『フルスロットル』ジェフリー・ディーヴァー/池田真紀子(訳)2022-05-21

2022年5月21日 當山日出夫(とうやまひでお)

フルスロットル

ジェフリー・ディーヴァー.池田真紀子(訳).『フルスロットル-トラブル・イン・マインド Ⅰ-』(文春文庫).文藝春秋.2022
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918699

ジェフリー・ディーヴァーの本は、だいたい買って読んでいるかと思う。毎年、新刊が出る。待っていれば文庫になるのだが、基本的には単行本が出た時に買って読んでいる。これは、昔、『ボーン・コレクター』を読んで以来の習慣のようなものである。

この本は、ジェフリー・ディーヴァーの短篇集。二〇一四年の刊行のようだ。それを、池田真紀子の翻訳で、文庫版オリジナルとして刊行。もとの本を二分冊に編集しなおして、その最初の方になる。

ジェフリー・ディーヴァーというと、リンカーン・ライムのシリーズの長編というイメージが強い。だが、これを読むと、巧みな短篇ミステリ、それも「本格」の書き手であることが分かる。序文がついていて、そこで、長編ミステリと、短篇ミステリについて、少し解説めいたことが書いてあるのだが、なるほどとうなづくところがある。まさに、短篇ミステリの醍醐味を味わえる作品集になっている。

収録作品は、どれも面白いが、私が読んで興味深かったのは、タイトルにもなている「フルスロットル」。キャサリン・ダンスの作品である。これまでの、キャサリン・ダンスを主人公とする作品(長編)は、読んでいる。そうすると、人間嘘発見器のストーリーの展開を思ってしまうのであるが、そうなってはいない。意外と、時計を使ったトリックになっている。なるほど、キャサリン・ダンスを主人公にして、このようなトリックの作品を書くこともできるのかと、ここは感心したところである。

続編は、『死亡告示』である。つづけて楽しみに読むことにしよう。

2022年5月13日記

『戦場のコックたち』深緑野分/創元推理文庫2022-05-13

2022年5月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

戦場のコックたち

深緑野分.『戦場のコックたち』(創元推理文庫).東京創元社.2019(東京創元社.2015)
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488453121

深緑野分の作品としては、こちらの方が先の刊行である。『ベルリンは晴れているか』がよかったので、さかのぼってこれも読んでみたいと思った。

やまもも書斎記 2022年4月15日
『ベルリンは晴れているか』深緑野分/ちくま文庫
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/15/9481872

第二世界大戦に参戦したアメリカ軍の兵士のものがたりである。兵士といってもコックである。戦場で食事を作るのが任務である。そのコックたちを主人公にした、戦場ミステリである。そして、傑作である。

読んで思うことはいろいろあるが、二つばかり書いてみる。

第一には、ミステリとしてよくできていること。戦場が舞台なのだが、出てくる謎は、日常の謎である。ミステリだからといって、殺人事件がおこるわけではない。日常の不思議な謎を、コックたちの推理が鮮やかに解きあかす。そして、その謎も日常の謎でありながら、やはり戦場ならではのものである。

そして、連作短篇という形式をとっていながら、全体として大きな物語になっている。このような小説のつくりは珍しいということではないが、しかし、読んでみて巧みに作ってあると感じさせる。全体を通じての大きな謎もまた魅力的なものになっている。

第二には戦場小説としてよくできていること。ここではあえて戦場小説と書いてみた。戦争小説というのとはちょっと違う。たしかに、なかには戦闘場面も出てはくるのだが、全体としては、戦場、また、そのやや後方における、軍隊と兵士の物語ということで展開する。

これが、普通の戦争冒険小説とは、ひと味違った魅力になっている。ノルマンディー上陸作戦から、ベルリンまでの戦場が描かれる。だが、その最前線の戦闘の場面よりも、後方の兵站のことなどが、主に小説の舞台になっている。この意味においては、新しいスタイルの戦争小説といっていいのだろう。

