ビストロボイス「声優のDEEPな世界「井上和彦×山寺宏一×三石琴乃」」 ― 2026-10-26

2026年10月26日 當山日出夫

ビストロボイス「声優のDEEPな世界「井上和彦×山寺宏一×三石琴乃」」

あまり声優ということに興味がない(だが、この番組はおもしろい)ので、声優さんの名前は知らないのだが、それでも、三石琴乃は知っている。長女が幼稚園か小学生のころに、『セーラームーン』を見ていたので、なんとなく名前を憶えた、というだけのことである。

『サイボーグ009』は、石森章太郎(私の世代だとこの名前で憶えた)が、最初に、確か「少年キング」だったはずだが、連載を始めたのを読んだ。ブラックゴーストの一味から脱出して、仲間と一緒になるところを、子どものころに読んだのを記憶している。その後、折に触れて読んだ。(このように思う人も多いかとも思うが)最後に002と009が、流星になったシーンで終わっておいた方がよかった。それから復活したのが良くないということではないが。漫画の作品のエンディングとして、非常に印象的な場面だった。そのせいもあってか、アニメ版の「009」は、ほとんど見ていない。(原作の漫画は良かったが、アニメがつまらなかったのは、『ゲゲゲの鬼太郎』がそうである。始めのうちはよかったが、アニメ版は、だんだんつまらなくなっていった。鬼太郎が正義の味方になるなんて、漫画をつまらなくするきわみでしかない。)

色気のある声、息漏れがある、これはそうかなと感じる。

見ていて興味深かったのは、本番で100%を出すためには、リハーサル段階では、おさえめにしておく、という話し。声優とか、役者さんの仕事としては、そういうこともあるのかと思った次第である。これが、舞台の役者さんだったら、どうだろうか。テレビのドラマとは、また違うだろう。声優の仕事は、(こういう言い方はよくないのかもしれないが)いくらでもやり直し、録音のしなおしができる。どれがベストということは、どういう判断で決めるのだろうか。声優本人の判断もあるだろうし、演出監督の判断もあるだろう。

ビル・エヴァンスのCDなど聞いていると、同じ曲を、TAKE1、TAKE2、と入っている。こういうのは、どっちもいいとしかいいようがない。録音、レコードという音楽メディアだから出来ることでもある。

外国の映画のことだろうが、外画、いう言い方をする。業界用語かと思うが、これは、はじめて耳にした。

2026年10月24日記

『太平記』「開戦前夜」 ― 2026-10-26

2026年10月26日 當山日出夫

『太平記』「開戦前夜」

日曜日の昼に、『豊臣兄弟!』と続けて見ているので、『太平記』の脚本の上手さがきわだって感じられる。

この回でも、東国(奥州、関東、鎌倉)の支配をめぐる考え方、武家と公家との考え方の違い、後醍醐天皇の考え方とまわりの公家たちの違い、三位の局(廉子)の策謀、藤夜叉や石のような一般庶民の視点、こういういろんなことが、一つのドラマの中におさまっている。

だいたい、革命(のようなこと)が起こって、次にあるのは、実はこんなはずではなかったのに、といういろいろな不満である。それらの中をどう泳ぎ切ることができるかで、最終的な勝者が決まる。ここで重要な意味をもつのは、全体の動向や時代の流れを見る視点と、細かなインテリジェンスである。

北条の支配に不満を持っていた武士たちと公家、それが倒れたあとに、どういう世の中であるかを構想することのできたものと、ただ、権力にしがみついているもの。こういうことが、見ていてなんとなく感じられる。といって、尊氏が、それほどすぐれた先見の明があったということではない。しかし、かなり、冷静に世の中の動きを見ている。そこには、武家などの動向をさぐるインテリジェンスのはたらきがあり、これは、一色馬之介がになっている。また、高師直も、ひそかに、世の中の動きを見ている。

後醍醐天皇と尊氏の場面。天下をになうのは肩が凝る……これは、うまい表現である。ただ、新しい平和な世がくればいいというような、観念論を語るよりも、よっぽど説得力がある。言いかえれば、天下をおさめるのは、いろんな勢力の利害の調整が必要である、武力だけで決まるものではなく、政治力の気苦労がともなうものである。こういう冷めた見方は、『豊臣兄弟!』には無い。

