ドキュメント72時間「盆栽 鉢の中の小さな宇宙」 ― 2025-06-24
2025年6月24日 當山日出夫
ドキュメント72時間 盆栽 鉢の中の小さな宇宙
始めにはっきり書いておくと、私は盆栽は嫌いである。樹木を小さな鉢に押し込んで、枝を無理に曲げて形を作る、こういうのは、私には、自然に対する人為的な悪趣味としか感じられない。(そう思わない人もいることはたしかであるが。)
埼玉に盆栽村というところがあることは知っていたことだが、これが、関東大震災をきっかけに東京から職人さんたちが移動してきて、ここで仕事をするようになったという経緯がある。こういう事例は、他の職業や地域の特性として、今に残っているものがあるにちがいない。
私の好みとしては盆栽は好きではないが、これを愛好する、育てる人たちの気持ちは分かる。自分の意志だけではどうにもならない。どうなるかは、樹にまかせるしかない。それを見ていることになる。まあ、いくぶんは、こういう盆栽を作りたいということがあって、それに仕立てていくという面もあるけれど、いかんせん、相手は生きものである。そう思い通りになるものでもないだろうし、また、すぐに結果が出るということでもないだろう。
すぐに結果を求めるのではなく、ただ、そのことをやっている時間が楽しい、これは、今の時代にあっては、とても大事なことだと思うことになる。これからの(日本の)人びとの生き方として、充実した時間をすごすことが最も価値のあることである、という方向に変わっていくかとも思う。ただ、働いて年収がいくら、というだけで人生を査定するような世の中の風潮に、違和感を感じる人は多いだろうと思うのである。
盆栽を公園に持ってきてくれて、帰るときに、落っことして植木鉢を割ってしまった女の子がいたけれど、お父さんが無事に、新しい植木鉢に植え直してくれて無事だった。こういうエピソードが入っているのは、とてもいい。
2025年6月21日記
ドキュメント72時間 盆栽 鉢の中の小さな宇宙
始めにはっきり書いておくと、私は盆栽は嫌いである。樹木を小さな鉢に押し込んで、枝を無理に曲げて形を作る、こういうのは、私には、自然に対する人為的な悪趣味としか感じられない。(そう思わない人もいることはたしかであるが。)
埼玉に盆栽村というところがあることは知っていたことだが、これが、関東大震災をきっかけに東京から職人さんたちが移動してきて、ここで仕事をするようになったという経緯がある。こういう事例は、他の職業や地域の特性として、今に残っているものがあるにちがいない。
私の好みとしては盆栽は好きではないが、これを愛好する、育てる人たちの気持ちは分かる。自分の意志だけではどうにもならない。どうなるかは、樹にまかせるしかない。それを見ていることになる。まあ、いくぶんは、こういう盆栽を作りたいということがあって、それに仕立てていくという面もあるけれど、いかんせん、相手は生きものである。そう思い通りになるものでもないだろうし、また、すぐに結果が出るということでもないだろう。
すぐに結果を求めるのではなく、ただ、そのことをやっている時間が楽しい、これは、今の時代にあっては、とても大事なことだと思うことになる。これからの(日本の)人びとの生き方として、充実した時間をすごすことが最も価値のあることである、という方向に変わっていくかとも思う。ただ、働いて年収がいくら、というだけで人生を査定するような世の中の風潮に、違和感を感じる人は多いだろうと思うのである。
盆栽を公園に持ってきてくれて、帰るときに、落っことして植木鉢を割ってしまった女の子がいたけれど、お父さんが無事に、新しい植木鉢に植え直してくれて無事だった。こういうエピソードが入っているのは、とてもいい。
2025年6月21日記
サイエンスZERO「炎の本質に迫る!“燃焼学”最前線」 ― 2025-06-24
2025年6月24日 當山日出夫
サイエンスZERO 炎の本質に迫る!“燃焼学”最前線
