味があるのか、ということは、あらためて考えるべきことだろう。言語の系譜と、人類史ということは、かならずしも重なるものではないと考えるのが、今のおおかたの言語研究者であるかと思っている。
この回の内容は、分からないことだらけである。~~と考えられる、の連発であった。学問的に分からないことがあるなら、分からないというのが、専門家の矜恃であると思っているのだが、こういう番組では、そういうわけにはいかないらしい。
だが、太平洋の島々に人びとが広がっていったプロセスは、非常に興味深いものがある。船を作る技術、その材料となる木材など、航海の技術、それから、水平線の向こうに行ってみようという気持ちはいったい何だったのか、ということ。
現在の太平洋の島々に住む人びとについての、民族学的な研究から、多くの知見を得ることができるかと思うが、そうはいっても、厳密に学問的には、ただ想像してみることしかできない、ということはあることになる。
2025年12月3日記
BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」 ― 2025-12-04
2025年12月4日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」
再放送を録画しておいて見た。今のNHKONEのHPでは、いつの放送か確認できないみたいなのだが、オリジナルは、2024年、イギリスである。
トランプ大統領が就任してすぐに、グリーンランドをアメリカのものにする、ということを言い出して、日本のいわゆるリベラルと自称する人たちから、冷笑をあびせられていた。そういう人たちにとっては、誇大妄想としか思えなかったのだろう。
だが、私は、このニュースを非常に意味のあるものとして見ていた。一番興味深かったのは、グリーンランドを領有するデンマークの首相が、即座に拒否しなかったことである。普通なら、とんでもないこととにべもなくはねつけることのように思えることかもしれない。しかし、デンマーク首相は、グリーンランドは自治領であり、それはグリーンランドの人びとが決めることだ、という意味の発言をしていた。
トランプ大統領なりの乱暴な表現であったかと思うが、しかし、ことの流れとしては、アメリカは、これから北極海に対する軍事的なプレゼンスを強めていく、そのためには、グリーンランドが重要な戦略的な場所になる、これからこの地域への関与を強める……こういうことの意志表明だととれば、非常に納得のいくことである。(このことが理解できなかった、今の日本の、いわゆるリベラルを自称する人たちは、地球儀を持っていないらしい。)
ロシアのウクライナ侵攻が、世界の政治の地図を塗り替えた。そして、北極海が、将来において、新たな地政学的に、重要な意味を持つようになる。北極海航路、水産資源、レアアース、どれをとっても、国際秩序の再編をせまる問題である。
その原因になっているのが、地球温暖化による北極海の氷の減少である。
特に北欧の国々が、新たな対ロシア、北極海の安全保障の最前線に位置することになり、それとNATOが密接にかかわっている。軍事的には、常識的なことだと思う。
番組の中で、中国も、北極海への権益を主張していると言っていた。これは、重要なことである。中国が北極海に出ようとするならば、まず太平洋に出なければならないが、そこには日本がある。
今は、いわゆる台湾有事をめぐって議論がさかんであるが、それよりも、もう少し先のことを考えるならば、中国の北極海への進出と権益の主張に、日本がどうかかわるのか、ということがあり、それを視野にいれて、いわゆる台湾有事のことも考えられねばならないことになる。
日本で、原子力潜水艦の保有が話題になりつつあるが、それは、台湾周辺、東シナ海よりも、北極海を念頭に考えることなのだろうと、私は思っている。空母を北極海で運用するのは容易ではない、原子力潜水艦が重要な戦略的、戦術的な意味を持つことになるだろう。
番組の中で、日本への言及は一言もなかった。しかし、北極海の安全保障ということを考えるならば、日本とNATOのとの連携は、必須ということになる。おそらく水面下では、この動きはあるにちがいないが。
もちろん、日本のインフラとして、周辺の海底ケーブルの防衛は、何より重要である。
ロシアの北極海への覇権について、警鐘を鳴らしていたのは、小泉悠であるが、このごろでは、テレビなどで、このことについて語ることは無くなっているようである。あるいは、それだけ、事態が逼迫している(安易にコメントできない)ことなのかと、思うのであるが。
