『夕暮れに夜明けの歌を』奈倉有里 ― 2022-06-25
2022年6月25日 當山日出夫

奈倉有里.『夕暮れに夜明けの歌を-文学を探しにロシアに行く-』.イーストプレス.2021
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781620121
話題の本ということで読んでおくことにした。いい本である。およそ文学について考えることのある人は手に取る価値ある。
この本が刊行になったのは、二〇二一年。まだ、ロシアのウクライナ侵略の前のことである。だが、この本において、二〇一四年のクリミア併合のことに言及して、ロシアとウクライナの問題を、深く考えてある。といっても、国際政治の分析ではない。国家と言語、そして、文学、文化というものと、大きな歴史の流れを見つめている。その視線は、おだやかではあるが、しかし、するどい。
また、この本はこれまでの著者の経歴をなぞって記述してある。子供のときの思い出からはじまって、ロシアへの留学。そこでの勉学。なかんずく、ロシア文学を読み、学ぶということのもつ意味について、深く静かに考察をめぐらしてある。
その傍ら、ロシアでの学生生活の様子の記述が興味深い。なるほどロシアの学生、ペテルブルグやモスクワの学生やそこに住んでいる人びとは、こんなふうな生活を送っているのか、その一端をかいまみることができる。(その記録としても、この本は貴重であると思う。)
この本は、ロシアのウクライナ侵略ということで注目されていると思う。だが、このような歴史的政治的事情を抜きにして、ただ、文学について語るとはどういうことなのか、思いをめぐらせるときに傍らにあっていい本である。文学というものの普遍性に眼差しが向いている。
2022年6月15日記
https://www.eastpress.co.jp/goods/detail/9784781620121
話題の本ということで読んでおくことにした。いい本である。およそ文学について考えることのある人は手に取る価値ある。
この本が刊行になったのは、二〇二一年。まだ、ロシアのウクライナ侵略の前のことである。だが、この本において、二〇一四年のクリミア併合のことに言及して、ロシアとウクライナの問題を、深く考えてある。といっても、国際政治の分析ではない。国家と言語、そして、文学、文化というものと、大きな歴史の流れを見つめている。その視線は、おだやかではあるが、しかし、するどい。
また、この本はこれまでの著者の経歴をなぞって記述してある。子供のときの思い出からはじまって、ロシアへの留学。そこでの勉学。なかんずく、ロシア文学を読み、学ぶということのもつ意味について、深く静かに考察をめぐらしてある。
その傍ら、ロシアでの学生生活の様子の記述が興味深い。なるほどロシアの学生、ペテルブルグやモスクワの学生やそこに住んでいる人びとは、こんなふうな生活を送っているのか、その一端をかいまみることができる。(その記録としても、この本は貴重であると思う。)
この本は、ロシアのウクライナ侵略ということで注目されていると思う。だが、このような歴史的政治的事情を抜きにして、ただ、文学について語るとはどういうことなのか、思いをめぐらせるときに傍らにあっていい本である。文学というものの普遍性に眼差しが向いている。
2022年6月15日記
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ケイン/池田真紀子(訳) ― 2022-06-18
2022年6月18日 當山日出夫(とうやまひでお)

ケイン.池田真紀子(訳).『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(光文社古典新訳文庫).光文社.2014
https://www.kotensinyaku.jp/books/book194/
読んでいない、あるいは、遠い昔に読んだ本の再読、ということで、あれこれと読んでいる。さて、この作品はどうだったろうか。若いときに手にしたような記憶はあるのだが、はっきりと憶えていない。
池田真紀子の訳ということで、光文社古典新訳文庫版で読んでみることにした。解説によると、ノワール、あるいは、ハードボイルドの傑作という位置づけになるようだが、たしかに読んで面白い。
あるいは、この作品については、映画が有名かもしれないのだが、私は見ていない。
ストーリー、状況設定は、比較的単純である。一九三〇年代、不況のころのアメリカである。流れ者の主人公。ふと立ち寄ったレストラン。そこにいるギリシャ人の夫と妻。結局のところは、その夫を殺すという犯罪小説として展開することになるのだが、それが、男の視点から描かれる。
解説を書いているのが、諏訪部浩一。これが良く書けている。アメリカ文学史における、ハードボイルド論、ノワール論、である。読んで、なるほど、ハードボイルドをそのように考えることができるのかと、興味深い。
私が読んで感じるところとしては、次の二点ぐらいがある。
第一に、ダメ男の物語。
この小説の主人公は、ダメ男である。たしかに、ある意味ではタフといえるかもしれないのだが、読んでいてなんとなく歯がゆい。さっさと女とどこかに行ってしまえばいいのにと思ってしまう。
この主人公に共感するところはあまりないし、また、その行動や思考を肯定的にとらえることはないのであるが、しかし、読んでいて、こういう男もいるのかと、ついつい読みつづけることになる。まあ、このあたりは、人物造形のうまさと、小説としてのたくみさある。
第二に、犯罪小説。
文学史としては、犯罪小説のなかに位置づけることになる。そう巧妙な犯罪計画ということではないが、事件がおこり裁判がある。この作品は、犯罪小説の系譜における傑作である。今の視点から、犯罪小説として読んで面白い。
