二〇二一年に読みたい本のことなど2021-01-01

2021-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二一)に読んでみたい本のことなど書いてみる。

一昨年、夏目漱石を新潮文庫版で読むことをしてみた。昨年は、芥川龍之介、森鷗外、それから、太宰治について、新潮文庫で今出ている本で読んでみた。今年は、このつづきとして、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成など、読んでみようかと思っている。

今その「全集」を手にいれようと思えば、かなり安価で簡単に買えるようになってきてはいる。しかし、「全集」を読むのはやや気が重い。ここは割りきって、今の新潮文庫で読める範囲と限って読んでみるのも、一つの方針かと思う。

岩波文庫の『源氏物語』は、今年には完結するだろうと思う。これも、本編の部分については、読んでいる。残っているのは、「宇治十帖」である。全巻完結したら、最初にもどって、岩波文庫版のテクストで、通読してみようと考えている。(これも、新日本古典文学大系のテクスト……大島本に忠実……について、いろいろ考えることもあるだろう。だが、老後の楽しみの読書である。テクストは、読みやすければそれでいいと思うようになってきた。)

昨年の暮れから冬休みの読書と思って読んでいるのが、向田邦子。そのエッセイ、小説などを読んでいる。昨年末に読んで印象に残っているのが、柳美里の『JR上野駅公園口』。柳美里の他の作品も読んでみたい。また、日本の現代作家として、小川洋子とか、多和田葉子とか、読んでおきたくなっている。

昨年から話題の本といえば、『ディスタンクシオン』がある。これは読んでおきたい。

その他には、村上春樹の翻訳作品などで、まだ読んでいないものがかなりある。小説家としての村上春樹については、評価の分かれるところがあるかと思うが、海外文学の目利き、翻訳ということについては、非常にいい仕事をしていると思っている。村上春樹訳ということで、読んでおこうと思う。

COVID-19の影響がどうなるか、まったく予断をゆるさない。たぶん、この年も居職の生活になるかと思う。家にいる限りは、本を読む生活をおくりたいものである。古典を、文学を、読みたいと思う。そして、時間があるときは、カメラを持って外にでて身近な草花の写真など撮っていきたい。

2021年1月1日記

二〇二〇年に読んだ本のことなど2020-12-31

2020-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二〇)に読んだ本のことなど思いつくままに書いておきたい。

今年、まず読んでみたのが、宮尾登美子であった。『櫂』をふと読みなおしてみたくなって読んだ。それから順に自伝的作品をはじめとして、主な作品を読んだ。これほど人びとの日常生活の情感、人間の喜怒哀楽、生老病死にまつわる思いなどを、細やかに描いている作家は、希かもしれない。宮尾登美子については、読もうと思って買って、まだ手にしていない作品がいくつか残っている。これらについては、来年になって読むつもりでいる。

『復活』(トルストイ、藤沼貴訳、岩波文庫)を読んだ。『復活』を読んだら、カチューシャの唄を思い出してしまう。その流れで、『放浪記』(林芙美子)など読みなおしてみた。トルストイの作品では、『戦争と平和』(藤沼貴訳、岩波文庫、全六冊)も読むことができた。これは、以前に、新潮文庫版で読んだことがある。そして、今は、光文社古典新訳文庫版が刊行中である。これは、順番に買っている。全巻そろったら、まとめて読もうと思っている。

日本の古典では、『太平記』(岩波文庫版)を読んだ。『太平記』は、若いころに日本古典文学大系版で手にしたことはあるのだが、最初から通読するのは始めてになる。底本をいい本をつかっている。だが、岩波文庫につくるということで、国語学的に見て興味があるところについて、その本文校訂については、若干の不満があるというのが、正直なところである。が、ここは、もう老後の読書である。そのようなことはあまり気にせずに、ただページをめくっていく読みかたで読むことにした。『太平記』については、他に、古典集成や、新編日本古典文学全集のテキストもある。これらの本でも、読んでおきたいと思う。

