『ちむどんどん』あれこれ「はじまりのゴーヤーチャンプルー」2022-05-22

2022年5月22日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第6週「はじまりのゴーヤーチャンプルー」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_06.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月15日
『ちむどんどん』あれこれ「フーチャンプルーの涙」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/15/9490764

暢子は東京にやってきた。

いろいろと見ていて思うことはある。

批判的に見てみるならば……いきなり東京の銀座にやってきて、レストランではしゃぎすぎである。また、鶴見に行ったはいいけれども、ニーニーを見つけられず途方にくれているところに、県人会の会長の家にやっかいになるというのもできすぎている。また、そのつてで、仕事先も紹介してくれて、下宿も世話してくれて、話しがうまくいきすぎる。

まあ、ドラマであるから、都合良く作ってあるところはあると思って見ているが、このあたりは、もうすこしリアルに描いてもよかったかもしれない。

肯定的に見てみるならば……沖縄の家族の物語として見ることもできただろう。父との思い出のことが、なつかしく思い出されていた。つながっているからこそ家族、思い出は消えることがない。「椰子の実」の歌が良かった。

このあたり、比嘉の家族の物語としてみるなら、貧しいけれど、父親は死んでしまったけれど、ニーニーはどうしようもないけれど、しかし、いい家族である。

次回以降、レストランでの暢子の仕事がはじまるようだ。暢子は、クビになってしまうのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月21日記

映像の世紀バタフライエフェクト「宇宙への挑戦 夢と悪夢 天才たちの頭脳戦」2022-05-19

2022年5月19日 當山日出夫(とうやまひでお)

面白かった。録画しておいて、翌日の朝にゆっくりと見た。

アポロ11号の月着陸の時は、家にいて(たしか夏休みだった)、テレビを見ていたのを思い出す。あのころ、たしかに宇宙開発には夢があった。しかし、それは、今となってははかないものであったといえるかもしれない。

一つには、宇宙ロケットの開発は、第二次世界大戦中のドイツV2に由来する。このことは、これまでにさんざん語られてきたことであろう。そして、その中心にいたのが、フォン・ブラウンであった。以前の「映像の世紀」シリーズでも、目にした記憶がある。少なくとも、戦後の宇宙開発は、戦時中の軍事技術の上に構築されてきた。

もう一つは、現代、そして将来において、宇宙開発は、これまた軍事技術と切り離して考えることができないということだろう。現在のウクライナでの戦争は、様々な宇宙開発の技術の応用でもある。また、将来の火星探査も、これまた軍事技術と切り離して考えることもできない。

このようなことを思ってはみるのだが、しかし、一方で、宇宙開発には確かに夢がある。この番組は、宇宙にかけた夢の物語であり、また、同時にそれが、軍事技術とともにあるという現実の世界の姿の物語でもあった。そして、科学と技術の発展に根本的に必要なのは、ヒューマニズムであることを強く訴えかける内容であったと思う。

さて、次回は、スターリンとプーチンのことになるようだ。これも楽しみに見ることにしよう。

2022年5月17日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「果たせぬ凱旋」2022-05-17

2022年5月17日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第19回「果たせぬ凱旋」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/19.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月10日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「壇ノ浦で舞った男」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/10/9489216

日本一の大天狗、後白河院であった。

見どころはいくつかあったと思うが、印象に残っている野は、次の二つぐらいだろうか。

第一に、頼朝、義経、そして、後白河院、これらの思惑の交錯。誰が悪いということはないように思うが、まあ、強いていえば、一番悪いのは、後白河院ということになろうか。これも、院という立場で王家の存立を第一に考えねばならないということを考えると、なるほどこのような振る舞いもあり得るのかとも思う。

後白河院に比べれば、頼朝はどうだろうか。鎌倉に武家政権を樹立しようという意図は分かるのだが、ここは後白河院との知恵比べということになる。結果としては、義経追討のためという名目で、全国の領地の実質的支配権を手にすることになる。この流れとしては、頼朝の方が上手であったと見るべきかもしれない。

