「ミュンヘン五輪テロ事件 “平和の祭典”は問い続ける」2024-03-19

2024年3月19日 當山日出夫

アナザーストーリーズ ミュンヘン五輪テロ事件 “平和の祭典”は問い続ける

一九七二年のこの事件のことは記憶している。だが、その顚末をまとめた放送を見るというのは、これが始めてになるかと思う。この事件のことは、折に触れて、オリンピックの歴史、テロのこと、アラブとイスラエルのことなどを語るときに触れられることはあったが、どのような事件であったか、その概要をまとめたものには接していなかった。

ただ、私の知識としては、この事件には、イスラエルの諜報機関もからんでいたと憶えていたのだが、はたしてどうなのだろうか。番組では、このことについて一切触れることがなかった。

一九七二年の西ドイツには、対テロ対策のための特殊部隊……そのための専門の訓練をうけ装備をそなえた……がなかったということを、この番組で知ったことになる。これが今だったら、特殊部隊の出番ということになる。空港についた時点でも、犯人の正確な人数さえ把握していなかったというのは、現在の視点から見ると、おそまつな対応であったとしかいいようがない。

二〇二一年の東京オリンピックの開会式のことは知らなかった。見る気がまったくしなかったので、中継は見ていない。後でニュースで部分的に見た程度である。そこで、ミュンヘンのときの犠牲者について追悼のことばが述べられたことは、知らなかった。このことについて、翌日以降のニュースなどでも報じられることはなかったと記憶する。

2024年3月17日記

ドキュメント72時間「大阪 コインランドリーは回り続ける」2024-03-19

2024年3月19日 當山日出夫

ドキュメント72時間 大阪 コインランドリーは回り続ける

今から半世紀ほど昔、東京で一人暮らしをしていたころ、下宿先には利用できる洗濯機があった。ただ、洗濯するだけの機械である。週に一回ぐらい選択したかと思うが、冬は、水が冷たかったのを憶えている。

日本で洗濯機が普及したのは、昭和三〇年代以降のことになるはずである。それまでは、たらいと洗濯板でみんな洗濯していた。ちなみに、炊飯器の登場もこのころである。劇的に日本の人びとの暮らしが変化してきたことになる。

コインランドリーは、我が家の近くにいくつかある。

大阪の都会の真ん中にあるコインランドリーだが、どんな人が利用するのか興味があったが、(放送に出ていた範囲では)ごく普通(といっていいだろうか)の人たちであった。都会で暮らしている人びとには、それぞれの生活の背景があり、いろいろと思うところがあるらしい。

ただ、見ていて少し驚いたとことになるのは、大阪の通天閣の近くに、普通に人が暮らしているということかもしれない。このあたりだと家賃もかなり高くなるだろうと思うが、それでもそこに住みたいという魅力があるのだろう。また家も狭い。洗濯機を置くスペースのない住宅もある。そこに、このようなコインランドリーの営業もなりたつといえるだろうか。

気になったこととしては、薬剤師の資格を得るために奨学金をつかって、それが薬剤師の仕事だけでは返済が難しい、ということ。まあ、職場にもよるのかとも思うが。このあたりは、制度的になんとかしないといけないところかなと思う。

洗濯というのは家事の一部である。そこから見えてくる人びとの生活というものがある。

2024年3月16日記

「ライブカメラはとめられない 中国・農民工2世たちの挑戦」2024-03-18

2024年3月18日 當山日出夫

BSスペシャル ライブカメラはとめられない 中国・農民工2世たちの挑戦

スマートフォンを使った路上ライブ配信で稼ごうとする中国の若者を追っている。このような生き方を選んでいる若者がいるというのが、今の中国の実際の姿の一面なのだろうとは思う。

中国については、経済の失速、若者の失業率の高さ(中国政府は公式に発表しなくなった)ということがよく伝えられる。さて、番組に出てきていたような若い人たちは、失業者としてはどのように統計的に扱われているのだろうか、このあたりが気になるところである

経済発展を支えてきたのが、中国の地方から出稼ぎにきていた農民工の人たち。日本の中国についての報道では、地方在住の人の生活や、農民工の人たちの暮らしについては触れられることがあまりないかと思う。どうしても、北京とか上海とかに住む人びとのことが中心になりがちである。

ライブ配信で稼ぐストリーマーのなかには、年に三億円あまりを稼ぐ人もいるという。これは、その一方に、そのお金を投げ銭として払う人たちがいることになる。いったいどのような人たちが、ライブ配信を見てお金を払っているのだろうか。お金を払う側の人たちのことも気になる。