『風と共に去りぬ』(岩波文庫版)も再読してみた。この作品については、旧版新潮文庫、新版新潮文庫、岩波文庫と読んでいる。このうち、岩波文庫版について、再読しておきたくなって読むことにした。やはり、この作品は、ある時代の人びとの世界を活写していると強く感じる。

今年読んだ本のなかで、一番印象に残っている本は、『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)である。ここに取り上げられている本について、全部読んでみようと思って、だいたい順に読んでみた。このうち『失われた時を求めて』については、岩波文庫、集英社文庫で、すでに読んでいる。この光文社古典新訳文庫版でも、既刊分については、読んでおくことにした。『文学こそ最高の教養である』は、光文社古典新訳文庫を基本に、古今東西の「古典」を解説してある。すぐれた文学論、古典論であり、また、翻訳論になっている。このようなことを思い立っていなければ、読まずにすましてしまったような作品が多い。時には、このような読書の方針もあっていいと思う。

新潮文庫で読める範囲に限定して、現在刊行されている本を読んでみようと思った。芥川龍之介を読み、森鷗外を読んだ。芥川龍之介も、森鷗外も、その岩波版の全集は持っているのだが、全集に手を出すのが億劫になってきたということもある。現在でも刊行されている範囲の文庫本に限って読むというのも、一つの考えかと思っている。

太宰治も、新潮文庫版を全部読んだ。その代表作の主なものは、若いときに手にしたことがあるのだが、改めて、ほぼ発表年代順に読んでみた。太宰治は、新潮文庫で、その小説のほとんどを読むことができる。特に、その中期といわれる時期……ほぼ戦争中になるのだが……に書かれた作品に、文学的にすぐれた作品がある。いまだに太宰治が読み継がれている理由が分かったかと思う。

ともあれ、この二〇二〇という年は、COVID-19の年として歴史に残るであろう。いや、来年もどうなるか、まったく予断を許さないのだが。大学の授業は、前期はオンラインということになった。外に出ることが基本的になくなった。学会、研究会なども、ほぼ中止か、オンライン開催であった。結果的には、居職の生活となった一年である。どれほど本が読めたか、ふりかえってみれば、思い残すところもある。来年もつづけて、本を読む生活をおくりたいと思っている。

2020年12月30日記

今年読みたい本のことなど(二〇二〇)2020-01-01

2020-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

元日は、今年の気持ち、特に読んでみたい本のことなど書くことにしている。

昨年の暮れから読んでいるのが、宮尾登美子。ふとWEBを見ていて、Facebookだったか、Twitterだったか……誰かが宮尾登美子の『櫂』について書いているのが目にとまった。『櫂』は、若いときに読んでいる。もう一回読んでみようかと思って読んだのだが、面白い。続けて、自伝的な作品である『春燈』『朱夏』『仁淀川』と読んだ。宮尾登美子の作品のいくつかは、若いときに読んでいる。好きな作家であった。が、最近は遠ざかってしまっていた。亡くなっていることも知らなかった。

宮尾登美子は、市井の人間の情感を描いている。それも、老いとか、病とか、死とか……素朴な人間の情感をきめ細やかに描いている。ここは、宮尾登美子の作品を読んでおきたくなった。再読の作品もあれば、未読であったものを新たに読むものもある。

日本の古典文学を読んでおきたい。これまで、勉強……国語学……ということで、主な日本の古典文学は手にしてきたのだが、それをはなれて、純然たる読書のたのしみとして、ページを繰ることをしてみたくなった。昨年は、『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』など読んだ。

『源氏物語』の岩波文庫版が、今年は完結するだろうか。昨年は、新潮日本古典集成版で二回読んだのだが、新しい岩波文庫版の校注で全巻を読んでおきたいと思う。

昨年末からよみはじめているのが、『太平記』。岩波文庫版で六冊になる。新しい校訂である。これは新潮日本古典集成版もあるし、また古い日本古典文学大系もある。『太平記』は、近年になって、再評価がなされているかと思う。「アナホリッシュ国文学」が『太平記』を特集している。これなど手引きとして、『太平記』を読んでおきたいと思う。