以上のことを思ってみる。
そう長くない作品であるが、印象に残る。特に犯罪小説の歴史ということを考えてみるとき、やはりこの作品は重要な位置をしめることになるのだろう。
2022年6月2日記
https://www.kotensinyaku.jp/books/book194/
読んでいない、あるいは、遠い昔に読んだ本の再読、ということで、あれこれと読んでいる。さて、この作品はどうだったろうか。若いときに手にしたような記憶はあるのだが、はっきりと憶えていない。
池田真紀子の訳ということで、光文社古典新訳文庫版で読んでみることにした。解説によると、ノワール、あるいは、ハードボイルドの傑作という位置づけになるようだが、たしかに読んで面白い。
あるいは、この作品については、映画が有名かもしれないのだが、私は見ていない。
ストーリー、状況設定は、比較的単純である。一九三〇年代、不況のころのアメリカである。流れ者の主人公。ふと立ち寄ったレストラン。そこにいるギリシャ人の夫と妻。結局のところは、その夫を殺すという犯罪小説として展開することになるのだが、それが、男の視点から描かれる。
解説を書いているのが、諏訪部浩一。これが良く書けている。アメリカ文学史における、ハードボイルド論、ノワール論、である。読んで、なるほど、ハードボイルドをそのように考えることができるのかと、興味深い。
私が読んで感じるところとしては、次の二点ぐらいがある。
第一に、ダメ男の物語。
この小説の主人公は、ダメ男である。たしかに、ある意味ではタフといえるかもしれないのだが、読んでいてなんとなく歯がゆい。さっさと女とどこかに行ってしまえばいいのにと思ってしまう。
この主人公に共感するところはあまりないし、また、その行動や思考を肯定的にとらえることはないのであるが、しかし、読んでいて、こういう男もいるのかと、ついつい読みつづけることになる。まあ、このあたりは、人物造形のうまさと、小説としてのたくみさある。
第二に、犯罪小説。
文学史としては、犯罪小説のなかに位置づけることになる。そう巧妙な犯罪計画ということではないが、事件がおこり裁判がある。この作品は、犯罪小説の系譜における傑作である。今の視点から、犯罪小説として読んで面白い。
以上のことを思ってみる。
そう長くない作品であるが、印象に残る。特に犯罪小説の歴史ということを考えてみるとき、やはりこの作品は重要な位置をしめることになるのだろう。
2022年6月2日記
『気狂いピエロ』ライオネル・ホワイト/矢口誠(訳)/新潮文庫 ― 2022-06-10
2022年6月10日 當山日出夫(とうやまひでお
)

ライオネル・ホワイト.矢口誠(訳).『気狂いピエロ』(新潮文庫).新潮社.2022
https://www.shinchosha.co.jp/book/240191/
これは、映画の方が有名だろう。ゴダールの映画である。ただ、私は見たことはない。しかし、名前は知っている。まあ、それほど有名な映画ということになる。
その原作の小説の翻訳ということで読んでみたのだが、これが面白い。文庫本の紹介文には、ノワールとある。確かに犯罪小説ではある。だが、そんなに暗い印象はない。むしろ、あっけらかんと明るい。
どうしようもない男と、なぞの若い女性。犯罪と逃避行。次々と起こる事件と犯罪。あれよあれよというまに話しは展開していく。ほとんど一気に読んでしまった。私としては、この小説を読んで、ある種の滑稽みのようなものを感じたのだが、どうだろうか。読みようによっては、破天荒なスラップスティックとしても読めるような気がする。
ところで、この『気狂いピエロ』という名前をいつ覚えたのだろうか。学生のころから知っていたようには思う。だが、何で名前を見たのかというようなことはさっぱり忘れてしまっている。映画史上に名高い傑作ということで、どこかで憶えたのだろう。
映画の方はともかくとして、これは、小説として読んで面白い。犯罪小説の系譜、あるいは、『ロリータ』などの作品の系譜につらなるものとして、文学史的にはいろいろと考えるところがあるのだろうと思う。が、ここは、楽しみの読書と割りきって、読んで面白ければいいとしておきたい。
2022年6月1日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/240191/
これは、映画の方が有名だろう。ゴダールの映画である。ただ、私は見たことはない。しかし、名前は知っている。まあ、それほど有名な映画ということになる。
その原作の小説の翻訳ということで読んでみたのだが、これが面白い。文庫本の紹介文には、ノワールとある。確かに犯罪小説ではある。だが、そんなに暗い印象はない。むしろ、あっけらかんと明るい。
どうしようもない男と、なぞの若い女性。犯罪と逃避行。次々と起こる事件と犯罪。あれよあれよというまに話しは展開していく。ほとんど一気に読んでしまった。私としては、この小説を読んで、ある種の滑稽みのようなものを感じたのだが、どうだろうか。読みようによっては、破天荒なスラップスティックとしても読めるような気がする。
ところで、この『気狂いピエロ』という名前をいつ覚えたのだろうか。学生のころから知っていたようには思う。だが、何で名前を見たのかというようなことはさっぱり忘れてしまっている。映画史上に名高い傑作ということで、どこかで憶えたのだろう。
映画の方はともかくとして、これは、小説として読んで面白い。犯罪小説の系譜、あるいは、『ロリータ』などの作品の系譜につらなるものとして、文学史的にはいろいろと考えるところがあるのだろうと思う。が、ここは、楽しみの読書と割りきって、読んで面白ければいいとしておきたい。
