ウチのどうぶつえん「悩みながら、ススムのだ」 ― 2026-01-10
2026年1月10日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん 悩みながら、ススムのだ
2~3年前になるが、和歌山城には行ったことがある。白浜に行く途中で、お昼ご飯をたべるついでに行った。動物園があることは、案内があったので、知っていたが、お城の方を見て、それから、外に出て、ラーメンを食べて、白浜に行った。
白浜では、パンダも見たのだが(このころ、日本からパンダがいなくなるとは想像もしなかった)、私が行きたかったのは、南方熊楠記念館と、その近くにある、京都大学の水族館。京都大学の水族館は、ある意味でとてもマニアックな展示で、面白い。(あまり普通のお客さんには受けないかとも思うが。)
馬のひづめが、健康に大事ということは、そうなのかなと思う。自然に生きている馬なら、泥の中を歩くことがあっても、それがずっと続くわけではない。動物園の飼育環境だからこそ、気をつけなければならないことになる。
お城の中だから、建物を作ったり、地面を掘ったりできない。これは、分かる。しかし、和歌山城の天守閣は、現代になってから、鉄筋コンクリートで作った(再現はしているようだが)ものである。であるならば、お城の中にある動物園も、もうちょっとどうにかならないものかとも、思ってしまうのであるが。
魚津の水族館。日本で現在まで続いている最古の水族館である。その最初のころの展示は、どんなだっただろうか。お客さんのために、バックヤードを見られるようにしたというのは、とても面白い。これは、できれば行ってみたい。大きな水槽を上から見られるというのも、魅力的である。お客さんが多くくればいいというものではないのだが、地方の水族館は、その地方ならではの工夫で乗りきってほしいと思う。
コバンザメ(ナガコバン)が、飼育されていると、きちんとご飯がもらえるので、泳がなくなり水槽の底に逆さまになってじっとしている。運動不足で肥満になったらしい。これは、とても他人事(?)とは思えない。
京都の動物園は、むか~し、行ったことがある。このごろは、動物園で、動物にさわったり、エサをあげたりということが、できるようになっているところが多い。白浜のアドベンチャーワールドでも、エサをあげることができる。有料の自動販売機がある。かなりお金を使ってしまった。
人間にさわられることが、動物にとってストレスになる、これはそうだろうと思う。テンジクネズミ(モルモット)は、近くで見ているだけでも、十分に可愛いと思うが。
2025年12月28日記
ウチのどうぶつえん 悩みながら、ススムのだ
2~3年前になるが、和歌山城には行ったことがある。白浜に行く途中で、お昼ご飯をたべるついでに行った。動物園があることは、案内があったので、知っていたが、お城の方を見て、それから、外に出て、ラーメンを食べて、白浜に行った。
白浜では、パンダも見たのだが(このころ、日本からパンダがいなくなるとは想像もしなかった)、私が行きたかったのは、南方熊楠記念館と、その近くにある、京都大学の水族館。京都大学の水族館は、ある意味でとてもマニアックな展示で、面白い。(あまり普通のお客さんには受けないかとも思うが。)
馬のひづめが、健康に大事ということは、そうなのかなと思う。自然に生きている馬なら、泥の中を歩くことがあっても、それがずっと続くわけではない。動物園の飼育環境だからこそ、気をつけなければならないことになる。
お城の中だから、建物を作ったり、地面を掘ったりできない。これは、分かる。しかし、和歌山城の天守閣は、現代になってから、鉄筋コンクリートで作った(再現はしているようだが)ものである。であるならば、お城の中にある動物園も、もうちょっとどうにかならないものかとも、思ってしまうのであるが。
魚津の水族館。日本で現在まで続いている最古の水族館である。その最初のころの展示は、どんなだっただろうか。お客さんのために、バックヤードを見られるようにしたというのは、とても面白い。これは、できれば行ってみたい。大きな水槽を上から見られるというのも、魅力的である。お客さんが多くくればいいというものではないのだが、地方の水族館は、その地方ならではの工夫で乗りきってほしいと思う。
コバンザメ(ナガコバン)が、飼育されていると、きちんとご飯がもらえるので、泳がなくなり水槽の底に逆さまになってじっとしている。運動不足で肥満になったらしい。これは、とても他人事(?)とは思えない。
京都の動物園は、むか~し、行ったことがある。このごろは、動物園で、動物にさわったり、エサをあげたりということが、できるようになっているところが多い。白浜のアドベンチャーワールドでも、エサをあげることができる。有料の自動販売機がある。かなりお金を使ってしまった。
人間にさわられることが、動物にとってストレスになる、これはそうだろうと思う。テンジクネズミ(モルモット)は、近くで見ているだけでも、十分に可愛いと思うが。
2025年12月28日記
大発見!八重山諸島に“光るコウモリ”がいた! ― 2026-01-10
2026年1月10日 當山日出夫
大発見!八重山諸島に“光るコウモリ”がいた!
