『村上T』村上春樹/新潮文庫2023-06-04

2023年6月4日 當山日出夫

村上T

村上春樹.『村上T-僕の愛したTシャツたち-』(新潮文庫).新潮社.2023(マガジンハウス.2020)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100177/

私はTシャツを着ない。そうと決めているわけでもないし、特にそのようなポリシーがあるわけでもないのだが、何故か若いころから着ないままで今にいたっている。

何故だろうか。私が若いころ、Tシャツは、ある種のメッセージがあった。それがあまり好きになれなかったということもある。なるべく無色透明でいたいといえばいいだろうか。

さらに強いていえば、半袖のものは着ないことにしている。夏のよほど暑いときでないと着ない。いや、夏の暑いときこそ、半袖は着ない。今はさほどではなくなったが、夏の暑いとき、冷房が強くきいているところに行ったりするとき、調節のために、あえて長袖を着るようにしているということもある。これも、この頃では、電車に乗って冷房が効きすぎていると感じはあまりしなくなっている。社会全体の省エネの傾向の結果だろう。

この本は、村上春樹が、Tシャツにまつわる話題で書いたエッセイとインタビューを収めている。村上春樹には、Tシャツが似合うと思う。逆に言えば、あまりフォーマルな恰好は、イメージできないということもあるが。

読んで面白い。Tシャツに関係して、小説のこと、レコードのこと、旅のこと、ビールのこと、その他、いろんな話題に及んでいる。村上春樹のエッセイの世界である。

2023年6月3日記

『英語達人列伝Ⅱ』斎藤兆史/中公新書2023-03-27

2023年3月27日 當山日出夫

英語達人列伝Ⅱ

斎藤兆史.『英語達人列伝Ⅱ』(中公新書).中央公論新社.2023
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/02/102738.html

先に刊行の『英語達人列伝』は読んでいる。非常に面白く読んだのを覚えている。これは、その続編である。

取り上げてあるのは、

嘉納治五郎
夏目南方熊楠
杉本鉞子
勝俣銓吉郎
朱牟田夏雄
國弘正雄
山内久明

よく知っている名前もあれば、名前だけ知っているという人もあり、始めて目にする名前もある。が、読めば分かるが、どれも先の『英語達人列伝』と同様に、英語の達人ばかりである。それも、基本的には、日本で英語教育の基礎を学んだ人を集めてある。時代としては、明治から現代にまでおよぶことになる。

タイトルのとおり英語の達人の紹介、短い評伝なのだが、総じて、英語教育論になっている。昨今の口頭でのコミュニケーション重視の英語教育ではなく、読み書きを基本においた、オーソドックスな英語教育の方法に価値を再発見している。

この本を読んで、私なりに思うこととしては、次の二点。

第一には、英語教育について。

何のための英語教育なのか、分からなくなっているのが昨今の状況ではないだろうか。子供の小さい時から英語を学べばいいのか。それは何のためか。英会話が出来ればいいということなのか。あるいは、高度で専門的な英語による議論のためなのか。すべての子供、学生に課すものとしての英語教育はどうあるべきなのだろうか。

一部の、それを必要する学生に対する英語教育であるならば、それなりに目的がはっきりしているかもしれない。そうではなく、将来、英語を日常的に使う必要がさほどあるとは思えない、一般の多くの人びとが英語を学ぶことの必然性はいったいどこにあるのか。まあ、このようなことを言い出せば、学校教育そのものの必用性という議論になってしまうのであるが。

母語とは異なる言語に触れることの意味、これにつきるかもしれない。この意味では、学ぶ言語は、特に英語に限る必要はないかもしれない。中国語でも、朝鮮語でも、ロシア語でも、何語でもかまわなともいえる。

ただ、世界の趨勢として、英語の時代であることは確かなので、英語の実用的な優先順位は高くなるだろうとは思う。

第二に、古典ということ。

この本では、まったく触れていないことなのだが、この本で語られていることの多くは、古典をめぐる最近の議論にも通じるところがあると私は思う。実用性という観点からは、実務的な英会話と、古典教育は、相反することかもしれない。しかし、その教授法、勉強法、そして、真の意味での教養として身につけるべきものはなんであるのかという考え方からして、英語教育と古典教育には、通じるものがあると思う。

