NDLのコンテンツは誰のものか ― 2009-11-10
2009-11-10 當山日出夫
NDL(国立国会図書館)のオンラインサービスを考えていくと、最終的にいきつくところは、そのコンテンツは、いった誰のものであるのか、というあたりに行きそうである。
あらかじめ、ことわっておかねばならないのは、誰のものであるのか、ということと、何のために利用可能であるのか、ということは、とりあえず別の問題である。しかし、密接に関連する。
NDLのコンテンツという視点から見た場合、それは、国民のものだろう。少なくとも、いまの常識的判断からするならば。国家のものであるというよりも、主権者たる国民のものであり、それを集中的に管理する機関として、NDLがある……というのが、大方の理解であると考える。
ならば、誰でもが、それを使えるか。もちろん使える。利用規程によって、国民のすべてにひらかれている。
だが、これは、基本的に「本」に限られる。(保存が重要である貴重書もあるが、これも、基本は、公開と考えておくべきであろう。本来は公開しなければならないが、保存のために、あえて非公開の手段をとらざるをえない。)
では、それが、デジタルコンテンツとなった場合、国民すべてに、ひらかれているか……となると、問題が多い。もちろん、著作権の問題がからんでくるからである。
ところで、パブリックドメインのものがある。著作権のきれたもの、である。著作権のきれたものについて、たとえば、近代以降の出版物であれば、何も近代デジタルライブラリーばかりではない。他に、デジタル画像のコンテンツのサイトはある。
例:うわづら文庫
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura.html
それから、貴重書画像データ。特に浮世絵のたぐい。これにあまりに厳格な利用規程をあてはめるのはどうであろうか。版画である以上、同じものが、日本・世界に存在する。いくら、国会図書館が、厳重にガードしたとしても、ほぼ同一内容のものが、海外の美術館・博物館で、自由に利用可能、ということもないではない。まったく自由とまではいかなくても、かなり自由で、商業的利用も可能となった場合、日本で制作のコンテンツは、取り残される。
ただ、日本国内で、国内の規定で、作っているにすぎない。だが、だれも、利用しない(いや、利用しようにもできない。)
それが、芸術・創造活動にかかわるものであるとして、まさに、今の我々の時代に生きて、生活のなかに活用されてこそ意味がある。所蔵という名のもとにおける死蔵におわっては、何の意味もない。
コンテンツは誰のものであるのか。著作権者がその著作権を守るためだけにあるものである。これもひとつの考え方であろう。
一方で、著作権はまもりつつも、そのコンテンツが、より社会の創造・表現活動を活性化する方向に利活用できないものか、そうであってこそ、よりコンテンツの価値も高まる、このような発想もあっていいだろう。
ここで、いきなり飛躍していえば、グーグルブックサーチは、コンテンツ産業を衰退させるであろうか、いや、逆に活性化させるであろうか。その根底的な問いかけのなかに、NDLのデジタルコンテンツの有効利用の問いかけもある、と考える次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
NDL(国立国会図書館)のオンラインサービスを考えていくと、最終的にいきつくところは、そのコンテンツは、いった誰のものであるのか、というあたりに行きそうである。
あらかじめ、ことわっておかねばならないのは、誰のものであるのか、ということと、何のために利用可能であるのか、ということは、とりあえず別の問題である。しかし、密接に関連する。
NDLのコンテンツという視点から見た場合、それは、国民のものだろう。少なくとも、いまの常識的判断からするならば。国家のものであるというよりも、主権者たる国民のものであり、それを集中的に管理する機関として、NDLがある……というのが、大方の理解であると考える。
ならば、誰でもが、それを使えるか。もちろん使える。利用規程によって、国民のすべてにひらかれている。
だが、これは、基本的に「本」に限られる。(保存が重要である貴重書もあるが、これも、基本は、公開と考えておくべきであろう。本来は公開しなければならないが、保存のために、あえて非公開の手段をとらざるをえない。)
では、それが、デジタルコンテンツとなった場合、国民すべてに、ひらかれているか……となると、問題が多い。もちろん、著作権の問題がからんでくるからである。
