ザ・バックヤード「国立歴史民俗博物館」 ― 2023-09-08
2023年9月8日 當山日出夫
この回は、歴博。
あつかっていたのは、葬礼についての研究。それから年輪年代学。
葬式にかんする風習は、宗教、宗派によって違うところもあるが、それ以上に地域による違いもある。また、歴史的にも変化していく。
興味深かったのは遺影である。今の葬儀では、遺影を飾ることは当たり前になってきているが、これも歴史的にたどれば、そう古いものではない。そもそも写真というものがなければ、遺影という発想も生まれない。その遺影に何をこめるかは、人びとの葬式における意識とともに変わってきているといえるだろう。
年輪年代学は、日本が世界に誇ることのできる研究分野である。その年輪年代学において、太陽フレアの歴史的研究が可能になっていることはとても興味深い。
歴博は、最近では、歴史をジェンダーの観点から考える企画をおこなっていたりしている。意欲的な研究活動をしている機関である。
2023年9月7日記
この回は、歴博。
あつかっていたのは、葬礼についての研究。それから年輪年代学。
葬式にかんする風習は、宗教、宗派によって違うところもあるが、それ以上に地域による違いもある。また、歴史的にも変化していく。
興味深かったのは遺影である。今の葬儀では、遺影を飾ることは当たり前になってきているが、これも歴史的にたどれば、そう古いものではない。そもそも写真というものがなければ、遺影という発想も生まれない。その遺影に何をこめるかは、人びとの葬式における意識とともに変わってきているといえるだろう。
年輪年代学は、日本が世界に誇ることのできる研究分野である。その年輪年代学において、太陽フレアの歴史的研究が可能になっていることはとても興味深い。
歴博は、最近では、歴史をジェンダーの観点から考える企画をおこなっていたりしている。意欲的な研究活動をしている機関である。
2023年9月7日記
南方熊楠記念館に行ってきた ― 2023-02-08
2023年2月8日 當山日出夫
水曜日だが、今日は、南方熊楠のこと。この前の日曜日、月曜日と、和歌山の方に一泊で行ってきた。
まず、行ってみたのが和歌山城。このお城は、戦災で焼失したものを、戦後になって復元したもの。ただし、コンクリート造りである。復元工事を行うとき、木造よりも、コンクリートの方が簡単に作れたらしい。ただし、その形は、もとのものをかなり忠実になぞってあるとのこと。天守閣の上まで登ってきた。
昼食は、和歌山に来たのだからというので、お城の近くのラーメン屋さん。
その後、白浜まで行く。南方熊靴記念館が目的である。
南方熊楠については、一通りの知識しか持っていない。英国留学、博物学者、粘菌学者であり、神社を守ることに奔走した人物であり、日本民俗学の成立にかかわっている。
その著書としては、「十二支考」は、若いときに手にした記憶がある。これも、今となっては、何が書いてあったか覚えていない。南方熊楠の博覧強記とはえらい違いである。まあ、凡人の読書である。他に読んだなかで興味深かったのは、柳田国男との往復書簡集。これは、読んでとても面白かったのを記憶している。さがせば、まだその時の本が残っているはずである。
南方熊楠記念館ができたのは、わりと最近のことである。建物は新しい。南方熊楠の遺品など、面白いコレクションが、分かりやすく展示されている。
この建物の屋上が展望台になっている。三六〇度、まわりの白浜の景色をみわたせる。絶景である。ただ、この時期なので、ちょっと寒かった。トビがとんでいた。
次に行ったのが、京都大学の水族館。歩いて行けるところにあるので、自動車は、そのままおいて歩いて行った。小さな水族館であるが、展示は面白い。徹底的に、生物学的な分類にしたがって展示してある。これが、普通の水族館だと、魚がいる地域などで分類することが多い。この水族館は、たぶん研究機関の付属施設というようなことになっているのだろう。むしろ、このバックヤードで、どのような研究が行われているのか、そちらの方が気になる。
その日は、白浜で一泊。
翌日、朝からアドベンチャーワールドに行って、パンダを見てきた。月曜日ということで、そんなに人も多くなくゆっくりとパンダが竹を食べているのを見ることができた。アドベンチャーワールドには以前にも来たことがあると覚えているのだが、その時もパンダはいただろうか、覚えていない。私がパンダを見た記憶があるのは、東京の上野動物園においてである。まだ、子供が小さい時のことである。
昼過ぎに早めに出て、白浜市内でお土産など買ったりしてして、家に帰った。二時間半ほどかかっただろうか。家に帰ったら、すっかり日が暮れていた。
2023年2月7日記
水曜日だが、今日は、南方熊楠のこと。この前の日曜日、月曜日と、和歌山の方に一泊で行ってきた。
まず、行ってみたのが和歌山城。このお城は、戦災で焼失したものを、戦後になって復元したもの。ただし、コンクリート造りである。復元工事を行うとき、木造よりも、コンクリートの方が簡単に作れたらしい。ただし、その形は、もとのものをかなり忠実になぞってあるとのこと。天守閣の上まで登ってきた。
昼食は、和歌山に来たのだからというので、お城の近くのラーメン屋さん。
その後、白浜まで行く。南方熊靴記念館が目的である。
南方熊楠については、一通りの知識しか持っていない。英国留学、博物学者、粘菌学者であり、神社を守ることに奔走した人物であり、日本民俗学の成立にかかわっている。