BSP4Kの番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。
光るコウモリ(カグラコウモリ)のことは、とても面白い。だが、これを考えるには、生物にとって光る意味は何なのかということと、生物の視覚環世界の多様性ということを、考えることになるかと思ったところである。
私自身は、研究者としては、日本語の文字を研究対象としてきたのだが、どういう色で文字を書くか、ということで、色覚異常(いわゆる色盲)について、ちょっと勉強してみたことがある。具体的には、学校の教室の黒板に赤いチョークで文字を書くことの是非、ということになる。あるいは、辞書の印刷で、重要語を赤い文字で印刷することの是非、ということもある。
このとき、色彩学についていくつか入門書は読んだ。人間にとっての色彩の世界、可視光の範囲と、それを、どのような色彩として認識するか、ということは、どうやら、かなり恣意的、あるいは、偶然的なものかもしれない、と思う。人間がこのような進化の結果となったのには、それなりに意味のあることだったのだろうが。その理由、そうであったメリットは、何だったのだろうかと、考えたものである。
色彩学の入門書に必ず書いてあることの一つは、モンシロチョウは、紫外線が見える、ということがある。
今回のカグラコウモリは、赤い光(厳密にいえば、人間が赤いと感じる波長の電磁波)には、反応しない。つまり、見える光の世界が異なることになる。
番組の中では、哺乳類は、紫外線が見えないが、これは、その他の生物から見ると少数派であるということだった。
生物にとって、どの波長の光に反応するのか、また、発光したり、蛍光したりするのか、視覚にかかわる環世界の問題として、幅広く考えるべきことのように思う。
蛍光する物質というのは、いくつかあって、生物に蛍光という現象があることは、珍しいことではないらしい。では、そもそもこのような物理的な現象は、どのようなメカニズムで起こるのだろうか。ここも気になったところである。
生物とは関係ないかもしれないが、宇宙の星の観測は、人間の目で画像を見るかぎりは、可視光の範囲のことしか見られない。それ以外の波長の光(電磁波)については、観測は可能であるが、それを、人間の可視光の範囲に変換して見えるようにしてやらないといけない。人間の目で見ることのできる宇宙は、その姿のほんの一部でしかない、ということも重要なことだと思う。(こういう観点からの注意は、宇宙にかかわる番組でも、あまり触れられることがないが。)
コウモリは、人間とはまったく異なる、視覚と聴覚の環世界に生きている。同じことは、あらゆる生物についていえることのはずである。回遊するサケなどは、地磁気を感じているはずである。これは、人間は感じない。
UVライト(ブラックライト)は、文化財の調査などにも使うことがある。こういう機器の発達があって、いろいろと分かってくることがある。
2025年12月31日記
大発見!八重山諸島に“光るコウモリ”がいた!