教育において何をどう教えることに意味があるのか、再度考えてみる必要を強く感じる。その一つの事例として、学校での英語教育ということで読むと、いろいろと考えところの多い本である。

以上の二点のようなことを思ってみる。

もうこの年になって、新たに外国語を学ぶという気力も無いようなものではあるが、しかし、日本語とは違った言語の世界があること、そして、それは学ぶに価するものであるということは、確認できる。

さらに思うこととしては、どのような人物を取り上げるかとなったとき、政治家、軍人が入っていてもよかったのではないかとも思う。近代の日本の英語ということを考えるとき、政治家、軍人といった人びとが、どのように英語教育をうけ、そして使ったのか興味あるところでもある。

2023年2月23日記

『私たちの想像力は資本主義を超えるか』大澤真幸/角川ソフィア文庫2023-03-17

2023年3月17日 當山日出夫

私たちの想像力は資本主義を超えるか

大澤真幸.『私たちの想像力は資本主義を超えるか』(角川ソフィア文庫).KADOKAWA.2023(KADOKAWA.2018.『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』改題)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322208000921/

早稲田大学文化構想学部で講義をまとめたもの。講義自体は二〇一六年度のものであるという。あつかってあるものとしては、『シン・ゴジラ』、『おそ松さん』、『デスノート』、『君の名は。』、『この世界の片隅に』など、近年のいわゆるサブカルチャーの作品である。これを読み解くことで、今の我々の社会のあり方のどのような面が見えてくるのか、これが主眼と言っていいのだろう。無論、同時に、あつかってある作品の、社会学的な分析をともなうものになっている。

この本は面白く読んだ。あつかってある作品は、たいてい、少なくとも名前は知っているものが多い。ただ、私の場合、ほとんど映画もテレビドラマも見ない、また、漫画も読まないので、名前だけ知っているというのがほとんどなのだが。(その中の例外は、『この世界の片隅に』である。これは、原作の漫画も読んだし、テレビではあるが映画版も見ている。また、テレビドラマ版も見た。)

この世界がどう見えてくるか……サブカルチャー作品だからこそ見えてくる世界がある、これには同意できる。だが、残念ながら、その分析対象になっているサブカルチャー作品にうといので、はたして妥当な分析になっているかどうか、今一つ隔靴掻痒の感じが残ってしまう。しかし、結論的に言うならば、おそらくここでの分析は妥当なものなのだろうと思う。

『シン・ゴジラ』に関連しては、たとえば『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)が出てくるあたりは、懐かしく思って読んだところでもある。ウルトラマン、すなわち、日本における米軍である、というあたりの評価はうなづけるところがある。

それから、『この世界の片隅に』の原作漫画を読んで、私が一番、ある種の違和感を感じたのは、太極旗の一コマである。昭和二〇年の終戦のときに登場している。ここのところに、主人公のすずの生きてきた世界が、朝鮮半島を植民地にもつ大日本帝国であったことが示される。しかし、この大澤真幸のこの本では、この点についての言及はない。

この本では「資本主義」と現代の我々の生きている社会、世界のことを言っている。そして、資本主義の行き詰まりをなにがしか意識して生きているのが、現代という時代である。とはいえ、「資本主義」の終わり、あるいは、その後の世界を想像することは難しい。

だが、これも、近年のサブカルチャーを分析することで見えてくるところがあるのかもしれない。ここのところは、この本の続編に期待することになる。

2023年1月31日記

『この世の喜びよ』井戸川射子2023-03-10

2023年3月10日 當山日出夫

この世の喜びよ

井戸川射子.『この世の喜びよ』.講談社.2022
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000370361

芥川賞の受賞作である。

なるほどこの作品なら芥川賞もうなづける。なによりも文章がいい。詩情がある。このごろ、これほど詩情にあふれた文章というの珍しいのではないか。あつかってある題材は、現代の家族である。描きようによってはリアルにも、グロテスクにも、描くことができよう。それが、詩情にあふれた文章の魅力で、一息に読ませる力がある。