その著書としては、「十二支考」は、若いときに手にした記憶がある。これも、今となっては、何が書いてあったか覚えていない。南方熊楠の博覧強記とはえらい違いである。まあ、凡人の読書である。他に読んだなかで興味深かったのは、柳田国男との往復書簡集。これは、読んでとても面白かったのを記憶している。さがせば、まだその時の本が残っているはずである。
南方熊楠記念館ができたのは、わりと最近のことである。建物は新しい。南方熊楠の遺品など、面白いコレクションが、分かりやすく展示されている。
この建物の屋上が展望台になっている。三六〇度、まわりの白浜の景色をみわたせる。絶景である。ただ、この時期なので、ちょっと寒かった。トビがとんでいた。
次に行ったのが、京都大学の水族館。歩いて行けるところにあるので、自動車は、そのままおいて歩いて行った。小さな水族館であるが、展示は面白い。徹底的に、生物学的な分類にしたがって展示してある。これが、普通の水族館だと、魚がいる地域などで分類することが多い。この水族館は、たぶん研究機関の付属施設というようなことになっているのだろう。むしろ、このバックヤードで、どのような研究が行われているのか、そちらの方が気になる。
その日は、白浜で一泊。
翌日、朝からアドベンチャーワールドに行って、パンダを見てきた。月曜日ということで、そんなに人も多くなくゆっくりとパンダが竹を食べているのを見ることができた。アドベンチャーワールドには以前にも来たことがあると覚えているのだが、その時もパンダはいただろうか、覚えていない。私がパンダを見た記憶があるのは、東京の上野動物園においてである。まだ、子供が小さい時のことである。
昼過ぎに早めに出て、白浜市内でお土産など買ったりしてして、家に帰った。二時間半ほどかかっただろうか。家に帰ったら、すっかり日が暮れていた。
2023年2月7日記
東京に行ってきた ― 2022-11-24
2022年11月24日 當山日出夫
東京まで行ってきた。何年ぶりになるだろうか。たぶん、訓点語学会の秋の研究会が東大であった時に行った以来になる。三年ぶりぐらいになるかもしれない。
今回は、早稲田大学で日本漢字学会。オンラインでも参加できるので、強いて行くこともないようなものかもしれない。ただ、まったく個人的な事情になるのだが、次女が二年ほど前から東京で就職して働いている。たまに家に帰っては来るのだが、まだ東京では会ったことがない。その顔を見がてら、というか、むしろこちらの用件の方がメインになるような気もするのだが、東京まで行ってくることにした。
家内も同行である。土曜日の朝、早くに家を出る。宿は五反田。娘の仕事先が五反田にオフィスがあることもあって、ここにした。東京について(品川で降りる)、五反田で宿に荷物をあづける。昼食の後、私は早稲田まで。この日は講演会である。家内は、その姉(千葉の浦安に住んでいる)と一緒にスカイツリーまで行ってきた。
学会の講演会が終わってホテルに帰って、夜に、五反田で、娘と一緒になって、みんなで夕食。焼き肉屋さんに行った。これは、娘が予約しておいてくれた。
日曜日は、私は、早稲田で学会。この日は研究発表会。昼間は、家内は娘と一緒に都内を散策。夜になって帰って、目黒の鰻屋さんまでタクシーで行った。(このあたりは、昔住んでいたあたりになる。)
月曜日、家内と一緒に、昔東京で一緒に住んでいた目黒のあたりを歩く。目黒駅の周囲はすっかり変わってしまっている。住まいのあった目黒区中町のあたりまで、目黒通りを歩く。道筋の店も多くが変わってしまっている。
昔住んでいた建物は、今は廃ビルになっていた。住んででいたとき、もう三〇年以上も前のことになるが、この時にすでにちょっと古めの建物だったので、時間の経過を考えるとまだ残っていただけでも不思議である。ただ、建物の名称は変わっていた。
近所で昔買い物をしたような商店は、ほとんど姿を消している。ただ、お地蔵さんと、小学校だけは、昔のままだった。
目黒駅まで歩いて帰って、お土産など買ったりして、昼食。昼食は目黒で蕎麦屋。この店は、たしか、私が学生で住んでいたころからあるものである。昼食のあと、東京駅まで行って、お土産など物色してから新幹線に乗った。家に帰ったら、夕方、もう暗くなっていた。
久しぶりの東京であるし、住んでいたところを歩いてみるのは、何十年ぶりかになる。変わったもの、変わらないものもある。月日のうつろいを感じる。
次に東京に行くのは、いつのことになるだろうか。もうあまり外に出たくない気がしているのだが、まあ、学会でもあるなら、年に一回ぐらいは出かけてもいいかなとも思う。ただ、東京の街に行くと、とにかく歩く。若いころは、街中を歩いてもそんなに苦にならなかったのだが、田舎暮らしが身についてしまうと、街中、人中を歩くと、それだけで疲れるようになってきた。
とにかくもう早く寝ることにして、翌日は学校で授業である。日本漢字学会のことについては、改めて書くことにする。
2022年11月22日記
東京まで行ってきた。何年ぶりになるだろうか。たぶん、訓点語学会の秋の研究会が東大であった時に行った以来になる。三年ぶりぐらいになるかもしれない。
今回は、早稲田大学で日本漢字学会。オンラインでも参加できるので、強いて行くこともないようなものかもしれない。ただ、まったく個人的な事情になるのだが、次女が二年ほど前から東京で就職して働いている。たまに家に帰っては来るのだが、まだ東京では会ったことがない。その顔を見がてら、というか、むしろこちらの用件の方がメインになるような気もするのだが、東京まで行ってくることにした。
家内も同行である。土曜日の朝、早くに家を出る。宿は五反田。娘の仕事先が五反田にオフィスがあることもあって、ここにした。東京について(品川で降りる)、五反田で宿に荷物をあづける。昼食の後、私は早稲田まで。この日は講演会である。家内は、その姉(千葉の浦安に住んでいる)と一緒にスカイツリーまで行ってきた。