BSP4Kの番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。
光るコウモリ(カグラコウモリ)のことは、とても面白い。だが、これを考えるには、生物にとって光る意味は何なのかということと、生物の視覚環世界の多様性ということを、考えることになるかと思ったところである。
私自身は、研究者としては、日本語の文字を研究対象としてきたのだが、どういう色で文字を書くか、ということで、色覚異常(いわゆる色盲)について、ちょっと勉強してみたことがある。具体的には、学校の教室の黒板に赤いチョークで文字を書くことの是非、ということになる。あるいは、辞書の印刷で、重要語を赤い文字で印刷することの是非、ということもある。
このとき、色彩学についていくつか入門書は読んだ。人間にとっての色彩の世界、可視光の範囲と、それを、どのような色彩として認識するか、ということは、どうやら、かなり恣意的、あるいは、偶然的なものかもしれない、と思う。人間がこのような進化の結果となったのには、それなりに意味のあることだったのだろうが。その理由、そうであったメリットは、何だったのだろうかと、考えたものである。
色彩学の入門書に必ず書いてあることの一つは、モンシロチョウは、紫外線が見える、ということがある。
今回のカグラコウモリは、赤い光(厳密にいえば、人間が赤いと感じる波長の電磁波)には、反応しない。つまり、見える光の世界が異なることになる。
番組の中では、哺乳類は、紫外線が見えないが、これは、その他の生物から見ると少数派であるということだった。
生物にとって、どの波長の光に反応するのか、また、発光したり、蛍光したりするのか、視覚にかかわる環世界の問題として、幅広く考えるべきことのように思う。
蛍光する物質というのは、いくつかあって、生物に蛍光という現象があることは、珍しいことではないらしい。では、そもそもこのような物理的な現象は、どのようなメカニズムで起こるのだろうか。ここも気になったところである。
生物とは関係ないかもしれないが、宇宙の星の観測は、人間の目で画像を見るかぎりは、可視光の範囲のことしか見られない。それ以外の波長の光(電磁波)については、観測は可能であるが、それを、人間の可視光の範囲に変換して見えるようにしてやらないといけない。人間の目で見ることのできる宇宙は、その姿のほんの一部でしかない、ということも重要なことだと思う。(こういう観点からの注意は、宇宙にかかわる番組でも、あまり触れられることがないが。)
コウモリは、人間とはまったく異なる、視覚と聴覚の環世界に生きている。同じことは、あらゆる生物についていえることのはずである。回遊するサケなどは、地磁気を感じているはずである。これは、人間は感じない。
UVライト(ブラックライト)は、文化財の調査などにも使うことがある。こういう機器の発達があって、いろいろと分かってくることがある。
2025年12月31日記
おとなのEテレタイムマシン「ETV特集 手塚治虫の遺産 アトムとAKIRA〜大友克洋が語る手塚治虫〜」 ― 2026-01-10
2026年1月10日 當山日出夫
おとなのEテレタイムマシン ETV特集 手塚治虫の遺産 アトムとAKIRA〜大友克洋が語る手塚治虫〜
1995年の放送である。
手塚治虫は、1989年に亡くなっている。その6年後である。
登場していたのは、大友克洋、それから、藤子・A・不二雄、秋本治。
今から30年前の漫画の状況になるが、どうもよく分からないところがある。「AKIRA」は名前は知っていた。とても、有名だった。しかし、私は、漫画を読むという生活をしてこなかったので、自分で読んでみるということをしていない。「こち亀」は、漫画の本は読んでいないが、テレビのアニメは見ていた。(子どもと一緒に見ていたというべきか。)
見ていて思うこととしては、大友克洋にせよ、藤子・A・不二雄にせよ、手塚治虫を、漫画の祖として尊敬している気持ちがとても強いということが、伝わってくる。手塚治虫の作品を、リアルタイムで読むという経験のある人間ならではのことである。
