オンライン授業あれこれ(その二二)2021-05-03

2021-05-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月28日
オンライン授業あれこれ(その二一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/28/9341762

今年度(二〇二一)の前期も、オンライン授業ということになった。新学期がはじまって二回は、通常のとおり教室で話しをしたのだが、COVID-19感染症の拡大にともなって、私の担当している科目は、オンラインということになった。

オンラインといっても、オンデマンド方式。リアルタイムの送信ではない。すべての授業がオンラインになったのではなく、人数の多い科目を選んでそうすることになったので、リアルタイムのオンラインはできない。他の教室での授業の合間に、リアルタイムでPCに向かってというのは、無理である。あらかじめこちらが用意した教材を、学生が自分の好きな時間に視聴するということにならざるをえない。

ところで、これは、昨年からの懸案事項なのだが、学生のPC環境、インターネット接続環境が、劇的に改善されたという話しは、伝わってこない。昨年度は、オンライン授業をはじめるにあたって、学生のPC環境などが、まず議論になったと覚えているのだが、今年はそのような話しは伝わってこない。

これはどうしたことなのだろうか。

ほぼ一年がたって、学生の方も時代の流れに順応してきていると判断していいのだろうか。しかし、それを裏付けるような調査報告、アンケートの結果などは、目にしたことがない。おそらくは、かなり貧弱なままであるのではなかろうか。

ただ、昨年度の経験としては、オンライン授業でも教育的に一定の効果を得ることができる、これは、多くの教員が確信したことだろうと思う。無論、科目の性質によっては、違いはあるかもしれない。しかし、以前のように必ず教室で学生と一緒でなければならないということは、必ずしもあらゆる科目に必須ではないということは、大方の共通理解として成立してきたようだ。

これも見方を変えてみるならば、オンライン授業にしてついて来ることができない学生を切り捨てて考えているということである。通常の授業ができたからといって、出席率一〇〇%ということは、一般的にはありえない。(ごく少人数のゼミのようなものならあり得るかもしれないが。)

通常の授業をしたにせよ、オンラインになったにせよ、トータルで見て、ほぼ同じような割合で学生が授業についてきているということはいえるかもしれない。出席率、成績評価の結果として、だいたい同じようなことになるのならば、ということで、オンライン授業もまた一つの方式として、定着する方向にあるといっていいのだろうと思う。

少なくとも、オンラインになったからといって、劇的に良くなったとも、悪くなったともいえないのが、狭義の教育の実態だろう。

一方で、学生が大学のキャンパスに出てこないということで、相互の交流ができないなどの、マイナス面があることは確かにあるだろう。だからといって、すべての授業を教室で普通に行わなければならなないということにはならない。学生が、キャンパスに集まることができるだけのことは保証するとしても、大人数講義などはオンラインに切り替えても、特に支障があるということはない。

総合的に考えて、オンライン授業併用ということが、現実的なところかと思う。

これも、今後の、COVID-19感染症の成り行きいかんでは、キャンパスの閉鎖ということもありえないことではない。そのときは、そのときのこととして考えることにして、さしあたっては、オンライン(オンデマンド)ということで、すすめていきたいと思っている。

2021年5月2日記

『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子2018-10-08

2018-10-08 當山日出夫(とうやまひでお)

AI VS. 教科書が読めない子どもたち

新井紀子.『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』.東洋経済新報社.2018
https://store.toyokeizai.net/books/9784492762394/

話題の本ということで読んでみたものである。夏休みのはじめごろに読んだのだが、そのままになっていた。思うことをいささか。

第一は、AI(人工知能)に「シンギュラリティ」は無理である、という著者の主張に、納得できる。いやそうでではない、という人工知能研究者もいるかもしれないが、この本を読む限りでは、「シンギュラリティ」は無理である。

これは、私の専門の分野……日本語の文字ということになるが……そのコンピュータによる判読という研究領域と関係する。今、AIの技術をつかって文字、特に、古文書、古典籍などの、くずし字、変体仮名を読めるようにしようと研究がすすんでいる。