第二に、義経をめぐる里と静。この二人の女性の心理劇というものが、面白く描かれていた。まあ、結果的には、里のたくらみが裏目に出て、義経をより窮地に追い込むことになったのだが。

それにしても、里の三浦透子がよかった。これからのさらなる飛躍が期待できる女優だと思う。

以上の二つのことぐらいを書いてみる。

それから、見せ場だったのが、義経の殺陣のシーン。戦術の天才である義経だが、武芸にもたけている。

また、ちょっとだけ映っただけだったが、藤原秀衡(田中泯)が迫力があった。これから、義経の最期のところで、また登場することになるだろうか。

ところで、北条義時はというと、この回においても、歴史の流れのなかの目撃者という位置である。義時が歴史の表舞台に登場するのは、後年の承久の乱ということになるのだろうか。

次週以降、頼朝と義経の対立はつづく。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月16日記

世界サブカルチャー史 欲望の系譜「アメリカ 闘争の60s」2022-05-16

2022年5月16日 當山日出夫(とうやまひでお)

世界サブカルチャー史 欲望の系譜「アメリカ 闘争の60s」
https://www.nhk.jp/p/ts/GLP33Y7513/episode/te/M9KKVK5R1N/

「世界サブカルチャー史」ということなのだが、扱っているのは、アメリカのことがほとんどという構成であった。まあ、これは、第二次大戦後の世界において「サブカルチャー」が生まれ、そして、世界を牽引していったのがアメリカという国であるという事情を考えれば、これはこのようになることなのかもしれない。この回での例外は、英国のビートルズということになるだろうか。

しかし、六〇年代をあつかうならば、日本においては、安保闘争のこともあり、また、フランスでは五月革命もあった。これらにまったく触れることがないというのも、ちょっと物足りない気もする。また、サブカルチャーといいながら、キューバ危機など、かなり政治的なことにも言及があった。ただ、これは、時代の背景説明として必要であったともいえるかもしれないが。

私は、一九五五年の生まれなので、六〇年代というと記憶にあるうちのことになる。登場した映画などについては、憶えているものが多い。映画館で見たということではないが、その時代の記憶として、ああこのような映画があったなと思い出す。そして、あの映画は、今から歴史的に振り返ってみるならば、そのような意味があり、解釈ができるのかと、これはこれとして、新知見であった。

結局、六〇年代に生まれた、サブカルチャー……それは、カウンターカルチャーということになるのだが……この新しい流れの行き着くところは、今にいたるまで明確になっていないということなのかもしれない。この六〇年代に若者であった世代が、歳をとって社会の大人になっていくのが、その後の歴史、また、二一世紀になってからの歴史ということになろうか。

今、二一世紀の今日からふりかえってみるならば、かつてのカウンターカルチャーの熱気が、今の社会には感じられない。社会に対する、世界に対する、希望と絶望がないまじった混乱した状況というものを、今となっては懐かしく思い出すことになる。(このようなことを感じるのは、私自身が年をとってしまったということなのだと思うが。)

こうもいえようか……社会が健全であるためには、その社会に対する抵抗の成分をふくんでいなければならない、と。この意味では、六〇年代のカウンターカルチャーの流れの検証ということは、今になお必要なことであろう。

ところで、番組のなかで、「ティファニーで朝食を」が出てきていた。映画は見ていないが、原作(翻訳)は読んでいる。この作品、再度、読みなおしてみたくなった。

次回は、六月の放送になるらしい。続きもまた見ることにしよう。

2022年5月15日記

『ちむどんどん』あれこれ「フーチャンプルーの涙」2022-05-15

2022年5月15日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第5週「フーチャンプルーの涙」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_05.html

前回は、
やまもも書斎記 20220年5月8日
『ちむどんどん』あれこれ「青春ナポリタン」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/08/9488621

五月一五日は、沖縄復帰の日である。この日の日付は、憶えている。特に沖縄に関心があったということではなく、たまたま京都の葵祭の日と同じであるということで、記憶に残っているのだが。