2022年6月1日記
『中央線小説傑作選』南陀楼綾繁(編)/中公文庫 ― 2022-06-06
2022年6月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

南陀楼綾繁(編).『中央線小説傑作選』(中公文庫).中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/03/207193.html
短篇集である。収録するのは次の作品。
土手三番町 内田百閒
こがね虫たちの夜 五木寛之
揺り椅子 小沼丹
阿佐ヶ谷会 井伏鱒二
寒鮒 上林暁
心願の国 原民喜
犯人 太宰治
眼 吉村昭
風の吹く部屋 尾辻克彦
たまらん坂 黒井千次
新開地の事件 松本清張
共通することとしては、中央線の沿線にまつわる小説、ただこれだけである。そして、配列順は、駅順になっていく。ちょっと変わったアンソロジーである。このような趣向の本もあっていいと思う。
実に様々な作品がある。やや長いものもあれば、ごく短いものもある。なんとなく時間のあるときに、手にする本として読んで、ようやく読み終わった。
なかで印象に残るのは、五木寛之の作品だろうか。私は、これまで、あまり五木寛之の作品を読んではこなかった。なんとなく遠ざけてきたところがある。考えてみれば、五木寛之も、二〇世紀から二一世紀にかけて、昭和戦後の時代から平成の時代を経て、活躍してきていることになる。五木寛之も、読んでおきたい作家として、再認識することになった。
ところで、中央線沿線が舞台の作品というと、私が思い浮かぶのは、向田邦子のライオンの話しである。たしか、中野あたりのことではなかったろうか(記憶で書いているのであいまいであるが。)これなど、是非、収録したいと思う。が、これは、小説ではなくエッセイだから無理なのかもしれない。
ともあれ、このアンソロジーに入っていなければ読まなかったような作品が多くあることもたしかである。
2022年6月1日記
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/03/207193.html
短篇集である。収録するのは次の作品。
土手三番町 内田百閒
こがね虫たちの夜 五木寛之
揺り椅子 小沼丹
阿佐ヶ谷会 井伏鱒二
寒鮒 上林暁
心願の国 原民喜
犯人 太宰治
眼 吉村昭
風の吹く部屋 尾辻克彦
たまらん坂 黒井千次
新開地の事件 松本清張
共通することとしては、中央線の沿線にまつわる小説、ただこれだけである。そして、配列順は、駅順になっていく。ちょっと変わったアンソロジーである。このような趣向の本もあっていいと思う。
実に様々な作品がある。やや長いものもあれば、ごく短いものもある。なんとなく時間のあるときに、手にする本として読んで、ようやく読み終わった。
なかで印象に残るのは、五木寛之の作品だろうか。私は、これまで、あまり五木寛之の作品を読んではこなかった。なんとなく遠ざけてきたところがある。考えてみれば、五木寛之も、二〇世紀から二一世紀にかけて、昭和戦後の時代から平成の時代を経て、活躍してきていることになる。五木寛之も、読んでおきたい作家として、再認識することになった。
ところで、中央線沿線が舞台の作品というと、私が思い浮かぶのは、向田邦子のライオンの話しである。たしか、中野あたりのことではなかったろうか(記憶で書いているのであいまいであるが。)これなど、是非、収録したいと思う。が、これは、小説ではなくエッセイだから無理なのかもしれない。
ともあれ、このアンソロジーに入っていなければ読まなかったような作品が多くあることもたしかである。
2022年6月1日記
『夢見る帝国図書館』中島京子/文春文庫 ― 2022-06-04
2022年6月4日 當山日出夫(とうやまひでお)

中島京子.『夢見る帝国図書館』(文春文庫).文藝春秋.2022(文藝春秋.2019)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918729
図書館の小説である。主人公は、帝国図書館。そして、喜和子という女性。
この小説は、二重の構造になっている。
第一には、上野の公園で偶然で会うことになり親交をふかめる、喜和子さんと私のものがたり。フリーライターの私は、上野公園で喜和子さんという年配の女性と知り合う。親しくなり、喜和子さんの家をたずねたりするようになる。喜和子さんの人生はなぞである。
どこで生まれて、どこで育って、どんな結婚をして、どんな生活をしてきたのか、その人生が徐々に明らかになっていく。ここの部分で語られるのは、近代のある時代を生きた一人の女性の物語である。そして、その背景としての、戦後日本というある時代の流れ。
第二には、帝国図書館。現在の、国立国会図書館であるが、戦前は、上野にある帝国図書館であった。その図書館を擬人化して、図書館の語りということで、近代の帝国図書館史が描かれる。そこに登場するのは、近代の著名な文学者、学者などである。本を読みに図書館に通っていた人びと。
そして、近代という歴史の流れのなかで存在してきた帝国図書館の歴史。その設立から、戦後しばらくころまでのことが、図書館史というような観点で記述されている。(このあたりは、史実をふまえてのものだろうと思う。)
以上、二つの物語、喜和子さんという女性の人生の物語と、帝国図書館の歴史が、交互に叙述され、それが最後に交わることになる。まあ、このあたりは、小説の書き方として常道であるが。
一般的に書くならば、この小説は、上記の二つの物語として理解することになる。だが、一方で、この小説に特有の要素を考えてみると、さらに二つのことがある。
