「100分de名著」『ブルデュー ディスタンクシオン』岸政彦2021-01-30

2021-01-30 當山日出夫(とうやまひでお)

ディスタンクシオン

岸政彦.『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』.NHK出版.2020
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231202020.html

実は、『ディスタンクシオン』は買ってもっている。おそらくNHKのこの番組にあわせたのかもしれないが、昨年、新しい版で廉価版として刊行になっている。これを読もうと思って買ってはあるのだが、その前に予習というような意味で、こっちの本を読んでみた。

ただ、私は、NHKの番組は見てはいない。これはそのテキストである。しかし、良く書けていると思う。

第一に、ブルデューの生いたちからはじまって、『ディスタンクシオン』の概要が簡潔にまとめてある。

第二に、その批判についてどう考えるかが、それぞれの論点について、手際よくまとめてある。

以上の二点をきちんとふまえているし、全体として大部なものではない。あっさりと読めてしまった。(後は、覚悟を決めて『ディスタンクシオン』を読むということになる。)

さらに思ったことを書いてみるならば、次の二点があるだろうか。

第一に、自分はどのような環境に生まれ育った、どのような教育をうけてきた人間なのか、自らを知るという視点を与えてくれるところにある。キーワードとなるのは、「文化資本」である。これを一種の決定論と考えるのではなく、自分自身が何であるかを考える手がかりとしているのが、この本の特徴といっていいのかと思う。

第二に、まさに「文化資本」であるが……結局は、このような本を読むような人間、あるいは家庭環境であるか、あるいは、そうでないのか……このあたりのことが、まさに「文化資本」として現れてくることになるのだろうと思う。『ディスタンクシオン』が廉価版で出たので買っておこうという人間と、そうではない人間の違いといってもいいかもしれない。

以上のようなことを思って見る。

『ディスタンクシオン』のこと、また、「文化資本」ということばは知っていたが、これまであまり考えてみたことはなかったことでもある。いやあるいは、むしろ、自分のこれまでの人生は、ある意味で「文化資本」をどう意識するかということもあったかと思うところがないではない。この本を読んで、自らの過去を顧みて、自分はいったい何であったのか、これから何であり得るのか、さまざまに考えるところがある。

2021年1月29日記

『民主主義とは何か』宇野重規2020-12-17

2020-12-17 當山日出夫(とうやまひでお)

民主主義とは何か

宇野重規.『民主主義とは何か』(講談社現代新書).講談社.2020
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324372

出たときに買っておいて、しばらく積んであった本である。ここしばらく、太宰治を集中的に読んでいた。

これが「話題」の本であるとは思っていた。いうまでもなく学術会議の一件である。

この本を読んでみての感想としては、この本の著者である宇野重規を学術会議に入れなかった判断を下したの誰であるかは知らないが、しかし、その人物について、ある意味で畏敬の念を感じるところがある(無論、皮肉をこめてであるが)。なるほど、このような本を書くと、学術会議から排除されるのか。ならば、排除されずにメンバーになっている学者は、曲学阿世の御用学者ばかりか……ふと、そんなかんぐりをしたくなってくる……だが、問題の本質は、そこのところが不明瞭なままである点にある。基準が不透明なのが、一番の問題点だと思う。

それはともかく、この本は面白い。「民主主義」という日常的に使っていることばであり、あるいは、その中に生きているはずの社会の制度である。それについて、民主主義とはどのような歴史があり、実際に運用するにあたっては、どのような課題があるのか、実に丁寧に分かりやすく説明してある。きちんと手順をふんで、ものごとを丁寧に考えていくとはこういう知性のあり方をしめすのである、その見本のような本である。

もし、私が、まだ若くて……高校生ぐらいであって、この本を読んだとしたら、将来の自分の進路として、法学部を選び、政治思想、政治学をこころざしたかもしれない、そんな気にもなってくる。この本は、特に若いひとに読んでもらいたいと思う本である。これからの日本の「民主主義」は、これからの若いひとがになっていくものである。