学会の講演会が終わってホテルに帰って、夜に、五反田で、娘と一緒になって、みんなで夕食。焼き肉屋さんに行った。これは、娘が予約しておいてくれた。
日曜日は、私は、早稲田で学会。この日は研究発表会。昼間は、家内は娘と一緒に都内を散策。夜になって帰って、目黒の鰻屋さんまでタクシーで行った。(このあたりは、昔住んでいたあたりになる。)
月曜日、家内と一緒に、昔東京で一緒に住んでいた目黒のあたりを歩く。目黒駅の周囲はすっかり変わってしまっている。住まいのあった目黒区中町のあたりまで、目黒通りを歩く。道筋の店も多くが変わってしまっている。
昔住んでいた建物は、今は廃ビルになっていた。住んででいたとき、もう三〇年以上も前のことになるが、この時にすでにちょっと古めの建物だったので、時間の経過を考えるとまだ残っていただけでも不思議である。ただ、建物の名称は変わっていた。
近所で昔買い物をしたような商店は、ほとんど姿を消している。ただ、お地蔵さんと、小学校だけは、昔のままだった。
目黒駅まで歩いて帰って、お土産など買ったりして、昼食。昼食は目黒で蕎麦屋。この店は、たしか、私が学生で住んでいたころからあるものである。昼食のあと、東京駅まで行って、お土産など物色してから新幹線に乗った。家に帰ったら、夕方、もう暗くなっていた。
久しぶりの東京であるし、住んでいたところを歩いてみるのは、何十年ぶりかになる。変わったもの、変わらないものもある。月日のうつろいを感じる。
次に東京に行くのは、いつのことになるだろうか。もうあまり外に出たくない気がしているのだが、まあ、学会でもあるなら、年に一回ぐらいは出かけてもいいかなとも思う。ただ、東京の街に行くと、とにかく歩く。若いころは、街中を歩いてもそんなに苦にならなかったのだが、田舎暮らしが身についてしまうと、街中、人中を歩くと、それだけで疲れるようになってきた。
とにかくもう早く寝ることにして、翌日は学校で授業である。日本漢字学会のことについては、改めて書くことにする。
2022年11月22日記
伊勢に行ってきた ― 2020-02-21
2020-02-21 當山日出夫(とうやまひでお)
19日、伊勢に行ってきた。ほぼ毎年、冬に行く。鳥羽の浦村のあたりで、牡蠣を食べるためである。
今年は、これまで行っていた店とは違う店にした。選択は、家人がパソコンで調べて予約した。我が家からは、三~四時間ぐらいで行ける。途中、一回ぐらいの休憩をいれる。
朝の八時半ごろに家を出て、まずガソリンスタンドに行って給油。念のため、満タンにしておく。運転に楽な道をと思って、有料道路優先でナビを設定する。我が家からだと、新名神から伊勢道というルートになる。
一二時すぎぐらいに鳥羽についた。ちょっと早めである。店にきいてみると、一時からの予約なので、その五分前に案内するという。特にその近辺は、見るものもない。ただ、海岸に家がならんでいるだけである。駐車場にもどって、しばらく時間をつぶす。
食べたのは、焼き牡蠣と蒸し牡蠣の食べ放題。それに、牡蠣フライを追加で注文した。一時間半の時間が設定してあるのだが、一時間も食べると、満腹である。ただ、ひたすら食べていた。
それにしても、店は、海岸沿いの、とっても狭い道を入っていったところにあった。対向車が来たら、絶対にすれ違えない。(来年、もし行くとしたら、別の店にしようかと思った。)
鳥羽で牡蠣を食べてから、伊勢神宮の内宮まで移動。今年は、外国人観光客が少ないせいか、例年よりも、人が少なかったように思う。駐車場に車を止めて神宮まで歩く道でも、神社の境内でも、人は少なめであった。
伊勢神宮の境内では、すでに梅の花がさいているのが目についた。(我が家の梅の花は、まだ咲いていない。)
参拝を終えて、喫茶店でコーヒーを飲んで、お土産など買って、帰途につく。伊勢インターから、来た道と同じ道で帰る。家に帰ったら、七時半ぐらいだった。往復で四〇〇キロほどの運転であった。
来年もまた行けたらと思う。
2020年2月20日記
19日、伊勢に行ってきた。ほぼ毎年、冬に行く。鳥羽の浦村のあたりで、牡蠣を食べるためである。
今年は、これまで行っていた店とは違う店にした。選択は、家人がパソコンで調べて予約した。我が家からは、三~四時間ぐらいで行ける。途中、一回ぐらいの休憩をいれる。
朝の八時半ごろに家を出て、まずガソリンスタンドに行って給油。念のため、満タンにしておく。運転に楽な道をと思って、有料道路優先でナビを設定する。我が家からだと、新名神から伊勢道というルートになる。
一二時すぎぐらいに鳥羽についた。ちょっと早めである。店にきいてみると、一時からの予約なので、その五分前に案内するという。特にその近辺は、見るものもない。ただ、海岸に家がならんでいるだけである。駐車場にもどって、しばらく時間をつぶす。
食べたのは、焼き牡蠣と蒸し牡蠣の食べ放題。それに、牡蠣フライを追加で注文した。一時間半の時間が設定してあるのだが、一時間も食べると、満腹である。ただ、ひたすら食べていた。
それにしても、店は、海岸沿いの、とっても狭い道を入っていったところにあった。対向車が来たら、絶対にすれ違えない。(来年、もし行くとしたら、別の店にしようかと思った。)
鳥羽で牡蠣を食べてから、伊勢神宮の内宮まで移動。今年は、外国人観光客が少ないせいか、例年よりも、人が少なかったように思う。駐車場に車を止めて神宮まで歩く道でも、神社の境内でも、人は少なめであった。
伊勢神宮の境内では、すでに梅の花がさいているのが目についた。(我が家の梅の花は、まだ咲いていない。)
