木村多江のいまさらですが「小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜」 ― 2025-10-01
2025年10月1日 當山日出夫
木村多江の、いまさらですが… 小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜
NHKも小泉八雲関係の番組をいろいろと作っている。作るセクションが異なれば、違った見方があっていい。その中で、この番組は、あえてNHKのメインストリームから離れたところから、ものを見ようとしている。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の伝記的なことについては、すでに多くのことが知られているし、特に謎があるというわけではない。あまり一般に知られていなこととしては、強いていえば、故郷のギリシャでのおいたちから、日本に来るまでにどんなことがあったか、というところだろうか。
この意味で、日本に来る前にアメリカで、(今でいう)多文化共生、番組の中で言っていたことばとしては、クレオールの文化にふれることがあった、ということは確かだろう。だが、これも、視点を変えると、そもそもアメリカがそういうなりたち(いろんなところから人があつまってできた)の国であるということと、同時に、一方で、(この時代であれば)WASPの国であって、有色人種(黒人)は差別されていた、というよりは、さらには人権など認められていなかった時代であった、ということもある。こういうことについては、番組では言っていなかった。
そういうことがありながら、なぜ、ラフカディオ・ハーンは、日本にやってきて、有色人種に対する偏見ということを持っていなかったのか(少なくとも、書き残したものからはうかがえないようである)、ということが大きな問題だと思うのだが、どうだろうか。
小泉八雲について語るとき、私が見るところでは、おうおうにして抜け落ちてしまう部分がある。松江にいたのは二年にも満たない。その後、熊本の五高に行き、東京では東大で教えている。その著作の多くは、その人生の後半に書かれたものである。松江や出雲での体験は貴重なものだっただろうが、しかし、それだけで、小泉八雲の事跡を語るのは、かなり無理がある。むしろ、五高から東大という、その当時の日本における、最高レベルの高等教育機関で教えたことの中で、何を感じて何を考えたのか、ということを、総合的に見なければならないはずである。小泉八雲は、日本の近代をどう思っていたのだろうか。
それは、日本では、「坂の上の雲」の時代であったと同時に、『三四郞』の広田先生が言ったように、「日本はほろびるね」という視点もあった時代でもある。さらにこの時代は、「忘れられた日本人」がまだ日本の主流の人びとであった時代でもある。「逝きし世の面影」が十分に残っていた時代でもある。
明治の日本を見た外国人(西洋人)としては、イザベラバードやチェンバレンなどが思いうかぶ。『古事記』についてふれるなら、チェンバレンのことについてもいっておくべきだろう。
最後に、GHQのボナー・フェラーズのことにふれて、小泉八雲の仕事が、戦後の日本の統治、特に天皇制を残したことに影響があったとするのは、そういう一面もあるだろうが、これは、GHQの日本統治と戦後処理についての、総合的な判断というべきことだろう。
2025年9月30日記
木村多江の、いまさらですが… 小泉八雲〜怪談 日本の面影を訪ねて〜
NHKも小泉八雲関係の番組をいろいろと作っている。作るセクションが異なれば、違った見方があっていい。その中で、この番組は、あえてNHKのメインストリームから離れたところから、ものを見ようとしている。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲の伝記的なことについては、すでに多くのことが知られているし、特に謎があるというわけではない。あまり一般に知られていなこととしては、強いていえば、故郷のギリシャでのおいたちから、日本に来るまでにどんなことがあったか、というところだろうか。
この意味で、日本に来る前にアメリカで、(今でいう)多文化共生、番組の中で言っていたことばとしては、クレオールの文化にふれることがあった、ということは確かだろう。だが、これも、視点を変えると、そもそもアメリカがそういうなりたち(いろんなところから人があつまってできた)の国であるということと、同時に、一方で、(この時代であれば)WASPの国であって、有色人種(黒人)は差別されていた、というよりは、さらには人権など認められていなかった時代であった、ということもある。こういうことについては、番組では言っていなかった。
そういうことがありながら、なぜ、ラフカディオ・ハーンは、日本にやってきて、有色人種に対する偏見ということを持っていなかったのか(少なくとも、書き残したものからはうかがえないようである)、ということが大きな問題だと思うのだが、どうだろうか。
小泉八雲について語るとき、私が見るところでは、おうおうにして抜け落ちてしまう部分がある。松江にいたのは二年にも満たない。その後、熊本の五高に行き、東京では東大で教えている。その著作の多くは、その人生の後半に書かれたものである。松江や出雲での体験は貴重なものだっただろうが、しかし、それだけで、小泉八雲の事跡を語るのは、かなり無理がある。むしろ、五高から東大という、その当時の日本における、最高レベルの高等教育機関で教えたことの中で、何を感じて何を考えたのか、ということを、総合的に見なければならないはずである。小泉八雲は、日本の近代をどう思っていたのだろうか。
それは、日本では、「坂の上の雲」の時代であったと同時に、『三四郞』の広田先生が言ったように、「日本はほろびるね」という視点もあった時代でもある。さらにこの時代は、「忘れられた日本人」がまだ日本の主流の人びとであった時代でもある。「逝きし世の面影」が十分に残っていた時代でもある。
明治の日本を見た外国人(西洋人)としては、イザベラバードやチェンバレンなどが思いうかぶ。『古事記』についてふれるなら、チェンバレンのことについてもいっておくべきだろう。
最後に、GHQのボナー・フェラーズのことにふれて、小泉八雲の仕事が、戦後の日本の統治、特に天皇制を残したことに影響があったとするのは、そういう一面もあるだろうが、これは、GHQの日本統治と戦後処理についての、総合的な判断というべきことだろう。
2025年9月30日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806631/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。