これは、「古典は本当に必要なのか」ともかかわる。近世まで、あるいは、昭和戦前まで、『太平記』は「古典」であった。だが、私が国文学、国語学という勉強をしていたころ、日本の「古典」の中心的な存在ではなくなってしまっていたと思う。「古典」とは、常に読まれつづけることによって、新しく読みを加えることによって、再発見、再生産されていくものであると思っている。ただ、自明なものとして「古典」があるのではない。

この「古典」とは何かということについても、これから考えていきたいと思っている。

村上春樹の作品については、その小説(長編、短篇)を読んで、エッセイとか翻訳とかを読んでいる。村上春樹の翻訳は、中央公論新社で、村上春樹翻訳ライブラリーというかたちでまとまって刊行されている。これを順次読んでいきたい。昨年のうちに、レイモンド・カーヴァーなどだいたい読み終えた。のこる作品についても、順番に読んでみようと思っている。

『失われた時を求めて』の岩波文庫版、全一四冊が、昨年完結した。この作品については、一昨年に、岩波文庫版の既刊分(一二冊)を読んで、残りを集英社文庫版で読んだ。『失われた時を求めて』は、他に、光文社古典新訳文庫版でも刊行されている。まだ途中までしか出ていないが、これも、既刊分については読んでみたい。また、読まなかった岩波文庫本の残り二冊についても、読んでおきたい。

さらに思うことは、ミシェル・フーコーを読んでおきたいと思う。名前は知っている。どんな仕事をしたひとなのかも、いろんなところで目にする。だが、これまで、ミシェル・フーコーそのものを、じっくりと読むことがなかった。「近代」というもの、あるいは、「人文学」というものを考えるとき、やはりミシェル・フーコーは必須だろう。これも今年の読書の希望の一つである。

漱石も読み返しておきたい。若いときに買った、一七巻本の古い全集がまだどこかにあるはずである。今度読むときは、これを取り出して読むことにしようかと思う。活版の時代の本である。

その他いろいろとあるが、「古典」「文学」を読むことで時間をつかいたいと思っている。そして、残りの時間で、身近な草花の写真など撮ってすごしたいと思う次第である。

ところで、大晦日の日、たまたまテレビをつけたら、映画『風と共に去りぬ』を放送していた。『風と共に去りぬ』は、これまで三回読んでいる。新潮文庫の旧訳、新訳、それから、岩波文庫である。この作品も、再度読んでみたくなった。

2020年1月1日記

今年読んだ本のことなど(二〇一九)2019-12-31

2019-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇一九)に読ん本のことなど書いてみたい。

これまでもそうであったが、「古典」を読みたいと思ってすごした。大学で教える仕事は整理して、週に一回か二回。残りの時間は、本を読んですごす。でなければ、カメラを持って散歩に出ることにしている。基本的に家にいる。

今年(二〇一九)で読んだ本となると、やはり、村上春樹だろう。これもふと思い立って読み始めた。『騎士団長殺し』が文庫本で刊行になったのをきっかけにして、村上春樹の作品を全部読んでみようと思った。長編からはじめて、短篇集、日本で普通に手にはいる本は全部読むことができただろうか。残るのは、エッセイとか翻訳。これは、すこしペースをおとして、他の本を読むかたわらで、順次読んでいっている。

翻訳についていえば、もし村上春樹が訳していなければ、手にすることがなかったであろう作品がいくつもある。これは、村上春樹訳ということで本を選んで読んでいったことによるものであるが、これはよかったと思っている。レイモンド・カーヴァーの作品など、現代アメリカ文学の作品は、村上春樹の訳があるから読んでみたようなものである。

村上春樹が、ノーベル文学賞を取ることになるかどうか、それはわからない。だが、読んで、確かに村上春樹の作品が、世界の人びとに読まれていることの理由が、わかったような気がした。文学作品としての普遍性をもった作品であることは確かである。