参拝を終えて、喫茶店でコーヒーを飲んで、お土産など買って、帰途につく。伊勢インターから、来た道と同じ道で帰る。家に帰ったら、七時半ぐらいだった。往復で四〇〇キロほどの運転であった。
来年もまた行けたらと思う。
2020年2月20日記
斎宮歴史博物館に行ってきた ― 2019-02-15
2019-02-15 當山日出夫(とうやまひでお)
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月14日
鳥羽に行ってきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/14/9035902
伊勢神宮から、次は、斎宮歴博物館をめざした。
斎宮歴博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/
伊勢の斎宮のことは、国文学という勉強をすれば、どうしても目にする。まずは『伊勢物語』であり『源氏物語』である。
伊勢の斎宮、賀茂の斎院、このことは知識としては知っていても、その実態については、ほとんど知らないで過ごしてきた。賀茂の斎院については、毎年の葵祭のことでニュースで目にはするのだが。
ちょうど今、『源氏物語』を読んでいる。伊勢の斎宮がでてくる。その興味もあって、この際と思って行ってみることにした。
伊勢神宮からだと自動車で30分ぐらいだろうか。一般道を走る。非常に立派な施設である。展示を見て感じたことは……伊勢の斎宮は、朝廷の直轄であったこと、そして、その規模がかなり大規模なものであったこと。このようなこと、この博物館に行って展示を見るまでは知らないでいた。
実は、もっと質素なものであったかと思っていたのだが、実際、その最盛期のころは、かなりの規模で威儀のあるものであったようである。その組織も、朝廷のそれに同じように整備され、格式のあったものらしい。
といって、その仕事としては、年に三回ほど、伊勢神宮の行事に参加するほどのことだったらしい。
また、展示品の中で、私の興味を引いたのは、いわゆる「墨書土器」の出土品。なぜ、土器などに文字を書いたのだろうか。しかも、それほど意味のある文字とは思えない。
展示を見てから帰路についた。来たときと同じように伊勢自動車道から新名神、京滋バイパスを通ってかえった。夕方に家にかえった。
続きである。
やまもも書斎記 2019年2月14日
鳥羽に行ってきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/14/9035902
伊勢神宮から、次は、斎宮歴博物館をめざした。
斎宮歴博物館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/
伊勢の斎宮のことは、国文学という勉強をすれば、どうしても目にする。まずは『伊勢物語』であり『源氏物語』である。
伊勢の斎宮、賀茂の斎院、このことは知識としては知っていても、その実態については、ほとんど知らないで過ごしてきた。賀茂の斎院については、毎年の葵祭のことでニュースで目にはするのだが。
ちょうど今、『源氏物語』を読んでいる。伊勢の斎宮がでてくる。その興味もあって、この際と思って行ってみることにした。
伊勢神宮からだと自動車で30分ぐらいだろうか。一般道を走る。非常に立派な施設である。展示を見て感じたことは……伊勢の斎宮は、朝廷の直轄であったこと、そして、その規模がかなり大規模なものであったこと。このようなこと、この博物館に行って展示を見るまでは知らないでいた。
実は、もっと質素なものであったかと思っていたのだが、実際、その最盛期のころは、かなりの規模で威儀のあるものであったようである。その組織も、朝廷のそれに同じように整備され、格式のあったものらしい。
といって、その仕事としては、年に三回ほど、伊勢神宮の行事に参加するほどのことだったらしい。
また、展示品の中で、私の興味を引いたのは、いわゆる「墨書土器」の出土品。なぜ、土器などに文字を書いたのだろうか。しかも、それほど意味のある文字とは思えない。
展示を見てから帰路についた。来たときと同じように伊勢自動車道から新名神、京滋バイパスを通ってかえった。夕方に家にかえった。
鳥羽に行ってきた ― 2019-02-14
2019-02-14 當山日出夫(とうやまひでお)
二月になって、思い立って鳥羽まで行ってきた。
浦村の牡蠣を食べにである。このあたり、牡蠣の養殖が盛んな地域でもある。冬になると、牡蠣を専門に出す店が多くなる。特に伊勢の的矢湾の牡蠣は、ブランドとして有名だが、浦村もおいしい。
我が家からだど、自動車で、3~4時間ほどである。今回は、長男の運転で行くことにした。自動車は、日産のノートe-Powerである。朝の8時すぎに家を出て、途中ちょっと休憩。目的の店には、11時半ごろついた。
焼き牡蠣と蒸し牡蠣の2種類がある。私はもっぱら蒸し牡蠣をたべることにする。焼くと牡蠣の殻がこわれて、身にまざる。それが、蒸し牡蠣だと、牡蠣だけきれいに食べられる。30~40個ぐらいは食べたろうか。食べ放題には、牡蠣フライが3個と、ご飯、味噌汁がついてくる。90分の時間なのだが、1時間もたべてはいられない。ひたすら牡蠣をたべていた。
調味料は何もつけない。水揚げしたばかりの牡蠣であるので、海水の塩分で、少し味がついている。たべているとそれだけでも、かなり塩からく感じるぐらいである。水は、途中の高速のサービスエリアの自動販売機で買っておいた。
食べ放題というシステムは、得なのか損なのかよくわからないところがある。が、まあ、年に一度ぐらいは、こんな時があってもいいかと思っている。
