新日本風土記「東海道 城下町の旅」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

新日本風土記 「東海道 城下町の旅」

再放送である。最初は、2024年10月。

江戸と京を結ぶ道として、東海道が思いうかぶ。だが、江戸時代、中山道も重要な街道であった。東海道には、川があっても橋がなかったりするし、船で渡るようになっているところもある。それにくらべれば、中山道の方は、このような障害はない。たとえば、幕末に和宮は、江戸にお嫁入り(?)するとき、中山道を通っている。このようなことは、『夜明け前』(島崎藤村)を読むと感じることができる。中山道は、江戸と上方をつなぐメインのルートでもあった。しかし、こういう番組を作ると、どうしても東海道ということに目が向くことになるのだろう。

知らないお城もあった。お城があれば、城下町があり、そこには、人びとの生活があったことになる。

出てきた中で興味ぶかいのは、手筒花火。これは、いろんな番組でとりあげられている。なんど見ても、こわくないのだろうかと思ってしまう。私などは、とても無理である。しかし、とてもかっこいい。

登場していたどのエピソードも、意図的にそのように選んだのだろうと思うが、昔から続いてきているものを、今の時代に受け継ぎ、さらにそれを次の代に残そうとしている……ということでは、一貫している。大きく時代の流れは変化してきているし、世相も、人びとの意識も変わってきていることはたしかなのだが、こういう価値観で、今の時代を生きている人たちがいる、ということもたしかなことである。

昔からあるもの、自分が生まれる前からあるものを、自分が引き継ぎ、次の世代に伝えていく……これは、ある意味では、人間の自由な生き方に制約を加えるものであり、端的にいえば、生き方において、我慢をもとめるものである。いわゆるリベラルな価値観からすれば、否定的に見なされるべきことになる。この風潮の中にあって、このような番組があってもいいことだと、私は思う。

2025年12月5日記

3か月でマスターする古代文明「(10)マヤ 統一なき王国の謎」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

3か月でマスターする古代文明 (10)マヤ 統一なき王国の謎

古代文明だからといって、そこに必ずしも王の存在を考えることはない。王がいて、権力による支配があるから、巨大な建造物ができたり、王の墓があったりする。だが、そうではない古代文明もあった。

こういう話しであるとするならば、そうだろうなあと思うだけのことである。

しかし、巨大な建造物を作ったり、都市を作ったり、ということについては、そこで人びとが共同で仕事をするための共通の基盤があり、コミュニケーションができて、意志の統一ということが、なければ無理だろうと思う。それに、王、権力、武力、官僚機構、というようなものは、必ずしも絶対に必要ということではない……こういう理解でいいのだろうか。言いかえれば、王や官僚機構を必要としない、共同体の組織であり運営があった、となるのかもしれない。

権力(=国家)など無くても、人間は困ることはない、という近代的なアナーキズムを、過去に投影して考えてみることになるのかもしれないが、これは、かなり無理のある話しだろうと、私は思う。

また、非常に駆け足で語ったことになるので、近代にいたるまでのメソアメリカの先住民の歴史、そして、この地域での政治や統治の歴史やシステム、ということに踏み込んだ話しになっていなかったというのは、ちょっと残念な気がするところである。

黒曜石がナイフとして非常に優秀であるということは理解できる。それならば、ということで思うことになるのだが、鉄製の包丁が実用的に使えるためには、砥石などがなければならない。ただ、鉄器があるというだけでは、それがどのように使われたものなのか、分からないはずである。刀がさびていたとしても、敵を殴り倒すには十分だったかもしれない。だが、鉄製の包丁の切れ味を持続させるためには、昔の人はどうしていたのだろう。このことは、考古学の領域では、どのように考えられているのだろうか。