ところで、パブリックドメインのものがある。著作権のきれたもの、である。著作権のきれたものについて、たとえば、近代以降の出版物であれば、何も近代デジタルライブラリーばかりではない。他に、デジタル画像のコンテンツのサイトはある。
例:うわづら文庫
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/uwazura.html
それから、貴重書画像データ。特に浮世絵のたぐい。これにあまりに厳格な利用規程をあてはめるのはどうであろうか。版画である以上、同じものが、日本・世界に存在する。いくら、国会図書館が、厳重にガードしたとしても、ほぼ同一内容のものが、海外の美術館・博物館で、自由に利用可能、ということもないではない。まったく自由とまではいかなくても、かなり自由で、商業的利用も可能となった場合、日本で制作のコンテンツは、取り残される。
ただ、日本国内で、国内の規定で、作っているにすぎない。だが、だれも、利用しない(いや、利用しようにもできない。)
それが、芸術・創造活動にかかわるものであるとして、まさに、今の我々の時代に生きて、生活のなかに活用されてこそ意味がある。所蔵という名のもとにおける死蔵におわっては、何の意味もない。
コンテンツは誰のものであるのか。著作権者がその著作権を守るためだけにあるものである。これもひとつの考え方であろう。
一方で、著作権はまもりつつも、そのコンテンツが、より社会の創造・表現活動を活性化する方向に利活用できないものか、そうであってこそ、よりコンテンツの価値も高まる、このような発想もあっていいだろう。
ここで、いきなり飛躍していえば、グーグルブックサーチは、コンテンツ産業を衰退させるであろうか、いや、逆に活性化させるであろうか。その根底的な問いかけのなかに、NDLのデジタルコンテンツの有効利用の問いかけもある、と考える次第である。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (4)公共性とは何か ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
この話題、Twitterでちょっと書いてみて、意外と重要と思うので、ここにも書きとめておく。
一般に、ビジネス利用と、公共利用と、対比的に語られることが多い。営利の出版社・書店と、図書館や大学、機関リポジトリなど。
だが、本当の対立軸は、あるいは、考えるべきは、公共性とは、みんなで共有すべき「Cultural Digital Heritage」とは何か、どうあるべきか、という視点からの議論ではないだろうか。
営利・非営利という対立軸から、こぼれてしまうのが、NPOという存在。利益をあげてもよいが、それを自己目的化してはいけない、というもの。その継続的存在のために、経費は必要。
「公表したものは共有財産」という方向の先には、「公共性」とは何か、という問題がよこたわっているように思える。いや、そのはずである。「公共性」という問題こそ、みんなで考える問題であるはずである。だれかえらいセンセイにきめてもらうことでも、政治家にまかせることでもない。
そして、これは、WEB上の集合知のあり方とも、関連してくる。
余談
Twitterでつぶやいて、考えるヒントをひろってきて整理して、ブログで、というサイクルが、定着するとうまくいきそうだ。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (3)校訂権など ― 2009-10-16
2009-10-16 當山日出夫
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」……この点で、一番、なやむのが、人文学では、古典籍の校訂・翻刻という作業、それから、写真複製などの場合。
日本の著作権で、校訂権は認定されていない、という点については、『漢字文献情報処理研究会』で、紹介されている。(のちほど、正式タイトル、巻・号を補足します。)
しかし、業界という言葉がわるければ、その専門分野の領域においては、まったく認めない、というわけにはいかない。本文校訂は、たかが一字をどう、現代の活字におきかえるか、だけで、その研究者の全存在がかかる、と言っても過言ではない。すべてがすべて、そうである、とはいえないが。
一般の著作者と同じように、50年、というには抵抗を感じるし、また、まったく認めないというのも、無理がある。ここで必要なのは、長尾先生の講演のなかにあった、学問的プライオリティを尊重しようという発想しかないと、思える。