これに対して、私の思うところは、否定的である。人間は、文字だけを、図形だけを見ているのではない。文章を読んでいるのである。あるいは、ある書式を持った文書を読んでいるのである。文字の認識ということと、ことばの認識、さらには、文書の認識ということは、きりはなせない。

ただ、図形画像の認識技術だけをいくら向上させても、文章を、文書を、読めるようにはならないだろう。

第二は、この本のむしろメインで主張したいことであると思うのだが……昨今の、子どもたちの学力の低下である。文章が読解できない。問題が与えられても、その問題が分からない以前に、その問題文が理解できない。

近年の大学生の学力低下ということは、私も、狭い経験ながら、感じていることである。

一方で、人工知能は、東大の入試は無理でも、MARCHレベルの入試問題ならクリアできるところまで達している。では、このような時代の近い将来、子どもたちの教育はいかにあるべきか、ここのところが、この本の一番いいたいところであると理解して読んだ。

以上の二点が、この本を読んで感じたところである。

これは幻想なのであろうか……日本という国は、「教育」ということには、コストを惜しむ社会ではなかった……このようなイメージがあったのだが、それも、諸外国の事例など見ると、どうやらあやしいという感じになってきている。ともあれ、これからの日本にとって一番大事なのは、「教育」である。「教育」こそが、我が国の将来を決める。

この本、夏休みになって、試験の採点などが終わってから読んだかと憶えているのだが、「教育」ということの重要性をつくづくと感じたものである。

山本貴光『「百学連環」を読む』2016-10-14

2016-10-14 當山日出夫

山本貴光.『「百学連環」を読む』.三省堂.2016
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/books/100gaku/

これは、三省堂のHPに連載されたもの。この本のなりたち、また、評価については、すでに各所に出ていると思う。いつものように、個人的感想などいささか。

最低限のことを確認しておくならば、この本「百学連環」は、今から150年ほど前(明治3年)に、西周による講義。それを筆録したもの。それを、133回に分けて、ネット上に公開しながら、順番に読んでいった、その講義録のようなもの。この本の主題とすべきは、明治初期の「学問」の総体である。

さて、私がこの本を読んで感じたのは、次の二点。

第一には、デジタル化された知識を縦横につかっていること。筆者は、この本を書く(WEB上で連載する)にあたって、その手のうちを公開している。たとえば、洋学関係の資料をみるにあたっては、Google Books を参照したことなど、書かれている。

たぶん、この本は、インターネットにある様々なデジタル化された「知」がなければ書けなかったであろう。

第二には、しかし、それでもなお不十分な点を感じるとすれば、近世の蘭学資料とか、明治初期の啓蒙的著作について、調べが及んでいないと感じさせるところ。これは、ひとえに、まだこれらの資料がデジタル化されて、自在に検索できる状態になっていないからである。

簡潔に述べれば、上記の二点になる。つまり、この本は、まさに今の時代、21世紀の初めの10年頃、その時期における、『百学連環』の読書録である、ということである。これは、ある意味では、この本の限界である。だが、著者は、この限界を、はっきりと意識しているように思える。さらに、各種の資料がデジタル化されて検索可能になれば、近世から幕末・明治初期にかけて、西洋の学問が、どのように日本において、いや、当時の東アジアにおいて、受容されてきたのか、そして、考えられてきたのか、このようなことが明らかになるだろう。その時代は、ひょっとすると、かなり近未来におとづれるかもしれない。

だが、その時代を待たずに、今の時点で、できる範囲のことで読んでみた、このように私は感じながら読んだのであった。

たとえば、ウェブスターの辞書のデジタル版(テキスト版)が、各版ごとにそろえば、この本の調査は、もっと精密なものになるにちがいない。だが、とりあえず、著者の見ることのできる版において調べた範囲のことで、これだけのことは分かる。このようなことは、この本を読み進めていくうちに、おのづと納得する。

