ドキュメント20min.「KAGOSHIMA MASK COLLECTION」2026-08-01

2026年8月1日 當山日出夫

ドキュメント20min.「KAGOSHIMA MASK COLLECTION」

これも時代の流れかなあ、と思う。鹿児島県のエリアでも、民俗としての仮面をもちいた行事や祭礼などが、減少している。人口の減少、後継者の不足、ということである。

これも、そういう昔からの心性を持ち続ける生活のスタイルが、近代化して崩壊してしまえば、形骸化してしまうのは、いたしかたない。

民俗芸能について、福岡伸一のいう動的平衡ということで、常に新しい意匠が加わり、作る仮面や衣装も新しくなり、人も変わっていく。それでも、続いていくのが民俗ということになる。あるいは、民俗・民族の、儀式だったり、祭礼だったりということになるのだろう。

しかし、それにしても、鹿児島のエリアだけでも、こんなにたくさんの多様な仮面のお祭りや行事があるのか、これは驚きでもあった。

たしかに、こういう仮面や衣装を見ると、世界のいろんな民族のことを思い、また、はるか古代のこと、日本であれば縄文時代のこと(土偶)、を思うことになるのは、そうだろうなあ、とは思うのだが、一方で、安易な比較ということは慎重であった方がいいとも思う。

古いお祭りの映像が残っていて、それが、神奈川大学の常民文化研究所の所蔵のものだった。ここには、他にも、貴重な映像資料があるのかと思う。

2026年7月29日記

英雄たちの選択「国宝誕生 〜アーネスト・フェノロサの挑戦〜」2026-08-01

2026年8月1日 當山日出夫

英雄たちの選択「国宝誕生 〜アーネスト・フェノロサの挑戦〜」

ゲストで出ていたのは、永井紗耶子と井上瞳。(録画を見終わってから、『秘仏の扉』のKindle版を注文した。『木挽町のあだ討ち』は面白かった。)

日本の近代の美術史、文化財史、ということからは、ほぼ常識的なことであったかと思う。

一番のポイントは、幕末になってからの浮世絵などの西欧への流出と、西欧でのジャポニスムということがあったのだが、それ以外の日本の美術史の流れが、西欧の人びとに認識されるようなこととして、フェノロサを位置づけていたことになる。西欧の美術とジャポニスムということは、よくとりあげられるのだが、それだけで、日本の美術についての西欧の関心を語ることはできない。

そう作ったのだろうが、この番組で言及していなかったのは、明治になってからの壬辰調査、町田久成、それから、三井寺のこと。最後に、フェノロサの墓が大津にあると言っていたが、そこが三井寺だとは言っていなかった。番組の最後のクレジットの部分でも、三井寺の名前はなかった。このあたりのことは、明治になってからの、日本の美術や文化財の歴史を語るときに、かなり微妙な問題をふくんでいるところかもしれない。(三井寺の今の長吏は福家さんなのだが……知っている人である……博識であり、一家言ある人である。)

結果的には、ボストン美術館に多くの日本美術が集まって、そこで、きちんと保管されているのなら、それでいいと思う。こういうことについて、外国に出て行った文化財をもとのところに返せ……という流れがあることは、確かなのだが。フェノロサの場合は、正規に購入したものということなら、それについて、どうこういうべきことではないだろう。(今の文化財の価値観からするならば、ほとんど泥棒に近いようなことだったともいえるかと思うが。)

日本における仏教美術史ということに関連しては、奈良の飛鳥園とかも重要なことになるだろう。また、『古寺巡礼』(和辻哲郎)もある。これは、ちくま文庫で「初版」が出ている。岩波文庫版とは、かなりちがっている。「初版」の方が、ずっと面白い。

学生のときには、『大和古寺風物誌』(亀井勝一郎)をいいと思って読んだ。ただ、戦時中の日本浪漫派の陶酔的な部分は、どうしてもあるのだが。

強いていえば、明治になっての国宝と、現在の制度の国宝とは、違うのだが、このあたりの話しをするとややこしくなるので、戦後になってからの文化財行政については、完全に無視してあったということかなと思う。

