西田幾多郎記念哲学館に行ってきた ― 2023-06-01
2023年6月1日 當山日出夫

先日、金沢にある西田幾多郎記念哲学館に行ってきた。一泊の旅行である。
西田幾多郎記念哲学館
http://www.nishidatetsugakukan.org/index.html
西田幾多郎記念哲学館は、その存在はかなり以前から知っていたが、行く機会がなかった。金沢には、これまで何回か行ってはいるのだが、行きそびれてしまっていた。今回は、ここをメインの目的地ということで行ってみることにした。
非常に貴重なコレクションがあるということでもないようだ。が、原稿、書簡などの資料が、かなり残っているだろうか。たしかにこれらは、西田幾多郎の思想形成、その人生、あるいは、いわゆる京都学派を考える上では、重要になるものかとも思う。
そもそも哲学をテーマに記念館を作るというのが、あるいは無理なことであったのかもしれない。だが、単なる資料館にとどまらず、施設がある種のメッセージを持つということはあり得る。
だいたい、高名な建築家の建てた建物というのは、あまり好きではない。中に入って道に迷うか、どこかで頭をぶつけるか、転びそうになるか……たいてい、ろくなことがないというのが、経験上の感覚である。
この西田幾多郎記念哲学館の場合、頭をぶつけるということはなかったが、ちょっと道に迷うようなところがある。この通路でどこに行けるのか、よくわからない。まあ、そのように作ってあるといえばそれまでであるのだが。
西田幾多郎の著作のいくつかは、若い時、手にした記憶はあるのだが、読んでどう思ったかということは、残っていない。はっきり言って、難解な書物であるという印象を持ったのだけは憶えている。私が、西田幾多郎に触れることになったのは、むしろ、その門下生であった唐木順三を読んで、間接的にその思想がどんなものかを知ることになった、と言った方がいいだろう。
しかしながら、日本の思想史という分野においては、やはり西田幾多郎は重要な位置を占めることになるにちがいない。その思想の形成、発展の後をたどることも必要である。たぶん、西田幾多郎記念哲学館というところは、西田幾多郎の思想に触れる入り口として、これからも、人びとに親しまれる場所としてあるにちがいない。
西田幾多郎記念哲学館を見た後は、金沢市内に移動。兼六園に入って、それから金沢城の跡を少し歩いて、それから宿にむかった。
兼六園では、池でカルガモを目にした。ちょうど子供が生まれて、数羽のあかちゃんカルガモが、親鳥の後をついて池を泳いでいた。カルガモはこれまでに目にしているが、あかちゃんと一緒に泳ぐ姿を実際に目にしたのは初めてかもしれない。テレビではよく見るシーンなのではあるが。
また、日本武尊の像が印象深い。ちょうど『「戦前」の正体』(辻田真佐憲、講談社現代新書)を読んだばかりである。明治の初め、西南戦争の後にこの像は造られたとあった。日本武尊の近代史として、貴重なものの一つということになる。
2023年5月30日記
西田幾多郎記念哲学館
http://www.nishidatetsugakukan.org/index.html
西田幾多郎記念哲学館は、その存在はかなり以前から知っていたが、行く機会がなかった。金沢には、これまで何回か行ってはいるのだが、行きそびれてしまっていた。今回は、ここをメインの目的地ということで行ってみることにした。
非常に貴重なコレクションがあるということでもないようだ。が、原稿、書簡などの資料が、かなり残っているだろうか。たしかにこれらは、西田幾多郎の思想形成、その人生、あるいは、いわゆる京都学派を考える上では、重要になるものかとも思う。
そもそも哲学をテーマに記念館を作るというのが、あるいは無理なことであったのかもしれない。だが、単なる資料館にとどまらず、施設がある種のメッセージを持つということはあり得る。
だいたい、高名な建築家の建てた建物というのは、あまり好きではない。中に入って道に迷うか、どこかで頭をぶつけるか、転びそうになるか……たいてい、ろくなことがないというのが、経験上の感覚である。
この西田幾多郎記念哲学館の場合、頭をぶつけるということはなかったが、ちょっと道に迷うようなところがある。この通路でどこに行けるのか、よくわからない。まあ、そのように作ってあるといえばそれまでであるのだが。
西田幾多郎の著作のいくつかは、若い時、手にした記憶はあるのだが、読んでどう思ったかということは、残っていない。はっきり言って、難解な書物であるという印象を持ったのだけは憶えている。私が、西田幾多郎に触れることになったのは、むしろ、その門下生であった唐木順三を読んで、間接的にその思想がどんなものかを知ることになった、と言った方がいいだろう。
しかしながら、日本の思想史という分野においては、やはり西田幾多郎は重要な位置を占めることになるにちがいない。その思想の形成、発展の後をたどることも必要である。たぶん、西田幾多郎記念哲学館というところは、西田幾多郎の思想に触れる入り口として、これからも、人びとに親しまれる場所としてあるにちがいない。
西田幾多郎記念哲学館を見た後は、金沢市内に移動。兼六園に入って、それから金沢城の跡を少し歩いて、それから宿にむかった。
兼六園では、池でカルガモを目にした。ちょうど子供が生まれて、数羽のあかちゃんカルガモが、親鳥の後をついて池を泳いでいた。カルガモはこれまでに目にしているが、あかちゃんと一緒に泳ぐ姿を実際に目にしたのは初めてかもしれない。テレビではよく見るシーンなのではあるが。
また、日本武尊の像が印象深い。ちょうど『「戦前」の正体』(辻田真佐憲、講談社現代新書)を読んだばかりである。明治の初め、西南戦争の後にこの像は造られたとあった。日本武尊の近代史として、貴重なものの一つということになる。
2023年5月30日記
『ゼロからの『資本論』』斎藤幸平/NHK出版新書 ― 2023-03-11
2023年3月11日 當山日出夫

斎藤幸平.『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書).NHK出版.2023
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886902023.html
売れている本ということで読んでみることにした。読んで思うこととしては、半信半疑とでも言えるだろうか。
斎藤幸平の『人新世の「資本論」』については、すでに書いた。
やまもも書斎記 2021年12月20日
『人新世の「資本論」』斎藤幸平
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/20/9449350
この時、私は、斎藤幸平の意見には賛成できないと書いた。その考え方は今も変わっていない。そして、今回のこの本であるが、ちょっとマシになったかと思うが、基本的な不信感はそのままである。
たしかに、現状の日本の社会のあり方への疑念は賛成できるところが多い。だが、それをすべて資本主義のせいにしてしまうのはどうかと思う。資本主義一般の問題もあるだろうが、とりわけ日本において固有の問題もあるように思われる。ここでは、日本の問題として論ずべきことと、資本主義一般の問題として論ずべきことが、混同されてしまっている。
