『ゲンロン戦記』東浩紀2021-02-18

2021-02-18 當山日出夫(とうやまひでお)

ゲンロン戦記

東浩紀.『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ).中央公論社.2020
https://www.chuko.co.jp/laclef/2020/12/150709.html

話題になっている本ということで買って読んでみた。

東浩紀については、その書いたものはいくつか手にとったことはあるのだが、はっきりいってそうひかれることなく、今まで来てしまっている。といって、特に否定的に思っていたわけではない。現代における言論人の一人ぐらいの認識でいた。

この本を読んで、その活動が、ゲンロンという組織、会社に依拠したものであったことを知ったといってよい。なるほど、このような活動をしてきた人物なのかと、認識を新たにしたということが本当のところである。

面白い本なので、一息に読んでしまった。

読んで思ったこととしては、現代における「知」のあり方についての、問いかけになっていることである。既存のシステム……大学であったり研究室であったり、あるいは、マスコミや大手の出版はであったり……に依拠しない、自立した「知」のサークルをつくりあげていったあゆみ、そのあゆみは、決して平坦なものではなかったことがあきらかにになるのだが……そのあしどりを、かなり即物的に語ってある。ここには、形而上的な思弁というものはない。

だが、この本全体を通じて、これは、現代における一つの「知」のあり方を問いかける、ある意味での思想書になり得ていると思う。

COVID-19の影響で、ゲンロンの仕事もオンライン主体になっているようである。これは、時代の趨勢といってしまえばそれまでだが、しかし、このような時代にあって、「知」のあり方を根本から考える足場として、オンラインというのは、一つ新たな地平を切り拓くものであるのかもしれない。

ところで、この本に紹介してあるゲンロンの連想で思うこととしては、京都の上七軒文庫の活動がある。

上七軒文庫
https://kamishitiken-bunko.com/

ともに、これからの時代における「知」のあり方として、注目していきたいと思う。

2021年2月7日記

『リベラリズムの終わり』萱野稔人2020-12-28

2020-12-28 當山日出夫(とうやまひでお)

リベラリズムの終わり

萱野稔人.『リベラリズムの終わり-その限界と未来-』(幻冬舎新書).幻冬舎.2019
https://www.gentosha.co.jp/book/b12748.html

たぶん、ここで書く今年最後の本になる。今読んでいるのは向田邦子の作品。今手に入るエッセイなど……文庫本で出ているもの……を、集中的に読んでいる。向田邦子については、年があらたまってから書いていこうと思う。

萱野稔人という人……哲学者……は、気になっている人の一人である。その書いていることに賛成か、そうでないか、判断しかねるところはあるのだが、その問題提起について、なるほどと同感するところが多い。

この本についてもそうである。このような議論からはじまる……同性婚を認めるならば、一夫多妻や一妻多夫も認めなければならなくなる、当事者の合意があり、誰に迷惑をかけるわけではないのであるから……この議論は、確かに読んでいてなるほどこのように考えることもできるのか、と感心した。「リベラル」という立場をつきつめていくならば、どこまでの自由を認めることになるのか、また、その主義主張はどれほど社会的に有効なものであるのか、ここのところを、つきつめて考えてある。

ただ、この本の後半の議論……人びとが分かち合うべきパイの大きさのこととか、『自由論』に言及したあたりになってくると、はっきりいって、私にはよく分からないというのが正直なところである。しかし、著者はその立場として真剣に議論していることは分かる。

私個人としては、かなりリベラルな立場でものを考える方かとは思っている。しかし、なぜそのように考えるのか、そして、その思考の行き着くところはどこで、どのような限界があるのか、あまり考えてみたことはない。この意味においては、リベラルにものを考えるとはどういうことなのか、いったん立ち止まって考えることになる。

COVID-19で明け暮れてしまった一年であったと思うが、このような中にあってこそ、ものを考えること、そしてその考えを追求していくことの重要性を、改めて感じている次第である。

2020年12月27日記

『民主主義とは何か』宇野重規2020-12-17

2020-12-17 當山日出夫(とうやまひでお)

民主主義とは何か

宇野重規.『民主主義とは何か』(講談社現代新書).講談社.2020
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324372