そろそろ年末である。この年のベストがいろいろ発表されるころかと思うが、この本は、かならずどこかで取り上げられるにちがいない。

2020年12月14日記

『フランス革命についての省察』エドマンド・バーク/二木麻里(訳)2020-09-24

2020-09-24 當山日出夫(とうやまひでお)

フランス革命についての省察

エドマンド・バーク.二木麻里(訳).『フランス革命についての省察』(光文社古典新訳文庫).光文社.2020
https://www.kotensinyaku.jp/books/book329/

この本を読んでいるとき、日本の政治はというと……八年にわたった安倍政権がおわることになり、次の自民党総裁をえらぶことになった。そして、その結果は、菅義偉が決まった。このような政治状況のなかで、この本を読んだことになる。

率直な感想を言えば……日本の政治家のなんとだらしないことか、という思いである。

ともあれ、この本は、フランス革命に際して、英国から見てそれをどう思うか、考察を加えたものであり、英国保守思想を体系化した書物として、古典的な位置をしめる本である。ひととおり、このようなことは知っていたが、読むのは、これが初めてになる。(たしか、中央公論社の『世界の名著』のなかにはいっていたかと思うが、これはしまい込んだままになっている。)

保守思想とは何かということについては、今更のべるほどのこともないだろう。以前に、少しだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月1日
宇野重規『保守主義とは何か』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/01/8122012

ただ、今回、『フランス革命についての省察』を読んで思うことを記しておくならば、次のことがある。それは、バークがこの本を書いたとき、英国は、立憲君主制を確立しており、まがりなりにも、民主的な制度がととのった状況にあったということである。そのような英国から見て、フランス革命の行きすぎた点、不十分な点、問題点などを、冷静に観察している。そのような批判ができるというのも、その時点に英国における政治制度の熟成ということを、考えておくべきであろう。

この本を読みながら、あえて付箋をつけることはせずに読んだのだが、一箇所だけ注目しておきたいところを引用しておく。

「社会の構成メンバーの利害も多様になれば、さまざまな秩序とさまざまな見方ができて、その数が多いほど社会一般の自由にとっては保障になるのです。」(p.77)

今、社会の多様性ということが、各方面から言われている。このとき、多様な意見を尊重し、耳を傾けること……これこそ、保守主義の最も重視することである。すくなくとも、真性の保守主義者であろうとするならば、このことに十分に配慮しなければならない。

保守を自認するする人、組織、政党などは多いかもしれないが、そこに、多様な意見の尊重という観点が、どれほどあるだろうか。それを欠くような考え方については、私は、保守とは言いたくない。

この本は、保守主義の古典的著作ではあるが、むしろ、リベラルといわれる立場にとっても、非常に有意義なものとなっていると感じる。どのような政治的立場をとるにせよ、熟読する価値のある本であることはまちがいない。

2020年9月16日記

『唐牛伝』佐野眞一2018-11-16

2018-11-16 當山日出夫(とうやまひでお)

唐牛伝

佐野眞一.『唐牛伝-敗者の戦後漂流-』(小学館文庫).小学館.2018 (小学館.2016 加筆)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09406579

文庫版になって、かなり加筆してある。今、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる(岩波文庫版)。これを読んでいると、他の小説類を読もうという気がおこらなくなる。買ってはある作品はあるのだが、それはあとまわしにする。そして、『失われた時を求めて』を読む合間に、ノンフィクションということで、手にしたものである。

唐牛健太郎、60年安保闘争の時の、全学連委員長である。この作品は、その出自から、北海道大学への進学、60年安保とのかかわり、そして、メインは、その後の彼の人生のゆくすえと、それにまつわる幾多の人びとの足取りである。

私がこの本を読んで感じるところは次の二点。

第一には、60年安保の持つ意味である。安保闘争に参加した側も、また、逆に、岸信介の側にも、それぞれのよってたつところがある。が、それに通底するものして、ナショナリズムがある。アメリカからの、あるいは、ソ連、および、共産党からの、自立……この視点にたって考えてみるならば、双方ともに、ある種のナショナリズムを共有していたというべきかもしれない。