以上の二点のことを思ってみる。

さらに書いてみるならば、この小説を、単なるミステリ、戦場小説としては、今では読むことができない。二〇二二年二月のロシアによるウクライナ侵略からこのかた、戦場、戦争というものが、毎時のニュースで報道されるようになてきている。この社会情勢のなかでは、この小説で描かれている、戦場における兵士たちの描写が、非常に印象深い。ただの小説のなかのこととしては、読み過ごすことができないものがある。

この作品は、今こそ広く読まれていい作品であると思う。

2022年5月12日記

『ベルリンは晴れているか』深緑野分/ちくま文庫2022-04-15

2022年4月15日 當山日出夫(とうやまひでお)

ベルリンは晴れているか

深緑野分.『ベルリンは晴れているか』(ちくま文庫).筑摩書房.2022 (筑摩書房.2018)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480437983/

この文庫本には、特設のHPもある。
https://www.chikumashobo.co.jp/special/berlin/

知ってはいたが、なんとなく読みそびれていて、文庫本が出たので読んでみることにした。世評の高い作品であるとは思っていた。読んで思うこととしては、傑作といっていいだろう。

舞台設定は、一九四五年のベルリン。ヒトラーのドイツが敗れて、連合軍、それから、ソ連軍に占領されているとき。ドイツ人少女のアウグステの数奇な冒険物語、という感じで展開する。ミステリの分野にはいる作品であり、また第二次大戦終結後のベルリンを舞台にした小説でもある。

第二次大戦で敗れることになったナチス・ドイツ。その陥落のシーンは、「映像の世紀」などで目にしている。しかし、そこにいたるまでの戦闘がどのようなものであったか、さらには、敗戦後のドイツで人びとがどのように暮らしていたのか、このあたりのことになると、ほとんど知識がない。せいぜい『独ソ戦』を読んだぐらいである。

この作品の良さは、まさに、戦後まもなくのベルリンという舞台設定にある。まだ、東西冷戦の前、ベルリンの壁のできる前。敗戦後の混乱の時代である。そこには、まだ、戦争の余韻が強く残っている。そして、それは、ヒトラーのドイツになるまえの時代から続くものとしての歴史の結果でもある。

この小説の魅力は、戦前からのドイツの人びとの暮らし、それから、敗戦の混乱のなかで、それでもたくましく生きていく人びと、これを巧みに描ききったところにある。なぜ、ヒトラーのドイツになったのか、ここはいろんな視点から論じることができるだろう。それを、この小説では、市井の市民の目から描いている。

それから、ミステリ、あるいは、冒険小説としての面白さ。一つの事件……殺人事件のようである……がおこる。その謎をめぐって、アウグステは、冒険をこころみる。いや、巻きこまれていく。そこに絡んでくるのは、ソ連軍である。(えてして、第二次大戦は、勝った側としては米英の視点から見ることが多いと思うのだが、この作品に登場するのはソ連軍である。このあたりが、この作品をより面白く、興味深いものにしている。)

ミステリとして読んだとき、ちょっと物足りないかなという気がしないではない。しかし、戦後まもなくのベルリンを舞台にした、ドイツ人少女の冒険物語として読むと、まさに類例を見ない、完成度の高さを感じる。

余計なことを考えてみるならば、敗戦後のベルリンを舞台にした小説が書けるということ、このこと自体が、一つの時代の変化を感じるところがある。ベルリンの壁が崩壊してからおよそ三〇年。確かに時代の流れがある。

さらに余計なこととしては、この作品には、日本人が登場しない。一九四五年のベルリンなら日本人がいてもおかしくはない。しかし、日本人が登場しないことに、なんら違和感がない。このような作品が書かれるようになったということ、このこと自体が、新しい時代になったということを感じさせる。

2022年4月14日記

『アリスが語らないことは』ピーター・スワンソン/務台夏子(訳)2022-02-10

2022年2月10日 當山日出夫(とうやまひでお)

アリスが語らないことは

ピーター・スワンソン.務台夏子(訳).『アリスが語らないことは』(創元推理文庫).東京創元社.2022
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488173074