どう考えても、『源氏物語』に、「紫式部」の著作権はない。(※「紫式部」としたのは、本当に、その人が、「いずれの御時にか~~」から全部、オリジナルに書いたとは、やや疑問が残ると思うから)。
だが、現行の『源氏物語』そう簡単に、デジタル化してしまう、ということはできない。校訂した、注釈を加えた人の権利が……どのようにあつかえばいいのか。
さらにややこしいのは、それが商業出版されている場合の、出版社の権利関係。
このあたり、グーグルブックサーチはどう考えているのだろうか。問題になるのは、はっきりとした著作物(代表的には小説など)の著作権。しかし、世の中の書物の多くには、グレーゾーンの権利がからむものが多数ある。
ついでに、この先の話。グーグルブックサーチが、「ブック」の次にむかうのは「アート」であるかもしれない。これに対抗できる、あるいは、準備ができているのは、アメリカとヨーロッパ。あるいは、別の意味で、韓国・中国など、であると見る。
日本はどうか。まだ、「グーグルアート」など、本格的に考えている人が、どれほどいるか。まだ、Europeanaについて、知っている人がどれぐらいか、という段階だろう。いきなり飛躍するが、「グーグルアート」をも視野にいれた議論をすすめていかないと、と思うのである。
だが、そんなに飛躍でもないだろう……Digital Cultural Heritage という視点から見れば、Googleの存在が、また、別の容貌を持って見えてくる。
當山日出夫(とうやまひでお)
「公表したものは共有財産」について (2)『古語雑談』など ― 2009-10-15
2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
當山日出夫
今私のてもとにある本。
佐竹昭広.『古語雑談』(平凡社ライブラリー).平凡社.2008
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl
この本、オリジナルは、1986年、岩波書(岩波文庫)。そして、最近、『佐竹昭広集』(第2巻、言語の深奥、にも所収、岩波書店、2009)。もとは、東京新聞の連載。
なお、この書名、「こごぞうたん」と読む。「雑談」と書いてあって、「ぞうたん」と読むのは、国文学(とあえて書く)のならわし。主に古語についての、いわば「かるい」随筆集である。しかし、決して内容とレベルは「かるい」ものではない。
この本、ことばの随筆集である。とはいえ、希代の碩学、佐竹昭広の著である。たんなる、最近の、テレビのゲーム番組のレベルなど、ではない。ひとつの項目の背景にある、膨大な研究の蓄積と学識……ことばについての日本語の研究者の「かがみ」となるべきものである。
著作権の問題はさておく。(本当は、この話しがメインであることは承知のうえで)。あと数十年後、もし、佐竹昭広の著作権がきれた時代がおとづれるとして、この本、どうなるだろうか。
たしかに、個々のとりあげられていることばについての記載を、バラバラにし、共有の知とすることは可能である。これについては、いまでも可能だろう。
だが、バラバラにしてしてしまった途端に、本としての『古語雑談』の意味がうしなわれてしまう。そして、このことを、私などのような人間は、もっとも、残念に思う。
もとは岩波新書である。かる~く、読み流せばいい。たしかにそのとおり。だが、その一方で、佐竹昭広が、この書を編むにあたっての、というより、新聞連載から新書本にするにあたっての、知のプロセス、あるいは、かたまりとしての知、というものが、重要であるように感じてならない。
いや、そうではないのだろう。上述のような感想をいだくように、私という人間は、教育されてきた(ここで、強いて恩師の名を列挙するまでもないだろうが)。
新聞連載である、バラバラにして、共有の知となるものであろう。それは、わかっている。だが、そこにに、そこはなかとない、なにがしかの抵抗感のようなものを感じる。あくまでも、『古語雑談』は、一冊の本として、読んで、それを通じて、佐竹昭広の学識に接し、ことばを考究することの深みを感じとりたい、そのような人間でありたい、とおもわずにはいられない。
学知の共有・公開という理念をかかげることに、私は基本的に賛成である。いや、そうであるからこそ、そのなかで、忘れ去られてしまっていくかもしれない、知のある時代のあるかたちというものを、忘れないでおきたい。
