NHK 昭和の選択 「太平洋戦争 東條英機 開戦への煩悶」2020-12-11

2020-12-11 當山日出夫(とうやまひでお)

12月9日の夜の放送。録画しておいて、翌日の昼間に見た。

昭和の選択 「太平洋戦争 東條英機 開戦への煩悶」
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/18R81PGNYL/

東條英機をめぐっては、様々に今日の観点から論ずることができるだろう。無論、それは、歴史の結果を知っている現代のわれわれの視点においてである。いかように批判することもできるだろうし、また、逆に、擁護することもできるだろう。

この番組を見て……あるいは、多くの太平洋戦争関係の番組など見て強く感じることなのであるが……対米戦争をはじめるにあたって、それをどのように終わらせるか、という将来の見取り図を描いていたのだろうか。具体的に、どのような条件で、講和となるのか、誰かそこのところを考えていたのだろうか。

これを考えずに戦争を始めるということは、その結果が勝ったにせよ、あるいは、負けたにせよ、国家の指導者としては、無謀、無能、といっていいのではないか。

番組の語っていたところによれば、東條英機は必ずしも開戦に積極的ということではなかった。むしろ、開戦に積極的であったのは、日本の世論の方であったといえるだろう。しかし、それを配慮することで、結局は、両論併記のまま、無謀な選択をすることになる。その背景にあったのは、冷静な現実的な判断、分析、これが欠けていた。

希望的観測、楽観的な見通しのもとに、ことを始めてはならない。歴史の教訓としては、このことを強く感じる。

2020年12月10日記

『地図』太宰治/新潮文庫2020-12-12

2020-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

地図

太宰治.『地図-初期作品集-』(新潮文庫).新潮社.2009
https://www.shinchosha.co.jp/book/100618/

続きである。
やまもも書斎記 2020年12月10日
『もの思う葦』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/10/9325276

新潮文庫で出ている太宰治の作品を読んでみようと思って、ここしばらく集中的に読んできた。最後になったのが、『地図』である。これは、太宰治の最初の作品集『晩年』にいたるまでの、習作とでもいうべき作品を収録したもの。中学当時の文芸同人誌に掲載された作品などを集めてある。

これは、新潮文庫の編集方針としては、異例のことだろうと思う。特定の作家の、まだ若いときの文芸同人誌に掲載されたような作品……その文学史的評価については、読む価値はあるといえるが、「小説」としては未熟である……を、このような形で刊行するのは、他に例がないのではないだろうか。

新潮社のこの本のHPには、「生誕100年記念出版」とある。そのような事情でもない限り、普通はこのような作品まで、文庫本で出るということはない。(といって、今、文庫で出ている他の作家の作品が無名のころの太宰治より優れているという意味ではないが。)

ここに収録されている作品を読んで思うことは、太宰治(津島修治)は、おそらくは、意図して「太宰治」になっていったのだろうということである。それは、故郷で高校をおえ、東京に出て大学生になって、波乱に満ちた人生をスタートさせるなかで形成されていったものであろう。

普通は、太宰治を初期の作品から読むとすると『晩年』から読み始める。しかし、新潮文庫で、『地図』のような初期作品集が出ているおかげで、作家「太宰治」になる以前の、津島修治がどんな文学を書いていたか、把握することができる。これは、貴重な出版といえるだろう。

ところで、新潮文庫版に限って太宰治を読んできたわけであるが、おそらく、普通に読める作品のほとんどは読んだことになるだろうか。これ以上読もうとするならば、「全集」を見なければならなくなる。

一般に、デカダンスの作家、無頼派などといわれている太宰治であるが、その文学の世界は、実に多彩で芳醇である。特に、中期とされる戦時中の作品に傑作が多い。また、戦後になって、人びとが、今自分たちの生きている時代が「戦後」という時代なのだと認識したのは、太宰治の文学によるところが大きいと感じるところがある。文学によって時代を認識することになるのである。

