「メディア砂漠のなかで進む分断 アメリカ大統領選挙」 ― 2024-09-07
2024年9月7日 當山日出夫
BSスペシャル メディア砂漠のなかで進む分断 アメリカ大統領選挙
それほど新しい内容ではなかったが、アメリカ大統領選挙を前に、アメリカのメディアと世論/輿論の形成について、いろいろと考えるところがあった。
アメリカの民主主義が地方のコミュニティに支えられている、ということは言われていることだと思う。だが、それをさらに支えることになるはずの地方新聞が、ここ数年の間にどんどん消滅してしまていく。と同時に、ネットメディアが台頭してきている。それが、地方紙の代わりをになうことになっている。また、同時に、メディアによる世論/輿論の分断ということもある。これについては、これまでに多く語られてきていることだ、さらに加速しようとしている。
興味深かったのは、ネットメディアのコンテンツ制作にAIが利用されていること。民主党よりであれ、共和党よりであれ、適当にキーワードを設定するだけで、新聞記事が書けてしまう。その結果、「ニュース」の制作コストが激減することになり、各地にいる人びとに、その土地にあった(と考えられる)記事が配信されていく。
ピンクスライムと言われる新しい地方メディアの、資金源がどのようなものかは分からないということだったが、どのような企業とか組織であっても、もう驚くことはないだろう。巧みな世論操作をしようとしているのは、いつでもどこでもありうることである。それが、今では、技術の発達でより簡単になった。
おそらく、日本でも、このようなAIを使った記事の配信ということは、時間の問題として出てくるだろう。いや、もうすでに一部にはそうなっているかもしれない。
フィルターバブルとか、エコーチェンバーとか、いろいろと言われているが、これは、左右どちらについても言える現象になっている。アメリカでもそうであるし、日本でもそうなっている。(さて、韓国とか台湾とかではどうなのだろうか、ということが気になる。)
私は、二〇〇九年からTwitter(X)を使っているが、ここ数年は、フォローは基本的に増やしていない。多様な意見が流れてくるのを、それはそれとして眺めていたいからである。そのバランスを保つことが重要だと考えている。
とはいえ、先般の東京都知事選のときには(選挙が終わってからしばらく)、タイムラインが蓮舫支持、小池批判、石丸批判で埋め尽くされてしまうという状態になった。これも、しばらくするとほとぼりが冷めて、もとに戻った。ある意味では、左派の熱狂ぶりと、強いて言えばだが、そんなことをしているから嫌われるのだ、これをいさめる人がいない、それほど人材が払底しているのか、という実態がよく分かったというところである。
結局のところ、自分とは異なる立場の意見に接する機会をあえて作るにはコスト(時間的にも金銭的にも)かかる。ネットメディアは、基本的にタダである。そのコストを払う価値がある人たちと、そうは思わない人たち、この分断(といっていいだろうか)の方が問題かもしれない。
私自身のことについていえば、今年度から外に出て教室で話す仕事はもう辞めてしまった。それもあるが、『世界』『正論』『中央公論』を買って読むようにしている。月刊誌ぐらいのペースで読んでいくのが、適していると感じる。これもいつまで続けられるだろうかという気もしているのだが。
2024年8月31日記
BSスペシャル メディア砂漠のなかで進む分断 アメリカ大統領選挙
それほど新しい内容ではなかったが、アメリカ大統領選挙を前に、アメリカのメディアと世論/輿論の形成について、いろいろと考えるところがあった。
アメリカの民主主義が地方のコミュニティに支えられている、ということは言われていることだと思う。だが、それをさらに支えることになるはずの地方新聞が、ここ数年の間にどんどん消滅してしまていく。と同時に、ネットメディアが台頭してきている。それが、地方紙の代わりをになうことになっている。また、同時に、メディアによる世論/輿論の分断ということもある。これについては、これまでに多く語られてきていることだ、さらに加速しようとしている。
興味深かったのは、ネットメディアのコンテンツ制作にAIが利用されていること。民主党よりであれ、共和党よりであれ、適当にキーワードを設定するだけで、新聞記事が書けてしまう。その結果、「ニュース」の制作コストが激減することになり、各地にいる人びとに、その土地にあった(と考えられる)記事が配信されていく。
ピンクスライムと言われる新しい地方メディアの、資金源がどのようなものかは分からないということだったが、どのような企業とか組織であっても、もう驚くことはないだろう。巧みな世論操作をしようとしているのは、いつでもどこでもありうることである。それが、今では、技術の発達でより簡単になった。