炎のゆらぎを止める、デス・モードを実現するのは、とても難しいことなのだが、それが何の役に立つのですかと聞かれて、何の役にも立ちませんと、きっぱりと言いきるのは、思わず喝采である。理論的には可能であるが、できるかどうかわからないけれどやってみたらできた、これでもう十分に楽しいことだと思う。こういう楽しさがなければ、研究者はやっていけない。今の世の中、サイエンスに役に立つことを求めすぎるので、番組のなかでのこういう場面はとてもいい。
でも、ひょっとすると、このように炎をコントロールする技術が、何かに役立つこともあるかもしれない、とは思っておくのであるが。
番組の中の実験で説明がなかったことで気になったのが、気圧のひくい状態だと無重力状態での燃焼を確かめることができる……これは、どういう理屈によるものなのだろうか。ここは、説明してほしかった。それから、気圧をひくくするとしても酸素は不可欠のはずだから、その割合はどうなのだろうか。
燃焼を研究することによって、CO2を少なくする燃料の技術につながるということは、そのとおりだと思う。
ゆらぐ炎にに、リラクゼーション効果がある(だろう)、ということの研究は、経験的には、たぶんそのとおりだと直感的には思うところであるが、サイエンスとして実証するには、さまざまな実験をしていかなければならないことになる。おそらく、真言の護摩壇など、宗教儀礼と炎というのは、古来より深く関係があるのは、理由のないことではないだろう。
NHKで「魂のタキ火」という番組があるが、これも、炎と人間とのかかわりについての経験的な知恵からアイデアを得ているものというべきかと思う。
2025年6月21日記
サイエンスZERO 炎の本質に迫る!“燃焼学”最前線
炎のゆらぎを止める、デス・モードを実現するのは、とても難しいことなのだが、それが何の役に立つのですかと聞かれて、何の役にも立ちませんと、きっぱりと言いきるのは、思わず喝采である。理論的には可能であるが、できるかどうかわからないけれどやってみたらできた、これでもう十分に楽しいことだと思う。こういう楽しさがなければ、研究者はやっていけない。今の世の中、サイエンスに役に立つことを求めすぎるので、番組のなかでのこういう場面はとてもいい。
でも、ひょっとすると、このように炎をコントロールする技術が、何かに役立つこともあるかもしれない、とは思っておくのであるが。
番組の中の実験で説明がなかったことで気になったのが、気圧のひくい状態だと無重力状態での燃焼を確かめることができる……これは、どういう理屈によるものなのだろうか。ここは、説明してほしかった。それから、気圧をひくくするとしても酸素は不可欠のはずだから、その割合はどうなのだろうか。
燃焼を研究することによって、CO2を少なくする燃料の技術につながるということは、そのとおりだと思う。
ゆらぐ炎にに、リラクゼーション効果がある(だろう)、ということの研究は、経験的には、たぶんそのとおりだと直感的には思うところであるが、サイエンスとして実証するには、さまざまな実験をしていかなければならないことになる。おそらく、真言の護摩壇など、宗教儀礼と炎というのは、古来より深く関係があるのは、理由のないことではないだろう。
NHKで「魂のタキ火」という番組があるが、これも、炎と人間とのかかわりについての経験的な知恵からアイデアを得ているものというべきかと思う。
2025年6月21日記
英雄たちの選択「田沼意次 大ピンチ! 〜意知 殿中刺殺事件〜」 ― 2025-06-24
2025年6月24日 當山日出夫
英雄たちの選択 田沼意次 大ピンチ! 〜意知 殿中刺殺事件〜
『べらぼう』では田沼意知はまだ死んでいない。このときに、このタイトルで番組を作るというのは、NHKというのは、やはり変な人がいる(?)と思うが、いや、むしろこういう方が、組織としてよりまともなんだろう。
これは面白かった。個々の歴史的なことについては、近世史の研究者なら周知のことであるにちがいないが、それらをふまえて、田沼意次の政治をどう評価するかということでは、かなり大胆ではあるが、しかし、かなり意味のある考え方を示していたということになるだろうか。