あるいは、福沢諭吉の著作の、その初期のものがデジタル化されていれば、明治初期における、西周の、また、福沢諭吉の、学術史的位置づけを、総合的に再検討することができるにちがいない。この本では、「惑溺」の語について、福沢への言及があるが、その全著作の語彙については、及んでいない。

このように、この本を読むと、現代の時代における「限界」を随所に感じる。しかし、その「限界」は、逆に言えば、これからの「可能性」でもある。この意味において、将来の研究の「可能性」を、読み取ることができよう。

そして、その「可能性」は、(たぶん、すでに言われていると思うが)、従来の学問の領域構成(文理の区別にはじまって、大学の学部・学科、あるいは、学会の成り立ち、など)を、つきくずすものになるにちがいない。

かつて、明治初期、まだ西洋の学問が日本に入ってきたばかりで、未分化の状態を読み解いている。それを、将来、デジタル化された各種ツールを駆使することによって、新たな学問のあり方を提言することができる……この「可能性」を強く示唆している本だと思うのである。

追記
著者名 まちがえていました。訂正しました。貴光でした。申し訳ありませんでした。

呉座勇一『一揆の原理』2016-07-06

2016-07-06 當山日出夫

呉座勇一.『一揆の原理』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2015(原著は、洋泉社.2012)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096975/

「文庫版あとがき」にこのようにある。

「戦後歴史学の著作は今や先行研究である以上に、「戦後」を知るための”史料”になりつつある。半世紀前の研究論文が現在の研究水準から見て不十分なのは当然で、そこをあげつらっても仕方がない。この研究者はなぜ、このような主張を展開したのか、という点こそを追求すべきである。中世史の研究者といえども、当時の政治・社会状況とは無関係ではいられない。史料を淡々と読んで、その成果をまとめたわけではなく、安保闘争やベトナム反戦運動、文化大革命などに触発されて論文を書いていた。つまり、彼らの論文には現実の政治・社会に対する問題意識が反映されているのだ。私は、昔の論文の中味以上に、その背景にある研究者の社会観に関心を持っている。」(p.249)

このような自覚のもとに、この文庫本は出ている。もとの本が出たのは2012年である。2011年の東日本大震災をうけて、そのときの政治・社会状況についての問題意識を色濃く反映したものになっている。しかし、筆者は、あえてそれをそのまま残して文庫化している。

まず、この本は、「竹槍一揆の歴史は十年間」からはじまる。

「皆さんは「一揆」と聞くと、どのようなものをイメージするだろうか。私が高校時代の同級生などに尋ねると、たいていは「農民が竹槍を持って悪代官を襲う」といった答えが返ってくる。おそらく、この漫画『カムイ伝』(白土三平著)的なイメージが一般的な一揆認識だろう。」(p.26)

「ところが、竹槍で戦う一揆が登場するのは、実は明治になってからのことなのである。」(p.26)

として、「一揆」の実態を、中世にもとめて、この本はすすんでいく。中世の一揆についての分析をふまえたうえで、著者は、このように記している。

「交換型一揆契状によって結成された一揆の、秘密同盟的な性質を見てきた。突飛な発想に思えるかもしれないが、このタイプの一揆が生み出す「人のつながり」は、現代のSNSが生み出す「人のつながり」に似通っていないだろうか。」(p.187)

「全体に公開するのではなく、相互認証に基づく特定の相手との信頼関係の醸成に重点を置く。一対一の人間関係の連鎖として大きな連帯の輪を広げる。フェイスブックをはじめとするSNSによって創り出された「人のつながり」は、非常に先進的な、二十一世紀的なあり方に映る。技術的にはその通りだと思うが、思想的には〈交換型一揆契状〉によって結成された日本中世の一揆の延長上に捉えることができるのではないか。」(pp.189-190)

「一揆の本質が偉大な革命運動ではなく等身大の「人のつながり」にあると知ることは、「ポスト3・11」を展望する上でも有益だと思う。他者への共感を欠いた頭でっかちの革命理論では、社会を変革することなどできない。」(p.192)