ともあれ、若い人たちが将来に希望を持てる社会でなければならないだろう。今の中国ではどうなのだろうか。番組のタイトルにある農民工二世という若い人たちは、未来に希望を持てているのだろうか。

2024年3月15日記

『光る君へ』「まどう心」2024-03-18

2024年3月18日 當山日出夫

『光る君へ』第11回「まどう心」

まひろが、「長恨歌」を写本するシーンがあった。「長恨歌」は、『白氏文集』……私は「はくしぶんしゅう」と読むことにしている、これは現在では専門的にはほぼ定説になっているかと思う……の巻一二に収められている。まひろが見ていたテキストは、「長恨歌」だけの単行のテキストであったようだ。おそらく、巻一二から独立して、単行で筆写されたテキストが多くあったろう。

あまり詮索しようとは思わないが、「白氏文集」のテキストは、平安時代に写本で読まれた古鈔本系テキストと、宋時代に板本として刊行されたテキストでは、いくつかの箇所で大きく違っている。平安時代、ちょうど紫式部の時代は、古くからの古鈔本系テキストと、板本系テキストが、両方おこなわれていた時代ということになる。そのなかで、紫式部が読んだのは、古鈔本系テキストであったろう。

おそらく紫式部が読んだであろうテキストに最も近い形態のものが、「金沢文庫本白氏文集」巻一二である。重要文化財。現在、大東急記念文庫に所蔵されている。影印複製本が刊行されている。

このようなことは、平安時代の漢籍、なかでも『白氏文集』の受容ということについては、今日では学問的には常識的なことがらである。

まひろの写本は漢文の本文だけだった。ヲコト点は無かった。これは、まひろの学力なら、ヲコト点をほどこさなくても読めるということなのかとも思う。

このあたりのことで、古鈔本系テキストと板本系テキストの違い、平安時代の読み方などを最も簡便に見ることができるのが、新潮社の古典集成の『源氏物語』の第一巻である。太田次男先生と小林芳規先生による「長恨歌」が掲載されている。なお、岩波文庫本の『白楽天詩集』は、この点については、使い物にならない。

なお、『白氏文集』を略して『文集』ということがある。これも、古鈔本である「金沢文庫本白氏文集」を見ると、その内題(本文の最初に書いてある書名)は、「文集」となっている。つまり、もともとの書名が「文集」なのである。

一条天皇が即位した。まだドラマの時間内で存命の天皇について、その名称を「~~天皇」というのは、ちょっとおかしい気もするが、しかし、こうとしか言いようがないかもしれない。

即位のシーンで高御座が出てきた。高御座が、人びとに意識されるようになったのは、現在の上皇陛下が、昭和天皇の崩御の後、新たな天皇として即位されたときからである。この即位の儀式は、皇居でおこなわれ、テレビの中継があった。このときから、天皇の即位とた高御座が結びつけられて、人びとのなかに意識されるようになった。今上陛下の即位のときにも登場した。

その即位のときに、道長は大胆な行動に出る。このあたり、このドラマの脚本の作り方の方針だと思うが、どうなのだろうか。私などは、平安貴族は、ケガレを忌むということが、基本的な生活の感覚のなかにあったと思うのだが、道長はこれをはらいのけている。

伝わるところでは、道長は、藤原の兄弟のなかで最も豪胆な性格であったとある。有名なのは夜の肝試しである。ドラマでは、そのような側面のある人物として描いたということでいいのだろうか。

ところで、道長はまひろに「妾」になるように言った。別のことばで言うならば、召人とも言えるかもしれない。このあたりは、平安時代の貴族の婚姻のシステムからして、まひろが道長の正妻、つまり「北の方」になるということは、そもそも無理だろう。「いろごのみ」の道長から見捨てられることがなく、関係が長く続けばいいとしなければならない。このあたりは、『源氏物語』で光源氏をとりまく多くの女性たちについて言えることになる。ちなみに、物語の上では光源氏の「妻」は紫上ということになるが、葵上とか女三宮の存在を考える必要がある。たしかに紫上は、光源氏の正妻ではなかったが、しかし、最も愛された女性ということになる。まひろと道長の関係も、そのようにとらえることになるのだろうか。

2024年3月17日記

「ハマス 謎に満ちたイスラム組織の実像」2024-03-17

2024年3月17日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー ハマス 謎に満ちたイスラム組織の実像

二〇二三年、フランスの制作。

なぜこの様な番組が日本のメディアで作ることができないのかと思う。特に取材源を秘匿すべき特殊な情報があるということではない。見た限り、ジャーナリスト、国際政治の専門家なら容易にアクセスできる(であろうと思われる)情報によって作ってある。