なお、これは、佐竹昭広の時代であるから、「本」になっているともいえよう。ある意味、理想をいえば、「うん、この程度のことなら知ってる、なんで、佐竹君が、わざわざ書くまでのこともないだろうに・・・」(妄言多謝)、という国文学という学知の世界の時代背景を感じ取ることができるかどうか。
書かれない知こそ、本当の知かもしれない。そして、それが、書かれないままで共有できていた、ある一群のひとびとがいた。(これは、今から見れば、非常に特権的な階級にはちがいないが)。そのような知の世界があったことが、まだ、かろうじて、なんとなくわかる最後の世代であるのかもしれない、と我ながら思う。(自慢ではない、誤解しないでほしい。ただ、そのような、時代と環境で勉強したということを、現代の、何がなんでも機関リポジトリ、という時代の流れのなかで、ふと思ってみたくなったのである。)
なお、私の生まれは、1955年。慶應義塾大学である。佐竹昭広とは、残念ながら何の面識も得ないままである。佐竹昭広、古代、万葉集から中世までの幅広い分野における、国語国文学者。京都大学。2008年没。『万葉集』を読むのに、専門家にとって今でも最もスタンダードな本のひとつ、塙書房版『万葉集』の校訂者でもある。
こんど、この塙書房版『万葉集』の完全デジタル化が刊行となる。これも、時代のながれ・・・『万葉集』は暗記するほどにおぼえてこそ『万葉集』、もうこんな時代ではない。
『万葉集』から『和漢朗詠集』へのはなしを、このつづきに、と思っている。
當山日出夫(とうやまひでお)
誤字・誤記訂正。あわてて書くとだめだな。2009-10-15
「公表したものは共有財産」について ― 2009-10-11
2009-10-11 當山日出夫
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
先日の、長尾真さんの講演「公表したものは共有財産」、をインターネットで視聴していた。
「科学における情報の上手な権利化と共有化」
http://symposium.lifesciencedb.jp/IPDS/
これについては、すでにコメントなど出ていることと思うので、特に、私が言うほどのこともないと思う。しかし、自分の考え方を整理する意味で、感想をしたためておきたい。
科学(あるいは、科学技術)において、公表したものは共有化すべきである、なにがしか権利が認められるとしても、それは、学問的プライオリティに限定すべきである、極論すれば、長尾さんの発言のなかには、このような趣旨がふくまれている。
あえて、異論を考えてみよう。
学術情報の流通をになってきているのは、大学図書館、公共図書館などの図書館、あるいは、出版社、ということはたしか。このとき、人文学系の学術情報はどうであるかといえば、現実には、零細企業としかいいようのない、小規模の出版社が大多数をしめる。営利をさほど要求されない(のかもしれない)大学出版会などは、例外とすべきではないか。
長尾さんは、データベースの著作権の例として、電話帳の事例を出していた。五十音順電話帳には、著作物性はないが、タウンページ(職業別)になると、データベースの著作物になる・・・こういうことだったかと記憶する。分類という操作が加わる。
ここで、人文学系の学術情報といっても、種々にわかれるが、「論文集」というかたちでの編集は、いったいどう考えるべきであろうか。単に、モノグラフ(個々の論文)を集めたものではない。人文学系専門書の場合、研究者と、専門の学術書専門の出版社(多くは零細企業)の編集者との、緊密なコミュニケーションのもとに生まれる。
個々の「論文」ではなく、「論文集」として編纂されたときの価値が生じる。いいかえるならば、あたりまえのことかもしれないが、編集のセンスと意図がそこにはある。そして、それが、強いメッセージでもある。著者が、なぜ、自分の論文から、ある論文を選び、逆に、ある論文は、あえて収録しないのか、ということも、人文学では、問題になる。(これは、「研究史」という視点からふりかえったとき、大きな問題になる。そして、人文学では、この「研究史」が重要である。)
学術論文といいっても、また、論文集といっても、一様ではない。特に、人文学系では、「編集」のもつメッセージが非常に強い。たしかに、論文が、公開されるメリットは非常に大きいのであるが、ここで、たちどまって、「学術書の編集」ということも考えてみたい。
そのうえで、共有の資源として、公開・共有の道筋を考えたい。
つづく
當山日出夫(とうやまひでお)
ジャンヌネー氏の朝日新聞の記事 ― 2009-09-12
2009-09-12 當山日出夫
国会図書館での、ジャンノエル・ジャンヌネー氏講演会、申し込みを忘れてしまっていたことは、前に書いたような気がする。