また、ではどうすればいいかとなると、これもまたある種の精神論に終わっている。確かに、世界の各地で、著者の言うコミュニズムの試みがなされているかもしれない。それらは、ことごとく失敗していると言ってもいえるのだが。まあ、以前の著書のように、社会の3.5パーセントの人が動けば社会は変わると脳天気なことは、さすがに言っていない。しかし、ただ、世界各地の試みに希望を見出すのは自由かもしれないが、しかし具体的にこれからどうすればいいのかということになると、沈黙している。これはやはり無責任というべきではないだろうか。
世界の資本主義の問題の最たるものは、今では、中国だろう。この中国がこれからどうなるのかが、グローバルに大きな課題であるはずである。しかし、ここも、ただ中国は社会主義ではなく国家資本主義と言うだけにとどまっている。この巨大な国の行方について、判断を示していない。まあ、このあたりは、自分は中国論の専門ではないということなのかもしれない。だが、レーニンの革命を否定するのならば、毛沢東も否定することになるだろう。そして、現在の中国共産党は、これから世界にとってどのような存在であるのか、きわめて大きな問題である。やはり、ここはなにがしかの判断を提示すべきではないだろうか。
とはいえ、今の日本の社会のかかえる病理については、うなづけるところが多い。ここのところは共感できるところが多い。だが、これも、ただコミュニズムへの希望を述べるにとどまるのでは、はたしてその現状分析が正しいのかどうか、疑いたくなる。正しい現状の分析は、正しい解決法を導くものである……このように考えるのは、古風に過ぎるだろうか。
ともあれ、コミュニズムへの期待を語るだけの本には、私はあまり魅力を感じないというのが、正直なところである。
2023年1月27日記
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886902023.html
売れている本ということで読んでみることにした。読んで思うこととしては、半信半疑とでも言えるだろうか。
斎藤幸平の『人新世の「資本論」』については、すでに書いた。
やまもも書斎記 2021年12月20日
『人新世の「資本論」』斎藤幸平
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/12/20/9449350
この時、私は、斎藤幸平の意見には賛成できないと書いた。その考え方は今も変わっていない。そして、今回のこの本であるが、ちょっとマシになったかと思うが、基本的な不信感はそのままである。
たしかに、現状の日本の社会のあり方への疑念は賛成できるところが多い。だが、それをすべて資本主義のせいにしてしまうのはどうかと思う。資本主義一般の問題もあるだろうが、とりわけ日本において固有の問題もあるように思われる。ここでは、日本の問題として論ずべきことと、資本主義一般の問題として論ずべきことが、混同されてしまっている。
また、ではどうすればいいかとなると、これもまたある種の精神論に終わっている。確かに、世界の各地で、著者の言うコミュニズムの試みがなされているかもしれない。それらは、ことごとく失敗していると言ってもいえるのだが。まあ、以前の著書のように、社会の3.5パーセントの人が動けば社会は変わると脳天気なことは、さすがに言っていない。しかし、ただ、世界各地の試みに希望を見出すのは自由かもしれないが、しかし具体的にこれからどうすればいいのかということになると、沈黙している。これはやはり無責任というべきではないだろうか。
世界の資本主義の問題の最たるものは、今では、中国だろう。この中国がこれからどうなるのかが、グローバルに大きな課題であるはずである。しかし、ここも、ただ中国は社会主義ではなく国家資本主義と言うだけにとどまっている。この巨大な国の行方について、判断を示していない。まあ、このあたりは、自分は中国論の専門ではないということなのかもしれない。だが、レーニンの革命を否定するのならば、毛沢東も否定することになるだろう。そして、現在の中国共産党は、これから世界にとってどのような存在であるのか、きわめて大きな問題である。やはり、ここはなにがしかの判断を提示すべきではないだろうか。
とはいえ、今の日本の社会のかかえる病理については、うなづけるところが多い。ここのところは共感できるところが多い。だが、これも、ただコミュニズムへの希望を述べるにとどまるのでは、はたしてその現状分析が正しいのかどうか、疑いたくなる。正しい現状の分析は、正しい解決法を導くものである……このように考えるのは、古風に過ぎるだろうか。
ともあれ、コミュニズムへの期待を語るだけの本には、私はあまり魅力を感じないというのが、正直なところである。
2023年1月27日記
『哲学の門前』吉川浩満 ― 2022-12-19
2022年12月19日 當山日出夫

吉川浩満.『哲学の門前』.紀伊國屋書店.2022
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011938
吉川浩満の本を読んでおきたいと思って手にした。
哲学の「入門」ではない、「門前」である。これはカフカの「掟の門前」にちなんでのことらしい。(カフカのこの作品は読んでいると思うのだが、残念ながらそう強く印象に残っているということはない。これをきっかけにカフカの短編など読み返してみたいと思う。)
「入門」か「門前」かはともかくとして、本として読んで面白い。なるほど、吉川浩満という人は、このような生き方をしてきて、こんな生活をおくって、こんなふうな勉強があって、いろいろと本を書いているのか。その舞台裏を見せてくれるという意味で(まあ、なんともレベルの低い感想になるのだが)、このような興味で読んで非常に面白い。特に、いわゆる在野の人、大学や研究機関に属さない立場で、著作にはげむ人の一人として、このような生き方もあるのかと、その著書の背景にあるものを理解するうえで、とても面白い。
また、山本貴光との交流のことなど、このような友人に恵まれて、仕事ができるのかと、ちょっとうらやましくもある。(なお、吉川浩満と山本貴光は、慶應SFCの第一期生ということになる。)
しかし、読みながら、いろいろと考えるところがある。ニューヨークに行ったときのこととか、読書会でのこととか、このようなことをきっかけにして、思考を深めていくならば、まさにそれは哲学と言えるだろう。
2022年12月10日記
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011938
吉川浩満の本を読んでおきたいと思って手にした。
哲学の「入門」ではない、「門前」である。これはカフカの「掟の門前」にちなんでのことらしい。(カフカのこの作品は読んでいると思うのだが、残念ながらそう強く印象に残っているということはない。これをきっかけにカフカの短編など読み返してみたいと思う。)
