「ドキュメント72時間SP フランス・パリ 街角のマンガ喫茶で」2024-07-27

2024年7月27日 當山日出夫

ドキュメント72時間SP フランス・パリ 街角のマンガ喫茶で

私はマンガは読まない。たぶん、私ぐらいの世代が分かれ目になる。マンガは子どものときに読むもので、大きくなったら読まない。私が大学生のころ、まさに、大学生がマンガを読むということで問題になった時代である。私の場合は、読まないという選択肢をとったことになる。ちなみに読まないと決めているのは、マンガの他にはSFがある。これまで読む範囲をひろげると収拾がつかなくなる。

パリにもマンガ喫茶がある、ということを知った。かなり以前からあるらしい。

見ていて一番初めに気になったのは、フランス語版の日本のマンガが、日本と同じように右に開いてページをめくる、つまり、縦書きの本の方式になっていることである。外国にマンガが翻訳されるとき、文字が横書きになるので、横書きように左に開くスタイルに本の作り方を変える、ということだったかと憶えているのだが、フランスの場合は、そうではないらしい。このあたりの事情、現在、他の国ではどうなっているのだろうか、気になる。(文字を立てに書くか、横に書くか、右から読むか、左から読むか、それによって本の作り方がどうなるのか、という観点からの問題である。)

読まれているのは、タイトルだけは私でも知っている作品が多くあった。無論、なかには知らない作品もたくさんあったのだが。興味深いのは、読まれているのは日本の少年マンガというジャンルの作品であること。少女マンガの類は、好まれないらしい。私はマンガには疎いのであるが、日本の少女マンガというジャンルが独自の表現のスタイルをもったものであるということは、重要かもしれない。それが、他の国ではどう読まれるか、読まれないか、これは興味深いことでもある。

マンガ喫茶でたまたま出会った人が、日本のマンガのフランス語版を作る会社につとめていて、翌日その会社を訪問して……というあたりは、どうもできすぎている。本当に偶然だったのだろうか。(フランスで出版される日本のマンガがどうやって作られているのかは、事前にリサーチしていることだと思うけれど。)

そのように編集して作ったせいかもしれないが、いろんな人がやってきている。いわゆる人種としても、多様である。また、社会的階級も多様であるようだ。大学院で法律を学んでいる学生もいれば、仕事を探している人もいる。はたして、フランスで日本のマンガは、どのような人びとに読まれているのだろうか、ということは気になるところである。

フランスの人びとの生活のあり方、家族についての考え方、社会の断面というべきいろんなものが凝縮されていたと感じる。

私はマンガを読まないという暮らしをしているが、これはこれでいいと思うことにしている。ひょっとすると、損をしているということがあるのかもしれないが、それはそれでいい。

2024年7月26日記

「オリンピック 聖火と戦火」2024-07-26

2024年7月26日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト オリンピック 聖火と戦火

「映像の世紀」シリーズでは、これまでにオリンピックを何度も取りあげてきている。たしか、東京でのこの前のオリンピックのときも、あつかっていたかと憶えている。

この回でとりあげていたのは、主に、ベルリンでのオリンピック。それから、ミュンヘンでのテロ事件のこと。どちらも、これまでにいろんな番組で取りあげられてきたことである。特に、目新しいところはなかったとは思うのだが、しかし、改めてオリンピックと、その時の国際情勢を考えると、この二つを大きくとりあげることは意味のあることかと思う。

オリンピックの理想は、確かにクーベルタン男爵の語ったとおりなのであるが、しかし、それを実現するのは難しい。特に今年のパリ大会において、ウクライナ、ロシア、イスラエル、パレスチナのあつかいは難しいところがあることは理解できる。

タテマエの議論であり、きれいごとにすぎないことは分かっていても、スポーツの世界に政治を持ち込むことは、してはならない……このことは、忘れてはならないだろうと思う。その一方で、現実の国際情勢のなかでどう判断するかは難しい問題がある。