一つには、上野の物語であること。現在の上野公園とその周辺は、江戸時代からどうであったか、近代になってどのような歴史があって、今日の上野公園になったのか。そして、重要なことは、そこに暮らしていた人間がいたことである。たぶん、これは、上野公園の一般的な歴史からは消されていることかもしれないが、そこに光をあてた記述が興味深い。
もう一つのこととしては、図書館の物語であるのだが、同時に近代になってからの読者の物語になっていることである。上野の帝国図書館に通っていた文学者などは、本を読むためにそこに通った。ともすれば、図書館は、その蔵書を軸に語られることが多いかと思うが、この小説では、図書館は本を読むためのものという視点で描かれている。その読者のための蔵書である。
このようなことを思うことになる。
さて、今の国立国会図書館はどうだろうか。今や、デジタルとインターネットの時代になって、国立国会図書館も大きく変わった。その是非は議論のあるところかもしれない。ただ、図書館というものが、そこで本を読むためのものである、少なくともかつてはそうであった、この認識は重要なことだろうと思う。読者があってこその蔵書であり、各種のサービスなのである。
図書館とは何であるのか、何であったのか、これからはどうであるべきなのか、いろいろ考えるところにある本である。
2022年5月16日記
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167918729
図書館の小説である。主人公は、帝国図書館。そして、喜和子という女性。
この小説は、二重の構造になっている。
第一には、上野の公園で偶然で会うことになり親交をふかめる、喜和子さんと私のものがたり。フリーライターの私は、上野公園で喜和子さんという年配の女性と知り合う。親しくなり、喜和子さんの家をたずねたりするようになる。喜和子さんの人生はなぞである。
どこで生まれて、どこで育って、どんな結婚をして、どんな生活をしてきたのか、その人生が徐々に明らかになっていく。ここの部分で語られるのは、近代のある時代を生きた一人の女性の物語である。そして、その背景としての、戦後日本というある時代の流れ。
第二には、帝国図書館。現在の、国立国会図書館であるが、戦前は、上野にある帝国図書館であった。その図書館を擬人化して、図書館の語りということで、近代の帝国図書館史が描かれる。そこに登場するのは、近代の著名な文学者、学者などである。本を読みに図書館に通っていた人びと。
そして、近代という歴史の流れのなかで存在してきた帝国図書館の歴史。その設立から、戦後しばらくころまでのことが、図書館史というような観点で記述されている。(このあたりは、史実をふまえてのものだろうと思う。)
以上、二つの物語、喜和子さんという女性の人生の物語と、帝国図書館の歴史が、交互に叙述され、それが最後に交わることになる。まあ、このあたりは、小説の書き方として常道であるが。
一般的に書くならば、この小説は、上記の二つの物語として理解することになる。だが、一方で、この小説に特有の要素を考えてみると、さらに二つのことがある。
一つには、上野の物語であること。現在の上野公園とその周辺は、江戸時代からどうであったか、近代になってどのような歴史があって、今日の上野公園になったのか。そして、重要なことは、そこに暮らしていた人間がいたことである。たぶん、これは、上野公園の一般的な歴史からは消されていることかもしれないが、そこに光をあてた記述が興味深い。
もう一つのこととしては、図書館の物語であるのだが、同時に近代になってからの読者の物語になっていることである。上野の帝国図書館に通っていた文学者などは、本を読むためにそこに通った。ともすれば、図書館は、その蔵書を軸に語られることが多いかと思うが、この小説では、図書館は本を読むためのものという視点で描かれている。その読者のための蔵書である。
このようなことを思うことになる。
さて、今の国立国会図書館はどうだろうか。今や、デジタルとインターネットの時代になって、国立国会図書館も大きく変わった。その是非は議論のあるところかもしれない。ただ、図書館というものが、そこで本を読むためのものである、少なくともかつてはそうであった、この認識は重要なことだろうと思う。読者があってこその蔵書であり、各種のサービスなのである。
図書館とは何であるのか、何であったのか、これからはどうであるべきなのか、いろいろ考えるところにある本である。
2022年5月16日記
『かか』宇佐見りん/河出文庫 ― 2022-05-28
2022年5月28日 當山日出夫(とうやまひでお)

宇佐見りん.『かか』(河出文庫).河出書房新社.2022(河出書房新社.2019)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309418803/
売れている本ということなので、読んでみることにした。ただ、宇佐見りんは、『推し、燃ゆ』は、読んだのだがあまり感心しなかったということがある。(これはもう私が年取って時代遅れになってしまっているということなのかとも思ったりする。)
『かか』であるが、読んで思うことは、これは傑作である。この小説には、古さと新しさが同居している。そして、古さと新しさを、巧みな文章で同居させている。その文体の魅力である。
第一に、この小説の題材は、いかにも古めかしい。女であり、子供であり、家庭であり、母であり、病気であり……これまでに多くの文学であつかわれてきた題材が、この小説にはちりばめられている。はっきりいって、ここに目新しさはあまり感じない。