「入門」か「門前」かはともかくとして、本として読んで面白い。なるほど、吉川浩満という人は、このような生き方をしてきて、こんな生活をおくって、こんなふうな勉強があって、いろいろと本を書いているのか。その舞台裏を見せてくれるという意味で(まあ、なんともレベルの低い感想になるのだが)、このような興味で読んで非常に面白い。特に、いわゆる在野の人、大学や研究機関に属さない立場で、著作にはげむ人の一人として、このような生き方もあるのかと、その著書の背景にあるものを理解するうえで、とても面白い。
また、山本貴光との交流のことなど、このような友人に恵まれて、仕事ができるのかと、ちょっとうらやましくもある。(なお、吉川浩満と山本貴光は、慶應SFCの第一期生ということになる。)
しかし、読みながら、いろいろと考えるところがある。ニューヨークに行ったときのこととか、読書会でのこととか、このようなことをきっかけにして、思考を深めていくならば、まさにそれは哲学と言えるだろう。
2022年12月10日記
『理不尽な進化 増補新版』吉川浩満/ちくま文庫 ― 2022-12-17
2022年12月17日 當山日出夫

吉川浩満.『理不尽な進化-遺伝子と運のあいだ- 増補新版』(ちくま文庫).筑摩書房.2021(朝日出版社.2014)
https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255008035/
進化論の概説書というよりは……いや、この本はそのような読み方をしてはいけないだろう……近代における進化論の成立と、社会における受容、影響を論じ、さらには、近代思想史へと切り込む、これは名著と言っていいと思う。
後書きを読むと、この本の単行本が出たとき、専門家からはかなり批判されたらしい。知っていることしか書いていない、と。これは、見方によっては、賛辞ともとれる。言いかえるならば、間違ったことは書いていないと言っていることになる。
科学についての啓蒙的な本で、専門家が読んで、「間違ったことが書いていない」というのは、希有なことであるかもしれない。少なくとも、私の専門領域にかかわる日本語学、国語学の分野で、一般向けに書かれた本やテレビ番組などにおいて、かなり根本的な疑問点をいだくことが、少なくない。このようなギャップは、そう簡単に埋められるものではないと諦めるところもある。(ただ、そうではあるが、このところ一般向けに書かれた、すぐれた日本語にかかわる本も出るようになってきた。)
ところで、この『理不尽な進化』であるが、ポイントは次の二点になるかと思って読んだ。
第一には、進化論の社会における受容。
一般に「進化」ということばは非常に多用される。だが、それは、ダーウィンのとなえた進化論とは、似て非なるものとしてである。また、「適者生存」ということばもよく使われる。このことばほど、進化論を誤解していることばもない。
一九世紀以降、進化論というものが、特に西欧社会のなかで、どのように受けとめられてきているか、きわめて批判的に検証されている。
第二には、進化論の理解。
進化論には、淘汰ということと同時に、その「歴史」を考えることになる。これを、著者は、ドーキンスとグールドの対立を軸に描き出す。科学的な論争としては、ドーキンスに軍配が上がって決着がついている問題かもしれないのだが、科学とはなにかというような論点にたって考えてみると、グールドの語ったことに意味を見いだせる。このあたりは、すぐれた科学論になっていると思う。
以上の二点が、読んで思うことである。
さらには、この本は、進化論をあつかった、主に自然科学の分野に属する本であるかもしれないのだが、読み進めると、すぐれた学問論、特に、人文学論になっている。人文学とはいったい何であるのか、いろいろと考えることができるが、この問題点から読んでみて、きわめて貴重な示唆にとむ内容でもある。
芸術とは何か、宗教とは何か、このようなところまで、この本の射程は及んでいる。
2022年12月8日記
https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255008035/
進化論の概説書というよりは……いや、この本はそのような読み方をしてはいけないだろう……近代における進化論の成立と、社会における受容、影響を論じ、さらには、近代思想史へと切り込む、これは名著と言っていいと思う。
後書きを読むと、この本の単行本が出たとき、専門家からはかなり批判されたらしい。知っていることしか書いていない、と。これは、見方によっては、賛辞ともとれる。言いかえるならば、間違ったことは書いていないと言っていることになる。
科学についての啓蒙的な本で、専門家が読んで、「間違ったことが書いていない」というのは、希有なことであるかもしれない。少なくとも、私の専門領域にかかわる日本語学、国語学の分野で、一般向けに書かれた本やテレビ番組などにおいて、かなり根本的な疑問点をいだくことが、少なくない。このようなギャップは、そう簡単に埋められるものではないと諦めるところもある。(ただ、そうではあるが、このところ一般向けに書かれた、すぐれた日本語にかかわる本も出るようになってきた。)
ところで、この『理不尽な進化』であるが、ポイントは次の二点になるかと思って読んだ。
第一には、進化論の社会における受容。
一般に「進化」ということばは非常に多用される。だが、それは、ダーウィンのとなえた進化論とは、似て非なるものとしてである。また、「適者生存」ということばもよく使われる。このことばほど、進化論を誤解していることばもない。
一九世紀以降、進化論というものが、特に西欧社会のなかで、どのように受けとめられてきているか、きわめて批判的に検証されている。
第二には、進化論の理解。
進化論には、淘汰ということと同時に、その「歴史」を考えることになる。これを、著者は、ドーキンスとグールドの対立を軸に描き出す。科学的な論争としては、ドーキンスに軍配が上がって決着がついている問題かもしれないのだが、科学とはなにかというような論点にたって考えてみると、グールドの語ったことに意味を見いだせる。このあたりは、すぐれた科学論になっていると思う。
以上の二点が、読んで思うことである。
さらには、この本は、進化論をあつかった、主に自然科学の分野に属する本であるかもしれないのだが、読み進めると、すぐれた学問論、特に、人文学論になっている。人文学とはいったい何であるのか、いろいろと考えることができるが、この問題点から読んでみて、きわめて貴重な示唆にとむ内容でもある。
芸術とは何か、宗教とは何か、このようなところまで、この本の射程は及んでいる。
2022年12月8日記
『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』吉川浩満/ちくま文庫 ― 2022-12-10
2022年12月10日 當山日出夫

吉川浩満.『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫).筑摩書房.2022
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480438348/
もとは、筑摩書房から二〇一八年に刊行の本である。それに加筆して、文庫化したものである。
以前、単行本が出たときに買って、ざっと読んだ本である。文庫本になり、加筆してある箇所もあるので、今回はじっくりと読んでみることにした。