東京創元社のピーター・スワンソンの翻訳作品としては、三作目ということになる。創元推理文庫版においては、原題とは別に、登場人物の名前をタイトルにつける方針のようだ。この作品の原題は、「ALL THE BEAUTIFUL LIES」である。そう思って読むせいか、いったい誰がどんな嘘をついているのか、気になる展開の作品である。

そして、これは傑作である。今年(二〇二二)の一月の刊行であるが、たぶん今年の年間ミステリのベストに入るにちがいない。

物語は、二つのストーリーが平行してすすむ。現在の部分と、過去の部分である。この二つのストーリーに共通して登場するのが、アリスという女性。では、はたしてアリスは、どんな嘘をついているのか。いや、もうちょっと厳密に言ってみるならば、いったい何を語っていないのか。

アリスのからんだ二つのストーリーが一つになるとき、事件の真相があきらかになる。これは、見事な作りになっている。一級のミステリといってよい。

この作品、決して少なくない登場人物が出てくるのだが、どの登場人物も人物像がはっきりしている。現在と過去と行ったり来たりする展開ではあるのだが、混乱することなく、読み進められる。このあたりは、『そしてミランダを殺す』の作者だけのことはあると思う。

また、この作品は、古書店が出てくる。そして、有名なミステリ作品も中で登場する。ミステリ好きにとっては、このあたりのサービスがとても興味深い。

今年、他にどのようなミステリ作品が刊行になるかわからないけれども、しかし、ここしばらくのようにアンソニー・ホロヴィッツが一位でなければ、この作品が今年の一位になってもいいと思う。

2022年2月5日記

『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬2021-12-23

2021年12月23日 當山日出夫(とうやまひでお)

同志少女よ、敵を撃て

逢坂冬馬.『同志少女よ、敵を撃て』.早川書房.2021
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014980/

これがデビュー作であるという。おどろくしかない。

主な舞台は、第二次世界大戦のころのソ連と東欧。独ソ戦である。ソ連軍において、女性だけで組織された狙撃兵部隊。そこに加わることになる少女、セラフィマ。過酷な訓練の後、独ソ戦の激戦地を転戦する。そして、最後にめぐりあうことになる仇敵。

久々に読んだ戦争冒険小説である。最近では、戦争冒険小説、戦争ミステリ、という範疇の作品が少なくなったように思う。

だが、これはただの戦争冒険小説ではない。少女が主人公であり、狙撃兵であり、ソ連軍として独ソ戦を戦う。そこにある、友情、軍人としての職務、憎しみ、悲しみ……ありとあらゆる感情をのみこんで、少女は戦場にたつ。

この作品、アガサ・クリスティー賞の大賞受賞作ということだが、他にも賞を取るにちがいない。(すくなくとも、これを書いている時点では、直木賞の候補になっている。)

この小説が傑出しているのは、その戦争観にあるといってもいいかもしれない。女性の目、少女の目から、そして、ソ連の目から、独ソ戦を見ている。そこには、冷徹な狙撃兵としての闘志もあれば、女性としての感情もある。そして、何よりも重要だと思うのは、戦争と性の問題を避けてはいない。いったい戦場で何があったのか、冷静に見る視点がある。

また、独ソ戦をソ連の側から描くといっても、必ずしも、ナチス=悪、という図式になっていない。ソ連共産党賛美でも忌避でもない。ソ連軍、ドイツ軍としての、軍人、兵士のおかれた立場や生き方にせまっている。いうならば、戦場の論理を描いているともいえるだろうか。

どれほどこの作品が受け入れられるか、どのような賞を取ることになるのか、見ていきたいものである。

2021年12月20日記

『黒牢城』米澤穂信2021-12-16

2021-12-16 當山日出夫(とうやまひでお)