「(脱原発)デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない、ということが挙げられるだろう。/(中略)百姓一揆とは、「武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある」という「御百姓意識」に基づく待遇改善要求であるから、既存の社会秩序を否定するものではない。(中略)つまり百姓は”お客様”感覚で、幕府や藩といった「お上」のサービスの悪さにクレームをつけているだけなのだ。」(p.226)

「さらに言えば、デモ(強訴)という形式そのものが、現代の日本社会において有効性を失いつつあるのではないか。前近代の日本社会や現代の独裁国家においては、民意を政治に反映させる仕組みが他にないため、デモにもそれなりの意義がある。だが投票どころか選挙に立候補することさえ可能な現代の日本では、おのずとデモの効用は限定されざるを得ない。/現代の日本で革命や大規模デモが発生する可能性は極めて低く、万が一発生したところで、それによって財政問題や貧困問題などの諸々の社会問題がたちどころに解決するとも思えない。」(pp.227-228)

以上、引用が長くなったが、このようなこの本における筆者の意見には、賛否あるだろう。だが、最初の引用(文庫版あとがき)でしめしたように、歴史学の研究成果も、また、歴史的産物であるという意味においては、2011年以降のある時期の発言として、歴史に残る意義はあるであろう。

本書は、一揆についてのすぐれた研究書であると思うが、それ以上に、歴史学とは何であるか、歴史を書くとはどういうことか、を考えるきっかけになる本であると思う。

CiNiiで失うもの2016-07-03

2016-07-03 當山日出夫

あえてこういってみる。CiNiiで失うものがあるのではないか、と。

CiNii
http://ci.nii.ac.jp/

確かにCiNiiは便利である。ある意味では、勉強のあり方を根本的に変えてしまったとさえいえるかもしれない。しかし、だからこそ、それと同時に起こっている問題点も見逃すべきではないと考える。

参考文献リストの書き方である。

昔、私が学生のころであれば……なにかの課題について調べるとき、図書館でカードを繰って、そのテーマについて書かれた研究書をさがす。その本を見て、巻末についてい参考文献リストから、さらに本・論文をさがす。さらに、その本・論文の参考文献リストから、次の本・論文をさがす……このような方式で探したものである。(こんなことは、書くまでもないと思えることでもあるのだが、確認のため記しておく。)

このような方式で本・論文を探していくと、自分が見ている本・論文が、参考文献リストで、どのような書式やスタイルで書かれるか、実体験することになる。そして、このような過程を通じて、参考文献リストの書き方というのを、なんとなく、身につけていくことになった。

これで完全に身につくというわけではなく、やはり最終的には、自分でまとまった論文を書いたり、学会発表をしたりするときに、ある一定の方式で書くということを確認することにはなる。

しかし、CiNiiを使って論文を検索してしまう今の時代だと、上述のような体験……図書館で本を順繰りに探していく……を、学生はもつことができないですんでしまう。これはこれで、確かに便利になったことではある。だが、便利になったおかげで、参考文献リストの書き方を身につける機会をなくしているともいえる。

こう考えてみるならば、これからの大学教育において次のようなことは必要であろう。二つ考えてみる。

第一に、なるべく早い時期からの、アカデミック・ライティング教育。その中での、参考文献リストの書き方の指導である。これは、専攻分野によってちがう。日本史や日本文学などと、言語学や日本語学、さらには、心理学などで、それぞれのスタイルがある。これについて、違いがあることを前提として、その専攻分野での基本を教える必要がある。

第二に、CiNiiや図書館のオンライン検索の結果から、どのように参考文献リストを書くかのトレーニングである。検索結果を、そのままコピーしたのでは、参考文献リストにならない。スタイルをその専攻の方式にととのえて、さらに、並べてやる必要がある。並べる順番は、著者名順(あいうえお順・ローマ字順がある)、同一著者については、その中を刊行年順にする。

この並べ替え、参考文献リストの整理などには、エクセルを使うのが適当だろう。文学や歴史の勉強などで、表計算機能としてのエクセルを使うことはないかもしれないが、参考文献リストの整理には、非常に役にたつ。このような場面で、エクセルの操作に慣れ親しむというのも、ひとつのあり方だと思っている。