暢子は、東京に行くことになった。そこには、賢秀ニーニーの力があった。ボクサーとして成功したということのようだ。これで、比嘉家の借金もどうにかなり、暢子も東京に行けることになった。

沖縄編は、もうちょっとあっても良かったかと思うが、ここは、五月一五日に合わせて、東京編に展開していくということなのだろう。

ちょっと気になることがいくつかある。

第一に、フーチャンプルー。

比嘉家は貧乏である。それは分かっているのだが、晩御飯が、フーチャンプルーだけということは、どうかなと思う。もっと他に食べるものは、なかったのだろうか。

第二に、サンダル。

一九七二年、暢子は山原から東京に旅立つのだが、バスに乗るときサンダルだった。学校には靴を履いて通っているのだが、東京に行くのに、飛行機になるか船になるかはわからないが、サンダル履きで行くというのは、どうなのだろうか。

ささいなことかもしれないが、ちょっと気になったことである。

それから、さらに書いておくならば、何故、ニーニーはお金を、比嘉家に送らなかったのだろうか。自分の家族の家に送ればいいのにと思うが、ここは何か事情があったのだろうか。

それに、その当時、日本から沖縄(返還前)にお金を送るとして、円の現金で、しかも一万円札を普通の封筒に入れて送るということは、あったのだろうか。

いろいろ気になるところはある。

沖縄編では、いろんな場面で暢子は「ありがとう」と言っていたように思う。このドラマは、家族とありがとうの物語なのかもしれない。

次週から、東京編がはじまるようだ。

さて、暢子は東京に行くとして、住むところとか、働くところとかの、あてはあってのことなのだろうか。とにかく東京に行きさえすればどうにかなるでは、ちょっと無謀なような気もする。

ともあれ、東京での暢子の生活がどのようになるか、楽しみに見ることにしよう。

2022年5月14日記

追記 2022年5月22日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月22日
『ちむどんどん』あれこれ「はじまりのゴーヤーチャンプルー」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/22/9492792

映像の世紀バタフライエフェクト「ヴェルヴェットの奇跡」2022-05-12

2022年5月12日 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀バタフライエフェクト「ヴェルヴェットの奇跡 革命家とロックシンガー」

二〇二二年五月九日の放送。録画しておいて、翌日の朝に見た。

これを見て思ったことはいろいろとあるが、まず何よりも、この番組はいつの編集になるのだろうかという、素朴が疑問がある。はたして、二〇二二年二月の、ロシアのウクライナ侵略の後の編集にかかわるものなのだろうか。チェコスロバキアの、プラハの春とその弾圧、そして、その後の一九八九年の共産主義国家の崩壊、このことを語るのに、今年のロシアとウクライナとのことを抜きにしては、もはや語ることはできない。歴史の結果、共産圏諸国は崩壊したが、その後さらに次の段階として、ロシアのことがある。(さらには、中国のこともあるのだが。)

これまでの「映像の世紀バタフライエフェクト」では、かつての「映像の世紀」シリーズで使った映像資料を主につかって、再編集したものであった。だが、この回は、ほとんどが新しいものである。(昨年、「映像の世紀」シリーズを再放送したのは、その全部を見ている。)

ただ、ロックが革命を導いたとするのは、やや短絡的であるかとも思う。だが、それに様々な社会の動き、人びとの思いを象徴させることはできる。

月並みな感想になるが、つまるところは、表現の自由とメディアということになるにちがいない。

番組では、中国の劉暁波のことに言及があった。(中国において、劉暁波が再評価される動きが表面化するときがあるとするならば、その時こそ、中国共産党一党支配の終わりの始まりかもしれないとも思う。)

2022年5月10日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「壇ノ浦で舞った男」2022-05-10

2022年5月10日 當山日出夫(當山日出夫)

『鎌倉殿の13人』第18回「壇ノ浦で舞った男」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/18.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月3日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「助命と宿命」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/03/9487006