今日(2009-09-12)の朝日新聞の朝刊(大阪版)に、
グーグルのデジタル化構想批判
「英語優先 独占的状況に」
と題して、インタビュー記事(於、パリ)が、掲載。
読んでみると、やはり、書物のデジタル化そのものには否定してしていない。グーグルという一企業、それもアメリカの、英語をメインとして、に独占的にデジタル化されることへの懸念、と読める。
まあ、確かに、Europeanaのこともあるから、デジタル・ライブラリ、デジタル・ミュージアム、というのは、既定路線と認識していいだろう。問題は、では、誰が、どのように、それを実行するのか。
ところで、新聞にも、国会図書館での講演会はすでに満員であると書いてある。でも、連絡先の電話番号も記載。キャンセル待ちのため、ということか。
當山日出夫(とうやまひでお)
国会図書館での、ジャンノエル・ジャンヌネー氏講演会、申し込みを忘れてしまっていたことは、前に書いたような気がする。
今日(2009-09-12)の朝日新聞の朝刊(大阪版)に、
グーグルのデジタル化構想批判
「英語優先 独占的状況に」
と題して、インタビュー記事(於、パリ)が、掲載。
読んでみると、やはり、書物のデジタル化そのものには否定してしていない。グーグルという一企業、それもアメリカの、英語をメインとして、に独占的にデジタル化されることへの懸念、と読める。
まあ、確かに、Europeanaのこともあるから、デジタル・ライブラリ、デジタル・ミュージアム、というのは、既定路線と認識していいだろう。問題は、では、誰が、どのように、それを実行するのか。
ところで、新聞にも、国会図書館での講演会はすでに満員であると書いてある。でも、連絡先の電話番号も記載。キャンセル待ちのため、ということか。
當山日出夫(とうやまひでお)
グーグルブックス:米国著作権局長の反対意見 ― 2009-09-12
2009-09-12 當山日出夫
twitter
cityheimさん
http://twitter.com/cityheim/status/3912535346
国会図書館カレントアゥエアネス
米国著作権局長、Googleブックス和解案に反対
http://current.ndl.go.jp/node/14414
Computerworld
米著作権局長がグーグルの書籍検索サービスに関する和解案を批判
http://www.computerworld.jp/news/sw/161829.html?RSS
さて、この件、いろいろなことが言えると思うが、私の理解で整理するなら、
1.
書籍のデジタル化、このことには基本的に反対していない。
2.
反対している主な点は、書籍のデジタル化が、グーグルという一企業に独占されることへの懸念。
3.
それと、もう一つの点は、著作権者の事前の同意を得ずに、ということの問題点。
どうも、日本における、日本文藝家協会のような(あるいは、三田誠広のようなというべきか)とは、かなりスタンスが違うと思う。
ところで、朝日新聞の記事では、
この件については、
http://www.asahi.com/digital/internet/TKY200909050062.html
また、
【出版】出版界をめぐる様々な状況と対応 話をややこしくしているもの
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY200909090240.html
も、参考になる。日本の出版業界の制度疲労をかんがえないと、日本におけるグーグルブックス問題は、展望がないと思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
cityheimさん
http://twitter.com/cityheim/status/3912535346
国会図書館カレントアゥエアネス
米国著作権局長、Googleブックス和解案に反対
http://current.ndl.go.jp/node/14414
Computerworld
米著作権局長がグーグルの書籍検索サービスに関する和解案を批判
http://www.computerworld.jp/news/sw/161829.html?RSS
さて、この件、いろいろなことが言えると思うが、私の理解で整理するなら、
1.
書籍のデジタル化、このことには基本的に反対していない。
2.
反対している主な点は、書籍のデジタル化が、グーグルという一企業に独占されることへの懸念。
3.