だが、この本では、ここのところこにはあまり踏み込んで記述がない。それよりも、60年安保闘争を戦った人びとのその後の人生をおっている。

第二に、印象的なのは、彼らのその後の人生である。

主人公である唐牛健太郎にしても、その後の人生にかかわりをもった人物としては、田中清玄、田岡一雄、徳田虎雄などがいる。唐牛自身も、様々な職をわたりあるく。居酒屋、オフコンのセールスマン、北海の漁師、などなど。

以上の二点が、印象に残るところである。

唐牛の人生をたどりながら、筆者(佐野眞一)は、60年安保の意味を問いかけている。そして名前の出てくるのは、丸山眞男であり、吉本隆明でもある。(が、ここのところに踏み込んではいないのだが。)

結局は、60年安保の意義について、きちんと歴史的に位置づけることをしてこなかった、そのつけが、現在の政治と政権の無残な状況につながっていく、このように言いたいように感じる。60年安保を起点として、その後の日本の社会、政治を考えようとするとき、唐牛健太郎という人物にいきつくのかもしれない。その後、決して社会の表面に出て活躍しようとはしなかったが、その人生をたどると、おのずと、日本の歩んできた道、そのゆがみのようなものが浮き上がってくる。

さて、次には、西部邁の『六〇年安保』を読んでおこうかと思っている。なお、この文庫版の解説を書いているのは川本三郎。

『街場の憂国論』内田樹2018-06-25

2018-06-25 當山日出夫(とうやまひでお)

街場の憂国論

内田樹.『街場の憂国論』(文春文庫).文藝春秋.2018 (晶文社.2013)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167910945

文庫本ででたものであるので、買って読んでみた。内田樹の本は、時々買って読む。この本も、ブログなど各所に書いたものを編集したものである。内容的には、かなり重複するところがある。

この本で、著者が言わんとしているところは、次の二つのことに要約できるだろう。

第一は、国民経済である。一国の経済をどうするかという議論。これは、その国……この本の場合であれば、日本ということになるが……の国民を養うために、である。その国の国民が、働いて、稼いで、それで生活できるようにするのが、国民経済の基本であるとする。

それをこわそうとしているのが、昨今のいわゆるグローバリズムという図式で語られる。

第二は、教育、なかんずく公教育の課題。これは、次世代の公民を育成するためであるとする。これも、近年の、教育現場への市場原理の導入への批判として語られる。

以上の二点、国民経済と教育、この二つの論点に、この本はつきると思う。

そして、このことは今まで内田樹の本について書いてきたことであるが、きわめて保守的な発想である。言っていることをとりあげてみれば、現政権に対しては、反体制的である。しかし、その心情の底にあるものは、きわめて保守的な心性であるといわざるをえない。

この保守の感覚を、非常によく表している本だと思って読んだことになる。

内田樹の保守の感覚に、時代にあらがう過激さのようなものはあまり感じない。むしろ、市民的感覚と言っていいだろうか。この市民感覚での保守を語った人物として、今世紀初頭に働いた人物として、内田樹の名前は記憶されることになるのだろうと思っている。

『死刑 その哲学的考察』萱野稔人2017-10-13

2017-10-13 當山日出夫(とうやまひでお)

萱野稔人.『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069870/

死刑についての本である。死刑については、えてしてその賛否の結論のみが議論されがちである。無論、結論として賛成するのか反対するのかは重要である。だが、それにもまして重要なのは、なぜそのように考えるにいたったかの経緯でなくてはならない。そのような立場もあっていいだろう。

この本では、死刑について考察している。主に二つの論点があると思って読んだ。

第一には、道徳的な面からの考察。いかなる場合でも人を殺してはいけないと道徳的に裏付けることは可能か。そもそも、道徳とは、普遍的な規範たりうるものなのであろうか。

第二には、政治哲学的な面からの考察。刑罰の根底にあるものは、人間社会を維持するための応報論であるとする。では、死刑は究極の刑罰たりうるのであろうか。

主に、二つの論点からこの本は論じてある。なかでカントなどへの言及がすこしあるとはいうものの、基本的に、参考文献があってそれを論駁するというようなスタイルはとっていない。ゼロのところが考え始めて、死刑の是非を問うている。また、冤罪の問題についても考察してある。