ハマスによるイスラエル攻撃があったころ、日本のメディアでは、ハマス擁護の声が大きくあった。いわく、選挙で支持されている、福祉の活動をしている。だが、それが、ハマスという組織の一つの面にすぎないことが分かる。今ではハマスは独裁者であり、軍事的に市民を抑圧する存在でもある。また、反イスラエルをかかげる中東の国から支援を受け、ビジネスにも手を出している。

番組の中では、ハマスのプロパガンダ映像が多く使われていたが、これはそんなにアクセスが難しものなのだろうか。日本のテレビ報道では見たという記憶がない。プロパガンダ映像は、それをそれと知ったうえで使う限り、かなり有効な情報源の一つになると思うのだが。

ハマスが地下のトンネルの基地で、ロケット弾を製造している場面の映像、軍事訓練の様子など、ハマスのプロパガンダ映像ということなのだが、日本のテレビ報道などでは紹介されていなかったと憶えている。

ハマスの奇襲作戦が成功した理由の一つとして、デジタル機器による通信ではなく(これは傍受される可能性がある)、昔のように紙に書いた文書で情報を伝えていたというのは、興味深い。

ドローンを使った、イスラエルの監視所への攻撃や戦車への攻撃の映像など見ると、これからの戦争においてドローンがきわめて重要な役割をはたすことが分かる。(ドローンは民生用と言っていたが、基本的に、デュアルユースであると理解しておくべきであろう。)

ガザ地区にいる人びとの多くは若者である。生まれたときからイスラエルの攻撃を体験し、同時に、ハマスによる洗脳教育(と言っていいだろう)を受けてきた若者たちにとって、反イスラエルの心情は、その体に染み込んだものになっている。

特にイスラエルよりでもないし、パレスチナよりでもない、という立場で作った番組と私には感じられる。ハマスという組織がパレスチナに生まれて現在のようにして支配者になったかという経緯が、端的にまとめられていたと思う。少なくとも、パレスチナの人びとのすべてがハマス支持ということではない。そこには恐怖の支配があることも事実である。

もっとも興味深かったのは、ハマスへのアラブ諸国などからの資金提供をイスラエルが容認していたこと。イスラエルの右派とハマスとは、つながっていることになる。(敵が存在することによって自分たちの存在意義が確認できるという構図だと理解するのだが。)このようなことは、日本の報道では言及されることがない。ということは、ネタニヤフ政権のミスは、ハマスの作戦を事前に察知できなかった諜報の失敗ということもあるが、それと同時に、ハマスと秘密裏にコンタクトをとってコントロール出来なかったことにあると見るべきかもしれない。

憎悪と報復の連鎖を終わらせ、なんとか平和……少なくとも、長期にわたる停戦の実現と人道支援の継続ということになるかと思うが……このためには、パレスチナの人びとに、将来への希望を与えることである、ということでこの番組は終わっていたが、これには深く同意するものである。

2024年3月14日記

『ブギウギ』「ものごっついええ子や」2024-03-17

2024年3月17日 當山日出夫

『ブギウギ』第24週「ものごっついええ子や」

この週では二つのことがあった。

一つ目は、羽鳥善一の二〇〇〇曲記念のステージ。ここで、スズ子たちは茨田りつ子と一緒にラインダンスを踊る。茨田りつ子のラインダンスというのは、たぶんこのドラマでしか見られないだろう。

二つ目には、愛子の誘拐未遂事件。それにしても、なんとも間抜けな誘拐犯である。普通なら、誘拐してから電話をかけると思うのだが、実際に誘拐を実行するだけの度胸もなかったらしい。犯人は、愛子の友達の一の父親である。せっかくできた友達だったが、その父親が犯罪に手をそめたということで、愛子はスズ子により強く反抗することになる。このあたりはドラマとしての作りということになるのだが、家政婦の大野さんが、愛子の気持ちをわかっていてくれる。それから、刑事がよかった。

一の過程は貧乏であった。昭和三〇年のころである。貧困家庭というものが存在した。栄養失調ということばが、リアルなひびきをもっていた時代でもある。(この時代の貧困と、現代の貧困とはちょっと違うとは思うところはあるが。)

それから、エンタテイメントとは何か、という問いかけがあったが、これも、このドラマとしては重要な部分かと思う。

さて、次週は、スズ子のステージシーンとなるようだ。このドラマも残りわずかである。楽しみに見ることにしよう。

2024年3月16日記

ウチのどうぶつえん「まったり沖縄DAYS」2024-03-16

2024年3月16日 當山日出夫

ウチのどうぶつえん まったり沖縄DAYS

ゾウ、ヤンバルクイナ、マレーグマ、である。(たしか、以前にも見たかと思うが、これはこれでいい。)