12時半ぐらに食べ終わって、伊勢神宮にむかった。このところ、数年、伊勢神宮には参拝している。今年に限ったことではないのかもしれないが、伊勢神宮でも、参拝客、というよりも観光客、それも、外国人が増えているように感じる。参道を歩いていても日本語ではない話し声を耳にする。
参拝をおえて、時間があるので、今回の目的地のもう一つである、斎宮歴史博物館に向かうことにした。
カメラは、(買った順番としては古くなるが)NikonのD7500を持っていった。レンズは、16-80mm f/2.8-4E ED VR である。コンパクトカメラを持って行ってもよかったのだが、たまの外出であるし、自動車で行って他にたいした荷物があるというのでもないので、一眼レフを持っていくことにした。
二月になって、思い立って鳥羽まで行ってきた。
浦村の牡蠣を食べにである。このあたり、牡蠣の養殖が盛んな地域でもある。冬になると、牡蠣を専門に出す店が多くなる。特に伊勢の的矢湾の牡蠣は、ブランドとして有名だが、浦村もおいしい。
我が家からだど、自動車で、3~4時間ほどである。今回は、長男の運転で行くことにした。自動車は、日産のノートe-Powerである。朝の8時すぎに家を出て、途中ちょっと休憩。目的の店には、11時半ごろついた。
焼き牡蠣と蒸し牡蠣の2種類がある。私はもっぱら蒸し牡蠣をたべることにする。焼くと牡蠣の殻がこわれて、身にまざる。それが、蒸し牡蠣だと、牡蠣だけきれいに食べられる。30~40個ぐらいは食べたろうか。食べ放題には、牡蠣フライが3個と、ご飯、味噌汁がついてくる。90分の時間なのだが、1時間もたべてはいられない。ひたすら牡蠣をたべていた。
調味料は何もつけない。水揚げしたばかりの牡蠣であるので、海水の塩分で、少し味がついている。たべているとそれだけでも、かなり塩からく感じるぐらいである。水は、途中の高速のサービスエリアの自動販売機で買っておいた。
食べ放題というシステムは、得なのか損なのかよくわからないところがある。が、まあ、年に一度ぐらいは、こんな時があってもいいかと思っている。
12時半ぐらに食べ終わって、伊勢神宮にむかった。このところ、数年、伊勢神宮には参拝している。今年に限ったことではないのかもしれないが、伊勢神宮でも、参拝客、というよりも観光客、それも、外国人が増えているように感じる。参道を歩いていても日本語ではない話し声を耳にする。
参拝をおえて、時間があるので、今回の目的地のもう一つである、斎宮歴史博物館に向かうことにした。
カメラは、(買った順番としては古くなるが)NikonのD7500を持っていった。レンズは、16-80mm f/2.8-4E ED VR である。コンパクトカメラを持って行ってもよかったのだが、たまの外出であるし、自動車で行って他にたいした荷物があるというのでもないので、一眼レフを持っていくことにした。
Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
初老の読書 ― 2018-01-08
2018-01-08 當山日出夫(とうやまひでお)
ほぼ一年前に、Facebookに次のような文章を書いていた。ここに再掲載する。
===================================
どうやら、世の中、75歳をすぎないと「老人」の仲間にいれてもらえないらしい。
ところで、「初老」ということば、何歳からか……40歳からである。とはいえ、これは昔の話し。単純に20年ほど足すならば、60歳で「初老」といってもいいだろう。ならば、私は、確実に「初老」である。「老人」の仲間入りをしてもいいだろう。
「老人」には「老人」の特権がある。それは、若い時にもどれること。若い時にできなかった趣味とか、再度チャレンジできることである。本を読んでいきたいと思う。写真もとってみたい。これまで、仕事でできなかったことに時間をつかいたい。
このような生き方もあってよいであろう。
幸い、家の仕事は、子供がやってくれるようになった。もう、「隠居」である。
===================================
さて、このような文章を書いてから、一年どのようであったろうか。
仕事は整理することにした。それまで二校行っていた非常勤講師の仕事を一つに減らした。時間のできた分、読書にあてるようになった。読んで来たのは、主に、近代の小説……古典的な名作、名著……である。今まで読んで来なかった本をきちんと読んでおきたいと思った。その読んだ本のいくつかについては、このブログに書いてきた。
ブログに書いた本は、読んだ本(専門書などをふくめてであるが)の、半分ぐらいになるだろうか。あまり専門的な本(国語学関係)は、取り上げないようにしてきた。
それから、NHKの朝ドラと大河ドラマの感想など。別に、特に面白いと思って見ているというのでもない。毎日、毎週の習慣のようにして見ている。そして、思ったこと、疑問点など、書き綴ってきた。
文章に書くということを前提にドラマを見ていると、それなりに、いろんなことを考える。また、関連する本を読んだりもする。
今年の大河ドラマは、『西郷どん』である。そして、今年は、明治150年である。近代、幕末、明治維新ということを話題にしていろんな本が出ることだろうと思う。
これに関連して、読んでおきたいと思って積んだままになっている本としては……『天皇の世紀』(大佛次郎)、それから『遠い崖』(萩原延壽)がある。どちらも、かなり大部な本になる。が、これらの本を今年こそは読み通しておきたい。明治という時代、そして、近代という時代について、考えてみたい。