思うところは、二つのことである。
第一に、やはり読んで面白い。
進化論とかAIとか行動経済学とか、最新の研究動向について、分かりやすく解説してある。なるほど、今の「知」の最前線の様相とは、こんなふうになっているのかと、思わず感心して読んでしまうところがあった。
第二に、もう今となってはちょっとつらいということ。
もう老後の読書と決めて本を読む生活をおくりたいと思っている。以前なら、この本で紹介されているような本を、自分でも読んで考えてみたいと思ったはずである。だが、もうそのような気はあまりおこらない。そんなもんなのかなと思って読んでしまうところがあるというのが、実情でもある。
以上の、二点の相反する感想をいだくのだが、しかし、これは、特に若い人にとってはおすすめの本としておいていいだろう。特に、自然科学と人文学を架橋するというこころみにおいて、この仕事は、かなり成功していると言ってよいと思う。
私の専門の分野である、言語の研究という領域においても、認知科学からのアプローチがあることは知っているのだが、もう追いついていくのがつらくなっているというのが、正直なところである。それよりも、若いころに読んだ、構造主義言語学の本など、もう一度読み直してみたくなっている。
とは言っても、いろいろ興味深いところもある。『利己的な遺伝子』は、かなり以前に読んでいる。だが、この本が、そんなに画期的な論考であるとは、はっきり言って読んだときには思わなかった。『人間の解剖は……』を読んで、『利己的な遺伝子』の価値を再認識したということもある。
以上のようなことを思うのだが、これは非常によくできた読書案内にもなっている。全部の方面については無理であるが、興味のあるところで、簡単に読めそうな本は読んでみようかという気になっている。『サピエンス全史』も買ってはあるのだがまだ読んでいない。これも読んでおきたい。
2022年11月25日記
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480438348/
もとは、筑摩書房から二〇一八年に刊行の本である。それに加筆して、文庫化したものである。
以前、単行本が出たときに買って、ざっと読んだ本である。文庫本になり、加筆してある箇所もあるので、今回はじっくりと読んでみることにした。
思うところは、二つのことである。
第一に、やはり読んで面白い。
進化論とかAIとか行動経済学とか、最新の研究動向について、分かりやすく解説してある。なるほど、今の「知」の最前線の様相とは、こんなふうになっているのかと、思わず感心して読んでしまうところがあった。
第二に、もう今となってはちょっとつらいということ。
もう老後の読書と決めて本を読む生活をおくりたいと思っている。以前なら、この本で紹介されているような本を、自分でも読んで考えてみたいと思ったはずである。だが、もうそのような気はあまりおこらない。そんなもんなのかなと思って読んでしまうところがあるというのが、実情でもある。
以上の、二点の相反する感想をいだくのだが、しかし、これは、特に若い人にとってはおすすめの本としておいていいだろう。特に、自然科学と人文学を架橋するというこころみにおいて、この仕事は、かなり成功していると言ってよいと思う。
私の専門の分野である、言語の研究という領域においても、認知科学からのアプローチがあることは知っているのだが、もう追いついていくのがつらくなっているというのが、正直なところである。それよりも、若いころに読んだ、構造主義言語学の本など、もう一度読み直してみたくなっている。
とは言っても、いろいろ興味深いところもある。『利己的な遺伝子』は、かなり以前に読んでいる。だが、この本が、そんなに画期的な論考であるとは、はっきり言って読んだときには思わなかった。『人間の解剖は……』を読んで、『利己的な遺伝子』の価値を再認識したということもある。
以上のようなことを思うのだが、これは非常によくできた読書案内にもなっている。全部の方面については無理であるが、興味のあるところで、簡単に読めそうな本は読んでみようかという気になっている。『サピエンス全史』も買ってはあるのだがまだ読んでいない。これも読んでおきたい。
2022年11月25日記
『漂流 日本左翼史』池上彰・佐藤優 ― 2022-07-29
2022年7月29日 當山日出夫

池上彰.佐藤優.『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』(講談社現代新書).講談社.2022
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000364345
「日本左翼史」のシリーズ三冊目、最終巻である。この巻で語られるのは、連合赤軍のことから、現代のウクライナ情勢をめぐることまで。
読んで思うこととしては、次の二点ぐらいがある。
第一に、やはり社会党の衰退(まだ、完全に滅亡したとまではいえないだろう)。時代的背景としては、冷戦の終結、ベルリンの壁の崩壊ということがあり、また、国内的には五五年体制の終焉ということがあった。このような状況をうけて、社会党はもはや国民の支持を得ることができなくなり、存在意義を失っていったことになる。
この流れの底流としては、国鉄解体、民営化ということがあった。この時代のことならば、私の記憶のうちにあることである。
そういえば、「スト権スト」のことを憶えている。そのころ、東京で大学生をしていたのだが、電車……国電であった……が止まってしまった。たしか、このときだったろうか、地下鉄を乗り継いでお茶の水まで行って、岩波ホールに映画を見に行ったと憶えている。
社会党の終焉で印象的に憶えているのは、村山富市総理。阪神淡路大震災のときだった。現地視察に行った総理が、避難所を視察する場面。このとき、村山首相は、被災者の間を歩いただけだった。これは、天皇陛下(現在の上皇陛下)と対照的だった。天皇陛下は、被災者のひとりひとりの前で床に座って話しをきいていた。この場面の対比から、もはや社会党には、国民とともにあることはできないと、直感的に感じたものであった。(この話しは、この本の中には出てこないことではあるが。)
第二に、現代のこと。ウクライナでの戦争において、日本共産党がウクライナの戦闘を支持したことは、この本で指摘のとおり重要であると思う。たとえ防衛戦争であっても、すべての戦争には反対という、非武装、不戦の理念が、消えてしまった。まさに、左翼の存在意義が消えてなくなったと言ってもいいのだろう。
ちょっと気になることだが、この本の最後に、左翼に期待するとして、斎藤幸平のことが出てきている。だが、私は、この人物を評価しない。すくなくとも、『人新世の資本論』は、評価しない。
以上の二点のことを、思ってみる。
ところで、そもそもの疑問なのだが、「左翼=マルクス主義」でいいのだろうか。一般にはそうかもしれないが、反体制思想ということで、別の視点から論じることも可能であるかもしれない。そうなると、逆に、右翼のことについても触れなければならなくなる。(また、実際に、左翼思想史をたどるならば、右翼とのかかわりが出てくることも確かである。)