ゾウの食事として、沖縄にはインドと同じような植物が多くあるということは興味深い。植物については知識がないので、そういうことなのかと思うだけなのであるが。

ヤンバルクイナが発見されたときのことは記憶している。ヤンバルクイナが数が増えたことはいいことである。それも環境省を中心としての保護があってのことである。それに動物園も参加することになる。動物園の役割として、種の保存ということもある。

マレーグマのことは、ニュースで見た記憶がある。大阪にいて、今は沖縄にいる。オッサンのようで、木登りが下手である。食事は湯たんぽに入れてもらっている。自然に近い状態でエサをあたえるということでは、理にかなった方法であるかと思う。

2024年3月9日記

「市民が見た戦乱のガザ〜イスラエル編〜」2024-03-16

2024年3月16日 當山日出夫

BSスペシャル 市民が見た戦乱のガザ〜イスラエル編~

イスラエルの側からの番組であるが、しかし、今のイスラエルのガザ攻撃を肯定しているわけではない。確かに現在のイスラエルにおいて、ガザ攻撃をすべきである、ハマスを滅ぼすべきであり人質を奪還しなければならない、このような意見がある。その一方で、憎しみの連鎖からは未来に希望を持てないと行動する人びともいる。双方において、それぞれの言い分はあるとは思うが、この対立は容易には解消できないかと感じる。

危惧することとしては、イスラエルの軍事行動に対する批判が、反ユダヤ主義につながることである。世界でひろまりつつある反ユダヤ主義については、日本の報道ではあまり触れられることがないかと思う。

それから、ガザにおけるイスラエルの軍事行動をジェノサイドと言うことがある。しかし、これは、ホロコーストはちょっと違うだろう。かつてのナチスによるユダヤ人に対する行いは、ユダヤ人をこの世から消し去ることを意図したものだと理解している。そのために大規模に計画的組織的に行われた。だが、今回のイスラエルの行動は、ガザに住む人びとを完全に抹殺することではないようである。犠牲者は多いが、全く人間の住まない土地にしてしまおうというものではない。

といってイスラエルの攻撃を擁護するつもりはない。しかし、これをジェノサイドということばで表現するのは、憎悪をつのらせることはあっても、解決に向けてはあまり意味のあることではないように思う。イスラエルの攻撃は非難されるべきであるが、その非難に終始することは、憎悪の連鎖から抜け出すことにはつながらないのではないかと思うのである。

国家と国家、軍隊と軍隊の戦いであるならば、どこかに落とし所がある可能性はある。しかし、よく指摘されることだと思うが、この戦いは、国家(イスラエル)とハマス、あるいは、アラブ社会との戦いである。そう簡単に解決できることではないかもしれない。

せいぜい出来ることとしては、何らかの停戦状態にもっていくことと、人道的支援の拡大、継続、というあたりのことかもしれない。日本にできることは、人道支援に協力することぐらいかもしれない。

イスラエルが悪い、シオニズムが悪い、ということで、イスラエルを抹殺してしまえばいいという考えにも、賛成はできない。(時として、このような意見を目にすることもあるのだが。)

ともあれ、イスラエルの一般市民の生活感覚というものの一端をとらえた番組であったとは思う。そして、憎悪の連鎖をたちきろうと努力する人がいることが印象に残る。

2024年3月8日記

「私は“生きている” 進化する人型ロボット」2024-03-15

2024年3月15日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 私は“生きている” 進化する人型ロボット

二〇二二年、イギリスの制作。

もとのタイトルは、「CYBORG SOCIETY」。これは番組のなかで使われることばである。現代社会は、人間とテクノロジーが融合した社会になっている。もし機械の部分だけをとりのぞいてしまったら、人間は生きていくことができない。

今や大多数の人間が手元にスマートフォンを持ち、それがないと生活に支障をきたすまでになっている。(私は、いろいろ考えていまだにスマートフォンを持たないで暮らしているのだが)

ChatGPTが登場したのが二〇二二年の終わりのころであった。かなり大きくメディアに取りあげられたのを憶えている。しかし、私が見た限りでは、日本のメディア、特にテレビなどでの報道は、レベルが低すぎる、という印象であった。こんなに自然な日本語の文章で答えを返してくる、あるいは、逆に、こんな質問には間違ってしまう、まだ生成AIを信用することはできない……まあ、だいたいこんなふうな議論であった。生成AIを活用するとしても、普通の人間とはまた異なった視点からの答えを出すことが可能である、といった程度のことであった