第二に、現代の若い作家の作品として、SNSの世界を描いていること。これは、新しい。SNSの世界にも、新しいメディアのなかに、人間関係があり、またそれは、リアルの世界とどこかつながっている。(このあたりも、さほど目新しいということはないのかもしれないが。)
以上の二点……古さと新しさ……のことを思ってみるのだが、もう一つ特筆しておくべきは、文体の魅力である。文学とは究極のところ文体の魅力であると、私は思うところがあるのだが、この小説は、読み始めてその文体の魅力に引きこまれる。標準的な日本語の文章というのではなく、疑似方言が出てくる。どこと特定できることばではないと感じるのだが、そのその独特のことばづかいが、作品を読ませる力になっている。
さらに書いておくべきこととしては、熊野信仰がある。少女は、東京から熊野へと旅をする。その旅の過程と、それまでの人生の回想がないまぜになって小説は進行する。熊野とは、はっきりいって、いかにも古めかしい題材である。なぜ熊野を目指すことになるのかは、明示されているわけではない。しかし、熊野へと旅する少女のこころのうちに、読みながら入りこんでいくことになる。
『かか』という小説を構成するのは、なじみのある古風なテーマと、そして、今の時代に生きる少女の感性。そして、古来からの熊野信仰。これらが、魅力的な文体でつづられる。
文学というものが、必ずしも新しい題材だけを求めて成立するのではないことが分かる。そして、文学をささえるのは、文体……ことばの魅力……であることを、確認できる小説である。
2022年5月17日記
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309418803/
売れている本ということなので、読んでみることにした。ただ、宇佐見りんは、『推し、燃ゆ』は、読んだのだがあまり感心しなかったということがある。(これはもう私が年取って時代遅れになってしまっているということなのかとも思ったりする。)
『かか』であるが、読んで思うことは、これは傑作である。この小説には、古さと新しさが同居している。そして、古さと新しさを、巧みな文章で同居させている。その文体の魅力である。
第一に、この小説の題材は、いかにも古めかしい。女であり、子供であり、家庭であり、母であり、病気であり……これまでに多くの文学であつかわれてきた題材が、この小説にはちりばめられている。はっきりいって、ここに目新しさはあまり感じない。
第二に、現代の若い作家の作品として、SNSの世界を描いていること。これは、新しい。SNSの世界にも、新しいメディアのなかに、人間関係があり、またそれは、リアルの世界とどこかつながっている。(このあたりも、さほど目新しいということはないのかもしれないが。)
以上の二点……古さと新しさ……のことを思ってみるのだが、もう一つ特筆しておくべきは、文体の魅力である。文学とは究極のところ文体の魅力であると、私は思うところがあるのだが、この小説は、読み始めてその文体の魅力に引きこまれる。標準的な日本語の文章というのではなく、疑似方言が出てくる。どこと特定できることばではないと感じるのだが、そのその独特のことばづかいが、作品を読ませる力になっている。
さらに書いておくべきこととしては、熊野信仰がある。少女は、東京から熊野へと旅をする。その旅の過程と、それまでの人生の回想がないまぜになって小説は進行する。熊野とは、はっきりいって、いかにも古めかしい題材である。なぜ熊野を目指すことになるのかは、明示されているわけではない。しかし、熊野へと旅する少女のこころのうちに、読みながら入りこんでいくことになる。
『かか』という小説を構成するのは、なじみのある古風なテーマと、そして、今の時代に生きる少女の感性。そして、古来からの熊野信仰。これらが、魅力的な文体でつづられる。
文学というものが、必ずしも新しい題材だけを求めて成立するのではないことが分かる。そして、文学をささえるのは、文体……ことばの魅力……であることを、確認できる小説である。
2022年5月17日記
『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン/岸本佐知子(訳) ― 2022-05-23
2022年5月23日 當山日出夫(とうやまひでお)

ルシア・ベルリン.岸本佐知子(訳).『掃除婦のための手引き書』(講談社文庫).講談社.2022(講談社.2019)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000362905
売れている本ということなので、読んでみることにした。なるほど、この本が売れるのはよくわかるような気がする。大人の読む文学、小説なのである。
著者のルシア・ベルリンは、亡くなってかなりになる。生前は、さほど売れるということがなかったのだが、近年になって再評価の動きがある。そのなかで、講談社が翻訳を刊行することになった。その文庫本である。
全部で二〇ほどの短篇が収録されている。どれも長いものではない。扱われている題材としては、そのかなりが著者の実人生に沿ったものということである。決して平坦な人生ということではなかった。また、社会の上層ということでもない。強いていえば、中層から下層の人びとのなかで暮らしてきたといっていいのだろう。
実人生に題材をとるといっても、日本でいう私小説とは違う。が、このあたりの議論に踏み込んで考えようという気もおこらない。読んで面白ければいい、そう思うようになった。(日本の私小説でも読んで面白ければそれでいいではないかと思うようになっている。)
作品の配列は、おおむね著者の人生をたどって配列されているのかと思う。
