『麒麟がくる』あれこれ「焼討ちの代償」2020-12-01

2020-12-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十四回「焼討ちの代償」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/34.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月14日
『麒麟がくる』あれこれ「比叡山に棲む魔物」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/24/9319822

見ていると、このドラマは本能寺の変にむけて徐々にかじをきっているという印象がある。

この回で描いていたこととしては、次の二点が印象に残る。

第一は、光秀の苦悩。

比叡山を焼き討ちしたことで、その罪悪感に光秀はさいなまれる。後悔する気持ちがある。ただ、比叡山を焼き払えばよいというだけの信長とは違う。その苦悩する光秀の姿が印象に残る。

第二は、光秀の策謀。

比叡山の件で、幕府は信長と対立することになる。松永と筒井の戦を利用して、信長をきってすてようとしている。そこで、光秀は、一計を案じることになる。堺での茶会の席を利用して、松永、筒井のふたりを対面させることにする。ここは、なんとか無事にことをおさめることができたようだ。

以上の二点が光秀のこととして、印象に残るところである。

ところで、堺での光秀と、筒井、松永の対面シーンは、面白かった。権謀術数うずまく戦乱の世にあって、それぞれが生き残りをかけて、知謀をつくす。特に、光秀と松永の会話が興味深い。ここで、「天下」ということばがでてきていた。

信長は、天下をとることになるのか。あるいは、比叡山を焼き討ちするほどの人間でなければ、これからさき天下をおさめることはできないのか、いろいろ、今後の展開を考えるうえで、気になるところがあった。(とはいえ、歴史の結果は、すでに現代の我々は知ってはいるのだが。)

そして、不気味な印象を残すのが正親町天皇。あるいは、戦国時代の終わり、最大の策士といっていいのいかもしれない。

次回、信長と室町幕府との対立というところにすすんでいくようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年11月30日記

追記 2020-12-08
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月8日
『麒麟がくる』あれこれ「義昭、まよいの中で」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/08/9324621

センニンソウ2020-12-02

2020-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は、仙人草である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月25日
ガマズミ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/25/9320163

我が家のうちに咲く花である。一昨年から目をとめるようになったろうか。去年、秋になって咲くのを待っていたのだが、目にすることなく過ぎてしまったのを覚えている。

花の直径が、3センチほど。4花弁の白い花である。生け垣にまつわるように咲くので、花の咲いているのが、遠くからでも見える。

ただ、白い花なので写真に撮るのはちょっと難しい。といってそんなに凝ったことはしないが、現像処理のときに、露出を少しアンダーに調整することになる。使ったレンズは、タムロンの180ミリである。

来年の秋も、またこの花の写真をとれたらと思っている。

センニンソウ

センニンソウ

センニンソウ

センニンソウ

センニンソウ

センニンソウ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年11月30日記

追記 2020年12月9日
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月9日
ピラカンサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/09/9324954

『グッド・バイ』太宰治/新潮文庫2020-12-03

2020-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

グッド・バイ

太宰治.『グッド・バイ』(新潮文庫).新潮社.1972(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100608/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月30日
『ヴィヨンの妻」太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/30/9321870

新潮文庫の編集としては、これが太宰治の最後の短篇集ということになる。

ここまで太宰治の作品を、おおむね初期の作品からだいたい順番に読んできて、戦後の短篇集を読んで思うことは……やはり太宰は、戦争に敗北したということを、深くこころに刻んでいるということである。太宰文学における戦後を感じるといってもいいだろう。

おそらく、この当時の文学者で、敗戦ということに何も影響をうけなかった文学者はいないであろう。それぞれに、感じるところ、思うところがあったにちがいない。その中にあって、太宰の戦後の作品は、ひときわ輝くところがあると感じる。

それは、敗戦によって落ちるところまで落ちるという感覚であり、それにもかかわらず生きていくことになる、人間の生命力のようなものといってよいかもしれない。この絶望感と希望との間の絶妙なバランスのうえに、かろうじてなりたっていたのが、太宰の戦後文学作品であるといってよいのではないだろうか。