聖林寺の十一面観音菩薩像については、戦後の、また、現代の文化財行政として、いろいろあることなのだが、これも、触れないであった。

どうでもいいことかもしれないが、磯田道史が「昭和枯れすゝき」といっていたが、もうこの歌を憶えている人は少なくなっただろう。テレビドラマの「時間ですよ昭和元年」の劇中歌で、歌ったのは、さくらと一郎。映画にもなった。野村芳太郎監督。秋吉久美子が出ていた。たしか、下宿のあった目黒の映画館で見たかと憶えている。もう昔話である。

2026年7月24日記

心おどる「英語de茶の湯 裏千家 (4)Let’s try temae お茶を点ててみよう」2026-08-01

2026年8月1日 當山日出夫

心おどる「英語de茶の湯 裏千家 (4)Let’s try temae お茶を点ててみよう」

4回目の最後は、野点、外でのお茶である。

道具類がなければ、ありあわせのものの見立てで代用すればいい。これはこれで、柔軟な発想であるし、そう肩肘張らなくていいというメッセージになっている。

もし、茶杓がなければ、山の中だったら、そこいらへんの木の枝を切って、ナイフで削ってつかえばいいじゃないか、とも思うが、そこまでのことはないようである。せいぜい、キャンプ用品のスプーンを使うぐらいだろうか。

今でもそうかと思うが、山に入って仕事をするような、木こりとか猟師のような人たちは、山の中でお弁当を食べるために、お箸を持って行かない。木の枝を切って、ナタで削ってつかえばいい。

どんな道具であっても、代用ができるとは限らない。茶筅だけは、どうしても必要である。これも、今の日本で、茶筅を作っているのは、もっぱら生駒の高山エリアの専門の職人さんたちということになっている。

日本で使っている抹茶は、裏千家で使うようなものなら、国産……宇治茶ではなくても……ということかもしれないが、世界ではどうだろうか。現在だと、中国製の抹茶が、出回っている。中国製は、さらに加工しての食品用で、本来のお茶の用途とは別かなと思ったりするが、実態はどうなっているのだろうか。

時差があるから、さすがに、世界の三箇所で、同時にオンライン茶会は無理であるというのは、いたしかたないだろう。

こういう番組を見て、私が気になることの一つは、風景・景色・ランドスケープのこともあるが、重要なのはあ、音、である。サウンドスケープ、というべきだろうか。きれいな庭園であっても、耳に聞こえてくるのが、外の道路を走る自動車の音だったりすると、がっかりする。(観光地として名高い名園といわれるところでも、音で感じる感覚として、なんだかなあ、と思うことが多い。どことは書かないでおくが。)

2026年7月29日記

『マッサン』「人生は冒険旅行」2026-08-02

2026年8月2日 當山日出夫

『マッサン』「人生は冒険旅行」

朝ドラで、夫婦の物語というと、新しいところでは、『ばけばけ』がある。『あんぱん』もある。それから『らんまん』もあった。最近のものをざっと見ても、そう多いということではない。

結婚もしないし、子どももできない、という場合もある。(だからそれが悪いということではない。)

このごろの傾向として、夫婦の物語を軸にして長丁場のドラマで描くということが難しくなってきている、ということはいえそうである。『マッサン』『ばけばけ』『あんぱん』など、(作品としての出来映えは別にして)、何かを成し遂げた夫の、いわゆる内助の功としての女性の物語、ということで作ってある。特にどうということもない、普通の夫婦や家族の物語というのは、かえって難しいといってもいいのかもしれない。

どうでもいいことだが、『マッサン』の影響もあってか、ウイスキーが多く売れるようになったことは、たしかである。今では、サントリーの山崎など、高級すぎて、簡単に手がでるものではなくなってしまった。

ドラマでは、ウイスキーは生(き)で飲むということで一貫していた。これは、こういうポリシーがあってのことなのだろう。

たまにお店に行って、お酒類の中に、ハイボールがあるのだが、飲まない。飲んでみたことがあるのだが、私の判断としては、どうみても、大量の炭酸水にちょっとだけウイスキーを加えて、味と色をつけただけのものとしか感じられない。お酒を水で割るのはいいとしても、水にお酒を入れるのは、どうかと思う。これは、日本では、鎌倉時代の『沙石集』(だったと憶えているが)以来のことである。その起源は、中国にある。