おそらく、日本でも、このようなAIを使った記事の配信ということは、時間の問題として出てくるだろう。いや、もうすでに一部にはそうなっているかもしれない。
フィルターバブルとか、エコーチェンバーとか、いろいろと言われているが、これは、左右どちらについても言える現象になっている。アメリカでもそうであるし、日本でもそうなっている。(さて、韓国とか台湾とかではどうなのだろうか、ということが気になる。)
私は、二〇〇九年からTwitter(X)を使っているが、ここ数年は、フォローは基本的に増やしていない。多様な意見が流れてくるのを、それはそれとして眺めていたいからである。そのバランスを保つことが重要だと考えている。
とはいえ、先般の東京都知事選のときには(選挙が終わってからしばらく)、タイムラインが蓮舫支持、小池批判、石丸批判で埋め尽くされてしまうという状態になった。これも、しばらくするとほとぼりが冷めて、もとに戻った。ある意味では、左派の熱狂ぶりと、強いて言えばだが、そんなことをしているから嫌われるのだ、これをいさめる人がいない、それほど人材が払底しているのか、という実態がよく分かったというところである。
結局のところ、自分とは異なる立場の意見に接する機会をあえて作るにはコスト(時間的にも金銭的にも)かかる。ネットメディアは、基本的にタダである。そのコストを払う価値がある人たちと、そうは思わない人たち、この分断(といっていいだろうか)の方が問題かもしれない。
私自身のことについていえば、今年度から外に出て教室で話す仕事はもう辞めてしまった。それもあるが、『世界』『正論』『中央公論』を買って読むようにしている。月刊誌ぐらいのペースで読んでいくのが、適していると感じる。これもいつまで続けられるだろうかという気もしているのだが。
2024年8月31日記
「ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法」 ― 2024-09-07
2024年9月7日 當山日出夫
100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法
知識としては、大学のときに国文科でまなんでいれば(もう半世紀ほど前のことになるが)、『源氏物語』の英訳として、『The Tale of Genji』があることは知識としては知っていたことになる。それを日本語に訳した本が、近年になって刊行されたことも知っている。けれど、自分でそれを買って読もうと思ったことはない。『源氏物語』は、古い方の「古典大系」でざっと読んだのをはじめとして、「新潮古典集成」「新日本古典文学全集」「岩波文庫」(新しい方)は、読んできている。新しい「古典大系」は持っているが、これで通読したということはない。(本文が大島本にかなり忠実に作ってあることもあって、少し読みづらいと感じる。)
ウェイリー版『源氏物語』が、日本でもよく読まれた本であることは、文学史の知識である。
『源氏物語』を見る視点として、このような見方ができるのか、というところがいくつかあった。
まず、どうでもいいことなのだが……伊集院光が『東京物語』(小津安二郎)を、どこか遠くの別世界の話しとして観る、という意味のことを言っていて、そういうものなのかなあ、と思った。私の世代だと、小津安二郎が描いた戦後の日本の生活は、生いたちの感覚の延長にあると感じる。私が学生だったころ、浅草の六区の映画街では、ふる~い映画ということで、小津安二郎の作品が上映されていたりした。それが、日本映画の巨匠になってきたのは、新しいことだというのが、私の感じるところである。
光源氏は火野正平である、というのは斬新でとっぴもないことのようだが、しかし、説明としては納得するところもある。相手の女性を輝かせるという意味での、シャイニングということなら、そういわれればそうかなと思わないでもない。
夕顔は物の怪に取り殺されてしまうし、葵上も同じである。紫上は、今でいえば拉致誘拐されてきた少女である。その最後は、満足して死んだといってもいいだろうか、どうだろうか。明石の君は、子どもを産んでも離ればなれになってしまう。女三宮も最後はあわれである。どうも、『源氏物語』の女性たちが、光源氏と出会って、その生涯が幸福に光り輝いている、とはいえないような気もする。しかし、光源氏とつきあっている、そのときに限定してみれば、どの女性も充足していたというべきであろう。
