サイエンスZERO「昆虫たちの恋リア!?“求愛歌”の不思議」 ― 2026-10-24
2026年10月24日 當山日出夫
サイエンスZERO「昆虫たちの恋リア!?“求愛歌”の不思議」
生物音響学という研究分野になるが、広くは、生物どうしのコミュニケーションのことであり、さらには、生物(動物)にとっての言語とは何か、という問題につながることだとは思う。
見ながら思ったことは、言語の意味とは何か、という問いがある。よく出てくるのがリンゴであるが、リンゴの意味とは何であるか。こういうことを考えることの、一方の極には、神とは何か、正義とは何か、というようなことがあり、その反対の極には、痛いとは何か、熱いとは何か、というようなことがある。だが、もう、今から、言語の意味について考えてみようという気はおこならないでいる。世捨て人として、ただ、なんとなくテレビを見ている。
ちっちゃいコオロギのハマスズも、鳴き続けるのはかなり大変そうである。いろんな説はあるかと思う。ただ、こういうのを見ると、やはり、観測してデータをとることと、それを分析することに、デジタル技術が使えるようになったことのメリットは大きいだろう。むろん、その前に、フィールドでの観察力があってのことであるが。
興味深かったのは、コオロギを飼育している研究室。廊下のドアのガラスを、内側から段ボールで覆って光が入らないようにしてある。窓も黒いカーテンがかかっている。たぶん、室内の、明るさなどをコントロールする必要からだろう。
(だが、今の時代だと、大学の研究室のドアは、ガラス部分があって、外から中が見えるようになっているのが、一般的である。部屋の中で、不適切な行為(?)がおこなわれないように、という昨今の事情からである。先生によっては、中に学生を入れるときは、ドアを開けておくということもある。)
ツクツクボウシは、夏になると鳴くので、季節の移り変わりを感じる。これも聴いていると、あちらこちらで鳴いている。他のセミもそうかなと思う。みんなで一斉に鳴くということは、どうしてなのだろうか。ツクツクボウシの鳴き方の変化の理由も気になるが、セミが一度にまとまって鳴くことの理由も気になる。
ケシキスイは、似たような種がたくさんいるらしい。交尾する前に、相手が間違っていないか、確認しなくて大丈夫なのか。まちがってしまっても、ただ、無駄だっただけということなのか。交尾しながら音を出し続けるというのは、まあ、人間ならそれなりの意味があるとは思うが、さて、この昆虫にとっては、どうなのか。人間について研究するとすると、生物学のことなのか、心理学のことなのか、文化のことなのか……研究領域はひろい。だが、これはとても興味深いことではある。(といって、この番組であつかえるようなことではないかとも思うけれど。)
究極的には、その音を聴いている昆虫の脳の状態を調べるということで研究は向かっていくことになるだろうと思う。まだ、その技術が出来ていないということだろう。どういう音の世界にいるのか、どういう色彩の世界にいるのか、昆虫のみならず、生物にとっての環世界の違い、ということを、地球の環境の中で総合的に考えるようになっていくだろうか。
2026年10月22日記
よみがえる新日本紀行「がまんの丘物語-三重県・志摩町-」 ― 2026-10-24
2026年10月24日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「がまんの丘物語-三重県・志摩町-」
再放送である。2020年。オリジナルは、昭和56年(1981年)。
もっとも気になるのは、昔の番組のときには、おばあさんばっかりがたくさん集まっていたのに、2020年になると、おじいさんが少しいるだけに変わったこと。いったい、何があったのだろう。この地域も少子高齢化であるにちがいないが、そうであっても、女性が長生きであることは変わらないので、おばあさんは、おおぜいいるだろう。いったい、どこにいるのだろうか。
昔の映像を見ると、海岸を歩いたりするとき、笠を頭にかぶっている。こういう風習は、今では、すっかりすたれたことかと思う。
志摩の娘ら 長持ちゃいらん ノミとサワラの桶ひとつ
サワラの桶とあるが、サワラは、木材としても高級である。木曽の重要な木材である。『夜明け前』(島崎藤村)では、非常に厳格に管理されていたとある。海女の使う桶は、それ専用に作っていたのかと思うが、どういう職人さが、どのように作って、どのように流通していたのだろうか。サワラは木材としては桶などによく使われた。産地としては、木曽が有名だと思うが、志摩の海女たちが使った桶のサワラは、どこのものだったのだろうか。