出たときに買っておいて、しばらく積んであった本である。ここしばらく、太宰治を集中的に読んでいた。

これが「話題」の本であるとは思っていた。いうまでもなく学術会議の一件である。

この本を読んでみての感想としては、この本の著者である宇野重規を学術会議に入れなかった判断を下したの誰であるかは知らないが、しかし、その人物について、ある意味で畏敬の念を感じるところがある(無論、皮肉をこめてであるが)。なるほど、このような本を書くと、学術会議から排除されるのか。ならば、排除されずにメンバーになっている学者は、曲学阿世の御用学者ばかりか……ふと、そんなかんぐりをしたくなってくる……だが、問題の本質は、そこのところが不明瞭なままである点にある。基準が不透明なのが、一番の問題点だと思う。

それはともかく、この本は面白い。「民主主義」という日常的に使っていることばであり、あるいは、その中に生きているはずの社会の制度である。それについて、民主主義とはどのような歴史があり、実際に運用するにあたっては、どのような課題があるのか、実に丁寧に分かりやすく説明してある。きちんと手順をふんで、ものごとを丁寧に考えていくとはこういう知性のあり方をしめすのである、その見本のような本である。

もし、私が、まだ若くて……高校生ぐらいであって、この本を読んだとしたら、将来の自分の進路として、法学部を選び、政治思想、政治学をこころざしたかもしれない、そんな気にもなってくる。この本は、特に若いひとに読んでもらいたいと思う本である。これからの日本の「民主主義」は、これからの若いひとがになっていくものである。

そろそろ年末である。この年のベストがいろいろ発表されるころかと思うが、この本は、かならずどこかで取り上げられるにちがいない。

2020年12月14日記

『フランス革命についての省察』エドマンド・バーク/二木麻里(訳)2020-09-24

2020-09-24 當山日出夫(とうやまひでお)

フランス革命についての省察

エドマンド・バーク.二木麻里(訳).『フランス革命についての省察』(光文社古典新訳文庫).光文社.2020
https://www.kotensinyaku.jp/books/book329/

この本を読んでいるとき、日本の政治はというと……八年にわたった安倍政権がおわることになり、次の自民党総裁をえらぶことになった。そして、その結果は、菅義偉が決まった。このような政治状況のなかで、この本を読んだことになる。

率直な感想を言えば……日本の政治家のなんとだらしないことか、という思いである。

ともあれ、この本は、フランス革命に際して、英国から見てそれをどう思うか、考察を加えたものであり、英国保守思想を体系化した書物として、古典的な位置をしめる本である。ひととおり、このようなことは知っていたが、読むのは、これが初めてになる。(たしか、中央公論社の『世界の名著』のなかにはいっていたかと思うが、これはしまい込んだままになっている。)

保守思想とは何かということについては、今更のべるほどのこともないだろう。以前に、少しだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月1日
宇野重規『保守主義とは何か』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/01/8122012

ただ、今回、『フランス革命についての省察』を読んで思うことを記しておくならば、次のことがある。それは、バークがこの本を書いたとき、英国は、立憲君主制を確立しており、まがりなりにも、民主的な制度がととのった状況にあったということである。そのような英国から見て、フランス革命の行きすぎた点、不十分な点、問題点などを、冷静に観察している。そのような批判ができるというのも、その時点に英国における政治制度の熟成ということを、考えておくべきであろう。

この本を読みながら、あえて付箋をつけることはせずに読んだのだが、一箇所だけ注目しておきたいところを引用しておく。

「社会の構成メンバーの利害も多様になれば、さまざまな秩序とさまざまな見方ができて、その数が多いほど社会一般の自由にとっては保障になるのです。」(p.77)

今、社会の多様性ということが、各方面から言われている。このとき、多様な意見を尊重し、耳を傾けること……これこそ、保守主義の最も重視することである。すくなくとも、真性の保守主義者であろうとするならば、このことに十分に配慮しなければならない。

保守を自認するする人、組織、政党などは多いかもしれないが、そこに、多様な意見の尊重という観点が、どれほどあるだろうか。それを欠くような考え方については、私は、保守とは言いたくない。

この本は、保守主義の古典的著作ではあるが、むしろ、リベラルといわれる立場にとっても、非常に有意義なものとなっていると感じる。どのような政治的立場をとるにせよ、熟読する価値のある本であることはまちがいない。