日本の古典では、『源氏物語』を読んだ。新潮の日本古典集成版(八冊)である。これは、二回読むことができた。二月ごろ、ふと思って読み始めた。辞書、文法書はあえて見ない、という方針で読んだ。特に文法論などを専門にしているというのではないので、ここはわりきりである。校注本の注釈だけをたよりに読んでみた。

なるほど、これが文学というものなのか、という印象を新たにした。読んでいって、思わず作品世界のなかにひたりこんでしまって、読みふけっている自分に気付くことがあった。このような読み方は、もう自分で『源氏物語』で論文を書いてみようという気がなくなってしまった、ということもあってのことかもしれない。論文を書くためではなく、ただひたすら読書の楽しみのために読んでみたくなっている。

これは、二回読むことができた。秋からの同志社大学大学院の講義の準備と思って、『源氏物語』をさらに読んでみた。秋からの講義では、文字のことを話す予定にしてあった。夏休みの間に読んだ。『源氏物語』のなかで、文字にことばを書くということが、どのように書かれているのか、ということに興味があったからである。これも、先行研究をさがせば書いた論文などあるにちがいないが、それを見るよりも、自分自身の目でテキストを読んで確認して、考えてみたいと思ったのである。

それから、日本の古典では、『平家物語』(岩波文庫版、四冊)がある。「運命」の物語であることを強く感じた。『平家物語』に「運命」を読みとっていたのは、古くは、石母田正あたりの仕事がある。岩波新書の『平家物語』である。

また、『今昔物語集』を、新日本古典大系本で読んだ。五冊。『今昔物語集』は、若いとき、山田忠雄先生のもとで、国語学を勉強していたとき、旧版の日本古典大系本で読んだものである。全部のページを繰ったことはあるのだが、最初から順番に読むということはなかった。今回は、ただひたすら最初から順番にページを繰ることで読んでみた。

『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』、これらの作品は、若いころに読んでいる。ひととおりページは繰っている。だが、その読書は国語学の勉強のために読んだという傾向がつよい。が、これも、今になって、この年になって、ただひたすら読書のたのしみのために、最初から順番にページを繰るということで、読んでみたものである。いや、そのように本を読みたくなってきたのである。

夏休みには、これはここ数年のことであるが、井筒俊彦を読んだ。今年になって、岩波文庫でいくつか刊行になった。『意識と本質』(これは以前から刊行になっている)、それに『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』などである。「全集」(慶應義塾大学出版会)、「著作集」(中央公論社)、これらも持っている。これから、井筒俊彦も、折りにふれて読みかえしてみたいとおもっている。

秋にかけては、夏目漱石の作品を、新潮文庫版で出ているものを全部読むことができた。岩波版の「全集」も二セット持っているのだが、ここはわりきって、新潮文庫の新しい版で読むことにした。漱石の微妙なことばの用法に気付くところがあった。特に女性の呼称が興味深い。また、女学生ことば、てよだわことばを話す女性像というものが、漱石の作品のなかで重要な位置をしめることを確認することにもなった。この意味では、最後の遺作の『明暗』の清子が、どんなことばをつかう女性であるのか、ここが書かれずに終わってしまっていることは、つくづく残念な気がしている。

それから、読んだものとしては、ドストエフスキーがある。光文社古典新訳文庫で、『白痴』(亀山郁夫訳)が完結したので、これをふくめて、長編の『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』、それから、いくつかの短篇など読んでみた。ドストエフスキーも、さらにこれから読みかえしてみたいと思っている。

また、『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)を光文社古典新訳文庫(望月哲男訳、四冊)で読んだ。以前に新潮文庫版で読んだのであるが、新しい訳で読んでみることにした。一九世紀のロシア文学において、小説という芸術の到達点を示す作品であると感じるところがあった。

さて、来年はどれだけ本が読めるであろうか。「古典」それもひろく人文学にかかわる「文学」を読んでいきたいと思う。

2019年12月31日記

『最後の読書』津野海太郎(その三)2019-01-17

2019-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月5日
『最後の読書』津野海太郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/05/9021484