なお、NHKは、アメリカ領であるセントローレンス島を取材した番組を作っている。表向きは、現地に居住する先住民の人たちの生活のドキュメンタリーということであったが、こととしだいによっては、ここは、アメリカとロシアの、北極海の覇権をめぐる最前線基地になる。それを見こして、取材のカメラがはいったということなのだろうと思っている。
2025年11月29日記
BS世界のドキュメンタリー「北極が溶けるとき 温暖化が招く新たな対立」
再放送を録画しておいて見た。今のNHKONEのHPでは、いつの放送か確認できないみたいなのだが、オリジナルは、2024年、イギリスである。
トランプ大統領が就任してすぐに、グリーンランドをアメリカのものにする、ということを言い出して、日本のいわゆるリベラルと自称する人たちから、冷笑をあびせられていた。そういう人たちにとっては、誇大妄想としか思えなかったのだろう。
だが、私は、このニュースを非常に意味のあるものとして見ていた。一番興味深かったのは、グリーンランドを領有するデンマークの首相が、即座に拒否しなかったことである。普通なら、とんでもないこととにべもなくはねつけることのように思えることかもしれない。しかし、デンマーク首相は、グリーンランドは自治領であり、それはグリーンランドの人びとが決めることだ、という意味の発言をしていた。
トランプ大統領なりの乱暴な表現であったかと思うが、しかし、ことの流れとしては、アメリカは、これから北極海に対する軍事的なプレゼンスを強めていく、そのためには、グリーンランドが重要な戦略的な場所になる、これからこの地域への関与を強める……こういうことの意志表明だととれば、非常に納得のいくことである。(このことが理解できなかった、今の日本の、いわゆるリベラルを自称する人たちは、地球儀を持っていないらしい。)
ロシアのウクライナ侵攻が、世界の政治の地図を塗り替えた。そして、北極海が、将来において、新たな地政学的に、重要な意味を持つようになる。北極海航路、水産資源、レアアース、どれをとっても、国際秩序の再編をせまる問題である。
その原因になっているのが、地球温暖化による北極海の氷の減少である。
特に北欧の国々が、新たな対ロシア、北極海の安全保障の最前線に位置することになり、それとNATOが密接にかかわっている。軍事的には、常識的なことだと思う。
番組の中で、中国も、北極海への権益を主張していると言っていた。これは、重要なことである。中国が北極海に出ようとするならば、まず太平洋に出なければならないが、そこには日本がある。
今は、いわゆる台湾有事をめぐって議論がさかんであるが、それよりも、もう少し先のことを考えるならば、中国の北極海への進出と権益の主張に、日本がどうかかわるのか、ということがあり、それを視野にいれて、いわゆる台湾有事のことも考えられねばならないことになる。
日本で、原子力潜水艦の保有が話題になりつつあるが、それは、台湾周辺、東シナ海よりも、北極海を念頭に考えることなのだろうと、私は思っている。空母を北極海で運用するのは容易ではない、原子力潜水艦が重要な戦略的、戦術的な意味を持つことになるだろう。
番組の中で、日本への言及は一言もなかった。しかし、北極海の安全保障ということを考えるならば、日本とNATOのとの連携は、必須ということになる。おそらく水面下では、この動きはあるにちがいないが。
もちろん、日本のインフラとして、周辺の海底ケーブルの防衛は、何より重要である。
ロシアの北極海への覇権について、警鐘を鳴らしていたのは、小泉悠であるが、このごろでは、テレビなどで、このことについて語ることは無くなっているようである。あるいは、それだけ、事態が逼迫している(安易にコメントできない)ことなのかと、思うのであるが。
なお、NHKは、アメリカ領であるセントローレンス島を取材した番組を作っている。表向きは、現地に居住する先住民の人たちの生活のドキュメンタリーということであったが、こととしだいによっては、ここは、アメリカとロシアの、北極海の覇権をめぐる最前線基地になる。それを見こして、取材のカメラがはいったということなのだろうと思っている。
2025年11月29日記
未解決事件「File.08 日本赤軍 vs 日本警察 知られざる攻防 前編」 ― 2025-12-04
2025年12月4日 當山日出夫
未解決事件 File.08 日本赤軍 vs 日本警察 知られざる攻防 前編
テロリストとは交渉しない……これが、今の世界の常識だと思っている。
日本赤軍のことについては、私は、そのニュースが記憶のうちにある世代ということになる。重信房子が捕まったというニュースを見たときは、正直にいえば、まだ生きていたのか、とおどろいたぐらいである。