死刑に賛成する/しないの立場は、読者によっていろいろあるだろうが、このことを考えるのに、この本は、必読だろうと思う。

死刑への賛否としてこの本から読みとるべき点は次の二点かと思う。

第一に、死刑に反対するならば、終身刑ということになる。では、どちらがより重い刑罰であるのか、ということをさらに考えてみるならば、より重い刑罰の方が応報としてふさわしい、と単純にいいきれるのかどうか。

死刑は残酷であるというのならば、では、終身刑は残酷ではないのであろうか。

第二は、冤罪の可能性が制度的にゼロでない以上は、死刑は否定されるべきであるという論点は、尊重しなければならないだろうということ。

この二つの点が、私がこの本を読んで感じたところである。この本は、あくまでも死刑という制度の是非を論じた本である。具体的に、日本で行われている死刑は、絞首刑であるが、その方法の是非については言及していない。もし死刑を認めるならば、どのような死刑の方法がふさわしいか、これがさらに考えるべき問題としてはあることになる。

感情的にあんな悪いやつは死刑にすればいいでもなく、逆に、いわゆる人道的立場からの反対論でもなく、死刑という刑罰の是非そのものを根本的に考えるのに、まずは冷静に、その論のよってきたるところをかんがみる必要がある。

なぜ、自分はそのように考えるのか、その根本をかえりみることこそ、哲学というものであろう。

『街場の天皇論』内田樹2017-10-09

2017-10-09 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『街場の天皇論』.東洋経済新報社.2017
https://store.toyokeizai.net/books/9784492223789/

内田樹の本は、なるべく読むようにしている。これは、好きだからというわけではなく、自分の考え方がどれだけまともであるか、判断するのにと思ってのことである。

最新刊は、『街場の天皇論』。だが、特に目新しいことが書いてあるというわけではない。特に、天皇について書いたところは、これまでに既出であるもののよせあつめ。そして、それ以外の雑多な文章については、ほとんどまともに論ずるにたえないといっておけばいいだろう。

この本の奥書の著者の紹介のところにも、「思想家」とある。いったいいつから、内田樹は思想家になったんだろう。昔、まだ、20世紀だったころ、大学でフランス語を教える先生であり、フランス現代思想研究者、あるいは、評論家、ということでとおっていたように記憶しているのだが、はてどうであろうか。それが、近年では、思想家になってしまっている。

まあ、その思想家の思想をみとめるとしよう。であるなら、もし、内田樹がこれから先にも残る思想家であるとするならば、21世紀の初頭において、保守の理念を語った人物として残ることになるだろうと思う。

その言っていることは、反体制的なものが多い。だが、だからといって、いわゆるリベラルとは違う。保守の立場である。その保守の立場としての内田樹の思想とでもいうべきものを、端的に表している本であると思って読んだ。

2016年8月8日の、今上天皇の退位の意向を示された「おことば」。ここに、戦後日本がつちかってきた、また、今上天皇が考え、実践してきた、象徴天皇としてのあり方を読みとっている。

これは、いまでも簡単にHPで見ることができる。

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

その天皇論であるが……これについては、私は、かなりのところ同意する。百年、千年の歴史をせおって、さらに、今から百年、千年の将来をになうものとして、今の天皇がある。その職務は、日本の人びとのために、祈ること、苦楽によりそうことである……ざっとこのような趣旨の天皇観については、深く同意するところである。