若い時に本を読むのとちがって、老年になったらなったで、それなりの読書の楽しみがある。論文を書くとかということから離れて、純然と自分の楽しみ、思索のための読書という時間をつかいたいと思うようになってきた。
今、読んでいるのは、『明治天皇』(ドナルド・キーン、新潮文庫)。それから、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー、光文社古典新訳文庫)。
ほぼ一年前に、Facebookに次のような文章を書いていた。ここに再掲載する。
===================================
どうやら、世の中、75歳をすぎないと「老人」の仲間にいれてもらえないらしい。
ところで、「初老」ということば、何歳からか……40歳からである。とはいえ、これは昔の話し。単純に20年ほど足すならば、60歳で「初老」といってもいいだろう。ならば、私は、確実に「初老」である。「老人」の仲間入りをしてもいいだろう。
「老人」には「老人」の特権がある。それは、若い時にもどれること。若い時にできなかった趣味とか、再度チャレンジできることである。本を読んでいきたいと思う。写真もとってみたい。これまで、仕事でできなかったことに時間をつかいたい。
このような生き方もあってよいであろう。
幸い、家の仕事は、子供がやってくれるようになった。もう、「隠居」である。
===================================
さて、このような文章を書いてから、一年どのようであったろうか。
仕事は整理することにした。それまで二校行っていた非常勤講師の仕事を一つに減らした。時間のできた分、読書にあてるようになった。読んで来たのは、主に、近代の小説……古典的な名作、名著……である。今まで読んで来なかった本をきちんと読んでおきたいと思った。その読んだ本のいくつかについては、このブログに書いてきた。
ブログに書いた本は、読んだ本(専門書などをふくめてであるが)の、半分ぐらいになるだろうか。あまり専門的な本(国語学関係)は、取り上げないようにしてきた。
それから、NHKの朝ドラと大河ドラマの感想など。別に、特に面白いと思って見ているというのでもない。毎日、毎週の習慣のようにして見ている。そして、思ったこと、疑問点など、書き綴ってきた。
文章に書くということを前提にドラマを見ていると、それなりに、いろんなことを考える。また、関連する本を読んだりもする。
今年の大河ドラマは、『西郷どん』である。そして、今年は、明治150年である。近代、幕末、明治維新ということを話題にしていろんな本が出ることだろうと思う。
これに関連して、読んでおきたいと思って積んだままになっている本としては……『天皇の世紀』(大佛次郎)、それから『遠い崖』(萩原延壽)がある。どちらも、かなり大部な本になる。が、これらの本を今年こそは読み通しておきたい。明治という時代、そして、近代という時代について、考えてみたい。
若い時に本を読むのとちがって、老年になったらなったで、それなりの読書の楽しみがある。論文を書くとかということから離れて、純然と自分の楽しみ、思索のための読書という時間をつかいたいと思うようになってきた。
今、読んでいるのは、『明治天皇』(ドナルド・キーン、新潮文庫)。それから、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー、光文社古典新訳文庫)。
時計あれこれ ― 2017-11-09
2017-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)
時計の話をつづける。
やまもも書斎記 2017年11月6日
時計を買った
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721804
学生の時、それまでつかっていたゼンマイ式の時計が故障して、クオーツ時計に買い換えた。大学の生協にお店を出している時計店で買った。その時、たまたまあったので買った時計は、秒針の無いタイプのものであった。
普通の時計、アナログ時計は、三つの針がある。時、分、秒、をそれぞれにしめす。そのうち、秒針がついていないものをえらんだ。
今は、このようなタイプの時計は売っていないか、あるいは、あっても希なようである。
実際に使ってみての感じとしては、これで充分というものであったのを憶えている。実生活で時刻を知る必要があるとき、秒針までは必要ない。分までだいたいわかれば充分である。
その時計も故障して、次に買い換えてからは、秒針のある普通のタイプのものをつかっている。秒針がついていると、秒単位で時間がわかるので、何か、時間に縛られているような感触がどことなくある。また、秒針がついていると、秒単位で、時刻を合わせたくなる。遅れていたり、進んでいたりすると、気になる。
いったい人間の通常の生活が、秒単位で刻まれる必要があるのだろうか。特殊な職業、例えば鉄道関係の仕事ならば秒単位の時間の管理が必要になるだろう。近年の私の経験でいえば、学会、研究会などの司会をするとき、時間を厳格に計る必要があるので、この時は秒針があった方がいい。だが、普通の人間の普通の生活にとっては、無くてもさしさわりは無いものである。いや、むしろ、無い方が、いっそのこと自由な感じがするぐらいである。
それから、その時計店の主人に教えてもらったこととして、時計の時刻の合わせ方がある。クオーツの場合は、時計の針を、時間を少し進めてからもどして時刻をあわせる。理由は知らないが、そのようにして合わせるものらしい。その後、WEBなどで見てみると、時計の時刻の合わせ方としては、これであっているようである。