それにしても、「共産党宣言」を読んだことのない共産党候補者がいるというのも、ある意味でおどろきである。まさに、左翼は亡びるべくして亡ぶというべきであろうか。
ともあれ、このシリーズ、『真説』『激動』と読んできて、いろいろと勉強になり考えるところがあった。貴重な仕事であると思う。
2022年7月26日記
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000364345
「日本左翼史」のシリーズ三冊目、最終巻である。この巻で語られるのは、連合赤軍のことから、現代のウクライナ情勢をめぐることまで。
読んで思うこととしては、次の二点ぐらいがある。
第一に、やはり社会党の衰退(まだ、完全に滅亡したとまではいえないだろう)。時代的背景としては、冷戦の終結、ベルリンの壁の崩壊ということがあり、また、国内的には五五年体制の終焉ということがあった。このような状況をうけて、社会党はもはや国民の支持を得ることができなくなり、存在意義を失っていったことになる。
この流れの底流としては、国鉄解体、民営化ということがあった。この時代のことならば、私の記憶のうちにあることである。
そういえば、「スト権スト」のことを憶えている。そのころ、東京で大学生をしていたのだが、電車……国電であった……が止まってしまった。たしか、このときだったろうか、地下鉄を乗り継いでお茶の水まで行って、岩波ホールに映画を見に行ったと憶えている。
社会党の終焉で印象的に憶えているのは、村山富市総理。阪神淡路大震災のときだった。現地視察に行った総理が、避難所を視察する場面。このとき、村山首相は、被災者の間を歩いただけだった。これは、天皇陛下(現在の上皇陛下)と対照的だった。天皇陛下は、被災者のひとりひとりの前で床に座って話しをきいていた。この場面の対比から、もはや社会党には、国民とともにあることはできないと、直感的に感じたものであった。(この話しは、この本の中には出てこないことではあるが。)
第二に、現代のこと。ウクライナでの戦争において、日本共産党がウクライナの戦闘を支持したことは、この本で指摘のとおり重要であると思う。たとえ防衛戦争であっても、すべての戦争には反対という、非武装、不戦の理念が、消えてしまった。まさに、左翼の存在意義が消えてなくなったと言ってもいいのだろう。
ちょっと気になることだが、この本の最後に、左翼に期待するとして、斎藤幸平のことが出てきている。だが、私は、この人物を評価しない。すくなくとも、『人新世の資本論』は、評価しない。
以上の二点のことを、思ってみる。
ところで、そもそもの疑問なのだが、「左翼=マルクス主義」でいいのだろうか。一般にはそうかもしれないが、反体制思想ということで、別の視点から論じることも可能であるかもしれない。そうなると、逆に、右翼のことについても触れなければならなくなる。(また、実際に、左翼思想史をたどるならば、右翼とのかかわりが出てくることも確かである。)
それにしても、「共産党宣言」を読んだことのない共産党候補者がいるというのも、ある意味でおどろきである。まさに、左翼は亡びるべくして亡ぶというべきであろうか。
ともあれ、このシリーズ、『真説』『激動』と読んできて、いろいろと勉強になり考えるところがあった。貴重な仕事であると思う。
2022年7月26日記
『林達夫 編集の精神』落合勝人 ― 2022-06-17
2022年6月17日 當山日出夫(とうやまひでお)

落合勝人.『林達夫 編集の精神』.岩波書店.2021
https://www.iwanami.co.jp/book/b587779.html
林達夫は若いとき、学生のころに、いくつか手にした。その当時、平凡社の著作集が刊行されていて、全部揃えるということはなかったが、そのうちのいくつかを買って読んだ。文庫本で、『共産主義的人間』が出ていたのも、読んだ。
とにかく、若い私にとって、林達夫という人はかっこいい人であった。
この本は、基本的に林達夫の評伝という形をとっている。が、その記述の主体となっているのは、編集者としての側面。読んで思うこと、感じることは多くあるが、二点ばかり書いておく。
第一には、出版史として。
昭和の戦前から戦後にかけての、出版史のある一面をうかびあがらせている。その中心になるのは、京都学派という存在であり、あるいは、岩波書店ということになる。岩波書店にける、「思想」や、「日本資本主義発達史講座」のことなど、戦前の思想と出版にかかわる、いろいろと興味深い記述がある。これはこれとして、通読して面白い読み物になっている。
名高い「日本資本主義発達史講座」であるが、このシリーズの刊行の実態というのは、どういう出版や販売のシステムによっていたのだろうか。現在の、出版社から取り次ぎがあり小売り書店というのとは、ちがっていたようなのだが、このあたり、戦前の出版流通のシステムの歴史的記述が、もうすこし丁寧にあるとよかったと思う。
第二に、百科事典。
これは、この本で書いていないことである。林達夫は、平凡社の百科事典の編集の仕事をしている。私としては、ここのところに非常に興味があるのだが、この本では、あえてであろうが、まったくといっていいほど省略している。たぶん、このところについて書こうとすると、この本の分量でおさまらない、あるいは、かなり方向性の違ったものになるという判断があってのことと思う。
今、WEBの時代である。百科事典的な知識というものは、大きく変容しようとしている。また、雑誌、講座という出版についても、変革の時代であるといえる。この時代背景を考えて、かつて、林達夫はどんな仕事をした人であったのか、あるいは、林達夫の仕事から、将来にむけてどんな展望を描くことができるのか、いろいろと考えることはあるかと思う。
以上の二点が、この本を読んで思ったことなどである。
さて、林達夫は、もう賞味期限が切れたというべきなのだろうか。あるいは、これからも読むべき人として生き残っていくだろうか。編集者としての林達夫という観点から考えてみた場合、どうだろうか。社会における知のあり方を考えるとき、林達夫は、参照すべき古典として生きのびることになるだろうか。
新しいインターネットの時代にあって、「編集」とはどういう意味をもつのか。この本を起点として、考えるべきことは多くあるだろう。
探せば、昔読んだ著作集が残っているはずである。久しぶりに林達夫の文章を読んでみたいと思う。
2022年5月31日記
https://www.iwanami.co.jp/book/b587779.html
林達夫は若いとき、学生のころに、いくつか手にした。その当時、平凡社の著作集が刊行されていて、全部揃えるということはなかったが、そのうちのいくつかを買って読んだ。文庫本で、『共産主義的人間』が出ていたのも、読んだ。
とにかく、若い私にとって、林達夫という人はかっこいい人であった。
この本は、基本的に林達夫の評伝という形をとっている。が、その記述の主体となっているのは、編集者としての側面。読んで思うこと、感じることは多くあるが、二点ばかり書いておく。
第一には、出版史として。