戦後という時代において太宰治がこの作品を書いたのではない、と思う。逆なのだろう。太宰治が、これらの作品を書くことによって、人びとは、自分の生きている時代を「戦後」と認識することができた、そうとらえるべきなのかと思う。

このことを強く感じさせる作品が、「冬の花火」「春の枯葉」の二つの戯曲である。これらの作品は、太宰治の作品のなかでも屈指の傑作といっていいと思う。

そして、ここにおさめられた短篇を読んで感じるところは、太宰ならではの語り口のたくみさ、特に一人称視点からの語りのうまさである。この文章のうまさは、太宰にとって天性のものとしかいいようがないだろう。

だが、あるいは、この語り口のうまさが、作家として自分自身を追い詰めていくことになってしまったのかもしれないとも思う。

残るは、『斜陽』『人間失格』それから、いくつかの短篇ということになる。続けて読むことにしたいと思う。

2020年11月30日記

追記 2020-12-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月4日
『斜陽』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/04/9323253

『斜陽』太宰治/新潮文庫2020-12-04

2020-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

斜陽

太宰治.『斜陽』(新潮文庫).新潮社.1950(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100602/

続きである。
やまもも書斎記 2020年12月3日
『グッド・バイ』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/03/9322892

その作品の冒頭のひとつのことばを明瞭に記憶している小説である……「あ」、というお母さまのことばは、昔、若いときに読んで、強く印象に残っている。しかし、その後、どんなストーリーが展開したかは、今となっては、すっかり忘れてしまっていた。

「戦後」という時代の中にあって、落ちるところまで落ちるしかない、そんな覚悟というか、あるいは、あきらめというか、どうしようもない気分を、この作品は見事に描いている。これは、『グッド・バイ』を読んだときにも、感じたことであるが、おそらく当時の読者にとっては、この『斜陽』という作品を読むことによって、今、自分たちの生きている「戦後」という時代を再認識することになったのだろうと思う。文学とは、そういうものである。

現実が先にあるのではない。文学がそれを描くことによって、現実が改めて認識のうえにのぼってくるのである。文学によって気づくといってもいいかもしれない。この意味において、『斜陽』は、きわめてすぐれた戦後文学である。

そして、同時に、文学としての普遍性を獲得している。何もかも失って自暴自棄なるか、ただあきらめてほろんでいくことになるのか、ひとそれぞれだろうが、世の中のおおきな流れのなかで落魄していくしかない身の上というのは、いつの時代にもそれなりに存在するものだろう。この落魄、喪失の観念を、『斜陽』は描ききっている。

私が、太宰治の作品のなかから何か一冊を選べといわれれば、たぶん、『斜陽』を選ぶことになると思う。

2020年11月30日記

追記 2020-12-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月5日
『人間失格』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/05/9323539

『人間失格』太宰治/新潮文庫2020-12-05

2020-12-05 當山日出夫(とうやまひでお)

人間失格

太宰治.『人間失格』(新潮文庫).新潮社.1952(2006.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100605/

続きである。
やまもも書斎記 2020年12月4日
『斜陽』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/04/9323253

ひとによって、文学作品の好みはわかれる。この作品が、好きかどうか、ひとそれれぞれだろうと思う。

私の場合、この『人間失格』は、あまり好きな作品ではない。主人公に共感して読むということができない。あまりにも過剰な自意識に辟易するというのが、正直なところといっておきたい。

だが、文学作品の一般論からするならば、この作品は、広く世に読まれる作品である、このことは理解できる。無論、そこには、太宰ならではの語り口の巧さというものがあってのことではあるが。

この新潮文庫が世に出たのは、昭和二七年。太宰の死後、それほどときがたっていないころである。それが、今まで、版を重ねて読み継がれてきたということは、やはり、この作品の人気の証拠といっていいのだろう。