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

この本を読んで付箋をつけた箇所について、さらにすこし。
 
この本の第10章が「古典が読めない!」となっている。

『古事記伝』のことが出てくる。孫引きになるが引用してみる。堀田善衛と臼井吉見の対談である。

……臼井[吉見]氏と本居宣長の話をしていたとき、私はまだ[本居宣長の]『古事記伝』なるものをのぞいたこともなかった。それでこの著作について臼井氏に訊ねた。
「まだ読んでいないの。それは惜しい。あれは探偵小説のように面白いよ。是非読んでみたまえよ。」
 と臼井氏が言ってくれた。(略、ママ)かくて私は、その一言につられて、『古事記伝』を読んだ。
pp.141-142

そして、著者(津野海太郎)は、こう記す。

「堀田にかぎらず、かれの身近な友人たち……たとえば敗戦の二年後、『1946 文学的考察』で華々しく登場した加藤周一、中村真一郎、福永武彦の『三秀才』(と冗談で呼ばれた)も、日本の古典に、ある点では専門の学者以上に深くつうじていた。」(p.145)

さらに、この本の第11章が「現代語訳を軽く見るなかれ」となっている。日本の古典文学を、現代の作家が現代語訳することの意義について論じてある。

そういえば、ここのところに出てくる『説経節』などは、昔、学生のころに手にしたことを覚えている。(これは探せば若い時に読んだ本がまだ残って、持っているはずである。)

『古事記伝』は、私は持っている。本居宣長全集(筑摩版)を揃えて持っている。また、岩波文庫の『古事記伝』も、復刊になったものを買ってある。

去年、本居宣長関係の書物……「本居宣長」をタイトルにする本……をいくつか読んでみた。だが、まだ『古事記伝』にとりかかるにいたっていない。これは、是非とも読んでおきたいと思う。

私は、慶應義塾大学の文学部で国文学を学んだ。だからということもないが、日本の古典なら読める。普通の校注本であれば問題はない。影印本として、変体仮名、くずし字で書かれたものであっても、読める。

だが、国語学という分野で勉強してきて、これまで、日本の古典文学を、書物として、文学作品として通読するということがあまりなかった。たしかに、『古事記』も『万葉集』も『古今和歌集』も『源氏物語』も『平家物語』も、ほとんどのページをめくったことはあるのだが、最初から順番に書物として、文学作品として読むということがなかった。

もう還暦をすぎて……楽しみで日本の古典を読みたいと思うようになってきた。去年は、『失われた時を求めて』を全巻読んだ。また、年末からはドストエフスキーを読んでいる。読んでおくべきと思う世界文学の名作は他にもある。が、その他に、日本の古典をきちんと書物として自分の目で読んでおきたいと強く思う次第である。

ところで、以上の文章を書いて保存しておいてからのことになるが、2019年1月14日に、明星大学で、「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムがあった。これについて思うところがないではない。追って書いてみたい。

これは、YouTubeで公開されている。

https://www.youtube.com/watch?v=_P6Yx5rp9IU

追記 2019-01-18
「古典は本当に必要なのか」については、
やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

『最後の読書』津野海太郎(その二)2019-01-05

2019-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月28日
『最後の読書』津野海太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/28/9018078

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

読みながら付箋をつけた箇所がいくつかある。そのうちのひとつが、電子書籍についての箇所。

第7章「蔵書との別れ」の106~107ページのあたり。

ちょっと引用してみると、

「でも、いまになってわかる。私たちがあんなに元気によくしゃべることができたのは、そこに、いま私はこんなことをやっている、この先はこうやっていくつもりだ、という実践の裏付けがあったからなのだ。」(p.107)

書籍とコンピュータの未来について語った箇所である。また、紀田順一郎が、なぜ、蔵書を処分するという段階になって、電子書籍のことについて語っていないのか、ということに思いをはせての部分である。

ここには、私は、半分は同意する。

私は、かつて、パソコンが世の中に登場しはじめてころから使ってきている。そこには、引用したような、「実践」ということがあった。私のつくってみた『和漢朗詠集漢字索引』なども、その「実践」のひとつの形であると言えるかもしれない。