北海道には、もう行くことはないだろうと思っているが、もし、行くことがあったら、余市には行ってみたい。

2026年7月31日記

『ひまわり』「第八章 子はかすがいじゃないの?」(7月21日~8月1日)2026-08-02

2026年8月2日 當山日出夫

『ひまわり』「第八章 子はかすがいじゃないの?」(7月21日~8月1日)

のぞみと瑞穂が話しをしている場面を見ると、のぞみが、まったくガキであることがよくわかる。

このドラマで、ここはよく考えて作ってあるなと感じるのは、のぞみが、自分の家族こと(特に父親と母親のこと)を、法曹の仕事の場面では、絶対に出さないことである。これは、朝に、『風、薫る』を見ていて、直美が、ことあるごとに、遊女が産んだ子どもで捨てられた、これを自分にとっての重要なアイデンティティ(私は、このことばをつかうのは、あまり好きではないのだが)として、口にしていることと、対照的に見てということもある。

のぞみが、瑞穂に対して、実は私のお父さんは家を捨てて出て行ってしまったの、と言いださないか、ハラハラしながら見ているのだが。

特に法律にかかわるドラマとしては、従うべきは法律と良心だけである、というのが本筋である。弁護士としては、依頼人の利益のために、ということも加わるはずである。だが、タテマエとしては、社会正義の実現のために、ということがあり、そこに、弁護士の個人の家庭の事情とか生いたちがどうかというようなことは、関係があってはならない。(ただ、個人の良心とか、社会正義の感覚とかは、社会構築的なものであるという面を、完全には否定できないとは思うが。)

瑞穂ちゃんの事件であるが、これも、今の時代のドラマだったら、もっと単純な設定の事件にするかと思う。このドラマの時代もそうだし、今も、そうなのだが、
社会的に困った立場におかれた男性に対しては、あまり社会からの支援の手がとどきにくい、ということがある。妻に逃げられて、子どもと取りのこされて困っています、助けてくださいといって、手をさしのべる援助団体が、今の時代にどれぐらいあるだろうか。(女性については、あるいは、女性限定であれば、たくさんあるはずだが。)

弁護士とは、人の不幸を飯の種にしている職業である……ということは、たしかにそうだと思うのだが、だからこそ、弁護士に出来る仕事の価値を見つけていくドラマになっていると思う。

土曜日、赤松の事務所で、瑞穂が回想して言っていた……母は、不倫して帰ってきた日には、父の大好きな焼き肉になっていた……さりげない科白なのだが、この夫婦の関係とか、それを冷静に見ていた瑞穂の目とか、まあ、人間とはこういうものなのだよな、と感じるところである。こういうことを、15分のエンタテイメントの中にきっちりと描きこんである。

2026年8月1日記

『風、薫る』「岐路にて」2026-08-02

2026年8月2日 當山日出夫

『風、薫る』「岐路にて」

この週でのこととしては、直美の派出看護のこと、りんの新潟でのこと。

看護婦の物語として見れば、そこそこの出来になっていると思うが、明治の20年代の初めごろの、日本におけるトレインドナースとしての、先駆者の物語として見ると、あまりにもわけのわからないドラマになってしまっている。

まず、直美のこと。

先週、いきなり、派出看護、ということばが科白の中に出てきて、この週になって、直美が帝都大学病院を辞めて、派出看護の会を作る、という展開になっている。

では、直美は、これまでに、派出看護ということの知識をどこで得たのだろうか。看護学校で、バーンズ先生に習っていたときのこととしては、派出看護ということは、出てきていなかったはずである。おそらく可能性として高いのは、アメリカではすでにその制度があって、大山捨松から話しを聞いて知ったということになるはずだが、脚本は、そうは作っていなかった。直美が、すでに派出看護ということを知っていて、具体的にどうしようかと、大山捨松に相談に相談に行ったという流れになっていた。これは、どう考えても、あまりに不自然である。

派出看護の会を作り、そのチラシを印刷する(シマケンが勝手に会社でやった)ということである。派出看護は、帝都大学病院での話しとしても、社会の中産階級、お金のある家でないと、需要がない。これは、そうだろう。だが、直美は、街頭で、そう裕福でもなさそうな道を行く人にチラシを配っている。これは、どう考えても無駄であるとしか思えない。