読んで感じるのは、生活の実感の文学的表現とでもいっておこうか。だいたい、第二次大戦後のアメリカ社会……それも、強いていえば中層以下の人びとの……における、生活感覚を見事に描き出している。しかも、短篇作品として無駄がない。短い作品のなかに心にのこる場面がある。
このような作品、大人が読んで楽しめる小説というのが、あるいは今の日本文学で一番乏しいものかなとも思う。ここでいう大人の小説は、エンタテイメントとは少しことなる。読んで文学的印象の残る作品としてである。この本が売れているということは、まだまだ日本の文学、出版の業界も望みがあるといっていいだろうか。少なくとも、文学として価値のある作品が読まれるということは、いいことである。
さて、残りの作品が、『すべての月、すべての年』として発売になっている。これも読んでおきたいと思う。
2022年5月14日記
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000362905
売れている本ということなので、読んでみることにした。なるほど、この本が売れるのはよくわかるような気がする。大人の読む文学、小説なのである。
著者のルシア・ベルリンは、亡くなってかなりになる。生前は、さほど売れるということがなかったのだが、近年になって再評価の動きがある。そのなかで、講談社が翻訳を刊行することになった。その文庫本である。
全部で二〇ほどの短篇が収録されている。どれも長いものではない。扱われている題材としては、そのかなりが著者の実人生に沿ったものということである。決して平坦な人生ということではなかった。また、社会の上層ということでもない。強いていえば、中層から下層の人びとのなかで暮らしてきたといっていいのだろう。
実人生に題材をとるといっても、日本でいう私小説とは違う。が、このあたりの議論に踏み込んで考えようという気もおこらない。読んで面白ければいい、そう思うようになった。(日本の私小説でも読んで面白ければそれでいいではないかと思うようになっている。)
作品の配列は、おおむね著者の人生をたどって配列されているのかと思う。
読んで感じるのは、生活の実感の文学的表現とでもいっておこうか。だいたい、第二次大戦後のアメリカ社会……それも、強いていえば中層以下の人びとの……における、生活感覚を見事に描き出している。しかも、短篇作品として無駄がない。短い作品のなかに心にのこる場面がある。
このような作品、大人が読んで楽しめる小説というのが、あるいは今の日本文学で一番乏しいものかなとも思う。ここでいう大人の小説は、エンタテイメントとは少しことなる。読んで文学的印象の残る作品としてである。この本が売れているということは、まだまだ日本の文学、出版の業界も望みがあるといっていいだろうか。少なくとも、文学として価値のある作品が読まれるということは、いいことである。
さて、残りの作品が、『すべての月、すべての年』として発売になっている。これも読んでおきたいと思う。
2022年5月14日記
『青の時代』三島由紀夫/新潮文庫 ― 2022-05-20
2022年5月20日 當山日出夫(とうやまひでお)

三島由紀夫.『青の時代』(新潮文庫).新潮社.1971(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/105020/
書誌を書いて気づくのだが、この文庫本が出たのは、三島が亡くなった翌年のいことになる。没後の刊行である。
この作品を読むのは、はじめてである。名前は知っていた。光クラブの事件に題材をとった作品であることも知ってはいた。が、何となく手にすることなく過ぎてしまっていた作品である。
読んで思うことは、次の二点。
第一に、ある時代を描こうとした作品なのだろうということ。この作品の成立は、昭和二五年である。まだ戦後間もないころといってよい。光クラブの事件は、同時代の事件といってよいのだろう。その時代のなかにあって、同時代を三島の目で描いて見せた、ということになろうか。
第二に、行動と認識。この作品には、短い序文がついている。そのなかで、三島由紀夫自身が、行動と認識と述べている。こうある……「人は行動するごとく認識すべきであっても、認識するごとく行動すべきではないとすれば」。この小説における、行動と認識はどう考えることができるだろうか。光クラブという詐欺事件において、それが欺瞞とわかっていて行動している主人公は、はたして自らの行動をどう認識していたとすべきなのだろうか。
以上の二点のことを思って見る。
おそらく、行動と認識ということは、三島由紀夫の文学をつらぬくキーワードといってよいだろう。結局、最後になって、三島由紀夫は、ある行動に出ることになったのだが、その背後には、三島由紀夫なりの認識があってのことになろうか。
2022年5月16日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/105020/
書誌を書いて気づくのだが、この文庫本が出たのは、三島が亡くなった翌年のいことになる。没後の刊行である。
この作品を読むのは、はじめてである。名前は知っていた。光クラブの事件に題材をとった作品であることも知ってはいた。が、何となく手にすることなく過ぎてしまっていた作品である。
読んで思うことは、次の二点。
第一に、ある時代を描こうとした作品なのだろうということ。この作品の成立は、昭和二五年である。まだ戦後間もないころといってよい。光クラブの事件は、同時代の事件といってよいのだろう。その時代のなかにあって、同時代を三島の目で描いて見せた、ということになろうか。