二条河原落首は、歴史の史料としてあまりに有名である。これに出てくる偽綸旨を、うまく使っている。石がもらったのは、どうやら本物のようであるが、だからといって、その文書のように所領が確実に自分のものになったということにはならない。

歴史の動乱期にあって、いろんな立場の人間が、それぞれに思うこと、感じることがある、この当たり前のことを、きちんと描いている。

ささいなことだが……尊氏が、佐々木道誉と話しをしながら、文書を書いていて、書き終わると、くるくると筒状にまるめて、それを、平らにつぶしていた。こうすることによって、きちんと折りたたまれた文書になる。こういう動作を描いているのも、このドラマのいいところかと思っている。

2026年10月25日記

『豊臣兄弟!』「家康の野望」 ― 2026-10-26

2026年10月26日 當山日出夫

『豊臣兄弟!』「家康の野望」

家康が上洛して秀吉に臣従する、その前の夜に、秀吉がこっそりと家康のところに行って、明日は頭を下げてくれとお願いする……よく知られたエピソードであるが、実は、その裏で、家康はこういうことをたくらんでいた。単発のドラマとして見れば、これはこれで面白いし、よく作ってあると思う。しかし、一年をとおしての連続したドラマの中の一つとみると、やっぱりどうかなあ、という気になる。

家康が秀長暗殺を企む。自分が行けば、秀長が対応することになるだろうと予測して、秀長の屋敷での、暗殺を計画する。まあ、これはこれで、ドラマの設定としては、こういうことであってもよい。

だが、家康にこう言わせるためには、これまでの回で、秀長のはたらきがどのようなものであったか、ということを描いてあってのことである。だが、どうもそのようであるとは思えない。

これまでの回だと、秀吉と秀長と、一緒に並んで叫んでいたということしか思いうかばない。せいぜい、秀長が、どちらかといえば交渉を重んずる平和主義的な傾向があるということは、あった。だが、その積み重ねの結果として、豊臣政権にあって、諸大名との交渉役を担っていたということまでは、描いていなかった。

家康と秀吉、秀長との対面での会話。ここで、秀吉と家康がはじめて出会ったときの場面の回想があった。この回のこと……実は、家康は秀吉をバカにしていて、適当にあしらっただけだった、おそらく家康はそんなことは忘れてしまっている……を、視聴者が、憶えているかどうかで、今日の場面の意味は、まったく変わってくる。たまたま、以前のこの場面を見損ねたという視聴者は、本気で、家康がそう言ったと解釈するだろう。それはそれで、どっちでもいいのかもしれないが、連続した一つのドラマとしては、視聴者を裏切っているように思える。

それにしても、家康の秀長暗殺計画は、あまりに杜撰すぎる。

少なくとも、普通に考えて、矢には毒をぬるだろう。今の時代の、狙撃用のライフルをつかったスナイパーということではない。そして、もし、し損じたらどうするか、ということを考えておかなかったようである、というのは、どう考えても作戦として下手すぎる。秀長の屋敷のシークレットサービスが、黙っているというのは、どうにも理解できない。

家康が六万の大軍を率いてやってくると知らせてきた手紙は、仮名まじりの文章だったので、おそらくは、あさひが知らせてきたという設定にしたつもりなのだろう。しかし、戦国武将として、これから天下一統を考えている豊臣政権として、家康の軍の動きを察知していない、インテリジェンス機能が働いていないというのは、どう考えてもおかしい。

石川数正は、本当はスパイということなのか。どうでもいいが、実はどうであったとしてもよいようにこの回で描いてあったようである。続きの回を担当する脚本が、どのようにでも使えるようにしておいた、ということだろうか。一人の脚本家が、全体の筋をとおして考えているというところが、感じられない。

秀吉にしても、秀長にしても、家康にしても、新しい平和な世を作りたいといって、思い出しているのは、きわめて個人的なエピソードである。この時代の庶民のくらしということが、まったく視野にはいっていない。いまどき階級史観でドラマを作れとはいわないが、しかし、農民出身の秀吉と秀長だからこそ分かる、百姓の視点からの、新しい統一された天下ということが、まったく出てこないというのは、「太閤記」として見ても、どうかなと思うところである。

2026年10月25日記