英雄たちの選択「戦国大名のおもてなし戦略〜大内義興の野望〜」 ― 2026-01-20
2026年1月20日 當山日出夫
英雄たちの選択 戦国大名のおもてなし戦略〜大内義興の野望〜
これを見て一番興味深かったのは、その時のメニューが、明治時代になって写本を作って、それが今に残っていることである。原稿用紙風に縦横の罫線が入った紙に書いてあった。むしろ、こういう紙が、どのように使われてきたかということも、とても興味がある。
室町時代の宴会のメニューを残すべきものとして、明治の人たちも意識していたということである。こういう意識が、どのように継承されてきたのか、ということが、大きなテーマであるともいえよう。
現代になって、普通の人びとが、自分の食べているものを、SNSなどに載せるようになってきた。ちょっと前までは、日常的に、食べているものがどんなものなのか、個人情報というほどのことではないが、しかし、あまり他人に知らせるようなものではなかったと、私は思っている。あるいは、下町だったり、農村部だったりすると、だいたい、隣近所の人が何を食べているか、お互いに分かっているということもあっただろう。
歴史的に見ると、普通の人びとが何を食べていたかということは、きわめて難しいことになる。しかし、貴顕の人びと、特に、特別な宴席などだと、その献立が記録として残る。現代では、宮中晩餐会のメニューが残るようなものかもしれない。
特殊なこととしては、伊勢神宮のお供え物(今も続いている)なども、古代の食の記録ともいえる。
中世の宴会というのは、とにかく、飲んで食べてと、盛大なものだったらしい。刹那的、蕩尽的、と言っていたが、そうなのだろう。
山口であっても、そのような料理を作るために、食材を調達できること、料理の腕前の料理人がいること……これは、戦国時代にあって、大名の力として誇示することになる。
料理に使ったかわらけなども、その残骸(?)が残っている。中世の京都風の宴会の跡、ということになる。
室町時代から戦国時代にかけては、京都中心の文化が、地方に伝播した時代でもあった。特に、守護大名などを中心に、京都風の文化がひろまった。この中の一つとして、料理があった。他には、芸能(能楽など)があり、美術があり、文学(和歌、連歌)があった。
中世風の宴会の形式に対して、利休などの佗茶の文化ということが、安土桃山時代になって生まれ、それを利用したのが、信長であり秀吉であり家康である、ということになるだろうか。そして、その後の江戸時代のもろもろの文化につながっていく。
人びとが共に集まって飲食をともにする……こういうことの文化的価値というのは、昔からあったものである。形式は、時代や地域によって違いはあるだろうが。それが、最近では、飲み会に誘うだけでハラスメントになる時代である。もう、学会があって、懇親会の後の二次会で、若い大学院生などを相手に、いろいろと話しをするような時代ではなくなってきている。そもそも、オンライン学会が増えてきた。
室町時代も終わり頃になれば、将軍が京都にいないのが普通という時代になる。これはいいとしても、では、なぜ、天皇は京都に居つづけたのだろうか。このことも、気になったところである。
お魚を食べるのに、調味料としては、煎り酒を用いた。江戸時代になって、醤油が普及する前のことである。検索してみると、煎り酒は、売っている。Amazonでも買える。ちょっと高い気もするが。
鯛の刺身を食べるのに、たまり醤油というのは、私の好みであるが、これは、どういう歴史があってのことなのだろうかと思う。
また、まだ砂糖が一般に使われる前の時代でもある。砂糖の世界史は有名だが、日本史に限っても、砂糖の歴史は、いろいろと面白いことがあるにちがいない。人は、甘いものをもとめる。私などは、サッカリンというのを記憶している世代になる。
ところで、この番組を見ていて、柑橘山美術館というのができるということを知った。2028年の予定らしい。これから行く機会があるかどうか、と思う。
2026年1月14日記
英雄たちの選択 戦国大名のおもてなし戦略〜大内義興の野望〜
これを見て一番興味深かったのは、その時のメニューが、明治時代になって写本を作って、それが今に残っていることである。原稿用紙風に縦横の罫線が入った紙に書いてあった。むしろ、こういう紙が、どのように使われてきたかということも、とても興味がある。
室町時代の宴会のメニューを残すべきものとして、明治の人たちも意識していたということである。こういう意識が、どのように継承されてきたのか、ということが、大きなテーマであるともいえよう。