常識的には、帝都大学病院で院長が紹介してくれた町医者をめぐって、派出看護の会をつくりましたので、患者さんを紹介してください、という地道な営業活動(?)だろうと思うのだが、そうなっていない。また、看護学校の同級生だった華族の令嬢に頼んでみるとか、侯爵夫人の千佳子に頼んでみるとか、いろいろなつてがあったはずだが、まったく出てこない。(仲間由紀恵の出演料のコストをケチったということだろうか。)

どうみても、常識的な判断とははずれている。

りんは新潟にいる。高田の街だろうと思う。そのりんが、直美と環の手紙を見て、すぐに東京にやってくる。また、直美と環とシマケンが、新潟に行く。

明治の20年代の初めごろ、東京と新潟の距離は、物理的にも、心理的にも、ものすごく遠いものがあっただろうと思うのだが、このドラマでは、すぐ隣の町まで行くような感じである。その旅の身なりも、あまりに簡便である。りんも直美も、白い足袋をはいて、草履である。これで、東京から新潟までの旅は、どう考えても無理だろう。

東京から、小学校に入学したばかりの環を連れて、新潟まで旅をするというのは、新幹線のある現代ならともかく、明治の時代としては、どう考えても無理がありすぎると感じる。(時代が、もうちょっと下ると、信越線が直江津まで通ずるはずだが、ドラマの設定の時代は、これ以前である。信越線の開通は、もっと後のことになる。)

新潟での新聞記者。おそらく『ばけばけ』を意識していることにはなるのだろう。この時代の新聞記者、特に小新聞の記者などというものは、スキャンダルネタを探し回るごろつきである……これを、かっこよく描くことにしたのかとも思うが、その設定や人物造形に、無理がありすぎると感じる。

まさにこの時代の新聞記者なら、国会の開設を前にして、地方から立候補する議員の動向……場合によっては、スキャンダル合戦、だったかと思う。(まさに今の時代の政局となっている、誹謗中傷動画、こういうことの媒体が、この時代の新聞だったはずである。)

女学校の授業の場面は、教室のセットを作るコストをカットしただけ、ということになっているので、これなら、無い方がマシだったと思える。

直美の派出看護のこともそうだし、りんが黒川病院の看護婦取締になることを求められるということもそうなのだが、このドラマの設定としては、りんと直美たちが、日本で最初のトレインドナースであり、世の中に、看護婦がまだまだ知られていない時代のはずである。帝都大学病院で看護婦の養成をはじめたことは出てきていたことだが、それが、その後どうなったのか、消えてしまっている。ここも、せめて、直美が大学病院を辞めるときに、後輩の看護婦も順調に育ってきているので、ということでもあればいいかと思うのだが、こういうことも全然出てきていない。

このような状況で、派出看護をしたいという看護婦がいるとも思えないし、また、それを求める(お金持ちの)病人がいるとも思えない。ましてや、地方の新潟の病院で、看護婦取締を必要とするほどの大勢の看護婦が働いているとも思えない。

時代の設定、これまでの、ドラマで描いてきたこと、これらを考えると、どう考えても、非常な無理のある作り方をしている。時代設定無視路線をつっぱしっているとしか思えない。(時代設定無視で作るドラマが、一部にはうけても、全体としては駄作にしかならないことは、これまでの経験から、AKとしても分かっているだろうと思うが。)

その他にも気になったこととしては、文字がある。手紙の文面が映ることがあるが、映っている部分を見ると、候文である。これは、この時代では、こうでなければならない。まだ、言文一致体、口語散文の手紙でなはい。しかし、書いてある文字が、女性の文字に見えない。この時代だったら、手紙の文字などは、男性が書く場合と、女性が書く場合とで、見た瞬間に分かるというものであったはずである。(次の『ブラッサム』のこともあって宇野千代の『色ざんげ』を読んでいるが、中で登場人物が、手紙の封筒の文字を見て、女文字、と判断する箇所がある。)もう今の時代では、文字のかきぶりで男性と女性が違うという感覚は、無用のものになってしまったということかなと思う。昔の『おしん』だったら、田中裕子のおしんがカフェの女給の代筆で書いた手紙は、女性の文字になっていたのを憶えている。