おばあさんたちは、海女として、昔は、朝鮮まで仕事をしにいった。こういうことの歴史は、どれぐらい分かっていることなのだろうか。朝鮮半島でも、海女の仕事はあったと覚えているのだが。
子どもがあって、戦争に行って、戦死して……こういうことが、実に淡々と語られている。今、こういうことを話題にするときには、過去の理不尽な不幸な歴史というイメージで話すことになる。だが、オリジナルの番組の時点ては、そんな印象はまったくない。ただ、そういう過去があったというだけのことである。
ご飯も、おコメのご飯ではなかった。麦飯か、サツマイモが大量にはいったご飯か、であった。(これが、『おしん』だったら、大根飯ということになる。)
長生きするには、ごうわかさん、ことが必要と言っている。今ふうにいえば、ごう=ストレスの無いように生活する、ということになるだろうか。
老人がリタイアして、仕事がなくなって、それでも、どこかに自分のいるべきところがあるというのは、これはこれでいいことである。それにしても、この数十年の間に大きく変わった。昔は、ひ孫、玄孫がいて、一つの家でくらしていた。日本の家族の形態が、大きく変化した時代であったことになる。
2026年10月21日記
映像の世紀バタフライエフェクト「こうして世界大戦は始まった」 ― 2026-10-24
2026年10月24日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト「こうして世界大戦は始まった」
この回で名前が出ていたのは、
牧野邦明 石田勇治 井上寿一
ナチス・ドイツの研究、経済史の研究、昭和史の研究、それぞれの専門家ということでいいだろう。その著書は、いくつか読んでいる。特におもしろかったのは、牧野邦明の『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書)。これは、陸軍の秋丸機関のことを書いたものである。これを読むと、NHKが鳴り物入りで制作して、その後、大きく問題となっている、NHKスペシャルの総力戦研究所や、それを使った映画『開戦前夜』が、いかに、粗雑な歴史観と歴史考証で作ったダメ作品であるかということが、よく分かる。
番組としては、それほどおもしろいものではなかった。不況になれば、軍事産業に投資して、それが大きく成長すれば、雇用が生まれて、経済は良くなる。だが軍事費の増大は、必然的に戦争につながる。
まあ、いいたいことは、こんなところだっただろうか。
軍需産業がもうかるとしても、はたしてそうだろうか。基本的には、軍需産業とは、あまりもうからないものだと思っている。雇用が生まれるといっても、戦争になれば、そのために人手(軍人兵士)が必要になるので、国内の工場などが人手不足になる。その結果、失業率が下がる、というだけのことである。
戦争の当事国になる。今のウクライナやロシアのように。それと、それで儲ける企業が出てくることは別である。おそらく中国は、かなり儲かっているはずである。朝鮮戦争で、朝鮮半島は疲弊しても、日本はその特需で儲かった。
軍需産業の多くは、そうもうかるものではない。だから、国家が、その企業の存続、技術の開発や維持のために、多額の投資をしてささえる。それが、名目上は、国防費として出てくる。
名前の出てきた企業としては、日産コンツェルンの鮎川義介と、ドイツのクルップ社。アメリカのGM。これぐらいだっただろうか。
軍事産業が意味があるのは、それにともなって、各種の技術開発、インフラ整備などが促進される、その影響力を見るということをふくめてでなければならないだろう。
大東亜共栄圏ということばのつかいかたも疑問である。このことばが、広く使われるようになったのは、1940年(昭和15年)以降のことだし、それをうけて、太平洋戦争になってから、日中戦争までふくめて、大東亜戦争と呼称するようになった……これは、歴史の常識である。たしかに、日本として、満州国をつくったということで、東アジアにおける、日本を中心としたブロック経済圏を構想したことは確かだろう。だからといって、満州事変のころから、大東亜共栄圏と普通に言っていたわけではないはずである。
ケインズのことを、理想化して語りすぎという印象がある。
アメリカのモンロー主義をどう評価するかは、難しいかもしれない。これは、ブロック経済につながることではあるのだが、しかし、同時に、他の地域の戦争に余計な手出しをしない、ということで、これはこれで、一種の平和主義である。
(歴史的には、少なくとも、ベトナム戦争に介入したことの是非、イラクやアフガニスタンとの戦争の是非、という流れから見ることになるはずである。直近のイラン攻撃だけが問題なわけではない。また、軍事費の増大ということなら、軍事予算をひたすら拡大させているのは中国ということになるが、このことに触れるのは避けたということだろう。)