番組では触れていなかったが、ロサンゼルス大会、そして、モスクワ大会と、東西冷戦のまっただなかでの大会のことも忘れてはならないことである。

オリンピックが国威発揚の場でありえたのは、北京のときが最後になるのかもしれないとは思ったりする。

ところで、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』は、放送できないのだろうか。部分的に見ることはあるのだが、全体としてどのようなものであったか、非常に興味がある。まあ、ヒトラー賛美をふくむような映画を今の時代に放送できないのかとは思うが。

パリのオリンピックは、あまりテレビでも見ることがないだろうと思う。ニュースの時間にちょっと見るぐらいかなと思っている。はっきりいって、もうオリンピックには、ほとんど関心がない。

一九六四年の東京オリンピックのときのことを憶えているせいかもしれないが、どうしても近年のオリンピックからは関心が遠のいてしまうところがある。

2024年7月25日記

「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (3)イニシエーション」2024-07-25

2024年7月25日 當山日出夫

100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (3)イニシエーション

神話について語っているのが基本のはずだが、なんとなくそれて物語の構造とか、さらには、それにどのような人間の人生の教訓が投影されているのか、という方向に向かっているような気がする。これは、神話の分析というよりも、神話というものを作ってきた人間とはどんなものなのか、どのようにして人生に意味を見出してきたものなのか、とい観点から考えるべきことなのかとも思う。

ただ、イニシエーションというと、通過儀礼として、一般にあるいは文化人類学の用語としてもちいる。私が、このイニシエーションということばを憶えたのは、学生のときに文化人類学の講義を聴いてのことである。さまざまな試練であったりするが、場合による擬似的な死を体験するということもある。そこからのよみがえりを経て、新たな人生をスタートすることになる。

まあ、朝ドラでときどきヒロインが水に落ちるのは、ドラマの構成としては一種のイニシエーションなのかと思って見ている。(ただ、今の『虎に翼』の場合は、あまりそういう意図を考えて作ってはいなかったようだが。)

どうでもいいことかもしれないが、この番組で紹介されている限りではあるが、どうにも男性中心的に考えているようである。ちょっと気になるところがあったりもするのだが、番組の作り方としては、特にこのような面には立ち入らない方針のようである。これはこれで一つの方針だと思う。

2024年7月23日記

「和歌山 格安のガソリンスタンドで」2024-07-24

2024年7月24日 當山日出夫

ドキュメント72時間 和歌山 格安のガソリンスタンドで

地方都市郊外のガソリンスタンドであるが、こういう場所でいろんな人がやってくるものだと思う。

ラーメン屋さんの車とか耕運機とか代行運転とか。

印象に残っているのは、高野山に行って帰ってきた家族。身近な家族、しかも子どもを亡くした場合、その気持ちを受け入れてくれる場所が必要になってくるのだろう。たしかに高野山は、日本にある数少ない霊的な場所かもしれない。ただ、今の日本では、このような場所が少なくなってきているかと感じるところもある。

一番おどろいたのは、ブタを乗せている女性。ペットとして飼うには、ちょっと大きすぎるような気もするが、自動車に乗せて移動しているぐらいなのから、とても大切な存在なのだろう。

東北を自動車で二週間の旅をしてきたという夫婦。いろんなことがあったのだろうと思う。

今では、自動車に乗るのは、朝、娘を仕事に送って行くときぐらいになってしまった。ガソリンスタンドもほとんど行かない。最近、セルフのガソリンスタンドばかりになってしまって、定期的にタイヤの空気圧の点検をするのが、難しくなってきた。

2024年7月23日記

「欲望の資本主義 2024夏特別編 実感なき株高の謎」2024-07-23

2024年7月23日 當山日出夫

BSスペシャル 欲望の資本主義 2024夏特別編 実感なき株高の謎

はっきりいって、経済のことはまったくわからない。だが、経済について考えることが、社会について、歴史について、人間について考えることにつながる、という認識ではいる。特にこれからの時代、経済を抜きにして人間の世の中のことを語ることはできないだろう。

私の世代だと、バブル崩壊ということは記憶にあることである。バブル景気のころ、たしかNTTの民営化のときだったが、NTT株を買わないやつは馬鹿である、というような雰囲気が、私の身の回りにあった。まあ、私自身は何の興味もないことであったが。