第二に、行動と認識。この作品には、短い序文がついている。そのなかで、三島由紀夫自身が、行動と認識と述べている。こうある……「人は行動するごとく認識すべきであっても、認識するごとく行動すべきではないとすれば」。この小説における、行動と認識はどう考えることができるだろうか。光クラブという詐欺事件において、それが欺瞞とわかっていて行動している主人公は、はたして自らの行動をどう認識していたとすべきなのだろうか。
以上の二点のことを思って見る。
おそらく、行動と認識ということは、三島由紀夫の文学をつらぬくキーワードといってよいだろう。結局、最後になって、三島由紀夫は、ある行動に出ることになったのだが、その背後には、三島由紀夫なりの認識があってのことになろうか。
2022年5月16日記
『人間とマンボウ』北杜夫/中公文庫 ― 2022-05-14
2022年5月14日 當山日出夫(とうやまひでお)

北杜夫.『人間とマンボウ』(中公文庫).中央公論新社.2022(中央公論社.1972 中公文庫.1975)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/04/207197.html
これは、以前に中央公論社で刊行になり、中公文庫でも刊行されていたものの、文庫本の新版である。北杜夫の「どくとるマンボウ」のシリーズのいくつかは学生のときに手にしたのだが、この本は読まずに過ぎてしまっていた。
タイトルどおり、様々な人物についてのエッセイ集ということになる。読んで非常に面白い本である。印象に残ることを、二つばかり書いておきたい。
第一に、三島由紀夫。
三島由紀夫との交流について書いてある。三島由紀夫が、『楡家の人びと』を激賞した話しは有名だと思う。この本で出てくるのが、『白きたおやかな峰』についての文章。書簡の引用という形で掲載してある。これを読むと、三島由紀夫は、文学の鑑賞眼においても、一流の見識を有していたことが理解される。
ここに掲載の三島由紀夫関係の文章は、すぐれた三島論の一つであり、また、三島由紀夫の残したすぐれた文学論の一つといっていいだろう。
第二に、斎藤茂吉。
父親の斎藤茂吉についての、いくつかの文章を収録してある。斎藤茂吉については、北杜夫の書いた評伝四部作は読んだ。それといくぶん重複するところはあるかと感じるが、しかし、ここに収められた文章は、子供の北杜夫でしか書けない斎藤茂吉である。斎藤茂吉についての文章として読んで、非常に面白い。
以上の二点が印象に残るところである。
この他、近現代の作家についての文章が収められている。遠藤周作や辻邦生、手塚治虫などについて書かれたものもある。どれも面白い。
どくとるマンボウの主なものは読んできたつもりであるが、読みそびれているものがいくつかある。今でも読める本がある。今は三島由紀夫を軸に呼んでいるのだが、折をみて北杜夫の本も読んでおきたい。
2022年5月13日記
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/04/207197.html
これは、以前に中央公論社で刊行になり、中公文庫でも刊行されていたものの、文庫本の新版である。北杜夫の「どくとるマンボウ」のシリーズのいくつかは学生のときに手にしたのだが、この本は読まずに過ぎてしまっていた。
タイトルどおり、様々な人物についてのエッセイ集ということになる。読んで非常に面白い本である。印象に残ることを、二つばかり書いておきたい。
第一に、三島由紀夫。
三島由紀夫との交流について書いてある。三島由紀夫が、『楡家の人びと』を激賞した話しは有名だと思う。この本で出てくるのが、『白きたおやかな峰』についての文章。書簡の引用という形で掲載してある。これを読むと、三島由紀夫は、文学の鑑賞眼においても、一流の見識を有していたことが理解される。
ここに掲載の三島由紀夫関係の文章は、すぐれた三島論の一つであり、また、三島由紀夫の残したすぐれた文学論の一つといっていいだろう。
第二に、斎藤茂吉。
父親の斎藤茂吉についての、いくつかの文章を収録してある。斎藤茂吉については、北杜夫の書いた評伝四部作は読んだ。それといくぶん重複するところはあるかと感じるが、しかし、ここに収められた文章は、子供の北杜夫でしか書けない斎藤茂吉である。斎藤茂吉についての文章として読んで、非常に面白い。
以上の二点が印象に残るところである。
この他、近現代の作家についての文章が収められている。遠藤周作や辻邦生、手塚治虫などについて書かれたものもある。どれも面白い。
どくとるマンボウの主なものは読んできたつもりであるが、読みそびれているものがいくつかある。今でも読める本がある。今は三島由紀夫を軸に呼んでいるのだが、折をみて北杜夫の本も読んでおきたい。
2022年5月13日記
『禁色』三島由紀夫/新潮文庫 ― 2022-05-07
2022年5月7日 當山日出夫(とうやまひでお)

三島由紀夫.『禁色』(新潮文庫).新潮社.1964(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/105043/
三島由紀夫の代表作である。が、これは若いときに読んだ作品ではない。名前は知っているが、なんとなく手にすることなく過ぎてきてしまった作品である。
読んでいろいろと思うことはあるが、二点ぐらい書いておく。
第一に、同性愛小説であること。
日本近代における、同性愛小説ということでは、まず名前の出る作品といっていいだろう。
近年の時代の流れのなかで、性の多様性ということがいわれる。このなかにあって、同性愛というものも、市民権を得てきているといっていいのだろう。だが、これは古今東西を通じて、まったくの禁忌であったということではない。