以上の二つのことを、これから考えていかなければならないだろう。

私は、CiNiiの悪口を言おうとしているのではない。その便利さを十分にみとめつつ、それをさらに活用する、新しいアカデミック・ライティング教育の方向を考えてみたいのである。

さらにいうならば、論文の評価、という観点もある。CiNiiでは、論文の評価とは無関係に、特定のキーワードでヒットする論文が、網羅的に検索できる。研究の中身を読んで、吟味して、というプロセスがない。このことの問題はあるが、ここでは、あえて特にいわなことにしておく。

また、東洋学における目録学・書誌学のように、学問の基礎にそれをおくものもある。このような立場からは、本がデジタルで検索できればそれでよい、というわけにはいかない。

世の中で、なにがしか便利になることはある。便利になったとき、その便利さのなかに安住することなく、それで、何が変わったのか、あるいは、失ってしまったものがあるのではないか、反省してみる視点を自らのうちに持つ必要があるだろう。

特にデジタルの時代になって、世の中のいろんな仕組みが大きくかわろうとしている。そこで、あえて立ち止まって考えてみる余裕と、新しいものを積極的に利活用していくこと、この両方が求められていると考える次第である。

電子書籍からの引用はどう示すか2016-06-24

2016-06-24 當山日出夫

電子書籍について思うことを書いてみる。

電子書籍の利便性については、いろんなところでいろんなひとが述べている。ここでくりかえすまでのこともないだろう。ここでは、私が困っていることについてしるしておきたい。

それは、「引用」と「典拠」のしめしかたである。

論文やレポートを書く。そのときに、引用・出典ということが重要になる。これは、紙の本についてであれば問題はない。さまざまな流儀があるとはいえ、これまでの各研究分野における、習慣というか、伝統的なスタイル、とでもいうべきものがある。

これが、電子書籍になるとどうか。

引用はできる。PCで見ているにせよ、Kindleなどの専用デバイスで見ているにせよ、とにかく、内容を書き写す(コピー)することは、紙の本と同様である。

では、次に、この出典を注記しようとしたとき、どうすればいいか。このときになって、はたと困ってしまうのである。ページが書けないのである。

いうまでもないことだが、電子書籍には「ページ」の物理的概念がない。本文のデータがあって、それをディスプレイに表示する。そのとき、文字の大きさにあわせて、ディスプレイの表示文字数は変化する。リフローするのである。引用して、その典拠・出典としての、どの本の何ページと、確定的に指示できないのである。

これは、論文・レポートを書くとき、致命的に困ることだと思うのだが、はたして、ひとはどう思っているのだろうか。

たとえば、私のKindleには、「角川インターネット講座」(全15巻、合本版)がいれてある。(安かったから買ったのだが、今、確認してみると、値段があがっている。買ったときの値段を確認してみると、2700円だった。)

ともあれ、この本から何か引用しようとしたとき、本文をディスプレイ表示を見ながら書き写すのはいいとしても、その典拠・出典を書かねばならなくなったとき、困ってしまう。ページ番号が書けないのである。これでは、引用することができない。これでは、私が書く文章……論文とまではいわなくても、このようなブログに引用することもできない(少なくとも、典拠を明示して書こうとするならば。)

引用できないということは、学生の勉強につかえない、少なくとも、論文やレポートを書くときの参考文献としては利用できない、ということになる。論文やレポートでは、引用した箇所については、かならずその典拠をしめさなければならない。これは、アカデミックな世界における決まったルールである。そして、しめされた典拠にしたがって、その論は検証できなければならない。

電子書籍の利便性について語られることは多いが、上記のような問題点については、あまり言及されることがないように見ている。はたして、この問題、どのように考えればいいのだろうか。