この限りにおいて、私は特段、内田樹を批判しようとは思わない。このような天皇観があってもよい。そして、それについては、私も同意である。

だが、強いて批判的に考えてみるならば、なぜ、そのような天皇が連綿と日本の国においてつづいてきたのか、その歴史的検証と考察が必要かもしれない。また、近代になってから、近代天皇制、特に、昭和戦前の天皇制が、本来の姿……と思われるもの……からゆがめられたものになってしまったことについては、厳しく批判的に考えなければならない(この点については、いくぶん言及してはあるが。)

さらにいえば、そのような、新たな象徴天皇制を育んできた、戦後日本のあゆみについても、歴史的に考察する必要があろう。私の経験からいえば、戦後の天皇制についての議論は、昭和天皇の崩御の時に、ある種のピークを迎えている。昭和天皇崩御に際しての、国民の反応、マスコミの言説、これらを今後検証していく必要があると思う。

今から思い返してみれば、昭和天皇崩御の時の、狂おしいばかりの国民的な熱狂とでもいうべきものを経たからこそ、それを経過したものとしての平成の時代の天皇制があり得たのだと思う。個人的な感慨としては、昭和天皇という方は、やはり昭和という時代を背負っていた。崩御のときの国民的熱狂によって浄化された、あるいは、昇華されたものとして、今の平成の象徴天皇制があるように感じている。昭和の末期、昭和天皇崩御の事件は、国民的祝祭であったともいえるのではないか。あるいは、日本の国民としての通過儀礼のようなものであったともいえようか。

私は、昭和天皇崩御の件を抜きにして、平成の象徴天皇制はないだろうと思う。そして、このことにふれていない、内田樹の戦後象徴天皇制論には、一抹の不満もある。強いていえば、「天皇論」といいながら、「平成天皇論」にとどまっている。

「昭和天皇崩御の研究」こそが、今、求められている。あるいは、昭和から平成にかけての天皇史が必要である。

また、この本で述べられたことを延長して言うならば、安倍首相などは、まさに君側の奸であるというべきだが、はたしてどうであろうか。

『日本の覚醒のために』内田樹2017-06-30

2017-06-30 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『日本の覚醒のために-内田樹講演集-』.晶文社.2017
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4321

内田樹という人は、いつから「思想家」になったんだろうか。この人が、本を書き始めていたころ、今から10年以上も前のことになるが、そのころは、大学の教員であると同時に、評論家、あるいは、せいぜいフランス現代思想研究者であったように憶えている。それが、近年、マスコミなどの登場するときは「思想家」になってしまった。

まあ、どのような肩書で呼ぶかは、本人のあずかり知らぬところといってしまえばそれまでかもしれないが、はたして、本人はそれでいいのだろうか……余計な心配をしたくなってくる。

この内田樹、近年出た対談などは、はっきりいって読むにたえるものではない。まあ、居酒屋での与太話である。しかし、この本『日本の覚醒のために』は、いいと思って読んだ。

まだ、あまり有名でないころ、初期のエッセイでこんな意味のことを書いていたのを憶えている……なぜ、自分はひとと違う意見をもっているのか、自分と違う考え方のひとがいるのは何故なのか、その点について、自覚的であり自省しなければならない……このような意味のことが書いてあって、この点については、なるほどと思って読んだ記憶がある。

対談になると、相手と意見の一致を見るところだけで、勝手に話しがあらぬ方向にいって、ホラ話、与太話になってしまうことが多い。このあたりのことについては、すでにちょっとだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月10日
内田樹・白井聡『属国民主主義論』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134271

それから、
内田樹.姜尚中.『世界「最終」戦争論 近代の終焉を超えて』(集英社新書).集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0836-a/

は、読むには読んでみたが、とても読後感など書く気になれなかったので、そのままにしてある。

しかし、こんど出た講演集はいい。講演ということだから、どちらかといえば、不特定多数の人を相手にしゃべることになる。どんな人が聞いているわからない。自分の意見に賛同してくれるひとばかりではないかもしれない。そのようなひとになんとかして、自分の考えていることを、とどけたい、説明したい、語りかけたい、という姿勢でのぞむことになる。そのような姿勢が、この講演集には、みられる。だから、全体として抑制のきいた論調になっている。(とはいっても、内田樹のことだから、かなり思いつきで言っているというようなところもあるのだが。)

