芸能きわみ堂「掘って探って!忠臣蔵(1)~史実と芝居のギャップ~」2025-10-23

2025年10月23日 當山日出夫

芸能きわみ堂 掘って探って!忠臣蔵(1)~史実と芝居のギャップ~

ヤボなことを考えるものだと自分でも思うのだが、書いておくことにする。

この番組にケチをつける気持ちはまったくない。古典芸能を分かりやすく解説して見せるという点では、とてもよくできた番組であり、貴重であると思っている。また、忠臣蔵が、日本の芸能史において、きわめて重要な作品であることはいうまでもない。こういうことを言ったうえで、野暮といわれるのは承知で、あえて書くのだが、私は、忠臣蔵が嫌いである。いや、忠臣蔵をただただ愛好する庶民の心性について、批判的でありたいと思っている。

目的が正しければ、その手段が違法なものであっても許される……この考え方には、どうしても最後まで納得できないものがある。

昭和にはいってからの、五・一五事件の犯行におよんだ軍人たちに対する、一般の庶民、大衆、国民、市民、こういう人びとの反応はどうだったのか、歴史の常識である。減刑、助命嘆願が殺到した。こういう歴史の結果はいうまでもない。歴史の結果の責任を言いたいのではない。一般の人びとというのは、そういうものである、という認識が必要なのである。

手段を選ばないからこそ、革命ということが可能であるし、歴史は動く。全面的に否定されるべきだとは思わないのだが、目的と手段、その適法性、ということについては、あくまでも冷めた目で見ることが必要だと、私は思っている。

赤穂浪士たちを、義士としてたたえる心情は、これはこれとして、人間的なものなのである。だが、こういう気持ちが社会的に暴走してはいけない、ということも、同時に考えておくべきことである。

丸山眞男の『日本政治思想史研究』で論じられたことの一つは、赤穂義士たちの行為は正義であったのかどうか、それに対して、公儀(幕府)としてはどう対処すべきであったのか、ということの議論であった。吉良上野介を討ち取ったのは、犯罪なのか、義挙なのか。元禄赤穂事件の起こったときから、論争となったことであり、おそらく、この議論は、21世紀の今になっても、まだだ決着を見ているとはいいがたいだろう。いや、ずっと議論となり続けることかとも思うし、その一方で、義挙として賞賛する気持ちも、続いていくことだろう。

忠臣蔵を芸能として楽しむことは貴重な文化である。それと同時に、忠臣蔵の政治学、社会史、という視点を持ち続けていくべきだとも思うのである。また、喧嘩両成敗という法理の歴史と、いまの人びとの法と正義についての感覚ということも、忘れてはならないことである。(喧嘩両成敗ということが普遍的に妥当なら、イスラエルもハマスも両方とも悪いということで、決着するのだが、今の国際社会で通用しないことだろう。それぞれの立場や言い分は認めるとしても、正義にもとづく判断は、また別である。そして、その正義も、歴史の中で普遍的といえるかどうかも、また考えるべきことである。)

2025年10月21日記

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