私の場合も、「鉄腕アトム」以降は、だいたいリアルタイムで、その作品は知っているし、むしろ、テレビのアニメの方でなじみがあるというべきだろうか。「鉄腕アトム」は、漫画本で読んだ記憶がある。しかし、「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」は、テレビアニメの方の印象が強い。
手塚治虫については、さまざまに語られているが……とにかく、自分で表現したいことが、どんどん内部から湧き上がってくるタイプの人だったということはいえる。そして、それを表現するために、漫画やアニメにおいて、表現の技法を追求していった。
『新宝島』をリアルタイムで読んだ人の感想は、非常に強烈なものがあったのだろう。現代の感覚で読むと、やはり、なんとなく古めかしい絵だと思うのだが、それは、今のマンガが、あまりにも表現が多様化して発達しすぎたことによるのだろう。
「COM」という雑誌のことが出てきていた。これについては、現代の漫画史の研究の方では、どう考えられているのだろうか。この雑誌のおかげで、漫画を描いている人が、全国にいる、仲間がいる、こういう意識を醸成することができた、この功績は大きいだろう。
これも、現代では、SNSやさまざななWEBメディアがあるし、マンガ作品の発表の場も、WEBになってきている。つまり、物理的な「雑誌」「本」という紙媒体の制約から自由になっている、ということである。
たぶん、漫画、マンガの歴史についての専門的な知識のある人が見たら、いろいろと思うところがあるに違いない内容だったと思う。(だが、残念ながら、それは私には分からないことである。)
個人的に手塚治虫作品について一番印象に残っているのは、アニメ版の「鉄腕アトム」で、アトムが天満博士によって作られて、最初に目をあけるシーン。現代の言い方をすれば、機械が意識を持った場面、ということになるのだが、意識を持つことの価値、ということをなんとなく、これで知ったような経験といっていいだろう。
残されていた手塚治虫のアトリエにステレオがあって、LPレコードがあった。見ると、シュタルケルの「バッハ無伴奏チェロ組曲」があった。これは、今では、CDで出ている。私が、手元においているCDの一つになっている。
2026年1月5日記
おとなのEテレタイムマシン ETV特集 手塚治虫の遺産 アトムとAKIRA〜大友克洋が語る手塚治虫〜
1995年の放送である。
手塚治虫は、1989年に亡くなっている。その6年後である。
登場していたのは、大友克洋、それから、藤子・A・不二雄、秋本治。
今から30年前の漫画の状況になるが、どうもよく分からないところがある。「AKIRA」は名前は知っていた。とても、有名だった。しかし、私は、漫画を読むという生活をしてこなかったので、自分で読んでみるということをしていない。「こち亀」は、漫画の本は読んでいないが、テレビのアニメは見ていた。(子どもと一緒に見ていたというべきか。)
見ていて思うこととしては、大友克洋にせよ、藤子・A・不二雄にせよ、手塚治虫を、漫画の祖として尊敬している気持ちがとても強いということが、伝わってくる。手塚治虫の作品を、リアルタイムで読むという経験のある人間ならではのことである。
私の場合も、「鉄腕アトム」以降は、だいたいリアルタイムで、その作品は知っているし、むしろ、テレビのアニメの方でなじみがあるというべきだろうか。「鉄腕アトム」は、漫画本で読んだ記憶がある。しかし、「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」は、テレビアニメの方の印象が強い。
手塚治虫については、さまざまに語られているが……とにかく、自分で表現したいことが、どんどん内部から湧き上がってくるタイプの人だったということはいえる。そして、それを表現するために、漫画やアニメにおいて、表現の技法を追求していった。
『新宝島』をリアルタイムで読んだ人の感想は、非常に強烈なものがあったのだろう。現代の感覚で読むと、やはり、なんとなく古めかしい絵だと思うのだが、それは、今のマンガが、あまりにも表現が多様化して発達しすぎたことによるのだろう。