2020年9月16日記

『日本思想史』末木文美士2020-09-18

2020-09-18 當山日出夫(とうやまひでお)


末木文美士.『日本思想史』(岩波新書).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b492574.html

これは出た時に買った本なのだが、しばらく積んであった。最初の方だけ読んでみて、なるほどと思う反面、ちょっとつまらないかなと感じるところが半分、ということで、置いたままになってしまっていた。夏休みの時間のとれるときにと思って、最初から、再度読みなおしてみた。

正直言って、なんとなく味気ない。たしかに、「日本思想史」というテーマで、目一杯のことを詰めこんで書いてあるという印象はある。そのせいか、結果として、なんとなく、教科書的な事項の羅列になってしまっているということになる。

だが、これも、視点を変えて見るならば、自分の知識の整理、確認という意味では、読んでいて、勉強になる本である。ときには、このようなこと、人物、言説があったのかと、改めて気付くところがあったりもする。

ただ、この本の冒頭に掲げてあること……日本の思想を、「神仏」と「王権」で読み解く、時代区分としては、古代から近世まで、明治から昭和戦前まで、戦後から今日まで……このような整理のしかたをこころみていることになるのだが、はたして、これが成功したかどうかとなると、どうもそうは思えない。「神仏」「王権」はまあ、そのような見方もあるかとは思うが、時代区分については、どうかと思う。近現代についても、その底流にあるものを古代からの流れのなかで考えるべきではないだろうか。あるは、明治以降の近代というものも、近世からの連続として考える歴史の考え方もあるだろう。

そうはいっても、この本が一定の水準にあることはたしかである。私の専門でわかる範囲のこと、日本の文字についての記述、仮名の成立とか、漢文訓読とか、これは、基本的に通説にしたがって書いてある。そう逸脱した独自の見解が示されているということはない。(だが、より専門的な目で見るならば、この本の記述の範囲は、あくまでも通説の範囲をこえるものとはなっていない。)

このような意味では、一定の信頼をおいて読んでいい本だというのが、印象として残ることである。知識の整理という観点からは、よく書けている本だと思う。

2020年9月16日記

『マックス・ウェーバー』野口雅弘2020-06-11

2020-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

マックス・ウェーバー

野口雅弘.『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家-』(中公新書).中央公論新社.2020
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/05/102594.html

中公新書と岩波新書で、マックス・ウェーバーについての本がほぼ同時に出た。これは、両方買って読むことにした。どちらから読んでもいいようなものかもしれないが、中公新書の方から読むことにした。著者の野口雅弘は、『仕事としての学問』の新訳など出している。これは出たときに買って読んだ。

やまもも書斎記 2018年7月27日
『仕事としての学問』マックス・ウェーバー
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/27/8926433

この訳が印象にのこっているので、中公新書の方からということにした。

中公新書『マックス・ウェーバー』であるが、この本の特徴とすべき点については、この本のあとがきで、著者自身がきちんと整理して書いてある。特に、何ほどのことを付け足すこともないかと思う。

が、読んで印象に残ったことなど書くとすれば、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、マックス・ウェーバーの現代的な意味である。

現代において、特に、現代の日本において、マックス・ウェーバーの著作を読むことに、どのような意味があるかという問いかけが随所にある。かつて、マックス・ウェーバーが描き出した、ヨーロッパの近代というものが、日本においては、ある種の理想視されていたという側面がある。私が学生のころ、まさに、マックス・ウェーバーは、そのように読まれていたと言っていいだろう。特に、岩波文庫『プロ倫』の訳者である、大塚久雄の影響力はかなり大きかったと、今になって回想してみることになる。

ヨーロッパの近代を絶対視することがなくなって、あるいは、それを世界的規模のなかで相対的に見るような視点がうまれてきて、「近代」や「宗教」というもの対する考え方も、また変わってきているところがある。そころのところの問題点を、この本はするどく指摘している。

第二には、マックス・ウェーバーを歴史のなかで見る視点である。

たとえば、マックス・ウェーバーと、スコット・フィッツジェラルドを同時代の人間として、見るような視点の設定である。そういえば、『グレート・ギャツビー』も読んではいるのだが、これも、再度読みなおしてみたくなった。