太宰治の作品から何か選ぶとなると、私は、『斜陽』をあげてみたい気がする。が、多くの人は、『人間失格』をあげることになるかもしれない。おそらく、この作品は、近代の日本文学史のなかで、しかるべく評価の定まることのない作品であるのかとも思う。この意味では、太宰治は、いまだに「現代」の作家であり続けていることになる。

2020年11月30日記

追記 2020-12-07
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月7日
『津軽通信』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/07/9324280

『おちょやん』あれこれ「うちは、かわいそやない」2020-12-06

2020-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第1週「うちは、かわいそやない」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/01/

これはもう習慣のようになってしまっているので、いつものようにNHKの朝ドラを見ている。新しくはじまったのは『おちょやん』である。主に昭和の大阪を舞台に描くことになるはずである。

第一週は、ヒロイン(千代)の子ども時代。河内の農村が舞台であった。のんだくれの父、そこに現れた新しい母、まだ幼い弟。そして、近所の人びと、ともだち、学校の先生。おきまりのパターンといってしまえばそれまでだが、第一週を見た限りでは、よく作ってあると感じた。

特に、千代(毎田暖乃)の演技が、実に達者である。子役の演技だけで、この週を見てしまったようなところがある。それから、新しい母の、栗子(宮澤エマ)が、いい感じを出していた。

この河内の村は、第一週だけで、次週からは、千代の奉公先になる道頓堀が舞台になるようだ。

ところで、このドラマでは、千代は学校に通っていなくて字が読めないという設定になっている。さて、これから、大阪で生きていくのに、リテラシは必要になるだろうが、どのようにしてそれを身につけることになるのか。このあたりがちょっと気にはなる。

昭和戦前の大阪、その演劇、芸能の世界をどう描いていくことになるのか。このドラマも楽しみに見ることにしたい。

2020年12月5日記

追記 2020-12-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月13日
『おちょやん』あれこれ「道頓堀、ええとこや~」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/13/9326248

『津軽通信』太宰治/新潮文庫2020-12-07

2020-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

津軽通信

太宰治.『津軽通信』(新潮文庫).新潮社.1982(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100615/

続きである。
やまもも書斎記 2020年12月5日
『人間失格』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/05/9323539

短篇をあつめてある。新潮文庫のこの本の位置づけとしては、初期の『晩年』から、戦後の『斜陽』『人間失格』『グッド・バイ』あたりまで、太宰治の作品を刊行してきて、それらの編集から残ったものを集めた補遺的なものという感じになるだろうか。初期のころから、晩年までの、短篇、掌編を収録してある。

読んで思うことは、この一冊のなかに、太宰治のエッセンスがつまっているという印象である。特に、『晩年』から『人間失格』にいたるまで、だいたい年代を追って読んできてから読むということもあるせいかもしないが、この本に太宰治の文学の巧さが凝縮されていると思う。

太宰治というと、『人間失格』が代表作とされることもあり、また、大きな位置づけとしては無頼派などと語られることもある。しかし、そのような評価とは別に、実に小説家として巧い。その巧さが、ごく短い作品……掌編といっていいだろう……において、いかんなく発揮される。太宰治の文学を読む楽しみがつまった一冊といってもいいかもしれない。

太宰治の小説の面白さというものは、もっと高く評価されてもいいのかもしれないと強く思う。

2020年12月6日記

追記 2020-12-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月10日
『もの思う葦』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325276

『麒麟がくる』あれこれ「義昭、まよいの中で」2020-12-08

2020-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十五回「義昭、まよいの中で」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/35.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月1日
『麒麟がくる』あれこれ「焼討ちの代償」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/01/9322200

幕府と朝廷、そして光秀と信長、これらの人物たちの群像劇という印象がある。

この回の見どころは、次の二点だろうか。

第一には、義昭のこころのうごき。

昔は奈良にいて僧侶であった義昭が、室町の将軍ということになる。そこには、信長などの武将の援助があってのことである。また一方で、室町幕府には、摂津晴門のようなものもすくっている。このなかにあって、武士の棟梁たる将軍はいかにあるべきか、自分が将軍として何ができるのか、なやみまようことになる。その心中を、このドラマでは丁寧に描いている。(ただ、歴史の結果として、この義昭がこれからどうなるかは、今日のわれわれとしては知っていることにはなるのだが。)