このような感覚で、ふだんの日常の世界を見ることができるのか。感じることができるのかと、認識を新たにする。特に新奇なことが書いてあるという作品ではなく、その世界の感じ方に共感できるかどうかという作品である。私の場合は、この作者に共鳴するところがかなりある。

文学とは、つまりは、世界を見る文体のことであると、割りきって考えることができるなら、この作品は、確かに一つの世界を構築している。

読んでいる途中、どうも作品のタイトルに違和感を持って読んでいったのだが、これも、最後まで読むと、なるほどこのタイトルであることに納得がいく。

2023年2月8日記

『江戸川乱歩名作選』江戸川乱歩/新潮文庫2023-03-04

2023年3月4日 當山日出夫

江戸川乱歩名作選

江戸川乱歩.『江戸川乱歩名作選』(新潮文庫).新潮社.2016
https://www.shinchosha.co.jp/book/114902/

同じ新潮文庫の「傑作選」に続けて読んだ。こちらの方は新しい編集である。

収録するのは、

石榴
押絵と旅する男
目羅博士
人でなしの恋
白昼夢
踊る一寸法師
陰獣

今、江戸川乱歩を読もうと思うと、いろんな文庫、あるいは、「全集」で読めるようだ。たまたま、読み慣れている新潮文庫版で読んで見たということになる。角川文庫版だと、かなり収録作品が増えるようだ。だが、新潮文庫の「傑作選」「名作選」で、代表的な作品は取り上げてある。

どれも読んだことがある作品(だと思う)。はっきりと記憶している作品もあれば、記憶の曖昧な作品もあるのだが。が、ともあれ、再読することになっても(その結末を知っていても)どれも傑作ぞろいである。

NHKの「探偵ロマンス」を見たので、江戸川乱歩を読んでみたくなって読んでみたのであるが、なるほど、今にいたるまで江戸川乱歩が読み継がれてきている、そして、今でも「乱歩賞」が行われているのは、納得できる。

昭和の初めごろまでに発表された作品である。乱歩といえば思い出す、少年探偵団、怪人二十面相は、はいっていない。さて、これらまで読んだものかどうか、迷っているところでもある。

乱歩は「探偵小説」と言っているが、今のことばでいえば、これはかなり広義のミステリと理解していいだろうか。無論、なかには、厳格な意味での「本格」もふくむことになるが。ミステリとして読んで、「石榴」「陰獣」などは非常に完成度が高い。これほどの作品がかつて書かれていたのかと、改めて感心した次第でもある。

さて、この続きどうしようか。横溝正史の主な作品を読んでみようかという気になってきている。高校生から大学生ぐらいのときに読んでいるのだが、改めて横溝正史も読みかえしてみたい。

2023年2月22日記

『江戸川乱歩傑作選』江戸川乱歩/新潮文庫2023-03-03

2023年3月3日 當山日出夫

江戸川乱歩傑作選

江戸川乱歩.『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫).新潮社.1960(2009.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/114901/

NHKで放送した『探偵ロマンス』を見たら、江戸川乱歩が読みたくなった。私が若いころに江戸川乱歩を読んだのは、中学か高校のときだったかと記憶する。文庫本で読んだかと思うのだが、どの文庫だったかは定かではない。

収録するのは、

二銭銅貨
二廃人
D坂の殺人事件
心理試験
赤い部屋
屋根裏の散歩者
人間椅子
鏡地獄
芋虫

江戸川乱歩としては、主に大正時代に発表した初期の短篇の傑作ということになる。(どの作品もこれまでに何かで読んだことがあると記憶している。)

大正時代にこれらの作品が書かれたということを思うと、ふと連想が、芥川龍之介、佐藤春夫、谷崎潤一郎、そして、北原白秋、萩原朔太郎……などにおよぶ。これらの作家の作品が書かれたと同時代に、江戸川乱歩も書いていたことになる。そして、大正という時代の空気のようなものを感じるところがある。

無論、日本の「探偵小説」の歴史にとって、記念すべき作品であることは確かなのだが、探偵小説という枠にとらわれないで、一つの時代の芸術のあり方というようなものを感じとることになる。

どうでもいいことだが、『探偵ロマンス』で何故三重県の女性が出てきたのか、よく分からずにいたのだが、江戸川乱歩は三重県の出身で東京に出て作家になったという経歴を確認して、納得がいったところでもある。

