『べらぼう』「饅頭こわい」2025-12-08

2025年12月8日 當山日出夫

『べらぼう』「饅頭こわい」

始まってすぐのところで、「阿波蜂須賀家の能楽師~~」という科白のところで、思わずテレビの前で笑ってしまった。呵々大笑である。

通説、あるいは、有力な学説ということになるが、こういう使い方をするのも、また、ドラマの作り方としては、ありということになる。なるほど、こういうことにしたのか、と思ったところである。

しかし、この回はこれで面白いのだが、こういう筋に落とし込むなら、一年を使う大河ドラマよりも、単発のドラマで作った方が、より面白いものになりそうである。一年の時間のなかで、あちらこちらに話しがとんでいるので、凝縮して、寛政の改革と「写楽」という軸だけで、作った方がよかったかもしれない。過去の回を思い出して見て、無理をしているかなと感じるところが、どうしてもある。

写楽の絵を、このドラマのような経緯で描くことが出来るとは思えないのだが、まあ、これはフィクションだからかまわないということになるのだろう。(写楽の絵には、役者の個性というべきものを見ている、その作者の存在というところがある。)

次回の最終回で、どう決着をつけるのかということになるのだが、江戸時代の戯作という文学を、どう描くことになるのだろうか。どうも、これまで見てきたところでは、戯作と浮世絵だけで、この時代の人びとの心を描くのは、無理ではないのかという思いがある。

江戸時代という時代は、日本の歴史の中にあって、もっとも深く人間とはなんであるかということについて、考えた時代であった……といっていいだろう。荻生徂徠や藤原惺窩のような儒学者からはじまって、本居宣長の国学にいたる、様々な知的営為があった。その大きな流れの中に、江戸の戯作もあったことになり、そこに人間の精神の深み、あるいは、高みを、見出すことがあってもいいかもしれない。

江戸の知的営為に接続するかたちで、日本の明治以降の文明開化、近代化、ということがあったことは、現代では常識的なものの見方だろう。

その一方で、(何度も書いていることだが)芸術としての浮世絵を、評価できなかったのも日本の人びとであった。

この二つのことを、総合的に見る視点があってもよかったのではと思うのだが、どうだろうか。戯作は、たしかに、遊びであるのだが、遊びや笑いこそが、時として、最高の風刺・批判にもなる。笑いやエンタテイメント、娯楽、遊びということを、高度な知性でとらえることもできる。そうであってこその、江戸の戯作であると思っている。

こういう部分を、エンタテイメントである大河ドラマの中で、どう描くかということは、期待しすぎということだっただろうか。芸術こそ、最高のエンタテイメントであり、知性と感性のいとなみであり、そして、批判精神である……と、私は思っている。こういうことは、かつての浅草のストリップ劇場を思ってもいいし、ショスタコーヴィチのことを思ってもいいかもしれない。

2025年12月7日記

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