番組のなかで『源氏物語』の「原文」としてつかってあったのは、岩波文庫版であった。今では、もっとも標準的なテキストの一つといっていいだろう。これは、「新日本古典文学大系」をもとにしているが、冒頭の部分でちょっと違う。「~いとやんごとなききはにはあらぬが、」と、「、」がある。これが、もとの「新日本古典文学大系」ではない。これは、学問的には「、」がない方がただしい。このことは、『助詞の歴史的研究』で、石垣謙二があきらかにした研究にもとづくことになる。(もし、学生のときにこの本を読んでいなかったら、国語学にすすむことはなかったかもしれない。)
ところで、ウェイリーがつかった『源氏物語』の日本語のテキストは、いったい何だったのだろうか。これなど、すでに研究されていることだと思うが、ちょっと気になったことである。
能の題材として、『平家物語』『源氏物語』が多く使われている、これはたしかなのだが、では、中世、室町のころ、『源氏物語』は実際にどのような人たちに、どのように読まれていたのか、古注釈をはじめとして、中世における日本の古典のあり方として、興味のあるところである。このあたりのことは、近年になって研究のすすんできている分野であると思っている。
2024年9月5日記
100分de名著 ウェイリー版“源氏物語” (1)翻訳という魔法
知識としては、大学のときに国文科でまなんでいれば(もう半世紀ほど前のことになるが)、『源氏物語』の英訳として、『The Tale of Genji』があることは知識としては知っていたことになる。それを日本語に訳した本が、近年になって刊行されたことも知っている。けれど、自分でそれを買って読もうと思ったことはない。『源氏物語』は、古い方の「古典大系」でざっと読んだのをはじめとして、「新潮古典集成」「新日本古典文学全集」「岩波文庫」(新しい方)は、読んできている。新しい「古典大系」は持っているが、これで通読したということはない。(本文が大島本にかなり忠実に作ってあることもあって、少し読みづらいと感じる。)
ウェイリー版『源氏物語』が、日本でもよく読まれた本であることは、文学史の知識である。
『源氏物語』を見る視点として、このような見方ができるのか、というところがいくつかあった。
まず、どうでもいいことなのだが……伊集院光が『東京物語』(小津安二郎)を、どこか遠くの別世界の話しとして観る、という意味のことを言っていて、そういうものなのかなあ、と思った。私の世代だと、小津安二郎が描いた戦後の日本の生活は、生いたちの感覚の延長にあると感じる。私が学生だったころ、浅草の六区の映画街では、ふる~い映画ということで、小津安二郎の作品が上映されていたりした。それが、日本映画の巨匠になってきたのは、新しいことだというのが、私の感じるところである。
光源氏は火野正平である、というのは斬新でとっぴもないことのようだが、しかし、説明としては納得するところもある。相手の女性を輝かせるという意味での、シャイニングということなら、そういわれればそうかなと思わないでもない。
夕顔は物の怪に取り殺されてしまうし、葵上も同じである。紫上は、今でいえば拉致誘拐されてきた少女である。その最後は、満足して死んだといってもいいだろうか、どうだろうか。明石の君は、子どもを産んでも離ればなれになってしまう。女三宮も最後はあわれである。どうも、『源氏物語』の女性たちが、光源氏と出会って、その生涯が幸福に光り輝いている、とはいえないような気もする。しかし、光源氏とつきあっている、そのときに限定してみれば、どの女性も充足していたというべきであろう。
番組のなかで『源氏物語』の「原文」としてつかってあったのは、岩波文庫版であった。今では、もっとも標準的なテキストの一つといっていいだろう。これは、「新日本古典文学大系」をもとにしているが、冒頭の部分でちょっと違う。「~いとやんごとなききはにはあらぬが、」と、「、」がある。これが、もとの「新日本古典文学大系」ではない。これは、学問的には「、」がない方がただしい。このことは、『助詞の歴史的研究』で、石垣謙二があきらかにした研究にもとづくことになる。(もし、学生のときにこの本を読んでいなかったら、国語学にすすむことはなかったかもしれない。)
ところで、ウェイリーがつかった『源氏物語』の日本語のテキストは、いったい何だったのだろうか。これなど、すでに研究されていることだと思うが、ちょっと気になったことである。
能の題材として、『平家物語』『源氏物語』が多く使われている、これはたしかなのだが、では、中世、室町のころ、『源氏物語』は実際にどのような人たちに、どのように読まれていたのか、古注釈をはじめとして、中世における日本の古典のあり方として、興味のあるところである。このあたりのことは、近年になって研究のすすんできている分野であると思っている。
2024年9月5日記
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