東京のお団子屋さん。今はこの店の主になっている忠蔵(チュウ)が、直美たちがいるテーブルにお茶の湯飲みを置くときに、大きな音をたてていた。これは、あきらかに無作法であり、接客業、飲食業に不向きということになるはずだが、これまでの人物造形からして、この演出の意図が分からない。(なお、私が見て感じたのは、この音をたてるのは、アフレコでいれてあるはずだが、画面の動作と微妙にずれている感じがした。なんだか、このドラマの制作スタッフの詰めの甘さということを感じてしまうシーンだった。)

その他、慈善と職業とか、貧富の差と医療費のこととか、新聞記者が取材しながら鉛筆をけずるとか、いっぱい、いろいろと気になることはあるが、これぐらいにしておきたい。

さて、次週は、赤痢のパンデミックということになるらしい。でも、赤痢菌の発見は、もうちょっと時代が後のはずだが、いったいどういうことになるだろうか。

2026年8月1日記

ETV特集「片づけ、その先に」2026-08-03

2026年8月3日 當山日出夫

ETV特集「片づけ、その先に」

今の時代だったら、身の回りのいろんなモノを捨てて、ミニマリストの生活をおくるというのもいいが、それだったら、いっそのこと、スマートフォンを捨ててて、インターネット回線も解約して、電話もなしに……ということは、むしろ、非常に困難なことかと思う。

ミニマリストというとかっこいいように思えるが、その背景には、都市部に生活していて、家を出て遠くないところに、食料品を売っていたり、ドラッグストアがあったり、病院があったり、という今日の社会生活のインフラが整備されているという事実を、無視してはいけないと、私は思う。

ようするに、非常に欺瞞的なのである。

所詮、人間なんてのは、起きて半畳、寝て一畳、である。だが、徒然草に引用されてあるように、じんだがめひとつもつまじく候、とはなかなかならないのが、人間でもある。

意図的に無視していたことだが、処分したいろんな家の中のものが、その後、どうなるのか、これは、目をそらすべきことではない。こういうことも、やはり、非常に欺瞞的なことに思える。死んでから遺品として処分されるよりも、そのモノなどの最終処分の行き先を判断できるときに、考えておきたいと思う人もいるだろう。逆に、そんなこと、まったく考えたくないという人もいるだろう。こういうところの人間の心情にまで踏み込んで番組を作るべきだったかとも思える。

単なる、家の中の片づけノウハウ番組で終わってしまっている、としか思えない。

2026年7月31日記

100分de名著「親鸞“教行信証” (4)誰一人取りこぼさない救済原理」2026-08-03

2026年8月3日 當山日出夫

100分de名著「親鸞“教行信証” (4)誰一人取りこぼさない救済原理」

歴史的に見れば、浄土真宗、真宗、一向宗……こういう人びとは、結束が固く、排他的であり、また、非常に戦闘的である(実際に武力行使もする)ということがあるのだが、こういうことには目をつむって、親鸞が考えたこと、書いたこととしては、どうであるか、となっている。

親鸞が、『教行信証』でどのような論理構造で、自分の阿弥陀仏への信仰を語っているかということはあるとしても、最後のところで出てきた、念仏を信じない人たち(異教といってもいいだろうが)のことも、救済の対象である……これはたしかに今の時代としては、一種の理想的な考え方なのだが……これは、『教行信証』から離れて、信者あての書簡で書かれていることである。『教行信証』のように、漢文で書いた難しいものは、理解ができないだろう、ほとんど文字を知らない、せいぜい仮名と少しの漢字は読める、というような一般庶民の信者にむけて書いたものである、このことは、留意が必要だろう。

同じ親鸞が書いたものだから、すべて、一貫した思想の中に収めて考えるということでなければならない、ということはない。あえていえば、一般の、あまり仏教や浄土思想に知識のない庶民層に対する、いわば方便としてのことば、こう理解してみることもできよう。

富山の薬売りの行商は、体験的に知っている。紙風船を憶えているのは、今ではもう老人というべきだろう。これを、浄土真宗の信仰と結びつけて考えるというのは、いくら、そういう説があります、と限定をつけるとしても、ちょっと無理があるように思えてならない。

