BS世界のドキュメンタリー「トランプ2.0 アメリカ“黄金時代”の実像」2025-12-16

2025年12月16日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「トランプ2.0 アメリカ“黄金時代”の実像」

2025年、フランスの制作。

今のアメリカのトランプ大統領と、その政策について、可能な限り否定的な観点で作ってある。これはこれで、一つのものの見方であり、こういう見方をすることもありだとは思う。

だが、こういう反トランプという主張をくりひろげてみたところで、トランプ大統領の岩盤支持層という人たちに、とどくとは思えない。現実的には、メディアの分断ということがあり、自分の見たいものしか見ない。それぞれの立場においてある、ということがある。トランプ支持の人たちは、そのようなテレビ番組やネット情報しか見ないし、逆に、反トランプという人たちも、同様である。おたがいに、タコツボの中にはいって罵り合っているようなものである。(ちなみに、タコツボということばは、丸山眞男の『日本の思想』で使われて広まったことばであるが、今では、このことばをアメリカについて使っても違和感を感じなくなった。)

もしトランプ支持者、岩盤支持層が、この番組を見ることがあったとしても、たとえば、ラストベルトの労働者であるような人たちの心にうったえるものがあるだろうか。もしあるとしても、あなたたちは、愚かな人物を王としてあがめている愚民ですよ、ということでしか受けとめられないだろう。

いわゆるリベラル……私は、「いわゆる」とつけて使う、それは、今のいわゆるリベラルの思想を実現するには、リベラリスト独裁という強権によるしかないというジレンマを自覚しているとは思えないからであるが……の主張に同意する人たちの自己満足の番組でしかない。この意味で、アメリカのみならず、これを作ったフランスの社会においても、分断はすすみ、対話の姿勢が薄れてきていることを、感じることになる。

軍人としての能力に、男性とか女性とか、あるいは、トランスジェンダーとか、ということは、基本的には関係ないはずである。強いていえば、部隊で行動をともにするメンバーとして、お互いにうまくやっていけるかどうか、ということで判断することはあるかもしれない。

私の考えとしては、軍人にトランスジェンダーの人がいても、それが任務に支障がないかぎり、排除する必要はない。軍というのは、きわめて技術的な組織であり、その任務である。

だが、日本だとどうだろうか。日本のいわゆるリベラルというような立場からすれば、そもそも軍というものを忌避するだろうし、また、トランスジェンダーの人ならば、軍務につきたいと思うはずがない(絶対に平和主義者でなければならない)、ということになるかもしれない。これはこれで、非常な偏見だと、私には思えるのだが。

2025年12月12日記

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 宮本常一〜民俗学との出会い〜」2025-12-16

2025年12月16日 當山日出夫

おとなのEテレタイムマシン わたしの自叙伝 宮本常一〜民俗学との出会い〜

1979年の放送である。

かなり以前のことだが、ラジオで、小沢昭一が話しをしていた。若いころの思い出として、宮本常一を一緒に旅をしたことがあった。そのとき、リュックサックを背負った宮本常一が、夕方になって暗くなってきて、今晩はあの家に泊めてもらいましょうと言って、その家に行くと、本当に泊めてもらえた。こういうことを、ある種の驚きを持って回想して話していたことがあった。あの小沢昭一が(というしかないが)驚くような生活の世界が、昔はあったし、宮本常一は、実際にその世界の中で生きて、その学問(と言ってはいけないのかもしれないが)をやった人であった。

これをラジオで聞いたとき、宮本常一とはすごい人だったなあ、と感慨深く思ったものである。

この話しを、宮本常一自身が語っている。旅をしていて、夜になると、泊めて貰えそうな家があって、そこに泊めてもらえる、あるいは、どこそこならといって紹介してもらえる。見ず知らずの旅人を泊める人もいたし、そういう人の生活があることを信頼しての、宮本常一の旅だったことになる。

渋沢敬三から、学者になっていはいけない。主流になっていはいけない。そういうことでは、見えないものがある。基礎的な資料を収集する仕事こそ、本当は大切なのだ……ということを言われて、宮本常一は、旅に出ることになる。日本を歩いて、(今のことばでいえば)民俗資料の収拾に従事した。

おそらく、宮本常一に見えていた、「日本」や、人びとの生活は、現在の我々とはまったく違ったものだったにちがいない。

宮本常一が日本を歩いた戦前のころ、80才、90才という高齢の老人は、明治維新の前の生活のことを記憶している。明治維新になって、日本が近代化していくプロセスを、地方の百姓の視点から、肌で感じとっていた経験を持っている。

話しをしてくれる人は、文字が読めたということではなかった。だが、話し出すと実に雄弁で、二日ほどつづけて話し続けることもあった。これは、昔のことを憶えている、話をすることについて、ある種の定型があってのことだと、宮本常一は言っていたが、識字の歴史、昔話や伝説や世間話(民俗学用語として)が、どのように語りつたえられてきたか、改めて考えることになる。