目新しいこととしては、ヤルマー・シャハト、ぐらいだろうか。この人物のことは、これまでの「映像の世紀」シリーズでは、出てきていなかったかと憶えている。
2026年10月20日記
NHKスペシャル「靖国神社 秘録 空白の戦後史」 ― 2026-10-24
2026年10月24日 當山日出夫
NHKスペシャル「靖国神社 秘録 空白の戦後史」
この番組で名前が出ていたのは、
波多野澄雄 吉田裕 中立悠紀 若月秀和
歴史学(日本近代史、戦争の歴史、外交史)の専門家ということになる。
中立悠紀の『東京裁判と帝国陸海軍軍人』(みすず書房)は、読みたい本ではあるが、どうしようかと迷っていた本である。もう、小さい活字の紙の本を読むのがつらくなってきている。
宗教についての専門家が、加わっていたということではなさそうである。
見ながらいろいろ思うことはある。また、この番組についても、さまざまな意見がある。靖国神社について、思うことを整理するかたちで書いてみる。
なぜ、靖国神社が問題になるかというと、論点はシンプルである。現在の靖国神社には、東京裁判のA級戦犯が合祀されている。ここに、日本の首相など政治家が参拝することに対して、中国とか韓国とかが、反発している。政治問題、外交問題になっている。
そして、中国や韓国の動きに呼応するかたち、日本国内のいくつかのマスコミが、(あえていえば)便乗して、政権批判の手段にしている。
もし、中国や韓国が政治家の靖国神社参拝批判をやめれば、外交カードにしなくなれば、問題は、そこで終わる。
だが、これで、本当に問題が解決したことになるかどうかは、また、別の問題である。
・現在の靖国神社にA級戦犯合祀をめぐる議論。
・近代の国民国家の日本における英霊祭祀をめぐる議論。
・日本の古来よりの死生観、霊魂観、鎮魂観、ということをめぐる議論。
・現代日本における信教の自由をめぐる議論。
これらの次元の異なる議論が、いっしょくたにされてしまっているところがある。
まずは、近代の国民国家における英霊祭祀の議論が必要である。これがあって、その施設として、靖国神社が、現代の日本でふさわしいかどうかということになる。そして、このことと、A級戦犯合祀の問題とは、とりあえず切り離して議論することが必要である。
靖国神社が、日本の英霊祭祀にふわさわしいところであり、また、A級戦犯を合祀することが妥当である、ということになるならば、これはこれでよい。
これは、私が思っていることであるが、英霊祭祀とか、A級戦犯祭祀の問題の根底には、日本の古来よりの御霊信仰というべきものを、無視できない。戦争など、非業の最期をとげた人の霊魂は、適切に祭祀の必要がある。そうでなければ、たたりをなす。
(御霊信仰の古い例としては、菅原道真を思ってもいいだろうし、将門塚を思ってもいい、一般に怨霊にかかわる民俗的な行事や宗教施設は多くあるはずである。この意味では、A級戦犯を祀った神社などがあってもよい。その位牌を安置する寺院があってもよい。だが、これは、その人物をすぐれた人物として顕彰することではない。とはいえ、それにつながることは否定できないのだが。だからといって、何もしないというのも、おさまりが悪い。)
近代国家としての英霊祭祀の根底にある、古くからの日本の文化における霊魂観というべきものを、無視はできない。だからといって、それをそのまま、靖国神社にあてはめることもできない。
A級戦犯が、靖国神社のふさわしいかどうかは、また別の問題である。
靖国神社は、スタートの時点では、招魂社であった。戊辰戦争のときの官軍の兵士を祀ったところからはじまっている。ここには、賊軍であった、たとえば会津藩などの死者はふくまれない。また、西南戦争のときの、薩摩軍の死者もふくまれない。(これらの死者については、別に、そのための施設がつくられていることになる。)
英霊祭祀が妥当だとして、その資格をどう認定するのか、これが難しい。戦死した軍人軍属ということになる。この中には、従軍看護婦であった女性たちもふくまれる。しかし、戦時中の日本軍での軍事裁判で処刑された人はふくまれない。その軍事裁判が適切なものであったかどうかは、検証の必要がある。
『戦場の軍法会議:日本兵はなぜ処刑されたのか.NHKスペシャル取材班.新潮文庫
かつてNHKで、こういう番組を作っていたことを、今のNHKは、忘れてしまっているのだろうか。
A級戦犯で絞首刑になった人の中には、広田弘毅がふくまれるが、軍人ではない。広田弘毅を靖国神社に祭祀することの問題はないのだろうか。