今の時代に、日本赤軍のことを番組に作るとすると、こんな感じになるのだろうと思って見ていた。
60年安保の時代をふりかえれば、その運動に加わっていた学生たちに対して、共感するところが、警察の側にもあった、ということは、よく語られることだと思っている。時代的背景を考えるならば、安保闘争は、それなりの存在意義があったとはいえるだろう。
だが、その後の歴史を見ると、安保闘争の理想とはかけはなれた方向に、社会が変わっていき(はっきりいえば、日本が豊かになった)、世界の状況も変わっていった(東西冷戦があり、それが終わった)、こういう変化のなかで、革命ということを夢みることが、どれほど無謀だったかと、今からふりかえれば思うことではあるが、このように思う人たちがいたことは、否定できないことである。
テルアビブの事件のとき、犯人の岡本公三が、ブルジョアは殺すとはっきり言っている映像は、今から見れば噴飯物であるにちがいないが、この時代においては、共感する人も少なくなかったかもしれない。
重信房子が日本に帰ってきたとき、それを歓待するということが、日本の一部の人たちの考えであった。左翼系のジャーナリストであったり、であるが。重信房子が日本にもどったということは、ニュースとして価値があるとは思うのだが、それを英雄視するようなことには、私としては、どうしても違和感があった。
法的には、裁判があり、しかるべき刑期を終えた人としては、一般市民として普通にあつかうべきなのである。ことさら重信房子を英雄視することはないとは思うが。逆に、悪逆非道なテロリストとして批難することも、避けるべきことかとも思う。このあたりの判断や感情は、人によってかなり微妙なところがあるだろう。
福田首相のときの、人間の命は地球よりも重い……これが、その後、日本の世界の中でのあり方に、どれほど影響を与えることになったかは、改めて検証する必要があるはずである。少なくとも、日本は、人命をたてにとっておどせば簡単に屈する国と見なされることにつながる。
余計なことを書いておくと……最近の話題でいえば、いわゆる台湾有事というようなことになった場合、人命をたてにとった恫喝ということがありうるだろう。南西諸島の島に、あえて残って、自らが人間の盾になって(それは、ある見方からすれば、勇気ある平和をのぞむ市民の果敢な活動ということになるが)……という事態が起こることが一番懸念されることでもある。そういう人を強制的に排除する(保護する)ための法的整備と手段の確保が、何より急務ということは、容易に考えられる。おそらく核兵器による脅しよりも、効果的(ことをややこしくする)であることはまちがいない。
人命と法秩序ということで番組をしめくくっていた。これは、私に言わせれば、人命という「観念」と、法秩序という「実感」の問題でもある。逆説的なようだが、人間は人命を観念的にしか把握しえないものであり、同時に、今の自分の生きている歴史・社会における秩序(法秩序)は生活の実感として感得するものであるからである。
人命を観念的にとらえているからこそ、それを地球の重さと比較するような、無意味なことになる。一見すると、これは究極の問いであるかのごとくである。人命は、その本人にとっては尊い。ハイジャックされた飛行機に乗っていた人としては、それが実感である。だが、地球の重さと比較するときには、きわめて観念的になっている。生命の価値は、実感でありつつも、同時に、観念でもある。
政治とは、その生命を、数としてとらえ、あるいは、社会的歴史的な文脈でどう位置づけるか、ということについての冷静で冷酷な、そして、実際的な、判断であるしかない。(だから政治が悪いことだということではない。政治とはそういうものだということである。)
本来ならば政治的に無意味な問題の設定を、なにかしら非常に意味のあるようなものにしてしまったということ(その価値は日本国内でしか通用しない)、これは、日本の政治史において、テロリストに屈したということよりも、致命的な失敗であったということになる。
素朴な感情として人命は尊いのである。このことは否定しない。しかし、人命はなぜ尊いと一般的にいえるのか、人命より尊いものがあるとすれば、それは何なのか、について考えてきたのが、人類の文化の歴史ということだとは、思うことでもある。
2025年12月2日記
未解決事件 File.08 日本赤軍 vs 日本警察 知られざる攻防 前編
テロリストとは交渉しない……これが、今の世界の常識だと思っている。