昭和の戦前から戦後にかけての、出版史のある一面をうかびあがらせている。その中心になるのは、京都学派という存在であり、あるいは、岩波書店ということになる。岩波書店にける、「思想」や、「日本資本主義発達史講座」のことなど、戦前の思想と出版にかかわる、いろいろと興味深い記述がある。これはこれとして、通読して面白い読み物になっている。
名高い「日本資本主義発達史講座」であるが、このシリーズの刊行の実態というのは、どういう出版や販売のシステムによっていたのだろうか。現在の、出版社から取り次ぎがあり小売り書店というのとは、ちがっていたようなのだが、このあたり、戦前の出版流通のシステムの歴史的記述が、もうすこし丁寧にあるとよかったと思う。
第二に、百科事典。
これは、この本で書いていないことである。林達夫は、平凡社の百科事典の編集の仕事をしている。私としては、ここのところに非常に興味があるのだが、この本では、あえてであろうが、まったくといっていいほど省略している。たぶん、このところについて書こうとすると、この本の分量でおさまらない、あるいは、かなり方向性の違ったものになるという判断があってのことと思う。
今、WEBの時代である。百科事典的な知識というものは、大きく変容しようとしている。また、雑誌、講座という出版についても、変革の時代であるといえる。この時代背景を考えて、かつて、林達夫はどんな仕事をした人であったのか、あるいは、林達夫の仕事から、将来にむけてどんな展望を描くことができるのか、いろいろと考えることはあるかと思う。
以上の二点が、この本を読んで思ったことなどである。
さて、林達夫は、もう賞味期限が切れたというべきなのだろうか。あるいは、これからも読むべき人として生き残っていくだろうか。編集者としての林達夫という観点から考えてみた場合、どうだろうか。社会における知のあり方を考えるとき、林達夫は、参照すべき古典として生きのびることになるだろうか。
新しいインターネットの時代にあって、「編集」とはどういう意味をもつのか。この本を起点として、考えるべきことは多くあるだろう。
探せば、昔読んだ著作集が残っているはずである。久しぶりに林達夫の文章を読んでみたいと思う。
2022年5月31日記
『彼は早稲田で死んだ』樋田毅 ― 2022-06-13
2022年6月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

樋田毅.『彼は早稲田で死んだ-大学構内リンチ殺人事件の永遠-』.文藝春秋.2021
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163914459
大宅賞の受賞作ということで読んでみることにした。受賞のニュースを見て、さっそく買おうと思ったが、オンライン書店は品切れだった。ようやく重版になったようだ。買ったのは、第2刷である。
私は、一九七五年に慶應義塾大学に入学した。この本で描いているのは、一九七二に早稲田第一文学部でおこった、殺人事件の顛末とその後のことを描いている。読んで思うことはいろいろある。たった、数年のちがいで、東京の大学に入る時期がずれるだけで、こうも世界が違ってくるのだろうかというのが、率直なところである。
私が慶應に入学した時期は、いわゆる学生運動は沈静化した後のことだった。キャンパスにその余韻は残っていたとは思うが、総じて落ち着いていた。学生運動があったことなど嘘のような雰囲気だったといってもいいかもしれない。これは、私が、京都から東京に出て学生生活を送ることになったという事情もいくぶんあるだろう。あるいは、慶應の特殊性ということもあったのかもしれない。
もし、自分の人生の方向がちょっとちがっていたら、早稲田の文学部で学ぶことになったかもしれないと思う。そう思って読むと、他人事とは思えないところが、この本にはある。
事件は、一九七二年に起こった。早稲田の文学部の校内で、革マル派との抗争で、一人の学生が死んだ。その友達だったのが著者。その事件の当時、学生自治の役職にあった。なぜ、その事件は起きたのか、背景に何があったのか、その当時の早稲田における革マル派とはどんな存在であったのか、大学の学生自治はどのようにしておこなわれていたのか……などなど、ノンフィクションとして解きあかしていく。
これだけなら、あの時代の、ある一つの出来事の記録ということで終わっていただろう。
だが、この本はそこにとどまらない。著者は、卒業後、朝日新聞の記者になる。そのなかで遭遇することになったのが、阪神支局の銃撃事件である。
早稲田での死、朝日新聞阪神支局での死、この二つの事件を経て、著者はさらに追求していく。そして、最後には、事件の当事者の一人であった人物との邂逅をはたす。この本の一番の読みどころは、最後のその人物との対話の章であろう。
寛容と非寛容はどうあるべきか、言論の自由はいかに守られるべきか、大学における学生の自治はいかなるものなのか……さまざまな論点をめぐって、著者は思考をめぐらせる。これは、必ずしも結論を得るというものではないが、その思考の過程が率直に綴られている。
なるほど大宅賞の本だけはあると思って読んだ。いい本である。ヒューマニズムということを考えるうえで、いろいろと考えることのある本である。
だが、確かにいい本であることは分かるのだが、読んでいて、どこか古めかしさを感じる。これは、この著者の世代……学生運動のまっただなかに生きた世代に特有のものかもしれないのだが、どうもしっくりこない違和感のようなものを感じずにはいられない。端的にいってしまえば、革マルがどうしようと、自分のしたい勉強ができるのなら、学生としてそれでいいではないか……私などの経験からは、どうしてもそう感じるところがある。これは、一九七二年の早稲田と、一九七五年の慶應との違いであるのかもしれない。まあ、確かに私自身は非政治的人間だと思っている。しかし、政治や歴史に関心がまったないわけではない。その関心のありかた、どのように関与すべきかについての、感性の方向性が、今一つ、著者のそれと合わないのである。
このような読後感を感じるのは、やはり自分自身の学生時代の体験が大きく影響してのことだろうと思う。同世代で、早稲田で学んだ人たちはどう感じるだろうか。また、より若い今の人たちは、この本を読んでどう感じるだろうか。このあたりが、気になるところではある。
2022年6月1日記
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163914459
大宅賞の受賞作ということで読んでみることにした。受賞のニュースを見て、さっそく買おうと思ったが、オンライン書店は品切れだった。ようやく重版になったようだ。買ったのは、第2刷である。
私は、一九七五年に慶應義塾大学に入学した。この本で描いているのは、一九七二に早稲田第一文学部でおこった、殺人事件の顛末とその後のことを描いている。読んで思うことはいろいろある。たった、数年のちがいで、東京の大学に入る時期がずれるだけで、こうも世界が違ってくるのだろうかというのが、率直なところである。
私が慶應に入学した時期は、いわゆる学生運動は沈静化した後のことだった。キャンパスにその余韻は残っていたとは思うが、総じて落ち着いていた。学生運動があったことなど嘘のような雰囲気だったといってもいいかもしれない。これは、私が、京都から東京に出て学生生活を送ることになったという事情もいくぶんあるだろう。あるいは、慶應の特殊性ということもあったのかもしれない。
