ダークサイドミステリー「“神秘の力”のフェイクを暴け! 超能力者vs.マジシャン40年バトル」 ― 2025-12-16
2025年12月16日 當山日出夫
ダークサイドミステリー “神秘の力”のフェイクを暴け! 超能力者vs.マジシャン40年バトル
厳密に考えると、科学(サイエンス)と疑似科学との境界には、あいまいな部分がのこることになるだろうとは思うのであるが、しかし、どう考えてもインチキなものは、どうにかしないといけない。いや、むしろ問題なのは、インチキをもとめる(しかも、それを科学の代わりに)人間の心理の方である。
番組では言っていなかったが、同じようなことは、『予言がはずれるとき』(レオン・フェスティンガー)についても、言えることかとも思う。人間というのは、自分が求めたいと思っている(だが、それが何なのか明確にはわかっていないとして)を、求めたがるものなのである。
番組を見ていて、ランディのやってきたことは、かなりきわどいなあ、と感じる。うまくインチキを見抜けたからよかったのだが、見抜けなかった場合、インチキを承認することになるので、ある意味では危険である。
一般的には、科学リテラシの重要性ということになる。だが、その一方で、科学の発達の歴史は、それまでの科学者が常識的にはこんなことは無いだろう、無理だろうと、思ってきたことへの挑戦の歴史でもある。このあたりのことを思うと、きれいに疑似科学を排除することが、難しいことでもあるかと思うのだが。
せいぜい言えることとしては、その「科学」の思考法、サイエンスの思考法にのっとったものなのかどうか、ということになる。現代では、検証可能性、という言い方になるだろうが。
それをサイエンスの方法論で証明するには、どういう手続きや実験が必要なのか、ということへの広い理解が必要になってくるかと思っている。方法論的に正しければ、そうであると認めざるをえないのが、サイエンスということでもあるといえるかとも思うが。
私としては、クリティカル・シンキングということも重要であるが、科学を知識として教えるのではなくて、その歴史と思考法ということを理解しておくことの方が意味があるかと思う。ことが科学の領域のことであれば、それこそサイエンスの方法論でなんとか議論ができることになるが、世の中にあふれている様々なフェイク情報については、そもそも、人間によって見ている世界がまったく違っているので、難しい。
そうはいっても、疑似科学にだまされるのは、自己責任であると言いきってしまえるかどうか。各自の基本となる価値観や、思考の方法論について、どこまで、自省できて、どこまで懐疑的であるのが妥当なのか、それはどういう歴史的背景をもって形成されてきたものなのか、ということをふくめて、人間とはどのように考えるものなのか、という問いかけになるにちがいない。
2025年12月8日記
ダークサイドミステリー “神秘の力”のフェイクを暴け! 超能力者vs.マジシャン40年バトル
厳密に考えると、科学(サイエンス)と疑似科学との境界には、あいまいな部分がのこることになるだろうとは思うのであるが、しかし、どう考えてもインチキなものは、どうにかしないといけない。いや、むしろ問題なのは、インチキをもとめる(しかも、それを科学の代わりに)人間の心理の方である。
番組では言っていなかったが、同じようなことは、『予言がはずれるとき』(レオン・フェスティンガー)についても、言えることかとも思う。人間というのは、自分が求めたいと思っている(だが、それが何なのか明確にはわかっていないとして)を、求めたがるものなのである。
番組を見ていて、ランディのやってきたことは、かなりきわどいなあ、と感じる。うまくインチキを見抜けたからよかったのだが、見抜けなかった場合、インチキを承認することになるので、ある意味では危険である。
一般的には、科学リテラシの重要性ということになる。だが、その一方で、科学の発達の歴史は、それまでの科学者が常識的にはこんなことは無いだろう、無理だろうと、思ってきたことへの挑戦の歴史でもある。このあたりのことを思うと、きれいに疑似科学を排除することが、難しいことでもあるかと思うのだが。
せいぜい言えることとしては、その「科学」の思考法、サイエンスの思考法にのっとったものなのかどうか、ということになる。現代では、検証可能性、という言い方になるだろうが。
それをサイエンスの方法論で証明するには、どういう手続きや実験が必要なのか、ということへの広い理解が必要になってくるかと思っている。方法論的に正しければ、そうであると認めざるをえないのが、サイエンスということでもあるといえるかとも思うが。
私としては、クリティカル・シンキングということも重要であるが、科学を知識として教えるのではなくて、その歴史と思考法ということを理解しておくことの方が意味があるかと思う。ことが科学の領域のことであれば、それこそサイエンスの方法論でなんとか議論ができることになるが、世の中にあふれている様々なフェイク情報については、そもそも、人間によって見ている世界がまったく違っているので、難しい。
そうはいっても、疑似科学にだまされるのは、自己責任であると言いきってしまえるかどうか。各自の基本となる価値観や、思考の方法論について、どこまで、自省できて、どこまで懐疑的であるのが妥当なのか、それはどういう歴史的背景をもって形成されてきたものなのか、ということをふくめて、人間とはどのように考えるものなのか、という問いかけになるにちがいない。
2025年12月8日記
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