その他、幾多の同時代の登場人物が出てくる。多彩な歴史的な人物群のなかにおくことで、マックス・ウェーバー自身もまた、歴史のなかに位置する一人として描かれることになる。

以上の二点が、中公新書の『マックス・ウェーバー』を読んで思ったことなどである。

さて、岩波新書の『マックス・ヴェーバー』も出たときに買ってある。つづけて読むことにしたい。

2020年6月8日記

『保守と大東亜戦争』中島岳志2018-10-11

2018-10-11 當山日出夫(とうやまひでお)

保守と大東亜戦争

中島岳志.『保守と大東亜戦争』(集英社新書).集英社.2018
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0941-a/

集英社新書で出た本ということもあって、気楽に読んだ本である。特に目新しいことが書いてあるということはない。しかし、この本に書かれているようなこと踏まえたうえで、歴史の議論はなされるべきだろうと思う。

この本を読んで思うことなど書くとすると、次の二点。

第一には、著者ならではの「保守」の論理にしたがっている。「保守思想」について、まず定義がある。

著者(中島岳志)が、大学にはいってから手にした西部邁を引用する。

「自由民主主義は保守主義であらざるをえない」

さらにつづけて、このように著者(中島岳志)は記している。

「保守は人間に対する懐疑的な見方を共有し、理性の万能性や無謬を疑います。そして、その懐疑的な人間観は自己にも向けられます。自分の理性や知性もパーフェクトなものではなく、自分の主張の中にも間違いや誤認が含まれていると考えます。その自己認識は、異なる他者の意見を聞こうとする姿勢につながり、対話や議論を促進します。そして、他者の見解の中に理があると判断した場合には、協議による合意形成を進めていきます。」(p.18)

このような心性のありかたこそ、リベラルであるとする。これはこれで一つの立場であると認める。

このような意味では、現在の政権の政策などは、「保守」「リベラル」から最も遠いものであるということになるであろう。

第二には、このような「保守」の心性を持った人びとが、戦前・戦中の時期にどのような、言論活動をおこなったかをみていくことになる。

取り上げられているのは、
竹山道雄
田中美知太郎
猪木正道
福田恆存
池島信平
山本七平
会田雄次
林健太郎
などである。

これらの人びとの言説をとりあげながら、「保守」の心性をもった人間こそが、戦争に反対していたと論じる。

ここのところ、特に目新しい議論というわけではない。だが、改めて、この本に示されているような形で提示されると、なるほど、「保守」とは、現実の政治の動きに抵抗し、歴史と伝統のなかに自己の立脚点を見いだす……このようなことが再確認される。

以上の二点が、この本を読んで感ずることなどである。

無論、戦前、戦中において、戦争に反対した立場をとったのは、「保守」だけに限らないであろう。だが、今の時代において、「保守」といえば、ただ戦前回帰、大東亜戦争肯定論、このように考えがちな傾向に対しては、ちょっと待って考えてみようとすることになる。

この本からすこし引用しておくと、鶴見俊輔について、次のように述べる。

「鶴見の指摘は非常に重要です。戦前の日本は保守的だったから権威主義体制を拡大させ、全体主義的なヴィジョンにのめり込んでいったのではありません。逆です。近代日本における保守の空洞化こそが、大東亜戦争に至るプロセスを制止できなかった要因なのです。」(p.67)

戦前の歴史について、さらに考えてみることの必要性をつよく感じさせる本である。

『「宣長問題」とは何か』子安宣邦2018-10-06

2018-10-06 當山日出夫(とうやまひでお)

「宣長問題」とは何か

子安宣邦.『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2000 (青土社.1995)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480086143/

本居宣長についての本を読んでいる。

前回は、
やまもも書斎記 
『本居宣長』芳賀登
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240

『「宣長問題」とは何か』は、以前に買ってしまってあった本である。買った時に、ざっと目をとおしたかと思うのだが、今回、改めて読み直してみることにした。

著者(子安宣邦)の言う「宣長問題」とは、次のようなものである。

「私がいま宣長を再浮上させ、いま問わなければならぬ「宣長問題」をこのように問題構成し、このように論じようとするのは、私たちの「日本」についてのする言及が、「日本」という内部を再構成し、「日本人」であることをたえず再生産するような言説となることから免れるためである。」(p.15)

