『おむすび』「米田家の呪い」2025-03-02

2025年3月2日 當山日出夫

『おむすび』「米田家の呪い」

こういう展開になるドラマを、とても面白いと感じるか、逆に、まったくつまらないと感じるか、人それぞれだろうと思う。たしかに、この週だけを見れば、このような内容でもよかったと感じるところもあるのだが、しかし、最初から見てきて感じることとしては、ストーリーが破綻してきていると思わざるをえない。私としては、そのように強く感じる。

このドラマの視聴率は良くないようなのだが、それならば、何をしてもいいだろうと、開き直った作り方をしたのかもしれないが、それが成功したかどうかは、難しいところである。

糸島から、結の祖父母(永吉と佳代)がやってくる。年齢的には、結の子ども(花)がひ孫で小学生になるから、もう九〇を超えていてもいいぐらいだが、そんなそぶりはまったくなく、二人で元気でやってくる。まあ、このあたりは、ドラマだからということで、許容できることかもしれない。

しかし、木曜日までに万博公園に行って太陽の塔を見て、ナレーションで死んで、金曜日が糸島での通夜。このところで、無理矢理、これまでの、伏線……といっていいかどうかわからないが、とにかく、永吉のこれまでのにわかには信用しがたい発言の数々が、それは本当のことだった、ということになる。どう考えても、このはこびは、コントか、コメディでないと無理である。そう思って見るとしても、かなり無理筋の展開だと感じる。

これは要するに、永吉が、聖人の大学進学のための資金を何かに使ってしまったことの真相が、本当はこうだった……岐阜で洪水の被害にあった人のために使ってしまった……ということを、真実味をもたせるために、その他の、永吉がしたかもしれないことが、実は本当のことだった……ということに、無理にでもしたかった、としか感じられない。

別に、ドラマとしては、永吉がホラ吹きであってもかまわないと思うし、始まったころの糸島編での描写を思い出すと、ホラ話であった方が、より自然に思える。そのようなホラ吹きの祖父(永吉)ではあったが、家族のことを思う気持ちは強かった、その一方で、困った人をほうっておけない人であった、ということで、何の矛盾もない。人間には、こういう一見すると矛盾するような面があるものである。

大学行きの資金を使い込んだことは確かだったかもしれないが、それが、人助けのためだったとしたら、これも、別に岐阜の洪水である必然性はない。それ以外の誰かでも、同じように話しのつじつまを合わせることは可能である。場合によっては、ひみこのために使った金でもよかった。どんな事情かはしらないが、そのことを、ずっと秘密にしなければならないような、深刻な状況があったとしても、ひみこなら何とか話しを作ることができたかもしれない。ホラ吹きの爺さんだが、一つだけ、人に言えない隠し事がある、ということでも十分にドラマになる。

永吉が言った台詞で、これはまずいと感じるところがある。永吉が、聖人に対して、大学に行けなかったが、今の自分に満足しているか、それなら十分である……と言っていたが、これは、絶対に言ってはいけない台詞だろう。今の自分に満足であるならば、過去にあったことは、チャラにしてもよい……このような理屈がまかりとおるなら、世の中、なんでもありになってしまう。

少なくとも、子どもの教育費を使い込んでしまうということが、ゆるされることになるなら、今の時代の子どもの教育をめぐる問題のかなりは、ほとんど無かったことになってしまうことになる。極端にいえば、これは、社会正義に反する考え方である。朝ドラのなかで、メインの登場人物に言わせてよい台詞ではない。

永吉が結に言っていた……困った人は助けなければならない、そのかわり、自分が困ったときは助けを求めてよい。たしかに、これはそのとおりのことなのだが、このような相互扶助の組織、社会の中間的な共同体、これが崩壊してきているのが、現代の日本である。その一方で、何か災害があったときには、思い出したように、絆、ということが言われたりする。

だが、これまでのこのドラマのなかで、社会の中間的共同体の意味や変遷ということを描いてきたかというとそうでもない。昔の糸島の農村風景は、あるいはそうであったかもしれない。また、神戸の震災のときの、お互いの助け合いも、そう言えるかもしれない。しかし、震災のときの、相互扶助ということを、このドラマでは、困ったときは助けを求めてもよいのだ、というメッセージとして描いてきたとは思えない。助けを求められたら、それにこたえるようにするのが、社会の構成員のメンバーの義務であると、言っていたわけでもない。

歴史的に振り返ってみても、困ったら助けを求めてもいいのだ、という視点から語られるようになったのは、かなり新しいことだと思うところである。今から三〇年前、神戸の震災のころはまだそのような発想が社会の中に認知されていなかった。やっとボランティアとして、困った人がいるなら助けなければならない、という意識が広まるきっかけになったということだと、私は記憶している。

社会的な相互扶助の精神が、一方では、中間共同体の破壊ということで忘れられつつ、かたや、それでもそのような発想の必用性が言われる、この矛盾した歴史がある。この矛盾した、社会の価値観の変遷というのが、このドラマには、まったく感じられない。

神戸の商店街の人びとの描写にも、地域密着型の相互扶助の精神の必要という面は、まったく描かれていない。

朝ドラにこのような錯綜した価値観の変遷を描くのは無理ということなのかもしれないが、しかし、神戸の震災を描く、ということでスタートしたのなら、現代にいたるまでに、震災をきっかけにして、人びとの社会のなかでの助け合いの気持ちが、どのように変化してきたのか、ということは、当然ながら視野に入ってきているべきことになる。その歴史のなかに、東日本大震災のこともある。

困ったら助けを求めていいのだ、というメッセージを描くことは、非常に重要なことだと私は思う。日本の社会では、ながく、人には迷惑をかけてはいけない、ということが強調されてきた。だが、助けを求めることは、人に迷惑をかけることではない。人にたよってもいいのである。これは、今の時代としては、より強く強調して語るべきことになっている。

しかし、このドラマでは、困ったときは助けを求めるのではなく、ギャル精神で乗りきればなんとかなる、という方向で話しが進んできている。靴屋の渡辺の描き方が、まさにそうであった。

娘を震災で亡くして、アルコール依存症になって仕事も出来ない。そのような渡辺が、なんとかしてほしいと助けを求める……その微妙なサインに気づいて、聖人や商店街の誰かが、精神科のクリニックに一緒にいって、復帰へのあゆみを始めることができる。ようやく手を動かして靴を作る仕事ができるようになる……たとえば、このような展開であってもよかったはずである。

困ったときは助けを求めていいのだ、という大事なメッセージが、永吉のホラ話のなかにかすんでしまったというのが、残念なことであると感じることになる。

それから、結の病院の仕事であるが、管理栄養士としての本来の仕事としては、患者がこれがどうしても食べたいというリクエストがあったとき……この週では味噌汁……それが、患者にとって食べてもいいものなのかどうかを、専門家として判断することであろうと思う。何が食べたいか聞き取って、料理を作る、これは、看護師だったり、病院の調理担当の職員の仕事だろう。

また、このようなことは、病院の職員としての仕事であって、決して人助けではない。ここに、米田家の呪いを持ち込む必然性は、どこにもない。

2025年3月1日記

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