株式投資ということ、特に、長期的な視点にたっての投資は、経済の発展のために重要であるということは理解できるつもりだが、しかし、では、会社とは何のために存在しているのか、分からなくなったのが今日かもしれない。会社の資産価値を高めることが経営者の責務であるかもしれないが、だが、それはあまりに短期的な視野のことであるようにも思える。

もし東芝の株を買って投資することが出来たとしても、では、その会社はこれからどんなことをやってくれるのか、それは、日本という国家や国際社会にとって意味のある仕事なのか、判断できる人はいないかもしれない。あるいは、アメリカのIT企業は、いったい何のために存在しているのだろうか。(まあ、そのおかげで生活が便利になったということはあるのだが。)

番組では言っていなかったが、これからは、AIを使った取引が中心になるだろう。AI対AIで、売り買いの判断が交錯することになる。それを、ごくわずかの時間の間に繰り返す。瞬時に変化する株価の上下で、利益を得ようとする。そこに人間の判断の介在する余地はない。こうなると、経済とは、いったい何であるのか、わからなくなる。

ますます、実際に働いている人間の実感から遠いところで、株価だけがAIによって動いていく。それは、一部の人には利益をもたらすだろうが、多くの勤労者に実感できる生活の豊かさということにはならないのかもしれない。

あるいは、AIによる取引による瞬時の乱高下の株価に実体経済がふりまわされて破綻をきたす、そのような近未来を描くこともできようか。

富の偏在が社会全体にどのような変化をもたらすことになるのか。国家などの規制から自由でありたいとするのが、今のグローバルな資本のあり方であろう。だからといって、国際的な巨大資本が、国家の意思決定に影響を及ぼさないとはいいきれない。

多くの勤労者である人びとが、働いていることの実感を得られないようになったとき、世界全体にどのような意識の変革が起こることになるのか、これは誰にも予測できないことなのだろうと思う。そうなってみないと分からないということになる。

番組のなかではアベノミクスが失敗とも成功とも言っていなかった。しかし、少なくとも日本国内で株価が上がったとしても、円安になれば、国際的にその価値は目減りする。これは、誰が考えても分かりそうなものだけれど。

最後に、最近の話題でいえば、JAMSTECの「しんかい6500」の後継機を開発するような企業があるなら、未来に向けた投資も意味あるものかと思ったりするのだが。

2024年7月16日記

『光る君へ』「一帝二后」2024-07-22

2024年7月22日 當山日出夫

『光る君へ』「一帝二后」

脚本の大石静は、朝に再放送をしている『オードリー』も書いている。これ見ていて思うことは、大石静は人間のこころの中にある毒というか、邪悪なもの部分を描くのが巧いということである。というよりも、基本的な人間観の問題かもしれない。人間は、心で思っていることと、行動に現れることとは、異なっている。人間とはそのようなものなのである。

『源氏物語』は、不義密通の物語である。藤壷であり、女三宮、である。ドラマの作り方としては、まひろの体験が、その後の『源氏物語』に投影されているということになるのかもしれない。生まれた子ども、賢子……後の大弐三位である……を見る、藤原宣孝のまなざしは、女三宮に生まれた子どもを見る光源氏に重なるものがある。

それにしても、生まれたての赤ちゃんに『蒙求』を読んできかせてもとは思うのだが、まあこれはまひろの趣味というか、脚本の好みであろう。女の子なら、この時代の貴族だったら三代集……古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集……かなと思うのだが。

まひろは宣孝と結婚してから、あきらかに家の調度も着るものもよくなっている。端的にいえば、貧乏からすこしお金持ちになったのである。

映像的に興味深かったのは、彰子の立后の儀式。実際どうだったか、考証してということなのだろうと思うが、まああんなものだったのかなと思って見ていた。

定子が亡くなった。その死体の側に一条天皇がかけつけていたのだが、もう驚かない。このドラマでは、平安貴族の死のけがれということを描かない方針である。

2024年7月21日記

『虎に翼』「女やもめに花が咲く?」2024-07-21

2024年7月20日

『虎に翼』「女やもめに花が咲く?」

このドラマの意図はわかるつもりなのだが、それが多くの視聴者の共感を呼ぶかどうかは、微妙だろうなあと思う。これまで、このドラマはかなり批判的に見られてきたという面がある。一方で、絶賛する人も多数いるのだが。その批判を気にしてのことなのだろうか、ヒロインが水に落ちる場面があった。