それと、もう一つの点は、著作権者の事前の同意を得ずに、ということの問題点。
どうも、日本における、日本文藝家協会のような(あるいは、三田誠広のようなというべきか)とは、かなりスタンスが違うと思う。
ところで、朝日新聞の記事では、
この件については、
http://www.asahi.com/digital/internet/TKY200909050062.html
また、
【出版】出版界をめぐる様々な状況と対応 話をややこしくしているもの
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY200909090240.html
も、参考になる。日本の出版業界の制度疲労をかんがえないと、日本におけるグーグルブックス問題は、展望がないと思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
「紙」の効率性 ― 2009-09-11
2009-09-11 當山日出夫
この件、twitterで、sentanさんの投稿による。
【デジフジcolumn】zakzak転載で考えたネットの重要性と「紙」の効率性
http://www.zakzak.co.jp/digi-mono/internet/news/20090910/net0909101621000-n1.htm
一部、引用する。
>>>>>
紙は有料、ネットは無料で、読者に不公平が生じるとの指摘については、「効率」という観点から答えたい。たとえば、ある日の夕刊フジの記事を1面から最終面まで一通り読むとする。「紙」の夕刊フジなら、ざっと目を通すのにせいぜい10分。じっくり読んでも1時間ほどだろう。だが、同じ量をzakzakで読むとすると、見出しをクリックしたり、場合によってはリンク先に寄り道したりして、1-2時間はあっという間に経つ。「紙」は「ネット」より圧倒的に効率が高いのだ。
<<<<<
これは、一概に一般化はできない。
だが、経験的にこういうことはある。あることについて、確かあの本のあのあたりに書いてあったが……という場合、紙の本の方が、探しやすい場合もある。
これがデジタルだと、ファイルがバラバラになっていると、検索でもたいへん。本でも、テキストデータではなく、画像だったりすると、絶望的。このPDFの画像データのあのあたり、なんて憶えているはずがない。紙の本であれば、体(手)と眼で、肉体的な感覚として、あのあたりと憶えているものである。
グーグルブックスをめぐる議論で考えなければならないことは、読書という行為の身体性、そして、紙であるがゆえの効率性、である。紙の本の魅力を、出版社は、アピールすべきだろう。
写真でも、印画紙のプリントと、印刷と、ディスプレイ(デジタル画像)とでは、画像処理が異なる。どのようなメディアで見せたいのか、表現したいのか、著作権者は、発言すべきではなかろうか。
著作権という利権「カネ」の問題も需要である。しかし、そうではなく、私の作品は、紙の本で、そして、この装丁で、読んで欲しい……このような要求があっていいと、私は考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
この件、twitterで、sentanさんの投稿による。
【デジフジcolumn】zakzak転載で考えたネットの重要性と「紙」の効率性
http://www.zakzak.co.jp/digi-mono/internet/news/20090910/net0909101621000-n1.htm
一部、引用する。
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紙は有料、ネットは無料で、読者に不公平が生じるとの指摘については、「効率」という観点から答えたい。たとえば、ある日の夕刊フジの記事を1面から最終面まで一通り読むとする。「紙」の夕刊フジなら、ざっと目を通すのにせいぜい10分。じっくり読んでも1時間ほどだろう。だが、同じ量をzakzakで読むとすると、見出しをクリックしたり、場合によってはリンク先に寄り道したりして、1-2時間はあっという間に経つ。「紙」は「ネット」より圧倒的に効率が高いのだ。
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これは、一概に一般化はできない。
だが、経験的にこういうことはある。あることについて、確かあの本のあのあたりに書いてあったが……という場合、紙の本の方が、探しやすい場合もある。
これがデジタルだと、ファイルがバラバラになっていると、検索でもたいへん。本でも、テキストデータではなく、画像だったりすると、絶望的。このPDFの画像データのあのあたり、なんて憶えているはずがない。紙の本であれば、体(手)と眼で、肉体的な感覚として、あのあたりと憶えているものである。