「COM」という雑誌のことが出てきていた。これについては、現代の漫画史の研究の方では、どう考えられているのだろうか。この雑誌のおかげで、漫画を描いている人が、全国にいる、仲間がいる、こういう意識を醸成することができた、この功績は大きいだろう。
これも、現代では、SNSやさまざななWEBメディアがあるし、マンガ作品の発表の場も、WEBになってきている。つまり、物理的な「雑誌」「本」という紙媒体の制約から自由になっている、ということである。
たぶん、漫画、マンガの歴史についての専門的な知識のある人が見たら、いろいろと思うところがあるに違いない内容だったと思う。(だが、残念ながら、それは私には分からないことである。)
個人的に手塚治虫作品について一番印象に残っているのは、アニメ版の「鉄腕アトム」で、アトムが天満博士によって作られて、最初に目をあけるシーン。現代の言い方をすれば、機械が意識を持った場面、ということになるのだが、意識を持つことの価値、ということをなんとなく、これで知ったような経験といっていいだろう。
残されていた手塚治虫のアトリエにステレオがあって、LPレコードがあった。見ると、シュタルケルの「バッハ無伴奏チェロ組曲」があった。これは、今では、CDで出ている。私が、手元においているCDの一つになっている。
2026年1月5日記
知恵泉「しがらみなし!地方の底力 豊臣秀吉 やるときは大胆に」 ― 2026-01-10
2026年1月10日 當山日出夫
知恵泉 しがらみなし!地方の底力 豊臣秀吉 やるときは大胆に
再放送である。最初は、2024年4月9日。
『豊臣兄弟!』関連番組ということで再放送である。録画しておいて見た。
最初の放送が、2024年の4月だから、『豊臣兄弟!』のことが決まってはいたと思うのだが、秀長のことはまったく出てきていなかった。これまで、秀吉についての歴史番組はたくさんありすぎるほどあるのだが、秀長についてのものは少ない。
秀吉の出自を貧しい農民、と言っているのは、ごく普通のことであるが、しかし、この時代の農民は、貧しかったのだろうか。戦国大名とかは、贅沢なくらしであったかとも思うが……たとえば、越前の一乗谷の遺跡など……だからといって、農民=貧乏人、というのも、ちょっとステレオタイプなものの見方にすぎるようにも思える。むしろ、自由があった、ということで考えることもできるかもしれない。(しかし、これも、領主にちからづくで土地に縛り付けられているということもあったのかとも思うが。)
『豊臣兄弟!』の最初の回で出てきた、道の普請。今でいえば、工区を区切って、仕事を分担する……小和田哲男は、これを、割普請、と言っていたが……これは、弟の秀長の発案として出てきていた。これまで、秀吉の事跡として語られてきたことの多くが、実は秀長が考えて実行したこと、となるのだろうか。
中国大返しについては、これが実行できたということは、事前に準備をしていたからであり、本能寺の変は秀吉の陰謀であった……という秀吉黒幕説になるが、どれぐらい信憑性があるだろうか。私は、あまり信じる気にはなれないが。
秀吉の中国攻めのとき、畿内から前線への兵站と通信がどのようであったか。これが、きちんと整備されていたものであったから、逆に京にとってかえすことが可能になった、と考える方が、常識的な判断だろう。となると、ここで、ロジスティックスを担当していたのが、秀長ということになる。
秀吉は、木之下家、豊臣家の古くからの家臣団というものがあったのではない。また、この時代の武士の意識としては、かならずしも主君に忠誠をつくすというものではなかった。調略ということがあったのは、つまりは、なんらの代償が保証されれば、裏切ることが当たり前であったからである。豊臣家の家臣団の忠誠心による結束ということは無かったということになる。このあたりが、徳川家康との違いということになるのだろう。
秀吉の人心掌握術、人たらし、ということは、ありていにいえば、金や褒美で人の心を動かすことでもある。金銭には換えることのできない、主君への忠誠心というものではなかった。これが戦国時代の心性だった。