「週間磯田」で、意知刺殺事件を解説していたのは、面白い。ひょっとすると、そうだったのかもしれない……という感じはする。だが、いかんせん、史料がないことなので、歴史家としては何とも言いようのない範囲のことにはなるのだろうが。そうとはいえ、歴史学者として論文に書くことだけで、歴史を考えることはできない、ということぐらいはあるかなと思う。
飯田泰之が言っていたが、歴史を動かすようなテロ事件が起きたりすると、その背後には実はこんなことがあったからだという、陰謀論のようなものが、人びとの間にささやかれる……これは、そのとおりだと思う。偶然的におこった出来事の背景に、歴史の必然を見出そうとする心理、ということができる。(これは歴史とは何かということにつながる問いかけでもある。)
まさに、今の日本や世界のあり方を見ていると、実際に起こる事件や戦争などよりも、その背後には何があるのかという憶測というべきものが、多くの人びとの気持ちを動かして世論に影響を与えていく、それにソーシャルメディアが拍車をかけていている……このように考えることができるだろうか。
田沼意次の政治を考えることは、日本の近代を考えることにつながる、こうもいえるかもしれない。重商主義政策、蝦夷地の開発、ロシアとの外交、幕府体制と将軍への権力の集中、こういうことが大きく日本を変えていった可能性があることになる。だが、それは、この時代においては、各地の藩の独立性を壊していくことになるはずで、やはり大きな社会の変革(まあ、革命とまではいわないが)が必要になっただろうとは思う。歴史の結果としては、明治維新ということになる。
田沼意次の政治にブレーキをかけたのが、浅間山の噴火、天明の飢饉、印旛沼開拓の失敗、ということであり、そこに、田沼意知の刺殺事件が加わることになる。ここで、一般庶民(江戸時代のことを考えるのに、こういうことばが本当に適切なのかどうかという吟味は必要だと思うが)のことを、もう少し考える、今でいえば、格差拡大社会においてとりのこされる一般庶民へのセーフティネットの構築ということをやっていれば、もうちょっと時代の流れは変わったかもしれない。これをやったのが、次の時代の松平定信の時代ということは、そうなのだろうと思う。
大石学が紹介していた落首、
世に合うは 道楽者に おごりもの ころび芸者に 山師運上
世に合わぬ 武芸学問 御番衆の ただ奉公人に 律儀なる人
ここのところは、用語の解釈や説明などあった方が、もうちょっと分かりやすかったかもしれない。このあたりの世相をどう考えるかは、『べらぼう』で描いている時代をどう見るかということにかかわってくる。
中で言っていたことで、非常に興味深いことの一つは、田沼の時代、今でいう風俗業から税金をとっている。つまり、そういう仕事を幕府として公認しているということになる。(厳密には、当時の税や法についての解説が必要なところだと思うが。)最近のニュースで、COVID-19パンデミックのとき、風俗業の業者には支援のための給付金を与えなかったことが違憲か合憲か、という裁判所の判断が話題になっていた。時代や価値観が違うとはいえ、これは考えてみるべきことである。
最終的に、田沼意次は、経済中心主義で、今でいえば新自由主義的な政治家だったということになるかもしれない。ここで、日本という国全体をどう統合するべきか、その基盤はなんであるのか、ということまで考えることが出来ていれば、歴史は変わっていたかもしれない、ということになるだろう。世界のなかにおける近代国家としての日本ということが、志ある人たちによって考えられるようになるのは、やはり、次の時代まで待たなければならなかったといことになる。よくもわるくも、日本におけるナショナリズム……これは必ずしも排他的な国権主義ではない……の成立には、さらなる契機が必要だったことになる。
2025年6月22日記
英雄たちの選択 田沼意次 大ピンチ! 〜意知 殿中刺殺事件〜
『べらぼう』では田沼意知はまだ死んでいない。このときに、このタイトルで番組を作るというのは、NHKというのは、やはり変な人がいる(?)と思うが、いや、むしろこういう方が、組織としてよりまともなんだろう。