日本赤軍のことについては、私は、そのニュースが記憶のうちにある世代ということになる。重信房子が捕まったというニュースを見たときは、正直にいえば、まだ生きていたのか、とおどろいたぐらいである。
今の時代に、日本赤軍のことを番組に作るとすると、こんな感じになるのだろうと思って見ていた。
60年安保の時代をふりかえれば、その運動に加わっていた学生たちに対して、共感するところが、警察の側にもあった、ということは、よく語られることだと思っている。時代的背景を考えるならば、安保闘争は、それなりの存在意義があったとはいえるだろう。
だが、その後の歴史を見ると、安保闘争の理想とはかけはなれた方向に、社会が変わっていき(はっきりいえば、日本が豊かになった)、世界の状況も変わっていった(東西冷戦があり、それが終わった)、こういう変化のなかで、革命ということを夢みることが、どれほど無謀だったかと、今からふりかえれば思うことではあるが、このように思う人たちがいたことは、否定できないことである。
テルアビブの事件のとき、犯人の岡本公三が、ブルジョアは殺すとはっきり言っている映像は、今から見れば噴飯物であるにちがいないが、この時代においては、共感する人も少なくなかったかもしれない。
重信房子が日本に帰ってきたとき、それを歓待するということが、日本の一部の人たちの考えであった。左翼系のジャーナリストであったり、であるが。重信房子が日本にもどったということは、ニュースとして価値があるとは思うのだが、それを英雄視するようなことには、私としては、どうしても違和感があった。
法的には、裁判があり、しかるべき刑期を終えた人としては、一般市民として普通にあつかうべきなのである。ことさら重信房子を英雄視することはないとは思うが。逆に、悪逆非道なテロリストとして批難することも、避けるべきことかとも思う。このあたりの判断や感情は、人によってかなり微妙なところがあるだろう。
福田首相のときの、人間の命は地球よりも重い……これが、その後、日本の世界の中でのあり方に、どれほど影響を与えることになったかは、改めて検証する必要があるはずである。少なくとも、日本は、人命をたてにとっておどせば簡単に屈する国と見なされることにつながる。
余計なことを書いておくと……最近の話題でいえば、いわゆる台湾有事というようなことになった場合、人命をたてにとった恫喝ということがありうるだろう。南西諸島の島に、あえて残って、自らが人間の盾になって(それは、ある見方からすれば、勇気ある平和をのぞむ市民の果敢な活動ということになるが)……という事態が起こることが一番懸念されることでもある。そういう人を強制的に排除する(保護する)ための法的整備と手段の確保が、何より急務ということは、容易に考えられる。おそらく核兵器による脅しよりも、効果的(ことをややこしくする)であることはまちがいない。
人命と法秩序ということで番組をしめくくっていた。これは、私に言わせれば、人命という「観念」と、法秩序という「実感」の問題でもある。逆説的なようだが、人間は人命を観念的にしか把握しえないものであり、同時に、今の自分の生きている歴史・社会における秩序(法秩序)は生活の実感として感得するものであるからである。
人命を観念的にとらえているからこそ、それを地球の重さと比較するような、無意味なことになる。一見すると、これは究極の問いであるかのごとくである。人命は、その本人にとっては尊い。ハイジャックされた飛行機に乗っていた人としては、それが実感である。だが、地球の重さと比較するときには、きわめて観念的になっている。生命の価値は、実感でありつつも、同時に、観念でもある。
政治とは、その生命を、数としてとらえ、あるいは、社会的歴史的な文脈でどう位置づけるか、ということについての冷静で冷酷な、そして、実際的な、判断であるしかない。(だから政治が悪いことだということではない。政治とはそういうものだということである。)
本来ならば政治的に無意味な問題の設定を、なにかしら非常に意味のあるようなものにしてしまったということ(その価値は日本国内でしか通用しない)、これは、日本の政治史において、テロリストに屈したということよりも、致命的な失敗であったということになる。
素朴な感情として人命は尊いのである。このことは否定しない。しかし、人命はなぜ尊いと一般的にいえるのか、人命より尊いものがあるとすれば、それは何なのか、について考えてきたのが、人類の文化の歴史ということだとは、思うことでもある。
2025年12月2日記
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