「あとがき」で内田樹本人が書いていることだが、この本に収められた講演のなかでは、Ⅲの「伊丹十三と「戦後精神」」が、面白い。

私は、これまで、伊丹十三は、映画監督として見てきて、あまり、その著作を読むということがなかったのだが、これは、読んでおくべきかと思う。『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫版)など、買って読み始めたところである。

逆にあまり感心しなかったのが、Ⅵの「憲法と戦争-日本はどに向かうのか-」である。政治がらみの話で、いろいろと話題がとんでいるので、一貫して何を主張したいのか、今ひとつ、説得力をもってつたわらなかった。

ともあれ、この内田樹というひと……去年のブログで書いたように、基本的に保守的なひとであると思っている。その保守の思想が、いい意味であらわれているのが、伊丹十三を論じたあたりであるといえようか。

ヨーロッパの古くからの文化とそれを支える職人たちに、日本の伝統と共通する物を見いだして読み解いていくあたりは、「保守」の発想である。

気になったことを書いておけば、伊丹十三について論じながら、その父親である、伊丹万作については、まったくふれていない。伊丹万作の著作集だったか、出版されたのは、私の若い時、学生のころであったろうか。その時から、伊丹万作のことは気になっている。たぶん、伊丹万作のことについて触れなかったの、それなりの意図があってのことだと思って読んだ。

内田樹が、もし「思想家」であるとするならば、21世紀における「保守」の理念を語ったひととしてであるように思うのである。

『憲法サバイバル』森達也・白井聡2017-06-12

2017-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

白井聡については、このブログでも以前にとりあげたことがある。

やまもも書斎記 2016年6月25日
白井聡『戦後政治を終わらせる』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/25/8118252

この時の私の白井聡についての評価はきわめて低い。「永続敗戦論」というテーマはいいとしても、では、これから我々はどうすべきかとなったときに、精神力で頑張れ、としか言っていない。これは、何も言わないよりもたちが悪いとしかいいようがない。

この対談を読んでも、その印象が好転することはなかった。所詮、言っていることは、毒にも薬にもならないようなことである。

だが、そうはいっても読みながら、いくつか付箋をつけた箇所を見ておきたい。

(森)「象徴天皇制を採用するのであれば、人間宣言するべきではなかった。現人神のままでいれば象徴になり得たわけですが、人間ならば象徴になりえない。しかも戦後の天皇は実は人間以下のです。なぜならば憲法が規定する人権が保障されていない。選挙権もなければ職業や居住地を選択する自由すらない。」(p.174)

(白井)(天皇の退位表明の放送について)「天皇は、象徴の役割を果たすということについての自らの見解を具体的に語った。役割の基本は祈りです。つまりこの国が平安であれという祈りを捧げることと、傷ついた人たちを慰めることですね。」(p.207)

現在の憲法においては、天皇に人権が認められていないことについては、このブログでもすでにふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年8月12日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』天皇は憲法の飛び地
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/12/8150156

もし、「人権」ということを本当に考えるならば、天皇の人権はいかにあるべきか、それとも、特殊に制限されるものなのか、もっとラディカルに考えるべきことになると思っている。

また、象徴天皇の役割を「祈り」とすることは、言われるまでもなく、すでに多くの国民が、自ずと納得していることだろうと思う。でなければ、天皇の被災地訪問などの行為が、歓迎されるはずもない。

また、白井聡は、このようにも言っている。

「私は天皇を論じるときは、明治以降の極めて近代的なシステムとしての天皇制を基本的にはとらえるべきだと思います。これは明治維新をやった革命家たちが、ものすごく人為的・人工的につくったものです。/その一方で、仮に天皇制が単にすごく底の浅い作り物だったとしたら、それがある時期「天皇陛下のために死ぬのは当たり前だ」というとてつもない国民動員装置になったことを説明できない。神道を考える際にも同じことが言えると思います。ここのバランス感覚はなかなか難しいんですね。」(pp.214-215)