これは面白かった。個々の歴史的なことについては、近世史の研究者なら周知のことであるにちがいないが、それらをふまえて、田沼意次の政治をどう評価するかということでは、かなり大胆ではあるが、しかし、かなり意味のある考え方を示していたということになるだろうか。
「週間磯田」で、意知刺殺事件を解説していたのは、面白い。ひょっとすると、そうだったのかもしれない……という感じはする。だが、いかんせん、史料がないことなので、歴史家としては何とも言いようのない範囲のことにはなるのだろうが。そうとはいえ、歴史学者として論文に書くことだけで、歴史を考えることはできない、ということぐらいはあるかなと思う。
飯田泰之が言っていたが、歴史を動かすようなテロ事件が起きたりすると、その背後には実はこんなことがあったからだという、陰謀論のようなものが、人びとの間にささやかれる……これは、そのとおりだと思う。偶然的におこった出来事の背景に、歴史の必然を見出そうとする心理、ということができる。(これは歴史とは何かということにつながる問いかけでもある。)
まさに、今の日本や世界のあり方を見ていると、実際に起こる事件や戦争などよりも、その背後には何があるのかという憶測というべきものが、多くの人びとの気持ちを動かして世論に影響を与えていく、それにソーシャルメディアが拍車をかけていている……このように考えることができるだろうか。
田沼意次の政治を考えることは、日本の近代を考えることにつながる、こうもいえるかもしれない。重商主義政策、蝦夷地の開発、ロシアとの外交、幕府体制と将軍への権力の集中、こういうことが大きく日本を変えていった可能性があることになる。だが、それは、この時代においては、各地の藩の独立性を壊していくことになるはずで、やはり大きな社会の変革(まあ、革命とまではいわないが)が必要になっただろうとは思う。歴史の結果としては、明治維新ということになる。
田沼意次の政治にブレーキをかけたのが、浅間山の噴火、天明の飢饉、印旛沼開拓の失敗、ということであり、そこに、田沼意知の刺殺事件が加わることになる。ここで、一般庶民(江戸時代のことを考えるのに、こういうことばが本当に適切なのかどうかという吟味は必要だと思うが)のことを、もう少し考える、今でいえば、格差拡大社会においてとりのこされる一般庶民へのセーフティネットの構築ということをやっていれば、もうちょっと時代の流れは変わったかもしれない。これをやったのが、次の時代の松平定信の時代ということは、そうなのだろうと思う。
大石学が紹介していた落首、
世に合うは 道楽者に おごりもの ころび芸者に 山師運上
世に合わぬ 武芸学問 御番衆の ただ奉公人に 律儀なる人
ここのところは、用語の解釈や説明などあった方が、もうちょっと分かりやすかったかもしれない。このあたりの世相をどう考えるかは、『べらぼう』で描いている時代をどう見るかということにかかわってくる。
中で言っていたことで、非常に興味深いことの一つは、田沼の時代、今でいう風俗業から税金をとっている。つまり、そういう仕事を幕府として公認しているということになる。(厳密には、当時の税や法についての解説が必要なところだと思うが。)最近のニュースで、COVID-19パンデミックのとき、風俗業の業者には支援のための給付金を与えなかったことが違憲か合憲か、という裁判所の判断が話題になっていた。時代や価値観が違うとはいえ、これは考えてみるべきことである。
最終的に、田沼意次は、経済中心主義で、今でいえば新自由主義的な政治家だったということになるかもしれない。ここで、日本という国全体をどう統合するべきか、その基盤はなんであるのか、ということまで考えることが出来ていれば、歴史は変わっていたかもしれない、ということになるだろう。世界のなかにおける近代国家としての日本ということが、志ある人たちによって考えられるようになるのは、やはり、次の時代まで待たなければならなかったといことになる。よくもわるくも、日本におけるナショナリズム……これは必ずしも排他的な国権主義ではない……の成立には、さらなる契機が必要だったことになる。
2025年6月22日記
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