このことの延長としては、日本刀の切れ味を作るのは、砥石と研ぎの技術ということになるかとも思うのだが、こういう視点からの日本刀の歴史はあるのだろうか。

2025年12月6日記

『八重の桜』「同志の誓い」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

『八重の桜』「同志の誓い」

明治8年のころとしては、キリスト教禁教が解けてから、まだ時間がたっていない。このころのキリスト教の日本での布教ということは、実際はどうだったのだろうかと思う。

耶蘇、異国の邪教として忌避することもあったとは思うが、一方で、新しいもの好きとして、好奇心の対象でもあったかもしれない。

ただ、このドラマの中では、聖書が、英文のものを使っている。明治になって、文語体、あるいは、漢文を読み下したという体裁の聖書が、多く使われていたはずだと思うのだが、これは出てきていなかった。まあ、明治の初めごろであるから、英語の受業といっても、英文の書物をそのまま使うものであったろうから、英学校で聖書をそのまま英語のテキストとして使用することもあっても、いいだろうと思う。日本語版の聖書の歴史は、これはこれとして、研究のあるところであり、また、まだまだ研究の余地のあるところでもある。

八重が新島襄と結婚することについて、日本で最初のプロテスタントのと説明があったのは、昔の中世のキリシタンの時代のことが、あってのことになる。

西郷隆盛の私学校のことが出てきていた。西南戦争のことは、かならずしもこのドラマにとって必須のこととは思わないのだが、明治になって、日本が近代化の道を歩む過程を描くとすると、どうしても触れざるをえないということもあるのだろう。だが、それにしても、ドラマで描くとなると、どうしても西郷隆盛という人物は、ある種のステレオタイプになってしまうことは、いたしかたのないことかもしれない。

2025年12月7日記

『べらぼう』「饅頭こわい」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

『べらぼう』「饅頭こわい」

始まってすぐのところで、「阿波蜂須賀家の能楽師~~」という科白のところで、思わずテレビの前で笑ってしまった。呵々大笑である。

通説、あるいは、有力な学説ということになるが、こういう使い方をするのも、また、ドラマの作り方としては、ありということになる。なるほど、こういうことにしたのか、と思ったところである。

しかし、この回はこれで面白いのだが、こういう筋に落とし込むなら、一年を使う大河ドラマよりも、単発のドラマで作った方が、より面白いものになりそうである。一年の時間のなかで、あちらこちらに話しがとんでいるので、凝縮して、寛政の改革と「写楽」という軸だけで、作った方がよかったかもしれない。過去の回を思い出して見て、無理をしているかなと感じるところが、どうしてもある。

写楽の絵を、このドラマのような経緯で描くことが出来るとは思えないのだが、まあ、これはフィクションだからかまわないということになるのだろう。(写楽の絵には、役者の個性というべきものを見ている、その作者の存在というところがある。)

次回の最終回で、どう決着をつけるのかということになるのだが、江戸時代の戯作という文学を、どう描くことになるのだろうか。どうも、これまで見てきたところでは、戯作と浮世絵だけで、この時代の人びとの心を描くのは、無理ではないのかという思いがある。

江戸時代という時代は、日本の歴史の中にあって、もっとも深く人間とはなんであるかということについて、考えた時代であった……といっていいだろう。荻生徂徠や藤原惺窩のような儒学者からはじまって、本居宣長の国学にいたる、様々な知的営為があった。その大きな流れの中に、江戸の戯作もあったことになり、そこに人間の精神の深み、あるいは、高みを、見出すことがあってもいいかもしれない。

江戸の知的営為に接続するかたちで、日本の明治以降の文明開化、近代化、ということがあったことは、現代では常識的なものの見方だろう。

その一方で、(何度も書いていることだが)芸術としての浮世絵を、評価できなかったのも日本の人びとであった。

この二つのことを、総合的に見る視点があってもよかったのではと思うのだが、どうだろうか。戯作は、たしかに、遊びであるのだが、遊びや笑いこそが、時として、最高の風刺・批判にもなる。笑いやエンタテイメント、娯楽、遊びということを、高度な知性でとらえることもできる。そうであってこその、江戸の戯作であると思っている。

こういう部分を、エンタテイメントである大河ドラマの中で、どう描くかということは、期待しすぎということだっただろうか。芸術こそ、最高のエンタテイメントであり、知性と感性のいとなみであり、そして、批判精神である……と、私は思っている。こういうことは、かつての浅草のストリップ劇場を思ってもいいし、ショスタコーヴィチのことを思ってもいいかもしれない。

2025年12月7日記