ともあれ、電波時計になれば、秒単位で精確に時刻を自動的にあわせてくれる。便利になったものである。
そういえば、昔の時計の電池の寿命はだいたい一年ぐらいだった。今は、もっともつ。その昔、クオーツ時計を使い始めたとき、学生のときであるが、年に一度、自分の誕生日を目安に時計の電池を交換していたものである。だから、その当時は、時計の電池切れということを経験していない。それも、近年の時計の電池の寿命が長くなったので、年に一度の交換ということがなくなった。何年かおきに電池の交換で時計屋さんにいくことになった。
これもソーラー時計になれば、電池の交換も必要がない。これも、便利になったものである。
時計の話をつづける。
やまもも書斎記 2017年11月6日
時計を買った
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721804
学生の時、それまでつかっていたゼンマイ式の時計が故障して、クオーツ時計に買い換えた。大学の生協にお店を出している時計店で買った。その時、たまたまあったので買った時計は、秒針の無いタイプのものであった。
普通の時計、アナログ時計は、三つの針がある。時、分、秒、をそれぞれにしめす。そのうち、秒針がついていないものをえらんだ。
今は、このようなタイプの時計は売っていないか、あるいは、あっても希なようである。
実際に使ってみての感じとしては、これで充分というものであったのを憶えている。実生活で時刻を知る必要があるとき、秒針までは必要ない。分までだいたいわかれば充分である。
その時計も故障して、次に買い換えてからは、秒針のある普通のタイプのものをつかっている。秒針がついていると、秒単位で時間がわかるので、何か、時間に縛られているような感触がどことなくある。また、秒針がついていると、秒単位で、時刻を合わせたくなる。遅れていたり、進んでいたりすると、気になる。
いったい人間の通常の生活が、秒単位で刻まれる必要があるのだろうか。特殊な職業、例えば鉄道関係の仕事ならば秒単位の時間の管理が必要になるだろう。近年の私の経験でいえば、学会、研究会などの司会をするとき、時間を厳格に計る必要があるので、この時は秒針があった方がいい。だが、普通の人間の普通の生活にとっては、無くてもさしさわりは無いものである。いや、むしろ、無い方が、いっそのこと自由な感じがするぐらいである。
それから、その時計店の主人に教えてもらったこととして、時計の時刻の合わせ方がある。クオーツの場合は、時計の針を、時間を少し進めてからもどして時刻をあわせる。理由は知らないが、そのようにして合わせるものらしい。その後、WEBなどで見てみると、時計の時刻の合わせ方としては、これであっているようである。
ともあれ、電波時計になれば、秒単位で精確に時刻を自動的にあわせてくれる。便利になったものである。
そういえば、昔の時計の電池の寿命はだいたい一年ぐらいだった。今は、もっともつ。その昔、クオーツ時計を使い始めたとき、学生のときであるが、年に一度、自分の誕生日を目安に時計の電池を交換していたものである。だから、その当時は、時計の電池切れということを経験していない。それも、近年の時計の電池の寿命が長くなったので、年に一度の交換ということがなくなった。何年かおきに電池の交換で時計屋さんにいくことになった。
これもソーラー時計になれば、電池の交換も必要がない。これも、便利になったものである。
時計を買った ― 2017-11-06
2017-11-06 當山日出夫(とうやまひでお)
時計をひとつ買った。ソーラーの電波時計である。アナログ表示。小さいので、机の上においておくのに買った。
学生の時に買った時計……鉄道時計……もまだ持っている。かなり精確であるが、月に数秒は誤差がでるので、年に何回かは、時刻を合わせないといけない。
今の生活で、時計として、見ることが多いのが、実は、実物の時計ではない。パソコンの時計である。今、メインにつかっているのは、Windows7のマシン。この機種までは、デスクトップにアクセサリの時計(アナログ表示)を表示しておける。それとカレンダーも。これが、便利なので、実際に、時計やカレンダーを見るときは、これを見ることが多い。
これが、他につかっているWindows10マシンになると、無くなってしまっている。Windows8以降、この機能が無くなった。
以前にも書いたことがあると思うが、私は、自分の部屋に、時計(壁掛けの大きいの)と、カレンダー(壁に掛ける文字のおおきいの)は、おかないことにしている。自分の部屋にいるときぐらい、カレンダーからも、時計からも、自由になりたいと思っているからである。
しかし、まったく不要かというとそうではない。時刻を知る必要、日付を確認する必要はある。そのために、鉄道時計と、小型の卓上カレンダーを買って机の上においておくことにしている。
時計に贅沢をしようとは思わない。また、時間にしばられた生活をおくりたいとも思わない。だが、時間に正確であろうという生活の心がけは、いまだにかわっていない。時計が増えたからといって、使える時間が増えるわけではない。時刻がわかればいい。そして、見やすければいいのである。上等の時計ではないが、これからの生活の伴侶になるであろう。
思い起こせば……中学生になって買ってもらった腕時計は、一日に一分ほどの誤差があったかと憶えている。また、毎日、ゼンマイを巻く必要があった。大学生になるまでつかっていた。朝、家でテレビかラジオの時報で時計をあわせて、夜になると誤差があるので見て頭の中で時刻を適当に修正する必要があった。大学生になって、その時計も故障したので、クオーツの時計にした。それも、その後10年以上はつかっただろうか。