近年の朝ドラだと、『てっぱん』『あまちゃん』『ごちそうさん』『とと姉ちゃん』などで、ヒロインが水に落ちるシーンがあった。これは、見ていて意味のあることだった。通過儀礼、イニシエーションとしての、水に落ちるということである。水に落ちて、いったん擬制的に「死」を経ることになる。そして生まれかわって、新たに人生を始めることになる。その転機を象徴するものとしての、水に落ちるということであった。

しかし、今回、『虎に翼』で寅子が水に落ちて、生まれかわったという運びにはなっていない。ただ、これまでの朝ドラの慣例にしたがってヒロインを水に落としたというだけのようだ。ここには、ドラマを作るうえで、その必然性のない無駄な場面であったとしかいいようがない。まあ、好意的に解釈すれば、水に落ちるシーンを入れることで、古くからの朝ドラの視聴者の関心をひきつけたかった、おきまりのシーンですよ、ということだったのかもしれないが、その効果はなかったというべきである。

まあ、強いていえば……かつては、自分の理想のためには穂高先生を罵倒していた寅子が、暴力はいけませんと、言うようになったことになるのかもしれないが、見ていてそのようには理解できなかった。自分の過去の言動を反省して生まれかわったようには見えない。

新潟に行ってからの人物造形が、どうにもステレオタイプである。田舎=前近代的=悪、それに対して、東京=近代的=善、となっている。まあ、はっきり言って、その昔、漱石が『坊っちゃん』を書いた時代ならいざしらず、現代では、地方をこのようなステレオタイプで描くことには、基本的に無理がある。

地方にはその地方なりの生活のルールがある、ということは認めなければならないと私は思う。それを一方的に前近代的な悪として、否定するだけでは、将来にむけての展望が描けない。これからの社会において、たとえば、コモンズとか、コミュニティとか、アソシエーションとか、いろいろ言われる。要するに、人びとの共同体としてのつながりの重視ということである。その一方で封建的とか家父長的とかいう側面は否定されることになる。これは、現代の価値観からするとそうなる。

では具体的にどのような人びとの共同体としてのつながりを構築していけばいいのか、模索しているのが、今の日本であると言っていいだろう。

このドラマでは、その古くからの共同体の悪い面だけを描いている。はっきりいって、こんな視点から地方を見るのは、時代錯誤であるとしかいいようがない。さらにいえば、二一世紀のこれからの日本の社会の共同体がどうあるべきか、ということについて、考えてみたという形跡さえうかがえない。

戦後まもなくの小説に石坂洋次郎の『青い山脈』がある。戦後の地方都市を舞台に、それまでの因習的な生活になじんだ人びとと、戦後の新しい民主主義で生きていこうとしてる若い人びととの、軋轢や葛藤を描いている。戦後、日本の地方都市において見られた民主主義の風である。この風が、新潟県の三條にも吹いてきていたと考えるのが普通だろう。

戦後になって憲法がかわり、法律も民主的なものになった。裁判所も変わった。新しい民主主義の時代に、裁判所としてはどうあるべきか、いろいろと困惑したり悩んだりしたというところもあったにちがない。

しかし、このドラマでは、民主主義の時代になって試行錯誤している地方の裁判所の姿、その職員の仕事についての考え方、というものを描こうとしない。どうにも、視野が狭いとしかいいようがない。

戦後の民主主義を体現しているのは、寅子と航一しかいないようである。

書記官の高瀬については、もうちょっと描き方があたのではないかと思う。戦後の民主主義を実現しようと思う理想と、地方の因習的な生活スタイルとのなかで、煩悶する新しい時代の青年として描いてもよかったのではないか。

あいかわらず、このドラマでは、寅子が法律に従って判断を下すという部分を描かない。おそらく、意図的に描かないように作ったのだと思うけれど、それならば、なぜ裁判官を主人公にしたドラマであるのか、とも疑問に思う。