さて、太宰治を読んだ次は誰を読むことにしようか。新潮文庫に限って、今刊行されているもので読んでみるというのも、一つの割りきった読書かと思う。谷崎潤一郎とか川端康成とか、それから、最近の話題としては三島由紀夫がある。代表的な作品は、若いときに手にとったり、最近でも、読んだりしているのだが、集中的に読むということはしてきていない。これらの作家についても、順次読んでいくことにしたい。

2020年12月6日記

『おちょやん』あれこれ「道頓堀、ええとこや~」2020-12-13

2020-12-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第2週「道頓堀、ええとこや~」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/02/

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月6日
『おちょやん』あれこれ「うちは、かわいそやない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/06/9323910

第二週になって、舞台は大阪、道頓堀に移った。これまで見てきた印象としては、これは朝ドラの傑作になりそうである。

見ていて思うことは、細部にいたる脚本と演出のきめのこまかさである。

たとえば、千代が、岡安の娘のみつえの小学校にお弁当をとどけるシーン。二人の同い年の少女の立場の違いというか、身分というか、社会的階層というか、このあたりの差異をきちんと描いている。

また、最後のところで、岡安を出て雨宿りしている千代を見つけたのは乞食であった。朝ドラに乞食が、乞食として登場してきたのは、あまり例がないかもしれない。が、このあたりは、その当時の時代、社会を、きっちりと描こうという意図を感じる。(ちなみに、今では、その当時のような「職業としての乞食」というものがもう無くなってしまっているといっていいだろう。)

それから、劇中劇(天海一座)が良かった。

これから、このドラマは演劇、芸能の世界を描いていくことになるのだろう。昭和戦前の演劇、芸能の世界は、華やかさはあったろうが、しかし、その一面では、社会的差別というものがつきまとっていたはずである。このあたりのことを、このドラマはどう描くことになるのか、あるいは、描かずに済ますという方向をとるのか、今から気になるところである。

さらにいえば、広く大阪といっても、千代の生まれ育った河内と、道頓堀とでは、そのことばも違う。この方言の違いというものも、描いている。このあたりは、丁寧に作ってあるという印象を持つ。

次週以降、成長した千代の話しになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2020年12月12日記

追記 2020-12-20
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月20日
『おちょやん』あれこれ「うちのやりたいことて、なんやろ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/20/9328473

NHK映像の世紀プレミアム「ナチス 狂気の集団」2020-12-14

2020-12-14 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム(18)「ナチス 狂気の集団」
https://www4.nhk.or.jp/P4235/x/2020-12-12/10/25890/2899096/

12月12日の放送。録画しておいて翌日に見た。

見ていて思うことは多々ある。そのなかで思いつくことを書いてみる。

第一には、ゲッベルスの巧みさ。

この番組はナチスをもっぱら取り上げていた。その中心にいたのは、無論、ヒトラーである。だが、重要なのは、その周囲にいた人物たちであったかもしれない。その中でも、最も注目すべきは、宣伝大臣であったゲッベルスであろう。巧みなプロパガンダで、ナチスを作りあげていったといっていい。

今日の価値観からは、その行為は否定される。しかしながら、そのプロパガンダのテクニックは、今なお、研究の価値があるといわざるをえないだろう。なぜ、ナチスがあれほどのことをなしえたのか、プロパガンダによって人びとは何を思わされていくことになったのか、これはこれとして極めて興味深いところである。

第二には、普通の人びと。

確かにナチスは狂気の集団であったかもしれない。しかし、それに賛同し参加したのは、ごく普通の人びとであった。普通の人びとが、国家総力戦という名前のもとに、なぜ狂気としか思えない行動にしたがっていくことになったのか。

これは、一方的に、ナチスのプロパガンダの巧妙さに帰するだけではないと思う。そのような状況に置かれれば、普通の人びともまた、そうなってしまうということを、歴史の教訓として学び取っておくべきことにちがない。