新しく買った時計は、ソーラーの電波時計なので、基本的に、時刻合わせとか、電池の交換の必要がない。机の上におきっぱなしにしておく。もうこの年になると、自分の寿命よりも、時計の寿命の方が長いか、という気がしてくる。もうこれから、新しく時計を買うことはないだろう。
時計をひとつ買った。ソーラーの電波時計である。アナログ表示。小さいので、机の上においておくのに買った。
学生の時に買った時計……鉄道時計……もまだ持っている。かなり精確であるが、月に数秒は誤差がでるので、年に何回かは、時刻を合わせないといけない。
今の生活で、時計として、見ることが多いのが、実は、実物の時計ではない。パソコンの時計である。今、メインにつかっているのは、Windows7のマシン。この機種までは、デスクトップにアクセサリの時計(アナログ表示)を表示しておける。それとカレンダーも。これが、便利なので、実際に、時計やカレンダーを見るときは、これを見ることが多い。
これが、他につかっているWindows10マシンになると、無くなってしまっている。Windows8以降、この機能が無くなった。
以前にも書いたことがあると思うが、私は、自分の部屋に、時計(壁掛けの大きいの)と、カレンダー(壁に掛ける文字のおおきいの)は、おかないことにしている。自分の部屋にいるときぐらい、カレンダーからも、時計からも、自由になりたいと思っているからである。
しかし、まったく不要かというとそうではない。時刻を知る必要、日付を確認する必要はある。そのために、鉄道時計と、小型の卓上カレンダーを買って机の上においておくことにしている。
時計に贅沢をしようとは思わない。また、時間にしばられた生活をおくりたいとも思わない。だが、時間に正確であろうという生活の心がけは、いまだにかわっていない。時計が増えたからといって、使える時間が増えるわけではない。時刻がわかればいい。そして、見やすければいいのである。上等の時計ではないが、これからの生活の伴侶になるであろう。
思い起こせば……中学生になって買ってもらった腕時計は、一日に一分ほどの誤差があったかと憶えている。また、毎日、ゼンマイを巻く必要があった。大学生になるまでつかっていた。朝、家でテレビかラジオの時報で時計をあわせて、夜になると誤差があるので見て頭の中で時刻を適当に修正する必要があった。大学生になって、その時計も故障したので、クオーツの時計にした。それも、その後10年以上はつかっただろうか。
新しく買った時計は、ソーラーの電波時計なので、基本的に、時刻合わせとか、電池の交換の必要がない。机の上におきっぱなしにしておく。もうこの年になると、自分の寿命よりも、時計の寿命の方が長いか、という気がしてくる。もうこれから、新しく時計を買うことはないだろう。
雪見障子 ― 2017-09-09
2017-09-09 當山日出夫(とうやまひでお)
宮部みゆきの時代小説を読んでいて……こんど出た『この世の春』、それから三島屋シリーズなど……気になっていることばがある。雪見障子である。
私の理解するところでは、雪見障子というのは、障子の下半分が、ガラスになっていているものである。あるいは、それに、上げ下げして、全面を障子にしたり、あるいは、ガラスで透けて見えるようにしたり、調整できる可動式の小さな障子がついている。
部屋の中にいながら、ガラスを通して、雪見ができる、という意味だと理解していた。
ただ、ジャパンナレッジを検索してみても、「雪見障子」についての解説は見いだせない。Googleで検索してみると、上述のような、現代の建具としての雪見障子が出てくる。
つまり、宮部みゆきの描いている江戸時代には、まだ雪見障子はないのではないか、と思うのだが、どうだろうか。家の中の建具に、ガラスが一般的に使われるようになるのは、どう考えてみても明治より新しいだろう。
でなければ、江戸時代にも、その時代の雪見障子があったのかもしれないが、わからない。気になっていることばである。雪見障子ということばは、風雅なことばであるから、江戸時代にあってもよさそうな気もしている。しかし、その場合でも、現代のようなガラスのはまったものではないであろう。
宮部みゆきの時代小説を読んでいて……こんど出た『この世の春』、それから三島屋シリーズなど……気になっていることばがある。雪見障子である。
私の理解するところでは、雪見障子というのは、障子の下半分が、ガラスになっていているものである。あるいは、それに、上げ下げして、全面を障子にしたり、あるいは、ガラスで透けて見えるようにしたり、調整できる可動式の小さな障子がついている。
部屋の中にいながら、ガラスを通して、雪見ができる、という意味だと理解していた。
ただ、ジャパンナレッジを検索してみても、「雪見障子」についての解説は見いだせない。Googleで検索してみると、上述のような、現代の建具としての雪見障子が出てくる。
つまり、宮部みゆきの描いている江戸時代には、まだ雪見障子はないのではないか、と思うのだが、どうだろうか。家の中の建具に、ガラスが一般的に使われるようになるのは、どう考えてみても明治より新しいだろう。
でなければ、江戸時代にも、その時代の雪見障子があったのかもしれないが、わからない。気になっていることばである。雪見障子ということばは、風雅なことばであるから、江戸時代にあってもよさそうな気もしている。しかし、その場合でも、現代のようなガラスのはまったものではないであろう。
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