寅子は、いずれ三條から離れていく。しかし、高瀬は、その後もとどまることになるのだろう。周囲の人間関係はもとのままである。こう考えると、高瀬に処分を下すという判断は、よかったのだろうか。処分したことによって、暴行の一件は解決したかもしれないが、しかし、そもそもの問題は、なんにも変わっていない。これで解決したとするのは、とおからず三條を離れていくことになる寅子にとっては満足かもしれないが、高瀬にとって本当にいいことだったかどうかは、疑問の残るところである。

この仕事をしている以上どんなことがあっても手を出してはだめ、これはまさに正論なのであるが、その後のことばに疑問がある。寅子の言っていた、高瀬の相手になった人について「ああいう人たち」というのは、寅子から見れば封建的因習にそまった遅れた人たちということかもしれない。これは、あきらかに差別的な発言である。しかもこれを他の裁判所職員に聞こえるように言っている。ここは、そのような社会、地域なのである。裁判官が、裁判所のなかでこのようなことを言っていいものだろうか。裁判所を離れて、個人的に話すべきではなかったかと思うのだが、どうだろうか。少なくとも裁判所のなかにおいては、法の下の平等、思想信条の自由は、絶対にゆずることのできないことのはずである。

寅子は、明らかに三條の弁護士を蔑視している。自分とは異なる価値観の世界にいるからといって、そのような視線で見るのは、裁判官としてどうなのだろうか。別にその弁護士は、法の網をかいくぐって悪事をはたらいたということではないはずである。それなりに法の秩序をまもっている。それは、古くさい地域の悪弊としか寅子には見えないかもしれないが、犯罪ではない。

この事件の最大の被害者は、川に突き落とされた寅子のはずなのだが、このことは処分の中にふくまれるのだろうか。このことについては、まったく言及がなかった。仲裁に入って巻き添えをくらった寅子が不運だったで済むことなのだろうか。このあたりの描き方も、どうも釈然としない。場合によっては、川に落ちたということをことをあらだてて事件にしないということで、高瀬書記官に貸しを作ったことにもなるのだが、そういうことにはなっていない。

自分の理想は違うものであっても、その地域の人びとの道徳、あるいは、地域の生活の習慣というものを尊重することも、裁判官にはもとめられることではないだろうか。山林の境界を双方納得できる結論にいたったことは、悪いことなのだろうか。だが、裁判となった場合には、公正に法律にもとづいて判断されなければならない。ここで生じる矛盾や葛藤こそ、寅子の成長に必要なものであろう。しかし、その肝心のところの、法律にもとづいた判断を避けているのが、このドラマの作り方でもある。

兄弟を戦争で亡くした高瀬書記官のこころの空白を法律はすくうことはできない。法律は道徳ではないからである。では、どうすべきなのか。その地域のなかで培われてきた伝統的な死生観のなかで時間をすごすしかないのかもしれない。あるいは、戦後になって出てきた新興宗教に身を委ねるか。そうでなければ、都会に出て孤独な個人として生きていくことになるのか。さてどうすべきか。このようなことを、寅子は考えてのことだったのだろうか。

寅子のことばによって高瀬書記官は、公務員としては正しく生きていくことができるだろう。だが、それは、人間として幸せに生きていくこととは、イコールではない。この機微が、このドラマからは伝わってこない。高瀬書記官は、これからこの地で幸せに生きていくことができるのだろうか。

地方はたしかに古くていやなところもある。だが、そのような生活のなかで、問題となった山林の自然も、人びとの生活も、伝統的な倫理観も、時間をかけて醸成され守られてきたということへの、リスペクトはあってしかるべきだと、私は思うのである。近代の行き過ぎを批判的に反省しなければならない今こそ、単純な過去の全否定という短絡的な発想から自由でありたい。三條の美しい自然は、そこに暮らしてきた人びとの生活とともにあったのである。