だが、しかし、今は、半分は違った思いがある。

今の、電子書籍……その周縁には、人文情報学というような新しい学問分野を想定することもできる……が、ある程度実現してみて……たとえば、Kindleがそうである……こんなはずではなかったのに、という思いがある。かつて「電子書籍」は「夢」であった。こんなことができたらすばらしい、みんなは、そこに「夢」を語っていた。

しかし、今、実現している電子書籍はどうであろうか。かつての「夢」を実現してくれているであろうか。

私の答えは「否」である。

とはいえ、電子書籍、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズの将来に悲観しているというのともちょっとちがう。そこに、将来の希望を見てはいる。しかし、もはや、自分が実践的にそこにかかわろうとは思わなくなってしまった。(年をとったからだと言われればそれまでである。)

私は、紙の本にもどっている。本を、古典を、文学を、読んで時間をつかいたいと思う。

「夏目漱石」は、Kindle版に全集がはいっている。それは、外出するときは持ち歩くことにしている。今は「芥川龍之介」を読むことにしている。

しかし、本当に本を読んでいると感じるのは、やはり、自分の部屋の自分の机において、紙の本を読むときである。これからの「実践」は、若い人たちにまかせたいと思うようになってきている。私は、それを眺めながら、自分で好きな「古典」を読んでおきたいのである。

追記 2019-01-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月17日
『最後の読書』津野海太郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/17/9025947

2019年に読みたい本のこと2019-01-01

2019-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

謹賀新年

今年(2019)に読んでみたい本のことなど、いささか。

まずは、折口信夫である。

私は、慶應の文学部(国文科)で学んだ。(その一方で、大学の外で、山田忠雄先生に師事して国語学を勉強したということもあるのだが。)

ともあれ、慶應の国文というところで、折口信夫を折りにふれて読む機会があった。いや、学生としては、普通の学生以上に読んだといっていいだろう。その全集(旧版)は、学部の一年の時に買ったと覚えている。育英会の奨学金がまとまってもらえる機会があった。それをつかって、折口信夫全集(中央公論社版)を、揃えたものである。

全集全巻を読むということはなかったが、その論文のいくつかは詳細にノートをとりながら精読したものである。詳しくよむと……その論文には、いくつかの論理の飛躍というべきところがあることに気付いた。それ以来ということもないが、ただ、折口がこう言っているということを根拠にものをいうひとを、私は信用しなくなっている。

また、その一方で、今になって感じることは、折口信夫を、国語学、日本語学の観点から読んだ仕事がほとんど無いことも、問題だと思っている。言語研究、国語学、日本語学の視点から読めば、折口信夫はどのように読めるだろうか。

私も、もう還暦はすぎた。新たに新規な研究テーマにとりかかろうという気もおこらない。それよりも、昔読んだ本を、今の観点から、詳しく再読してみたいという気がある。そのなかの一つとして、折口信夫を、国語学、日本語学の立場から、自分なりに読み返してみたいと思っている。

昨年からの刊行で、「精選 折口信夫」が出ている。慶應義塾大学出版会。

http://www.keio-up.co.jp/kup/gift/orikuchi.html

見ると、この選集のなかには、国語学、日本語学の巻は無いようだ。国語学、日本語学の観点から、折口信夫は読む価値はないのであろうか。そんなことはないだろうと思う。

それから、去年、本居宣長関係の本をいくつか読んだ。小林秀雄から、最近の熊野純彦にいたるまで、「本居宣長」という本を読んでみた。本居宣長は、その全集(筑摩版)は全巻揃いでもっているのだが、まだ、とりかかってはいない。これも、『源氏物語』『古事記』にかかわるところは、読んでみたい。とても、一年で読めるとは限らないかもしれないが、老年になっての読書である。いそぐこともない、じっくりと「古典」を読むことに時間を使いたい。