グーグルブックスをめぐる議論で考えなければならないことは、読書という行為の身体性、そして、紙であるがゆえの効率性、である。紙の本の魅力を、出版社は、アピールすべきだろう。
写真でも、印画紙のプリントと、印刷と、ディスプレイ(デジタル画像)とでは、画像処理が異なる。どのようなメディアで見せたいのか、表現したいのか、著作権者は、発言すべきではなかろうか。
著作権という利権「カネ」の問題も需要である。しかし、そうではなく、私の作品は、紙の本で、そして、この装丁で、読んで欲しい……このような要求があっていいと、私は考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
緊急シンポジウム「日本版フェアユース導入の是非を問う」 ― 2009-09-08
2009-09-08 當山日出夫
この件、Twitterで、tsysobaさんからの情報。
緊急シンポジウム「日本版フェアユース導入の是非を問う」
http://d.hatena.ne.jp/ikegai/20090908/p1
開催趣旨から前半を引用する(これは、フェアユース、だと思う)
>>>>>
近年のデジタル化の進展に伴い、著作権制度のバージョンアップが進められています。特に、日本では著作権政策を決定する文化審議会において、著作権保護の例外を柔軟な形で定める、いわゆる「日本版フェアユース」の導入に向けての議論が進められています。今年度内には最終的な結論が出される可能性が高い中、国際的な調和と日本固有の文脈の双方を鑑み、著作権制限規定の在り方を具体的に決めていかなければならない段階にあります。
<<<<<
日時:9月17日(木)18:30-20:30
会場:慶應義塾大学三田キャンパス東館6F G-Sec
※事前申し込みが必要。上記URLから見てください。
パネリストは、以下のとおり、
福井健策氏(骨董通り法律事務所弁護士・ニューヨーク州弁護士)
津田大介氏(MIAU代表理事、ジャーナリスト)
水越尚子氏(TMI総合法律事務所弁護士・カリフォルニア州弁護士)
Michel C. Ellis氏(Motion Picture Association[MPA]アジア太平洋地域プレジデント)
金正勲氏(モデレータ、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授)
以下、私見。
グーグルブックスをめぐって、いろんな議論がある。著作権は、確かにその権利者をまもる。だが、その一方で、自由につかってよいものに制限を加えるような行為は、この法律の趣旨に反していると、私は考える。ひとは、フェアユースでつかえるものを、自由につかう権利がある。
當山日出夫(とうやまひでお)
この件、Twitterで、tsysobaさんからの情報。
緊急シンポジウム「日本版フェアユース導入の是非を問う」
http://d.hatena.ne.jp/ikegai/20090908/p1
開催趣旨から前半を引用する(これは、フェアユース、だと思う)
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近年のデジタル化の進展に伴い、著作権制度のバージョンアップが進められています。特に、日本では著作権政策を決定する文化審議会において、著作権保護の例外を柔軟な形で定める、いわゆる「日本版フェアユース」の導入に向けての議論が進められています。今年度内には最終的な結論が出される可能性が高い中、国際的な調和と日本固有の文脈の双方を鑑み、著作権制限規定の在り方を具体的に決めていかなければならない段階にあります。
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日時:9月17日(木)18:30-20:30
会場:慶應義塾大学三田キャンパス東館6F G-Sec
※事前申し込みが必要。上記URLから見てください。
パネリストは、以下のとおり、
福井健策氏(骨董通り法律事務所弁護士・ニューヨーク州弁護士)
津田大介氏(MIAU代表理事、ジャーナリスト)
水越尚子氏(TMI総合法律事務所弁護士・カリフォルニア州弁護士)
Michel C. Ellis氏(Motion Picture Association[MPA]アジア太平洋地域プレジデント)
金正勲氏(モデレータ、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授)
以下、私見。
グーグルブックスをめぐって、いろんな議論がある。著作権は、確かにその権利者をまもる。だが、その一方で、自由につかってよいものに制限を加えるような行為は、この法律の趣旨に反していると、私は考える。ひとは、フェアユースでつかえるものを、自由につかう権利がある。
當山日出夫(とうやまひでお)
著作権のこと雑感 ― 2009-09-05
2009-09-05 當山日出夫