黒牢城

米澤穂信.『黒牢城』.KADOKAWA.2021
https://www.kadokawa.co.jp/product/322101000890/

今年のミステリ(国内)のベストである。これは未読の本であったので、読んでおくことにした。

なるほど、この作品が、ベストになるだけのことはある。米澤穂信については、『折れた竜骨』『満願』『王とサーカス』など、読んできている。どれもきわめて完成度の高いミステリである。

設定は、荒木村重と黒田官兵衛、戦国の有岡城である。四つの連作短篇という形式をとっているが、そこは米澤穂信のことである、さらに仕掛けがある。歴史の結果として、村重は滅び、官兵衛は生き残るということはわかっているのだが、そのようなことを知った上で読んだとしても、この小説の舞台設定は魅力的である。そして、この舞台設定ならではの、魅力的な謎と謎解きになっている。

また、時代小説として読んでも面白い。戦国武将の生き方、何をめざし、何のために戦っているのか、その根本にかかわる心理の掘り下げが、米澤穂信ならではの、流麗な文章でつづられる。

この小説を読んで、NHKの大河ドラマで放送した『軍師官兵衛』とか『麒麟がくる』とか、おもわず思い出しながら読んでしまった。(このような読者は多いのではなかろうか。)

ともあれ、この作品が、今年のミステリのベストに選ばれたのは、十分に納得できる。

2021年12月14日記

『ヨルガオ殺人事件』アンソニー・ホロヴィッツ/山田蘭(訳)2021-09-24

2021-09-24 當山日出夫(とうやまひでお)

ヨルガオ殺人事件(上)

ヨルガオ殺人事件(下)

アンソニー・ホロヴィッツ.山田蘭(訳).『ヨルガオ殺人事件』(上・下)(創元推理文庫).東京創元社.2021
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488265113
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488265120

上下巻のかなり大部の作品になるが、ほぼ三日で読んだ。

まず、最初の三分の一。主人公のわたし(スーザン)の話し。次に、作中のピュントの物語。それから、もとにもどって、本編の解決編。他の本を読む間に、三分割して読んだことになる。

これは、本格ミステリ……というよりも、ちょっと古風ないい方をあえてして、探偵小説とでもいった方がいいかもしれない。古典的な構成によるフーダニットである。だが、これも、『カササギ殺人事件』と同様に、一つの小説のなかに、さらに入れ子構造で、もう一つの小説が組み込んであるつくりになっている。(いや、小説中の小説のなかに、さらにもう一つ短篇が含まれているというつくりでもある。)

私は、たまたま、シリーズの最初になるはずの「カササギ」から読んだが、まだ読んでいないという人は、まず、「カササギ」を読んでから、この「ヨルガオ」を読んだ方が楽しめると思う。というよりも、そうしないと、逆に「カササギ」を読んで、いったいこの小説は何なんだという驚きが、なくなってしまう懸念がある。

とはいえ、これはこれで、独立した小説として、十分に楽しめる作りになっている。

たぶん、東京創元社が、この時期にこの作品を刊行ということは、今年末の各種ミステリベストを狙ってということもあるだろう。私の読んだところでは、たぶん一位になるだろう。となれば、四年連続で一位ということになる。

フーダニットの探偵小説であるから、じっくり読まないと面白さがわからない。登場人物のちょっとしたことば、行動、それらを見抜く、名探偵の推理……そして、最後に、メインの登場人物が一堂に会したところで、名探偵の謎解きが展開される。まさに、古典的なつくりだが、これが、現代風の謎とあいまって、見事である。

作中のピュントの部分は、第二次大戦後のちょっと時間がたったころという時代設定になっている。これはこれで意味がある。その時代ならではの、謎解きの小説として読める。一方、本編の部分は、まさに現代ならではの謎であり犯罪の動機になっている。このあたりの時代設定の組み合わせも実にたくみであると感じる。

この続編が出るなら、それも楽しみである。

2021年9月23日記

『スリープウォーカー』ジョセフ・ノックス/池田真紀子(訳)2021-09-11

2021-09-11 當山日出夫(とうやまひでお)