だが、このあたりのことは、別の面から見れば、農民出身の秀吉だから、社会の下の階層の人びとの気持ちを理解できたから、というふうに理解することも出来る。
江戸時代になってからの『忠臣蔵』をめぐるいろんな言説は、君臣関係というのが、ある種の運命論的なものとして感じるところがないと、生まれないだろう。秀吉の時代は、その前のことと理解することになる。
京都の街の街区が、秀吉のときに変わった。それを、今でも残している。寺町あたりがそうである。職業や身分によって居住地域を分けることは、多くの城下町であることだが、それを、秀吉は京の街でも実行して、そのことによって、京を支配しようとしたということでいいのだろう。
2026年1月7日記
知恵泉 しがらみなし!地方の底力 豊臣秀吉 やるときは大胆に
再放送である。最初は、2024年4月9日。
『豊臣兄弟!』関連番組ということで再放送である。録画しておいて見た。
最初の放送が、2024年の4月だから、『豊臣兄弟!』のことが決まってはいたと思うのだが、秀長のことはまったく出てきていなかった。これまで、秀吉についての歴史番組はたくさんありすぎるほどあるのだが、秀長についてのものは少ない。
秀吉の出自を貧しい農民、と言っているのは、ごく普通のことであるが、しかし、この時代の農民は、貧しかったのだろうか。戦国大名とかは、贅沢なくらしであったかとも思うが……たとえば、越前の一乗谷の遺跡など……だからといって、農民=貧乏人、というのも、ちょっとステレオタイプなものの見方にすぎるようにも思える。むしろ、自由があった、ということで考えることもできるかもしれない。(しかし、これも、領主にちからづくで土地に縛り付けられているということもあったのかとも思うが。)
『豊臣兄弟!』の最初の回で出てきた、道の普請。今でいえば、工区を区切って、仕事を分担する……小和田哲男は、これを、割普請、と言っていたが……これは、弟の秀長の発案として出てきていた。これまで、秀吉の事跡として語られてきたことの多くが、実は秀長が考えて実行したこと、となるのだろうか。
中国大返しについては、これが実行できたということは、事前に準備をしていたからであり、本能寺の変は秀吉の陰謀であった……という秀吉黒幕説になるが、どれぐらい信憑性があるだろうか。私は、あまり信じる気にはなれないが。
秀吉の中国攻めのとき、畿内から前線への兵站と通信がどのようであったか。これが、きちんと整備されていたものであったから、逆に京にとってかえすことが可能になった、と考える方が、常識的な判断だろう。となると、ここで、ロジスティックスを担当していたのが、秀長ということになる。
秀吉は、木之下家、豊臣家の古くからの家臣団というものがあったのではない。また、この時代の武士の意識としては、かならずしも主君に忠誠をつくすというものではなかった。調略ということがあったのは、つまりは、なんらの代償が保証されれば、裏切ることが当たり前であったからである。豊臣家の家臣団の忠誠心による結束ということは無かったということになる。このあたりが、徳川家康との違いということになるのだろう。
秀吉の人心掌握術、人たらし、ということは、ありていにいえば、金や褒美で人の心を動かすことでもある。金銭には換えることのできない、主君への忠誠心というものではなかった。これが戦国時代の心性だった。
だが、このあたりのことは、別の面から見れば、農民出身の秀吉だから、社会の下の階層の人びとの気持ちを理解できたから、というふうに理解することも出来る。
江戸時代になってからの『忠臣蔵』をめぐるいろんな言説は、君臣関係というのが、ある種の運命論的なものとして感じるところがないと、生まれないだろう。秀吉の時代は、その前のことと理解することになる。
京都の街の街区が、秀吉のときに変わった。それを、今でも残している。寺町あたりがそうである。職業や身分によって居住地域を分けることは、多くの城下町であることだが、それを、秀吉は京の街でも実行して、そのことによって、京を支配しようとしたということでいいのだろう。
2026年1月7日記
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