圧巻の壇ノ浦であった。

壇ノ浦の戦いは、これまでドラマで多く描かれてきていると思うが、やはりこの『鎌倉殿の13人』における描き方は傑出したものといっていいだろう。スケールも大きく、また、細部においても細やかに作ってあったと思う。

ただ、できれば、知盛の最期のところを描いてほしかったという気がする。知盛の最期は、『平家物語』のなかでも特に印象に残るところの一つである。

そして、頼朝と義経の確執。権力を掌握するものとしての頼朝、軍事に秀でたものとしての義経。相携えて協力すればいいようなものかもしれないが、そこは、兄弟である。兄弟であるが故に、連携するということができないのだろう。権力者である頼朝としては、義経を許すわけにはいかない。

ただ、この回においては、義時は歴史の目撃者の立場に立っている。前回、権力の側にたつことになったことを描いていたが、源平の争乱のなかでは、ただ歴史の推移を見守るだけのようである。

ところで、見ていて気づいたことであるが、後白河院の御所において、丹後の局(鈴木京香)が座るとき、立て膝で座っていた。これは、歴史考証としては正しい。

次週以降、頼朝と義経のその後を描くことになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月9日記

追記 2022年5月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月17日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「果たせぬ凱旋」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/17/9491303

「世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ理想の50s」2022-05-09

2022年5月9日 當山日出夫(とうやまひでお)

世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ理想の50s
https://www.nhk.jp/p/ts/GLP33Y7513/episode/te/5R612YJ33Z/

二〇二二年五月七日の放送。録画しておいて、翌日の朝に見た。

面白かった。が、率直な感想としては、ちょっと内容を詰めこみすぎてあるかなという印象がある。第二次世界大戦後の世界を動かすことになる、アメリカ発のサブカルチャー、それは、二〇世紀の後半の歴史を大きく変えることになる。若者の反乱の時代であり、ベトナム戦争反対であり、またさらには、共産圏の崩壊ということにまでいたる。その流れのスタートを、アメリカの戦後五〇年代にもとめている。

映画とか、テレビとか、音楽とか……まさに、サブカルチャーのジャンルになるが……において、どのようなアメリカという国が描かれ、どのような生き方が理想とされ、そのなかで、若者たちの時代になって、何を生み出していったのか。

興味深かったことは、サブカルチャーを生み出した若者たちは旅に出た。一人で世界に出て行くことになる。これはこれでよく分かることなのだが、番組では、それは、西部劇に描かれた男たちのイメージと重ねて解説していた。これは面白い指摘である。自由で独立した人間の生き方を、新しい時代の若者がもとめた。しかし、それは、西部劇に見られる、ある意味で保守的なアメリカの人びとの生き方にならったものでもあった。

西部劇もまた、アメリカという国が、近代になって新たに作りだした「伝統」……番組ではこのような表現は使ってはいなかったが……であることも重要だろう。白人によるフロンティア開拓の物語としての西部劇である。

それから、紹介されていた映画などのいくつか、『ローマの休日』『真昼の決闘』『裏窓』など、どれも記憶にあるものだが、なるほどサブカルチャー史という歴史の文脈のなかにおいてみると、そのような解釈ができるのか、新鮮なおどろきもあった。

次週も録画しておいて見ることにしよう。

2022年5月8日記

『ちむどんどん』あれこれ「青春ナポリタン」2022-05-08

2022年5月8日 當山日出夫(とうやまひでお)

『ちむどんどん』第4週『青春ナポリタン」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_04.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年5月1日
『ちむどんどん』あれこれ「悩めるサーターアンダギー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/01/9486403

暢子の家にもいろいろとあって、結果的には暢子は自分のやりたいことを見つけることになった。

料理部の助っ人として、産業まつりヤング大会で、山原そばを作ることになった暢子。しかし、アクシデントがあって、途中で料理を変更することになる。作ったのは、ナポリタンである。そして、優勝する。

どうもこのあたり、うまく話しが進みすぎている気がするけれども、これはこれでいいのだろう。試作、試食もしないで、いきなりナポリタンを提供するというのも、ちょっと無理があるようなのだが、いいとしようか。