柳田国男や折口信夫の研究は、起源を求めるものである。だが、大事なことは、昔からのことが、どのように伝えられて今にいたっているのか、今はどうであるのか、ということであると語っていた。これは、そのとおりだと、私などは、自省するところがある。

えてして、研究ということは、起源をもとめがちである。いわく、~~の歴史、~~の社会史、など。場合によっては、そういうものは近代になってから作ったものであるとして、おとしめることもある。しかし、こういう発想で、ものを考えていたのでは、古くから人びとが、どのような生活の感覚で生きてきたのか、伝えるべきものは何だと思って伝えてきたのか、新しく変化したのは何だったのか、その人びとの歴史の根本にふれることはできないだろう。

なによりも印象的だったのは、宮本常一は、庶民(常民といってもいいかもしれないし、今では一般大衆ということもあるだろうが)のことを信頼している。そういう人たちが、歴史の中で生きてきたことを、重要視している。これは、今の時代だと、右派からであっても、左派からであっても、また、いわゆるリベラルからであっても、一般の人びとを愚民視する、劣等民族と言ってしまうこともあり、ポピュリズム批判という形で表現されることが多い。こういうことでいいのだろうか、と思うのだが、どうなるだろうか。

これは、書斎的な学問の視点から言うことになるかとも思うのだが、日本文化の重層性、多様性、ということを考える。「忘れられた日本人」が伝えてきたものが、つい数十年前までの日本の人びとの生活の中にはあった。文字になった文献や史料からは、うかがうことのできない、ゆたかな精神の世界……それは、日本文化の中のもう一つの文化(それは社会の階層や地域によって複数であったかもしれない)といってもいいかもしれないが……こういうものが、たしかにあったことを、思ってみることになる。こういうことがあってこその、学問的想像力というべきだろう。(現在の人文学は、学問的想像力が痩せ細ってきていると感じる。)

地方で、朝日新聞を購読している人がいて、その新聞を全部きちんと整理して保存してあった。こういう人が、昔はいたということには、感慨深いものがある。(新聞がどれぐらい読まれていたか、どのように読まれていたか、その記事の内容は人びとの生活にどんな意味があるものだったのか、ということで考えることになると思う。メディア史は都市部の生活に目がいきがちである。ここは反省する必要がある。)

2025年12月14日記

ダークサイドミステリー「“神秘の力”のフェイクを暴け! 超能力者vs.マジシャン40年バトル」2025-12-16

2025年12月16日 當山日出夫

ダークサイドミステリー “神秘の力”のフェイクを暴け! 超能力者vs.マジシャン40年バトル

厳密に考えると、科学(サイエンス)と疑似科学との境界には、あいまいな部分がのこることになるだろうとは思うのであるが、しかし、どう考えてもインチキなものは、どうにかしないといけない。いや、むしろ問題なのは、インチキをもとめる(しかも、それを科学の代わりに)人間の心理の方である。

番組では言っていなかったが、同じようなことは、『予言がはずれるとき』(レオン・フェスティンガー)についても、言えることかとも思う。人間というのは、自分が求めたいと思っている(だが、それが何なのか明確にはわかっていないとして)を、求めたがるものなのである。

番組を見ていて、ランディのやってきたことは、かなりきわどいなあ、と感じる。うまくインチキを見抜けたからよかったのだが、見抜けなかった場合、インチキを承認することになるので、ある意味では危険である。

一般的には、科学リテラシの重要性ということになる。だが、その一方で、科学の発達の歴史は、それまでの科学者が常識的にはこんなことは無いだろう、無理だろうと、思ってきたことへの挑戦の歴史でもある。このあたりのことを思うと、きれいに疑似科学を排除することが、難しいことでもあるかと思うのだが。

せいぜい言えることとしては、その「科学」の思考法、サイエンスの思考法にのっとったものなのかどうか、ということになる。現代では、検証可能性、という言い方になるだろうが。

それをサイエンスの方法論で証明するには、どういう手続きや実験が必要なのか、ということへの広い理解が必要になってくるかと思っている。方法論的に正しければ、そうであると認めざるをえないのが、サイエンスということでもあるといえるかとも思うが。

私としては、クリティカル・シンキングということも重要であるが、科学を知識として教えるのではなくて、その歴史と思考法ということを理解しておくことの方が意味があるかと思う。ことが科学の領域のことであれば、それこそサイエンスの方法論でなんとか議論ができることになるが、世の中にあふれている様々なフェイク情報については、そもそも、人間によって見ている世界がまったく違っているので、難しい。

そうはいっても、疑似科学にだまされるのは、自己責任であると言いきってしまえるかどうか。各自の基本となる価値観や、思考の方法論について、どこまで、自省できて、どこまで懐疑的であるのが妥当なのか、それはどういう歴史的背景をもって形成されてきたものなのか、ということをふくめて、人間とはどのように考えるものなのか、という問いかけになるにちがいない。

2025年12月8日記