いま、著作権の問題、ある意味で議論の軸になりそうなのが、三田誠広。その一方で、電子図書館(長尾真)があり、グーグルブックスがある。というような構図を、とりあえず頭のなかで構築しておいて、あれこれと、WEBを見てみる。
ただ、次のような文章を読むと、これを書いた人(三田誠広)はバカであると断じるに、やぶさかではない。
「100年後も作品を本で残すために」――三田誠広氏の著作権保護期間延長論
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0707/25/news057.html
どこがどのようにバカであるかは、これから、(時間があれば)論じていきたい。しかし、このブログを読んでいるほどの人なら、わざわざ説明は不要かもしれないが。
WEBとデジタルの時代に、新しい出版ビジネス、コンテンツ流通のモデルを語ろう、この方がよっぽど生産的であり、また、頭脳の使い方としても健康的である。
100年前の本を今のわれわれは、そのまま読めるだろうか。明治の末~大正初期あたり。当時の「活字」を、現在のコンピュータ組版で、新字新仮名遣いにしたら、同一性保持権の侵害になる・・・かもしれない。
さらに1000年さかのぼってみれば、『源氏物語』。オリジナルがどのようなものであったかは分からないが、ともあれ、変体仮名をつかい仮名文字主体で書かれた仮名文を、現在の仮名字体に統一して、かつ、仮名表記の語に漢字をあてる、これは、どう考えても、同一性保持権(著作者人格権)の侵害ではないか。
この場合、平安時代、1000年前に著作権という法律がなかったのだから、遡及して考えるのはおかしいという反論は、無意味である。文化の継承と創造、そのためにこそ著作権がある、これが私の基本の考え方。この方向としては、校訂権とか、原本(写本・版本)の所蔵者の権利、ということを、考えなければならないはずである。
グーグルブックスは海賊版か、これは別に考えてみたい。
Copy & Copyright Diary
基本問題小委員会傍聴 2009年4月20日
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20090420/p1
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009-09-05
100年後の「本」を語るということは、同時に、100年後の「ことば」(日本語)を語ることもである。
いま、著作権の問題、ある意味で議論の軸になりそうなのが、三田誠広。その一方で、電子図書館(長尾真)があり、グーグルブックスがある。というような構図を、とりあえず頭のなかで構築しておいて、あれこれと、WEBを見てみる。
ただ、次のような文章を読むと、これを書いた人(三田誠広)はバカであると断じるに、やぶさかではない。
「100年後も作品を本で残すために」――三田誠広氏の著作権保護期間延長論
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0707/25/news057.html
どこがどのようにバカであるかは、これから、(時間があれば)論じていきたい。しかし、このブログを読んでいるほどの人なら、わざわざ説明は不要かもしれないが。
WEBとデジタルの時代に、新しい出版ビジネス、コンテンツ流通のモデルを語ろう、この方がよっぽど生産的であり、また、頭脳の使い方としても健康的である。
100年前の本を今のわれわれは、そのまま読めるだろうか。明治の末~大正初期あたり。当時の「活字」を、現在のコンピュータ組版で、新字新仮名遣いにしたら、同一性保持権の侵害になる・・・かもしれない。
さらに1000年さかのぼってみれば、『源氏物語』。オリジナルがどのようなものであったかは分からないが、ともあれ、変体仮名をつかい仮名文字主体で書かれた仮名文を、現在の仮名字体に統一して、かつ、仮名表記の語に漢字をあてる、これは、どう考えても、同一性保持権(著作者人格権)の侵害ではないか。
この場合、平安時代、1000年前に著作権という法律がなかったのだから、遡及して考えるのはおかしいという反論は、無意味である。文化の継承と創造、そのためにこそ著作権がある、これが私の基本の考え方。この方向としては、校訂権とか、原本(写本・版本)の所蔵者の権利、ということを、考えなければならないはずである。
グーグルブックスは海賊版か、これは別に考えてみたい。
Copy & Copyright Diary
基本問題小委員会傍聴 2009年4月20日
http://d.hatena.ne.jp/copyright/20090420/p1
當山日出夫(とうやまひでお)
追記 2009-09-05
100年後の「本」を語るということは、同時に、100年後の「ことば」(日本語)を語ることもである。
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