それよりも、気になるのは、東京に行ってレストランで働きたいという暢子であるのだが、具体的にどうするということは、まったく白紙のままである。(まあ、普通に考えるならば、料理学校に行って、調理師になるというコースがあるのだけれど、どうなるのだろうか。)

本土復帰前の沖縄である。まだ、日本に自由に行ける時代ではない。これも、高校を卒業して、五月になれば本土復帰というスケジュールで考えることになるのかと思う。

ところで、比嘉家のきょうだいは、それぞれに苦労があるようだ。ネーネーの良子は、もうひとつ恋がはかどらなない。妹の歌子は、音楽の先生に追いかけられている。気楽なのは、ニーニーの賢秀であるが、どうやら詐欺師にひっかかったらしい。なけなしの960ドルは、どうなってしまうのだろうか。

この時代、スパゲッティといえば、ナポリタンだったなあとも思う。すくなくとも、パスタということばは、それほど普及していなかったはずである。

次週、暢子は沖縄を離れることになるのだろうか。楽しみに見ることにしよう。

2022年5月7日記

追記 2022年5月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年5月15日
『ちむどんどん』あれこれ「フーチャンプルーの涙」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/05/15/9490764

「ふたりのウルトラマン」2022-05-06

2022年5月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK ふたりのウルトラマン
https://www.nhk.jp/p/ts/PN3P16XW6Y/

私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれであるので、ちょうど放送のときテレビで見ていた世代になる。(ただ、その当時は白黒のテレビだったが。)

ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブン……これらは、ほとんど見てただろう。

だが、それをどう解釈するか、どのような意味があるかということは、小さいときには、考えもしなかった。それを考えてみるようになったのは、学生をすぎてからのことになる。

たしか、佐藤健志の本を読んでだったと憶えている。このあたり記憶で書いているので、どう不確かなのであるが。このように解釈していたかと思う。怪獣=ソ連、科学特捜隊=自衛隊、ウルトラマン=米軍……このような図式であった。東西冷戦の時代である。もし、共産党軍が日本に攻めてくるようなことがあったとして、自衛隊では防ぎきれない、それを助けてくれるのが、アメリカの軍隊である。

さて、このような解釈が正しいかどうか、今となっては、ちょっと割り切りすぎているような気もする。しかし、まったく的外れではないようにも思える。

とはいえ、ウルトラマンがある時代に生まれた作品であり、その時代のなかでどのように捕らえることができるのか、これはこれとして興味深い視点である。

ウルトラマンの製作に、金城哲夫という人物が関わったこと、そして、金城は沖縄の出身であることも、確か佐藤健志の本で知ったことである。

また、その監督をつとめた実相寺昭雄の名前を知ったのは、学生になってからのことだったろうか。子どものときは、なんとも思わずにみていたドラマであるが、しかし、思い出してみると、実に斬新な映像の演出であったと、記憶の片隅にある。

ところで、NHKのドラマである。沖縄復帰五〇年ということで作られたドラマである。そう思ってみることになるせいだろうが、確かに、ウルトラマンには、沖縄が影を落としている。かつて独立国であった琉球は、沖縄県として日本の支配下にはいり、戦後アメリカのもとにあった。そして、東西冷戦の時代であり、沖縄にはアメリカ軍が駐留している。このような時代背景を、いろんな意味で反映したところに、ウルトラマンの誕生があったことになる。

なぜウルトラマンは、地究にやってきて人類を助けるのか。どこからやってきたのか。そして、怪獣はなぜ、人類を襲うことになるのか。ただの特撮娯楽番組とはいいきれない、複雑な問題をそこに見出すことができる。

番組を見て思ったこととして、ウルトラマンは、ニライカナイの海の向こうからやってきた神であるのか……なるほど、このような解釈もできるのかと思った。番組中では、折口の名前がちょっと出てきていたが、ここは、折口信夫の説を解説するところがあってよかったようにも思える。

沖縄復帰五〇年の番組としては、異色の作品であると思うが、見ていろいろと考えるところがあった。

2022年5月5日記