現代になって、普通の人びとが、自分の食べているものを、SNSなどに載せるようになってきた。ちょっと前までは、日常的に、食べているものがどんなものなのか、個人情報というほどのことではないが、しかし、あまり他人に知らせるようなものではなかったと、私は思っている。あるいは、下町だったり、農村部だったりすると、だいたい、隣近所の人が何を食べているか、お互いに分かっているということもあっただろう。
歴史的に見ると、普通の人びとが何を食べていたかということは、きわめて難しいことになる。しかし、貴顕の人びと、特に、特別な宴席などだと、その献立が記録として残る。現代では、宮中晩餐会のメニューが残るようなものかもしれない。
特殊なこととしては、伊勢神宮のお供え物(今も続いている)なども、古代の食の記録ともいえる。
中世の宴会というのは、とにかく、飲んで食べてと、盛大なものだったらしい。刹那的、蕩尽的、と言っていたが、そうなのだろう。
山口であっても、そのような料理を作るために、食材を調達できること、料理の腕前の料理人がいること……これは、戦国時代にあって、大名の力として誇示することになる。
料理に使ったかわらけなども、その残骸(?)が残っている。中世の京都風の宴会の跡、ということになる。
室町時代から戦国時代にかけては、京都中心の文化が、地方に伝播した時代でもあった。特に、守護大名などを中心に、京都風の文化がひろまった。この中の一つとして、料理があった。他には、芸能(能楽など)があり、美術があり、文学(和歌、連歌)があった。
中世風の宴会の形式に対して、利休などの佗茶の文化ということが、安土桃山時代になって生まれ、それを利用したのが、信長であり秀吉であり家康である、ということになるだろうか。そして、その後の江戸時代のもろもろの文化につながっていく。
人びとが共に集まって飲食をともにする……こういうことの文化的価値というのは、昔からあったものである。形式は、時代や地域によって違いはあるだろうが。それが、最近では、飲み会に誘うだけでハラスメントになる時代である。もう、学会があって、懇親会の後の二次会で、若い大学院生などを相手に、いろいろと話しをするような時代ではなくなってきている。そもそも、オンライン学会が増えてきた。
室町時代も終わり頃になれば、将軍が京都にいないのが普通という時代になる。これはいいとしても、では、なぜ、天皇は京都に居つづけたのだろうか。このことも、気になったところである。
お魚を食べるのに、調味料としては、煎り酒を用いた。江戸時代になって、醤油が普及する前のことである。検索してみると、煎り酒は、売っている。Amazonでも買える。ちょっと高い気もするが。
鯛の刺身を食べるのに、たまり醤油というのは、私の好みであるが、これは、どういう歴史があってのことなのだろうかと思う。
また、まだ砂糖が一般に使われる前の時代でもある。砂糖の世界史は有名だが、日本史に限っても、砂糖の歴史は、いろいろと面白いことがあるにちがいない。人は、甘いものをもとめる。私などは、サッカリンというのを記憶している世代になる。
ところで、この番組を見ていて、柑橘山美術館というのができるということを知った。2028年の予定らしい。これから行く機会があるかどうか、と思う。
2026年1月14日記
コメント
_ きたじま ― 2026-01-20 21時09分01秒
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番組をご覧いただき、ありがとうございました。番組中で流れた献立記録は山口県文書館が所蔵する明治時代の写本ですが、近藤清石(きよし・せいせき)という郷土史家が毛利家が所蔵する古文書(現在は毛利博物館が所蔵)を調査した際に筆写したものになります。この古文書もまた毛利氏が大内氏の饗応文化を学ぶ際に筆写したものと考えられます。當山さまが書いておられるように、献立が筆写された歴史的背景に想いを馳せるのも面白いですね。
また、甘味については、甘葛(あまずら)も用いられました。冬に採取したツタの樹液を煮詰めて作ってみたことがありますが、取れるのは本当にわずかで、ほんのりとして上品な甘みがあります。醤油・砂糖の味覚に慣れた現代人からすれば、物足らない感じがするかもしれません。奈良女子大学のグループが再現・商品化されているようです。
なお、URLは、大内氏の宴に関するウェブサイトになります。パンフレットもダウンロードできます。御参考になれば幸いです。