もし、自分の人生の方向がちょっとちがっていたら、早稲田の文学部で学ぶことになったかもしれないと思う。そう思って読むと、他人事とは思えないところが、この本にはある。
事件は、一九七二年に起こった。早稲田の文学部の校内で、革マル派との抗争で、一人の学生が死んだ。その友達だったのが著者。その事件の当時、学生自治の役職にあった。なぜ、その事件は起きたのか、背景に何があったのか、その当時の早稲田における革マル派とはどんな存在であったのか、大学の学生自治はどのようにしておこなわれていたのか……などなど、ノンフィクションとして解きあかしていく。
これだけなら、あの時代の、ある一つの出来事の記録ということで終わっていただろう。
だが、この本はそこにとどまらない。著者は、卒業後、朝日新聞の記者になる。そのなかで遭遇することになったのが、阪神支局の銃撃事件である。
早稲田での死、朝日新聞阪神支局での死、この二つの事件を経て、著者はさらに追求していく。そして、最後には、事件の当事者の一人であった人物との邂逅をはたす。この本の一番の読みどころは、最後のその人物との対話の章であろう。
寛容と非寛容はどうあるべきか、言論の自由はいかに守られるべきか、大学における学生の自治はいかなるものなのか……さまざまな論点をめぐって、著者は思考をめぐらせる。これは、必ずしも結論を得るというものではないが、その思考の過程が率直に綴られている。
なるほど大宅賞の本だけはあると思って読んだ。いい本である。ヒューマニズムということを考えるうえで、いろいろと考えることのある本である。
だが、確かにいい本であることは分かるのだが、読んでいて、どこか古めかしさを感じる。これは、この著者の世代……学生運動のまっただなかに生きた世代に特有のものかもしれないのだが、どうもしっくりこない違和感のようなものを感じずにはいられない。端的にいってしまえば、革マルがどうしようと、自分のしたい勉強ができるのなら、学生としてそれでいいではないか……私などの経験からは、どうしてもそう感じるところがある。これは、一九七二年の早稲田と、一九七五年の慶應との違いであるのかもしれない。まあ、確かに私自身は非政治的人間だと思っている。しかし、政治や歴史に関心がまったないわけではない。その関心のありかた、どのように関与すべきかについての、感性の方向性が、今一つ、著者のそれと合わないのである。
このような読後感を感じるのは、やはり自分自身の学生時代の体験が大きく影響してのことだろうと思う。同世代で、早稲田で学んだ人たちはどう感じるだろうか。また、より若い今の人たちは、この本を読んでどう感じるだろうか。このあたりが、気になるところではある。
2022年6月1日記
『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 ― 2022-01-13
2022年1月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

國分功一郎.『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫).新潮社.2022(太田出版.2015)
https://www.shinchosha.co.jp/book/103541/
新潮文庫で刊行になった本であるということもあって、読んでみた。この本の初版は、二〇一一年。その増補新版の文庫化である。著名な本であることは知っていたのだが、なんとなく手にすることなく今にいたってしまった。
この本については、すでにいろいろと言われていることだろう。特に、何ほどのことを書くでもないが、思いつくままに書くとすると次の二点ぐらいがある。
第一に、退屈の文学史である。
この本を読んで、「つれづれ」とも「アンニュイ」とも「懶(ものうし)」とも出てこない。退屈な状態を、文学的に表現するならば、このようになるかと思う。たぶん、これは意図的にそう書いているのかと思う。退屈ということが、古今東西の文学作品のなかでどのように表現され、文学的主題としてあつかわれてきたか、これはこれとして、とても興味あることである。
第二、還世界について。
人間と動物とでは、住んでいる世界が異なる。感知しているまわりの世界が異なることは理解できる。そして、人間においては、多様な世界を行き来できるということもまた、理解はできる。だが、もう一歩踏み込んで分析することも可能かと思う。人間にとって環境とは、意図せずにたまたまそのような環境におかれるという状態もあるだろうし、あるいは、意図的に自らをそのような環境においてみることもできる。このあたりの人間の意志とのかかわりは、もうすこし分析する必要があるかもしれない。また、例えば、色彩の世界についていってみれば、確かに人間の感知することのできる色彩の世界と、モンシロチョウの感知する色彩の世界は違っている(このことは、色彩学の本にはたいてい出てくる。)人間が、多様な環境に身をおくことができるとしても、色彩に限ってみるならば、人間の感知できる範囲は、おのずと決まっている。他の動物のような色彩の環境に容易に入っていけるものではない。
以上の二点のことを書いてみる。
國分功一郎の本では、『中動態の世界』は買ってあるのだが、しまいこんだままになっている。取り出してきて、読んでおきたいと思う。
それから、さらに書いてみるならば、この本では最初に「暇」も「退屈」も定義していない。そうではなくて、この本を読むと、「退屈」とはこのような状態をさすのだな、ということが理解できるように書いてある。このような論のたてかたもあるのだと思う。
2022年1月11日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/103541/
新潮文庫で刊行になった本であるということもあって、読んでみた。この本の初版は、二〇一一年。その増補新版の文庫化である。著名な本であることは知っていたのだが、なんとなく手にすることなく今にいたってしまった。
この本については、すでにいろいろと言われていることだろう。特に、何ほどのことを書くでもないが、思いつくままに書くとすると次の二点ぐらいがある。
第一に、退屈の文学史である。
この本を読んで、「つれづれ」とも「アンニュイ」とも「懶(ものうし)」とも出てこない。退屈な状態を、文学的に表現するならば、このようになるかと思う。たぶん、これは意図的にそう書いているのかと思う。退屈ということが、古今東西の文学作品のなかでどのように表現され、文学的主題としてあつかわれてきたか、これはこれとして、とても興味あることである。
第二、還世界について。
人間と動物とでは、住んでいる世界が異なる。感知しているまわりの世界が異なることは理解できる。そして、人間においては、多様な世界を行き来できるということもまた、理解はできる。だが、もう一歩踏み込んで分析することも可能かと思う。人間にとって環境とは、意図せずにたまたまそのような環境におかれるという状態もあるだろうし、あるいは、意図的に自らをそのような環境においてみることもできる。このあたりの人間の意志とのかかわりは、もうすこし分析する必要があるかもしれない。また、例えば、色彩の世界についていってみれば、確かに人間の感知することのできる色彩の世界と、モンシロチョウの感知する色彩の世界は違っている(このことは、色彩学の本にはたいてい出てくる。)人間が、多様な環境に身をおくことができるとしても、色彩に限ってみるならば、人間の感知できる範囲は、おのずと決まっている。他の動物のような色彩の環境に容易に入っていけるものではない。