亡くなった人の名前(固有名詞)を特定して、ずっと残すということは、はたしていいのだろうか。一定年限がすぎれば、死者は忘れられていく。祖霊となる。このような考え方(これは、柳田国男などが言ったことになるが)を、考えてもよい。
いつまでも死者が固有名詞を持ち続けることの、ある種の暴力性を考えておきたい。これについては、靖国神社が、そこに祭祀してある死者について、資格を認定して、固有名詞を残すかたちで続いている。これに類するところとしては、沖縄の平和の礎がある。広島や長崎の原爆での死者は、そのことを認定して固有名詞をずっと残すという形で、慰霊がおこなわれてきている。こういうことは、いいことなのだろうか。死者は、時間がたてば、それがどんな非業の死であっても、いずれは忘れ去られていく、そういうものであってはいけないのだろうか。
靖国神社の祭祀を受け入れる遺族もいれば、拒否する遺族もいる。これは、NHKとしては、両論併記で示したことになるが、問題点もある。靖国神社の祭祀で、最も優先されるべきは、誰の意志か。まずは、亡くなった本人であるにちがいない。そして、遺族が、そのことの是非をいうならば、誰に優先権があるのか。親なのか、妻なのか、子どもなのか。もし、ここで意見の対立がおこった場合、どうすべきか。
父親は侵略戦争の加害者だったので、靖国神社から祭祀をとりさげてほしいという要望の男性が映っていた。これは、心情的には、理解できるとしても、はい、そうですかとなるだろうか。次に、さらに次の子どもなどが、いや、おじいさんが戦死したことは批判されるべきではないので、やはり靖国神社で祭祀してほしいとなるようなことがあった場合、再び、祭祀するということになる。こういうことになるとしたら、これを考えないとしたら、あまりに問題のとらえかたが浅薄であるとしか思えない。
このような論点は、山口の護国神社訴訟について考えれば、すぐに分かることのはずである。(亡くなった自衛官の意志よりも、他の家族や親族よりも、妻の意志が優先的に尊重されるべきであるという判例になるのだろうか。ここは、宗教や法律についての専門家がどう考えることになるのか。)
靖国神社の参拝が、8月15日、春秋の例大祭のことで問題になる。もし、首相や政治家の身内に、太平洋戦争・大東亜戦争での戦死者がいたとして(その可能性はおおいにある)、その命日の日に(8月15日ではなく)、個人的に参拝するということがあったとすると、それでも、中国や韓国や、さらに、日本のマスコミは、問題があるとして騒ぐことになるだろうか。このことについては、少なくとも、日本で、靖国神社のことを政治問題としてとらえている人は、考えてみるべきだし、きちんと意見を表明すべきことのように、私は思っている。このような場合でも、A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、不適切であると、説得力をもって述べることができるだろうか。
宗教と政治をめぐる、私が知る限り最も愚劣で軽薄な議論は、昭和天皇の大喪の礼のときのことである。儀式の中で、鳥居があって神主のような恰好をした人物がいれば宗教行事であるが、そうではなくただ普通の喪服を着用している人であれば、問題がない……ということが、堂々と、これが正論として語られていた。どう考えても、宗教行事としての葬礼について、浅薄な議論であったとしか思えないが、そのレベルから今の日本の靖国神社をめぐる議論は、さほど進んでいるとは思えない。
私の思うこととしては、近代の国民国家として、「想像の共同体」として、英霊祭祀は必要であり、そこおける儀礼は、「創られた伝統」であっても、いや、だからこそ、必要であろう。このような観点から、日本における英霊祭祀は、いかにあるべきか、議論の必要がある。いや、あったのだが、もう手遅れというべきかもしれない。
せめては、「戦陣に散り、戦禍に倒れた」人びとのことを思うときに、誰のことを心の中に思うか、そこに、場合によっては敵であった兵士のことを思う人がいてもいい。これぐらいのことしかできないのかとも思う次第である。
宗教や信仰ということは、タテマエとしては個人の思想や信条の問題であるが、同時に、ある時代の文化、人びとの共同性、ということを無視できないものでもある。こういう部分にも目を向けなければ、いたずらに不毛な議論を積み重ねるだけである。やはり、NHKの見識不足であったといわざるをえない。
私個人の意見としては、A級戦犯を靖国神社で祭祀することには違和感を覚える。しかし、現在の宮司が、いったん靖国神社に祭祀した霊をとりさげることはできないときっぱりと言いきっていることには、敬意を持っている。
2026年10月21日記
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