『べらぼう』「鸚鵡のけりは鴨」2025-09-22

2025年9月22日 當山日出夫

『べらぼう』 鸚鵡のけりは鴨

戯けをせんとや生まれけん……と言っていたのは、『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生まれけん~~」をふまえたものにちがいないが、しかし、『梁塵秘抄』が広く一般に知られるようになったのは、明治以降のことなので、蔦重の時代のこととしては、どうだろうか。いや、そんなことは、見ている人はすぐに分かる常識的なことでしょうけど、ここはあえて使ってみました、ということなのだろうか。(こうなると、このドラマの作者と、視聴者の化かし合いである……。)

最後のところで、蔦重のことばとして、「本屋風情」と言っていた。これで思い出すのは、『本屋風情』(岡茂雄)である。今は、角川ソフィア文庫版で読めるし、Kindle版もある。その前は、中公文庫であったが、しばらく絶版だった。近代の主に人文学の研究書で、ユニークな本を多く手がけた、出版人の回想録である。蔦重に「本屋風情」と言わせているのは、時代の流れのなかにあって、独自の視点で貴重な書籍を刊行した、岡茂雄の事跡を重ね合わせて考えることになる、ということなのだろうか。(これは考えすぎだろうか。しかし、このドラマの制作スタッフが、『本屋風情』という本のことを知らないはずはないと思うのだが。)

世の中の言論弾圧ということの多くは、エロ・グロ・ナンセンスからはじまる。これは、日本の近代出版史において、経験してきたことである。この意味で、戯作(黄表紙)を取り締まる官憲・権力ということで、松平定信のことを描きたいということなのかとも思うが、どうだろうか。

メディアの歴史は、エロ・コンテンツの歴史でもあり、同時に、カウンターカルチャーの歴史でもある。近年においては、インターネットの歴史が、まさにそうである。自由と規制の歴史である。このごろでは、かならずしも国家権力によるばかりではなく、プロバイダなどによる一種の自主規制というようなことになっている。その背景にあるのは、いわゆるリベラルの側からの批判もある。

いろいろと考えることにはなるのだが、それにしても、江戸時代のこのころの出版を黄表紙だけで語ろうとするのは、やはり無理があると感じる。松平定信の治世に批判的であったのは、巷間の戯作だけではないはずだったと思うのだが、ここの部分だけをとりあげすぎるのは、はたしてどうだろうか。

といって、他の出版や言論、思想の動向となると、いわゆる寛政異学の禁との関連で、非常に幅広いことがらを取りあげざるをえない。割りきって、黄表紙だけで、すべてことをすませようとしているのだとは思うけれど、しかし、それでも無理があるとどうしても感じる。

戯作者をどう描くかは、興味深いところではあるが、このドラマのような考え方も一つの方向だろうとは思う。近世期きっての知識人としての大田南畝というような描き方もあったかと思う。

江戸の戯作をどう考えるかは、文学史として難しいところだろう。権力批判をふくんだ、いまでいうカウンター・カルチャーという部分もあっただろうし、あるいは、戯作であることを自己目的化したという部分もあっただろう。そして、この次の世代の作者……曲亭馬琴とか十返舎一九とか式亭三馬とか……これらの作者たちにどうつながるものとして描くのか、気になるところではある。

江戸の文芸の世界を描くなら、戯作以外に、俳諧、和歌、漢詩文、ということぐらいは、私としては触れておいてほしいところである。漢学や仏教、国学、などのことまでふれるのは、とても大変だと思うが。歌舞伎の舞台や劇場を再現するのは、手間暇がおおごとになるので、出てこなくてもいたしかたない。

一橋治済の屋敷内が、幕府の将軍や松平定信よりも、豪勢に作ってあるのは、これからの時代、徳川家斉の時代にあって、裏の権力者としての一橋治済ということになるのだろう。

2025年9月21日記

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