2026年7月29日記

『太平記』「隠岐配流」2026-08-03

2026年8月3日 當山日出夫

『太平記』「隠岐配流」

この「太平記」の時代、誰が正しかったということが簡単にいえない。時代の流れとしては、教科書的には、鎌倉幕府が終わって、建武の中興があって、室町時代になって、南北朝の対立があって……という時代になる。この中で、最終的に誰の判断が正しかったと、そう簡単に分からない、これも、この時代のドラマの魅力かと思う。

これが、戦国時代ドラマだったら、最終的に徳川家康の天下太平ということになるし、幕末維新のドラマだったら、明治維新と近代化という帰結が、最終的に正しいことになり、それを予見したもの、その原動力となったもの、歴史の流れの判断をあやまったもの、こういう区別が分かりやすい(ドラマとしては、ということになるが。)

室町幕府を作ったのが足利尊氏だからといって、尊氏が勝利者とは、かならずしもいえない。歴史の評価としては、楠木正成の評価が高かったり、後醍醐天皇をたっとんだり、いろいろである。

この意味では、この時代を背景に、一種の群像劇的にドラマを作ることができるともいえようか。

登場人物のキャラクタが、それぞれに際立っている。そして、単純に悪人、善人ということがいえるわけではない。まあ、北条の高時とか、長崎円喜とかは、ドラマの中では、悪役だが、しかし、非常に魅力的な悪役でもある。

強いていえば、女性の描き方……登子や藤夜叉、それから、母の清子など……が、ステレオタイプという感じはするが、ドラマが制作された時代を考えると、そうだろうと思う。その中にあって、花夜叉などは、歴史の流れを独自の視点で見る人物として設定されている。

登場人物の静かな語り口の中に、おたがいの心情を読みとるところもあるし、疑心暗鬼になって化かし合っているところもあるし、これはこれで面白い。『豊臣兄弟!』のように、心中に思っていることは、大声で叫ばなければならないということにはなっていない。ゆっくりと落ち着いて見ていられる。

いよいよ、鎌倉幕府を倒すという方向に世の中は動き、高氏も、それを見定めているようである。

2026年8月2日記

フランケンシュタインの誘惑「イギリスMMR事件 科学のジレンマ」2026-08-04

2026年8月4日 當山日出夫

フランケンシュタインの誘惑「イギリスMMR事件 科学のジレンマ」

こういうことをいうなら、日本でのHPVワクチンのこともあるよなあ、と思ってしまうのだが、NHKをはじめ、日本のマスコミは、基本的にだんまりである。

そもそも、たった12人の調査で、そんなに断定的なことがいえるはずがない。これが、常識的な判断だろう。特に、科学リテラシーが必要ということではない。

だが、いったん何かの疑惑が出てしまうと、それを、どう伝えるか、あるいは、否定するか、ということが、きわめて難しい問題になる。一般の市民、大衆、庶民が求めているのは、安心感、である(絶対的な安全ではなく)ということになるのだが、ここは、感情的なってしまう部分があるので、多くの人が納得するというのは、難しいことになる。

日本でも、よく、「安心安全」というが、厳密には、「安心」という気持ちの部分と、「安全」という科学的な部分が、ごっちゃになっている。こういう表現が、マスコミなどでまかりとおっているのが、日本の現状なので、イギリスの人たちのことを、わらうことはできない。

科学的に厳密な言い方をするならば、その可能性はゼロではない、完全に否定することはできない、というような表現になる。これは、学問的な良心の問題なのだが、ここだけを切り取って、勝手に拡大解釈してしまうのが、素人考えであり、それに媚びるマスコミということになるだろう。

見ていて気になったのは、自閉症(自閉スペクトラム症)の人の数が、増えていること。これは、MMRワクチンの接種とは、相関関係がない(もちろん、因果関係もない)ということで表示されていたのだが、なぜ、自閉スペクトラム症が増えているのだろうか。その理由は、何なのだろうか。

何かの、後天的な要因(先天的なものではなく)のせいなのか、あるいは、診断基準が変化して、そう診断される人が増えてきたということなのか。(日本における発達障害と特別支援学校のことがある。これは、そう定義して判断する事例が増えたということである。)

2026年7月24日記