昨年末、暮れになってから読んだ本で印象に残っているのは、『最後の読書』(津野海太郎)がある。この本のなかで、最近のひとは日本の古典が読めなくなっていると指摘した箇所があって、深く思うところがあった。

若いときからの勉強として、国語学という分野で勉強したきた人間としては、もし、なにがしかのアドバンテージがあるとするならば、日本の「古典」を読めるということであろう。現代の校注本であれば、別に問題はない。あるいは、変体仮名で書かれた写本、版本でも読める。

日本の「古典」を、再度、自分なりに読んでおきたい。

それらか、古今東西の「古典文学」……狭義の小説にとどまらず、歴史や哲学などをふくめて……を読んでおきたい。

この年も、本を読むことで暮らしたいと思っている。

2018年に読んだ本のことなど2018-12-31

2018-12-31 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(2018)に読んだ本のことを振り返っておきたい。

正月には、こんなことを書いていた。

やまもも書斎記 2018年1月1日
これから読みたい本のことなど
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/01/8759497

読みたいと思って読めたものもあるが、読めなかったものもある。ともあれ、明治150年ということで、近代日本についていくつか読んでみようと思っていた。

そこで、読んでみたのが『夜明け前』(島崎藤村、新潮文庫版)である。幕末から明治にかけての時代、今から数十年前にはどのようなものとして描かれていたのか、読んで確認しておきたかった。この作品中、平田篤胤が登場する。江戸時代の国学が、近代の萌芽としてあったことになる。

そのこともあって、本居宣長関係の本を読んでみたいと思った。たとえば、『やちまた』(足立巻一、中公文庫版)。これからはじめて、現在、刊行されている「本居宣長」というタイトルの本をいくつか読んでみた。小林秀雄『本居宣長』からはじまって、最近のものとして熊野純彦『本居宣長』まで、読んでみた。

宣長の全集(筑摩版)も持ってはいるのだが、まだ、これには手をつけていない。

それから、読んで印象に残っているのは、なんといっても、『失われた時を求めて』である。岩波文庫版で12巻まで、残りを集英社文庫版で2巻、全14巻を読んだ。20世紀最高の文学と名高い作品である。

これは、集英社文庫版で13巻がある。また、岩波文庫版では、現在では13巻まで出ている(全14巻になる予定)。さらに、光文社古典新訳文庫版もある(これは、途中まで)。

この作品、世界文学の名作として名前は知っていたが、なかなか手を出せずにいた。ふとおもいたって、読んでみることにした。ほぼ11月いっぱいかかっただろうか。大学で教える時間以外の時間、本を読める時間のほとんどをついやして、これを読んだ。

読んでみて感じることは、この作品を自分の目で読み切ったということで、「文学」というものに対する、自分なりの新たな視点、視野がひらけてきたような気がする。

その後、プルーストからさかのぼって、ドストエフスキーを読んでいる。年内に読めたのが、『白痴』『罪と罰』。『カラマーゾフの兄弟』の途中まで。『悪霊』は年を越してからになりそうである。

ドストエフスキーを読もうと思ったのは、『白痴』の亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫版)が、今年になってようやく4巻、完結になったこともある。また、ドストエフスキーは、若い時から、これまで、折りにふれて読んできた作家である。その長編作品を、まとめて、再読しておきたくなった。

年末になってから読んだ本であるが、『最後の読書』(津野海太郎、新潮社)は面白かった。そして、老年になってからの読書ということで、いろいろ考えるところがあった。まだ、私は、蔵書を処分しようという気にはならないのであるが、しかし、読む本はいったい何を選ぶか、老年なりに考えるところが、少なからずある。

これまでに読めなかった本……広義の「文学」……歴史や哲学などをふくんで……について、古典、名著、名作を読んでおきたい。また、再読してみたい。

来年、どれだけの本が読めるかわからないが、本を読む生活をおくりたいと思う。

『最後の読書』津野海太郎2018-12-28

2018-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

ドストエフスキーを読み返している間に、気楽に読める本と思って手にしたものである。

著者(津野海太郎)は、八〇歳をむかえるという。その老年の境遇にあっての読書をめぐる、様々な思いが綴られている。

人はいずれ年をとる。老年になって、どのような読書が可能だろうか。

私ももう老眼である。本を読むときには、眼鏡(近眼用)をはずさないと読めない。字の小さい本が、読むのがつらくなってきている。文庫本など、昔の岩波文庫とか新潮文庫、まだ持っているものもたくさんあるのだが、とても字が小さすぎて読む気になれない。