プレゼンのUSBメモリの注意点2016-06-10

2016-06-10 當山日出夫

学生に、プレゼンテーションを教えている。具体的には、パワーポイントをつかっての実習である。学生に、実際に、教室の前にたって発表をやってもらう。

教室の前の教員用のパソコンを使う。そのマシンで、パワーポイントの画面を見ると同時に、同じ画面が、プロジェクタでスクリーンに映し出される。

このとき、学生は、パワーポイントのスライドのデータをUSBメモリでもってくる。これは、普通のことだろう。だが、その時、ことさらに注意していることがある。

たいていの学生は、プレゼン用のスライドデータを、その他のデータ(他の授業のものなど、いろんなフォルダや、文書ファイルのデータ)と一緒に持ってくる。そして、その画面(USBメモリをパソコンにセットして、開いて見た画面を、プロジェクタで、みんなに見せてしまう。しかも、なかには、いったいどのファイルだったかわからなくなって、まごつくような学生もいる。)これを、私は、注意することにしている。

これは、今の時点で教室で見ているのは、学生と教師(私)だけであるからいいようなものの……これが、卒業してから就職して、企業の仕事で、外に出てプレゼンテーションしなければならないような場面だったら、基本的にダメだということにしている。

理由は、次の二つ。だいたい次のようにいう。

第一に、会社の自分の業務で作っているような書類のデータがどんなであるか、それを社外の人に見せてしまっていいと、思いますか。発表している人の会社は、会社のデータを、社員が勝手に外に持ち出している……そんな危惧を、見ているひとはいだくかもしれない。そのような会社が信用されると思いますか。

あるいは、会社の仕事のデータと、個人のデータとを、区別しないで、ひとつのUSBメモリにいれて、持ち歩いているようなことは、企業倫理として、許されることでしょうか。

第二に、もし、そのUSBメモリを紛失したりしたらどうするんですか。貴重な他のデータも、消えてしまうことになる。そんな危険をおかしていいのでしょうか。

実際、大学のコンピュータ教室で困ることのひとつ、USBメモリ(かつては、フロッピーディスク)の忘れ物である。これは、キャンパス内の忘れ物の担当の部署にとどけはするものの、その後、どうなるかは、関知するところではない。

だいたい以上のようにいう。そして、発表のときには、その発表で必要なデータ(パワーポイントのスライド)だけをいれた、USBメモリを用意してきて、それを使うようにしなさい、ということにしている。

それでも、たいていの学生は、この注意点をきかないで、あいかわらず、他のもろもろのデータと一緒に持ってきて、そのフォルダをひらいた画面を、教室でみんなに見せて平然としている。

しかし、この前、私の注意にきちんとしたがった学生がいた。発表のスライドのデータだけをいれたUSBメモリを準備してきた学生である。

プロジェクタで映し出された画面には、ぽつんとひとつだけ、その日のプレゼンテーション用のスライドファイルがあるだけ。これは、非常な安心感を与えてくれる。(少なくとも、私には。)

話しを聞くと……大学生になってからずっと、ある大手の宅配の業者のところでアルバイトをしていたとのこと。たとえば、配達の時間を厳守する、お客様には常に笑顔で接する、代引きなどの金銭管理は厳格に、など。たぶん、その宅配のアルバイトの仕事のなかで、企業のコンプライアンスが身についているのだろう、と感じさせた。宅配業というのは、各種の個人情報にかかわる業務である。したがって、そこでの企業倫理は、厳然としたものがあるだろう。

学生が成長するのは、なにも大学のキャンパスのなかでだけとは限らないといってもよいかもしれない。大学生であることの意義は、様々な可能性の時間をあたえてくれることにある。

いや、本来は、大学の教育のなかでおこなわれるべきことなのかもしれないが。

大学生のコンピュータリテラシの今2016-06-08

2016-06-08  當山日出夫

去年から、担当する授業を整理することにした。具体的には、コンピュータ操作の入門の授業を一つ辞めることにしたのである。

理由は主に次の二つである。

第一には、もう自分も年をとってきたので、そろそろ辞めにしたいという気になったことである。

一般の大学などにおける定年の年齢までには、まだ余裕がある。しかしである、大学生にコンピュータを教えるといっても、その大学生が生まれたのは、昔、Windows95が出てからのことになる。ものごころついたころには、身のまわりに、インターネットにつながったパソコンがあった世代である。その世代の学生を相手にして、Windowsはおろか、MS-DOS以前からパソコンを使っている人間が、もはやものを言う時代でもないだろうと思う。