強いて、教訓的なことを引き出そうとするならば……多様な意見の尊重、ということになるのかもしれない。社会、国家全体が、一つの「正しさ」にそめあげられていくとき、それとは異なる立場、意見が、どのように尊重されるべきか、これが最も重要なことの一つであると思う。

以上の二点が、この番組を見て思ったことなどである。

今回の放送では、日本のことがまったく出てこなかった。意図的にそのように編集しているのだろう。しかし、ヒトラーのドイツと共謀することになったは、戦前の日本であることは、れっきとした歴史的事実である。このことを忘れて、ただヒトラーとナチスの狂気を断罪するだけでは、意味がないともいえようか。

2020年12月13日記

『麒麟がくる』あれこれ「訣別」2020-12-15

2020-12-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十六回「訣別」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/36.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月8日
『麒麟がくる』あれこれ「義昭、まよいの中で」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/08/9324621

ついに、信長と将軍義昭は対立することになる。光秀はいったい誰に忠誠心を持っているということになるのだろうか。光秀は苦悩することになる。

この回の見どころはいくつかあった。いずれも、光秀との対面のシーンである。

第一に、光秀と正親町天皇。

実際に「会った」ということではないが、宮中に参内して、光秀は正親町天皇の声を聞くことができた。天皇という存在を直に知ったことで、これから光秀の気持ちはどう変わっていくことになるのだろうか。武家の棟梁としての将軍を中心とした平らかな世という気持ちは、どうなるのか。

第二、光秀と熙子。

権謀術数うずまく京の都にあって、光秀が心をゆるせるのは妻の熙子だけかもしれない。二人の情感のこもった対話のシーンが印象的であった。

第三に、光秀と義昭。

義昭は剣術の稽古をしていた。かつての僧侶であったころの義昭からは、かなりの変化というべきだろう。これは、義昭はそれなりに武家の棟梁としての自覚を感じ始めたということかもしれない。だが、果たして義昭はその器であるのだろうか。

第四に、光秀と信長。

どうやら、信長は義昭に見切りをつけたかのごとくである。が、特に信長の方からことを荒立てることはしないようだ。信長は信長なりに乱世を生き抜こうとしている。

以上、いくつかの光秀を軸とした、いくつかの人物との対面シーンで構成されていた回であったかと思う。

そして、最後に、将軍義昭は、決定的に信長と対決することを意思表示する。しかし、これに、光秀としては、とまどい、困惑し、悩むことになる。光秀は、義昭とも、信長とも、また、正親町天皇とも、それぞれに、親近感、あるいは、忠誠心というべきものをいだいている。これらが、相反し、対立するようになったとき、光秀は、何によって行動すればよいことになるのだろうか。

大きな歴史の結果は、現代のわれわれは知っているのだが、このあたりの光秀の苦悩、それから、信長をめぐる、義昭などの動き……これがこれからどうなるのか、次回以降の展開を楽しみ見ることにしよう。

2020年12月14日記

追記 2020-12-22
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月22日
『麒麟がくる』あれこれ「信長公と蘭奢待」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/22/9329216

紅葉2020-12-16

2020-12-16 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日は紅葉である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月9日
ピラカンサ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/09/9324954

我が家にいくつかモミジの木がある。それぞれに種類が違うようで、紅葉する時期も色合いも様々である。そのなかで、一番遅く色づくのが、写真にとった木である。家の建物からかなり近いところにある。

この木が紅葉するのは、だいたい一二月になってからである。他の紅葉する木々が葉をおとしてから、赤くなる。そのきれいなときを撮ろうと思うと、午前中の朝日のあたっている時間帯をねらうことになる。晴れて日光があたっていないと、きれいな色になってくれない。

今年もどうにか、紅葉の写真をいくつか撮ることができた。これが、モミジの木の種類まで判別できていれば、さらに楽しみは増すのかとも思うが、まだそこまでの準備ができていない。