以上の二点のことを書いてみる。
國分功一郎の本では、『中動態の世界』は買ってあるのだが、しまいこんだままになっている。取り出してきて、読んでおきたいと思う。
それから、さらに書いてみるならば、この本では最初に「暇」も「退屈」も定義していない。そうではなくて、この本を読むと、「退屈」とはこのような状態をさすのだな、ということが理解できるように書いてある。このような論のたてかたもあるのだと思う。
2022年1月11日記
『人新世の「資本論」』斎藤幸平 ― 2021-12-20
2021-12-20 當山日出夫(とうやまひでお)

斎藤幸平.『人新世の「資本論」』(集英社新書).集英社.2020
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
話題の本ということで読んでみることにした。結論からいうと、私は、この本には賛成しない。その理由を三つばかり書いてみる。
第一には、人間観である。
人間の社会というのは、そんなに善良なものなのであろうか。むしろ、野蛮状態というべきかもしれない。これがいいすぎならば、無秩序と混乱といってもいいだろう。既存の社会のシステムが崩壊した後に、どのような安定した社会を作ることができるか、その道筋について、具体的に何もふれていない。たとえば、現在の中東情勢など見ても、そんなに今後の国際情勢を楽観的に考えることはできないと思う。
第二には、社会観である。
3.5%の人が動くならならば、社会は変革するという。はたして、これが一般的にいえることなのだろうか。そして、重要なことだと思うのは、3.5%の人びとの行動で社会が変わってしまうならば、一般の民主的手続き……選挙であり多数決を原則とする議決である……これは、どうなるのだろうか。まあ、現在の民主的な手続きは、行き詰まりを見せているので、それに変わる代替手段があり得るということかもしれない。だが、それが一般的、普遍的に適用できるという見通しは、まだ無理だろうと思うがどうであろうか。
第三には、中国である。
この本の中には、中国のことがほとんど出てこない。問題視されているのは、日本や欧米の諸国である。しかし、実際の国際社会のなかで、これから中国の存在感が大きくなることが懸念される。気候変動について、中国の責任は大きい。では、その一党独裁専制国家のゆくすえを、どう考えるのか。これも、3.5%の人びとが行動すれば、体制変革が可能というのであろうか。
以上の三つばかりを書いてみた。
無論、この本から学ぶところはいくつかある。特に、始めの方の気候変動への危機感などは、最重要の課題というべきであろう。また、マルクスの思想についても、晩年のマルクスがどのように考えていたか、これはこれとして興味深い。
晩年のマルクスから学ぶことは多くあるにちがいない。しかし、そこで留意すべきは、マルクスの生きた時代の科学、技術のあり方、人びとの生活様式のあり方、これは、二一世紀の今日とは異なっていることである。この点を無視して、ただマルクスがこう考えたで、それをもってくればいいというものではあるまい。晩年のマルクスの主張から脱成長のコミュニズムというのは、短絡していると思わざるを得ない。少なくとも、それほど説得力のある議論とは感じられない。
また、どうして最後のところで、精神論になるのであろうか。このあたりも気になる論のはこびである。以前に読んだ白井聡の本でも、最後は精神論で頑張れで終わっていた。最後は精神論で頑張れで終わるしかないということは、どうもその論理全体が破綻しているとしか思えないのである。
他にもいろいろと思うことはあるが、一読に値する本ではあると思う。
2021年12月13日記
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
話題の本ということで読んでみることにした。結論からいうと、私は、この本には賛成しない。その理由を三つばかり書いてみる。
第一には、人間観である。
人間の社会というのは、そんなに善良なものなのであろうか。むしろ、野蛮状態というべきかもしれない。これがいいすぎならば、無秩序と混乱といってもいいだろう。既存の社会のシステムが崩壊した後に、どのような安定した社会を作ることができるか、その道筋について、具体的に何もふれていない。たとえば、現在の中東情勢など見ても、そんなに今後の国際情勢を楽観的に考えることはできないと思う。
第二には、社会観である。
3.5%の人が動くならならば、社会は変革するという。はたして、これが一般的にいえることなのだろうか。そして、重要なことだと思うのは、3.5%の人びとの行動で社会が変わってしまうならば、一般の民主的手続き……選挙であり多数決を原則とする議決である……これは、どうなるのだろうか。まあ、現在の民主的な手続きは、行き詰まりを見せているので、それに変わる代替手段があり得るということかもしれない。だが、それが一般的、普遍的に適用できるという見通しは、まだ無理だろうと思うがどうであろうか。
第三には、中国である。
この本の中には、中国のことがほとんど出てこない。問題視されているのは、日本や欧米の諸国である。しかし、実際の国際社会のなかで、これから中国の存在感が大きくなることが懸念される。気候変動について、中国の責任は大きい。では、その一党独裁専制国家のゆくすえを、どう考えるのか。これも、3.5%の人びとが行動すれば、体制変革が可能というのであろうか。
以上の三つばかりを書いてみた。
無論、この本から学ぶところはいくつかある。特に、始めの方の気候変動への危機感などは、最重要の課題というべきであろう。また、マルクスの思想についても、晩年のマルクスがどのように考えていたか、これはこれとして興味深い。
晩年のマルクスから学ぶことは多くあるにちがいない。しかし、そこで留意すべきは、マルクスの生きた時代の科学、技術のあり方、人びとの生活様式のあり方、これは、二一世紀の今日とは異なっていることである。この点を無視して、ただマルクスがこう考えたで、それをもってくればいいというものではあるまい。晩年のマルクスの主張から脱成長のコミュニズムというのは、短絡していると思わざるを得ない。少なくとも、それほど説得力のある議論とは感じられない。
また、どうして最後のところで、精神論になるのであろうか。このあたりも気になる論のはこびである。以前に読んだ白井聡の本でも、最後は精神論で頑張れで終わっていた。最後は精神論で頑張れで終わるしかないということは、どうもその論理全体が破綻しているとしか思えないのである。
他にもいろいろと思うことはあるが、一読に値する本ではあると思う。
2021年12月13日記
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