第二には、正親町天皇。

戦国時代を舞台として、ここまで天皇というものの存在を描いたドラマは珍しいのではないだろうか。無論、歴史学上の議論としては、中世において天皇とはいかなる存在であったかということはある。しかし、そのような議論があることは承知しているとはしても、ドラマとして、正親町天皇の存在感は大きなものがる。あるいは、これからの歴史の展開(本能寺の変にいたる)のカギをにぎっているのが、この正親町天皇なのかもしれない。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

このドラマは、大きな歴史の動き……室町幕府の滅亡……ということのなかにおける、それぞれの登場人物のこころのうごきを細やかに描いていると感じさせるところがある。

ただ、室町時代において『万葉集』がどのように読まれていたか、ということについては、いささかどうかなと思うところがないではなかった。

次回、室町幕府をめぐって、信長との対立ということになるようだ。正親町天皇と会うことのできた光秀がどう動くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年12月7日記

追記 2020-12-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月15日
『麒麟がくる』あれこれ「訣別」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/15/9326999

ピラカンサ2020-12-09

2020-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は、ピラカンサである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月2日
センニンソウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/02/9322555

我が家の近辺の三箇所ほどで、この木の実がなるのを確認している。いずれも歩いていける範囲のところである。というよりも、歩いて行けるところの草花しか写真に撮っていないのであるが。

このところ、家にいるときは留守番していないといけないことが多いので、あまり散歩に出歩くということがない。居職の生活である。ここの写真は、先月、散歩に出たときにカメラを持ってでて、写しておいたものからである。

ピラカンサの実は、鳥が好んで食べるようだ。赤い実がみのっているのを目にして、しばらくして行くと、数が減っているのがわかる。

我が家の周囲の紅葉ももう終わりになってしまった。公孫樹の葉は散ってしまっているし、モミジの葉も残り少なくなっている。庭に目をやると、千両や万両の実が、赤や黄色で目立つ季節となってきた。南天の実も赤くなっているのだが、これも鳥が食べるようで、まばらになっている。駐車場に出ると山茶花の花が咲いている。ヤツデの白い花が目立つ。冬になって、花は咲かなくなっているが、植物を見ていると、季節のうつろいを感じる。

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

ピラカンサ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年12月7日記

追記 2020-12-16
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月16日
紅葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/16/9327311

『もの思う葦』太宰治/新潮文庫2020-12-10

2020年12月10日 當山日出夫(とうやまひでお)

もの思う葦

太宰治.『もの思う葦』(新潮文庫).新潮社.1980(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100614/

続きである。
やまもも書斎記 2020年12月7日
『津軽通信』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/07/9324280

新潮文庫の太宰の作品集としては、これも補遺的な位置づけになる。アフォリズム、エッセイ、評論などを収録してある。

この冊を読んで思うことは、太宰治というのは、卓抜なる文学の詠み手でもあったということである。太宰治が、尊敬してやまなかったのが井伏鱒二であることは、これまでの太宰治の作品を読んできて分かるところである。その井伏鱒二の作品集の解説というべき文章を、書いている。(これを読むと、井伏鱒二の作品など読んでみたくなった。)

また、志賀直哉のことが嫌いだった。かなり厳しい批判のことばを残している。なるほど、志賀直哉の作品について、このように感じることもあるのかと、ある意味でこれは新鮮な感じがした。(今では、志賀直哉といえば、「神様」になってしまっている。)

そして、アフォリズム。ここには、赤裸々な作者(太宰治)の姿がある。短いエッセイの類を読んでも、まさに太宰ならではの文章だなと感じる。

新潮文庫で、太宰治の作品を読んできて、残りは『地図』ということになった。つづけて読むことにしたい。

2020年12月6日記

追記 2020-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月12日
『地図』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/12/9325894