写した紅葉の葉が散ってしまうと、すっかり冬になったという印象である。

紅葉

紅葉

紅葉

紅葉

紅葉

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR

2020年12月14日記

追記 2020-12-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月23日
椿のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/23/9329557

『民主主義とは何か』宇野重規2020-12-17

2020-12-17 當山日出夫(とうやまひでお)

民主主義とは何か

宇野重規.『民主主義とは何か』(講談社現代新書).講談社.2020
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324372

出たときに買っておいて、しばらく積んであった本である。ここしばらく、太宰治を集中的に読んでいた。

これが「話題」の本であるとは思っていた。いうまでもなく学術会議の一件である。

この本を読んでみての感想としては、この本の著者である宇野重規を学術会議に入れなかった判断を下したの誰であるかは知らないが、しかし、その人物について、ある意味で畏敬の念を感じるところがある(無論、皮肉をこめてであるが)。なるほど、このような本を書くと、学術会議から排除されるのか。ならば、排除されずにメンバーになっている学者は、曲学阿世の御用学者ばかりか……ふと、そんなかんぐりをしたくなってくる……だが、問題の本質は、そこのところが不明瞭なままである点にある。基準が不透明なのが、一番の問題点だと思う。

それはともかく、この本は面白い。「民主主義」という日常的に使っていることばであり、あるいは、その中に生きているはずの社会の制度である。それについて、民主主義とはどのような歴史があり、実際に運用するにあたっては、どのような課題があるのか、実に丁寧に分かりやすく説明してある。きちんと手順をふんで、ものごとを丁寧に考えていくとはこういう知性のあり方をしめすのである、その見本のような本である。

もし、私が、まだ若くて……高校生ぐらいであって、この本を読んだとしたら、将来の自分の進路として、法学部を選び、政治思想、政治学をこころざしたかもしれない、そんな気にもなってくる。この本は、特に若いひとに読んでもらいたいと思う本である。これからの日本の「民主主義」は、これからの若いひとがになっていくものである。

そろそろ年末である。この年のベストがいろいろ発表されるころかと思うが、この本は、かならずどこかで取り上げられるにちがいない。

2020年12月14日記

『レンブラントをとり返せ』ジェフリー・アーチャー2020-12-18

2020-12-18 當山日出夫(とうやまひでお)

レンブラントを取り返せ

ジェフリー・アーチャー.戸田裕之(訳).『レンブラントをとり返せ-ロンドン警視庁美術骨董捜査班-』(新潮文庫).新潮社.2020
https://www.shinchosha.co.jp/book/216150/

ジェフリー・アーチャーの作品は、おおむね読んできている。その日本への紹介のはじめは、たしか『百万ドルをとり返せ』であったはずである。これは、私が学生のころのことになる。そして、ここいらあたりから、新潮文庫で、海外のミステリなどの小説を刊行するようになってきたと記憶する。

小説としては、レンブラント盗難事件からはじまる。そこで、本物のレンブラントの作品にあるはずの署名の有無を指摘するのが、大学で美術を学んだ、新人の巡査であるウォーウィックであった。そして、物語は、美術品の盗難事件、さらには、銀製品の盗難事件をふくんで、おおきく発展することになる。

読んだ印象としては、英国なりの警察小説であり、法廷小説であるということである。主人公のウォーウィックの父と姉は、弁護士である。かれらと、ウォーウィックは、法廷で顔を合わせることになる。なるほど、英国流の裁判、法廷というのは、こんな感じなのかと、興味深く読んだところである。

ところで、この作品、「クリフトン年代記」の続編になるとのことである。「クリフトン年代記」については、出た時に毎年順番に買って積んである本である。全部出てからまとめて読もうと思っていて、なぜか今まで機会をうしなってしまっている。これを機会に、積んである本のなかから探し出してきて、順番に読んでみようかという気になっている。

この『レンブラントを取り返せ』であるが、傑作といっていいだろう。登場人物は多岐にわたり、話しもいろんなストーリーが平行してすすむのだが、一気に読ませる作品にしあがっている。そして、何よりも、最後の一文がいい。ああ、なるほど、こういう結論になるのか、読んで、驚きもし、納得もすること、うけあいである。