どの作品もいいが、印象に残るのは、「二銭銅貨」「人間椅子」「芋虫」などであろうか。テーマといい、語り口の巧さといい、いささかも古びたところがない。現代の目で読んでも新鮮である。やはり、江戸川乱歩は、これからも読まれ続けていく作家であると思う。

2023年2月18日記

『雪月花』北村薫/新潮文庫2023-03-02

2023年3月2日 當山日出夫

雪月花

北村薫.『雪月花-謎解き私小説-』(新潮文庫).新潮社.2023(新潮社.2020)
https://www.shinchosha.co.jp/book/406615/

北村薫の本であるが、「私小説」とある。だが、私には、エッセイとして読める。ただ、そこには幾分の虚構をふくんだものとしてである。

ともあれ、読んでいて楽しくなる、あるいは、うらやましくもなる文章である。

読んで思うことを二点ばかり書いておく。

「雪の日やあれも人の子樽拾い」という句が出てくる。山田風太郎の作品に引かれているところからスタートする。この句の作者をめぐって、いろいろと探索がつづくのだが、なかに担当編集者にあって、松濤美術館の展覧会でこの句と絵を見たと情報を得る場面がある。気になって、「雪の日や……」の句を検索してみると、ヒットする。文化遺産オンラインである。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18537

たぶん、この絵のことなのだろう。戸張孤雁である。

だが、こんなことは北村薫は知って書いているのかもしれない。インターネットで簡単に検索できることだが、それをわざと人に聞いたことになっているかもしれない。ふとこんな風にも思ってみたくもなる。

『雪月花』の著者が、岩波文庫の『日本近代随筆選』(三冊)の解題を知らないはずはないだろう。随筆には、虚構があってもいいのである。

ちなみに、次のようなことをかつて書いた。

やまもも書斎記 2016年6月23日
志賀直哉『城の崎にて』は小説か随筆か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/23/8117250

それから、この新潮文庫版の作りも凝っている。巻末の広告である。普通の文庫本の作り方だったら、同じ新潮文庫の北村薫の作品を列挙する。それであまったページにはたいていはその月の新刊を挙げるのが通例である。しかし、この本はそうなっていない。あがっている作家は、夏目漱石、ホームズ、萩原朔太郎、芥川龍之介、江戸川乱歩、となっている。どれも、この『雪月花』に出てくる人物である。(それに、池澤夏樹もあがっている。これは、この文庫本の解説を書いていることによる。しかし、ここは福永武彦をあげてもよかったのではないか。)

プラトンの対話編を、光文社古典新訳文庫で順次読んでいく途中で手にした本である。本を読むことの楽しさにあふれた作品といっていいだろう。

2023年2月4日記

『完本 チャンバラ時代劇講座 2』橋本治/河出文庫2023-02-24

2023年2月24日 當山日出夫

完本チャンバラ時代劇講座2

橋本治.『完本 チャンバラ時代劇講座 2』(河出文庫).河出書房新社.2023(徳間書店.1986)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309419411/

文庫本で二分冊になった二冊目である。一冊目に続けて読んだ。

なぜ、この本がもっと早くに文庫本などで出なかったのだろうか。ひょっとすると著者が、一九八六年に書いたこの本は、もう古いと思っていたのかもしれない。しかし、今の時点で読んでみると、その内容は基本的に古びていない。

無論、かつてのような映画の時代は無くなっている。いや、この本は、かつての映画の全盛期を過ぎた時代になってから、過去を回顧して書いたという趣もある。古い内容をあつかってあるということは、別にマイナスではない。一方、その後の大衆的な娯楽の世界は大きく変わった。何よりもテレビの時代になった。そのテレビも、もはや廃れつつあると言っていいかもしれない。ネット動画配信などが、今の若い人にとっては娯楽の主流と言える時代になっている。

だからこそというべきか、大衆娯楽史、通俗娯楽論、とでもいうべき独自の視点の置き方は、今の時代になってしまっているからこそ、貴重であるかもしれない。

いったい日本の多くの人びと……大衆と言っていいだろう……は、娯楽として何を見てきたのか、また、何を読んできたのか、この重要なところが、近年では分からなくなってしまっている。(あるいは、この方面の研究があるのかもしれないが、一般に知られることはあまり無いようである。)