そして、つづけて次のようにある、

「国語学が宣長と「やまとことば」の神話を共有しながら、〈国家語=国語〉をたえず再生産する近代の学術的言説であった(以下略)」(p.15)

このことについては、私としても特に異論があるということではない。いや、国語学、日本語学という学問の片隅で仕事をしてきた人間のひとりとして、このようなことには、自覚的であったつもりでいる。(そのうえで、あえて、自分の勉強してきたことを、国語学と言いたい気持ちでいるのだが。)

近代の国語学、日本語学、特にその歴史的研究という分野においては、基本的に宣長の国学の流れをうけつぎながら、その神道論だけは排除してきた歴史……端的にいえば、このようにいえるかもしれない。このような歴史を概観しながらも、であるなば、なおのこと、その学問の出自ということについて、考えてみなければならないと思う。

ところで、この本を読んで、納得のいったことの一つが契沖の評価。

「こうして契沖が再発見され、彼による国学の学問的な〈始まり〉の意義が、国学的道統の〈初祖〉荷田春満に代って強調されることになるのである。」(p.124)

今日から振り返ってみたとき、宣長の師匠は、賀茂真淵であり、さらに、その文献学的方法論の淵源をたどれば、契沖にたどりつく。荷田春満からはじまる国学の流れは、近代になってから、平田篤胤の門流によってひろめられた。(そういえば、私が、高校生のころ勉強した日本史の知識では、国学の「四大人」として、荷田春満からおぼえたのを、思い出す。)

ともあれ、今のわれわれにとって、『古事記』が「古典」であり、それを読み解くには、古代日本語……「やまとことば」といってもいいかもしれない……の研究と密接に関連している、このことはたしかである。だが、これも、ある意味では、本居宣長からの学問の継承のうえにのっているにすぎないとも言えるかもしれない。このところに、私としては、自覚的でありたいと思っている。

この本は、「宣長問題」に答えを出しているという本ではない。そうではなく、今の日本において、日本を語ろうとするとき、日本の古典を、あるいは、日本語について語ろうとするとき、本居宣長という存在を避けてとおることはできない、このことのもつ意味を再確認させてくれる本である。

『本居宣長』芳賀登2018-10-01

2018-10-01 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

芳賀登.『本居宣長-近世国学の成立-』.吉川弘文館.2017 (清水書院.1972)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b279167.html

「本居宣長」の続きである。
やまもも書斎記 2018年9月29日
『本居宣長』熊野純彦(内篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/29/8966263

かなり以前に出た本の再刊である。これも「本居宣長」のタイトルで刊行されたもの。

なぜ、私が、今になって「本居宣長」を読んでいるかというと……近代になってからの国文学、国語学という研究分野の成立に、本居宣長が深く関与しているということを、確認したいためである。あるいは、逆説的にいえば、今、本居宣長を論じる、その方法論が、まさにかつて本居宣長が、『源氏物語』を読み、『古事記』を読んだ、その方法論によっている、このことの確認でもある。それほどまでに、国文学、国語学、さらには、現代の日本文学、日本語学の研究領域において、本居宣長の影響は及んでいると感じる。

さて、この芳賀登の『本居宣長』であるが、これは、歴史学者が書いた本居宣長の評伝であり、近世における国学という学問の成立過程を論じてある。

付箋をつけた箇所を引用しておく。

「文献学はその意味で幽玄不可思議な神道の存在を前提に考えられたのである。」(p.51)

「ただ今日、宣長学の本質を古道学に求めるか、それとも主情主義文芸に求めるかという形で問題をたてる人がいるが、これは両者がはじめから統一するもののない双曲線として位置づけるものであるだけに、かかる見解をとることはできない。」(p.54)

この本は、上述の引用のように、かなり割り切った考え方で本居宣長の学問をみている。

とはいえ、今日、二一世紀の現代において、本居宣長を論じようとするならば、その神道論と、文献実証主義の方法論と、さらには、「もののあはれ」の文芸論、これらを、総合的にとらえるには、どうすればよいか、ということになる。あるいは、今日の学問において、これらのうち、何を継承していて、何を継承していないか……無論、神道論を継承していないことになるのだが……ここのところにふみこんで考えることが必要になる。少なくとも、国文学、国語学という研究分野のことについて考えて見るならば、このような自覚的反省の視点が必要になってくるだろう。