AIについて語るとき、それは、人間の意識とはなんであるか、生と死を分けるものはなんであるのか、人間の人間たるゆえんはどこにあるのか、人間にとって自由意志はなにか……きわめて思弁的な問いかけをはらむ。この番組では、それに解答を出すということはしてない。いや、AIはまだまだ進歩し続けるので、将来のことは分からないのだが、近い未来において、いや今もうすでに、人間とテクノロジーの融合した社会になっているので、これはまさに考えなければならない課題として提示している。

興味深いことのひとつは、AIを作った研究者でさえも、AIがどのような答えを出してくるのか予想できない、ということである。たしかにコンピュータがプログラミングによって動いているのだが、AIはもはやプログラミングの支配下にはない。

今の科学の知見からするならば、人間の本質を考えるのは、脳にもとめるか、遺伝子にもとめるか、ということになる。これは、私としても特に異論があるわけではない。少なくとも生物としての人間についてはそうである。

(番組では語っていなかったが)しかし、人間は社会的に成長して人間となる。その教育の過程で、言語を習得して母語とし、歴史的、文化的、気候風土的な、さまざまな環境のなかで大人になる。これらを超越した「人間」というものを考えることができるのだろうか、と私は思うのである。

人間が死んで、その死体、あるいは、脳を冷凍保存する事業がある。そのようなことが行われているということは知識としては知っていたのだが、実際にどのように行われているのかをテレビの画面で見たのは初めてになる。そのように判断して自分の死体や脳を冷凍保存するという人がいてもいいとは思う。まあ、私としては、普通に死んでいくのがいいと思うのだけれども。

そういえば、昔、子どものころ、テレビで見た「鉄腕アトム」のことを思い出した。アニメのなかで、ロボットに人権を認めるべきかどうかという議論がなされていた。かつての奴隷のように働かされているロボットに、人間と同じような権利を認めるべきかどうか、まさに、かつての黒人奴隷を彷彿とさせるものであったかと記憶する。この議論に真っ向からとりくまなければならない時代に今はなっている。

AIと人間のこと、あるいは人間にとってテクノロジーとはいったい何であるのか、人間と社会の本質がどう変化してきたのか、問いかけなければならない時代であるということを考えさせる番組であった。

2024年3月8日記

「シリーズ原発事故2024(1)最新報告 汚染水・処理水との戦い」2024-03-15

2024年3月15日 當山日出夫

サイエンスZERO シリーズ原発事故2024 (1)最新報告 汚染水・処理水との戦い

今年も三月になると様々な震災関係の番組が放送される。そのなかにあって、この番組はやはり独自の視点から教えてくれるところがある。

まず第一に、「汚染水」と「処理水」の違い。世の中には、処理水のことを汚染水と言うことで、あえて不安をあおるむきの言説もある。しかし、これは区別しなければならないだろう。すくなくとも、ALPS処理水が、地下水を原因として発生する汚染水とは違う性質のものであることは、基本的に区別して議論する必要がある。それを一緒にして、汚染水と言ってしまうと、その先の議論ができない。仮に政治的立場から汚染水ということはあってもいいとしても、その概念の区別は絶対に必要である。

第二には、ALPS処理水にともなって発生するスラリーの問題。これは、今までの報道で伝えられてこなかった部分である。たぶん、今後のことを考えると、トリチウムをふくんだ処理水よりも、スラリーの方がより重大な課題になるかと思われる。

技術的な課題としては、ALPS処理水からトリチウムを取り除く研究も進められている。また、スラリーをセメントで固める方法の研究もある。まったく将来の展望が無いというわけではない。

番組では語っていなかったが、廃炉については、石棺方式という意見がある。これで地下水の流れを止めることができるならいいかもしれないが、いくら上から固めてしまっても地下を流れる水があるなら汚染水は発生する。それを処理水にすることはどうしても必要になるだろう。その処理として、海洋放出ということも避けて通ることはできない。

こういった視点で原子力発電所の廃炉の問題を考えるというのは、サイエンスZEROならではの、番組の作り方かと思う。

ところで、(もう隠居した立場からのことになるのだが)このような研究分野にこれからの若い人たちは、どの程度の関心をもっているのだろうか。放射性物質の管理という問題は、これからの人間の社会にとって欠かせないことである。おおきなビジネスにつながるということはないかもしれないが、科学と技術、それが社会とどうかかわるかという観点からは、重要な研究課題である。

2024年3月14日記