二冊目になって、『大菩薩峠』(中里介山)について、分析がある。この小説、若い時、その当時刊行になっていた文庫本で読みかけたことがある。しかし、これも、途中で中断してしまった。まあ、もとの小説自体が未完で終わった作品であるから、途中で終わってもいいかもしれないと思い、そのままである。今、『大菩薩峠』を読もうと思えば、比較的安くで手に入るようだ。だが、今から、『大菩薩峠』を読みなおしてみようという気にはなかなかなれないでいる。

チャンバラ映画について論じているのが、この本のメインなのであるが、これを敷衍して、テレビドラマや、時代小説について考えることもできるだろう。ただ、この本で論じられているチャンバラ映画は、かつて存在した過去のものとしてである。テレビドラマについても、NHKの『赤穂浪士』までを論じるにとどまっている。

言うまでもなく著者(橋本治)は亡くなってしまっている。できれば、この本の続きとして、現代大衆娯楽論、通俗文化論を読みたいと思っているのは、私だけではないはずである。ここは、橋本治の他の書いたものなど探して読んでみようかと思っている。

ただ、この本の中には、貸本屋、それから、漫画のことが出てこない。戦前から戦後にかけての、通俗娯楽文化論というのは、まだまだ未開拓な分野として残されているように思える。

2023年1月21日記

『完本 チャンバラ時代劇講座 1』橋本治/河出文庫2023-02-23

2023年2月23日 當山日出夫

完本チャンバラ時代劇講座1

橋本治.『完本 チャンバラ時代劇講座 1』(河出文庫).河出書房新社.2023(徳間書店.1986)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309419404/

橋本治という人については、若くからその名前は知っていて、折に触れて書いたものを読むことはあったが、そう熱心な読者ということでなくきしてしまった、ということになる。

その橋本治も亡くなってしばらくたつ。その死をうけて、復刊になった書物がいくつかあるが、これもそのうちの一つということになる。(はっきり言って、この本の存在は知らなかった。)

もとの本は、一九八六年に徳間書房。それを、二分冊にして、河出文庫で出したもの。第一冊目を読んだところで、思うことを言うならば、これは名著である。おそらく、日本の近代の大衆文化、通俗文化というものについては、傑出した評論であると言っていい。

一冊目には、

第一講 チャンバラ映画とはなにか
第二講 これが通俗だ!
第三講 格調の高さの研究

一と二は、この本のタイトルどおりの、日本近代におけるチャンバラ映画の歴史と解説、論評である。これが面白い。扱っているのが、主に東映時代劇映画であるということもあるせいか、残念ながら、ここで扱われている映画を、私はほとんど見ていない。そして、一九八六年の本ではあるが、テレビのことはほとんど出てこない。はっきり言って、知識として知っている映画の話しになるのだが、読んで、大衆のための時代劇とは、近代においてなんであったかの考察は、なるほどと思うところがある。近代においても、映画の技術的発達とともに、社会の変化、大衆の好み、等々によって、チャンバラ時代劇も変化していく。時代とともに、チャンバラ時代劇も変わっていくことになる。

三は、忠臣蔵論になっている。まず、事件があり、仮名手本忠臣蔵が江戸時代に書かれ、それが、近代になって明治以降、人びとに、史実としての忠臣蔵がどのように受容されてきたのか、説かれる。忠臣蔵については、一通りは知っているつもりではいるのだが、読んでとても興味深い指摘が多くある。歴史とフィクションとしての物語、これをふまえて、近代になって、忠臣蔵に何をもとめていったのか。その一つとして、大佛次郎の作品などが取り上げられている。また、NHKの大河ドラマ「赤穂浪士」は、なぜ、そのドラマを一年間かけて放映する必要があったのか、その文化史的背景とはなんであったのか、解説が試みられる。

時代劇映画論という枠組みを基本として書かれてはいるが、近代日本の大衆娯楽、映画、演劇、小説といったジャンルを総合して、通俗とはなんであるか、その価値観を逆転的に述べている評論と言っていいだろう。ここであえて触れられることがないのが、文学であり、歴史であり、芸術であるとも言える。だが、そうであるが故に、すぐれた、文学論であり、歴史論であり、芸術論としても読むことができる。