大学生のコンピュータリテラシは、確かに向上している。もう、大学でWordやExcelの基本操作など、教えなくても、大丈夫だろうという気になっている。

第二には、これとは、まったく逆になるが、大学生のコンピュータリテラシが低下しつつあるので、ついていくのがつらくなってきた、ということにある。

その原因は、スマホ(スマートフォン)である。スマホひとつあれば、コンピュータでできることの、かなりのことをやってしまえる。私は実見したことはないが、スマホでレポートを書いてしまう学生もいるという。このような学生を相手にして、WindowsやWordの基本操作を教えるのは、骨がおれる。

以上、二つの理由。相反することがらであるが、これらのことが同時進行で起こっている。このような状況にあって、もはや私などの出る出番ではないな、と実感するようになってきた。

大学生のコンピュータリテラシは、今、両極端に分化してしまっている。コンピュータを使いこなす学生と、それができないでいる学生とにである。これから、大学生に対するコンピュータ教育は、どんどん難しいものになっていくにちがいない。その前に、私は、もう辞めようとと決断したことにになる。

それよりも、本がよみたいと思うようになった。(だから、このブログを再開してみたということもあるのだが。)

電子書籍とWalkmanのこと2016-06-07

2016-06-07 當山日出夫

大学に行って、授業までの時間、何をしてすごすか。

以前、若い時ならば、持って行った本を読む。あるいは、その大学の図書館で調べ物をしたり、書庫のなかをぶらついてみたりしたものである。それが、だんだん年をとって、目の調子が悪くなってくると……はっきり言えば老眼であるが……紙の本を読むのがつらくなってきた。

そこで、電子書籍を読むことになった。これは、文字が大きくできるので、老眼になっても楽である。

電子書籍端末、はじめのころに買って使っていたのは、ソニーの、Readerである。

これで、かなりの本を読んだと思う。夏目漱石の、その当時の段階で手にはいる主な作品は読んだ。たぶん、今でも、文庫本などで読める作品のほとんどであると言ってよいだろう。それから、藤沢周平の作品のかなりを読んだりした。

だが、ソニーは、Readerの新規開発を中止してしまった。電子書籍(デジタルデータ)の販売はつづけるが、電子書籍端末(ハードウェアの方)は、もう新しいのが出なくなってしまった。

まだ、Readerは使えるのだが、新規機種が出なくなってしまったら、ここで、乗り換えるしかないかなとも思った。そこで、次に買って(今でも使っているのは)Kindleである。

結局、夏目漱石の作品は、かつてのReader用にダウンロード(購入)したのとは別に、Kinedle用に、新たに購入することになった。もちろん、Amazonからである。(このあたりの事情については、また、改めて考えてみることにする。)

そして、今では、電子書籍を読むのもつらくなってきた。もっぱらWalkmanで、音楽を聴いている。iPodももっているのだが、Walkmanの方が音質がいい(ように感じる。)

一時間ほどの休憩時間である。リラックスできるのがいい。それには、何よりも、「わかりやすい」こと、である。いわゆる歌の上手/下手というのとは別の次元の話しである。

しかし、家に帰って、自分の部屋(書斎)でゆっくりしたいような時には、Bill Evans など聞くことが多い。Bill Evans あたりのジャズになると、ちょうど私が学生のころ、深夜のFM放送「アスペクト・イン・ジャズ」などで、よく聞いていた。この意味では、私にとっては、懐かしのメロディということになる。

普段きいている音楽のことなど、またあらためて。

エディタで文章を書く:現代の筆墨として2016-06-06

2016-06-06 當山日出夫

私は文章を書くのは、エディタである。ワープロ(一太郎やWord)の文章を書くときでも、まず、エディタで書いて、それをコピーするのが基本。ただ、図表とかはいったものの場合には、直接ワープロ編集画面で書くこともあるが、それは例外に属する。特に、自分でものを考えながら文書を書く、あるいは、書きながらものを考えていきたいような時には、エディタになる。