「ああいう人たち」という言い方からは、戦後民主主義も法の正義も感じることはできないのである。

2024年7月20日記

「シリーズ 知られざる島の歴史旅 (2)帰りたい 〜火山島・青ヶ島 全島避難の軌跡〜」2024-07-20

2024年7月20日 當山日出夫

シリーズ 知られざる島の歴史旅 (2)帰りたい 〜火山島・青ヶ島 全島避難の軌跡〜

これは面白かった。

青ヶ島は、たしか「100カメ」の最初のころの放送でとりあげていた。これも面白かった。

いろいろと思うところはあるが、たまたまなのか、意図的なのか、東京都知事選挙のことと重なる。自治体のリーダーに求められる資質として、緻密な世話焼きである、と磯田道史が言っていたのは、そのとおりだと思うが、はたして都知事選の結果は、どう見るべきだろうか。あいつにならなくてよかった……と思って見た人がかなりいるのではないだろうか。少なくとも自治体の構成員の対立分断をあおるような発言(それが正義であると信じるとしても)をはばからないような人物は、リーダーにふさわしくない。

青ヶ島の生活について、リスクもあるが豊かさもある、そしてそれを支えるのが信仰である、というのは至言であると私は思う。青ヶ島に還住した人びとが、まず作ったのが神社であるというのは象徴的である。また、島に帰るにあたって、島民の人びとが睦み合うことを説いて回ったことも重要である。それを今でいえば、コミュニティーの形成と維持ということになる。

また、故郷というものは自分の体の一部である、とも言っていた。これもそのとおりだろう。(明治になって都市部に近代をもとめてやってきた地方出身の若者たちにとって、故郷とはどんなものだったのかと、改めて思うところがある。)

ちょっと気になったこととしては、島に還住をはたしてから、検地がおこなわれたとあった。この島では、いったい何を年貢として納めていたのだろうか。

番組のなかで言及されることがなかったが、私の記憶にある範囲だと、伊豆大島の三原山の噴火で、全島避難ということがあった。このときの記録とか、どのようになっているのかと思う。

2024年7月19日記

「かあちゃんは好敵手 棋士・藤沢秀行と妻モト」2024-07-19

2024年7月19日 當山日出夫

時をかけるテレビ かあちゃんは好敵手 棋士・藤沢秀行と妻モト

見ていて印象に残ったのは、藤沢秀行が自分の家で棋譜を見ながら碁を打っている場面。非常に甲高い音で碁石を打ち付けていた。普通、あんなに大きな音をたてて碁を打たないだろうと思うのだが。気迫というか、エネルギーを感じるシーンだった。

今から二〇年ほど前の番組であるが、この時代には、このような生き方をする人がいて、それを番組に作ることができたのだなあ、ということを感じる。今では、もしこのような人物、家庭があったとしても、はたしてこのような放送が可能だろうか。

無頼派ということばも、今ではもう死語になってしまったかと思う。

しかし、見ていてなんとなくこういうのも人間の生き方としてあるのだな、人間というのはこういうものなんだなあ、と感じるところがある。

番組の最後に仏壇が映っていた。「無明居士」とあったのが、藤沢秀行の戒名ということだと思うのだが、いかにもふさわしい。

2024年7月18日記

「生命の星・地球博物館」2024-07-19

2024年7月19日 當山日出夫

ザ・バックヤード 生命の星・地球博物館

この施設のことは知らなかった。見てみると出来たのが一九九五年ということなので、私が東京から離れた後のことになる。

地球の歴史についての博物館であるが、興味深いのは、神奈川県の自然史博物館という性格を持っていることである。このような施設が、各都道府県にもっとあってもいいと思う。その地域の生態系、動物や植物、昆虫、また、地質、などなどについて、総合的にコレクションし研究するという施設があるべきかと思う。

特に面白かったのは、地層の標本。なるほど、ああいうふうにして地層の標本を作るのかということと、そこからいろんなことが分かるというのも面白い。

小田原城の石垣の石がどこから来たのかということも面白かった。このような調査は、全国の城や城跡について、どれぐらい行われているのだろうか。(もし実施するとするならば、歴博と科博の合同研究というような形になるのかもしれない。今の日本で、そう簡単に予算がつくような研究ではないかもしれないが、興味のあるところである。)

2024年7月18日記