ただ気づいたこととしては、江戸時代における身分というのを階層的な上下の秩序としてとらえているあたりは、今の歴史からは、批判的に読むところになるかもしれないとは思う。また大衆というものを、一括して平板に考えすぎているかとも思う。大衆と呼ばれる人びとの中における多様性、地域性、階層性というものも重要だろう。(時代による嗜好の違いというようなことへの言及はあるのだが。)

つづけて二冊目を読むことにしようと思う。

2023年1月14日記

『地図と拳』小川哲2023-02-04

2023年2月4日 當山日出夫

地図と拳

小川哲.『地図と拳』.集英社.2022
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-771801-0

直木賞受賞作ということで読んでみた。空想混じりの歴史小説といったところか。全部で六〇〇ページほどになる。読むのに三日ほどかかってしまった。

確かに傑作と言っていいだろう。直木賞になるのもなるほどという気がする。だが、私の好みから言うと、あまり想像をまじえずに、歴史をなぞるような小説の方が好きである。(まあ、このあたりは、歴史小説、時代小説とは何かという議論とも関係するのだが。)

舞台は満州……この作品では、「満洲」の表記を使っている……であり、時代的には、日露戦争の前から、太平洋戦争の後まで、ほぼ半世紀である。壮大な歴史ドラマと言っていいだろう。ただ、出てくる都市が、架空の都市である。そのせいだろう、この種の歴史小説につきものの、満州地域の地図というものがこの作品にはついていない。

登場人物もめまぐるしく変わる。誰が主人公ということもないようである。無論、時代の流れも大きく変わる。その時の世界の情勢、日本と満州をとりまく情勢を反映している。

読んで思うこととしては、次の二つぐらいを書いておきたい。

第一には、おそらくこれは、「満洲」という地域の、それを代表することになる、架空の都市の物語であるということである。そこに登場する人間たちは、「満洲」という舞台に登場するが、決して人間が主役という感じはしない。「満洲」という土地、そこは日露戦争の後、日本の権益の及ぶ地域にはなったが、同時に多くの人びと、幾多の民族の交錯する地域でもあった。この地域をめぐる、世界史的な壮大なドラマが、この小説の描いたところなのだろう。

ただ、そうはいいながら、ロシア革命のことがまったく出てこないのは、少し不満である。帝政ロシアから、急にソ連に変わっている。ロシア革命が、「満洲」に集まる人びとにどのような影響を及ぼしたのか、この観点が含まれていると、この小説は、もっと面白いものになったかと思うが、どうだろうか。

第二には、随所に出てくる歴史への言及。

端的に言えば、東アジア近代史を大きくなぞるような歴史的背景であり、その解説とともに小説は進行する。

なかで面白いと思ったのは、リットン調査団のことがある。一般の歴史の本だと、リットン調査団の報告を、日本は一蹴したということになっている。それは、そのとおりなのだが、しかし、リットン調査団と言っても、所詮は、帝国主義的な支配者の側からの調査である。名目上は、日本の満州進出を否定することになってはいるが、その実、日本が満州において手に入れた権益は、ある程度まもられる内容になっていた……つまり、可能性としては、日本はリットン調査団の報告を受け入れることもありえた……このように記してある。私は、この考え方に同意する。

日本の満州進出、満州国の建国ということは、普通は否定的にのみ見られることが多いと思う。だが、この小説では、必ずしも否定的な立場だけで描いてはいない。近代の日本が、満州に希望を託さざるをえなかった、その理由のかなり深いところまでを描いていると感じる。

無論、小説であって、歴史書ではない。その歴史の全貌をこの小説に求めるのは無理というものなのだろうが、基本的な歴史観については、かなり共感するところが多い作品であるとは言えるだろう。

ざっと以上のようなことを思ってみる。

この作品、直木賞の前に、山田風太郎賞を受賞している。これはなるほどと思う。

さて、この作家、これからどんな作品を書いてくれるだろうか。この先が楽しみである。

2023年1月26日記