スリープウォーカー

ジョセフ・ノックス.池田真紀子(訳).『スリープウォーカー』(新潮文庫).新潮社.2011
https://www.shinchosha.co.jp/book/240153/

シリーズになっている三冊目なのだが、実は、この作者の作品を読むのは始めてである。読んだ印象を一言でいえば、今年のミステリベストには必ずはいるだろう、といったところである。

幾重もの謎がちりばめられている。

余命わずかな受刑者が、病院で殺された。この犯人は誰なのか。また、そもそも、その事件の本当の犯人なのか。ここにかかわることになるのが、エイダン・ウェイツ。警察官である。

だが、単純な探偵小説というのではない。文庫本のこの本の紹介にはノワールとある。人の世の暗黒面を描いた小説とでもいえばいいのだろうか。そして、警察小説、それも、いわゆる悪徳警察官小説として書かれている。

そこに、本格ミステリの謎解きが非常にたくみにからんできている。謎解きの部分と、悪徳警察官小説とが、見事に合体しているといっていいのだろう。

さらに、主人公のエイダンの身の上をめぐって、謎が重ねてある。読みごたえ十分である。

さて、この作品を読んで、さかのぼって過去のシリーズ作を読んでみたくなってはいるのだが、どうしようかというところである。他に読まねばならない本、読みたい本が、たくさんたまっている。

2021年9月10日記

『野呂邦暢ミステリ集成』野呂邦暢2021-08-03

2021-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

野呂邦暢ミステリ集成

野呂邦暢.『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫).中央公論新社.2020
https://www.chuko.co.jp/bunko/2020/10/206979.html

野呂邦暢を読んでおきたくなって手にした。ミステリ……これはかなり広義にとらえた方がいいだろう……関連の作品をあつめてある。

読んで思うことは、なるほどかつてはこのような時代があったなあ、ということになる。「推理小説」という形式の文学が、戦後の日本のなかで、広く受容されるようになったころ……それを代表するのが、松本清張のころといっていいと思うが……の作品といっていいのだろう。今から読むならば、このアンソロジーの作品は、どことなく古めかしい。

今、新しい時代の小説家が、ミステリに手をつけるとなると、もうちょっと違ったアプローチをするだろうと思う。だが、これはこれで、時代のなかにおいて考えるべきことになるだろう。

そうはいっても、これはいいと思ったのが、「剃刀」という作品。小品だが、切れ味のいい作品にしあがっている。

野呂邦暢の作品は、他にも今でも読めるものがいくつかある。これから折りを見て読んでみようかと思う。

2021年7月27日記

『見知らぬ人』エリー・グリフィス2021-07-30

2021-07-30 當山日出夫(とうやまひでお)

見知らぬ人

エリー・グリフィス.上條ひろみ(訳).『見知らぬ人』(創元推理文庫).東京創元社.2021
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488170035

文庫本の帯には、「この犯人は見抜けない」とある。これはそのとおりである。古典的なフーダニットの作品である。だが、いったい誰が犯人か……読んでみて、あまり意外性は感じなかった。また、理詰めで、犯人を探索していくというタイプの作品でもない。

私が、この作品を読んで感じるのは、特に英国ミステリがもっている、文学的重厚さとでもいうべきものである。古典的なミステリの枠組みでありながら、同時に、ビクトリア朝のことが、色濃く投影されている。むろん、シェークスピアなどからの引用に満ちてもいる。

一方で、現代の小説ということで、社会における多様性の尊重ということが、作品の重要なモチーフにもなっている。

このような作品を読むと、英国という社会の、あるいは、少なくともミステリという文学のもっている、歴史と文学的厚みというものを、強く感じることになる。これは、残念ながら、あまり現代日本のミステリには感じられないものでもある。(強いていえば、北村薫ぐらいの名前が思い浮かぶが、しかし、ゴシックロマンという傾向の作家でない。)

ミステリというよりも、現代英国における、小説、文学の面白さを感じさせる作品である。(さて、これが今年のミステリベストにはいるかどうか、ちょっと微妙なところかなと思ったりもする。)

2021年7月27日記