『悪魔の手毬唄』(後編)2026-03-24

2026年3月24日 當山日出夫

『悪魔の手毬唄』(後編)

最後まで見て、エンディングの配役のところで、宮沢りえが、青池リカ/おりん、とあった。ここまで見て、ようやく納得できた。ドラマの中で、おりん婆さんは、そう大きな存在としてはあつかわれていない。金田一の手帖に老婆と書かれているのが、何度か映るぐらいである。

たしか、(もう半世紀ほど前のことなのではっきりと覚えているということではないのだが)おりん婆さんの正体が誰かということは、原作では、大きな謎としてあったはずである。このドラマでは、なぜ、青池リカが、おりん婆さんのふりをして登場してこなければならなかったか、ということが、すっぽりと抜けている。横溝正史の原作では、重要な部分であるので、省略するわけにもいかないので、こんなかたちになったということかなと思う。

最後の、金田一耕助と、ご隠居さん(白石加代子)とのシーンは、原作にあっただろうか。覚えていない。これは、前回作った『犬神家の一族』と同様に、現代の解釈ということかな、どうだろうか。

『モロッコ』は、日本で公開されたトーキー映画の最初ということなのだが、名前を知っているぐらいで、内容は知らない。この映画のことをふまえた脚本になっていることは分かる。見ようと思えば、DVDも安くであるし、AmazonPrimeでも、見ることができる。

ただ、トーキーが登場したからといって、それで、活動弁士がまったく仕事がなくなったかとなると、ここは、少なくとも数年の余裕はあっただろうと思う。(余計なことだが、トーキーの登場は、映画の役者も、科白を音声で語らなければならなくなったので、上手にいい声で科白を言える役者ということで、淘汰されることがあった。職を失ったのは、弁士ばかりではない。)

このドラマのような時代設定で、人物設定、血族関係、これは、今の時代のドラマとしては、とても作ることはできないだろう。また、その家で育った子どもにとっても、自分の本当の親は誰なのか、それが、その人間の存在の根幹にかかわるというほどのことでもなかった。このドラマのように、結婚の相手としてはどうかということでは問題になることはあったが。これは、現代のように、自分のDNAが自分の自分たるすべてであると考えるようなことの、前の時代のことである。

ややこしい人間関係の愛憎ということなのだが、それを、映像のケレン味で見せるというのは、今の時代の横溝正史ドラマの方向になるだろう。

2026年3月22日記

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