日本においては、古く古代、中世からひろく行われてきたことである。また、古代ギリシャにそれを求めることもできよう。このようなことは、この作品中にも言及がある。古くからの古典の継承としての同性愛である。
これについては、近現代の日本において、明確な文学の主題としては正面から扱われてはこなかったといえるだろう。とはいえ、まったくなかったわけではない。最近読んだ本、出た本としては、川端康成の『少年』がある。
やまもも書斎記 20220年4月9日
『少年』川端康成/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/09/9479936
『禁色』は、ほぼ全編、同性愛小説といってよい。日本文学のなかにおける同性愛小説の系譜のなかに、この作品を位置づけて考えることができる。
第二は、非常に観念的な小説であること。
おおむね三島由紀夫の作品はそうだといっていいと思うが、観念的である。リアリズムの小説とはちょっと違う。
『禁色』も、性というものを、美と精神、認識と行動、というような視点から見ている。読み進めていって、どこかで性というものを、非常に観念的にとらえていると感じる。観念的だからこそ、そこに、理想的な美を見出すことになるのかもしれない。
非常に観念的な小説であるといっても、しかし、それは読み進んでいくなかで感じることである。この小説のはじまりの部分は、ちょっと違う印象がある。第一章のあたりは、おそらく、性というものの深淵を描いた傑作といってよい。しかし、三島由紀夫は、この小説を連載するなかで、徐々に、理想の性という観念を描くようになる。その結果、人間の性というものの実相から、逆に遠ざかってしまっていくような印象を持ってしまう。
以上の二点のことを思う。
かなり大部な小説になるが、ほぼ一息で読んでしまった。だが、読んでいって感じたことであるが、雑誌連載にあたって、ちょっと都合良く話しのつじつまを合わせてしまっていると感じるところがちょっとある。あるいは、意図的にそのように小説の展開を考えたのかもしれない。
ところで、三島由紀夫は、プルーストを読んでいたのだろうか。このあたりは、三島由紀夫研究で明らかにされていることだろうと思うのだが、読みながらちょっと気になったところである。
それから、この作品で重要なのは、鏡である。三島由紀夫文学における鏡、鏡像とは何であるのか。これは、重要なキーであることを感じる。
2022年5月6日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/105043/
三島由紀夫の代表作である。が、これは若いときに読んだ作品ではない。名前は知っているが、なんとなく手にすることなく過ぎてきてしまった作品である。
読んでいろいろと思うことはあるが、二点ぐらい書いておく。
第一に、同性愛小説であること。
日本近代における、同性愛小説ということでは、まず名前の出る作品といっていいだろう。
近年の時代の流れのなかで、性の多様性ということがいわれる。このなかにあって、同性愛というものも、市民権を得てきているといっていいのだろう。だが、これは古今東西を通じて、まったくの禁忌であったということではない。
日本においては、古く古代、中世からひろく行われてきたことである。また、古代ギリシャにそれを求めることもできよう。このようなことは、この作品中にも言及がある。古くからの古典の継承としての同性愛である。
これについては、近現代の日本において、明確な文学の主題としては正面から扱われてはこなかったといえるだろう。とはいえ、まったくなかったわけではない。最近読んだ本、出た本としては、川端康成の『少年』がある。
やまもも書斎記 20220年4月9日
『少年』川端康成/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/04/09/9479936
『禁色』は、ほぼ全編、同性愛小説といってよい。日本文学のなかにおける同性愛小説の系譜のなかに、この作品を位置づけて考えることができる。
第二は、非常に観念的な小説であること。
おおむね三島由紀夫の作品はそうだといっていいと思うが、観念的である。リアリズムの小説とはちょっと違う。
『禁色』も、性というものを、美と精神、認識と行動、というような視点から見ている。読み進めていって、どこかで性というものを、非常に観念的にとらえていると感じる。観念的だからこそ、そこに、理想的な美を見出すことになるのかもしれない。
非常に観念的な小説であるといっても、しかし、それは読み進んでいくなかで感じることである。この小説のはじまりの部分は、ちょっと違う印象がある。第一章のあたりは、おそらく、性というものの深淵を描いた傑作といってよい。しかし、三島由紀夫は、この小説を連載するなかで、徐々に、理想の性という観念を描くようになる。その結果、人間の性というものの実相から、逆に遠ざかってしまっていくような印象を持ってしまう。
以上の二点のことを思う。
かなり大部な小説になるが、ほぼ一息で読んでしまった。だが、読んでいって感じたことであるが、雑誌連載にあたって、ちょっと都合良く話しのつじつまを合わせてしまっていると感じるところがちょっとある。あるいは、意図的にそのように小説の展開を考えたのかもしれない。
ところで、三島由紀夫は、プルーストを読んでいたのだろうか。このあたりは、三島由紀夫研究で明らかにされていることだろうと思うのだが、読みながらちょっと気になったところである。
それから、この作品で重要なのは、鏡である。三島由紀夫文学における鏡、鏡像とは何であるのか。これは、重要なキーであることを感じる。
2022年5月6日記
最近のコメント