この指摘はあたっていると思う。だが、であるならば、これからの天皇制はいかにあるべきか、そこのところをもっと掘り下げて論じるべきではないか。

それは、森達也の言う、

「僕も、メディアの責任は非常に大きいと思います。タブーに抗する存在であるべきメディアの方が、これまでのタブーの濃度を追い越すかたちで、自粛・忖度などといった領域を広げてしまっている。」(pp.211-212)

これをふまえるならば、まず、メディアの側にいる人間……森達也も白井聡も、どちらかといえば、メディアの側の人間だろう……が、責任をもって、これからの天皇のあり方について、きりこんでいくのでなければならない。

なお、この対談が行われたのは、2016年である。その後、今年(2017年)になって、今上天皇の退位をさだめた特例法が成立した。次の天皇は、平成にかわるどのような時代をになっていくことになるのか。自粛も忖度も無い議論がこれから必要になってくるのであろう。

以上、『憲法サバイバル』を4回にわけて、順番に読んでみた。結果として感想をのべれば、一番面白いのは、冨澤暉・伊勢崎賢治の対談、一案くだらないのは、上野千鶴子・佐高信の対談、ということになろうか。憲法改正ということが、具体的な政治課題となろうとしている今、この本は、読んでおく価値のある本だとは思う。九条について、また、象徴天皇制について、考えるべき論点は、まだまだ残されていると思うし、考えていかなければならないことだと思っている。

『憲法サバイバル』冨澤暉・伊勢崎賢治2017-06-10

2017-06-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

この章を読んで、一番に感じたことは、ちくま新書の編集部の見識である。この本は、2016年に池袋のジュンク堂でおこなわれた対談を編集したものである。その観点からは、すべての対談を同列にあつかう必要がある。しかし、この本を読むとそうはなっていない。一見すると、同じようにあつかっているようだが、二番目の対談(上野千鶴子・佐高信)とは、あつかいで一線を画している。

単純に使っているページ数をみても、上野千鶴子・佐高信では、25ページほどの分量だが、冨澤暉・伊勢崎賢治では、65ページほどをつかっている。対談時間にそんなに差があったとも思えない。明らかにあつかいの上で差をつけている。

まあ、相変わらずの左翼与太話につきあっている暇はない……というのが、ここまで読んでの感想。逆に言えば、三番目の対談(冨澤暉・伊勢崎賢治)は、読み応えがあり、内容も充実している。(この本『憲法サバイバル』の中におさめるのは惜しい気がする。これだけで独立して一冊にした方がよかったのではないかと思わせる。)

中世が終わり、ナポレオンが出てきてから、国家と国家の戦争がはじまったと指摘する。それは、1945年までつづいた。その後、核兵器によって、戦争が抑止されてきたという現実を直視する観点を導入する。

また、憲法九条に関連して、「交戦権」こそが問題であるという。この「交戦権」については、護憲派の立場からきちんと理解されていないことを述べる。

緊急事態条項については、それを批判的にとりあげるリベラル陣営の側こそが、その本質を理解していないことを言う。

さらに、国連PKOについては、国連が交戦の主体となっている現状を指摘する。そのうえで南スーダンにおけるPKO活動の問題点を指摘する。(この点については、この本で指摘された議論がふかまることなく、日本は撤退ということで、終わってしまっている。)

この対談は、現実に世界の国々が、軍事力をもっていること、そして、現在では、テロリストなど新たな脅威と立ち向かわなければならなくなっている現状を、冷静に見ている。この本で、この対談まで読んでくると、その直前の、上野千鶴子・佐高信の言っていたことが、いかにも空虚に見えてくる。たまたまかもしれないが、そのような編集になっている。この意味では、上野千鶴子・佐高信の対談の最後に、伊勢崎賢治のことばの引用で終わらせているのは、かなり皮肉な編集をしていると感じさせる。

この章を読むためにだけでも、『憲法サバイバル』は買って読んで損はないと思う。