何故だろう。

第一には、エディタの編集画面の方がシンプルで、余計なこと……文字(フォントを何をつかうとか、そのサイズをどうするとか)、文書の修飾的な要素(タイトルをセンタリングするとか)、いちいち気にしなくていい。ただ、文字を入力するだけである。

第二には、この裏返しであるが、ワープロを使わない理由としては、編集機能が多すぎて、文章を書くのにかえって邪魔になる、ということがある。

しかし、エディタで困ることが無いではない。禁則処理をしてくれないことである。禁則処理というのは、行頭や行末にくる、「 や 、 。 など、適当に次の行におくったりする機能のこと。

これは、ある意味でシンプルに文章を書くときには、あえて気にしないということで割り切ってしまえば、それでいいのかもしれない。私も、そのような気持ちで文章を書いているときもある。

ところで、電子メールの文章はどうだろうか。

これには、流儀が二つ(あるいは三つ)あるようだ。

第一には、改行から改行まで連続した文字列にする。メールソフトの閲覧画面で、ウィンドウの右端で文字が折り返されるまでを一行になるように書く。言い換えるならば、余計な改行をいれないという主義。

第二には、読みやすいようにという配慮からか、だいたい30字ぐらいのところで改行をいれて書くという方式。この方式で書くひとも多い。見た目の印象としては、文章の右端がデコボコした感じになってしまう。

第三には、(これが私の採用している方式)エディタで、70字(全角文字なら35字)の設定にしておいて、書く。この時、禁則処理をしてくれるエディタを使う。具体的には、私の場合であれば、WZEditor(Ver.9)である。

このエディタ、便利な機能として、「テキストを改行付きテキストに」変換してくれる。つまり、画面の見た目どおりに、右端に自動的に改行を挿入した文書に整形してくれるのである。

これをコピーして、メールソフト(Outlookなど)の編集画面に持って行く。

70字(35字)で改行するというのは、昔のパソコンの時代からの習慣のようなものでもある。昔のパソコン(PC-9801)は、画面の一行が40字の表示機能であった。したがって、35字程度で書くと、ちょうど、読みやすく画面におさまる。

また、経験的にも、30字ぐらいで改行されるのが、読みやすいし、書きやすい。あまりに一行が長いのも、短いのも、判読しづらい。

ところで、今、この文章を何で書いているかというと、WZWriteで書いている。まあ、エディタに、ちょっとワープロ的要素をとりこんで編集できるようにしたものと考えておけばいいか。でも、私は、エディタとしてしか利用していない。

画面の設定はいたってシンプルにしている。濃紺の背景色に、黄色の文字(MSゴシック)という設定である。こんな画面の設定でつかっているというのも、昔からのパソコンのイメージがあるせいかもしれない。

私の記憶でいえば、ワープロの編集画面が、白い背景に黒い文字……紙にプリントしたのに近い……になったのは、一太郎(ジャストシステム)あたりからではなかったかと思う。松(管理工学研究所)などは、逆に、黒っぽい画面に、たしか黄色の文字であったように記憶している。

エディタやワープロを何を使うか、どのような設定で使うか、また、日本語入力は、どのシステムを使うか(私は昔からATOKである)、など。さらには、ディスプレイの機種(私はナナオいや今ではEIZO)、キーボードの選択(私は東プレ)、など、これは、現代における、筆墨論議なのかもしれないと思っている。

しかし、エディタでも、ワープロの編集画面でも、実際に紙にプリントアウトすると違ってくる。また、同じテキストであっても、見る環境(どのようなエディタで、どのようなフォントの設定で見るか)によっても、違ってくる。このことは、以前に、どこかに書いたことでもある。現代のテキスト論、文字論の課題でもある。

追記
70桁(半角70字)だと、35字(全角)になる。まちがっていたので、訂正。まあ、だいたい30~35字ぐらいが、書きやすい。