2020年12月17日記

『ヴェネツィア便り』北村薫2020-12-19

2020-12-19 當山日出夫(とうやまひでお)

ヴェネツィア便り

北村薫.『ヴェネツィア便り』(新潮文庫).新潮社.2020(新潮社.2017)
https://www.shinchosha.co.jp/book/406613/

北村薫は、まだ覆面作家としてミステリを書いていたころからの読者である。東京創元社から出た本のほとんどは買っていたと思う。私と円紫師匠のシリーズである。

だいたいどんな人物であるかは予想していた。たぶん、年齢は私とほぼ同じぐらいだろう。若いころより、文学とミステリ(いや、探偵小説といった方がいいかもしれない)を多く読んでいる。おそらく、大学は早稲田だろう。

このような予想はほぼあたっていたことになる。その北村薫の文庫本としては一番新しいものである。出たときに買って、しばらくおいてあった。(ここしばらくの間、太宰治を集中的に読んでいたこともある。)

相変わらず、北村薫は、小説がたくみである。特に、女性の心理を描くのうまい。(これは、おそらく女性の読者であっても、同意してくれるのではないかと思っている。)

この本は、短篇集であるが、どの作品もこころに残る。なかでも、タイトルになっている、「ヴェネツィア便り」がいい。女性の書簡文という体裁であるが、情感にとんでいる。また、ひとが生きてとしをとっていくということが、しみじと描かれている。

北村薫の本は、他にも未読の作品がいくつかある。これから、ぼちぼちと読んで、あるいは、読みなおしてみたいと思う作家の一人である。

2020年12月18日記

『おちょやん』あれこれ「うちのやりたいことて、なんやろ」2020-12-20

2020-12-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第3週「うちのやりたいことて、なんやろ」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/03/

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月13日
『おちょやん』あれこれ「道頓堀、ええとこや~」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/13/9326248

この週から千代がおおきくなった。一八才である。

見どころのは次の二点ほどだろうか。

第一には、成長した千代。

岡安でお茶子として働く千代の成長がえがかれていた。小さいときに奉公にきてから八年がたっている。その間に、芝居茶屋のお茶子の仕事をすっかり覚えたようだ。岡安が、組見をひきうけたときでも、率先して、仕事にはげんでいる。

第二は、ご寮人さんのシズのこと。

俳優の延四郎と再会することになったご寮人さん(シズ)は、昔を思い出す。また、延四郎の方でも、シズのことを忘れていなかった。組見の日、二人は会うことになる。このあたり、芝居茶屋の女将として生きる人生を選んだシズ、役者の道をあゆむことになった延四郎、この二人の感情の交錯を情感を込めてえがいてあった。

特に、金曜日の終わりのところで、「カチューシャの唄」が流れていたが、これが実に哀感がこもっていて、よかった。

以上の二点がこの週の見どころであったかと思う。

このドラマは、細部にわたってよくつくってあると感じる。道頓堀の劇場のシーンとか、芝居茶屋の場面とか、細かなところにまで目配りが行き届いていると感じるところがある。

また、延四郎は言っていた……演劇、歌舞伎の世界では、その名門に生まれたような役者しか出世はできない、自分は頑張ったがもうやめにすると……その延四郎は、結局、シズと分かれてまもなくして、この世を去ることになる。

芝居茶屋という存在もいずれ消えてなくなるのかもしれない。そんななかにあって、お茶子として岡安につとめる洗濯をした千代は、これからどんな人生を歩むことになるのであろうか。

最後になって、千代の父親が登場してきていたが、はたして次週以降どのような展開になるのであろうか。楽しみに見ることにしよう。

2020年12月19日記

追記 2020-12-27
この続きは、
やまもも書斎記 2020年12月27日
『おちょやん』あれこれ「どこにも行きとうない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/27/9330862