まあ、新潮文庫の場合、本によっては、同一内容で改版して字を大きくして出しているのがある。それがある場合には、新しく買って読むことにしている。

ドストエフスキーを読んでいる。新しい亀山郁夫訳である。光文社古典新訳文庫のシリーズである。ドストエフスキーは、私は、古い池田健太郎の訳が好みではあるのだが、古い文庫本は、もう字が小さくてつらいと感じる。新しい亀谷郁夫訳の本は、字がひとまわり大きい。また、訳文も悪いとは感じない。いや、現代的な文学的感性を感じる訳文である。

年をとって「硬い本」は読めなくなるという。私にとって、ドストエフスキーの作品、それから、この秋に読んだ『失われた時を求めて』(プルースト)などは、そう「硬い本」とは感じないでいる。小説である。気楽に楽しめばよいと思って読んでいる。そして、この年になって、これらの作品を読んで、あるいは、再読してみて、その文学的感銘を感じている。

この本、読みながら興味深く感じたところがいくつかある。ドストエフスキーの作品を読む合間に、そのことについて書いておきたいと思っている。

『日日是好日』森下典子2018-11-09

2018-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)

日日是好日

森下典子.『日日是好日』(新潮文庫).新潮社.2008(飛鳥新社.2002)
https://www.shinchosha.co.jp/book/136351/

映画化されて話題になっている本である。読んでみることにした。

この本に接するのは、二度目である。かなり以前、NHKのラジオの朗読の時間に、この作品をとりあげていた。そのころ、たまたま、学校に通う時間帯で自動車を運転しているときに、この番組があった。自動車の中のラジオで、この本のことを知った。その時、これはいい本だなと思った記憶はあるのだが、読まずにすごして、今にいたっている。

この本を読んで(あるいは、二度目に接して)感じるところは、次の二点であろうか。

第一には、この本の文章は、耳で聴いてわかる文章であること。これは、私が、始めにこの本に接したのがラジオの朗読によってであるせいかかもしれないが、こんど、本を目で読んでみて、その平明で闊達な文章のたくみさを感じた。

第二には、これもラジオを聞いたとき、「ああ、このことは重要だな」と思って憶えていること。それは、お茶の稽古をするとき、メモをとることを禁じる場面である。新しい文庫本だと、56ページに出てくる。

古典的な芸道というのは、その教授法とともにある……これをさらに拡大して、近代になってからの学問的な知「学知」もまた、その教授法とともにある……これは、私の持論である。いつからこのことに自覚的になったかは憶えていない。しかし、このように考えるきっかけになった、あるいは、はっきりとこのようなことを意識しだしたきっかけになったものとして、この本のことがある。

以上の二点が、久しぶりに、この本を読んでみて(最初は、耳で聴いていただけだったが)、確認しておきたいことである。特に、ここで述べたことの後者の点、学知、あるいは、古典的な芸道というものは、その教授法とともにある……このことが、この本から学ぶべき重要な点であると考える。

この本は、お茶について、蘊蓄を傾けるというよりも、自分が若いときから習ってきて、その時々のエピソードをおりまぜながら、お茶の魅力について語っている。そして、これが、そのまま、お茶とは、その教授法……先生について習う……とワンセットになっていることが知られる。

もちろん、先生になどつかず、自分流に楽しむこともあっていいのだろう。そのような楽しみ方を否定するものではないが、しかし、しかるべき先生に教授してもらうことの意味、ということについて、教えてくれる。

お茶という芸事についてのみならず、学問、研究ということについても、そのあり方について、重要な示唆に富む本だと思う。