さらに、本居宣長についての本、そして、本居宣長の書いたものを、読んでいきたいと思っている。

『本居宣長』熊野純彦(内篇)2018-09-29

2018-09-29 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年9月22日
『本居宣長』熊野純彦(外篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/28/8965901

この本の後半、内篇になって、著者(熊野純彦)は、本居宣長の内側へとはいっていく。その著作を読み解きながら、その思考のあとをたどろうとしている。このとき、先行する本居宣長研究も膨大なものになる。この本の巻末には、そのリストが掲載になっている。

もちろん、本居宣長の著作も膨大な量になる。そして、それを論じようとするならば、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめとして、古代から中世、あるいは、近世までの和歌の歴史に通暁しておく必要があるだろう。無論、『源氏物語』は必読である。そして、『古事記』と『古事記伝』がある。(おそらく、『古事記伝』を全巻にわたって精読したという仕事をした人は、ほとんどいないと言っていいかもしれない。近年のものとしては、神野志隆光の『本居宣長『古事記伝』を読む』全四巻がある。この本のことについては、追ってふれることにしたいと思っている。)

本居宣長の著作……『石上私淑言』『紫文要領』それから、『古事記伝』などについては、ひととおり知っておく必要がある。『玉かつま』も読むべきである。とにかく、本居宣長を論じるということは、大変な仕事であることは、国語学という学問の片隅で仕事をしてきた人間としては、実感する。

この意味で読んでみて、この本、熊野純彦の『本居宣長』は、そのあつかっているテキスト、資料の範囲についていえば、きちんと読み込んである、そのような印象をうける。

この内篇で、著者(熊野純彦)が描き出している本居宣長のイメージは、非常に平明で理性的である。古代の神道信仰について言及するときでも、本居宣長としては、それなりの理性的判断で、そう信じて、そう語っている、というように理解される。

内篇においても、一般の本居宣長の論をふまえて、まず、「もののあはれ」にふれる。それから、『古事記伝』における古代の信仰世界にはいっていく。ここのながれは、あくまでも、本居宣長の著作に即しながら、また、『源氏物語』などに言及しつつ、きわめて冷静な筆致で、その思想のあとをたどっている。これは、古代の神道においても、同様である。

が、読み進めていくと、最後の方にきて、『古事記伝』から踏み込んで『古事記』を読んでいく、というようになってくる。古代文学としての『古事記』の叙述そのものにふれるところが多くなってくる。ここは、やはり、『古事記伝』を読みながら『古事記』そのものの世界に入り込んでいるということになるのであろう。

きわめて、合理的で(今日の目からみれば、そうではないところもあるかもしれないが)、明晰な、本居宣長のイメージが、この本では展開される。そして、その一方で、文献の解読にのめり込んでいく研究者としての本居宣長の心情にふれるにいたる。ここは、人文学にかかわる研究者として、共感できるものとしての、本居宣長ということになる。たぶん、この『本居宣長』を読んで、今日の読者が感じるものとしては、研究者としての熊野純彦が、本居宣長に共感し、共鳴していく部分においてであろう。そして、それは、きわめて理性的に読めるものとして叙述されている。

だが、最後にきて、研究者の情念とでもいうべき部分にふれることになる。『うひ山ぶみ』の一節を引用したあとで、このようにある。

「この一文から本居の静寂主義しか読みとることのできない読者がいたとすれば、その者はしょせん本居の思考と無縁なままにとどまる。一節をむすぶことばに震撼されることがないのなら、その者はおよそ宣長に典型をみる、学知のいとなみの無償な立ちようとは所縁がないままでありつづけることだろう。」(p.871)

そして、最後、この本は、本尾宣長の遺言でふいに終わっている。小林秀雄の『本居宣長』を意識してのことだと思われる。

追記 2018-10-01
この続きの「本居宣長」は、
やまもも書斎記 2018年10月1日
『本居宣長』芳賀登
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240